少女と老兵士
小川未明
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某幼稚園では、こんど陸軍病院へ傷痍軍人たちをおみまいにいくことになりましたので、このあいだから幼い生徒らは、歌のけいこや、バイオリンの練習に余念がなかったのです。きょうも、「父よあなたは、強かった」を、バイオリンを弾くものと、うたうものとで調子を合わせたのでありました。
「よくできました。これでおしまいにしましょうね。あしたは、お国のために、負傷をなさった、兵隊さんたちをおみまいにまいるのですよ。」と、女の先生がいいました。
門から流れ出る生徒らを、二人の若い保姆が、たがいに十五、六人ずつ引きつれて、いつものごとく、道を左右に、途中まで見送ったのであります。
「ああ、わたしくたびれたわ。先生、おんぶしてちょうだい。」と、白い帽子を被った、一人の女の子が、お姉さんにでもねだるように、保姆さんに、いいました。
子供のわがままをきくことになれている、そして、できることはしてやっている彼女は、日の照り返す、道の上へかがんで、背中をまるくして、その子をおぶおうとしました。すると、かたわらから、
「先生、わたしもよ。」と、いって、目のぱっちりした、同じ年ごろの女の子が、いっしょに飛びつきました。たとえ小さくても、二人の子供の力に押されて、若い保姆は、危うく前のめりになろうとしました。
「いっしょに、おんぶできませんから、ひとりずつになさいね。」
二人が、手を放した間に保姆は、立ち上がりました。
「赤ちゃんみたいに、おんぶなんかして、おかしいから、さあ、歩いていきましょう。」
先へいった、四、五人の子供たちは、先生のくるのを待っていました。そして、近づくと両手へほかの子供がひとりずつすがり、もうけっしてだれにも先生を渡さないというふうにして、歩いていきました。
「とも子ちゃん、あすこに大きなキューピーさんがあってよ。」
さっきの白い帽子を被った子が、ランドセルの中の筆入れを鳴らしながら、片側にある店の方に向かって走りました。
「ほんと。」
目のぱっちりした子が、その後を追ったのであります。
「大きなおめめで、大きなおぽんぽんね。」
「とも子ちゃんのおめめみたいよ。」
「あら、私の目、こんなに大きくないわ。」
「あら、先生が見えなくなったわ。」
二人は、店の前をはなれると、駈け出しました。ちょうどそのとき、横合いから、演習にいった兵隊さんたちが道をさえぎりました。砲兵隊とみえて、馬が、大砲や、いろいろのものを乗せた車を引いて、あとからも、あとからも、ガラガラとつづきました。兵隊さんの黄色な服は、いくところか、汗がにじみ出て黒くなっていました。けれど、くつ音をそろえてわき見もせず、顔を前に向けて進んでいました。
「通れなくて、困るわ。」
「しかたがないわ、兵隊さんですもの。」と、とも子ちゃんは、いいました。
ふと、とも子ちゃんは、頭を上げて、青い空をながめました。すると、なんだか急に悲しくなったのです。
「兄さんは、どうしていらっしゃるだろう?」
翌日の午後でありました。先生に引きつれられて、女の子の多い、幼稚園の生徒たちは、ぞろぞろと町の中を歩いていました。病院への途中であります。バイオリンを提げている子をのぞいて、ほかの子供たちは、なにかしら兵隊さんをなぐさめるためにあげようとするものを手に持っていました。白い服、青い服、白い帽子、水色の帽子、ようすはいろいろでありましたが、いずれも小さくてぴちぴちしていて、お人形の行列のように見られました。通り合わせるものは、だれでも、この無邪気な一人一人の顔をのぞき込むようにして、ほほえまぬものはなかったのでした。やがて、ゴー=ストップのところへ出ました。けれど、この虫のはうようなのろい行列は、進めも、止まれも、おかまいなしに歩くよりは、どうすることもできなかったので、やはり、のろのろと歩いていました。右からも左からも、前からも後ろからも、きかかった車は、みんな子供のために止まってしまいました。
