大阪の宿
水上滝太郎
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夥しい煤煙の爲めに、年中どんよりした感じのする大阪の空も、初夏の頃は藍の色を濃くして、浮雲も白く光り始めた。
泥臭い水ではあるが、その空の色をありありと映す川は、水嵩も増して、躍るやうなさざ波を立てゝ流れて居る。
川岸の御旅館醉月の二階の縁側の籐椅子に腰かけて、三田は上り下りの舟を、見迎へ見送つて居た。目新しい景色は、何時迄見て居てもあきなかつた。此の宿に引越して來て二日目の、それが幸なる日曜だつた。
三田は、大阪へ來て、まだ半年にしかならない。其間、天滿橋を南へ上る、御城の近くの下宿に居たが、因業貪欲吝嗇の標本のやうな宿の主人や、その姉に當る婆さんが、彼のおひとよしにつけ込んで、事毎に非道を働くのに憤慨し、越して行く先も考へずに飛出してしまつた。大きな旅鞄と、夜具蒲團と、机を荷車に積み、自分で後を押して、梅田の驛前の旅人宿に一時の寢所を定めたが、宿の内部の騷々しさに加へて、往來を通る電車のきしり、汽車の發着毎にけたゝましく響きわたる笛の音、人聲と穿物の三和土にこすれる雜音などが、外部からひた押に押して來て、部屋の障子が震へる程で、机にむかつて本を讀んだり、かきものをしたりするおちつきを與へて呉れなかつた。それでも半月は辛抱した。人にも頼み、自分でも會社のゆきかへりに方々見て廻つたが、扨て恰好のうちは無い。氣に入つたところは宿料が高く、安いところは氣に入らなかつた。つい氣のおちつかないまゝに、夜は宿を出てうろつき廻つた。
そんな時に足をやすめる場所は、關東煮がおきまりだつた。懷中の都合もあり、カフヱは虫が好かないので、自然と大鍋の前に立つて、蛸の足を噛りながら、こつぷ酒をひつかける事になる。天神橋の蛸安は、前の下宿時代からの深い馴染だつた。
「何處かに、安くて居心地のいゝ下宿屋は無いかしら。」
いつぱい機嫌で、若い主人に訊いて見た。
「安うて居心のえゝ宿屋だつか。」
眞面目にとりあつてゐるのか、ゐないのか、腰の煙草入から煙管をぬいて、悠々と烟を吹きながら、お義理らしい小首を傾けた。
「大將。」
先刻から大分酩酊して、居睡をしさうになつて居た汚ならしいぢいさんが、いきなり横あひから聲をかけた。
「安うて居心のえゝ宿屋やつたらな、土佐堀の醉月や。」
厚ぼつたい唇をなめながら、鍋の上につんのめりさうな形だつた。少し舌が長過るのか、醉つて居る爲めにもつれるのか、ぢいさんのいふ事は聞取りにくかつたが、要之その醉月といふ宿屋は、きれいで靜で安くて、食物は上等で、おかみさんも女中も親切で、これ程居心地のいゝうちは無いと云ふ意味の事を繰返して喋つて居るのだつた。
三田は酒のみの癖に醉拂が嫌ひなので、何を云はれても取合はなかつたが、醉月といふ名は忘れなかつた。そして、翌日會社の歸りに土佐堀の川岸を順々に探して行つて、此の家を見つけたのである。
普通の宿泊料ではやりきれないので、男のやうな口のきゝ方をする大柄のかみさんに談判して、月極にして割引いて貰ふ事にした。
「よろしゆおまツ。うちは儲けようと思ふて御商賣してるのとは違ふさかい、まあ來て見とくんなはれ。」
活氣のある聲でからから笑つて、先方から話をうち切つた。
次の日、三田は又大鞄と夜具と机を積んだ荷車の後を押して引越して來たのである。
昨日は荷物を部屋に運び終ると、直ぐに御影に住む友達、田原の家によばれて行つた。酒倉のうちつゞく濱端の一地點に建てられた二階家の欄干に近々と浪が寄せて、潮の香の鼻をつく座敷で、夜の更ける迄酒を飮んだ。大阪に歸つたのは十二時過ぎで、引越して來た最初の晩に、宿のおもての戸を叩かなければならなかつた。
それにも拘らず今朝は早く起きた。雨戸の無い家はあけ安く、縁側の玻璃戸の内側に引いてある白いカアテンは、川水に光り躍る朝日を反映して、まぼしかつた。深酒の翌朝の早起は、自分自身に對しても負嫌で押通す三田のならはしだつた。
梯子段をづしんづしん踏鳴らしながら降りて行くと、
「お早う御座います。」
「お早うさん。」
二三人女の聲が、臺所と帳場から、いちどきに挨拶した。新來の客を珍しがる視線を避けるやうに、彼は地下室へ急いだ。
暗い湯殿に續く洗面場には、ひゞの入つた姿見がかゝつて居た。三田はその前に立つて、これが一生の面倒に思はれる無類の濃い髯を剃つてゐた。安全かみそりの齒の音が、心地惡く響いた。
「旦さん、えら早よおまんなあ。」
湯殿の洗場をごしごし洗つて居たぢいさんが、後から聲をかけた。
「お早う。」
半分は石鹸のあぶくだらけの顏で振向いて返事をしたが、
「おゝ。」
平べつたい顏を見ると、おもはず驚きの聲が出てしまつた。
「何やら見覺えのあるお方のやうに思ふてましたが、旦さんでしたか。先夜はえらいひつれいしました。」
しまりの無い口のきゝ方に特徴のあるぢいさんは、此間天神橋の蛸安で、安くて居心地のいゝ旅館醉月を、教へて呉れた醉拂ひだつた。
「なあんだい、君は此のうちの人なのか。」
「へえ、時折手傳ふてゐまんのや。」
ぢいさんはにたにた笑を浮べて、寧ろ得意さうに答へた。
顏を洗つて二階へ戻ると、きれいに寢床はかたづいてゐて、縁側のカアテンをしぼり、玻璃戸をあけ放したところに、籐椅子が据ゑてあつた。それに腰かけて、朝日のさす對岸の家や、川の流や、上り下りの船を見て居たのである。
しばらく辛抱してゐた天滿橋を南へ上る、御城の近所の下宿に比べて、月に十圓違ひではあるが、その差は十圓以上に思はれた。最初にあつたおかみさんのからりと晴れた態度と、因業貪欲吝嗇の内心を、ねちねちした御世辭で包んだ先の下宿の人間に比べて、いかに心地よく思はれたか。あの下宿では、女中に給金を拂ふのを惜んで、何時も手不足で困つてゐたが、此の宿には女手も相當にあるらしい。獨身者のならひとして、その女中がきれいであつてくれゝばいゝがと、虫のいい事も願つて居た。
斯ういふ明るい部屋ならば、屹度物を書くのにもいゝに違ひ無い。かねて腹案は熟し切つて居る長編小説を、いつそ今日から書始めようかしら。會社から貰ふ月給だけでは、宿料を拂つて餘裕が無いのだから、小説を完成させるのは、財政上からも必要に迫られて居るのであつた。彼は、自分自身を鞭撻するやうに、初夏の青空に向つて深呼吸をした。
「お待ちどうさま。」
廊下の方から、上草履の音をさせて、女中が御膳を運んで來た。
「うちの御客さんは皆さん寢坊なのに、あなたは御早いんですねえ。」
「月給取はふだん寢坊して居られないので、つい癖になつて、折角の日曜にも早く目が覺めてしまふんですよ。」
三田は籐椅子から腰をあげて、部屋のなかの膳についた。
「昨夜は大變遲かつたんですねえ。御友達のところに行くといつてらつしやつたけれど、女の御友達のところで引とめられて御歸りになれないのぢやあないかと思ひました。」
「あゝ、おもての戸をあけてくれたのは君だつたかねえ。」
それをきつかけに、部厚な膝の上に御盆をのせてひかへて居る相手の顏を見た。ひどい癖毛を銀杏返に結つた、面皰の痕の滿面にはびこる、くりくり肥つた、二十六七には確かになる女だつた。何處にひとつ取柄の無い女だが、その面皰面が始終にこにこ笑つてゐる。いかにも人がよささうで、且きりやうのよくないのが、面とむかつて居てもひけめを感じないで、氣安かつた。
「東京はどちらです。あたしも東京に叔母さんがあつて、行つてた事があるんですよ。」
「僕は麹町。」
「あたしの叔母さんは本所。もつとも今では荻窪とかに越しちまつたさうだけれど。」
三田は齒が惡いので、米の飯を喰ふ事は不得手だつた。相手はもつと口をきいて貰ひ度いらしいのだが、彼はうつかり口をきくと飯粒がこぼれさうなので、一生懸命でもぐもぐ噛んでゐた。
「あたし、生れはいちごなんですよ。」
きかれもしないのに、生れ故郷まで持出して話をつゞけた。
「へえ、越後かい。どうりでいとえの區別が無いと思つた。」
「あらやだ。すつかり直つたつもりでゐたけんど、矢張いけないかねえ。」
みそつ齒の口を惜氣も無くあけて、たまらなく面白さうに笑つた。
「東京に二年、伊豆の方にも行つてゐたし、靜岡にもゐたし、大阪にもこれで滿一年半になるんですよ。女中奉公はしてゐるけれど、それでも國になんか歸り度いとも思ひませんねえ。田舍はふんとにやだやだ。」
「そんな事を云つたつて、國には君の歸るのを待つてる人があるんだらう。」
「あらやだよ。あたしなんか家を飛出して來ちやつたんですからねえ。」
たうとうおもふつぼにはまつたと云ひ度さうな滿足の顏色をして、身の上話を始めた。
酒こそ飮むけれどおやぢは善人で、酌婦上りの後妻の尻に敷かれ、その後妻は一家の權力を握つて横暴の振舞ひが多く、殊に繼子の自分を邪魔にしていぢめるので、ゐたたまれなくなつて逃出したといふのである。
よくあるやつさといひ度さうな、興の乘らない相手の態度には頓着無く、額際を汗ばませて喋つた。
元來無口の三田は、つとめて相槌を打たうとは思ふのだが、結局つきあひ切れなくて、默々として二ぜんめの御飯を丹念に噛んでゐた。
「もうよろしいんですか。」
「僕にはどうしても飯粒の味がわからないんだ。」
一仕事濟ませたやうな顏つきで箸を置いた。
「飯粒だなんて、罰が當りますよ。」
睨んで置いてから、又みそつ齒をあからさまに笑つた。
「よろしゆおあがり。」
わざと大阪言葉を眞似して、眞赤な舌を出した。
女中が行つてしまふと、思ひ立つたが吉日だと、三田は直ぐに机にむかつて、新しい原稿紙をひろげた。彼は會社員として衣食して居るので、ほかの作家のやうに十分時間を持つて居ないから、止むを得ず眞夜中にも筆を執らなければならないのであるが、ほんとは朝の光が好きなのである。眞白い肌に艶を持つて、ほのかに脂肪の浮いてゐるやうな紙の上に、一字一字自分の文字の並んで行くのは氣持がよかつた。此の分だと、一日十五枚といふ今迄の最高記録を破つて、二十枚三十枚四十枚も書けるかもしれない。それを新聞社に賣つて受取る金高迄、淺ましくも想ひうかべた。
けれども、その進行は間も無く妨げられた。川にむかつた縁側と、その反對側の廊下を、女中達が掃除し始めたのである。騷々しくばたばたする上草履の音は、高々と端折上げて太股もあらはに四這になり、頭よりもお尻を高く持あげて眞一文字に廊下を蹴つて行く姿を、まざまざと想像させる。
「御免やす。」
不意に目の前に、想像通りの姿が現はれた。やさしくて、ほがらかな聲だつたが、濡雜巾を手にして立上つた姿は、たつぷり上背もある肥大なものだつた。あんこの澤山入つてゐる大束髮を手拭でつゝんでゐるが、その手拭の下に僅かにあらはれてゐる細い目と、低い鼻と、不釣合にちひさい口が、一齊に笑つてゐた。淡紅色の腰卷の下から、ずんどの足がぶよぶよと波を打ちさうに見えた。しかし、その皮膚は、小田原蒲鉾に似て、氣味の惡い位白かつた。
「あんさん、うちのおつさんに聞いて御越しやしたんやつてなあ。今、階下で話してはりましてん。天神橋の蛸安で逢ふたんやと、こない云ふてなあ。」
これも人のよさゝうな笑顏で、へだての無い口をきいた。
「おつさんていふ人は、あれは此のうちの何をして居る人?」
三田は止むを得ず洋筆を置いて、成る可く淡紅色の腰卷より上に視線を保ちながら、相手に對した。
「おかみさんの御母さんの兄さんかいな。弟さんかいな。」
獨言のやうにいひながら、首をかしげて考へてゐた。
「ふうむ、あれが。」
あんな汚ならしいぢいさんが、此のうちのおかみさんの母親の兄弟かと、意外に思つた。
「あのおつさんべろべろに醉拂つて、土佐堀の醉月の廣告をしてゐた。うちが綺麗で、靜かで、女中さんは親切で別嬪だつて。」
「しようむない。おつさんは御酒あがつたらわややわ。」
口ではさう云つたけれど、矢張笑つてゐる。笑の外に表情の無いやうな顏であつた。
「あんさんもたんと上つてだつか。」
「先づたんとの方だらうねえ。」
「ほしたら御晝に一本つけましよか。」
「晝は喰べない。僕は二食だ。」
「へえ、二食?」
聲だけは驚いても、矢張表情は笑つてゐた。
「そんなら晩に御酌させて貰ひまつさ。」
「僕は御酌されるのは嫌ひだ。手酌で無いと折角の酒がうまくない。」
三田は正直にほんとの事を云つたのだけれど、相手は冗談として受取つたらしい。
「おやおや、えらい嫌はれ樣。」
目も鼻も口もいつしよにして笑つたが、ばたりと雜巾を縁に落すと、四這になつて、小田原蒲鉾の足を忙しく動かしながら、するすると遠くへ行つてしまつた。
「おい、人が寢てゐるのに、ばたばたしてやかましいぢやあないか。」
突然、一間置いた向の部屋から、冗談らしく怒鳴る聲がして、障子のあく音が續いた。三田の部屋が東の端とすると、その部屋は縁つゞきの西の端になる。
「えらい濟ませんなあ。」
と正直に詑びてゐるのは、優しくてほがらかな聲だつた。
「なあんだ、おつぎさんか。氣がきかないぢやあないか。犬に喰はれて死ぬがいゝや。」
わざとでは無いかと思はれる程太い聲の男は、縁側に出て來た氣配だつた。
「えらい惡おましたなあ。」
もう一度詑言葉を繰返したが、今度のは相手の調子に合せた冗談めかしたものだつた。
「大貫さん、あんた何時か知つてはりまんの。」
「九時頃かい。」
「阿呆らしい。十一時だつせ。お日樣が笑ふてゐやはりまんがな。」
からかひながら、一段と上草履をばたつかせて、もう一度三田の部屋の方へ、四這になつて拭いて來る。
「なんだいその恰好は。さかりのついた豚みたいだ。こう、まるでかうだぜ。」
「いやあ、大貫さん。」
悲鳴をあげて、三田の鼻さき迄逃げて來た女の足下に、薄禿の頭を突出して四這になつて居る男があつた。浴衣の尻をくるりとまくつて、越中褌をまざまざと見せたのが、ひよいと顏をあげると三田の視線にぶつかつた。
「いや、こりやあ失敬。」
あわてゝ立上つて、頭を掻きながら姿を消した。
「なんだい、お客さんがゐるのか。昨日迄あいてゐたぢやあないか。」
と、負惜らしく誰かに云つて居るのが聞えた。
「さあ、大貫さんも顏でも洗つてらつしやい。お客さんは、階下で御化粧最中ですよ。」
と云つてるのは越後女の聲だつた。
男は顏を洗ひに行つたのであらう、直ぐに越後女は縁側へ出て來て、誰憚らぬ聲でおつぎに話かけた。
「いやんなつちやふねえ。さつさと起きて呉れればいゝのに、何時迄たつたつて片づきやあしない。あの看護婦さんも看護婦さんぢやあないか。よく羞しくないもんだねえ。」
これも裾を端折つて、赤いものを見せた姿で、はたきを手に持つて居る。
「ほんまにいやらしいなあ。」
おつぎは相變らぬ笑顏で受けた。
「あんな部屋の掃除なんかしてやらないからいゝや。」
「あんた燒いてるのやないのんか。」
「何いつてるのさ。」
舌うちして、まるまると肥つた低いのが、背延びをして大女の背中をどやしつけた。そして二人とも、止度無く笑つた。
笑ひ止むと、二人が交々に、向の部屋の有樣を、三田に話して聞かせるのであつた。
三番の御客大貫さんは、市内の某病院の醫員だつたが、院長の娘といゝ仲になつたのでずるずるに養子になり、副院長として納まつて居たが、生來の女好で、患者に對して怪しからない振舞があつたとか、看護婦にも手を出したとか、面白くない噂があつて、年中風波の絶間が無かつたが、最近に及んで又々一人の看護婦とくつつき、今度のは相手がえら物なので騷動が大きくなり、養父の院長がかんかんに怒つてしまつたので、たうとう病院を飛出してしまつた。自分は醉月に宿をとり、保險會社の診査醫になり、女は派出看護婦會に入つて働いて居るが、時々斯ういふ風に逢ひに來て、泊つて行くのだと云ふ話だつた。
「それに、をかしいのは奧さんだねえ。あんなやくざな亭主に未練があつて、親達にかくれて逢ひに來るんだから。」
越後は三田の机のそばに坐り込んで、夢中になつて喋つた。
「それがなあ、晝日中でも、ちやあんと寢床とらせて、やすんで行かはりまんがな。」
おつぎは自身羞しくなつて、まつかになりながら、一大事らしくつけ加へた。
「看護婦さんも看護婦さんだよ。女の癖によくも平氣で居られるもんだねえ。何時だつて、十二時頃迄あれなんだもの。あれで大貫さんみたいなのが色魔つていふのかもしれないねえ。男ぶりは惡いし、のんだくれだし、怒つぽいし……」
「禿ちやびんだし。」
かけあひで惡口を云つて、えへらえへら笑つた。
「叱つ。看護婦さんが戻つて來やはつた。笑ふたらあかんし。」
笑ひ止まない朋輩に手を振つて見せたが、肝心の自分は顏中笑つてゐる。
「あんた、一寸見て御覽なさい。」
越後は三田にさゝやいて、身を乘出して向の方をのぞいてゐる。
十分好奇心はあるにはあるのだが、顏を突出してのぞく丈の勇氣は無かつた。
「別嬪かい。」
と、てれかくしに云つてみた。
「さあ、別嬪いふ程の事もおまへん。なあ、おりかさん、あてやつたらお米さんの方がええ女子やと思ふが。」
「大貫さんに訊いて見なけれやわからないよ。兩手に花だもの。どつちもいゝつて云ふかもしれない。」
「大きい聲したらあかん。」
おつぎも大きなからだを部屋の中に運んで來て、暑苦しく双方から押合つて、二人は聲を忍びながら、全身を動かして笑つた。
もしもし龜よ龜さんよ
世界のうちでお前ほど
あゆみののろいものは無い
どうしてそんなにのろいのか
突然、縁側に出て居る看護婦であらう、讃美歌をうたふのにふさはしい細い聲で、幼いものゝ歌をうたひ出した。
「あなた、龜の子がゐてよ。」
「なに、龜がゐる。」
太い男の聲が部屋の中から應じて、これも縁側に出たらしい。
その聲に誘はれて、おつぎとおりかが馳出して行つた。
「あらあら泳いでゐる泳いでゐる。」
「あんた、來てごらんなさい。大きな龜が泳いでゐるんですよ。」
おりかは三田のところへ戻つて來て、促し立てる。龜の子よりも人間の方に興味を持つて、彼も誘はれるまゝに縁に出た。向ふの端の部屋の前に、先刻の男と並んで、宿の浴衣の胴中に、ちぎれる程伊達卷の喰ひ込んだ後姿を見せて、小柄な女が立つてゐた。欄干につかまつて半身乘出して見ると、目の下の川波にゆられながら、大きな泥龜が悠々と泳ぎ廻つてゐた。
三田の勉強心は妨げられてしまつた。ひとつ置いて向の部屋にゐた男女の、みだりがましい姿を想像すると、心はおちつきを失つてしまふ。最初の勢に似もやらず、夕方迄かゝつて十枚にも及ばなかつた。その癖すつかり疲れて、部屋のなかば迄もさし込む西日に辟易しながら、ぐつたりと疊の上に寢ころんでゐた。
「えらいお待遠さんで御座いました。」
夜食の膳を持つて來たのは、又別の女中だつた。三田は起上つて、大きな伸をした。長い間机にむかつてゐたゝめに、肩が凝つてゐた。
「折角のお休に大層御勉強ですな。」
小ぢんまりと悧巧な顏つきの、十八九に見えるのが、素早く机の上の原稿紙へ目を走らせて、御愛想をいつた。
「濟まないが一本つけて來て下さいな。」
「御酒だつか。」
凝つた肩を拳骨でやけに叩きながら、三田のうなづくのを見てとつて、素早く立つて行つた。
ほつそりと姿のいゝ、川魚の感じのする女だつた。
間も無く酒が來ると、
「どうか置いて行つて下さい。僕はうまれつき獨身者の性分と見えて、手酌が一番勝手がいい。」
と三田は眞面目な顏つきで、頼むやうにいふのである。
「あてのお酌ではあきまへんか。」
「決してそんなわけでは無いけれど、お酌をされると、どうしても勤氣が出て、何ていつたらいゝかなあ、つまりもひとつ味ないんだよ。」
「よかつたな。」
むつつりと愛嬌氣の無い三田の口から、大阪言葉を眞似したのが出て來たので、しんからをかしさうに笑つた。笑ふと金齒がきらきらした。
三田は親讓の酒飮で、これなくしては食慾の乏しさに惱む位だつた。まゝにならない下宿住居でも、晩酌だけはうまく飮み度いと念じて居た。何事につけても、他人に強ひられる事の嫌ひな性分で、お酌をして貰ふのを窮屈がるのも、彼にとつては切なるものであつた。
しかし相手は全く冗談だと思つてゐて、默つて引さがりはしない。
「まあ、そないな事云はんと、もひとつお酌させて貰ひまつさ。」
さういはれると、口數が少なく、且同じ事を繰返していふ事をしない三田は、つがれるまゝに飮む外は無かつた。
「あの越後の人はおりかさんで、もう一人の人はおつぎさんだね。君は何ていふの。名前を覺えて置かないと不便だから。」
「あてだつか。米と申します。」
わざと切口上で答へて、叮嚀に頭をさげた。
「年齡は?」
「もうおばあちやんだつせ。」
輕く首を横に振つて答へない。さういふ細かいところに、外の二人とは違つて、客商賣に馴れた人間の風情があつた。
「お米さあん。おゝい、お米さあん。」
ひとつ置いて向の部屋から、大きな聲で呼んだ。
「看護婦さんが歸らはつたので、御機嫌がわるおまんねぜ。」
くすつと笑つたが、もうひとつお酌をして置いて、
「一寸御免やす。」
といふと、なほしきりに呼び立てる三番へ、小走にかけて行つた。
三田はとり殘されて始めてゆつくりした氣持になつた。前の下宿とは違つて、手綺麗な料理で、酒も意外に結構だつた。手酌で飮んで、さつさと飯も濟ませてしまつた。
日が暮れると、對岸の家々の燈火が水に映つて、あたりの景色は一段と立勝つた。川風の凉しい縁側の椅子に腰かけてゐると、三番でお米を相手にくどくどと管を卷いてる男の聲が聞えて來る。
「あれえ、わるさしたらあかん。」
どたんばたん揉あふ物音につゞいて、陽氣に笑ふ聲も聞えた。
三田は夜の空を仰ぎ見ながら、旅愁を感じてゐた。
御旅館醉月は嬶天下だつた。亭主はおかみさんよりも年下で、或る工業會社の事務員を勤め、宿屋の事には一切口出しをしなかつた。朝は早く出勤し、夜はおかみさんの相手をして晩酌の盃をなめるが、到底太刀打の出來る柄では無く、女房の酒の濟むのを待つて飯を喰ふと、少しの分量でも長く醉を保つ酒に負けて、ごろりと横になつていゝ氣持でうたゝ寢をする。極端なだんまりやで、止宿人と顏を合せても、輕く頭を下るばかりで、口をきく事は殆ど無い。會社の同僚とのつきあひも無く、飮んだり喰つたり、見たり聽いたりの道樂も無い。たつた一つ、此の人にしてと意外に思はれるのは花合で、三百六十五日札を手にしない日は無い。その方の仲間が集つて來ると、夜どほし勝負を爭ふ事もある。さうで無いと、帳場をしまつて、湯に入つて、からだの樂になつたかみさんと、さしで遊ぶのがおきまりだ。
「あんた、二三年いきましよか。そないして居たら風邪引きまつせ。」
