月夜の東大寺南大門
和辻哲郎
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夕方から空が晴れ上つて、夜は月が明るかつた。N君を訪ねるつもりでひとりブラ〳〵と公園のなかを歩いて行つたが、あの広い芝生の上には、人も見えず鹿も見えず、たゞ白白と月の光のみが輝いてゐた。
南大門の大きい姿に驚異の目を見張つたのもこの宵であつた。ほの黒い二層の屋根が明るい空に喰ひ入つたやうに聳えてゐる下には、高い門柱の間から、月明に輝く朧ろな空間が、仕切られてゐるだけにまた特殊な大いさをもつて見えてゐる。それがいかにも門といふ感じにふさはしかつた。わたくしはあの高い屋根を見上げながら、今更のやうに「偉大な門」だと思つた。そこに自分がたゞひとりで小さい影を地上に印してゐることも強く意識に上つてきた。石段をのぼつて門柱に近づいて行く時には、例へば舞台へでも出てゐるやうな、一種あらたまつた、緊張した気分になつた。
門の壇上に立つて大仏殿を望んだときには、また新しい驚きに襲はれた。大仏殿の屋根は空と同じ蒼い色で、たゞこゝろもち錆がある。それが朧ろに、空に融け入るやうに、ふうはりと浮んでゐる。幸にもあの醜い正面の明り取りは中門の蔭になつて見えなかつた。見えるのはたゞ異常に高く感ぜられる屋根の上部のみであつた。ひどく寸のつまつてゐる大棟も、この夜は気にならず、むしろその両端の鴟尾の、ほのかに、実にほのかに、淡い金色を放つてゐるのが、拝みたいほど有難く感じられた。その蒼と金との、互に融け去つても行きさうな淡い諧調は、月の光が作り出したものである。しかし月光の力をかりるにもせよ、とにかくこれほどの印象を与へ得る大仏殿は、やはり偉大なところがあるのだと思はずにゐられなかつた。その偉大性の根本は、空間的な大きさであるかも知れない。が空間的な大きさもまた芸術品にとつて有力な契機となり得るであらう。少くともそこに現はれた多量の人力は、一種の強さを印象せずにはゐないであらう。
わたくしはそこに佇んで当初の東大寺伽藍を空想した。まづ南大門は、広漠とした空地を周囲に持たなくてはならぬ。今のやうに狭隘なところに立つてゐては、その大きさはほとんど殺されてゐると同様である。南大門の右方にある運動場からこの門を望んだ人は、或る距離を置いて見たときに現はれてくる異様な生気に気づいてゐるだらう。
この門と中門との間は、一望坦々たる広場であつて、左と右とにおよそ三百二十尺の七重高塔が聳えてゐる。その大きさは一寸想像しにくいが、高さはまづ興福寺五重塔の二倍、法隆寺五重塔の三倍。面積もそれに従つて広く、少くとも法隆寺塔の十倍はなくてはならない。塔の周囲には四門のついた歩廊がめぐらされて居り、その歩廊内の面積は今の大仏殿よりも広かつたらしい。これらの高塔やそれを生かせるに十分な広場などを眼中に置くと、今はたゞ一の建物として孤立して聳えてゐる大仏殿が、もとは伽藍全体の一小部分に過ぎなかつたことも解つてくる。しかしこの大仏殿も、今のは高さと奥行とが元のまゝであつて、間口が約三分の二に減じてゐるのである。従つてその美しさが当初のものと比較にならないばかりでなく、大きさもまたほとんど比較にならない。試みに当初の大仏殿の略図を画いて今のと比べて見ると、今の大仏殿の感じは半分よりも小さい。当初のものは屋根が横に長いので、全体の感じが実に堂々としてゐるのである。その屋根の縦横の釣合は唐招提寺金堂の屋根のやうだと思へばよい。周囲の歩廊がまた今日のやうに単廊ではなくて複廊である。なほ大仏殿のうしろには、大講堂を初め、三面僧房、経蔵、鐘楼、食堂の類が立ち並んでゐる。講堂、食堂などは、十一間六面の大建築である。
そこには恐らく幾千かの僧侶が住んでゐたであらう。そのなかには講師があり、学生があり、導師があり求道者があつた。彫刻、絵画、音楽、舞踏、劇、詩歌──さうして宗教、すべて欠くるところがなかつた。
