波荒くとも
小川未明
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鉛色をした、冬の朝でした。往来には、まだあまり人通りがなかったのです。広い路の中央を電車だけが、潮の押しよせるようなうなり声をたて、うす暗いうちから往復していました。そして、コンクリート造りの建物の多い町の中は、日の上らない前の寒さは、ことに厳しかったのです。
十三、四の小僧さんが、自分の体より大きな荷を負って、ちょうど押しつぶされるようなかっこうをして、自転車に乗って走ってきたが、突然ふらふらとなって、自転車から降りると、そのまま大地の上へかがんでしまいました。そこは石造りの銀行の前でした。堅く閉まったとびらが、こちらを向いてにらんでいるほか、だれも見ているものがありません。少年は、しばらくじっとしていたが、そのうちはうようにして、やっと背中の重い荷物を銀行の入り口の石段の上に乗せて、はげしく締めつける胸の重みをゆるめたが、まだ気分が悪いとみえて、後ろ頭を箱につけて仰向けになったまま目を閉じたのでした。小さな肩のあたりが、穏やかならぬ息づかいのためにふるえています。小僧さんは、こんなにして倒れていたけれど、ときどき思い出したように電車のうなり音が訪れてくるほかは、だれもそばへよってきて、ようすをたずねるものもありませんでした。
この少年は去年の秋、田舎から叔父さんを頼って上京しました。そして、ある製菓工場へ雇われてから、まだ間がなかったのです。今朝も取次店へ品物をとどけるために出かけたのでした。二、三日前からかぜぎみで寒けがしていたのですけれど、すこしぐらいの病気では仕事を休むことができません。彼は、無理をして自転車を走らせたのです。すると、冷水を浴びるように、悪寒が背筋を流れて、手足までぶるぶるとふるえました。
「こんな病気に、負けてなるものか。」
彼は、歯噛みをしました。いくら力を入れても、力の入らない足をもどかしがりました。すると、今度は体が火のように熱くなって、耳が、ガンガンと鳴り、目の中までかっかとしてきました。これはかなわぬと思ううちに、足が重くなって、もう一歩も前へふみ出せなくなってしまったのです。それから後のことは、すこしもわかりませんでした。
「雪のあるのは、ここだけだ。村の往来へ出れば、人通りがあるし、歩くのが楽になるからがまんをしろよ。さあ、私の後についてくるだ。」
重い荷を背負って、先に立って母親が歩きました。少年は後からついていきます。母親の負っている行李には、少年の着物や、いろいろのものが入っていました。
「東京は、雪がないというから、結構なこった。あっちへ着いたらすぐに便りをよこせよ。」
「叔父さんが、停車場へ迎えに出ていてくれるかい。」
「待っていてくださるとも。それでも、所番地書いた紙をなくすでないぞ。」
峠を上ると、小鳥が、そばの枯れ枝に止まってさえずっていました。
「つぐみみたいだなあ。」
少年は、しばらく立ち止まって、それに見とれていました。こんな小鳥といっしょに山の中で暮らしているほうが、東京へいくよりは幸福のように感じられたのです。いつのまにか母親の姿が遠くさきへいってしまいました。少年は驚いてその後を追ったが、どういうものか足が重くて、なかなか動きません。いくら早く走ろうとしても足が進みません。ただ気が急いで、体をもだえているばかりでした。
小僧さんは、苦しいうちに、こんな夢を見ているのでした。
町の商店に、女中をしているみつ子は、ちょうどお使いに出て、銀行の前を通りかかりました。
「あら、小僧さんが、どうしたんでしょう。」
みつ子は、少年のたおれているところへきました。見ると、その顔色が真っ青になっています。そして、苦しそうに息をしていました。
「ねえ、気分がわるいの?」と、彼女は、聞きました。けれど、小僧さんは、なんとも答えませんでした。
「気分がわるいの?」と、彼女は、こんど耳もとへ口を近づけて、いいました。けれど、小僧さんには、答えるだけの気力がなかったのです。
「かわいそうに、こんな大きな荷物を負わせて、寒いのに働かすからだわ。」
「重いのでしょう。私、あんたといっしょにお家へいってあげるわ。そして、ご主人によく話してあげますから、お所をおっしゃい。」
こういった、彼女の目の中には、いつか涙がわきました。しかし、少年は意識がないのか、返事がなかったのです。
「きっと、病気なのかもしれない。それなら早くお医者に見せなければ……。」
彼女は、自分がお使いに出て、主人の待っていることも忘れていました。