とおかみさんに搖り起される迄は寢てゐる。それから差向で十二時近く迄やつて居るが、亭主の方は勝つても負けても、うんともすんとも云は無いで、念入りに考へて札を打つ。おかみさんの方は勝つても負けても、一人ではしやいで喋つてゐる。猪の出るのは五段目やとか、ありがた山の時鳥とか、いづれあやめとひきぞわづらふとか、坊主まる儲けとか、出まかせな駄洒落を、年中繰返して居る。
おかみさんは、肉體的にも亭主を壓倒する力を持つて居た。胃弱者に見るやうな蒼黒い顏つきの、細つこい亭主にひきかへて、がつしりと恰幅のいゝ、顏色も艶々して、造作もはつきりしてゐるし、男性的の聲はあけつ放しの性質そのまゝであつた。若い時には何處とかの新地に出て居たとかいふ事で、その面影は多少殘つて居た。宿屋を始めたのは餘程前で、世話になつて居た人が死んでから、止宿人の一人と一緒になつた。それが今の亭主である。
おかみさんには子供が無かつた。女の子を一人貰つて育てゝ、今は十五になるが、後々呂昇はんのやうな娘義太夫にすると云つて、文樂の男太夫に本式の稽古をして貰つて居る。きりやうはよく無いが、おかみさんの實の娘だと云つても通りさうないゝ體格で、流石に咽喉の太さが目につくのであつた。おかみさん自身もなかなか顏を見せなかつたが、娘は絶對に客の部屋には出さなかつた。
おつさんおつさんと呼ばれて居るのは、おかみさんの母親の弟で、何をしても物にならず、身内の者に迷惑をかけながら六十近くなつてしまつた人間で、醉月にころがりこんでからでも數年になる。川岸を利用した上方風の、地下室とでもいふ可き風呂場をうけ持つて居る丈で、小遣錢を貰つた時は何處かに飮みに行くし、まるつきり懷中の空つぽの時でも、何處といふあて無しにうろついて居るやくざで、其の日其の日をもて餘し切つて居た。
外には若い料理人が一人と、おつぎおりかお米の三人の女中が居た。
「うちの女子衆は蟹みたいなもんや。ひつくりかへして見ん事には、雄やら雌やらわからへん。」
と、それがおかみさんの得意の冗談だつた。
客室は六つあつた。二階の川に臨む方に三つ、反對の往來の方に向いて二つ、階下に一つで、三田の占領して居る川を見下す六疊が一番、其隣の十疊が二番、大貫の居る八疊が三番、三田の部屋と廊下をへだてた八疊が四番、それと襖一重の六疊が五番、階下の六疊が六番だつた。
いつたいに夏場は閑散なので、時折一晩二晩泊る人があるばかりで、今では月極の三田と大貫の外には客が無かつた。
日がたつても、氣安く口のきけ無い三田は、宿の者に不思議な人間と思はれて居た。朝、會社に行つて、夕方歸つて來ると、湯に入つて一本飮んで飯にして、それから机にむかふと、そのまま十二時一時になるのが通例で、その間にお茶を飮む事も無く、手を叩いて人を呼んだ事は一度も無い。時々は他所で食事を濟ませて來る事もあるし、夜更に戸を叩くやうな事もあつて、そんな時には屹度深酒の香がしたが、別段足下もふらつかずに、さつさと二階に上つて行く。醉つても醉はなくても、だんまりむつつりで、味もそつけも無いのが、みんなにとつて氣づまりだつた。小言も言はず、注文もない、凡そこれ程手のかゝら無い客は曾て無いのだが、それがかへつて窮屈だつた。
「大貫さんみたいな好かん人無いわ。」
「醉ひたんぼで、いやらしい事ばかりいふて。」
と口々に惡くいひながら、三田などゝは比べものにならない程人氣があつた。醉ふと必ず手を握つたり、抱きついたり、引倒したりするし、夜更でも手を叩いて水を持つて來させたり、茶をいれさせたりするし、用事が遲いと怒鳴りつけるし、おまけに月末の勘定も溜つてゐるのだが、それでも會社の診査用で地方へ出張でもして、數日歸らない事があると、
「大貫さんは何時戻つて見えるのやろ。」
と誰かの口から、さも待佗るやうな言葉が漏れるのであつた。
「あて、三田さん何やらこわいやうな氣がしてかなはん。」
新客好きで、未だ見ぬ客の前に膳を持つて行く事の好きなお米さへ、三田の御給仕は二三度で懲りて、成る可く外の者に讓る事にしてゐる。
「あの眼がこわいのや。あて、あのやうに目ばたきせん眼を見た事無いわ。」
おつぎも多少同感で、直ぐに相槌をうつた。
「けつたいな人いふたらあれへんなあ。何いふても、ふんふん云ふだけで、あれで何が面白いのやろ。」
「用事があつたら何なりといふて下さいと云つても、用事は無いよと、こない云ははるのや。」
「かなはんなあ。」
と投げたやうに云ふものもあつた。
「あれでも女子を見たら、何とか思ははるやろか。」
「阿呆らしい。女子の嫌ひな男つて見た事無いわ。」
勝手な評定をしては笑草にしたあげくが、「けつたいな人」だといふ結論を繰返すばかりだつた。
何時迄も三田が「けつたいな人」の域を出ないのにひきかへて、彼の友達田原は、時々遊びに來ては、人氣を一身にしよつて行つた。
田原は三田と同窓であるが、持つて生れた熱情と、生一本の正直がわざはひして、方々の會社に勤めは勤めても、上役と衝突したり、職工の味方になつて株主攻撃の演説をしたりして、紡績會社でも、汽船會社でも、電力會社でも永續しなかつた。れつきとした父親と、親類うちに立派な政治家や事業家のある御蔭で、今は阪神間に在る車輛會社の專務取締役を勤めて居る。到底下役はつとまらないから、いつそ重役にして見ようといふ一門の考であつた。
「匙を投げた結果が重役か。」
と口の惡い三田は友達をいやがらせた。
始めて田原が醉月にやつて來た時は、素晴しく立派な會社の自動車で乘りつけた。
「三田公ゐますか。」
と玄關に立はだかつて、大きな聲で云つた。
「三田さんですか、ゐらつしやいますよ。」
飛んで出たのはおりかだつたが、おもてに待つて居る自動車を見ると、叮嚀に膝をついて改めて頭を下げた。
「ゐるなら上るよ。」
いふかと思ふと靴を脱いで、梯子段を先に立つて上つた。
「あら、そちらではありません。そつちははばかりです。」
うしろからついて來たのが、あわてゝ注意すると、
「あゝさうか、失敬々々。」
とざんぎりの頭を掻きながら眞赤になつた。誰憚らぬ高調子だが、その實ひどいはにかみやで、羞しがる度に白晳の面が眞赤になる。
「おい、靜かにしないか。外のお客さんの迷惑だ。」
友達の聲をきゝつけて、苦り切つた三田が部屋の中から廊下に出て來た。
「外に御客なんかゐさうもないぞ。なあ、姐さん。」
負惜を云ひながら、田原は早くも女中に親しさを示した。
「よう、素晴しい部屋だなあ。おまけに姐さん達が別嬪と來てるから、お城のねきの高等御下宿とは比較にならんぞ。三田公の月給では、月末が心許ないなあ。」
狹い部屋のなかを、洋服の長い脚で歩き廻りながら、床の間の松に鶴のかけものを、わざと叮嚀に見たり、縁側に出て川の景色を眺めたりした。
「まあ坐らないか。騷々しくて爲方が無い。」
「いや坐らないよ。三田公の新居檢分も濟んだから、これから新地へ御ともを仰せつける。たまにはうまい酒も飮ましてやらないと、東京にゐる三田公のお母さんに濟まないからなあ。姐さん、こいつのお母さんがねえ、田原さんせがれが大阪に參りましたら、ようく監督して下さい。どうぞ一人前の人間になれるやうに目をかけて下さいと、涙を流して頼んだものだ。こんな強突張でも、我子となると可愛いゝんださうだ。」
「いゝ加減にしないか。暑苦しいふざけ方はよしてくれ。折角湯から上つたところなんだ。」
おりかが腹を抱へて笑ひこけてゐるので、一層三田は不機嫌になつた。
「よし、それでは支度しろ。自動車が待たせてあるんだ。」
「いやだ。今日は此處でうまい酒を飮ましてやらう。おりかさん、此の社長さんにお膳を出してやつて下さい。」
「さうか。こいつはいやだと云ひ出すと始末の惡い奴なんだ。よしよし、社長さんも下情に通じとく必要があるからなあ。」
田原は淡白に同意して、廊下に出て行つたと思ふと、梯子段のところから階下に向つて、大きな聲で叫んだ。
「おゝい、小笠原。自動車歸つてよおし。」
階下に下りて來たおりかは、帳場にゐる者に面白いお客さんとして田原の事を紹介した。
「立派な自動車に乘つてゐらつしやつたが、社長さんだつて事ですよ。」
「へゝえ、社長さん? 三田さんの會社の社長さんか。」
おかみさんも乘出してきいた。
「その癖ちつともたかぶらない、面白い事ばかり云つてゐて、三田さんの事でも三田公三田公だつてさ。」
おりかは苦虫を噛みつぶしてゐる三田の樣子迄も想ひ出して、外の者をうらやましがらせる程笑つた。
御膳が揃ふと、
「あても行て見よ。」
お米もおりかの後について、一つ宛運んで二階に上つた。
「いよう、こいつあ驚いた。俺も此のうちに宿替しよう。」
田原は仰山に後へ身を反らした。羞しさをまぎらす爲めには、どうしても冗談口をきかなくてはゐたゝまれないのであつた。
「なんですの。あての顏になんぞ書いておまつか。」
自分のきりやうに十分自信のあるお米は、うつすり化粧した顏をあかりの方へ向けた。
「書いてあるとも。シヤンと書いてある。」
「いやあ、惡いお方。そないな事いはれるのやつたら、あつちへいにまつさ。」
わざと立上らうとするのを、
「ううう、待つてくれ、待つてくれ。もう何も云はんからお酌お酌。」
拜むやうな手つきをして引とめて、盃を取上げた。二人の女は、それが社長さんだと思へば一層をかしくて、脇腹を抑へて笑ひ倒れた。
三田は額に八の字を描いて、默々として盃を重ねてゐた。彼は友達の肚の底迄知り盡してゐた。此の男は、正面の切れない人間なのだ。てれかくしに下手な輕口を叩いてゐるうちに、止度が無くなつて、自分でも困つてゐながら、きれいに切上るうでが無い。その弱味をかくす爲めに、又ふざける。俺のやうな重苦しい根性もよくないが、此の男の態度も面白くない。──彼はそんな事を考へてゐた。
「三田公、此の酒は飮めるよ。お前の宿だから、どうせ高等御下宿程度だらうとたかをくくつて來たが、こいつあ掘當てたぞ。實際いい酒だ。」
「そんならもう一つ。」
「いかんいかん、俺はお米さんのお酌でなければ飮まないよ。おりかさんは三田公の方についでやつてくれ。」
「あらやだ。社長さんはそんな惡口なんかいふもんぢやありませんよ。」
「あんた、三田さんとこの社長さんだつか。」
どうも樣子が社長らしく無いとも思はれるし、社長だとするとお酌甲斐があるやうな氣もして、お米は膝を乘出した。
「うむ、三田公んとこの社長さ。こいつの首を切らうとも、月給をあげてやらうとも、此の胸三寸にあるんだ。」
上着をぬぎ捨てたホワイト・シヤツの胸を叩いて見せた。
「ほんまだつか、三田さん。」
「ほんまだ。」
三田は面倒くささうに首を縱に振つた。
豪酒の三田は何時迄も盃を放さなかつたが、田原は急ち醉つてしまつた。
「さあ、外にも別嬪がゐるなら連れて來い。お家内はんも御寮さんも娘はんも呼んで來い。何んでえ、何んでえ、三田公。下らねえ面あしやあがつて、眼玉ばかり光らせてやあがら。」
わけのわからない事を、本性たがはない生醉ひで、持前の甲高い聲で怒鳴つてゐたが、夙に分量を過した酒に背骨がしやんとしなくなつて、いきなり眞後にぶつ倒れたまゝ、鼾をかいて寢てしまつた。
田原が三田の勤務先の社長で無い事はわかつたが、立派な車輛會社の重役だといふ事で、少なからず宿屋の尊敬をうけ、そんな地位の人があゝ迄碎けてゐるといふのが、一段と人氣を集めた。その御蔭は三田もかうむつた。車輛會社の重役で、自動車を乘廻す人を友達に持ち、對等のつきあひをして居るといふのが、何となく重味をつけ加へる事になつた。
「社長さんどないしてはりまんのやらう。面白い方だんな。」
徹頭徹尾、別嬪でシヤンだトテ・シヤンだとおだてられたお米は、殊に田原贔負だつた。
「ああ見えて、あの男程眞正直な人間も少ないし、あれ程内氣な奴も無いんだぜ。」
當の本人のゐない時は、三田はしきりに其ひととなりをほめたが、その批評は女達には信じ兼る事ばかりだつた。正直だとか、内氣だとか、涙脆いとか、人がよすぎるとか、品行方正だとかいふのは、みんなの期待する事では無かつた。それよりも、氣さくだとか、さばけてゐるとか、冗談ばかりいふとか、面白い人だとか、さう云ふ美徳であり度かつた。
「いつしよに學校を出やはつたのやさうやが、矢張出世する人は何處か違ふたるなあ。」
帳場にゐるおかみさん迄も、三田と比べて田原の性質をほめ度がつた。
その田原が二度目の訪問は、全くみんなの待遠しがるところだつた。
或晩遲く、田原から三田に電話がかゝつて來た。
「もしもし、僕三田です。」
「あんた三田さんだつか。えらいお久しおまんなあ。」
と答へたのは女の聲だつた。
「田原さんでは無いのですか。」
「田原さんも此處にゐてはります。あんた、あてだんが。」
北の新地で蟒とあだなを取つた女だつた。田原の會社の取引先の宴會で、これから二次會といふところだが、つまらない連中だから逃げ出して、外のうちでゆつくり飮むから、出て來いといふ電話だつた。
「今晩は駄目だ。僕は書物が忙しいから失敬すると田原に云つてくれたまへ。第一もう十時過ぎだぜ。」
「十時だつて十二時だつてかめしまへん。三田公とも云はれるものが出て來んなんて卑怯だつせ。」
何時もの事だが、蟒は十二分に醉拂つて居るらしい。
「あゝ卑怯だとも。さよなら。」
三田は面倒くさくなつて、さつさと電話を切つてしまつた。部屋にかへつて書きかけの原稿を續けたが、間も無くおもてに自動車がとまつて、田原の高調子が筒ぬけに聞えて來た。
「やあ、今晩は。いようお米シヤン。相變らず綺麗やなあ。」
どしんばたん梯子段を上る入りまじつた足音がしたが、襖をあけて先づのめずり込んだのは、蟒だつた。
人にすぐれて背の高いのが、ぐでんぐでんに醉拂つて、長々と疊の上に身を横たへた。田原も酒でくたびれて、床柱に上半身をもたせかけ、兩足を前に投出して、今にも舟を漕ぎさうな有樣だ。
「姐ちやん、お酒おくんなれ。あつうくして。」
「いけないよ。此處は待合ではないんだ。こんな夜更に醉拂が飛込んで來る丈でも迷惑なんだ。」
三田は洋筆を置いて、手のつけられない相手をたしなめてみた。
「えらい濟んまへんなあ。そやけどなあ、そないえらさうに云はんかてよろしおまつしやろ。夜更でも夜あけでも、人を泊めるのが宿屋の商賣だつせ。」
「そりやあ人を泊めるのは商賣だらうが、これから酒を飮むのは營業妨害だよ。外の御客に申譯が無い。」
「かめへん、かめへん。あんたは飮まんかてよろしい。そんな卑怯もんはほつといて、あては車掌さんと飮むのや。姐ちやん、一本二本飮んだかてかめしめへんなあ。」
「えゝえゝ、どうぞたんと上つとくれやす。」
お米を始め三人の女中は、廊下に立つてあつけにとられて居たが、うなづきあつて階下に下りて行つた。
酒が來ると、蟒はコツプを求めて、
「さ、三田公。むつかしい顏せんと飮みなれな。あんたのえゝところは酒の飮つぷり丈や。外に木は無い、えゝ笹ばかり。こりやこりやと。」
ぐぐぐぐつと半分ばかり飮んだのを、三田の鼻先へつきつけた。
「おい、田原。寢ちまつちやあ困るよ。」
果してこくりこくり居睡を始めたのをよび覺まして、
「爲方が無いから此のコツプは飮むが、飮干したら歸つてくれ。人騷がせは嫌ひなんだ。」
とまだしも正體のある友達の方にいひきかせて、蟒の手からコツプを受取ると、一息に干してしまつた。
「あかんあかん。そんな半分しかない酒なんか飮んだら、三田公の名折れだつせ。」
蟒は手を叩いておかはりをいひつけて、又なみなみとついだのを強ひた。三田は何もいはずに、それも亦一息に飮んでしまつた。
「さ、田原。約束通り歸つてくれ。」
「歸る。おい歸るよ。」
田原はふらふら立上つて、一人で部屋を出て行つたが、蟒はおちつき拂つて、手酌でコツプ酒を浴びて居る。
田原は危ない足どりで梯子段を下りて行つた。
「社長さん、お歸りだつか。あんたの御つれさんは?」
「あいつは三田公に惚れてやあがるんだよ。うつちやつとけ、うつちやつとけ。」
女中達に見送られて、待たせてあつた自動車で行つてしまつた。
「えらいげいこはんがあるもんやなあ。」
「あの人ほんまに三田さんに惚れてゐやはるのやろか。」
「えゝ取組やし。」
勝手な事を云つてゐたが、すつかり好奇心をそゝられてしまつた。十二時を聞いて大戸をおろした時、おりかは足音を忍んで二階に上つて行つた。三田の部屋をひそかにのぞいて見ると、女は疊の上に眞うつむけに寢てゐたが、三田は机にむかつて、何かせつせと書いてゐた。
翌朝早く、おりかは目が覺めると直ぐに、再び三田の部屋をのぞいて見た。ほのぼのと朝の光のさし込む部屋のなかで、女は三田の男枕をして、足の方には夜着をかけて熟睡してゐたが、三田は昨夜と同じ姿で、机にむかつて書きものをつゞけて居た。
例年よりも、一層堪へ難い夏だつた。一番の部屋も、朝のうちこそ川風が凉しいが、夕方三田が會社から歸つて來る頃は、西日の眞盛で、川水もどんよりと澱み、部屋いつぱいに差込む日脚を除ける爲めにカアテンを引くと、風は少しも通さない。西日の室のやうな部屋に歸るのは氣が進まなかつたが、會社に居る時間も辛かつた。心懸が惡くて、未だに間着の紺サアジを着て、汗みどろになつて居たのである。
嚴格な家に育つて、學生時代は、どんな儀式があらうとも、薩摩綛の着物に小倉の袴ときめられて居た。大學を卒業した時、始めて世間並の春夏秋冬の衣類を一通こしらへて貰つたが、其後月給取になつてからは、全く親の扶助を絶たれてしまつたので、自分の取高では、到底着物なんか出來るわけが無かつた。卒業の時にこしらへて貰つた着物が、年々着古されて行くばかりで、新しいものは一枚も殖えなかつた。元來衣類には無頓着だつたから、盆暮の賞與が手に入つても、着物をこしらへる考にはならないで、みんな酒になつてしまつた。
夏になると、勤人は一齊に、白いずぼんに白い靴、アルパカか何かのぺらぺらした上着を着て、凉しい顏をして居るのが普通だが、三田は四月頃から引續いて、たゞ一着の紺サアジだつた。
今年こそは盆の賞與で夏服をつくらうと、兼々望んでは居たのだが、洋服に廻す丈の餘裕が無く、結局我慢してしまつた。どうもあのぴかぴか光るアルパカや、縫ぐるみの狐のやうな白ずぼんに白靴も、いゝ好みでは無いと、負惜みはいふものゝ、紺サアジの色の褪せた間着姿も、決して見た目のいゝものでは無かつた。どうしても原稿を稼ぐ外に途は無いと決心だけはしたものゝ、一編の小説を組立るのは、なかなか容易の事で無かつた。毎晩々々机に噛りついて、全身汗になつて苦勞してゐるうちに、何時しか七月もなかばになつた。
毎日紺サアジを氣にしながら、會社に出ると、一齊に上着を脱いで仕事をしてゐる事務室の中で、たつた一人自分丈が、白鷺の群にいぢめられる鴉のやうだつた。
洋服が汚なく、且時候違ひであるばかりで無く、靴もひどかつた。かけがへが無いので、ぱくぱく口の開いたのを我慢して穿いてゐたが、全く絶望になつたので、此の方は金高も洋服に比して遙かに少ないので、何時も會社のゆきかへりに前を通る靴屋で、半靴をあつらへた。
一週間たつて、宿へ屆いた靴を穿いて見ると、まるつきり大きさが違ふ。
「これはをかしい。これでは歩けやあしない。」
宿屋の土間で、引擦るやうな足取で二三歩運んでみた。
「あらやだよう。なんて間拔な靴屋なんだらう。他所のうちに持つてくのと間違へたに違ひ無いよ。」
その靴を靴屋の小僧から受取つたおりかは、頓狂に叫んで笑つた。額に立皺を寄せて、不機嫌そのものゝやうな三田が、重たさうに足を引擦つてゐる姿がいゝ笑ひものだつた。
元の通り箱に納めたのを抱へて、三田は會社の行きがけに靴屋へ寄つた。
「此の靴は誰か外の人の注文したものでは無いだらうか。ためしに穿いてみたところが、二廻も三廻も大きくて、とても歩けやあしない。」
店頭で仕事をしてゐる主人らしいのに、箱から取出したのを見せた。
白地の仕事着のむざんに汚れた膝の上に、出來かゝりの踵の高い女靴をのせて、丹念に檢分してゐた爛目のおやぢは、鐵縁の眼鏡をかけ直して、佛頂面をして出て來た。何の挨拶もしずに、暫時靴を取上げて、三田の顏と見比べて居たが、
「違ふ事あらへん。」
と獨言のやうに無愛想な口をきいた。
「だつて穿いて見せればわかるが、まるでぶかぶかだぜ。此間寸法を取つたのは、若い人だつたが、あの下圖つていふのか、足型といふのか、あれを出して見ればわかると思ふが。」
おやぢは面倒くさゝうに手を延ばして、仕事臺の下から雜記帳仕立の寸法帳を取出した。
「お名前は。」
「三田。」
いちいち指先を舐めながら、一枚々々めくつて、
「違ふ事あらへん。三田樣とちやあんと書いてある。」
さう云つて、ぽんと帳面を叩いて向ふに投出した。
「よし、そんなら穿いて見せよう。」
三田は相手の強情らしい、不精髯のまばらな顏を睨むやうに見ながら、店口に腰をかけ、自分の破靴を片方だけ脱いで、新しいのを穿いて見せた。
「見給へ。こんなにだぶだぶしてゐるぢやあないか。出來あひならば知らないが、あつらへて寸法を取つたものが、これ程大きさが違ふ筈がない。これは屹度外の御客のだぜ。」
「いんえ、違ふ事あらへん。寸法もきちんと合ふてある。」
もう片々の靴を顏の高さ迄持上げて、出來上りに滿足してゐるやうな目つきをして見てゐる。
「寸法があつてるつて? そんなら寸法の取違ひか。それにしても餘り違ひ過ぎるぢやあないか。」
「うちは此の商賣を二十年からやつてゐるが、寸法違ひなんて事は、一度もあらしめへん。」
「だつて此の通り足に合は無いぢやあないか。」
不死身のやうなおやぢのわからずに苛々して、三田はぶかぶかの靴を穿いてゐる足に力を入れて空を蹴つた。しまつたと思ふひまも無く、紐はしつかりと結んであるのに、大きな靴はすぽんと脱げて、恰度店の前で遊んでゐたお河童の女の子の横面に飛んで行つた。
不意を喰つて女の子は、おびえた顏をして三田の方にふりかへつたが、いきなり大きな聲で泣出して、店のなかに馳込んで來た。驚いて立上つた三田の側をすりぬけると、奧の間に消えてしまつた。其處には母親がゐるのであらう、何かいふ女の聲につれて、泣聲は一段と高く聞えた。
三田はちんちんもがもがで、往來の靴を拾つて來た。すつかり恐縮してしまつた。
「これでは爲方が無いから、間違ひでないのなら直してくれたまへ。」
さう云つて、あわてゝ自分の破靴を穿いた。
「置いて行ておくんなれ。」
おやぢは愈々佛頂面をして、いひ捨てたまゝ仕事臺の前に戻つて、どつかりと胡坐を組んだ。それつきり、仕事にかゝつてしまつた。
