クロイツェル・ソナタ
解題
米川正夫



 いわゆる『回転期』以後、世界的文豪としての輝かしい名声を敝履へいりの如く棄て、神への奉仕の生活を声明して、宗教的述作へ専心しはじめたトルストイは、一八八六年はじめて『イヷン・イリッチの死』を公けにして、彼の芸術を惜しむ人々に旱天かんてん慈雨じうのような喜びを与えたが、それから四年を経た一八九〇年に、さらに彫心鏤骨ちょうしんるごつの苦心の余になる力作を発表して世を驚かした。それがすなわちこの『クロイツェル・ソナタ』〝Kreitserova Sonata〟である。本篇の創作にヒントを与えたのは、一八八七年の夏、ヤースナヤ・ポリャーナに文豪を訪問した一俳優の談話で、あるとき汽車の中で、無名の紳士が妻の不貞に苦しんでいる告白談を聞かされたという彼の物語が、何ものをもってしても消す由もない天才の芸術的感興をそそったものである。トルストイはその秋ただちにこの物語の筆を染め、爾来じらい四年間に、幾度となく改竄かいざん推敲すいこうを重ねた後、ようやく本篇の発表機関となった『ユリエフ記念文集』の編纂者の手に渡されたのであった。

 前にも述べた如く、『クロイツェル・ソナタ』の創作動機は、トルストイ生来の芸術欲に基づくものであることはいうまでもないけれど、しかし芸術に対する見解を一変した時代の作品であるから、約十年前に書かれた『アンナ・カレーニナ』などと比較してみると、創作の根本態度に著しい相違が認められる。以前、驚くばかり瑰麗かいれいな花となって開いた純な人生の芸術的観照と再現は、少くとも表面上影を潜めて、ここには芸術的形式をかりた教化的意義が前面に押し出され、破邪顕正はじゃけんせいの思想が第一目的として主要な位置を占め、書物は大半、人間社会の悪と虚偽に対する論評で充たされている。

 が、それにもかかわらず、この小説は内部に蔵された精神の逞ましさと、簡勁かんけいな表現の緊密さにおいて、驚くばかり芸術的な名作である。無論、ここには華やかな現実描写もなければ、複雑多面な人間性の謳歌もないけれど、教化宣伝を目的とした抽象的な論議も、激越なポレミックな調子を帯びた主張も、妻を殺した男の異常に興奮し、緊張しきった神経という背景のもとに置かれているがために、物語の必然性と、構成の均斉を些かも破っていないのみか、説話の形式で書かれた叙述が、息づまるほどの張度を示している点、事件の展開に一分の弛みもない点、一字一句が物狂おしいばかりの真実性に充たされている点、読者を否応いわさぬような強い力でぐんぐん引き摺って行く点──すべてがトルストイの如き偉大な芸術家でなくては到り得ない芸術の至境である。これを前期の豊麗ほうれいを極めた代表的長篇に比べても、ほとんど遜色のない芸術的価値を有するのみか、比較的短い形式に圧縮せられて、まさしく爆薬の如き力を蔵しているところからいえば、優に前者を凌ぐものさえある。ロマン・ロランがこの小説をもってトルストイ作中の第一に挙げたのも、あながち奇をてらった言葉とばかりいえないかも知れぬ。

『クロイツェル・ソナタ』の内容は、すでに一般に知られている通り、嫉妬のために不貞の妻を殺した不幸な男の告白を筋として、現代社会の男女関係、結婚問題、性欲問題を、痛烈つうれつ骨をえぐるが如き筆をもって、縦横無尽、完膚なきまでに解剖し、批判したものである。この小説が社会に及ぼした反響は非常なもので、讃嘆、驚愕、畏怖、罵詈、呪詛の声が、あらゆる方面に入り交り、乱れ合いつつ、果しなく波紋を拡げて行ったのでも、その未曾有の効果が想像される。芸術的描写の点においても、殺人者の心理──兇行前の煩悶、その瞬間の狂憤、その後の失神状態、すべてが測り知れぬ深刻さと、正確さをもって描破されており、ドストエーフスキイの『罪と罰』以外に較ぶべきものを知らぬほどである。むしろ事件が単純で、ありふれているだけに、『罪と罰』よりも一層人間的な親しみを感じさせるのではあるまいか。