「兵隊さんと子供にかかってはなあ。」と、ガソリンの損になるのも忘れて、運転手が、笑いながらいっていました。
白い雲の峰がくずれたころ、この列は、広々とした病院の門を入って、小砂利の上へ軽やかなくつ音をたてたのであります。
いくつか病棟があったが、この幼い子供たちの向かったのは、いちばん後方にあった、白い病舎でした。そうじのゆきとどいた、大きなへやの中には、幾列となくベッドが整しく並んでいました。かたわらの卓の上には、薬びんや、草花の鉢がのせてありました。そして、白い服を着た兵隊さんはベッドの上へ横になっているもの、あるいは、腰をかけているもの、また、すわっているもの、また、松葉づえを抱えて立ち話をしているもの、ちょうどアルファベットのビスケットのように、その形がいろいろでありました。毎日のように、個人となく、団体となく、みまう人が絶えないので、こうした行列が珍しくなかったが、この暑いのに、よくきてくれたと、目を細くして、汗に額のぬれた子供たちを見ていたものもあります。そのうちに、子供らは、正面へずらりとお行儀よく並んで、兵隊さんの方を見て、バイオリンに合わせてうたいはじめました。
父よあなたは強かった
かぶとをこがす炎熱に
敵の屍とともにねて
泥水すすり草をかみ
終わると、兵隊さんたちは、手をパチパチとたたいてくれました。拍手はそのへやからばかりでなく、へやの外の方からも起こったのです。それから、子供たちは、一人、一人、兵隊さんのそばへいって、自分の持ってきたもの、たとえば作文や、自由画や、またお人形などを真心こめて、おみまいにあげたのです。このとき、兵隊さんは、みんなのくれるものを受け取ってにこにこしていました。
とも子ちゃんは、へやの中を見まわしていました。自分は、どの人にあげよう……もとより、自分の知る顔のあろうはずがないけれど、それでも、やさしそうな、話をしてくれる人にと思ったのです。
若い兵隊さんたちとくらべて、年とった兵隊さんがあちらのすみの方に、さびしそうにしてすわっていました。顔にはひげがのびて、片手を繃帯していました。たぶん激戦に、手をやられたのでしょう。とも子ちゃんは、その兵隊さんのところへいって、自分が骨をおって色紙で造った、千羽づるとかめの子をあげました。
「ありがとう。」と、兵隊さんは、にっこりとして、会釈しました。
「おじさん、うちの兄さんを知らないでしょう。」
「あなたのお兄さんも、戦争にいっていられますか。」と、兵隊さんが、ききました。
「ええ、もう一年になるのよ。」
少女は、なにか考え出そうとするように、ぱっちりとした目をみはって、窓の方を見ました。
「それは、ご苦労さまですね。」
年老った兵隊さんは、この子供の頭をなでてやりたい気がしましたが、やめました。
「また、いいものこしらえたら、おじさんに持ってきてあげるわ。」
少女は、振り向いて、先生の立っていらっしゃる方へ走っていきました。
病院の屋上へ出ると、清らかな流れのように、いつも涼しい風が吹いていました。月がなく、星明かりでは、たがいの顔もよくわからなかったが、傷兵たちは、静かにして、レコードに聞き入っていました。両眼を失って、ここまで上ってくるのに、二人の看護婦の肩に助けられなければならぬ人もあったが、その人もやがて腰をかけると、じっとして、同じように聞き入っているのでありました。あちらの地平線をほど近い、にぎやかな街の燈火が、ぽうと闇を染めているのを見て、兵士の中には、戦場を思い出すものもあったでしょう。ちょうどレコードは、愛馬行進歌をうたいはじめたところです。
老兵士も、みんなといっしょに、この歌に耳を傾けていましたが、汲み尽くせない悲しみが、胸の底から、新らしくこみ上げてくるのを覚えました。同時に、心の目は、昼間慰問にきてくれた、幼稚園の生徒らの混じりけのない姿をよみがえらせました。そして、あの目のぱっちりした少女の、
「おじさん、うちの兄さんを知らない?」と、いった言葉までが、いまだに、耳についているのを感じたのです。
