野菊の花
小川未明
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正二くんの打ちふる細い竹の棒は、青い初秋の空の下で、しなしなと光って見えました。
「正ちゃん、とんぼが捕れたかい。」
まだ、草のいきいきとして、生えている土の上を飛んで、清吉は、こちらへかけてきました。
「清ちゃん、僕いまきたばかりなのさ。あの桜の木の下に、犬が捨ててあるよ。」と、正二はこのとき、鳥の飛んでいく方を指しながら、いいました。
「ほんとう、どんな犬の子?」
「白と黒のぶちで、耳が垂れていて、かわいいよ。」
「それで、どうしたの。」と、清吉は、ききました。
「みんな、見てるよ。」
「困るね。僕たちの遊ぶ原っぱへ捨てるなんて、だれだろうなあ。」
清吉の心は、もうそのほうへ奪われてしまいました。
棒を持った正二も、清吉についてきました。
二人は、並んで歩きながら、話をしました。
「このあいだ、どこかの若いおばさんが、ねこの子をこの原っぱへ捨てにきたとき、正ちゃんはおらなかったかな。」
「ああ、おったとも。僕たち、ボールを投げていたじゃないか。まだ三十ぐらいのやさしそうなおばさんだったろう。」
「なにがやさしいものか。だれか見ていないかと、くるくるあたりを見まわしてから、ふいに、ぽいとねこの子を草の中へ投げたんだよ。ねこはニャア、ニャアと泣いている。あまりかわいそうだから、僕、おばさんを追いかけたのだ。なんでねこの子をこんなところへ捨てるんですか、かわいそうじゃありませんかといったのさ。」
「そうだったね。」
「そうすると、おばさんは、怖い目をして僕の方を振り返ったんだよ。うちのねこじゃありませんよ、お勝手へ入ってきてうるさいから、ここへ持ってきて置いていくのですと。」
清吉は、そのときのことを思い出すと、いまでも小さな胸が、熱くなるのを覚えました。
「しかし、よかったね。洋服屋のおじさんがちょうど通りかかって、ねずみが出て困っているのだからといって、つれていってくれたので。」と、正二は、いいました。
「あのねこ、どうしたろうね。」
「いるよ。僕このあいだ前を通ったら、ガラス戸の中で、表の方を向いて、顔を洗っているのが見えた。」
「手をなめて、顔を洗っていたの、かわいいなあ。」
清吉も、この話をきいて、目を細くして笑いました。
「犬も、ねこも、みんななにも知らないので、かわいいよ。」
「それだのに、この原っぱへ捨てるなんて、こんど、ここへ犬やねこを捨てるべからずと書いて、札を立てようか。」と、清吉がいいました。
「そうだね。僕たちの原っぱへ捨てられた犬やねこは、僕たちの責任となるからね。」
二人が、桜の木の下へやってくると、小さな箱の中に犬が入って、ほかの子供たちは、犬の頭をなでたり、お菓子をやったりしていました。けれど、まだやっと目があいたばかりで、犬はただ小さな尾をぴちぴち左右に振るばかり、堅いお菓子を食べることができませんでした。
「おとこだよ。」と、年ちゃんが、いいました。
「君の家で、飼わない?」
「めんどうだといって、お母さんが、飼ってくれないだろう。」
「このごろ、お米が足りないので、みんなが犬を飼わなくなったんだってね。」と、一人が、いいました。
「自分が食べる分を、ちっと分けてやればいいのだろう。」と、正二は、棒を土の上へ投げて、犬を抱き上げました。清吉は、上衣のポケットを探していたが、破れた鼻紙といっしょに五銭の白銅を出して、
「釣りにいくとき、針を買うのにもらったのだ。これで牛乳を買ってきてやろうよ。だれか、いちばん家の近いものが、おさらを持ってこない。」
すぐに、勇ちゃんは、かけていきました。
やがて、一枚のさらを持ってきました。
「このさらいらないの。」
「いらないよ。」
清吉と勇ちゃんは、町の方へ出かけていきました。二人がいなくなった、後でした。
「年ちゃん、だれか犬の子をもらうものはないかね。」と、正二が、いいました。
「捨て犬をもらうところがあると、いつかお父さんがいったよ。」
「どこだい、きいておくれよ。」
「お父さんが、お役所から帰ったらきく。」
「殺してしまうんでないだろうな。」
「年ちゃん、殺すんだったらだめだぜ。」
「もちよ。」
小犬は、腹がすいたか、母犬のお乳が恋しくなったか、クンクン泣いていました。
白いシャツに、白い帽子をかぶって、青い車を引いた青年が、あちらから走ってきました。日の当たる道には、ほかに人影もなかったのです。