わたくしは中門前の池の傍を通つて、二月堂への細い樹間の道を伝ひながら、古昔の精神的事業を思つた。さうしてそれがどう開展したかを考へた。後世に現はれた東大寺の勢力は「僧兵」によつて表現せられてゐる。この偉大な伽藍が焼き払はれたのも、さういふ地上的な勢力が自ら招いた結果である。何故この大学が大学として開展を続けなかつたのであらうか。何故この精神的事業の伝統が力強く生きつゞけなかつたのであらうか。「僧兵」を研究した知人の結論が、そゞろに心に浮んで来る、──「日本人は堕落し易い。」
三月堂前の石段を上りきると、樹間の幽暗に慣れてゐた目が、また月光に驚かされた。三月堂は今あかるく月明に輝いてゐる。何といふ鮮かさだらう。清朗で軽妙なあの屋根はほのかな銀色に光つてゐた。その銀色の面を区ぎる軒の線の美しさ。左半分が天平時代の線で、右半分が鎌倉時代の線であるが、その相違も今は調和のある変化に感じられる。その線をうける軒端には古色のなつかしい灰ばむだ朱が、ほのかに白くかすれて、夢のやうに淡かつた。その間に壁の白色が、澄み切つた明らかさで、寂然と、沈黙の響を響かせてゐた。これこそ芸術である。魂を清める芸術である。
N君の泊つてゐる家はこの芸術に浸り込んだやうな形勝の地にあつた。門を一歩出れば三月堂は自分のものである。三日月の光で、或は闇夜の星の光で、或は暁の空の輝きで、朝霧のうちに、夕靄のうちに、黒闇のうちに、自由にこの堂を鑑賞することが出来る。雨にうたれ風に吹かれるこの堂の姿さへも、見洩さずにゐられるであらう。
家の人が活動写真を見に行つた留守を頼まれて、N君は茶の間らしいところにゐた。ペンと手帳と案内記とが座右にあつた。当麻寺へ行つて来たことを話すと、君はあの塔の風鐸をどう思ひます、ときく。わたくしは風鐸にまで注意してゐなかつたので、逆にそのわけを尋ねた。──いや、あの形がお好きかどうか、きゝたかつたのです。僕はどうしても法隆寺の方がすきですね。中にぶら下つてゐるかねも恰好が違つてゐますよ。下から見ると十文字になつてゐます。──わたくしは頓首して、出かゝつてゐた気焔を引込めるほかなかつた。
N君は大和の古い寺々をほとんど見つくしてゐた。残つてゐるのはたゞ室生寺だけであつた。だからわたくしが名前さへ知らない寺々のことも詳しく知つてゐた。──その代り大和からは一歩も踏み出さないことにきめてゐるんです。範囲を広めてゆくときりがありませんからね。──そんなに詳しく見てゐて、印象記でも書く気はないかときくと、手帳には書きとめてゐるが、とても惜しくつて印象記などには出来ないといふ。その話の模様では、古美術の印象から得た幻想が作品として結晶しかゝつてゐるらしかつた。──法隆寺にいらつしやるのなら、夢殿のなかをよく見て来てくれませんか。僕はあんまり我儘をやつたもので、お坊さんの感情を害したらしいんです。それでどうも具合がわるくて、もう一度見たいのを辛抱してゐるんです。夢殿の天井だの柱だのの具合を。──
帰るときにN君は南大門まで送つてくれた。途々現在の僧侶の内生活の話をきいた。叡山にながくゐたことのあるN君は、さういふ方面にも明るかつた。のみならず君自身にも出家めいた単純生活に落ちついてすましてゐられる一種の悟りが開けてゐた。だから出家の心持にはかなり同情があるらしく、妻子をすてて寺に入つた人の話などをするにも、どこか力がこもつてゐた。叡山で発狂した修道者の話などは凄味さへあつた。
こゝの寺にも一人ゐますよ。時々草むらのなかからヌッと出てくることがある。──かう云つてN君はわたくしの顔を見た。──だが夜は大丈夫です。鹿のやうに時刻が来れば家へ帰つて行くさうです。
やがて二人は南大門の石段の上で別れた。石段を下りてから振り返つて見上げながら、暇があつたらまたお訪ねしませうといふと、N君はこの「門」の唯中に立つて、月の光を浴びながら、──えゝ、御縁があつたら、また。
底本:「日本の名随筆58 月」作品社
1987(昭和62)年8月25日第1刷発行
1999(平成11)年4月30日第10刷発行
底本の親本:「古寺巡礼(第一七刷改版)」岩波書店
1947(昭和22)年3月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年12月4日作成
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