その日の夕方、三田は同僚の一人と途中迄連立つて歸路についた。靴屋の前を通るのは心がひけたが、運惡く今朝の女の子が、二三人の友達と、大きな毬を股ぐらをくぐらせくぐらせ突いてゐるところだつた。
ころころと轉がつたのを追かけて、往來のまん中に馳出して來たお河童が、ひよいと顏をあげて三田を見ると、ばたばた店の中へ飛んでかへつて、
「阿呆。」
と叫んだ。畜生と思つて振かへると、店の中の仕事場から、おやぢの爛目が睨んでゐた。
それつきり、三田は靴屋の前を通るのがいやになつた。
四五日たつて、靴は又屆けられたが、入口が少しばかり狹くなつた丈で、大きい事には變りが無かつた。堅く堅く紐を結んでも、靴箆も指先の援助もかりずに、穿く事も脱ぐ事も出來た。それは便利だが、一歩々々歩く度に、足のうらから風が吹くやうな氣持がする。どうしても、靴屋が他所の注文に應じて作つたのを間違か、故意にごまかして寄越したか、若しさうで無いとすると、最初は飛んだ間違ひをしたが、今ではいつたん張り出した強情だから、あく迄もそれを押通さうとするのであらう。それだと尚更憎む可きである。どうしてももう一度直させるか、これを突返して新規に作らせるか、どつちかにしなければならないとは思つたが、すぽんと脱げた靴が女の子に當つた時の、自分の大人氣無い姿を思ひ出すと、三田は再びあの靴屋の店に足踏みする氣にはならなかつた。
赤禿の、まばら髯の、爛目のおやぢの佛頂面と、お河童の女の子の青んぶくれの顏を思ひ出して、其のぶかぶかの靴の踵で踏躪つてやり度かつた。そんな靴をおめおめ穿いてゐる姿を、靴屋のおやぢに見られ度くなかつた。三田が遠廻りして會社へ通ふ心持は、ひとしほ深くなつた。
みちをかへてから、殆ど毎日出あふ娘があつて、三田は遠廻りを少しもいとはなかつた。何故もつと早く、此の道を撰ばなかつたかと思つた位、最初から其の人に心を引かれた。年齡は十七八か、まだすつかり發育し切らない、いはゞ八分目位大人になりかけたみづみづしさだつた。あんまり多過ぎない髮は何時も銀杏返で、洗ひざらした單衣ものに、めりんすの帶をしめた哀れつぽい姿の、うしろつきがひどくよかつた。彼の學生時代に、萬龍靜江などゝ並び稱された繪葉書美人の濱勇といふのに、優しさと憂ひを含ませた顏立ちだつた。
此の人に對して、三田は紺サアジとぶかぶかの靴には全く閉口してしまつた。大概出あふ場所は朝も夕方も同じで、裏通りの餘り廣くない町筋を、向ふから來たと見ると、たゞさへ歩きにくい足もとは、一段と重たくなつて、凉しい風の通る朝の日蔭にも、彼は背中迄汗になつた。
段々近づいて、擦れ違ふ時は、三田は動悸が高く打つて、無闇に足が早くなる。先方は年頃の娘によくある稍伏目の姿勢で、電信柱とすれすれに、はじつこの方を通つて行つて了ふ。中肉中背といふよりも、ちつとばかり丈の高い後姿丈が、三田の憚りもなく見送るところだつた。みなりの粗末なのに似ないで、いつも洗ひ立ての足袋を穿いてゐるのが、殊の外三田の好みに媚びた。
その娘が、どういふ身柄であるか、なかなか見當がつかなかつた。すべての樣子は、町かたの貧しい家の娘で、母親の手助をしながら御針でも内職にしてゐさうな風だが、毎朝毎夕同じ時刻に同じとこで逢ふところから考へると、矢張何處かの會社か銀行に勤めてゐるのかもしれない。それにしては、近代の社會的經濟的産物なる所謂職業婦人の型にははづれ過ぎて居る。そのはづれて居るところがいゝのだが──と三田のあたまには、その娘のことが絶えず浮んでゐた。
三十を越して一人でゐる三田は、自分自身は獨身の氣安さを惡く無く思つて居るが、兩親、殊に母親は、一日も早く嫁を持たせ度いと思つて、今迄にも他家の令孃の寫眞などを見せた事もあつた。しかし、三田には令孃趣味がちつとも無かつた。同年輩の文學者などが、令孃崇拜だとか、讃美だとか、女學生はとても堪らないなどゝ昂奮した筆致で書いたり、唇を乾かして喋つたりするのを、何か眞實で無い心持のやうに思つてゐた。すつかり親に庇護されて、自分自身には何の力も無いくせに、いやにつんとすまして居るのがいやだつた。あのなか味はからつぽの氣位が堪らないのだ。
そんなら、又他の小説家や、彼の會社の連中などが夢中になる程、玄人の特徴も頂けなかつた。お座つきの如くきまりきつた洒落のやりとりや、何もわからないお客相手の藝事に得意になつて、先祖代々贅澤をしあきて來たやうな顏をしてゐる藝者の、何處が粹なんだか、すつきりしてゐるのだかわからなかつた。
子供の時分の事で、戀とはいへないが、うちの近所の鹽煎餅屋の娘を、ひそかになつかしく思つてゐた事がある。その娘は、あひにく藝者になつてしまつたが、次には菩提所の門番の娘に同じ心を寄せた。つまり、素人だらうが玄人だらうが、値うちも無いくせに、おもひあがつてゐる奴が嫌ひなのだ。
その點で、朝夕往來であふ娘は、ぴつたりと彼の好みにはまつたのである。澤山見かける職業婦人が、耳かくしだ、七三だと新規を競ひ、寢卷のやうな洋服を着て見たり、白粉と紅丈ではいくら濃く塗り立てゝも滿足出來なくなつて、まゆずみを使つたり、黒子を描いたりしてゐるのに、あの娘は何時もつくろはぬ銀杏返で、白粉も刷いてゐるかゐないかわからない位だ。はでな日傘をさし、手首には人造石のぴかぴか光る手提鞄をぶらさげるのが多いのに、あの娘は色の褪めた洋傘をつぼめたまゝ手に持つてゐる。日があたつて暑い時など、半巾で顏を押へてゐる事もあつたが、その傘は矢張開かれなかつた。あんまり古びてしまつたので羞しくてさせないのかと想ふと、一層いとしかつた。自分の紺サアジとぶくぶく靴にひきくらべて、その羞しさは底の底迄同情する事が出來た。何とかして先方でも、自分の紺サアジに同情してくれないだらうかと考へて、あまりの馬鹿々々しさに赤面した事もある。
何といつても、先方は此方の存在を認めてゐないのが物足りなかつた。つゝしみ深い性質なのであらう、曾て一度も、ゆきあつてから振返つた事が無い。少なくとも、三田は何時でもふりかへつて、娘の後姿を十分享樂するのだが、先方の視線とかち合つた事は一度も無いのだ。
彼は自分の容貌の、女の目をひく丈美しく無い事を忌々しく思つた。
或日、勤務先に田原が立寄つて、結局三田の宿で一緒に飯を喰ふといふので、連立つて來る途中、いつものとほり、銀杏返の娘にあつた。
「えゝ娘やなあ。」
擦違ふと直ぐに、田原はおどけた調子で云つて、目をまるくして見せた。
「なんでえ、三田公。あかくなつてやがら。」
田原は三田の背中を思ひきつてどやしつけた。
「忍ぶれど色に出にけり我戀はかなあ。」
あくまでも弱味を見せまいとする三田の根性は、さも平氣らしくつぶやかせたが、その癖彼は一層顏が赤くなつて、無闇に半巾で汗を拭いた。氣のいゝ田原は別段追及もしないで、一緒になつて笑つたが、三田は内心閉口してゐた。しかし、どうして不覺にも顏を染めたか、俺の心は本氣かなと、三十男のづうづうしさで、自分を遠方に置いて考へる餘地があつた。
「今日はあ。お米さんはどないしてはる。」
「まあま、うちの社長さんだつか。」
あるじの三田はそつちのけで、
「さあ、お米さんの御酌で飮みましよか。酒だ、酒だ。」
と甲高い聲を張上げる。
「あんさんはそないえらさうに云ははつてもあきまへんなあ。せんどみたいに醉ふてしまふたら、どもならん。」
「あれは爲方が無いよ。タンク見たやうな三田公や、名にし負ふ蟒を相手にしちやあ、とても堪らないよ。わいはお米さんと二人で、しんみり飮み度いんだ。」
「蟒さんかいな。あの御方は面白い御方だんな。」
「すこし面白過て弱るんだ。あいつは物好きで三田公に惚れてやあがるんだぜ。此間の晩も俺をだしにつかつて、泊つてゐきやあがつたんだらう。」
「おい、おい。人ぎゝがよ過るぜ。泊つて行つたといふと色つぽいが、蟒のはとぐろを卷いて行つたんだからひどいよ。」
三田は紺サアジを浴衣に着換へながら口を挾んだ。
「あてら、あの御方さん社長さんの御てかけさんかと思ふてましてん。」
「ところがあいつは變物だから、夏も冬服を着てゐる三田公のやうな甲斐性無しと腐れあはうつていふのさ。變物は變物同志、こつちはお米さんと……」
「あれえ、わるさしたらあきまへん。」
それをきつかけに、お米は御膳をとりに行つた。
酒が來ると、田原は一層はしやいで、高調子のお喋は止度が無くなつて來る。
「なあ、三田公。先刻の娘はん素敵やつたなあ。」
すつかり忘れてゐたらうと思つたのが、又からかふたねになつた。
「お米さん、三田公はねえ、こんなおつかねえ面あしやあがつて、他所の娘はんに參つてゐやあがるんだぜ。物やおもふと人の問ふまでなんて、自分で云つてやあがるのさ。」
彼は面白がつて、途上で見た娘の美しい事、三田が羞しがつて赤くなつた事などを、一流の大袈裟な話ぶりできかせた。
「何を云つてるんだい、往來でゆきちがつたばかりぢやあないか。」
三田は默々として飮んでゐたが、何となし思ひ當る心持がして、つい眞面目に取消す氣になつた。
「へえ、三田さんみたいな方でも、戀わづらひいふ事おまつかいな。」
お米は仰山に後へ反つて、ほんとに驚いたやうに三田の顏を見た。
三田は又不覺にも顏の赤くなるのを止め兼た。
田原が尾鰭をつけて話して行つたのを、宿の者は勿論信じはしないのだが、全く變人あつかひにして居る三田をからかふには、けつく面白い材料だつた。
「三田さん、あんたその娘さんに、毎日道で逢ふてゞすの。」
「毎日つて事も無いけれど。」
「何處の娘さんです。」
「知らない。」
「何處ぞへ勤めてゐやはるのと違ひまつか。」
「それもわからない。」
「たより無い戀やなあ。」
そんな事を、三田の顏さへ見ればいふのであつた。それはお米ばかりでは無く、更に傳へ聞いたおりかもおつぎも、面白がつてからかつた。しまひには三田の方も此の話に擦れ切つてしまつて、
「今日は朝も晩も逢へなかつたから、氣持が惡い。」
とか、
「今日はゆきにもかへりにも逢へたから、御銚子のおかはり。」
などゝいふやうになつた。
あんまりのべつに安つぽくからかはれ、自分も冗談口のたねにしてゐるので、ひどくふざけた心持になつてしまつたが、それでも三田の本心は、もつとその娘の事をよく知り度いと思つてゐた。
何時も出あふところは同じだが、それからさきはどつちの方角に行くのか、つけて見度いとも思つた。夕方かへりみちを待ちうけて、何處に住んでゐるか、どんな家なのか突とめ度いとも思つた。しかし、さういふ輕々しい行ひをしては、つゝましやかな娘に對して申譯無いなどゝも考へた。
その娘と出あふ道が、一週間ばかり水道工事の爲めに片側往來止になつた事がある。いつもは西から東へ行く三田と、東から西へ來る娘とが、双方左側の端を通るのであつたが、片側通行止の御蔭で、擦れ擦れに擦れ違ふ事になつた。三田は汗臭い紺サアジを氣にしながらも、娘の胸のつゝましやかなふくらみや、まつげの長い目の特徴などを、前よりもはつきりと認めたばかりでなく、右の耳の下に黒子のあるのも發見した。
たゞさへ工事の爲めに狹められたところへ、荷車が通りかゝつて、恰もゆきあつた娘ともろ共に、電信柱のうら側へよけなければならなかつた時は、娘の袂が彼の手に觸れて過ぎた。三田の心持の上で、その袂は人肌のやうに彈力のある感觸を殘して行つた。三田は自分の手の中に、何時迄もその感觸をとゞめて置き度かつたが、もとより愚な願ひだつた。兒戲に類するとは思ひながら、その手の甲を唇に持つて行つた。自分の汗の鹽辛さの外には、何等の味も無かつた。
水道工事が濟んで、道の廣さが元の通りになると、三田と娘とは、向側と此方側との端と端を歩く事になつた。なんとなく往來の幅が、廣くなつてしまつた氣がして、掘かへされた土の色のまだ生々しいのに、ばらばら蒔いた小砂利の上を、三田はぶかぶかの靴で、やけになつて踏んで行つた。
八月に入ると、三田は休暇を貰つた。一年間に二週間を公休日とする會社の内規だつた。久振で東京に行つて見ようかとも考へたが、此の休暇を利用して長編小説を書上げてしまはないと、これから年末迄の生活費にも小遣錢にも困る事は明かなので、肚を据ゑて籠城ときめた。
「三田さん、あんたお休みにも御勉強だつか。湯治か海水にでもいんだらどうですか。」
と訊かれると、肩身の狹いおもひをした。此頃──殊に大阪では──休みといへば何處か、海か山に遊びに行くのがはやりなのに、狹くて暑い一室にとぢ籠つて、原稿の上に額の汗が落ちて洋墨の滲むやうな事も度々ある有樣は、なさけなくもあり、又悲壯でもあつた。
宿の人は、彼が小説を書くといふ事は知らないので、何か會社の仕事を持つて歸つてしてゐるのだらうと考へて居た。本を讀むとか、字を書くとかいへば、すべて勉強といふほめ言葉をあてはめるのがおきまりだから、ふだんは氣ぶつせいな、とつつき場の無い三田ではあるが、矢張うちに居る人だといふ一種の贔負から、他人にむかつては、勉強家といふ一點でしきりにほめた。
「うちの一番の御客さんなあ、あんな感心な人も珍らしおまつせ。朝から晩までちいんと机の前に坐つて、あてらにはわからんむつかしい事書いてゐやはるわ。夜は夜で、十二時前に寢床に入らはつた事は無いのやで。一時二時になる事も珍らしい事あらへん。」
とおかみさんが第一に、自分の友達や、御花の仲間や、時には出入の車屋や、八百屋にまで自慢した。
それにひきかへて、三番の大貫は、朝は十時頃に起きて會社に出て行き、市内の診査をかこつけに早々歸つて來てしまふ事もあるし、さうかと思ふと會社の方のおもてむきは地方へ出張する事にして旅費と日當を貰ひ、實は半分は宿に寢てゐたりする事もあつた。
「大貫さん、あんたも三田さんのやうに早うに起きて出勤せんと月給が上りまへんで。」
などゝ、女中のおこしてゐる聲の聞えて來る事もあつた。
「あんたも三田さんを見習ふて、まちつと勉強したらどうですの。」
「三田さん三田さんと、若い男ばかりちやほやしやあがつて、怪しからんぞ。俺樣だつて勉強してゐるんだ。いゝかい、そもそも醫學上男女といふものはだね……」
「きやあ、誰ぞ來てえ。大貫さんがてんがうしやはるし。」
蒲團の中へ引擦り込まうとするのであらう、どたばた騷ぐ物音の、手に取るやうに聞えて來る事もあつた。
相變らず看護婦が泊りに來る樣子だつた。おりかの話では、お米もお相手をさせられる事もあるといふ事だつた。
「あのお米さんて人が、若いくせに大變なんですよ。なんでも十四の年から男を知つてゐるんだつて事だものねえ。」
自分達とは比べものにならない程きりやうもよく、すべてに悧巧ではしつこいのに對し、おりかとおつぎは攻守聯合の形であつた。
看護婦は小柄ながらに、眉毛の濃い目のはつきりした、口の締つたきつい顏で、いかにも度胸のよさゝうな女だつた。男のところへ泊込みに來ても、誰をも憚る色が無かつた。廊下であつたり、縁側の籐椅子に腰かけてゐると先方も縁側へ出て來たりして、三田も屡々顏を合せたが、先方の方がおちつき拂つてゐて、此方の方が目をそらす位だつた。女中などには無闇にいろんな用事をいひつけ、たまには大貫にかはつて、小言をいふ事もあつた。
大貫の妻だといふ、ひよろひよろと背の高い、生際の薄い、出齒の女も見た。別れてゐる夫に逢ひに來る爲めか、夏の盛りだといふのに、眞白に白粉を塗り、着物の好みなども派手だつた。
その日三田は何時もの通り、縁の籐椅子に腰かけて新聞を讀んでゐたが、夫人は三番の部屋から何氣なく出て來て、思ひもかけぬ人間に驚いて直ぐに引込んでしまつた。何かひそひそ話をしてゐたが、風の無いむし暑い日なのにも拘らず、やがて障子をしめてひつそりしてしまつた。
「いつも寢床敷いてやすんで行かはるのだつせ。」
と女中の云つたのを思ひ出して、三田は淺ましくも耳を鋭くしてゐた。
或日の如きは、夫人は四才か五才ばかりの男の子を連れて來た。
「さ、あんたは縁で遊んでおいで。」
といふ聲と共に、矢張り障子はしまつてしまつた。とことことことこ小刻にかける足音がしたと思ふと、せつせと原稿を書いて居る三田の目の前に、母親に似て上唇の厚ぼつたくとんがつたひよわさうな子供が、口尻によだれを垂らしながらあらはれた。たゞさへ子供好きのしない三田の顏を、怖さうに見てゐる子供の樣子は、可愛らしくなかつた。殊にその親どものふしだらにむらむらしてゐる三田の大きな眼玉は、おのづから子供を睨むやうだつた。
子供は口の中にキヤラメルか何かを含んでゐるらしく、白いエプロンに落ちるよだれは桃色だつた。來る途で買つて貰つたのであらう、ヂグスのやうなぢいさんの乘つてゐる自動車のおもちやをしつかりと胸に抱いてゐた。ぢいつと三田の顏を見返してゐたが、くるりと方向を轉換すると、たどたどしい足取で逃げて行つた。
ほつとして、机に向直ると、間も無く又とことことことこ馳けて來て、ばあとでもいひ度さうに、三田の眼の前に姿を出す。此方が愛想笑でもするのを待構へてゐるやうな樣子だつたが、三田は怖い顏をして追拂つた。けれども同じ事を繰返すうちに、子供の遊戲心は反覆の律動にぴつたりとはまつてしまつた。三度目に來た時は、大事に抱いてゐた自動車を、三田の部屋と縁側との間の敷居の溝に走らせて見せた。その小ざかしさが憎らしくて、畜生と思ひながら、三田は大袈裟に拳骨を振上げて脅して見た。ところが、その誇張した動作が芝居じみてをかしかつたのか、子供はげらげら笑ひ出した。
叱ツ、あつちへ行け、といふふりをして見せると、子供の方でも手を振上げて、かへつて三田の方へ近づいて來た。三田が否々といふつもりで首を横に振ると、子供もそれをうち消すやうに頭を横に振る。三田はすつかり參つてしまつて、思はず苦笑した。
子供はその笑を見逃さなかつた。兩手を前に突出すと、全然相手を甘く見た態度で、いきなりどしんとぶつかつて來た。驚いて向直つた三田の懷に、全身倒れかゝる勢ひで飛込んでしまつた。
「よせつたらよせ。」
三田は流石に聲を憚りながら、しがみつかうとする子供を胸から離したが、よだれにしめつぽいエプロンを、生温く掌に感じた。
「清、清。」
いつたんしめた障子を殘らずあけ放す氣配と共に、母親の我子を呼ぶ聲が聞えた。
そんな風な大貫の生活も長くは續かなかつた。看護婦が泊り込んで、例の通り正午迄寢込んでゐたところへ、大貫夫人が子供を連れて來たのである。
「あ、奧さん、一寸お待ちやして。」
臺所で働いてゐたおつぎが、一大事とばかり飛んで出ようとするのを、帳場で煙草を飮んで居たおかみさんは、
「ほつとけ、ほつとけ。」
と小聲で止めて、
「さあ、奧さんお上りやして。ぼんぼん、えらい大きうならはつたなあ。」
冷かすやうな御世辭を投げて、又悠々と煙を吹いた。
「御免やす。」
夫人は何も知らないで、子供の手を引きながら二階に上つて行つた。
「おかみさん、よろしおまんのか。」
「かめへん、かめへん。あてのうちは待合茶屋とは違ふさかい。」
持前の男性的の高笑をしながら、おかみさんは少なからず痛快がつた。
間も無く二階の三番では騷動が持上つた。階下の帳場にはよく聞えないが、三田の部屋には筒拔だつた。
「あんた、これは何といふ事ですの。」
「馬鹿ツ。何だつて許しを得ないで人の座敷に入つて來た。」
どすのきいた太い聲に續いて、怒に震へるきちがひじみた叫びと同時に、子供が高く泣き出した。
「お前さんは出て行つておくれ。出て行け、けがらはしい。」
「靜かにしろ。みつとも無い。」
「みつともないのはあなたですが。こんなぢごくを引ずりこんで……」
「なんだと。貴樣こそ耻知らずだ。」
「耻知らずはそつちやの事た。」
いつ迄も夫を難詰して止まない妻に對して、内心すつかり閉口しながら、大貫は氣勢を見せる爲めに、
「馬鹿ツ。」
とか
「貴樣こそとつとと歸れ。」
などゝ怒鳴つて居た。看護婦はどうしたのか聲も立てず、子供は時々思ひ出しては、一段と聲を張上げて泣いた。
梯子段にも廊下にも、宿の女中や娘や料理人が、昂奮した樣子で、しかも面白さうに聞耳を立てゝ居た。
だが、何時迄も同じ事を繰返すばかりで、解決はつかないので、彌次馬は次第にあきて來た。いゝ氣味だと思ひながら、微笑を噛殺してゐたおかみさんも、あんまり埓があかないのに腹が立つて來た。生來氣の早い方だから、一肌拔いでてきぱきとさばいてやり度い心も動いて來た。うちの女中達に、自分のうでのあるところを見せてやり度くもあつた。
「ほんまにしようむない人達たらあらへん。」
と舌打しながら、おもたい體を起して二階に上つて行つた。
あくびの出さうな顏つきで、部屋の中の騷動を立聽して居た女中達の、一齊に緊張した目に見送られながら、おかみさんは少なからず芝居がゝりの氣持で、三番の襖をあけた。
「ごめんやす。」
部屋の眞中にたつた一つ敷いてある蒲團の上には、胡坐を組んだ大貫と、二つの枕がのつかつて居た。涙で白粉を斑にした夫人は、その裾のところに半分膝を乘せて、すつかり取亂した姿だつた。看護婦は蒲團の外に滑り出て、寢衣に細帶できちんと坐つてゐた。子供は母親の背後の壁にくつついて、泣きじやくつて居た。
暑くるしい夏の一夜を、しめ切つて寢てゐたまゝ晝過に及んだので、むうつと人臭いにほひが鼻を打つた。おかみさんはその爲めに一層腹が立つた。
「大貫さん、あんた此の有樣なんだんね。」
苦々しげに一座を見廻しながら、ずうつと縁側の方まで通つて、蒸されて腐つたやうな室内のいきれと共に、此の人々の關係を唾棄するやうな手荒な調子で障子をあけた。油を漂はす川水が、強い光を天井に反射して來た。
「おかみ、まあうつちやつといてくれ。直ぐにかたをつけるから。」
宿料の借があつて、ふだんから頭の上らない相手に出て來られたので、大貫の聲には力が無かつた。
「うつちやつとけいふたかて、これがほつとけますかいな。」
おかみさんの男のやうな大きな聲は、時にとつて威壓する力を持つて居た。夫人も看護婦も男の子も、堅くなつて息を呑んだ。
「奧さん、何もいはんと今日は歸つとくんなはれ。こないな所でぐぢぐぢいふてゐやはつたら御身分にさはりまつせ。あとのことはあてがあんじようしますさかい、ぼんぼん連れていんどくんなはれ。」
先づ厄介者を一人々々片づけようと、おかみさんは、あさましい姿をして居る夫人の方に正面切つていひ出した。
「あては長々と御談義をする事はようしまへんで、わがの胸によう問ふて見とくんなはれ。大貫さんのしてはる事がよう無いのはわかつてあるが、それかといふてあんたもなあ、親御さんの手前は綺麗に別れた人やおまへんか、あてはそない聞いとります。そやつたらなあ、よそのうちへ來て、大きい聲しやはるやうな事は愼むのが人の道だつしやろ。あては女學校へも行かんしようむない女子やけれど、物の理窟いふものは、教育があらうと無からうと、つゞまり同じ事やろと思ふとりまんね。」
