火事
小川未明
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季節が、冬から春に移りゆく時分には、よくこんなような静かな、そして、底冷えのする晩があるものですが、その夜は、まさしくそんな夜でありました。一家は、いつものごとく時計が十時を打つと寝につきました。子供たちは、二階へ上がって、まくらに頭を載せると、すぐかすかな、健康で心地よさそうな鼻息をたてていました。兄が十六、弟が十であります。電燈が消されたから、二つのいがぐり頭が並んでいることは暗がりのうちではわかりませんでした。夜は、だんだん更けていきました。
ブウー、ウー、ウー、警笛の声です。まず、眠りからさまされたのが、兄の信一でした。まだ眠りがまぶたに残っていて、顔を夜着のえりに埋めたまま耳をすましていました。
「風がなくていいな。」と夢の中だけれど思っていたときです。蒸気ポンプの轍が、あちらの広い通りを横の方へ曲がったようです。たちまち、ジャラン、ジャランというベルの音が、すぐ近く、大きくきこえました。
「兄さん、火事だよ。」
弟の秀吉は、こういうと同時に飛び起きて、障子を開け、窓の雨戸を繰りました。
「真っ赤だ。」
「えっ、ほんとう。」
「そんなに遠くないよ。」
信一は、弟の背後からのぞくと、なるほど、星晴れのした空の下に黒く起伏する屋根を越して、燃え上がる炎を見ました。さながら、赤いインキを流し散らすごとく、また惜しげなく投げられた金貨が燦然として飛ぶごとく、火焔は濃淡に夜の青ざめた肌を美しく彩っていました。すると、焼け出された人々や、その近所の人たちが、付近でうろうろしたり、大騒ぎをしたりしている有り様が、目に見えるような気がしました。
「叔母さんの家の方だね。」
「ああ、そうだ。叔母さんの家は、あっちだったね。」
「あの、すぎの木はどこだろう。」
こんもりとした常磐木の林の、片面だけが火焔に照らされて、明るく浮き出ているのが見えました。
「どこの林だろう、あんな林があったかな。あの高い煙突は、たしか駅の方のお湯屋だから、そうすると、叔母さんの家は、やはりあのあたりだ。」
二人の話し声が耳に入ったとみえて、お父さんも、お母さんも、二階へ上がってこられました。
「僕、叔母さんの家へ、みまいにいってきますよ。」と、このとき、信一が、いいました。
「だいじょうぶだ。叔母さんの家から、だいぶ離れている。」と、お父さんが、いわれました。
「かぜをひくといけないから、およしなさい。」と、お母さんも、いわれました。
「だって、叔父さんがお留守なので、叔母さんが心細いだろう。」
信一は、もう洋服に着かえていました。だれがなんといっても自分は、いかなければならぬという堅い決心をようすにみせて、二階から駈け下りました。
この時刻には、ポンプの走る音が方々でしていた。けれど火の手は、なかなか衰えそうにも見えなかったのです。先刻までまったくなかった風が、意地悪く出はじめて、寒気が募り、長く北窓を開けてはいられませんでした。
門の外で、チリリンと鳴らしたベルは、信一が、物置から自転車を引き出して、いま乗っていったのでありました。
一家のものは、ふたたび床の中へ入りました。しかしお父さんは、信一が帰ってくるまでは眠られなかった。つい数分間前まで、平和で、何事もなかった夜であったが、急に思いがけぬでき事のために、みんなが眠りを破られ、そればかりか内と外と、ちりぢりになって、こんな心配をしなければならぬというのはどうしたことだろう、と、お父さんは思ったのでした。
「あの子は、もうこの家に私たちといっしょにいるのでない。どこか離れた町の中を群集に足を踏まれたり、もまれたりしているのだ。よく人生は、一寸先はわからぬというが、このことであろう……。」
昔、読んだ小説には、やはりそんな筋のものがあったことを思い出して、お父さんは、じっとしてまくらに頭をつけていられなかったのでした。たびたび、寝返りをなさったとき、
「あの子は、けがでもしなければいいですがね。」と、突然お母さんが、そばからいわれました。お母さんもやはり眠られぬとみえました。
「ばかなやつだ。いくなといったのに……。」
「女と子供ばかりだから、心配だったのでしょう。」
お父さんは、自分が子供の時分、火事見物に出かけて、消防夫や、巡査に追いたてられて、ぬかるみを右往左往した有り様を思い出しました。それでも、なるたけ危険を冒して、近くまでいって火事を見るのが好きであった。そして、新たに燃え移るたびに、火焔は、群がったやじうまたちの顔を鬼のように、紅く染めるのでありました。
「あいつ、あぶない場所に立っていて、自動車にでも、はね飛ばされなければいいが。」と、お父さんは信一が帰ってくるまでは、心配が絶えなかったのです。
弟の秀吉は、よく眠っているとみえて、二階はしんとしていました。宵のうちはみんなが話をしていた茶の間の、柱にかかっている時計は、やがて二時を打ちました。お父さんは、ますます目がさえるばかりでありました。
風の、窓に当たる音がしたと同時でした。ベルのチリンと鳴る音がして、自転車が家の前に止まるけはいがしました。
「信一が、帰ってきたな。」
お父さんは、息子が帰ったと知ると、急に気持ちが軽くなるのを感じました。
やがて、玄関の戸に、かぎをかけて上がってきた信一は、両親の寝ていられるふすまの外に立って、
「ただいま。叔母さんの家からだいぶ離れていましたから、いきませんでした。三軒ばかり焼けて、やっといましがた消えました。」といいました。
「それで、おまえはどうしたのだ。見物していたのか。」と、お父さんは、穏やかな調子で、おききになりました。
「僕ですか、見物じゃありませんよ、消防のてつだいをしました。自転車を他所の家へ預けておいて水を運んだのです。隣組でやるバケツのリレーは、あわてるときは、だめですね。途中で水がみんなこぼれてしまって、いざかけるときには、ほとんどバケツの中に水がはいっていないのです。それに、火は、どんどん勢いよく燃え上がるのでしょう。僕たちは、家の前に、防火用に置いてある、水の入った四斗だるを三人で運びました。あんなときは、不思議に力が出るものだと自分でも驚きました。お蔭で、大事な洋服が、ずっぷりぬれてしまったから、明日お母さんに乾してもらいます。」
信一は、笑いながら、こういい終わらぬうちに、はや二階へ上りかけていた。
「ほかに、見物しているやじうまもあったろう。」と、お父さんは、おききになりました。これに対して、しばらく返事はなかったが、
「あまり、ありませんね。みんないっしょになって、働いていますよ。」
「ああ、そうか。」
「お休みなさい。」
こんどは、信一は、元気よくいって、トン、トンと、はしご段に足音を残しながら、上ってしまいました。それから弟と話をする声がしたかと思うと、そのうち二人とも眠ったのであろう、しんとしてしまった。ただ独りお父さんだけは、いつまでも眠られませんでした。
「たしかに、世の中は、変わった。子供もちがったようだ。昔は、たとえ他人は、どうあろうと、自分さえよければいいと思っていた。なんという恥ずかしいことだったろう……。」
お父さんは、青ざめた、明け方近き空を吹く風の音を、まくらに頭をつけたまま、聞きながら、心を遠方にはせていられました。
底本:「定本小川未明童話全集 13」講談社
1977(昭和52)年11月10日第1刷発行
1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
底本の親本:「僕はこれからだ」フタバ書院成光館
1942(昭和17)年11月
初出:「山野に鍛へる少国民」
1942(昭和17)年4月
※表題は底本では、「火事」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2017年10月25日作成
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