「あっ、牛乳屋さんだ。」
「牛乳売ってくれるかしらん。」
二人は、その方をじっと見ながら、さきやきました。
「牛乳屋さん!」と、清吉は、走って近づきました。
「お乳をちっとばかし、売ってくれない?」
「なににするんだい。」
「犬にやるんだよ。あすこの原っぱに、生まれたばかりの犬ころが、お腹がすいて泣いているのだ。」
「ちっとばかしでいいんだねえ。」と、勇ちゃんは清吉の顔を見ながら、おさらを牛乳屋さんの前へ差し出しました。
かじ棒を握ったまま、二人を見ていた青年は、
「ここには、余分がないから、お店へいってきいてごらん。」と、答えました。
「お店ってどこなの。」
「ここを曲がって、ずっといくと火の見やぐらがあるだろう。その前の花屋の横を入ったところだ。」
牛乳屋さんはいそがしそうに、いい残して、また威勢よく走っていきました。小石の上を箱がおどるようです。ふり向くと、ほこりが風に吹かれていました。
二人は教えられた牛乳店へいきましたが、店さきに、西日が当たってテーブルの上には、新聞が拡げられていました。そして片方のたなには空きびんがずらりと並んでいました。
「牛乳を五銭くださいませんか。」と、清吉がいいました。
店にいた、おかみさんが、
「いま、ちっともないのですが。」といって、断りました。
二人は、たぶんそんなことだろうというような気もしたので、格別驚きも、力落としもしませんでした。
「僕、帰ったら、赤ちゃんにやるのを、ちっとばかし分けてもらってくるよ。」と、勇ちゃんが、いいました。
「この五銭で、ビスケットを買ってやろうか。」と、清吉は、あたりの店を見ながら、歩きました。
そのころ、牛乳を配達する箱車を引いた青年は、白のことを思い出していました。
彼が少年で、まだ田舎にいるとき、村に白という宿無し犬がいました。やせたあまり大きくないめす犬であったが、宿無し犬というので、その犬がお勝手もとへくると、どこの家でも水をかけたり、石を投げつけたりしました。やさしい顔でもして、犬がいつくのを怖れたからです。つえをつかなければ歩けないようなばあさんまでが、妙なかっこうをして、そのつえで犬をたたこうとしました。また外で仕事をしているじいさんでさえ、「こいつめ。」とか、なんとかいって、石を拾って投げつけました。
あるとき、その犬が、どこかの物置で子供を生むと、その家の人たちは、みんなその子を川へ流してしまいました。
白は、人間の無慈悲にとうとう気が狂って、ようすの変わった人を見ると、かみつくようになり、夜ごとに子供を思い出しては、悲しい声で泣き叫びました。
その傷ましかった光景が、少年時分の彼の心に刻みつけられて、いまでも忘れないのであります。
青年は、二人の子供が、子犬のために牛乳を探している、やさしい心をいじらしく思わずにはいられませんでした。
「おや、まだ、みんみんが、鳴いているね。」
このあいだのあらしの夜、まったくきかれなくなったので、勇ちゃんは、顔を上げて、原っぱの空を見まわしていました。
「きっとおそく生まれたんだよ。お友だちがいなくてさびしいだろうな。」と、年ちゃんが、おそくこの世に出たみんみんに同情しました。
「あっちの森の方だな。」
そういったきりで、またみんなの目は、小犬の上に止まりました。小犬は、清吉と勇ちゃんの持ってきたビスケットを尾をふりながら食べていました。その姿は、正直な清らかな心の少年たちを動かして、いっそうかわいそうなものに思わせたのです。
「どれ、どんな犬だい。」
そこへ、牛乳のびんを持ってやってきたのは、先刻車を引いていた青年でした。
「ポインターのまじりだね。さあ、これをやろう。」
青年はしゃがんで、さらの中へ、白いとろとろとしたおいしそうな乳をびんからうつしました。雑草の間に、一輪紫色の野菊が咲いていたが、その清らかな目で、これを見守っているように思われました。
底本:「定本小川未明童話全集 13」講談社
1977(昭和52)年11月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
底本の親本:「亀の子と人形」フタバ書院
1941(昭和16)年4月
※表題は底本では、「野菊の花」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2017年11月24日作成
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