諄々と説得する積りは積りなのだが、聲の調子を低める事の出來ない性分なので、叱咜するやうに聞えるのであつた。
「なあ、腹も立ちまつしやろ。無理も無いとはあてかて思ひますが、悋氣したらあかんといふ事は、淨瑠璃にもおまんがな。」
なんにも云はずに歸つてくれゝば、後は自分がなり代つて大貫の不心得を糺彈してやると云ふのがおかみさんの言葉の内容だつた。
細君は亭主にむかつた時とはうつてかはつて、一言の返答もしずにうなだれて聞いて居たが、心の中では口惜いのか、何時の間にか半巾を顏にあてゝ泣いてゐた。その泣顏をみんなに見られるのがいやなのであらう、おかみさんの言葉が切れると同時に、靜に立上つて身じまひを直すと、何もいはずに子供の手をとつて、部屋の外へ出て行つてしまつた。
細君の後姿を見送つて、自分の成功に滿足したおかみさんは、
「さ、次はあんたの番だつせ。」
と看護婦の方へ向直つた。
「おい、おかみ。わかつたよ、わかつたよ。」
大貫は意外に根強くやりさうなおかみさんの態度に怖れをなして、嘆願するやうな、冗談にしてしまひ度いやうな調子でさえぎつた。
「あんたには發言權はおまへん。」
柄にない漢語をつかつたが、冗談では無く大眞面目だつた。
「あんた、あてに仰山ものをいはせんと、歸つとくんなれな。大貫さんの奧さんを歸らせて、あんた丈とめて置いたら、あてが奧さんに濟まんよつてなあ、喧嘩兩成敗いひまつしやろ。」
すつかりいゝ氣持になつて、からからと笑つた。殆んど、豪傑笑といふ形容があてはまりさうな高笑だつた。
隨分氣丈な女ではあるが、看護婦も流石に一言も無く、疊を見詰めて固く坐つてゐた。
「なんだい、歸れ歸れつて、そんな野暮な事を云はなくたつていゝぢやあないか。」
大貫が見兼て、又横合から口を出した。
「まだ寢てゐるところに氣ちがひ女がやつて來やあがつたもんだから、顏も洗つてゐないし、飯も喰べやあしない、お小言は後程ゆるゆる拜聽する事にして、朝飯だか晝飯だか知らないが、何かしらお腹のたしになるものを喰はしてくれよう。」
どうにかして話をそらしてしまはないと形勢益々險惡だと見てとつて、努めて甘つたれたやうな物言ひをした。
「よろしゆおま。御膳の支度やつたら夙に出來たるさかい、何時なりと上つとくんなれ。そやけどなあ、御ぜんが濟んだら早うにいんで貰ひまつせ。」
「なにを云つてるんだい、君んとこは宿屋ぢやあないか。そんなに人を追ひ立てるやつがあるもんか。」
大貫は冗談めかした調子で云つた積りだつたが、どうしたものかおかみさんはぐつと癪に障つた。
「へえ、あてとこは宿屋だす。宿屋は宿屋に違ひおまへんが、逢引宿とは違ひまつせ。」
「なんだつて。おかみ、少し言葉が過やあしないかい。」
意識して、うんとどすをきかした音聲で云つた。
「なんでだんね。逢引宿や無いいふたのが惡おまんのか。えらい濟んまへんなあ。」
相手の態度に反撥して、おかみさんも苛立つて來た。
「あんたはうちの御客さんに相違おまへん。先月のも先々月のも未だ御勘定は頂きませんが、御客さんには違ひおまへん。けれど、此の御方はあてとこの御客さんではおまへんで。ちよいちよい見えて泊つて行かはる事は知つてはゐれど、ついぞ宿料も御茶代も貰ふた覺えは無い。お客さんで無い人に泊つて貰ふ事はいらんさかい、さつさといんで貰ひまつさ。」
「馬鹿な事をいふなよ。宿料も茶代も拂つたら文句は無いだらう。」
「あきまへん。外の御客さんの障りになるやうな騷ぎを起されたら營業妨害や。あんたにもいんで貰はんならん。」
「なにを云つてるんだい。さう昂奮してしまつちやあ話が出來ないよ。おかみ、今日はどうかしてゐるぜ。」
「あてはどないにもあらしまへん。今日云はうか明日云はうか思ふてゐた事を云ふた丈や。なあ、大貫さん、今迄滯つた宿賃なんか一錢も貰はんかてよろしいさかい、今日限りいんで貰ひまつせ。」
おかみさんの高調子は激怒に震へて、一際家中に響き渡つた。
「あては面倒な事は嫌ひや。今直に御膳を持つて來させるよつて、飯喰べたらいんどくんなれや。よろしか。」
いひ切ると立上つて、大貫の呼止めるのを振切つて部屋を出た。廊下にはうちの者が、みんな怯えた顏色で樣子をうかゞつてゐた。
「さ、早う御膳を運ばんかいな。いつもの樣に、御銚子つけてな。」
おかみさんは、ぐつとおちつきを見せて、事も無げに帳場へ下りて行つた。
其の日の午後、大貫の方は愚圖々々に濟ませる積りでゐたが、おかみさんは如何しても出て行けといひ張るので、大貫も眞劍に怒り出し、何だ彼だと激論のあげく、二箇月餘の宿料と酒代其他の借金を殘して、看護婦と一緒に出て行つた。その後姿にむかつて、おかみさんは仰山に鹽花を撒きちらかした。
「これでうちもせいせいした。矢張三田さんみたいな堅い人がよろしいなあ。」
おかみさんは女中を指圖して三番を掃除させながら、何のかゝはりも無い三田に聞けがしの高聲で喋つて居た。
その日から暫くの間、三田は此の宿のたつた一人の客だつた。
久々の休暇にもかゝはらず、朝から夜更迄机にむかつて、小説を書續けて居るので、肩や腰が痛む位だつたが、それでも會社で機械のやうに齷齪働いて居るよりはましだつた。
ところが、休が三日たち五日たち、あの娘とあはない日が續くうちに、三田は何となく心寂しくなつて來た。朝と夕方と、いつも娘と往來で擦れ違つた時刻になると、默つて机にむかつては居られない焦燥を感じた。自分ながら羞しいと思ひながら、彼は朝夕散歩に出かけるやうになつた。
夜更かしの甚だしい三田は、平生會社に行くのに餘裕の時間が無く、起きる、顏を洗ふ、飯を喰ふ、洋服に着換る、靴を穿く──といふあわたゞしいものであつたが、朝の散歩の爲めには、特にふだんよりも早く起きた。何時も出勤時間に娘と出あふ場所は大概きまつて居るので、早目に宿を出て其の地點を通り越し、電車通迄出かけた。此の朝の散歩の二日目に、娘が南の方から梅田へ行く電車を降りるところを發見して、それと無く尾行し、まんまと其の勤務先をつきとめた。
それは宿を出て、娘と出あふ通り迄行かないうちに南へ曲る一筋の路の、小半町とも無いところにある、日華洋行と云ふ金看板を掲げた、昔の大店を今風に改造したやうな、大阪特有の店構だつた。冬は硝子のはいつた重い開閉扉がとりつけられるのだらうが、夏の事とて目かくしにつけた葭戸を押して、娘の後姿は暗い店の中に消えた。それ丈でもおもひを達した氣がして、三田ははればれした顏つきで宿に歸つた。
「三田さん、昨日も今日も、えらい早うから御散歩だんな。」
女中が何かからかひ度さうな口をきくのを、
「どうも休になつてから、ふだんよりも運動が惡いので、お腹が空かなくてしやうが無い。」
といゝ加減な返事をして、さつさと二階に上つてしまつた。
夕方又時間を見はからつて出かけた。日盛に働く爲めか、朝よりも全體に汗ばんだやうな、疲れた風情がひとしほよかつた。先方が何も知らないのに、あとをつけるといふのは、申譯が無いやうな氣もしたが、大通迄ついて行つて、滿員の電車にやうやく乘込んだのを見屆けた。
日華洋行といふのは、雜貨を支那に輸出する店だといふ事を調べた外には、何の發展する事も無く、三田はたゞ往來で娘にあふ事を樂しみにしてゐた。
三田の長編小説「贅六」が完成したのは八月の末だつた。大阪に舞臺をとつて、大阪といふ商業都市と、大阪人といふ金儲中心の特殊の性格に、多少皮肉な批評を浴せながら、表面は寫實的描寫を以て、都會の日常生活の幾場面を展開したものである。三田は幾度となく繰返して讀んで、なほあき足り無い節もあるにはあつたが、差迫つて金も欲く、又暑中をつめて勉強した疲勞が氣力を奪つて、只管休息を求める爲め、豫而寄稿の依頼を受けて居た新聞社に持つて行つて、金に換へた。
いつたん纒つた金が入ると、忽ち氣が大きくなつて、身の程知らぬ豪遊をきめるのが三田のおきまりだつた。またたくひまに素寒貧になつて、年中みすぼらしいみなりをして暮らすのはよくない性分だと常々知つては居るのだが、どうしても直らなかつた。
新聞社を出ると、町角の自働電話で田原の會社へかけた。
「なに? 例の長編が出來上つたつて。おごれ、おごれ。」
車輛會社の重役は、急ち書生時代の態度に變つて、頓狂な聲を出した。
「それなんだよ。若し今晩君がひまなら、久し振りでゆつくり飮まうかと思ふんだ。」
「よおし、飮まう。場所は? わかつた。例の所か。」
話を切つて、外に出ると、三田は勇んで宿に歸つて、紺サアジを一帳羅に着換へた。
「お出かけだつか。」
「今晩は少し遲くなるかもしれません。たぶん十二時迄には歸る積りだけれど。」
「十二時が一時でも、お泊りやしても大事おまへん。」
「おたのしみだんな。南だつか、北だつか。」
「お早う御かへり。」
女中達が口々に何かいひながら送り出すのを、三田は無言で受けて宿を出た。日暮方の川の面には、中之島あたりから漕ぎ下つて來た貸端艇が、不規律にゆきかひ、うすら青い空には、蝙蝠がしきりに飛んでゐた。
三田は北の新地へこゝろざした。元來彼の生眞面目な性分は、所謂遊びをありのまゝに享樂する事が出來なかつた。粹がつたり、通がつたりする趣味は全然無かつたし、女と見れば物にしないでは置かない人々の所業も、彼の内部にひそむ人道主義が許さなかつた。藝者に對しても或人々のやうに理想化して讃美する事は思ひもよらず、さりとて頭から馬鹿にする事も出來ず、友達として取扱ふ外におちつくところが見出せなかつた。
「三田さん、あんた何が面白おまんの。うたうたははるのんでも無し、をなごはんしやはるのんでもなし……」
彼と田原が時々行く席貸のおかみさんが、づけづけと訊いた程、みんな不思議がつて居た。
「別段面白いとは思はないね。いゝお酒を飮ませてくれて、他人が邪魔さへしなければ、關東煮で結構なんだ。」
といふのが三田の返答だつた。──座敷がきれいで、おちついて酒が飮めるといふ事の外に、新地のお茶屋も左程の魅力は無かつた。
しかし、三田は少なからずいそいそして、新地へ足を踏み入れた。自分の勉強が四百枚の長編をしあげ、それによつて多額の金を得たゝめに、何の心配も無く酒の飮めるといふ事は、彼にとつて何よりも樂しかつたのである。
きれいに掃いたあとに打水をした敷石を踏んで玄關にかゝると、
「まあ、三田さん、えらいお久しおまんな。」
と顏馴染の年とつた仲居頭が出て來て、奧の座敷に案内した。
「今に田原が來る。それ迄僕は寢てゐるから、何も構はないでくれたまへ。お茶もいらない。枕もいらない。」
「社長さん見えてゞすの。ほしたらあちらさんが御出でやしてから御酒だんな。」
三田の氣性を呑込んでゐる仲居は、客をうつちやらかして引込んでしまつた。
廣い座敷の中庭に近い端つこに坐蒲團を出して、三田は柱にもたれながら狹く限られた町中の空を見て居た。東京風のおもてつきばかり堂々としてゐて、融通の利かない建て方で無く、廣くもない地面に使へる部屋を奧深く上手にとつた上方の建築だから、市中の物音は聞えて來なかつた。仕事を濟ませた滿足は、限り無く三田の心を安らかにした。
「社長さん御越しやしたぜ。」
仲居の聲を聞いた時、三田はうとうとしてゐた。
「やあ、遲くなつた。」
田原は入つて來ると直ぐに上衣を脱いで、
「三田公、例の濟んだんだつてなあ。ひとはこ位はいつたか。」
指先で圓をこしらへて冷かした。
「すつかりくたぶれちやつた。しかし、重役になつたやうな氣持だ。」
「何をいつてやがんだい。なつた事も無いくせに。」
無駄口を叩いてゐるうちに酒が出て、若い藝者があらはれた。
「いよう、はしけやし葉牡丹さんか。」
「なんだんねはつけよいいひまんのわ。」
「俺と四つに組まうつていふんだよ。」
「社長さん、いけづやなあ。」
とられた手を振拂つて、
「三田さんおひとついきましよか。」
「あゝ、實にいゝ氣持だ。田原のやうな有閑階級には此の味はわかるまいが、大仕事をしたあとの酒程うまいものは無い。」
三田は口をきくのもものうい陶然たる心持で、盃の酒を樂しんでゐた。
「そんなにおいしかつたら夜どほし飮んでもかめしめへんで。今にお葉さん姐さんも來やはるさかい、お相手もおまつせ。」
「あゝ、あの蟒はたしかに三田公に惚れてるよ。」
「あほらしい、誰が三田公なんかに惚れるもんか。」
突然廊下で大きな聲を出して、當の蟒がやつて來た。
「さ、飮まう飮まう。今も他所で、三田さんとをかしい云はれて來たのや。なんでやらうなあ。」
さも不平さうにつぶやきながら、田原のさす盃をうけた。
「あては三田公が好つきやわ。しかしやな、好きと惚れるとは違ひまつせ。よろしか。惚れるのやつたら、まちつと氣の利いた男に惚れるわ。」
「なんだい、もう醉つ拂つてるのか。」
三田も盃をさした。
「あかん、あかん、こんなちつぽけなもので飮んだかておいしい事あれへん。葉牡丹さん、コツプ貰ふてんか。」
蟒のコツプ酒にはいつも辟易する三田も、仕事をしまつた思ひ殘りの無い心持から、その晩は強ひて反對しなかつた。
三田や田原が蟒と呼ぶお葉は、廣島の生れで、其處で藝者に出たのだが、大阪に來てからでも、最早十年になる。外土地から來たといふいはれの無い毛嫌で、兎に角一流の仲間入をした今でも、兎角蔭口をきかれるのであつた。當人にして見ると、生來の負けぬ氣から、毛嫌されると知れば知る程藝事にも人一倍勵んで、ひけをとるまいとするのが、時には喧嘩面になり兼ない。いひ出したら後へはひかず、お客だらうがなんだらうが、氣に喰はなければぽんぽんやつゝける。酒を飮むと止度が無く、自分自身面白くなつて、つとめ氣は無くなり、醉つぶれる迄飮まうといふ氣性だつた。その癖頭腦が明敏で、三田のやうな異種を取扱ふこつも心得、又猩々だとか蟒だとか云はれる大酒飮みに似合はぬ親孝行兄弟おもひで、弟は東京の大學に通つてゐて、間もなく學士になるといふ事だつた。
「かう見えても武士のたねだつせ。あては藝者みたいなしようむないもんになつた體だから、一生三味線持つて暮らすけれど、弟やみなはちやんと教育して一人前の人間にせんならん。」
と醉つた口でいふ事があるが、さういふ時は自慢する氣色は少しも無く、我が身を寂しがる色が見えるのであつた。
少し亂暴なのには閉口する事も多かつたが、萬事てきぱきと切つて廻し、御世辭や御座なりが無く、傍若無人な醉體も、三田の面白がるところだつた。
「あゝ醉ふた、醉ふた。三田公、あて醉拂つちやつたよ。」
蟒は熱燗のコツプ酒が廻つて、蒼白い顏が一層蒼白くなり、呂律があやしくなつて來た。
「ちつとも珍らしくないよ。」
それに引かへて、三田は最初こそ陶然とした氣持だつたが、充分酒が沁みて來ると、かへつて體もきちんときまつて、膝も崩さずに盃を重ねてゐた。田原はとつくに落城して、坐蒲團を枕にして寢てしまつた。
「なに、ちつとも珍らしくないだと。そんならそれでよろし。あてはあてで勝手に飮む。」
手酌でコツプになみなみ酌いだと思ふと、ぐぐぐぐと一氣に干した。
「さ、あんたも景氣よく飮みいな。お店の小僧さんみたいにお膝に手を置いて、かしこまつてゐられたら窮屈でかなはん。」
「それで窮屈なのかい。あんまり窮屈らしくも見えないぜ。」
「いゝえ、窮屈だ。人が何といはうとも、あては窮屈で窮屈でたまらん。第一この着物や帶が窮屈だ。」
「そんなに窮屈なら裸體になるさ。」
「かめしめへんか。」
「かめしめへん。」
蟒の長身が立上つたと思ふと、するすると帶を解き、着物を脱いで長襦袢の胴中に伊達卷をきつく締め、足袋もとつて座敷の一隅にほうり出した。
「これでどうやらいきかへつた。これからあてと三田公と、あしたの朝迄飮みくらべや。」
蟒は又コツプを取上げて、それを三田にさしつけた。
「いやだよ。僕はコツプは嫌ひなんだ。どういふわけだか猫と慈姑と牛乳と生玉子とコツプが嫌ひなんだ。」
「あほらし。コツプが嫌なら湯呑にしたらえゝ。」
「それそれ、その湯呑も嫌ひさ。」
「そんなら茶碗。」
「その茶碗も……」
「えゝ男らしく飮みいな。」
蟒はしんからじれつたさうに、なみなみついだコツプの酒を、三田の鼻先につきつけた。
醉へば屹度始まる蟒の無理強ひに、三田も盃を捨てゝコツプで飮んだ。宵の口から賑やかに騷きつゞけて居た二階の大一座も散會したと見えて、三味線も歌の聲も聞えなくなつた。時々お銚子のお代りを持つて來るおちよぼの外には誰も顏を出さず、葉牡丹も何處かの座敷に貰はれて行つてしまつて、家中がぐつたり疲れたやうな感じがした。
「あゝあ、寢た寢た。ぐつすりねちまつた。」
狸なのかほんものか、二時間近くも眠つてゐた田原がむつくり起きた。
「おい三田公、俺は失敬するぜ。」
田原は醉へば寢てしまひ、目が覺めれば直ぐ歸るのがおきまりだつた。
「いや待てよ。うどんを喰つて行かう。素饂飩といふやつをな。」
誰も相手にならないので、自分で手を叩いて注文した。それが來ると、さもうまさうに三つ平げて、思ひ殘す事も無く立上つた。
「おい蟒、これから三田公を口説くのか。」
「あほらしい。あんたみたいなねむつてばかり居る人は、とつとゝいんで貰ふた方がえゝ。今夜はあてと三田公は御月見や。」
「けなりい、けなりい。」
田原は大きな欠伸をしながら行つてしまつた。
「僕も歸るよ。十二時迄には歸ると宿に斷つて來たんだから。」
「歸さないよ。」
蟒は空うそぶいた。
「明日は又勤があるんだからね。」
「あつたつて構はないよ。」
言葉尻に「よ」とつける時は、蟒は大阪人の所謂江戸詞の積りなので、これも醉拂つてから出す癖だつた。
「降參してあやまるから歸してくれ。そんなに引止めるところを見ると、さては惚れてるな。」
「あほらしい。あんたみたいなへんちきちんに惚れはしないよ。あてには頭の禿たえゝ人があるんだよ。」
「それぢや其の禿頭によろしく。」
三田は始めから坐り通しで、痺の切れた足を起した。
「あんた、ほんまに歸らはるのか。」
「歸るよ。」
「歸さん。」
いふかと思ふと長いからだを半分起して、いきなり三田の袂をつかんだ。酒で正體が無くなつてゐるので、つかむと同時に全身の重味で倒れかゝつた。袖つけから半分ばかりぴりゝと綻が切れ、三田もはづみをくつてよろよろと膝をついた。
「よし、それぢやあ一時迄と堅い約束をして飮まう。」
「けち臭い事いふてはるなあ。よろし、負けてやろ。そのかはりコツプで、こないして飮むのだつせ。あてが飮む、あんたが飮む、あてが飮む、あんたが飮む、あてが飮む、あんたが飮む。おゝしんど。」
蟒は我意を通して三田を引止めたので、すつかり機嫌がよくなつて、そこらに林立するお銚子を集めて坐り直した。
「おい三田公。今夜は夜あかしでお月見しませうよ。」
「そんな奴があるもんか。午前一時迄とちやあんと約束したぢやあないか。」
「約束したにはしたけれど、あて面白くなつて來たのだもの。あんただつて、たまにはつきあつてもいゝだらう。」
「これだけつきあふ御客はまづあるまいぜ。」
「そこが三田公のえゝとこや。」
「そんなら惚れたか。」
「あほらしい。あてには……」
「禿頭のいゝ人がゐるだらう。」
「ほんまにいな。そやけどなあ、あては三田公が好きなんやわ。三田公だつて、あてが好きで無い事は無いのやろ。」
「好きだよ。大好きだよ。好いた同志さ。」
「そんなら好いた同志で飮みあかさう。よろしか。」
蟒はすつかり舌が利かなくなつて、同じやうな事を繰返しながら、それでも手を叩いて酒を呼ぶのであつた。三田も醉つて、もう一滴も欲く無かつた。早く宿へ歸つて寢たいと思ふばかりだつた。外の座敷の雨戸をしめる音が、あてつけがましく聞えて來た。
「えらいお仲がよろしゆおまんな。」
しきりに蟒が手を叩くので、先刻から姿を見せなかつた仲居頭の年寄が、兩手にお銚子を持つてあらはれた。
「なんや、二本ばかしの御酒なら、無いも同然や。もつと仰山持つて來とくれやす。」
「よろし、そんなら一打ばかり持つて來まつさ。」
氣のいゝ仲居はもう一度臺所へ引つ込んで、ほんとに澤山のお銚子を運んで來た。
「さ、三田公。あてが飮んで、あんたが飮んで、あてが飮んで、あんたが飮むのだつせ。」
蟒は第三者が見てゐると思ふと、一段と勢ひづいて、コツプを干しては直ぐにさした。あまりのしつつこさに三田も面倒臭くなつて、さゝれれば飮み、飮んでは返した。
「えらいやつちや、えらいやつちや。」
夏祭の花車や神輿を取卷いてはやすやうに、仲居は團扇を叩いて驚嘆した。
「もういけない。もう全く飮め無い。約束の時間になつたから歸るよ。」
三田は時計を出して見た。
「いかん、あんたが歸つたらあてが寂しうなる。」
蟒は又袂を捉へて放さない。
「よせよ。いゝ加減にしないと怒るよ。」
「怒るなら怒つて見ろ。どうしても歸るといふのなら、頭からお酒をぶつかけてやるよ。」
「それ丈けは堪忍してくれ。これがたつた一枚のよそいきなんだから。」
「堪忍しないよ。」
「勝手にしろい。」
少々芝居がかつたかなと、三田自身が思つた程きつぱりしたが、蟒はぐつと癪にさはつたらしく、いきなり熱燗の徳利を取ると、三田の頭から一氣にぶつかけた。
「あれ、お葉さん、なんすんのや。」
仲居はびつくりしてとめようとしたが、蟒は止められるとかへつて我意が強くなるたちだつた。
「かめへん、かめへん。あてが寂しうなるから歸つたらいかんいふのに、歸るいふやうな旋毛まがりの根性を直してやる。」
いひながら又一銚子三田の頭にそゝいでしまつた。
三田は默つて坐つてゐた。着物を通し、襦袢を通し、じつとりと素肌迄濡れてしまつた。頭髮の中を這つて、額や頬邊を傳ふ酒の雫は、襟頸や懷に流れ込んだ。怒るだらうと思つた三田が默つて坐つてゐるので、蟒は張合がぬけてしまつた。
「もう歸つてもいゝだらう。これ丈けつとめれば許してくれてもいゝ筈だ。」
三田は暫時して、冷靜な態度で云ふと、亂箱にたゝんであつた羽織を濡れた着物の上に着て立上つた。
「三田さん、待つて。あても一緒に行く。」
座敷を出ようとする時、後から蟒が呼び止めた。
「三田さん、よう堪忍しやはりましたなあ。」
廊下へ出ると、仲居が聲をひそめて、氣の毒さうにいふのだつた。
「あの藝妓は醉はんとえゝのやが、醉ふたらどもなりまへん。せんどもうちの御客さんがいやらしい事いふたとかで、えらい怒らはつてなあ、横ずつぽうを叩いたりして弱らされました。それが警察署の何たらいふえらい御役人さんでなあ。」
「醉つた時は爲方が無いよ。お互に二三升づゝも飮んでゐるんだから。」