おそらく、あの子の兄も補充兵であろうと思うと、老兵士をして○○攻撃の際に、自分の見た一光景を思い出させるのでした。険阻な敵の陣地へ突撃に移る暫時前のことです。
「君たち、いらないものは捨て、ごく身軽になっていくのだ。」
こう注意してやると、後方から、前線へ送られたばかりの、若い兵士の一人が、目前で、背嚢をおろして、その内を改めていました。そのとき、老兵士は、ふくらんだ背嚢をみつめて、まごまごしている若い兵士に向かって、
「なにがそんなに入っているのか。」と、きいたのです。すると、その年若の兵士は、一つ、一つ出して見せて、
「これは、お守りです。出るときに、みんながくださったのです。」
「これは、お薬りです。お母さんが、入れてくださったのです。」
「これは、日の丸の旗に、たくさんの人の名が書いてあるのです。」
「これは、姉からの手紙です。みんな、大事なものばかりです。」
そういって、じっと老兵士の顔を見上げた、あの青年の澄んだ目には、これを身につけて自分は死んでいくという純情があらわれていました。
「いや、おれたちの体が弾丸になるのだ。みんな捨ててしまえ!」と、老兵士は、口まで出たが、無理に、だまって、じっと若い兵士の顔を見返しました。その光った瞳の中に、たとえ肉体は亡びても、けっして永久に死なない生命のあることが刹那に感じられたのであります。
いま、老兵士は、蓄音機の歌をきくためでなく、そのときのことを思い出して、深くうなだれていました。
「まもなくして、あの突撃が起こったのだな。」
大きく開いた目、真っ赤な顔、火がだるまのようになって、敵陣目がけて、一塊となって、突っ込んでいった友軍の姿が……。
「おじさんは、うちの兄さんを知らないでしょう。」
またしても、こういって、自分を見上げた、少女のぱっちりとした目が浮かびました。その目は、清らかなうちに、どこか悲しみに傷んだところがあった。
「おお、あのときの青年の目と、さっきの少女の目と同じでなかったか。」と、老兵士は、おどろきました。さらに、彼は、二人が、兄妹でないのかとさえ考えられるのでした。
それは、あまりにも空想的な考えようであったでしょう。しかし、たとえ兄と妹でなくても、その澄みきったかがやく目の中に、相通ずるものを見ました。人間であって、人間以上のものを感じたのです。
「いったい、それはなんであろうか。」と、彼は、考えました。そして、ついに、悟りました。生命というものは、はかないが、真実は、なんらかの形で永久に残るということでした。
彼は、しだいにふけていく、初秋の夜の空を仰ぎました。金色に、緑色に、うすく紅に、無数の星が輝いています。おそらく、どの一つにも烈々として、炎が燃え上がっているにちがいない。しばらくすると、それが、みんな人間の目になって見えるのでした。寂然として、ものこそいわないが、永遠に真実と正義とを求めている。その光は、胸の底に深く浸み入って、魂をかきむしるのでした。
「傷がなおったら、早く戦線へ帰ろう。」
彼は、ほっとして、はじめて多くの傷兵たちといっしょに、レコードに耳を傾けようとしたが、いつのまにか心は、また、あらぬほうへと飛んでいました。
「人間は死ぬと、あの星になるってな。」
すでに、去年のいまごろ、塹壕の中で、異郷の空を見ながらいった、戦友の言葉が、思い出されたのでした。
底本:「定本小川未明童話全集 12」講談社
1977(昭和52)年10月10日第1刷発行
1982(昭和57)年9月10日第5刷発行
底本の親本:「赤土へ来る子供たち」文昭社
1940(昭和15)年8月
初出:「中央公論」
1939(昭和14)年8月
※表題は底本では、「少女と老兵士」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2017年6月25日作成
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