 しかし、この作品が一世を震駭しんがいさせた原因のおもなるものは、トルストイがその中で説いた露骨にして忌憚きたんなき性欲観である。彼がはじめて性愛の問題を取り扱ったのは、一八八六年に公けにした『婦人に与う』と題する論文であろう。そのとき彼は、婦人が旧約聖書の教える多産の理想を実行することに、全世界の救済を見出して、こう叫んでいる。「世界を苦しめているもろ〳〵の悪より人類を救う方法は、一に懸かって諸姉の手にある」すなわち、己れの使命を自覚せる婦人は、出来る限り多く産んで、生まれた子供を真理の精神に基づいて教育すべきである。してみると、次第々々に社会の気分を変化させ、輿論も正しい方向に決定して、血を流さない宗教的社会革命を成就することが出来る。子を産まない婦人は、いわば貴重な肥沃の土地が利用せられずして打ち棄てられているようなもので、見るも傷ましい気もちがする──これが『クロイツェル・ソナタ』発表の四年前におけるトルストイの性問題に関する所信であった。

 しかるに、この論文と僅少きんしょうの時日の隔たりしか持たぬ小説『クロイツェル・ソナタ』の中で、作者が直截ちょくせつ喝破かっぱしているところによると、人間の欲望は善の目的到達を妨げる障碍であって、なかんずく愛欲は最も大きな破壊力を有している、肉的情欲は、自己完成を根柢とする真の精神生活の強敵であるから、すべからくこれを滅却すべきである。『婦人に与う』においては、多産を結婚生活の理想としたトルストイが、今度はこれに代うるに、夫婦間の純潔な同胞的愛をもってした。しかも、その直接な結果として招致すべき人類の滅亡さえも、当然の事態とまで極言しているのである。

 かかる短時日の間に生じたこの驚くべき思想上の変化は、そも〳〵何に起因きいんするのであろうか。『クロイツェル・ソナタ』の『あとがき』の中で、トルストイ自身も己れの思索が辿りついたこの結論に、意外の感に打たれたことを告白している。けれども、何故その意外な結論に到達したか、その経路については何も語っていない。ヴラヂーミル・ソロヴィヨフは、作者の知人某の家庭に起った悲劇が、この強烈無比な作品の題材となると同時に、彼の結婚観の一大革命を惹き起したとこういう風に説明しているが、この解釈は充分に人を首肯しゅこうさすだけの力を持っていない。おもうに、キリスト教の精神に基づいて新しき世代を養成するということに唯一の目的をおいて生殖を肯定したトルストイも、その目的達成の方法であるべきはずの性愛が、実践においては絶対的の自己目的となって、しばしば兇暴な盲目的力を迸出させ、生活の健全な軌道を破壊する事実を目撃し、それに抗することの不可能さを確信して、ついにかの自分自身すらも意想外とするような結論に達したものであろう。すでによわい七十になんなんとして、なお男性としての欲望を抑え得なかったという、彼自身の驚くべき真率な告白に照らして見ても、『クロイツェル・ソナタ』が、トルストイ自身の内部的苦悶争闘の表白であることは、恐らく疑いを入れぬところであろう。

 この偉大な天才の魂から迸り出た苦悶の叫びと、彼の逞ましい精神が腐敗せる社会に投げつけた烈しい痛罵つうば譴責けんせきの声が、当時の社会に震撼的しんかんてきな印象を与えたことは前に一言したが、ロシヤの検閲は現存の家族制度・社会制度の基礎を脅かすものとして、この小説を掲載した『ユリエフ記念文集』をただちに発禁に処し、全集に収めることすら許さなかった。ただソフィヤ・アンドレエヴナ夫人が急遽上京して、時の皇帝アレクサンドル三世に拝謁を乞い、種々嘆願の末、ようやく全集以外に単独出版せぬとの条件のもとに、かろうじて『クロイツェル・ソナタ』の流布を許された。その際皇帝は、結婚と家庭の否定を主張するこの作品の普及に、妻として女性として尽力する矛盾を揶揄した。すると、夫人はそれに応えて、自分は著者の妻としてでなく、全集の出版者として願うのであると奏上した。その後、トルストイが後期の著述に対する著作権を放棄したため、多くの出版者が我さきにとこの作品を単行本として発売したとき、アレクサンドル帝は、「あの婦人がわしを瞞したとすれば、今後いったい誰を信用することが出来るのだ!」と嘆息これ久しゅうしたと伝えられている。


訳者

底本:「クロイツェル・ソナタ」岩波文庫、岩波書店

   1928(昭和3)年915日第1刷発行

   1957(昭和32)年225日第29刷改版発行

   1969(昭和44)年1110日第42刷発行

入力:川山隆

校正:岡村和彦

2019年1028日作成

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