「そやけどなあ、あんた御氣味惡い事おまへんか。うちの浴衣と着かへはつたらどうだつしやろ。」
「夏の事だ。水を浴びたやうなものさ。」
三田はそのまゝ玄關に出て、一度しまつた門の潜をあけて貰つて往來に出た。
「三田さん、待つて。」
着物を着た蟒が、帶をしめながら追かけて來た。
月のいゝ夜だつた。更けた町を通る人影も少なかつた。軒を並べる茶屋のおもても、一樣に大戸が下りて、宵のうちの賑やかさの後だけに、新地の眞夜中は寂寞たるものがあつた。
「君のうちはそつちだらう。僕とは反對だ。」
三田は蟒が醉のさめた顏をして、先刻の亂暴を耻ぢ、自分に對して濟まなく思つてゐる心を見てとつた。その心で送つてでも來られては窮屈で堪らないと思つた。
「三田さん、あんたほんまに川べりの雁木へ行つて、あてと一緒にお月見しませうよ。」
蟒はもう少し前迄の亂暴なところはなくなつて、妙に靜かになつてしまつた。
「それは此の次にしよう。麥酒とサンドウイツチでもとゝのへて、舟で淀川をさかのぼるのもいゝかもしれない。」
「今夜はどうしてもあきまへんか。えゝ月夜なのになあ。」
感慨深い樣子で、中空に蒼白い顏を向けた。
「此の次にしよう。僕はすつかりくたぶれちやつた。」
「そんなら御宿迄送つて行こ。」
「よさうよ。第一君の足もとは餘程危ないぜ。」
「大事おまへん。」
何といつても送るといふので、
「そんなら橋の所迄送つて貰はう。橋のまん中で月を見て、北と南に別れるのさ。」
それで蟒も納得して、二人は並んで歩き出した。夜風が通る度に、頭から浴びせられた酒が肌であつたまつて、異樣な香を立てるのが強く鼻をついた。
新地を出て、電車路にそつて、約束の橋の上迄來た。一筋の川に碎ける月を、欄干につかまつてのぞいて見た。川上も川下も、烟のやうに朧に、水底のやうに蒼かつた。
「なんだか寂しいなあ。」
三田は醉がさめて、腸迄月光が沁みるやうな氣持だつた。
「ほんまにお月樣いふものは寂しゆおまんな。あてら平生はゆるゆるお月さんを見る事もあらへんが、斯うして見てゐると、お月さんいくつ、十三七つと子供の頃に歌つた事なんぞ思ひ出しまんな。」
蟒は遠い幼い時の事から、數奇な今日迄を追想するらしく、何時迄も月を仰いで佇んでゐた。
「もう二時だ。さよならにしよう。」
「あけ方迄此處に斯うしてゐたいなあ。」
取縋るやうに欄干につかまつたが、おもひ返して、
「そんなら握手しませう。」
と手をさし出した。三田は固く握つて振つて、そのまゝ別れて歩き出した。
「三田さん、今日は休まはりまんの。起きんとよろしゆおまつか。」
ついぞ無い事で、前後不覺に眠つてゐるのを起された。深酒と睡眠不足で、頭も上らない程疲れて居た。朝日が高く上つたので、しめきつた室のなかは蒸暑く、おまけに昨夜のコツプ酒が祟つて、腸迄も熱つぽかつた。
「昨晩はえらい醉ふてゞしたなあ。おもてをどんどん叩かはるよつて、くゞりをあけると、まあどうでつしやろ、むうつと御酒のかざがして、べゝはぐしやぐしやに濡れてあるし、えらいこつてしたぜ。」
三田の枕もとに坐り込んで、おつぎはさも面白さうに笑ふのだつた。あんこの澤山詰め込んである束髮も、年中笑つてゐる目も鼻も口も、三田の目にはたゞ朦朧と映るばかりだつた。
「なあ、三田さん。ほんまに休まはるのやつたら大事おまへんけどなあ、會社へ行かはるのやつたら起きんとあきまへんぜ。」
「よおし、起きるよ。」
他人に促される事の嫌ひな三田は、いきなりむつくり起上つたが、宿醉のからだは自由を缺いて、ふらふらと倒れかゝつた。
「危ない。」
おつぎは又全身を波打たせて笑つた。三田がよろけかゝつた身を支へた壁には、酒びたしになつた一帳羅の御召縮が、衣紋竹に兩肩を張つて、四角張つて懸つて居た。
三田は手拭をひつつかむと、逃るやうに地下室の洗面場へ下りて行つた。臺所の連中からも、一齊に冷かされた。頭から二三杯水を浴び、全身を冷水でごしごし拭いて部屋に戻ると、掃除も濟んでお膳が出た。まるつきり食慾は無かつたけれど、ひけめを見せるのも癪にさはるので、無理にお茶漬を流し込んだ。
「あんた蟒さんにつかまつて、飮まされたのと違ひまつか。三田さんも色男やなあ。」
おつぎはお給仕をしながら、しきりに昨夜の事を訊き度がつた。
「飮まされたには飮まされたに違ひ無いが、もう飮めないと云つたら、頭からぶつかけられちやつた。」
「えらい女はんですなあ。お客さんとらまへて、そのやうな事する藝妓はんがおますかいな。それでお商賣が出來るのやろか。男はんいふものはほんまに甘いもんやなあ。」
「どの男もどの男も、頭から酒を浴びせられるわけではないんだ。僕のやうな特別御氣に入りの男が、さういふ光榮に浴するんだよ。」
「へえゝ、あんたが蟒さんの御氣に入りだつか。」
「大好きなんださうだ。」
「矢張り惚れてゐやはりまんのやな。そやけれど、惚れた男になんで御酒かけたりするのやろ。」
「惚れてはゐないさうだ。僕も惚れられてゐるのでは無いかと思はれる節があつたものだから訊いて見たが、斷然惚れてゐないと云ふ返事だつた。どうせ惚れるのなら、あんたみたいなへんちきちんで無く、まちつと氣の利いた男に惚れますつて云つたよ。」
「三田さん、あんた……」
おつぎは脇腹をおさへて笑ひ倒れた。三田にして見れば、宿醉で參つてゐるところを見せまいとして、強ひて言葉數も多く、冗談口もきくのだつたが、平生だんまりやで通つてゐるので、その冗談の効果は一段と大きいのであつた。おつぎはころがつて笑つた。
「あの着物このまゝにしといたら、着られしまへんで。仰山御酒が浸みたるさかい、洗張にやつて、縫直して貰ふたらどうでつしやろ。」
やうやく笑ひ止んだおつぎは、着物の事になると他人のものでも粗末にはしない女の根性で、眞面目に心配するのであつた。
「あれがたつた一枚の他所行だつたが、むざんなめにあはされちやつた。なんとかなるものなら、なるやうにして呉れ給へ。近所に縫物をする人があるだらう。」
「へえ、別嬪さんの娘さんもおまつせ。」
「そんならその人に頼んでくれ給へ。どうせなら汚ならしい婆さんの手にかけるよりも、別嬪さんの方がいゝからねえ。」
三田は宿醉の重たい氣分を鞭うつて、會社へ出勤する爲めに洋服に着換へ始めたが、おつぎはゆつたりと坐つたまゝ、なかなか御尻を持上げ無い。
「三田さん、あの娘さん知つてはらしまへんか。何時もうちの裏の川べりで、洗濯してゐやはりまんが。」
「知らない。そんな別嬪さんがゐるかしら。」
「なかなかえゝ女だつせ。細りした姿で、あれが柳腰いひまんねやろ。」
「へえ、大したもんだね。何處の娘さん?」
「あんたが會社へ行かはる時通らはる、あこの耶蘇の眞向の家に、お父さんと二人きりで住んでゐやはります。」
「ついぞ、そんな娘さんを見た事が無いがなあ。」
「その娘さんいふ人がなあ、いろいろ噂のある人ですね。」
おつぎは、ネクタイを結びながら、うはの空で聞いてゐる三田の態度にあきたらず、どうかして話に興味を持たせようとするのであつた。
「そりやあ年頃の娘さんで、しかも柳腰と來れば、ちつと位の噂はあたりまへぢやあ無いか。岡燒半分いゝ人があるとか無いとかいふんだらう。」
「いゝえ、そんなんと違ひますわ。もつともつとえらい噂ですが。」
話の根本を手取早く出せばいゝと思ふが、一方は出し惜んで、なんとかかんとかもつたいをつけて話すのであつた。
「あては嘘やろと思ふのやけれど……」
「何がさ。」
「その噂ですがな。」
おつぎは矢張奧齒で噛み殺してゐて埓があかない。
「なんだい、えらい噂つて。まさか夜中に化けて出るといふのでも無いだらう。」
「ところが、それですがな。化けて出るいひまんねぜ。」
相變らず笑の外には表情を知らない相手だから、噴出すのを堪へてゐるやうな顏付ではあるが、あまり意外な返事に三田も驚いた。
「へえ、化けて出るつて? 行燈の油でもなめるのかしら。」
「さあ、何をなめるのかしりめへんけれどなあ、晩方から綺麗に御化粧して、出て行かはります。」
おつぎは持前のほがらかな聲で笑つた。
「なあんだ、そんな事か。僕はほんとに化けるのかと思つた。」
「ほんまに化けるのと違ひまつしやろか。お晝間は御仕事して、夜は御化粧して何處やらへ行かはるのだつせ。」
「はつきりいへば淫賣かい。」
出勤の時間を念頭に置いて、三田は話にきりをつけようと思つた。
「まづ、そんなところでおまつしやろ。」
「よし、その淫賣さんに頼まう。」
三田は壁に懸つてゐる酒びたしの着物を指さして、扨て紺サアジの暑苦しい上着を着て、宿醉のだらけた頭とだらけた體を會社へ運ばなければならなかつた。
三田が會社へのゆきかへりに通る、教會の眞向の家といふのは、二階建の二軒長屋で、天井の低い二階も階下も、おもてに向いた方はすべて格子造で、それを紅殼で塗り、入口のくゞりの中は土間になつてゐて、裏口迄つきぬけてゐるといつたやうな古風なものだつた。格子窓の障子のあいてゐる事はあつても、内部は光線が充分はいらないので、人が居るのか居ないのかわからなかつた。屋根も廂も、恐らくは土臺迄も傾いた古家で、此の新しいもの好きでは今正に東京を凌駕して亞米利加に追隨しようと云ふ大阪に、不思議にも多く殘つてゐる景色である。近松や西鶴の描いた時代から、今日迄立腐れつゝ燒殘つたものであらう。
その長屋から前帶結んだおかみさんでも出て來るのなら似合はしいが、年ごろの綺麗な娘が住んでゐるとは、ついぞ想はない事だつた。三田はおつぎの話を聞いてから、特に注意して見るやうになつた。今迄は氣が付かなかつたが、窓の格子には、御仕立物と書いたちひさい木札が出て居た。
十日ばかりたつて、仕立直の御召縮は、三田の机の上に載つてゐた。
「教會のお向の娘さんがしてくれたの?」
「へえ、あんさんが別嬪さんの手にかけ度いいはゝつたよつて、あてが行つて頼んで來ました。」
おつぎは新しい興味を此の仕立直に持つて、しきりに微笑をつゞけてゐる。
「僕は毎日氣をつけてゐるんだけれど、ついぞその娘さんを見た事が無い。」
「ほんまだつか。あちらでは三田さんを知つてゐやはりまつせ。あんたとこの眼の大きい、紺の洋服着て、大跨に歩いて行かはるお客さんでつしやろと、こないいふてはりましてん。」
三田は顏が赫くなつた。何時の間にか先方が知つてゐたのが羞しいのでは無い。眼玉の大きいのを第一に認められたのも爲方が無い。人よりも大跨なのも特徴であらう。しかし紺サアジが印象を殘してゐる事はなさけ無かつた。
「さうかしら。僕は全く知らないがなあ。」
三田はさういふより言葉が無かつた。
「あてはなあ、あの娘さんと長い事おしやべりして來ましてん。お母さんは早うに死なはるし、お父さんいふ人は、心臟とかが惡うて、永い事寢てゐやはるさかい、娘さんも氣の毒ですわ。きりやうがよろしいばかりで無く、ほん心だての優しさうな人でつせ。あのやうな人が、なんで耻かしいお商賣なんぞしやはるのかしらん。」
「そんな商賣をしてゐるかどうか訊いて來たのかい。」
「なんぼあたしかつてその樣な事は訊かれへん。それでもあんまりをかしいから、夜分もおうちですかと、こないいふて見ましてん。」
よくもそんな事が訊かれたものだと、三田は斯ういふ連中の押して行く力の強さに驚いた。
「ほしたらなあ、夜分は御稽古に行くと、こないいふてはります。」
「何の御稽古だつて。」
「謠の御稽古ださうだす。」
「謠?」
三田はあんまり意外な話に、思はず笑が込み上げて來た。どんな娘だか知らないが、病父を抱へて困つてゐるのが、色をひさがなければならないのは哀れである。特別の技能の無い女のうでで、一家を支へる事は外に方法があるまい。當人は世間の思惑を憚つて、身を耻ぢて居るに違ひ無いのに、つけつけと問糺されては堪るまい。その場限りの出まかせに、稽古に通ふといつたのを、更に立入つて訊かれた爲め、何を考へるひまも無く謠と答へたのだらうが、義太夫か常盤津ならばいざしらず、あんまりとんちんかんなのが可笑しかつた。氣の毒だとは思ひながら、三田は失笑を禁じ得なかつた。
朝、會社に行く時と、夕方會社から歸る時と、大概毎日出あふ日華洋行の娘の事も忘れなかつたが、晝は仕立物をし、夜は謠の稽古に行くといふ教會の眞向の家の娘も、三田の好奇心を離れなくなつた。
或朝、三田は紺サアジの服と、ぶかぶかの靴を氣にしながら歩いて行くと、その家の格子窓のところで、針仕事をしている娘を見た。今迄にも、さういふ場合はあつたのだらうが、三田の方で氣のついたのは始めてだつた。ほんの一瞬間だつたから、顏立ちも何もわからなかつたが、銀杏返に結つたほつそりした娘で、行人の足音に目をあげて往來を見た時、三田の視線と視線が合つた。おもひなしか、その娘が日華洋行に通勤する娘に似てゐるように思はれた。
その時から、格子窓の中の娘を見かける事が多くなつた。夕方、格子につかまつて往來を見てゐた時は、三田に對して挨拶しさうな氣もした。そんな事があるものかと思ひながら、仕立物を頼んだ事に結びつけて、挨拶をされても差支へ無いと、勝手な事も考へた。
日曜の事だつたが、三田が机にむかつて本を讀んで居るところへ、おつぎがあわたゞしく呼びに來た。
「三田さん、三田さん。早う來てとらん。」
「なんだい、何處に行くのさ。」
三田は折角夢中になつてゐた本を閉る氣にならないで、さも面倒臭さうにふり向いた。
「早う、早う。えゝもの見せてあげる。」
おつぎはいきなり三田の手を取つて引起し、さうされるとわざとにも澁つて見せるのを、ぐんぐん引つ張つて縁づたひに、三番の部屋の前迄つれて行つた。其處の縁側のはづれから、欄干につかまつて身を延ばし、顏をつき出すと、隣の空地が見えるのである。
「さ、あこを見てみなさい。」
後から背中を押して、自分も三田と首を並べて突出した。
「おみつつあん、洗濯してはりまんの。」
大きな聲で呼びかける目の下の川岸にしやがんで、洗濯をしてゐるのは教會の眞向の家の娘だつた。しやがんでゐるまゝで振仰いだが、腰をあげて、端折上げた着物の裾をおろすと、かぶつてゐた手拭を取つて輕く頭を下げた。
三田ははしたない自分の居場所に面くらつて、顏を引込めようとしたが、おつぎは面白がつて大きな體に重味を加へて放さない。
「あのなあ、三田さんがなあ、あんたに遊びに來ておくれやすつていふてはりまつせ。」
おつぎはすつかり調子づいて、生れついての朗な聲でからかふ。
「へえ、大きに。」
娘はしやう事無しに笑顏を見せて又頭をさげた。
「いけないよ、そんな事いつてからかつちやあ。」
「かめしめへんがな。」
何の積りか三田の背中をどしんと叩いて、又娘の方に聲をかける。
「ほんまだつせ。遊びに來とくれやすや。」
娘は何かいはれる度に、笑顏をつくつてはおじぎをするのであつた。下宿の二階から二三人の學生が顏を出して、下の井戸端で洗ひ物をしてゐる近所の娘などにからかつてゐる景色をむかし見たが、恰度それと同じだつた。三田はすつかり閉口して、滿身の力を籠めておつぎの手の中から逃れ出た。
日華洋行の娘に似てゐるやうな氣がしてゐたが、それは銀杏返に結つてゐる事と背の高い事丈で、顏立は違つてゐた。笑ふと眼のなくなつてしまふやうな、たゞたゞ弱々しい可愛らしさで、美しさは比べものにならなかつた。けれども、顏色の蒼白く冴えない、胸の病氣でも出さうな體質などが、若しもほんとに夜のあきなひをしてゐるとすれば一段と哀れが深く、そこに三田の心を誘ふものがあつた。
貴夫人令孃藝者──すべてきらびやかなみなりをして、無反省におもひあがつて居る女を、三田は好まなかつた。藝者にはまだしも、身の上の哀れがともなつてゐる丈いゝところもあるが、しかし大概は心懸が惡く、さも贅澤な育ちをして來たやうな顏をして、得意さうなのが不滿だつた。おいらんはあまりに悲慘で、彼には近づく事が出來なかつた。享樂主義の文學が全盛を極めた時代には、吉原や洲崎を知らないでは耻辱のやうに思ふ文學青年が多く、彼もしきりに誘はれたが、持つて生れた人道主義と感傷主義が承知しないで、遂に足を踏入れた事が無い。
そんな心持の多分にある三田の想像では、おみつつあんといふ娘が、硯友社時代の小説にでも出て來る、親孝行で優しくて、身を賣つて病父の藥を購ふといふやうな、古風な哀れつぽさで取卷かれてゐる女主人公になつてしまつた。かりに自分にどつさり金があるとして、月々充分のしおくりをして親子の者を安樂に暮らさしてやる。勿論自分は娘に對して何も要求しない。好きな人があるなら一緒にしてやる。萬一、先方が自分の好意に感謝するあまり、本氣で自分が好きになつて來たら、その時はいつしよになる。一面極めて理想派なる三田は、そんな空想をもほしいまゝにした。
「三田さん、おみつつあんなあ、あんたの事を男らしい人やいふてはりましたぜ。」
おつぎは其後も面白がつて、しきりに其の娘の話をした。たぶん先方に行つては、自分の事を話して居るのだらうと思ふと、いゝ氣持はしなかつた。
「あの人なあ、ほんまに謠の御稽古してゐやはりまんねと。むこのうちの前を眞直に南へ行くと、ちつさい橋がおまつしやろ。あの橋のねきの饂飩屋の路地をはいつたところに、なんたらいふ謠の先生があつて、其處へ通ふて行かはるのだつせ。」
「ふうむ、謠とは不思議だなあ。」
「それといふのがお父さんが以前はえらい謠道樂におましてんと。そやさかい、みつちり御稽古して病氣のお父さんに聽かせてあげるのやと、自身いふてはりまつせ。」
「そんなら淫賣だなんていつては申譯が無いぢやあないか。」
三田は娘の爲めに義憤を感じて、強い語調で詰つた。
「いゝえ、それはそれですがな。」
おつぎはあわてゝ打消した。
「その謠の先生いふ家が、たゞの家とは違ひまんねと。奧に離室座敷があつて、おみつつあんみたいな娘さんが、五人も六人も集まつて來るしくみになつてゐますさうな。うちのおつさんが、饂飩屋で聞いて來やはりましてん。」
その話を聞かされて、世の中に存在するいやな事に憤り度い心持と共に、娘はひとしほ氣の毒に思はれた。
三田は夜凉にかこつけて、おつぎに聞いた橋袂の饂飩屋の前を通つて見た。路地の奧は袋地らしく、突當りの家の軒燈に謠曲指南と書いてあつた。ひと廻り近所を歩いて來ると、橋の上には團扇を手にした凉の人が四五人佇んでゐて、謠の聲が聞えて來た。何氣なく欄干に身を倚せると、恰度饂飩屋の座敷の向ふに、謠曲指南所の一室が突出てゐると見えて、川添のあけ放した軒に簾をかけた中で、ひとくさりづゝ男の聲について、聲量の極めて乏しい女の聲で熊野を稽古してゐるのであつた。男は師匠であらう、女は誰だかわからないが、その聲の弱々しさが、おみつつあんのやうに思はれてしかたが無かつた。
九月に入つても暑さはなか〳〵きびしかつたが、夜は流石に目に立つて凉しくなつた。長い間大仕事にかゝつてゐたので、それを濟ませた安心から、三田は怠け癖がついてしまつた。本を讀む事は怠らなかつたが、筆を持つ氣にはならなかつた。會社から歸つて、湯に入つて、晩酌の後で飯を喰ふと、縁の籐椅子に腰かけて、川風をなつかしがりながら、舟のゆきゝを見て暮らす事が多かつた。淀川へ上る舟、河口へ下る舟の絶え間無い間を縫つて方々の貸舟屋から出る小型の端艇が、縱横に漕廻る。近年運動事は東京よりも遙かにさかんだから、女でも貸端艇を漕ぐ者が頗る多い。お店の小僧と女中らしいのが相乘で漕いでゐるのもある。近所の亭主と女房と子供と、一家總出らしいのもある。丸髷や銀杏返の、茶屋の仲居らしいの同志で、遊んでゐるのもある。三田もふいと乘つてみる氣になつて、一人乘の端艇を借りたのが病つきになり、天氣のいゝ日には、大概晩食後、すつかり暮れきる迄の時間を水の上に過した。
「三田さん、あても乘せとくんなはれ。」
「あたしも乘せて下さいな。」
と女中達がせがむので、かはるがはる乘せて漕いだ。
或日も、彼はおりかを艫に坐らせて一廻り廻つて來ると、岸には次の順番を待つてゐたおつぎの外に、おみつつあんが立つてゐた。
「三田さん、あてのかはりにおみつつあんを乘せてあげとくれやす。」
端艇が雁木に着くのを待兼ねて、おつぎの朗な聲が響き渡る。
「あて、いやゝし。あんた乘せて貰ひなはれ。」
娘はおつぎの背後に身をかくして、逃げ腰になつてゐる。
「そんな事いはんと一ぺん乘せて貰ひなはれ。」
「あて生れてからお舟に乘つた事あらしまへん。なんやら怖いわ。」
「三田さんと一緒やつたら沈んだかてえゝやないか。」
「いやあ、そないな事いふたら、あていにまつさ。」
それをいきなり抱止めて、おつぎは水際迄引つ張つて來た。陸に上つたおりかと一緒に、強ひて娘を舟に乘せてしまつた。
「三田さん、後でたんとおごつて貰ひまつせ。」
おつぎは自分の思ふ通り、三田と娘とを相乘させたのに滿足して、手を叩いてはやし立てた。
三田は娘と向あひの具合の惡さに、一層力をこめて漕いだ。フオアの時は、娘のきちんと揃へた素足の爪先が氣になり、バツクの時は、羞しさうにうつむいてゐる娘の顏が氣になつて爲方が無かつた。
「三田さあん。よう似合ひまつせ。」
中流に漕ぎ出したのにむかつて、岸の女はなほからかひやまなかつた。宿屋の縁側にも、亭主とおかみさんらしいのが、此方を指さして何か話合つてゐた。娘は袂を顏にあてゝ、愈々うつむいてしまつた。
端艇はどんどん上流に溯つた。橋をくゞると、もう醉月は見えなかつた。三田は汗をかく迄踏張つて、中之島の方迄漕いで行つた。川面も段々夜の色になり、近々と腰かけてはゐるのだが、娘の顏もほの白く見えるばかりだつた。充分川幅の廣いところで、三田は櫂をあげて舟を流れに任せた。
「此間は有難う。」
先刻から何か口をきかなくては變だと思ひながら、何のきつかけも無くて困つてゐたが、三田は少なからぬ努力で話かけた。
「え。」
ふいに聲をかけられたので、娘は眞面目に顏をあげて問返した。
「仕立物を御願ひしたでせう。」
「へえ、こちらこそ御禮を申遲れまして。」
それつきり途絶えてしまつた。時々擦違ふ外の端艇は男と女の差向ひと見て、わざと衝突しさうな勢ひを見せてからかつたり、
「よおよお、けなりい、けなりい。」
とあからさまにはやして行くのもあつた。何時か東の空に月が出て、ぐんぐん中空にのぼつて行つた。その月光は川波に碎け、娘の額から肩のあたりを、蒼白く照らした。
「あなたは早く歸らないといけないんでせう。」
「いゝえ、大事御座いません。」
「御うちには御病人があるといふのぢやあないのですか。」
「へえ、お父さんがわづらつて居りまして。」
