少年の日二景
小川未明
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池の中には、黄色なすいれんが咲いていました。金魚の赤い姿が、水の上に浮いたりまるい葉蔭に隠れたりしていました。そして、池のあたりには、しだが茂り、ところどころ石などが置いてありました。
勇ちゃんは、いかにも金魚たちが楽しそうに遊んでいるのをぼんやりながめていました。そのとき、やぶの方から垣根をくぐって、黒い一筋の糸のように、なにか走ってきたので、その方を見ると、大きなへびが、一ぴきのかえるを追いかけているのです。かえるは、いまにもへびに捕らえられようとしました。勇ちゃんは、考える暇もなく、庭先へ飛び降りて、へびをなぐろうと思って、太い棒を取り上げたのです。この間にかえるは、縁の下へ入ろうとしました。しかしへびは執念深く逃がすまいとしました。
勇ちゃんは、力いっぱいたたきました。あわてていたので、棒はへびにあたらずに、強く地面をたたきました。するとへびは、かま首を上げて、勇ちゃんをにらみました。勇ちゃんは、なんだか怖ろしい気がしたが、こうなっては、かえってどうにかしなければならぬという気が起こって、また力を入れてたたきました。
こんどは、へびの体にあたったので、へびは、飛び上がるようにして、そばにあった一本の小さな松の木に、それは目にも止まらぬ早さで、くるくる巻きついて、頭を体の間へ隠しました。これを見た勇ちゃんは、あまり真剣な姿に、気味悪くなって、もうこのうえへびをいじめる気にはなれなかったのです。
「さあ、もうたたかないから、早くあっちへいけよ。」と、勇ちゃんは、へびに向かって、いいました。
へびは、そのままの姿で、身動きもせずに、じっとしていました。
「かえるは、どうしたろう。」と、見ると、これも、精根がつきはてたように、南天の木の下に、じっとしていました。
勇ちゃんは、二ひきとも、かわいそうになりました。なんといっても、人間がいちばん強いのだ。だが、へびがかえるを食べようとしただけに、へびがわるいのだろうと、思ったのです。
「早くいきな、もうだいじょうぶだ。」と、かえるに、いいました。
かえるは、助けてもらったのをありがたく思っているふうに見えたが、いつのまにかいなくなりました。まだへびは、そのままじっとして細い松の木に巻きついていました。
勇ちゃんは、なんだか、いやな気がして、早くへびも逃げていってくれぬかと、遠くへはなれて、そのようすを見ていると、へびは、静かに、音をたてぬように、木から降りて、垣根の方へ向かいました。
「ああよかった。」と、勇ちゃんは、思いました。なぜなら、もしへびが池の中へ入ったら、どうしようかと思ったからです。そのうち、へびは垣根の横棒へはい上がり、その上を伝って、やぶの方へ姿を消してしまいました。
「かえるを助けてやって、いいことをしたな。」と、勇ちゃんは、心の中で、喜んでいました。
晩方、お母さんといっしょに、町へ出ると、四つつじのところで、おじいさんがほたるを売っていました。
「まあ、大きなほたるだこと。」と、お母さんは、そのほたるの火が美しいのにびっくりなさいました。
「買ってね、お母さん。」
「すぐ、死にませんか。」
「だいじょうぶさ。」
そういって、勇ちゃんは、五ひきばかり入れ物にいれてもらって、帰りました。
その夜、池のあたりのしだの蔭に置くと、青白く燃える光が、池の水に映って、それはみごとだったのです。
「昼間大きなへびが、かえるをのもうと追いかけてきたんだよ。」
昼間のことを、勇ちゃんは、家の人たちに語りましたが、思い出すと、ぞっとするような気持ちがしました。
「へびは煙草をきらうといいますから、たばこの粉を、垣根のところにまいておくといいでしょう。」と、お母さんが、おっしゃいました。
「ほんとう?」
勇ちゃんは、へびがくるのを防げると知って安心しました。
翌朝、ほたるかごを見ると、一ぴきだけ、生きて光っているだけで、あとの四ひきは、死んでいました。勇ちゃんは顔の赤い色が失せてしまった、死んだほたるを見て悲しくなりました。そして、残ったほたるのために新しい草を代えてやりました。日中は暑かったので、草の蔭へ入れてやりました。晩方になると、その一ぴきもだいぶ弱っていたのです。
「やはりほたるは、だめなのかなあ。」と、勇ちゃんは思いました。生き残った一ぴきをどうしたらいいかとお母さんに相談しました。
「池のほとりへ放しておやり。」
「お母さん、それがいいですね。」
勇ちゃんは、ほたるをかごから出して、池のあたりの草の葉に止めてやりました。ほたるは、いまさらのように大きな強い光を出しました。ちょうど遠くの清らかな空に光る、お星さまのようでした。このとき、それはじつに意外のでき事でした。
ぱくりと音がしたかと思うと、やみの裡から出たかえるが、そのほたるを一のみにしてしまったのです。
勇ちゃんは、しばらく、悲しさも、腹立たしさも忘れてしまいました。