みつ子は、このことを交番に届けなければならぬと考えました。さっそく交番の方へ走っていきました。彼女のいうことを聞いた、巡査さんは、
「朝飯を食べずに出て、つかれたのではないか。」と、軽く想像しました。
「いえ、顔色が青く、たいへんに苦しそうです。」と、みつ子はいいました。みつ子は、今年十六になったのです。
「いくつぐらいの子供かね。」と、奥の方にいた、もう一人の巡査が、たずねました。
「十三、四の、まだ小さい子供です。」
彼女は、こう答えると目頭が熱くなりました。自分の弟の姿が浮かんだからです。
「急病かな。」と、その巡査さんは、すぐに起ち上がって、交番から出ました。
彼女は、銀行の前へその巡査さんを案内しました。このときは、すでに四、五人も小僧さんのまわりに立っていました。巡査さんは、小僧さんの顔をのぞきこむようにして、なにかたずねていたが、少年の言葉は、そばにいるものにさえ聞きとれませんでした。
巡査さんは、ふいに顔を上げて、左右を見まわしながら、いいました。
「だれか、手をかしてくれませんか。病人を交番までつれていくのだが。」
「よし、おてつだいしましょう。」
労働者ふうの男と、勤め人ふうの若者が、前へ出ました。労働者は、少年の負っているお菓子の入っている箱を、勤め人は、自転車を、そして、巡査さんは、小僧をだくようにして、つれていきました。
みつ子は、もうこれでだいじょうぶだと思って、銀行の前からはなれたのです。
みつ子は、歩きながら、自分の弟のことを思い出していました。ちょうど年ごろもあの小僧さんと同じくらいです。雪まじりの北風の吹きつける窓の下で、弟は父親のそばでわらじを造ったり、なわをなったりしているであろう。下を向いて、だまっている父親は、
「すこし休めや。」と、ときどき顔を上げていうであろう。そして、炉に枯れ枝や、松の落ち葉などを入れるであろう。しばらく、青い、香りのする煙が、もくもくとしているが、そのうちにぱっと火が燃えついて、へやのすみまで明くなる。遠くで、からすの鳴き声がする。弟は、自分から送った少年雑誌を出して、さも、大事にして楽しそうにして開いて見る。弟は、めずらしい写真に見入ったり、また書いてあるおもしろそうな記事に、心を奪われて、いろいろの空想にふけるであろうと思ったのでした。
「あの小僧さんは、あれからどうなったろう。」と、彼女は、一日仕事をしながらも思っていました。
そのうちに日が暮れて、その日の用事が終わると、彼女は、自分のへやへ入って、このあいだ、弟の清二からきた手紙を出してなつかしそうに、また読み返していたのです。
「姉さん、僕、雪の消えるのを待っているんだよ。そうしたら今年はお父さんと裏のかや山を開墾して、畑を造るのだ。枯れ草に火をつけてたいたり、根を掘り起こしたりするのが、いまから楽しみなんだ。そして、兄さんが、凱旋していらっしゃるまでに豆をまいたり、芋を作ったりしておいて、兄さんをびっくりさせるんだ。なぜなら、兄さんだって、あのかや山には、ちょっと手がつけられなかったのだからな。姉さん、僕は、満洲へでも、どこへでもいけるよ。僕がいくときは、隣の徳ちゃんも、いっしょにいくというんだ。二人でなら、うちのお父さんも許してくださると思っている。姉さん、なにか満洲のことを書いた本があったら、どうか送ってください。僕、とても見たいのだから……。」と、書いてありました。
みつ子は、いつも弟の元気でいるのをうれしく思いました。そして、たえず希望にもえているのをなんとなくいじらしく思いました。しかし、これからの世の中へ出て、ひとり立ちしていくには、どこにいても、今朝の小僧さんのように辛いめにもあうことがあるだろう……。そして、それに打ち勝っていかなければならぬのだと思うと、また、心の中が暗くなるのでした。
「どうぞ、神さま、小さな弟や、弟のような少年をば助けてやってください。」と、みつ子は、へやの中でしばらく瞑目して合掌していたのであります。
翌日、みつ子は、用達の帰りに、わざわざ交番へ立ち寄りました。小僧さんのようすを聞きたかったからです。やはり病気をがまんして、重い荷を負って出たためにたおれたのだということでした。そして、小僧さんは、主人を呼び出して引きわたされたというのであります。
「小さくて、家のため、親のために働くような子供は、みんな感心な子供だから、よくめんどうをみて、しんせつにしてやらなければならぬと、主人にいいわたした。」と、巡査さんは、いわれました。