ひどく恐縮してゐる爲めか、言葉づかひも叮嚀で、宿の者が噂するやうな身柄の人とは思はれなかつた。三田はさも自分のいたづらな心から、此の人を無理に誘ひ出したやうな心苦しさを感じた。
「あゝ、いゝ月だ。此のまゝ何處迄も下つて行つたら海に出るんだらうなあ。」
變に感傷的な氣分になつて、彼は大空を仰いで獨語した。女も誘はれたやうに月を見た。細過ぎる目が上を向くとぱつちりして、いきいきした美しい顏になつた。
「宿の連中は驚いてるでせう。何處に行つたらうと思つて。」
さう云つても、娘はかすかに白い齒を見せて笑つた丈で、何とも答へなかつた。端艇は次第に泥臭い川下に流れ下つた。
「あなたは謠の稽古をしてゐるさうですねえ。」
そんな事を訊いては可哀さうだと思つて我慢してゐたが、娘の樣子から考へて、ほんとに謠の爲めに謠を稽古してゐるのではないかと思はれ、又何か自分の頭の中の邪魔になるこだはりを除いてしまひ度いとも思つて、思ひ切つて云つてみた。
「へえ、誰に御きゝなさいまして。」
「矢張宿の人がさういつてゐたんです。」
「御稽古いひましても、ほん始めましたばかりで。」
何の混亂した表情もなく、すらすらと答へた。三田は此の人に絡る忌々しい噂を打消したやうなすつきりした氣持で櫂を取上ると、折柄さしかゝつた橋の下を、双腕に力をこめて漕いで過ぎた。橋を越えると醉月の二階の燈火が、第一番に目に入つた。
その二階の、自分の部屋の縁側に立つ人影は、端艇の行方を不審がつてゐる女中達に違ひ無かつた。三田はわざと知らんつらをして、次の橋の際にある貸船屋迄漕下つた。
「三田さあん、三田さんと違ひまつか。」
暗い中流を下る舟を認めて、おつぎの透通る聲が呼びかけたけれど、三田は返事をしなかつた。
川岸に上つて、橋袂の氷店で、しきりに辭退する娘を強ひて氷菓を喰べ、わざと時間を消して宿に歸つた。
三田の創作「贅六」が新聞に出始めたのは其の月の末だつた。自分の書いたものではあるが、印刷になると全く目新しく、恐らく誰よりも一番熱心に夕刊の配達を待つのは作者自身だつたであらう。
三田が小説家としての文壇生活も既に十年になる。同人雜誌出で、若々しい詩情のありあまる情緒主義の作家として世に出た頃は、恰も自然派全盛時代で、こつぴどく取扱はれたものであつた。その後年齡と共に感傷癖は消失せて、社會批評を含んだ現實主義の作風に移り、ぢりぢりと文壇の一角に地歩を占めたが、會社勤をして衣食の資を得てゐる爲めか、或は彼の文壇づきあひの下手な爲めか、二重生活者だ、傍系作家だと、ともすれば繼子扱にされて、一種不思議な地位を保つ作家となつてしまつた。作品は默殺されるのがおきまりで、たまたま批評するものがあると、當の作品の批評よりも、仲間外れに對する漫罵に類するものが多かつた。
さういふ特殊の作家として、且執筆の時間も乏しく、又元來遲筆だつたから作品の數も少ない爲め、中央は別として、地方の讀者といふものをまるつきり持つてゐなかつた。發行部數の多い婦人雜誌や投書家相手の雜誌に寄稿しない爲めもあつたらうが、彼の筆名樟喬太郎は、十年間文壇に介在しながら、大多數の人には新しい印象を與へた。此の前大阪の新聞に小説を書いた時の如きは、意外に讀者うけはよかつたが、そんな名前の作家がゐたのかしらと思つた人も少なく無かつたらしい。新聞社に宛て、樟喬太郎といふのは始めて知つた名前だが、今迄に何か著書でもあるなら知らせてくれといふ手紙を寄越した人も多かつた。その時三田は、既に十數册の短編小説集をあらはしてゐたのである。
今度も亦新しい讀者から、新聞社宛の投書がしきりだつた。作中に用ひた大阪言葉が存外うまいとほめて來るのもある。甚しくまづいと云つて、一々叮嚀に訂正して來るのもある。作者の大阪觀が間違つてゐるといつて、堂々と反對して來るのもある。贅六根性を痛罵したところが氣に入つたと稱讃して來るのもある。三田としては作品に人氣があるといふ事も惡い氣持はしなかつたが、それよりも作品に對する藝術的批評が聞き度かつた。しかし、新聞社としては、讀者うけのいゝといふ事が第一だから、その爲めに三田は少なからず感謝された。
會社の連中はいつもの通り、儲仕事として羨しがつた。一日分いくらだとか、資本なしでぼろい儲をするこんなうまい事は無いとか、口々に勝手な事をいつた。
醉月では三田が小説を書く事は知らなかつた。夜、臺所の洗ひもの迄すませてから、おつさんだの、料理番だの、女中達があかりの下に集つて無駄話をしてゐる事もあるが、時には誰かゞ新聞を讀むのを、みんなで聽いてゐるやうな事もある。講談物程人氣は無かつたが、一面の小説も朗讀された。
「もひとつ面白く無い小説やな。」
「なんやら堅苦しうてあかん。」
などゝいひながら、きいてゐる景色は、三田もくすぐつたい心持で目撃した事がある。
凉風が立ち始めると、醉月は俄かに忙しくなつた。二番も三番も四番も五番も六番もふさがつて、三人の女中では手の足り無い事が多かつた。多くは地方から商用で出て來る人で、三日五日長くて一週間位の泊だつた。どうしてそんなに用事があるのだらうと不思議に思はれる位、あつちでもこつちでも手を叩いて女中を呼ぶ。茶を持つて來い、飯を早くしてくれ、お酒のおかはりだとせき立てられるので、何も用事をいひつけず、うつちやつて置けば何時迄もおとなしく本を讀んでゐる三田は、自然と閑却され勝だつた。
客の中には、夜の更ける迄女中に酌をさせて酒を飮む者もある。みだりがましい話をしたり、手を握つたり、晩に泊りに來てくれなどゝ云つてゐる聲は、三田の部屋まで聞えて來た。時には藝者をよぶものもあつた。東京では見られない景色だが、宿の廊下を裾を引いた姿で通るのを誰も不思議とは思はない。壁か襖を一重へだてた隣人には何のお構ひも無く、三味線を彈かせてうたをうたふ者もあるし、騷々しいかけ聲をして、拳をうつ者もあつた。勿論、泊つて行く藝者もあるのである。
さういふ混雜の中に、或時新聞社から電話がかゝつて來た。取次に出たおりかは、
「え、くすのきさんですつて。さあ、うちのお客さんにはそんな方はゐないやうですよ。」
と返事をして、なほ念の爲めに帳場にきいてみた。
「おかみさん、くすのきさんて方ゐますかねえ。今朝おつきになつた二番のお客さんは?」
「二番は篠崎さんや。くすのきさんなんてゐたはれへん。」
おりかは、そんな人はゐないと先方へ答へた。けれども新聞社の方では、確かにゐる筈だと不滿さうな言葉を使つた。
「さうですかねえ。そんなら一度みなさんにきいてみませう。」
氣の輕いおりかは直ぐに室々をきいて廻つた。
「こちらにくすのきさんて方ゐらつしやいますか。」
階下の六番から、二階の五番四番と順々にきいてゐる聲が、三田の耳にも入つたが、彼は默つてゐた。自分が小説を書くといふ事は、宿の人達には知らせない方がうるさくなくていゝと思つた。
「こちらにくすのきさんて方ゐらつしやいますか。」
三番できゝ、二番できいて、
「矢張ゐやあしないやね。」
とつぶやきながら立去らうとしたが、その場のいたづらで三田の部屋の襖をあけて、
「こちらにくすのきさんて方ゐまあすかあ。」
と面皰面をぬつと出し、みそつ齒の口を大きくあけて云つたと思ふと、ぺろりと舌を出して、ばたばた逃げて行つた。今では此宿で一番馴染の深い三田が、どうして樟さんであつて堪るものかと思つてゐたのである。
「あゝ、もしもし、お待たせしました。くすのきさんて方はねえ、いくらたづねてもゐらつしやいませんよ。え、小説を書く人ですつて? だつてゐないんだもの、爲方がありませんよ。どうもお氣の毒さま。」
りりりりりりんと電話は切れた。
「ふんとにわからない奴だね。ゐませんて人が云つてるのに、ゐるに違い無いなんて。」
「くすのきさんやつたら湊川にゐますう、いふてやつたらえゝ。」
おかみさんが駄洒落を出したので、臺所の者迄どつと笑つた。
その次の日の夕方だつた。三田が湯から上つて、夕刊を讀んでゐる時、昨夜電話をかけたといふ××新聞の記者がやつて來た。
「あゝ、ゆんべ電話をかけたのはあなたなんですか。」
取次に出たおりかは、ゐないといふのにしつつこくたづねて來た男の顏を、馬鹿にして見た。顏色の冴えない、不精髯をはやした中年者で、新聞社の肩書のある大型の名刺をさし出した。
「君はゐないつていふけれど、僕はちやんと調べて來たんだ。道修町の會社に勤めてゐる三田さんといふ人ゐるだらう。」
かくしたつて駄目だぞといふやうな語氣で、記者は云つた。
「え、三田さんならゐますがねえ。」
おりかは何を頓珍漢な事をいふんだと云つた風な返事をした。
「その三田さんなんだ、樟喬太郎つていふのは。」
「あらやだ。三田さんは違ひますよう。」
「違ふもんか、うちの夕刊の小説を書いてるんだから。」
「へええ、さうですか。そんならきいてみませう。」
おりかはとんだ間違つた事をいふ人間だと、面白がつて二階へかけ上つた。
「三田さん、あんたくすのきさんですか。」
をかしくて堪らなさうに、面皰と笑で顏中いつぱいにして訊いた。
「何をいつてるんだい。三田さんは三田さんぢやあないか。」
三田が苦い顏をして答へた時だつた。
「やあ、樟さんですか。失敬します。」
と、何時の間に靴を脱いで上つて來たのか、記者はづかづか部屋に入つて來た。三田も今更爲方が無く、おりかと顏を見合せて苦笑した。
「へえ、やつぱり三田さんの事だつたんですか。へええ。」
おりかは腑に落兼る樣子でつぶやきながら、茶道具を持つて來るのと、階下の仲間に話して聞かせる爲めに、急いで出て行つた。
「御作は毎日拜見してゐます。大變評判がいゝので、うちの社のものもみんな喜んでゐます。」
卷煙草に火をつけると、一度窮屈さうに坐つた洋服の膝を胡坐に直して、
「僕は學藝の方面では無く、社會部のものですが……」
いひながら、先刻おりかに渡した名刺の疊の上に置つぱなしになつて居たのを拾上げて、三田の前へ差出した。××新聞社今宮正人といふのであつた。
「初對面で直ぐさまお願するのはづうづうし過るが、うちの新聞に小説を書いてるあなたは、いはゞ親類のやうな關係なんだから、ざつくばらんに話をするんだが、どうでせう、短册に何か書いてくれませんか。」
彼は部屋の入口に置いた風呂敷包を引寄せて、中から數枚の短册を取出した。
「駄目です。私は歌も句もつくれません。」
三田はすつかり不機嫌になつてしまつた。
「いや、格言でも座右の銘でも標語でも都々逸でもかまひません。たゞあなたの署名があれば、それでいゝのです。」
「ところが非常な惡筆で、筆を持つた事がありません。」
三田は生れついての惡筆を、平生深く耻ぢて居るので、曾て短册などに筆を染めた事がないのであつた。
「そんな事を云はないで書いて下さい。實はね、僕も少し困つてゐるもんだから。」
彼は知名の文人の名を舉げて、誰にも彼にも書いて貰つた事があるが、今度頼むのは些か遊び過て、方々に借金が出來たから、三田に短册を書かして、それを賣つて金にしようと云ふのであつた。
「うちの新聞に出てゐる小説が素敵に評判がいゝから、今ならとても買手があると思ふんだが。」
「わたくしは御免かうむります。」
三田ははつきり斷つて、堅く唇をとぢた。それでも相手はあきらめずに、しきりに自分の窮状を訴へて、救濟してくれと繰返し、しまひには、
「どうしてもいけなければ、名前を貸して下さい。僕が自分で書くか、或は誰かに書かせて、あなたの名前で賣るから。但し儲は山分ですよ。」
と虫のいゝ事をいひ出したが、三田は強情に返事をしなかつた。
「おかみさん、くすのきさんといふのは三田さんの事なんですとさ。」
階下に下りると直ぐに、おりかは帳場に注進した。
「なんやて、三田さんがくすのきさんといふ人と同じ人だ? ふうん、さよか。」
これも腑に落ちない樣子で首を傾けた。
「今のお客さんは××新聞の人で、その新聞に小説書いて居るくすのきさんといふのが、うちの三田さんですとさ。」
「へえ、××新聞?」
おかみさんのお尻のところに背中をまるくうづくまつて、夕刊を讀んで居た娘の手からひつたくつて一巡目を通した。
「小説みたいなもんは、此の贅六たらいふ好かんたらしい名前のと、荒木又右衞門の外に何もあらへん。くすのきいふ字は木偏に南と書くのやで。」
「さうかねえ、それでも今のお客さんさう云つて居たけどねえ。」
假名の外に何も讀めないおりかは、自分の報告が間違つて居るぞと云はれたやうに、途方にくれた顏をして居た。
「此の小説書かはる人の名前は、なんと讀むのかあてらにはわからへんが、木偏になんやらむつかしい字が書いてある。此の字は何と讀むのやろ。」
「あてもしらん。木偏に章魚のたアの字やな。」
娘は義太夫でつぶした太いかすれた聲で答へた。
「なに、たこといふ字は虫偏やで。」
「虫偏のもあるけれど、此の字と魚といふ字のもある。」
「おつさんにたづねて見たらどうだ。たこ安だたこ梅だと、よく飮みに行くのやないか。」
結局何の事かわからなかつたが、何れにしても三田が、たゞの三田でないやうな氣持丈は、みんなの心に殘つた。
おりかは、外の部屋の御給仕に出て居るおつぎやお米にも、臺所で働いて居る料理人にも、地下室で風呂を焚いて居るおつさんにも、顏を合せたものから順々に話を傳へた。
やがて小一時間位は居たであらうか、新聞記者は佛頂面をした三田に見送られて、二階から下りて來た。
「いや、どうも失敬しました。」
記者も機嫌のよくない顏つきで、ろくにおじぎもしずに歸つて行つた。
「三田さん、三田さん。あんたくすのきさんといふ名前もあるんですか。」
何處かの部屋にお銚子のおかはりを持つて行かうとして居たおりかは、梯子段を追かけて上つて、息をはづませてきいた。
「今の新聞の人、さういつてあんたを呼んで居たぢやありませんか。」
「うむ、新聞社の人間なんてものは、大概人を符帳で呼ぶんだよ。」
「へえ、さうですかねえ。」
「小川平吉つていふのをオガ平だとか、武藤金吉をムト金だとか。」
うるさい事はきいて呉れるなといふ表情を露骨に見せて、三田はさつさと部屋の中へ引込んでしまつた。
三田のところへ御膳の出たのは最後だつた。
「お待遠さん。ほんに今日程忙しい事はおまへんでしたぜ。」
おつぎはぶくぶくと白く肥つた顏中に細かい汗をかいて、息切れのする樣子であつた。
「そんなに忙しい時に御酌なんかしてくれ無いでもいゝよ。何時もいふ通り、僕は一人で飮む方がうまいのだから。」
「そんなに嫌はんかてよろしゆおま。樟先生。」
してやつたといはんばかり、からだを波打たせて笑つた。
「お帳場ではみながえらい評判です。夕刊に出てある贅六ですかいな、あれを書かはる人の名前が、木偏に章魚のたアの字や、そんなけつたいな字あらへんたらいふて爭つてゐるところへ、今さつき旦さんが歸らはつて、此の字もくすのきと讀むと云ははつたもんで、うわあ三田さんの小説や、えらいこつちやえらいこつちやとみなが騷ぎましてなあ。」
全く意外な事だつたと云はんばかり、おつぎはつくづくと三田を見ながら、宿のものの驚を傳へるのであつた。
外の者は實の所、むつかしい小説だと思つて時折拾讀みするばかりだつたが、宿のあるじは大變愛讀して居たのださうだ。
「樟といふ小説家は始めて出つくはしたが、うちの三田さんとは思はなんだ。あの御方は一風變つてるとは夙に睨んでゐたが、矢張ただもんではなかつた。」
とふだんは無口のあるじもいつしよになつて、今日の夕刊を引張合ひながら噂をしてゐたといふのである。
「よう小説みたいなものが書けますなあ。むつかしい事でせうに。」
おつぎはわけもわからずに感嘆の意を表して、愈々三田をうるさがらせた。
恰度飯を濟ませて、お茶を飮んでゐるところへ、お米が三番の客の使だと云つて、やつて來た。外の部屋の客は大概二三日中に立つてしまふのだが、三番の野呂丈は、三田と同じく月極で、これからこつちの會社に勤める人だといふ事だつた。
「その野呂さんがなあ、あんさんの書かはる小説を讀んでゐやはつて、是非ともあつて話がして見度い、ひつれいでなかつたら、こちらへ寄せて貰ひ度いと、こない云ふてはりまんね。」
五六日前にその部屋はふさがつたのだが、客の顏を三田は知らなかつた。大正化學工業株式會社とかの大阪出張所長といふ肩書を、お米は多分の尊敬を含む語氣で云つた。
「折角だけれど、今晩は少し仕事がありますから失禮しますと斷つてくれたまへ。僕は知らない人には逢ひ度くないんだ。」
來てから間も無いのに、毎晩女中を相手に酒を飮んで、遲く迄わいせつな事を云つてふざけてゐるのを、三田は知つてゐた。いつぱい機嫌で、小説家とはどんなものだらう位の心持で冷かしに來られてたまるものかと思つた。
「それでもなあ、是非々々あんさんに御目にかゝり度いと、熱心に云ははるのんだつせ。」
「そんな事を云つたつて僕は駄目だよ。面白い話なんか出來やあしない。」
なんてつたつて承知するものかといふ態度で、たゞさへ怖い三田の眼つきが險しくなつた。
「どうしてもあきまへんか。弱つたなあ。」
お米は三田に對してよりも、先方に對して困つてゐる樣子でもじもじしてゐたが、
「そんなら又今度おひまの時に寄せてあげとくんなれ。」
といひ殘して立去つた。
間も無く三番の部屋で、ひそひそ聲で報告してゐるのが聞えたが、それにつゞいて酒に醉つた男の聲で、
「なあに小説を書くといつたつて漱石や蘆花なんかとは比べものにならんさ。」
とうつちやるやうにいふのが聞えた。
××新聞の夕刊の小説の作者が三田だとわかつてから、宿屋のものの三田を見る眼は違つて來た。
お坊ちやん育ちの我儘な偏屈人だときめてゐたのが、口調こそ重々しいけれど時々は冗談もいふし、淫賣だといふ噂のある娘と相乘で端艇に乘る位の洒落氣もあるし、段々氣心が知れて見れば、見かけの怖らしい程の事は無く、存外優しくて親切らしいところもあると思ひかけてゐたところだから、小説を書くといふ一つの特殊な色彩が、一層それを助長して、もう一つ距てを取除いたのである。
たゞ、みんなが想像してゐた小説家といふものとは、まるつきり違つて居た。大臣だとか金持だとか、日頃えらい人だと思つて居る人間は、曲りなりにも大概見當はつき、頭の中にははつきりした型があつたが、小説家なんかには、此の世の中で廻りあはうとも思はなかつた。だから、不意に目の前に現はれた三田の樟喬太郎は、宿の連中にとつては唯一の代表的小説家でなければならない。たつた一本の筆さきで、いゝ男といゝ女とを喜ばせたり悲しがらせたり、勝手氣儘な運命をしよはせて死なせもするし、面白をかしい世態人情を自在に物語る小説家といふものは、矢張その作中の人物の如くいゝ男で、粹で、世間馴てゐて、人一倍情愛が深く、一口にいへば粹も甘いも噛みわけた人だらうと想い描いて居たのであつたが、現實の作家は、骨組のたくましい髯男で、みなりなんぞはぢゞむさく、都々逸ひとつうたふ事も知らず、世間外れのだんまりむつつりで、到底女に好かれさうな人間では無かつた。
「小説なんぞ書かはる御方はどんな人かと思ふとつたら、うちの三田さんみたいな人かいなあ。」
と末は娘義太夫になるといふ大望をいだいて居る娘迄、意外だつた事を正直に發表した。
「あてら、今でもほんまかしら、嘘やないのかしらと思ふてゐまつせ。」
「あんな怖らしい顏つきしてゐやはつて、若い女の事書いたり、戀したとか好いたとかいふやうな事、ようまあ書けたもんやなあ。」
「さういふたものでは無い。あゝいふどつしりとおちついた人が、世の中の事をよう見てゐるもんや。此の小説かつて學のある人でなければ書かれへん。」
隨一の愛讀者なる醉月の主人は、三田の事になるとひどく買かぶつて、ほめ方を一手に受るのであつた。
兎に角あるじのいふ事だから、おかみさんが先づ第一に信じてしまひ、自然に女中達も安くは取扱はなくなつた。そればかりでは無く、外のお客の部屋へ行つても、一番のお客さんは××新聞の夕刊の小説の作家だと吹聽して廻つた。
「まだ若い書生さんみたやうな方ですけれどねえ、その勉強つたらないんですよ。感心なもんですねえ。」
と隣の部屋の客の自慢をしてゐるおりかの聲を聞いて、三田は冷汗を流した事もあつた。
樹や草の少ない大阪の町は、東京程はつきりと秋の景色をあらはさないが、それでも土佐堀の水も澄み、醉月の二階に照つけた西日の色も日に日に薄くなつて來た。
三田の部屋の下の川岸を住家とする泥龜は、夏の間に相手を見つけて、何時の間にか稍形の小さいのと二疋になつてゐた。水の干る時には淺瀬の石の上に並んで背中を乾かし、滿潮の中高にふくらむ水に漂つては、からだを擦りつけて泳ぎ廻つた。三田は朝晩、その二疋の龜の子を見るのを喜んだ。
「あれあれ、龜さんが嫁さん貰ははつた。」
「なんて仲のよいめをとやろ。三田さん、けなるい事おまへんか。」
女中達は、何時迄も欄干の外に首を突出して見てゐる三田のうしろに來てからかつた。
さしもに盛んだつた貸端艇が數が少なくなつたが、そのかはりに小舟で網を打つ人がちらほら見えた。雪のやうに腹の白い魚が、網の中で光るのも、此の宿の眺めだつた。
三田は九箇月間着通した紺サアジ服に別れを告げて、新聞社から受取つた原稿料の一部でつくつた新調の洋服を來て、相變らず機械のやうな會社勤を勵んだ。靴の大きいのは氣になるが、色の褪めた、肱や膝や背中の光る古服と縁を絶つたので、氣が輕くなつた。尤も新しく洋服をあつらへる氣になつたのには、日華洋行の娘と、教會の眞向の家のおみつつあんの、本人達は夢にも知らない影響があつた。
日華洋行へ通勤する娘の方は、何時迄たつても此方の存在を認めてくれないらしく、いつも稍伏目勝の瞳を動かさず、些かも姿勢を崩さずに、さつさと行過てしまふのであつた。何とかして一度でも此方を見てくれゝばいゝと三田は念じてゐたのだけれど、先方にとつては、三田の如きは路傍の電信柱に等しかつた。
それにひきかへて、おみつつあんとは、月明の夜の端艇以來挨拶をするやうになつた。三田が通りかゝると、格子のところへわざわざ出て來て、聲はかけずに笑顏で會釋する。肉體の弱々しいのと同じく、その表情も近代的の活溌なところが無く、笑ふ時さへ寂しかつた。三田は、もう一度この娘と親しく口をきいて見度いと思ひながら、もう端艇の時節も過ぎてしまつたし、外には何のきつかけも無いので、殘念ながらたゞ帽子をとつて挨拶を返す丈だつた。
「三田さん、おみつつあんがなあ、又あんたと遊び度いいふてゐやはりまつせ。」
おつぎをはじめとして、女中達はよくからかつた。
「僕も遊び度いんだよ。」
半分は冗談らしく、實はそれをきつかけに、ほんとに連れて來て貰ひ度い氣もあつた。
「ほんまだつか。ほしたら、うちへ呼んで來てお酌させましよか。」
