僕が大きくなるまで
小川未明
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小学校にいる時分のことでした。ある朝の時間は、算術であったが、友吉は、この日もまたおくれてきたのであります。
「山本、そう毎日おくれてきて、どうするんだね。」と、先生は、きびしい目つきで、友吉をにらみました。そして、その時間の終わるまで、教壇のそばに立たせられたのです。ほかの生徒たちは、先生から宿題の紙をもらったけれど、友吉一人は、もらうことができませんでした。
鐘が鳴ると、生徒らは、先を争って廊下から外へとかけ出しました。そのとき、良一は、先生が教員室へいかれる後を追ったのです。
「先生、山本くんは、働いているので、遅刻したのです。」と、いいました。
この意外な報告に、先生は、びっくりしたようすでした。
「そうか、なにをしているのだね。」
先生は、良一の顔を見られました。良一は、ついこのあいだ、友吉が新聞配達をしているのを見たことを話したのであります。
「よく知らせてくれた。だが、なるたけ時間におくれないようにいってくれたまえ。」
先生の声は、和らいで、目には、愛情がこもっていました。
そんなことがあってから、二人の少年は、仲よしとなりました。高等科を卒業するころには、たがいに家庭の状態も異なって、良一は、電気に興味をもつところから、そのほうの学校へいったし、友吉は、農業の学校へ入ることになりました。
「僕も、君と同じ学校へいきたいのだけれど、叔父さんが、農業がいいだろうというし、そうきらいでもないから、そうすることにしたのだよ。」と、友吉は、良一に向かって、いいました。
「学校を出たら、大陸へいきたまえ。」
「君は。」と、友吉は、きき返しました。
「僕も、支那か満洲へいきたいんだが、お母さんが年を老っているから、まだどうするか考えていないのさ。」
「三年も、四年も後のことだから。」
「あは、は、は。」
「学校が異うと、いままでのようにあわれないね。それに、僕の家では、すこし遠くへ越すんだよ。越しても、僕、ときどき遊びにくるから。」
「所を知らしてね。」
短いズボンをはいた、二人の少年は、いつまでも道の一所に立って、名残おしそうに話をしていました。
友吉からは、その後なんの便りもなかったのです。やがて、翌年の春がめぐってきました。
ある日、突然友吉が訪ねてきました。
「小西くん、花を持ってきたから、植えておかない。」と、新聞紙に包んだ、草花を渡しました。香りのする青い花が、咲きかけていました。
「きれいだね、これは、なんという花なの。」
友吉は、外国種の花の名をいったけれど、良一は、すぐには覚えられませんでした。とにかく、後から鉢を見つけて、植えることにして、友吉を自分のへやへつれてきました。二人は、小学時分の友だちの話をしたり、今度の学校の話をしたりしました。良一の机の上には、電池や、真空管や、コイルや、ヒューズや、いろんなものがならんでいるのを、友吉は、物珍しそうにながめていました。
「いろいろの機械があるね。」
「僕、ラジオを組み立てようと思って、ならべたんだよ。」
「ふうん。」
「これは、僕が造ったモーターだ。」
良一は、机のそばにあった、手製のモーターを取り上げて見せました。電池を通せばまわるまでに、なかなかの苦心がいったのです。
「これを君が造ったの。」
「君、モーターが好きかい。」
「見ているだけでも、不思議な力が感じられて、好きなんだよ。」
「じゃ、君にあげよう。」
「えっ、ほんとうにもらってもいいの。」
良一は、友だちが、喜ぶ顔を見て、満足そうにうなずきました。
友吉が、自転車に乗ってきたので、良一も、自分の自転車を引き出して、二人は、散歩に出かけたのです。晩春のやわらかな風に吹かれながら走りました。道端に、粗末な長い建物があって、窓が開いていると、伸び上がるようにして、良一は通りました。うす濁ったような仕事べやに、青白い火が、強度の熱で燃えていました。モーターの、うなる音がきこえました。たくさんの職工が、働いていました。鉄と鉄の打ち合う音が、周囲に響きかえっていました。
「工場だね。」と、友吉が、過ぎてから、いいました。いつしか、二人の自転車は、青々とした、麦畑の間の道を走っています。遠くの空が、緑色の水のようにうるんで、そこには、夢のような白い雲が、浮いていました。
「いい景色だな。」と、良一が、叫びました。
「僕の学校へおいでよ、花園を見せてあげるから。」と、友吉が、いうと、良一の目に、先刻もらったような、青い花や、赤い花の、見わたすかぎり咲き誇る、美しい花園が映じたのであります。池の畔へ出ると、若い人たちがボートをこいでいました。遅咲きの桜の花は散って、水の上に漂っています。もうどこからか、かえるの声がしました。二人の少年は、ベンチに腰を下ろして、ぼんやりと四辺の景色に見とれていました。それから、また自転車を走らせて、きたときの道をもどるころには、空は、曇って、村々の新緑が、いちだんと銀色に光ってかすんでいました。
ある橋のところで、二人は、左右に別れたのです。友吉は、良一からもらったモーターの包みを高く上げて、振り返りながら走っていきました。良一は、家へ帰ると、友吉からもらった草花を鉢に植えて、如露で水をやりました。清らかなしずくが葉の間に伝って、下の黒い土の中へ浸みていきます。
その夜、良一のお母さんは、頭が重いといって、先に休まれました。良一は、いつまでも机に向かって、勉強をしたのでした。
「お母さんに、早く楽をさせてあげたい。」
そんなことを考えながら、壁の方へ頭を向けると、山本からもらった花が、かわいらしい影を落としていました。
山は静かで、ほととぎすが、昼間から鳴いていました。かっこうも、うぐいすも、鳴いていました。ふもとの高原には、紅いつつじの花が、炎の海となって展がっていました。そこは、山国の小さな発電所でした。良一は、ここへ勤務したのです。
「お母さん、こんなところで、さびしくありませんか。」
「いいえ、おまえのいるところなら、もっとさびしくたってかまわないよ。」
年老ったお母さんは、にこにこしていられました。目がさめると、良一は、空想したことを夢に見たのでした。
昨夜、頭が痛むといって、早く床につかれた母親は、今朝は早くから、働いていました。
「お母さん、お気分はいかがですか。」
「もう、よくなりました。」
良一は、母の健康なのが、なによりもうれしかったのです。
「お母さん、僕が、大きくなるまで達者でいてください。来月から、昼間働いて、夜学にいきますから。」
「そんなことをして、おまえの体がつづきますか。」
「だいじょうぶですとも、これ、こんなに太っているでしょう。」
良一は、腕をまくって見せました。このとき、母親の目には、涙が光りました。
授業の休み時間に、廊下へ出ると、壁には少年工募集の工場のビラが貼られていました。時勢は、いまや少年群の進出を待ち受けているのでした。そこには、やはり良一と同じような境遇の少年が、同じ意志と希望に燃えて、熱心に目を貼り札にさらしていたのです。
底本:「定本小川未明童話全集 13」講談社
1977(昭和52)年11月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
底本の親本:「亀の子と人形」フタバ書院
1941(昭和16)年4月
※表題は底本では、「僕が大きくなるまで」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2020年1月24日作成
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