「ほんとうに、そうです。」と、みつ子は、深く感じたので、丁寧に頭を下げて、交番を出ましたが、道を歩きながら、もし、その主人というのが、薄情で、もののわからぬ人物であったらどうであろう。自分のしかられたことを恨みにもって、かえって哀れな小僧さんをいじめはしないかしらと考えると、やさしいみつ子の心にはまた新しい心配が、生じたのでした。
「そんなことはないわ。そんなことがあれば、またしかられるでしょう。きっと、主人は、ああ自分が悪かった、不注意だったとさとって、これから、あの小僧さんや、ほかの小僧さんたちをかわいがるにちがいない。みんな日本人ですもの……。」
彼女は、自分の心配が、つまらない心配であることを知ったのであります。
ここは、町に近い郊外でした。ある長屋の一軒では、父の帰りを待っている少年がありました。いつもいまごろは、弁当箱を下げて会社からもどってくる父親の姿を彼方の道の上に見るのであるが、今日は、まだそれらしい姿が見えません。
「早く帰っていらっしゃればいいに、三ちゃんが、病気できているのになあ。」と、少年は気をもんでいました。仕事の都合で二電車ばかりおくれた父親は、黒の外套に、鳥打帽をかぶって急いできました。むかえに出ている倅を見つけると、
「吉雄や待っていたのか、さあ、寒いからお家へ入んな。」といいました。
「三ちゃんが、病気になってきて寝ているよ。朝、自転車で走っているうちに、気分がわるくなって、たおれたんだって。」
「なに、道でたおれたんだって? どんなぐあいだ、医者に見てもらったか。」と、父親は、驚きました。
「工場の医者に見てもらったのだって、お薬びんを持ってきたよ。」
「熱が高いか。」と、父親は、急き込んで聞きました。
「お母さんが氷まくらをしてあげたら、すこし下がったようだ。いま、よく眠っている。」
小僧さんは、工場に寝ているところがないので、叔父さんの家へ帰されたのです。叔父さんの家は、やはりろくろく寝るところもない狭い家でありました。そして、貧しい暮らしをしていました。小僧さんの名は三郎といって、田舎から、この叔父さんを頼ってきたのです。そして、いまの製菓工場へ見習い小僧に入ったのでした。しかし叔父さんも、叔母さんもやさしい人であったし、二つ年下の吉雄くんもすぐ仲よしになったので、三郎は、公休日には、かならず叔父さんの家へ帰るのが、なによりの楽しみだったのです。叔父さんは、玄関を上がると、
「三郎が病気で、きているってな。」といいました。
「流感らしいんですね。肺炎になるといけないから、いま湿布をしてやりました。」と、叔母さんが、答えました。
「朝、寒いのに自転車で走ったからだ。大事にしてやれば、早くなおるだろう……。」
「人中へ出ていますと、気を使って、がまんをしますし、まだ年のいかないのに、かわいそうです。」
「なにしろこういう世の中だから、体も、心も、よほど強くなければ打ち勝ってはいかれない。」
「三ちゃんは、親戚だけど遠慮していまして、いじらしいんですよ。」と、叔母さんがいいました。
叔父さんは、足音をたてぬようにして、三郎の寝ているへやへ入りました。三畳のへやには、すみの方に吉雄の机が置いてあって、そこへ床を敷いたので、病人のまくらもとには、薬びんや、洗面器や、湯気を立たせる、火鉢などがあって足のふみ場もないのです。しかし、ここばかりは、冬とも思えぬ暖かさでありました。叔父さんは心配そうに、病人の顔をのぞきこみました。よく眠っています。
「顔色はいいようだ。これならだいじょうぶだ。」
叔父さんは、へやから出ると、こういいました。
昨日あたりから、あたたかな風が、吹きはじめました。もう春がやってくるのです。吉雄の学年試験も終わって、来月からは六年生になるのでした。三郎は、また病気がなおって、これも来月のはじめから、工場へ帰ることになりました。二人は、ここ数日間を楽しく遊ぼうと緑色の芽が萌え出た堤の上まで、出てきたのでした。
底本:「定本小川未明童話全集 12」講談社
1977(昭和52)年10月10日第1刷発行
1982(昭和57)年9月10日第5刷発行
底本の親本:「赤土へ来る子供たち」文昭社
1940(昭和15)年8月
初出:「小学五年生」
1939(昭和14)年3月
※表題は底本では、「波荒くとも」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2017年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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