「もつたいない。お酌なんかさせるもんか。それよりも一緒に箕面か寶塚にでも行くか、それでなければ成駒屋はんの芝居でも見に行き度いなあ。」
「お芝居、よろしゆおまんな。あてもみい度いわ。」
「よおし、そんならみんなで見に行かう。」
「ほんまだつか。」
「ほんまさ。」
女中達は半信半疑だつたが、三田はほん氣だつた。何時か一度、實行してやらうと思つてゐた。
醉月は引續いて繁昌してゐたが、客の顏は絶えず變つてゐた。たゞ、一番の三田と、三番の野呂は、月極の客だつた。
年配は三田よりも上で、頭の薄禿を撫でつけた髮でかくし、鋏で刈つたちよび髯も手入がよく行屆き、強度の近視眼にふち無しの眼鏡をかけた、いかにも工業會社の出張所長らしい樣子の男だつた。最初に三田と話をし度いと申込んで來たのを斷つたのが餘程癪にさはつたと見えて、廊下であつてもわきを向いて挨拶をしなくなつた。結局それはうるさくなくて、三田にとつても幸だつた。
野呂は酒飮みで、三田のやうに宿屋では一合ときめて、さつさと切上げてしまふやうなのでは無く、女中に酌をさせながら、醉倒れる迄盃を放さない。その間に、嘘かほんとか大げさな話を得意にしてゐるのが、一室へだてた三田のところ迄、殘らず聞えて來るのであつた。彼の勤めてゐる會社は創立後日は淺いけれど、儲かり過ぎて困る程儲かるとか、野呂自身は他の商賣をしてゐたのだが、社長に懇望されて入社し、半年で出張所を預かる地位になつたとか、北の新地の何とかいふ家が宿坊で、藝者にもてゝ困るとか、すべて景氣のいゝ話だつた。
彼は又、何事でも知らないといふ事が無かつた。政治でも經濟でも、文學でも美術でも、萬事心得てゐて女中達を驚嘆させた。殊に日本國内は勿論、支那朝鮮亞米利加歐羅巴、あらゆる國々の話を知つてゐた。就中彼の得意なのは、各方面の名士と何れも友達の如きつきあひがあるといふ事だつた。從而床次がどうしたとか、西園寺が斯ういつたとか、みんな呼びつけで、如何に親しいかを示した。加藤はけちんぼでいくら勸めても金を出さないとか、犬養は貧乏で閉口してゐるとか、澁澤には未だに何人妾があるとか、大倉はあの年で毎日鰻の大串を幾串喰べるとかいつたたぐひの話はふんだんに持つてゐた。
はじめのうちこそ三人の女中が、かはるがはる御給仕に出てゐたが、何時の間にか野呂の部屋はお米の受持ときまつたやうになつた。外の二人よりも若くてきれいで、小とりまはしだから、どの客もお米さんお米さんと一番早く名を覺えて呼立てるので、本人もおりかやおつぎとは格がちがふやうな氣持になつてゐた。ちつともちやほやしてくれない三田のところが一番つまらなく、お米でなくては納まらない野呂のところに足の繁くなるのはあたりまへだつた。
お米が野呂を獨占したのか、野呂がお米を獨占したのか、兎に角除外された外の二人は、聯盟して三番の客とお米の惡口をいひふらした。
「お米さんは又野呂さんともをかしいんだよ。あたし、ちやあんと現場を見屆けたんだもの。」
「ほんまに野呂さんいふ人はいやらしな。あてらみたいなもんにも、今晩泊りに來んかとかなんとか云ふてなあ。」
「あら、あんたにもそんな事を云つたの。あたしにもなんだよ。やだねえ。誰があんな大法螺吹なんかに。」
「お米さんもえらいなあ。大貫さんともちよんちよんやつたし、以前にも誰彼と噂はあつたやないか。」
そんな會話を、三田の部屋に來ても殘して行つた。
子供の學校の爲めに女房は東京に置いてあるといふ四十男のみだりがましさは、充分想像する事が出來た。實際お米は夜更迄、醉つて大言壯語をほしいまゝにして居る野呂の相手をして、三番に殘つてゐる事が多かつた。
三田は相變らず、田原を誘ひ出したり、田原に誘ひ出されたりして、そつちこつち飮廻つてゐた。さういふ時に、影の形に添ふやうにくつついてゐるのは蟒だつた。
蟒の説によると、三田と酒を飮むのが一番面白いのださうである。お客と藝者と云ふ立場で無く、全く對等の友達づきあひなのがよかつたらしい。田原がいふ通り、蟒も三田公三田公と呼んでゐた。此の友達は、時折氣まぐれに醉月を訪問する事もあつた。凡そ南でも北でも新町でも堀江でも、一流の藝者ならみんな親類づきあひのやうな口をきいてゐる野呂は、同宿の苦虫をかんでゐる三文小説家のところに遊びに來る女があるときいて、少なからず平らかでなかつた。
「え、お葉だつて。あゝ、お葉ならよく知つてるよ。まあ北地では二流と迄も行かないところだらうね。」
「ようお酒飮まはる藝奴はんだつせ。」
「知つてるよ。あいつと飮つこしてね、ひどいめにあつた事があるよ。」
野呂は密かに噂をしてゐた。三田なんかのところに女が來るといふ事は、彼自身のうでのない事を證據立てられるやうな、理由の無い不愉快な事だつたのである。だから、少しでもその女の値打を安くして置き度かつた。
それが、それからそれと三田の部屋迄傳つて來た。
「あの蟒さんを三番の野呂さんも知つてゐやはるさうですぜ。よう酒飮む女やいふてゐやはりました。」
三田は何の心も無く耳に入れた。
ところが或時蟒が遊びに來た。近所の金光樣へお參りしたついでに寄つたといつて、最初はひどく神妙だつたが、お茶がはりに出した麥酒がお腹に入ると、急ち商賣の事なんか忘れてしまつて、
「三田公、いつぱい飮みましよか。」
と膝を乘出して來た。
「飮まう。」
酒のつきあひ丈は存外いゝ三田の事だから、急ち酒戰となつたのである。
三番では今日も亦、野呂がお米に酌をさせて、よくもあきない猥談に夢中になつてゐた。
「今、向ふの部屋でしきりに何か喋つてゐる男があるだらう。あれが君を知つてるさうだぜ。」
「へえ、何といふ方ですの。」
「野呂さんていふんだ。」
「けつたいな名前だんな。顏を見たらわかるのやらうけれど、思ひ出しませんな。」
「なかなかその道の豪傑らしいんだ。大阪中の藝奴はんはみんな友達らしいぜ。」
「へえ、いやらしい人やなあ。」
蟒はあんまり興味を持たず、しきりにコツプ酒に夢中になつてゐた。
「おい三田公、君もコツプで飮み給へ。盃みたいなちつぽけなものはけちくさい。」
「まあ許してくれ。コツプはもうこりこりだ。又頭からぶつかけられるのが落だからなあ。」
「ぶつかけられたつて大事おまへんやろ。又淫賣さんにあんじよう縫ふて貰ふたらえゝのやもん。」
ほんとに幾度でもこりずに浴せかけさうな勢で、なみなみとあふれるばかりのコツプ酒を、たうとう三田の手に受取らせてしまつた。
見る見るうちに徳利は、狹い部屋の中に立つたり轉んだり、うつろの姿を並べた。蟒は顏色こそ蒼白くなつたが、心持は天上天下唯我獨尊だつた。自分で飮んでは三田にさし、三田が飮干すと奪ひ取つて又飮む。酒がなくなると手を叩いて女中を呼んだ。
三番でも醉拂つた野呂の高調子が、舌にもつれて聞えて來た。
「をかしいな。あては自慢やないけれど、耳が惡うないよつて、知つてる人の聲なら、よう覺えてゐるがなあ。」
蟒は酒の氣のない時は問題にもしなかつたが、飮み足りると氣になり出したと見えて、野呂の聲に耳を傾けてゐた。
「姐さん、むこのお客さんなあ、あてを知つてゐるといふてゐやはりまつか。」
お銚子を持つて來たおりかにも聞いて見た。
「えゝ、よく知つてる、お酒を飮つくらした事があるつて云つてらつしやいましたよ。」
「へえ、さうだつか。どないな顏つきの人でつしやろ。」
「眼鏡をかけた、鼻の低い、髯のある、……」
「顏の色は。」
「さうですねえ、赭黒いつていふのかねえ。」
「頭は? ちやびんだつか。」
「ちやびんて程でもないけれど。」
「ほしたら半ちやびんやな。」
二人はいつしよになつて笑つた。
「あて、行て見て來ようかしらん。」
蟒は自分自身すつかり乘氣になつて、いくら考へても思ひ出さず、先方では知つて居るといふ相手に興味を持つた。
「えゝ、いつしよに行きませうか。」
「よせよ。醉拂つて他人の部屋になんか行つてくれるな。」
三田はほんとに心配して引止めたが、とめられると無理にもとまらないのが蟒の性分だつた。ぐつと一息にコツプを干すと、半分崩れかけてゐた體を起して立上つた。
「まつたくよした方がいゝぜ。第一これがきつかけで、又僕に交際でも求められると厄介だ。」
「あんたの知つた事やあれへん。あて一寸行て見てこ。」
蟒はいひ殘して、おりかを先だちに廊下に出て行つた。
「今晩は? 入つても大事おまへんか。」
間も無く蟒の醉つた聲でいふのが三田のところまで聞えた。
「さあさ、お越しやす。」
とうけたのはお米だつた。
「へえ、あんたですか、あてを知つてるいふてはるのは。あて知りめへんで。」
聞いてゐる三田が冷々する程、蟒の口のきき方は遠慮が無かつた。
「あゝ知つてるよ。いつだつたかなあ、吉寅で宴會のあつたのは。」
「吉寅? あてむこのうちはちつとも行きまへんがな。」
「さうか、そんなら千代本だつたかしら。」
はなれてきいて居ても、野呂のいふのは出まかせらしかつた。
「まあ、いつぱい飮みたまへ。君の氣分が氣に入つた。」
「よろし、飮みまつさ。そのコツプ貸しとくんなはれ。」
「コツプか、えらいなあ。」
蟒がそこにおちついて、コツプ酒となつたらしいのを、心配半分面白半分の氣持で聞きながら、三田は獨酌の盃をなめてゐた。
「あんたの名前、野呂さんいひまんの。けつたいな名前だんな。」
さういふ聲につゞいて、うわつはつはつと豪傑笑をした野呂が、
「女に野呂さんだよ。」
と答へた。
「へえ、あては野呂間の野呂かと思ふてましてん。」
「いや、實に愉快だ。君の氣分が氣に入つたよ。」
さう云つて、又酒を強ひてゐる樣子だつた。
「あんたあての氣分が氣に入つた入つたいふて、どのやうな氣分だか知つてゐやはりまんのか。」
「そこが面白いんだ。客を客ともおもはないでね。」
「よしとくんなはれ。あてはあんたに藝者として呼ばれてるのとは違ひまつせ。あての方から遊びに來てゐるのやさかい、あてがお客でつしやろ。」
「惡かつた。あやまるよ。まあ氣を惡くしないでいつぱい飮みたまへ。」
男の方はからかふつもりでゐるのだが、蟒の權幕は強過て、むざむざからかはれてはゐなかつた。
「よろし、いくらでも飮みまつさ。そのかはり、あんたも盃みたいなものほつといて、コツプでつきあつたらどうですか。あてがいつぱい飮む、あんたがいつぱい飮む、あてが飮む、あんたが飮む。あてが飮む、あんたが飮む。姐さん、お酒一打程貰ふて來とくんなはれ。」
三田は三番の部屋のなかの光景がはつきりわかつた。あてが飮む、あんたが飮むが愈々出たところを見ると、蟒が醉ひつぶれるか、野呂が倒れるか、どつちにしてもあらけた結末になる事はたしかだつた。いゝ加減に切上てくれゝばいゝがと思ひながら、そろそろ野呂の方で相手が勤まり兼て來たらしいのを、密かに痛快にも思つて居た。
「さ、飮みなれ、飮みなれ。それが飮めんやうな事やつたら、えらさうな事いふのはやめて貰ひまつさ。」
「まあ、待つてくれ。今飮んだばかりぢやないか。さう女の方からせつつかれては堪らないよ。」
「姐さん、野呂さんは三田さんみたいにたんとあがれへんのですさかい、かんにんしてあげとくれやす。」
蟒のたてつゞけに飮んではさすコツプに辟易して、野呂が逃げるに逃げられなくなつたのを、お酌をしてゐるお米が見兼て仲に入つた。
「そんならあんた降參しやはつたのか。」
「降參はしないよ。しかしだね、君は三田君のところに逢ひに來た人なんだらう。それに違ひないや。それをだね、それを僕が占領してゐては第一三田君に濟まんぢやあないか。」
野呂はまるつきり醉はされて、言葉と言葉のつながりがはつきりしなくなつてゐた。
「ほんまですがな。三田さん一人で寂しがつてゐやはりまつしやろ。」
お米も共々蟒を追拂はうとし出した。
「三田公なんかほつとけばよろし。あてはあんたがあてを知つてる、一緒に飮んだ事ある云ふてはると聞いたによつて、遊びに來た。來て見たれば、あての方では見た事も無いやうな氣はするけれど、あんたが飮めいふから飮んでゐるのだつせ。よろしか。」
「わかつた、わかつた。しかしだね、三田君の身にもなつて見給へ。折角君が顏を見せに來たといふのにだね、僕のところに入りびたつてゐられては、面白くなからうぢやあないか。それよりもお二人仲よくおやすみになつた方がよくはありませんか。」
「阿呆らし。あんたはあてと三田公と何ぞあるとおもふてゐやはるのか。置いて貰ひまつさ。はゞかりながら、そんなけちな三田公でも無し、あてでも無いわ。飮めといふ酒が飮めんのやつたら、男らしく降參したらえゝ。あてらのきよいつきあひを知りもせんくせに、けつたいな事いふのは置いて貰ひまつさ。さ、ぐつと飮んだらどうですか。」
「あ、あむない。」
お米が甲走つて叫んだのは、蟒が立上つたところらしかつた。
「さ、飮みなれな。」
「もう、いかんよ。」
「そんなら降參しましたといひなれ。いはんと頭から浴せまつせ。」
三田はやつたなと思ふと、おもはず盃を下に置いて、襟首がつめたく感じた。
「あ、あ姐ちやん、手荒い事したらあきまへんがな。」
悲鳴に似た聲と共に、皿小鉢の割れる音がしたと思ふと、
「あゝ、誰ぞ來てえ、おりかさん、おつぎさん、雜巾持つて來てえ。」
お米が一人で立騷ぐ音がつゞいた。
蟒はよろよろした足取で、三田の部屋に引あげて來た。
「阿呆らしい。人を馬鹿にしくさつたよつて、頭からお酒をかけてやつた。おゝしんど。」
と事もなげにいひながらお尻を下すと、長々と横になつて、急ちぐつすり眠つてしまつた。
醉倒れて寢てしまつた蟒は、小一時間もたつとむつくり起上つて、人力車を呼ばせて歸つた。
三番では、頭から酒を浴びた野呂が、強ひられてすごしたコツプ酒を吐いて大騷ぎだつたが、女中達に介抱されて寢たらしく、宿中がひつそりしたのは十二時過ぎだつた。三田はいゝ心持に醉つた體を椅子に托して、天の川の目立つて高い空を撫でて來る夜風に吹かれてゐた。
「えらい騷ぎでしたなあ。」
とおつぎが持前の笑顏を一層崩してやつて來た。臺所番にあたつてゐて、二階の騷動にかゝづらはなかつた丈、無責任の興味を多分に持つてゐて、狼藉を極めた部屋の中をかたづけ、床を敷きながら、しきりに三番の出來事を話したがつた。
「ほんまにえらい女はんですなあ。さ、飮みなれ、飮まんとかけまつせと、こないいひながら、野呂さんの頭からあつうい御酒をじやあとかけはりましてんと。あの人醉ははつたら、何時もあのやうにいけずしやはりまんのか。」
「どうも、さうらしいね。僕だけが御贔負分にやられたのかと思つてゐたが。」
「野呂さんもあんたと同じですわ。着物も襦袢もづぶ濡れにならはつて、あげくが自身もどしはつたさかい、その臭さいふたらおまへんでしたぜ。あゝ、考へても胸が惡うなる。」
「又おみつつあんに頼んで仕立てゝ貰ふといいや。」
「ほんまにいな。」
さも面白さうに朗かに笑つたが、急に眞面目な顏をして、
「時に芝居行はどないなりました。おみつつあんも待つてゐやはりまつせ。」
「なんだい、あの人に話してしまつたのかい。」
「わるおましたか。あんさんがほんまにみなで行かう云はゝつたよつて、せんどおもてゞ逢ふた時、いふてしまひましたがな。」
「かまはないよ。近いうちに行かう。その日はおみつつあんに丸髷でも結つて貰はうかな。」
「よう似合ひまつしやろ。」
おつぎは笑ひながら出て行つた。
三田は縁側の玻璃戸をしめて、寢床の上に大の字になつた。風に吹かれてゐる間は、すつかり醉もさめた氣でゐたが、横になつて見ると深酒の名殘は蒸暑く胸から上に押上げて來た。
ほんとに芝居に行かう。すべて世の中は何のこだはりも無く、めいめい仲よく遊ぶのがいゝ。淫賣だらうがなんだらうが、よさゝうな人間ならつきあつて見るに限る。おみつつあんと蟒と、日華洋行の娘と、おつぎとおりかとお米と、現在自分の身近にゐる連中みんなといつしよに、芝居を見に行つたら面白いだらう。その次にはお辨當を持つて、山のぼりか、海邊にでも出かけよう。さうだ、田原は是非とも誘つてやらう。あのお調子ものは飛上つて喜ぶだらう。三田はぼんやりした頭の中で、とりとめも無い空想に耽つてゐるうちに、段々と瞼が重くなつた。
「三田さん、三田さん。むこの部屋におみつつあんが來てゐやはりまつせ。」
一週間ばかりたつた日の夕方だつた。會社から歸つて、湯に入つて、くつろいだところへ御膳を持つて來たおつぎが、聲をひそめて云つた。
此間蟒が酒をぶつかけた着物の仕立直しを持つて來た、おみつを、無理に自分の部屋に連れて來させて、野呂は悦に入つて居るのださうだ。
「野呂さんも女好きですからなあ、しつかりせんとおみつつあんとられてしまひまつせ。」
とおつぎは三田の給仕をしながら、おみつを女主人公とする事件の複雜になるのを面白がる樣子だつた。
「困るなあ、何んだつてあんな男の着物なんか縫はせるんだ。もつたいない。」
「あんたがおみつつあんに頼んだらえゝ云やはつたのだすせ。そないな事今になつて云ふたかてあきまへんがな。」
三田が冗談に云つた言葉がきつかけになつて、おつぎがおみつの事を話すと、野呂は急ち乘氣になり、是非ともその娘に頼んでくれといふのだつたさうだ。年が年中女の話ばかりして、此の宿に來て間も無いのに、正にお米は手に入れてしまつた男だ。夜更に三番をそつと出て行く魚の感じのするお米の姿は、三田も二三度見た事がある。あゝいふ臆面の無い四十男にかゝつては、おみつなんか目の前でおつぷせられてしまふであらう。薄禿のあの頭も、荒淫の證據のやうな感じがして、三田はいたいたしい景色がちらちらして爲方が無かつた。たとへおみつが客をとる身の上としても、野呂だけはやめて貰ひ度いと思つた。
三番でも酒が始まつたらしく、何時もの通りお酌に侍るお米のへらへら笑ふ聲の絶間に、野呂の相も變らぬ猥談が聞えるのであつた。物靜かなおみつの聲は少しも聞えないが、話の模樣で、その席にゐる事は確かだつた。
「お米さんもけつたいな人ですなあ。せんどの大貫さんの時も同じ事でしたが、自分が仲ようなつてゐながら、その男が外の女はんにぢやらぢやらしやはるのを、いつしよに面白がつてゐるのですからなあ。」
大貫の場合にも、看護婦があひに來る時は、二人が盃のやりとりしてゐる前に坐つて酌をし、それが濟むと一つの床に二つの枕を並べるのも平氣でやつてのけ、ついぞ嫉妬らしい顏をした事が無かつたといふ。
「さばさばしたもんですなあ。」
おつぎはしんそこから感心したやうに云つた。
「君ならどうだい。」
「あてだつか。あてはやきもちやきだつせ。その爲めに極道の亭主を持つて、辛抱出來んで出て來ました。」
「へえゝ、君は御亭主があつたのか。」
「へえ、子供もおましたがな。」
おつぎは始めて身の上話をした。大阪の郡部の役場に勤めてゐる男のところに嫁に行き、子供も一人出來たが、亭主が無類の道樂者で、たうとう喧嘩して出てしまつたといふのだつた。本人はひどく悲劇がつてゐるらしかつたが、笑の外には表情の無い女だから、少しも憂ひがきかなかつた。
「亭主には未練おまへんけどなあ、子供は矢張可愛うて忘られまへんなあ。」
いつ迄も親子の情あひを説いてゐるのを聞流して、三田は三番の部屋の人聲にばかり氣を取られてゐた。
その晩はそれで濟んだけれど、四五日たつて又おみつは、野呂のところへよばれて來てゐた。
「今晩はなあ、お米さんとおみつつあん連れて、野呂さん活動見に行かはるのですと。」
おつぎは多少羨しさうな樣子はありながら、何時もの通りにこにこして、三田のお給仕をしながら告るのであつた。
「畜生、先手を打ちやあがつたな。」
三田は肚の中で、何の容赦も無く實行の歩を進める野呂の遣口に憤慨しながら、さつさとおつもりの酒を飮んで、飯を濟ませてしまつた。何を云つても取合はない三田の態度に張合のぬけたおつぎは、
「よろしゆおあがり。」
と挨拶して、あつけなさゝうに引きさがつた。
机に向つて本を開いても、集中力が無くて一向身に沁みない。ふだんよりもはしやいでゐるお米の聲と、相手がはしやいでゐると見てとつて、無理にもおちつきを見せようとするらしい野呂の聲が耳をはなれない。時々は、遠慮深いおみつの笑聲もまじつた。
外出の爲めか、例の長つたらしい酒も始まらないで、間も無く連れ立つて出て行つた。三田は變に寂しかつた。欄干に近く遙々と見渡される澄み渡つた星空の下を、靜に下る川船の艪の音が、ぎいと冴えて聞えて消えて行く。秋の感じが深かつた。
「三田さん御勉強ですか。お茶でもいれませうか。」
「ひとりきりで、よう寂しい事おまへんな。」
おりかとおつぎが臺所の仕事をしまつて、遊びに來た。宿に居れば必ず机にむかつてゐる三田の部屋には、ついぞ斯ういふ景色はない事だつたが、お米が野呂につれられて行つたのに對して、平らかならぬ二人が、味方ほしさに來たものらしかつた。
「お茶はほしくないけれど、まあ御入りなさい。」
平生ならばうるさがるところだが、本を讀んでも頭に入らない折柄、意地になつて噛りついてゐた机をはなれる丈でも救はれる氣がした。
「野呂さんやみなは、何處へ行かはつたのでつしやろ。」
二人の話は活動に行つた三人にばかりかゝはつてゐた。
「洋食喰べて、それから樂天地に行くんだつてお米さんはいつてたよ。」
「へえ、あてら洋食みたいなもん、よう喰べんわ。」
三田は二人を歡迎してみたものゝ、ちつとも話に乘る氣はなかつた。野呂の女好きだといふ事、お米の淫奔な事、二人の關係の目に餘る事、その野呂が又してもおみつを物にしようとしてゐる事、しかもお米はそれを承知してゐて平氣であるばかりでなく、寧ろ取持ちさうだといふ事などを、女達は何時迄も話してゐた。
「お米さんは、三田さんは窮屈で嫌ひだつて云つてるんですよ。」
「そのくせ三田さんが、みなで芝居見に行こ云はゝつたら、あても連れて行つて貰ふいふてきかん、ほんまに氣まゝな人やで。」
しまひには三田を味方に引入れる爲めに、そんな事迄もいひ出した。
「ふだんは骨惜みして働かないくせに、面白い事だと自分ばかりいゝめを見ようつていふんだからねえ。」
「いゝぢやあないか、君達もお米さんもみんな一緒に行けば。」
あんまりめいめいの心の中が見え過ぎて來て、きいてゐてもいゝ氣持で無い爲め、三田はなだめるやうに口をはさんだ。
「それだつてうちの用事があるから、三人とも行くつてわけには行かないんですよ。」
芝居に行くといふ事は全く女中達の心をとらへて、すつかり眞劍になつてゐるので、三田にはひどく面倒臭い事になつてしまつた。面倒臭いから早くかたづけてしまふ方がいゝと云ふ氣にもなつた。