「僕が、へびをなぐったのは、まちがっていたろうか?」と、いまさら自然に存するおきてというものが悟られたような気がしたのでした。
良ちゃんは、いま中学の一年生です。ある日学校から帰ると、お母さんに向かって、
「きょう山田にあったよ。」といいました。
「どうしていらっしゃるの。」
「昼間は、会社の給仕をして、夜学校へいっているといっていた。」
「感心ですね。」
お母さんは、過ぎ去った日のことを思い出していられました。それはまだ良ちゃんが、小学二年生ごろのことであります。事変前で、町には、お菓子もいろいろあれば、卵などもたくさんありました。
遠足の日がきまって、いよいよその前の晩になると、おそらく他の子供もそうであったように、良ちゃんは大騒ぎです。
「お母さん、明日のお弁当は、おすしにしてね。」
「ええ、してあげますよ。それとなにを持っていきますか。」と、お母さんは、さも楽しそうにしている良ちゃんに向かって、お問いになりました。
「ゆであずきいけない?」
「そんなものを持っていく人はないでしょう。」
「じゃ、チョコレートとキャラメルとビスケットね。」
「そんなに持っていくのですか。」
「みんな僕、食べるんだよ。」
「果物はいいのですか。」
「なつみかんとりんご。」
「良ちゃん、遠足は、食べにいくところではありませんよ。」
「お母さん、早く買いにいきましょう。」と、良ちゃんは催促しました。
「お仕事がすんだら、つれていってあげます。」
新緑の色は、だんだん濃くなって、どこの丘にも赤いつつじの花が盛りでした。また林には、小鳥が鳴いていました。良ちゃんたちの遠足は、そうした丘があり、林があり、流れがあり、池がある、そして電車に乗っていける、公園であったのです。
良ちゃんは、まだ、まったく暮れきらぬ外へ出て遊んでいました。夜の空には、金色の星が輝いていました。良ちゃんは、往来の上に立って、じっとその星の光をながめていました。
「あの星は、明日僕たちのいく、公園の森や林の照らしているのだろう。」
そう思うと、その星がなつかしく、また公園の森や林をあるところは、たいへん遠いところのような、またおもしろい場所のような気がして、なんとなく胸がおどるのでありました。
「お母さん、早くいかないの。」と、良ちゃんは、お家の中をのぞいて、いいました。
「ええ、もうすぐですよ。」
お母さんは、やっと夕ご飯の後片付づけが終わって、良ちゃんをつれて、市場へいかれました。
そこには、同じ年ごろの子供たちが、やはり明日の遠足に持っていくものを買っているのでありましょう、お母さんにつれられてきたもの、また、お姉さんにつれられてきたもの、幾人となくおりました。
「さあ、好きなものをお買いなさい。」と、お菓子屋の店先で、どこかのお母さんが、やさしく子供にいっていられるのもあります。
「あの子、良ちゃんのお友だちでない。」
「僕、知らないよ。きっと、ほかの組だろう。」
良ちゃんは、りんごも二つといえば、みかんも二つといって、お母さんをおどろかせました。
家へ帰ってから、お菓子や、果物をランドセルにつめるとき、そばで見ていたお姉さんが、
「良ちゃん、そんなに持っていってどうするの? 良ちゃんは食いしんぼうといって笑われてよ。」といわれました。
学校で、良ちゃんのかたわらに、紙や、鉛筆を先生からもらっている子供がいました。その子のお父さんは、病気で臥ており、母親は、小さな妹をつれて、毎日車を引きながら、くずを買いに、出かけているときいていました。
それで、遠足のときには、良ちゃんは、二人分のお菓子と果物を持っていこうと思ったのでした。
そのことが、良ちゃんの口から、お母さんや、お姉さんにわかると、
「はじめからいえば、お母さんは、なんともいわなかったのですよ。」と、お母さんは、いわれました。
「僕、そんな友だちのこと、いいたくなかったんだもの。」
「なんというお子さん。」と、お姉さんが、きかれました。
「山田って、いい子なんだよ。」と、良ちゃんは、答えました。
二人は、その後学校で、仲のいいお友だちとなったが、そのときのことが、いまお母さんにも、良ちゃんにも思い出されたのです。そして、なお残念に思われたのは、あの遠足の日に山田がついにこなかったことでありました。
底本:「定本小川未明童話全集 13」講談社
1977(昭和52)年11月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
底本の親本:「亀の子と人形」フタバ書院
1941(昭和16)年4月
初出:おどろき「台湾日日新報」
1940(昭和15)年8月4日
伸びるもの「台湾日日新報」
1940(昭和15)年8月6日
※表題は底本では、「少年の日二景」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2018年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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