「よしよし、君達のいゝやうにしてくれ給へ。今度の日曜に行くときめるから。」
「ほんまだつか。何處の芝居にしましよか。」
「おみつつあんも連れて行くんですか。」
二人は忽ち膝を乘出して來た。
「勿論さ。芝居は何處でも君達できめて、御苦勞だけれど棧敷を取つて置いてくれたまへ。」
「一等ですか。」
「特等々々。」
三田は話を打切つて、露骨な欠伸をした。
おりかとおつぎを追拂ふ爲めに早寢にした三田は、翌朝あけがたに目が覺めてしまつた。平生夜更かしで、一時二時迄机にむかつてゐる事も珍しくないのが、無理に早くから床に入つたので、いつたん目が覺めると、いくら努めても再び眠る事は出來なかつた。
いさぎよく起きて本でも讀まうと、廊下のつきあたりのはゞかりへ行くと、その戸に手をかけた時、中から開けて人が出て來た。びつくりして道を開くと、先方もあわてゝ通つたが、三田を見ると一層驚いて頭を下げた。長襦袢にしごきをしめた姿は背丈をなほ高く見せた。直ぐに三番の襖の中に消えたのはおみつだつた。
三田は部屋にもどつて又床の中にもぐり込んだ。昨夜夜中に野呂達が歸つて來た氣配は知つてゐたが、うつゝながらも聞いた人聲は野呂とお米のものだつた。それで安心したわけでは無いが、直ぐに又眠つてしまつて、おみつが泊つてゐようなどゝは微塵も考へなかつた。矢張賣物だつたのかと、兼々一分の疑を殘してゐた事がはつきりとわかつたが、それにしても餘り無雜作なのが腹立たしかつた。仕立物を頼んで、それが出來上つて持つて來た時が初對面で、二度目が洋食と活動で、それでもう萬事濟んだのか。いくらなんでも、ゆとりが無さ過る。詩が無い。遊びが無い。なんといふ簡單な取引なのだ。しかも其の取引のきつかけをつくつたのは、蟒が醉拂つて見ず知らずの野呂の頭に酒をぶつかけた事に始まり、仕立物ならおみつに頼んだらよからうと冗談に云つた自分の言葉も重大な役目をつとめたのだ。さう考へると、三田は世の中の一切の事が馬鹿馬鹿しいやうな心持になつた。
朝の御膳を運んで來たおつぎは、
「あんた知つてゐやはりまつか。」
とたつぷり意味のある笑を示して訊いた。
「何を?」
三田は自ら顏が赤くなるのを感じながら、空とぼけてきゝかへした。
「昨晩おみつつあん泊つて行かはりましたぜ。」
聲をひそめながら、三番の方角を指さした。
「今朝早ういにましたがな、よう平氣であて等に挨拶して行けたものと感心しましたわ。」
「そりやあ商賣だもの。」
三田は平氣をよそほつて云つてのけたが、自分の言葉ながら不愉快だつた。もつと詳しい事をきゝ度いやうな、一切何もきゝ度くないやうな、いりまじつた心持で、齒が惡くて上手には喰べられない御飯にお茶をかけて流し込むと、さも忙しさうに立上つて、會社に出かけた。往來で、いつもの通り日華洋行の娘と出合つた時は、その美しさによつて不淨を拂つたやうな氣持がした。
けれども、その晩は又一層深刻に、野呂とおみつの事を女中達にきかされて參つてしまつた。洋食を喰べて、活動を見て、三人が歸つて來たのは十二時頃で、お米が萬事取計つて自分で寢床迄敷いてやり、おみつを泊めてしまつたのださうだ。
「二圓ですとさ。」
おりかは面皰だらけの顏をあからめて云つた。
「へえ、それが相場かい。」
「いゝえ、相場つてわけぢやあないんですとさ。野呂さんがね、自慢さうに云つてるんですよ。あの娘はちつとも面白くないし、洋食も喰べさせてやつたし、活動もおごつたから、一圓五十錢位で澤山だと思つたけれど、奮發して二圓つかまして歸したゞつて。」
おみつは二度と野呂には呼ばれなかつた。二三日たてつゞけに、皆にからかはれてゐた野呂は、その娘が何の感興も起さない特殊の人間に屬する事を、露骨な言葉であらはして、さも損をしたやうな口をきいてゐた。
「矢張お米さんに限るよ。」
と當のお米にむかつていふのを、お米も一向平氣で、面白さうに笑ひながら聞いてゐるのであつた。
日曜の芝居見物は、女中達を昂奮させ、誰と誰とが行くといふ事で、はしたなくいひ爭つたが、結局おかみさんが大きいところを見せて、三人とも行く事になつた。
「よろし、野呂さんの外にはお客さんゐてはれへんのやから、一日だけあてが働いてやろ。折角三田さんが連れて行つてやる云はゝるのやつたら、みんな揃ふて行くがえゝ。」
その一言で、眞劍に仲間割のしさうだつた形勢も無事に納まつた。
「三田さん、あんたも物好きな人ですなあ。しようむないうちの女衆や、淫賣娘みたいなもんを連れて御芝居見に行つて、何が面白いのでつしやろ。」
おかみさんは三田の顏を見ると、男らしい口のきゝ方をして、からから笑つた。
女中達が擇んだ芝居は、雁治郎でも延若でも無く、此の頃流行る劍劇といふ立廻を賣物にする書生芝居だつた。
その日は朝のうちから、女中達はそわそわしてゐたが、めいめい他所行に着換へ、厚手に白粉を塗つて、三田を促してうちを出た。おみつもすつかり身じまひをして、留守居を頼んだ近所の婆さんと、格子のところに顏を並べて待つてゐた。
電車の中でも、道頓堀の人ごみの中でも、女中達は事毎に面白さうに笑ふのであつた。自分達が年中あこがれてゐる芝居に行くといふ事で、世の中の萬事が面白く樂しくなつたのである。けれども、おみつはとりすました口元に微笑を浮べる位で、日頃に變らぬ寂しさだつた。野呂がしきりにいふ樣に、何か肉體的にも缺陷があるやうに見えるのであつた。
劇場の中に入ると、女達の心持は一層浮立ち、緞帳の縫取に感心したり、天井を見上て驚嘆したり、棧敷に坐つたまゝ、天上してしまひさうな樣子だつた。三田は、誰が見ても不思議な組合せに違ひ無い此の一連を、みんなが好奇の眼を以て見てゐるやうに思はれて、心がおちつかなかつた。早く幕が開いてくれゝばいゝと思ひながら、目の前のおみつの銀杏返のかげに、かくれるやうに坐つてゐた。
恰度幕が開かうといふ時に、隣棧敷へかけ込むやうに來た一組があつた。おや、と思ふ間も無かつた。
「おゝ、三田君か。」
先方も氣がついて、輕くうなづいたのは三田の勤める會社の支店長だつた。一家揃つて來たので、でつぷり肥つた夫人と、中學の制服を着た息子と、女學校の上級生らしい娘がゐた。その誰もが、三田の一連を、さも不思議さうに盜み見るのであつた。
「會社の三田君。筆名樟喬太郎先生。今夕刊に出てゐる小説の作者さ。」
豪傑肌の支店長は、家族の者に紹介して、何がをかしいのか高笑をしたが、しかし鋭い眼ざしで、女連を觀察してゐた。三田はすつかり恐縮して、さかんに斬合つてゐる舞臺の活劇も目に入らず、芝居の筋なんかてんでわからなかつた。
幕間に女連が何處かへ行つてしまふと、
「どういふおつれだね。」
と支店長は直に質問した。
「宿の女中です。」
三田は夫人や令孃の手前を氣にして赤面しながら答へた。
「女中慰安か。」
又高々と笑つたが、さつぱりと話題を轉じて、
「あんまり評判が高いので見に來たが、痛快だね。男と女が泣いたりいちやついたりするのよりは面白い。今の立廻なんか眞に迫つてゐる。」
と感服してゐた。
凉しいと思つた風もいつしか寒くなつた。川に面した縁側の玻瑠戸をゆする木枯の日もあつた。夏中閉口した西日も今は戀しいのに、日の暮が早くなつて、それもさして來なかつた。東京のやうにはげしくはないが、矢張塵埃の舞上る往來を、三田は外套の襟を立てゝ會社に通つた。新聞に出てゐる小説も間も無く終りに近く、暫く休息したので又燃えて來る創作慾に驅られて、夜は火鉢を抱へて新規の作品に取かゝつた。
往來であふ日華洋行の娘は、手編らしいオールド・ローズの長い毛糸の肩かけをしてゐた。寒さうな後姿に、冬の日の風情があつた。おみつの家の前を通る事も、三田にとつては一つの期待を伴つてゐた。格子の中に障子がはまつたので、夏の頃のやうに姿を見かけないのが物足りなかつた。張合の無い、内氣といふよりも無神經な娘は、自分が色をひさぐ事さへ、何の反省もなく從つてゐるらしかつた。大阪には、嫁入道具をこしらへる爲めに、さういふ稼ぎをする娘も少なくないと聞かされた事など思ひ合せて、三田は持前の、みじめなものに對する愛憐を感じてゐた。芝居に行つてからは、先方は一段と親しさをましたか、以前よりも微笑を深く湛へて挨拶するのであつた。
「三田さん、あんたおみつつあんをどうぞしてあげたらどうですか。三田さん、三田さんとよう噂してゐやはりまつせ。」
男と女とは必ずくつつくものと思ひ、くつつける事にも多大の興味を持つて居るお米は、腑に落ちない三田の態度を齒がゆがつた。
そのおみつの家の二階に、或日宿のおつさんの姿を見出した。肱かけ窓に肱をついて、三田を見下してにた〳〵笑つてゐた。
「今日ね、おみつつあんの家の二階から、うちのおつさんが顏を出してゐたがどうしたんだらう。」
と何か心にかゝるものがあつて、三田は直ぐさま訊いてみた。
「おつさんですか。あすこの家に間借してゐるんですよ。」
おりかは滿面の面皰を笑で動搖させながら、意味ありげにいふのであつた。
「へえ何時から。」
「つい一週間ばかり前からです。おつさん、若い女と一緒にゐるんですよ。」
「おみつつあんかい。」
三田は唇の厚ぼつたい、舌が長過て涎のたれさうな薄汚ないぢいさんの顏を思ひ出して胸が惡くなつた。
「いゝえ、おみつつあんじやあないの。何處の娘だか、身投しようとしたのを助けて、その人といつしよに住んでるんです。」
嘘のやうなほんとの話を、おりかは三田の酒の肴にした。
つい此間の大雨の晩、おつさんは何處かで引かけてふらふら歸つて來る川岸つぷちで、正に身を投げようとする女を抱きとめた。びしよ濡れになつてゐるのをうち迄連れて來たが、うつかり引擦りこんでおかみさんに叱られてはつまらないと考へ直し、おみつのうちに談判して、その晩から二階を借りる事になつた。女は近在の百姓の娘で、いろ男に捨てられたのを悲觀して死ぬ氣になつたのださうだ。
「まだ十九か二十位だらうね。それをおつさんはいふ事をきかせようつて大變なんですよ。」
おつさんは折角自分が授かつて來た女を逃しては大變だと思つて、おみつの家の二階にとぢ籠つたまゝ一歩も外出しない。宿の風呂をたく事もしないので、おかみさんはもう寄せつけないと怒つてゐるといふのであつた。
「それぢやあ無理にその女を監禁してゐるんだね。」
三田は驚いて膝を乘出した。
三田は、おりかに聞かされたおつさんと、おつさんが助けて連れて來た女の事がひどく氣になつた。あんまり手近に起つた事件なので、かへつて嘘らしくも思はれたが、萬一事實だとすれば默視出來ない。警察に訴へるのは面白くないが、何とかして救ひ出してやらなくてはならない。三田は、活動寫眞の主人公のやうに勇敢な自分を空想した。木枯の吹き荒ぶ夜半に、教會の建物のかげから忍び出て、おみつの家の廂に手がかゝると、身輕に屋根に飛上る。雨戸を押破つて忍び込む。誰も氣の付かないうちに娘を抱いて出て來る。さうで無ければ、間一髮といふところにあらはれて、おつさんと挌鬪したあげく、女を奪還する。さういふ冒險の幾場面が、無數に目の前に映じるのであつた。
話を聞いた晩には、わざわざ散歩に出て、おみつの家の前を通つて見たが、二階の雨戸はしまつてゐて、灯影ももれて來なかつた。
それ以來、三田は會社のゆきかへりに注意して見るが、時々おつさんが間拔な顏を窓にさらしてゐるばかりで、ついぞ女の姿を見無かつた。けれども、女がその二階に居る事は、外の者の口からも確かめられた。
「おつさんが毎晩々々その女はんを口説いて居るのが、とてもをかしうて堪らんと、おみつつあんが話してゐやはりました。」
おつぎもおりか同樣に、此の事件を年とつたおつさんの演ずる喜劇として笑つて居た。男に捨てられて身を投げようとした若い女が、救はれたぢいさんに監禁されて、いふ事をきけと攻められてゐる悲劇だとは考へてゐなかつた。
「それで、どうしてもおつさんのいふ事をきかないのかしら。」
「へえ、いやゝ云ふて承知しやはれしめへんのですと。」
「そんなにいやがるのを、いゝ年をしてよせばいゝのに。最初助ける時は、助けようといふ氣持丈で、別段後でものにしようといふ考は無かつたんだらうぢやあないか。」
「それはさうでつしやろがな、おつさんにしてみれば、着物を買ふてやらはつたし、喰べる物も喰べさせたし、何やかやともの入りもおましたよつて、たゞでかやしたらつまらんと、こないにまあ、思ふてゐやはるのでつしやろ。」
さう云ふおつぎの態度にも、命を助けてやり、衣食も與へたものだから、その代償として要求するのは當然ではないかと云ひ度さうな樣子がありありと見えた。おりかにしても、お米にしても、みんなこれと同じ考へらしかつた。
「いつたい其の女の人は毎日何して暮らして居るんだらう。まさか朝から晩迄おつさんに口説かれて居るわけでは無いだらう。」
「へえ、晝間はおみつつあんといつしよにお針してゐやはります。うちへ歸つて百姓するのはいやだし、今更親達や村の衆に顏を合せる氣もないから、大阪で何處ぞへ奉公したいとも云ふてゐやはるさうです。」
「ふうむ。」
一人の女が、せつぱ詰つた苦艱に遭遇して居るのだから、どうしても救ひ出さなくてはならないと考へて居た三田は、存外登場人物が平氣らしいのに驚いた。世の中は廣くて深いなあと、彼は自分の一本氣を顧みて耻ぢる心持さへ起した。
それでも三田の心の底には安んじないものがあつた。何といつても、若い女を監禁して居るのは許し難い。いくらおつさんが口説いてもいふ事をきかないと云ふけれど、それも何時迄持堪へるかわからない。萬一暴力に訴へたら、それつきりではないか。どうしても其處に至る前に救ひ出さなければならない。三田はしきりに機會をうかゞつて居た。
或晩散歩に出て、それとなくおみつの家の前を通り、あかるい町の方へ行つた時、小間物を賣る店から、湯上りらしく、ふだんよりも白粉の濃いのがくつきりと夜の町に浮んで出て來たのはおみつだつた。笑顏を傾けて行過るのを、三田は思ひ切つて呼止めた。
「何ぞ御用ですか。」
「一寸話があるんですけれど。」
呼止められて、日和下駄の音をとめたおみつが、女らしい不安を浮べて居るのを見て、三田は不圖口ごもつた。何處へつれて行つて話をしたらいゝか迷つたのである。
「あなたこれから何處かへ行くんですか。謠の稽古ですか。」
「はあ、いゝえ、別段急ぐ事も御座りません。」
「そんなら暫くつきあつて下さい。決して長くは引止めませんから。」
三田はそのまゝおみつの家とは反對の方へ歩き出した。往來の人があやしんで見て過るのがいやだつたのである。おみつはつゝましく一間ばかりの間隔を置いてついて來た。
西洋料理屋だの鳥屋だの蕎麥屋だの、いれごみのうちは避けて、三田は小料理屋を選んだ。
「おいでやす。お上りやす。」
帳場に坐つて居るおかみさんが、ぢろぢろ客種を觀察しながら、不精つたらしく迎へるのをうしろにして、急な梯子段を上ると、右と左に一室づゝある座敷の往來に面した小さい方に通つた。壁の上に品書の貼つけてある程度の小料理屋で、求められゝばさのさ位はうたひさうな女中が、これも二人をうさん臭さうに見ながら注文をきいた。
みつくろひのさかなに酒が出て、御酌には及ばないといふと、
「そんならよろしうお願ひしまつさ。」
とおみつに挨拶して引さがつた。
「實はね、あなたにきゝたい事があつてね。」
三田は手酌で飮みながら話をきり出した。小ぢんまりとして綺麗な顏ではあるが、何時も物足りなく思はれるのはおみつの表情の無い事だつた。往來で呼止められて、小料理屋の二階に連れて來られても、別段何の動搖も無い、きめの細かい薄皮の顏をあかりの下にはつきり見せて、行儀よく坐つてゐた。
「あなたのうちの二階に、醉月のおつさんが居るでせう。」
「へえ、ゐやはります。」
「そのおつさんの外に、若い女の人が一人ゐやあしませんか。」
「へえ、ゐやはります。」
何の話かと思つてゐたら、おつさんの事なので意外らしかつた。
「私はよくは知らないのだが、その女の人は、男に捨てられて身投しようとしたのを、通りかかりのおつさんに助けられたとかいふ話だけれど、ほんとですか。」
「さうやさうでして。」
「ところが其後おつさんは、その人をあなたの家の二階から外に出さず、いふ事をきけと云つて責めて居ると云ふ事だけれど、そんな怪しからない事があるんですか。」
それが事實ならば許して置けないと思ふので、自然と語氣が強くなつた。おみつは自分が咎められて居るやうな驚を見せた。
「何とか彼とかいふてゐなさるやうですけれど……」
「それでおつさんは無理にどうしようとか云ふやうな事は無いのですか。手荒な事でもするといふやうな。」
「手荒な事をなさるやうな事はおまへんでつしやろ。」
「だつて一週間も二週間も根氣よく口説いて居るといふのだから、どうしても駄目だと見たら亂暴しないとも限らないでせう。」
頼りにならない相手の返事に少々苛々して、食臺についた肱にも力が入つた。
「そない云はゝりますけれどなあ、女さんの方が體も大きうて、おつさんよりも強さうに見えますよつて、大事おまへん。」
三田ははり詰めた氣が弛んで吹出しさうになつた。
女を監禁してゐる惡漢──それがよぼよぼの涎の垂れさうなおつさんなのは張合が無いが──に對し、自分は義血侠血に富むひとかどの役柄を引受けて、目出度く救ひ出さうと云ふ緊張した場面を想像して居たのに、話が進めば進む程劇的要素の減つて行くのは喰ひ足り無い事であつた。三田の心持は、少なくとも當の女は逃げようにも逃げられず、絶間無い責折檻に苦しめられ、悲歎にくれてゐる位の事は當然ある可き事だと思つてゐた。けれども、根掘葉掘訊き糺してゐるうちに、段々それは裏切られて行つた。
「けれどもねえ、何故女の人は逃げ出さないんだらう。おつさんが手荒な事をしないのなら、逃げられさうなものぢやあないかと私は思ふけれど。」
「それは逃げようと思ふたら逃げられん事はおまへん。けれども、逃げたかて行くところも無いさかい、えゝ奉公先でも見當る迄は、辛抱してゐた方がよろしうおまつしやろ。」
どうしても親もとには歸らないと、その女は云つてゐるさうである。
「では別段泣かされてゐるわけでも無いのかしら。」
「はじめは泣いてゐやはる事もおましたが、それかつておつさんがいぢめるからと云ふわけでも無いのです。やつぱり女ですからなあ、身を投げようと思ふたり、知らぬうちに連れて來られたりして、心細う思ふたのでつしやろ。」
「そんなら今は泣いてはゐないのですか。おつさんが見張をしてゐるから、何處にも行かれないといふわけでも無いのですか。」
「見張はしてゐやはります。そないせんかてよろしいのに。」
三田には何の事だかわからなくなつてしまつた。
「では、おつさんと一緒にゐるのはいやではないのかしら。」
「いゝえ、いやはいやですわ。けれども、命は助けて貰ふたし、着物を買ふて貰ひ、御飯も喰べさせて貰ふた義理もおますよつてなあ。」
三田は又してもぎやふんと參つた。おつぎやおりか同樣、此の娘も衣食の爲めにもの入りをかけたからには、むげに振もぎつて逃げては濟まないといふ考を持つて居るのであつた。
「そんなら其の義理を果す爲めには、おつさんのいふ事をきく義務があるともいへさうですね。」
自分の道徳觀とあんまり違ひ過るので、三田は皮肉な質問をした。
「それですがな。本人は大阪で奉公したいいふてゐやはるので、そんならえゝところに奉公させてやるからと、おつさんが又口説かはるのでつせ。」
心持顏を紅くしはしたが、おみつはあたりまへの事のやうに話した。つまり、たゞ口説いたのでは女も承知しないが、奉公口を探してやるといふ交換條件で、完全に落さうといふ事なのだ。そして女の方も、奉公口さへ探してくれゝば、うんといひさうな話だつた。三田は世の中の廣いのに驚嘆した。
おみつはいくら勸めても遠慮して箸を取らなかつた。
「えらいすみませんけれど、頂いて歸つても大事おまへんか。」
病氣の父親に土産にするといふのであつた。最初からその積りで、ちつとも箸をつけなかつたのかもしれない。三田は女中を呼んで勘定を命じた。
おみつは、自分の分と、三田が喰べ殘したのとを一つの折に詰めて貰つて大事さうに提げた。天ぷら鹽燒はいふ迄も無く、お椀の中の魚もあつた。
おみつの家の二階にゐるおつさんと、おつさんが助けて來て且口説いてゐる女にかゝはる三田の心配は少しは減つたけれど、二人の關係はいふ迄も無く、おつぎ、おりか、おみつなどの態度も、三田の潔癖が承認しがたいところだつた。どうにかして、おつさんの手から女を解放して、面白くない取引の行はれないやうにしてやらうと思つてゐると、或日會社の歸りに、おみつの家の二階の窓に顏を出して居るおつさんを見つけた。何時もにたにた笑ひかけるのを、知らん面して通過るのであつたが、三田はその日思ひ切つて此方から聲をかけた。
「おつさん、いつぱい飮まうか。蛸安はどうだい。」
「よろしいな。」
もう酒の香が鼻をつくやうに相好を崩して應じた。
「今晩行かうか。」
「行きまほ。」
「それぢやあ後で誘ひに來るよ。」
しめたと思ひながら、三田は宿に歸つた。急に他所で飯を喰ふ事になつたからと斷つて、湯に入ると直ぐに支度をして出た。暗い夜で、つめたい風が埃を吹きつけた。
おつさんは待兼て、寒いおもてに顏を吹きさらしてゐた。
「こない寒い晩は、御酒の事だんな。」
鳥打帽子を目深にかぶり、毛糸の襟卷に顎を埋め、背中をまるくしながらしきりに水洟をすゝり込む。川岸に出ると風はなほ更強くなつた。
「旦さん、あんた蠣嫌ひだつか。」
「嫌ひぢやあない。」
「蛸安もよろしいが、どうで御馳走になるのやつたら、蠣船よばれましよか。」
おつさんは突然立停つて提議した。
「蠣船やつたら、あてがえゝとこ知つてゐますがなあ。」
「僕は何處でもいゝ。蛸安に限るつてわけでは無いのだから。」
「ほしたら蠣船にしまほ。どて燒や、からまぶしや、酢蠣、みなよろしいな。」
おつさんはすつかり滿足して、今來た方へ引返した。醉月の前をこつそり通り拔け、次の橋袂にある蠣船に三田をつれて行つた。
「今晩は。」
川岸から渡した踏板を踏んで、馴染らしく聲をかけた。
「ようお越し。誰かと思ふたらおつさんだつか。」
水に近い食臺を占めた二人のところへ、年増の女中が來て挨拶した。
「旦さん、あんた何あがつてだつか。酢蠣いひまほか。」
「何でも君の好きなものをあつらへてくれ給へ。」
おつさんはあれこれと自分の好みを云つた。
「あのなあ、お兼ゐたらなあ、ちよと呼んどくれんか。」
あつらへを聞いて立つて行く女中を呼止めて、頼みながら、樂しさうな笑を滿面に浮かべて、厚ぼつたい唇をなめた。
お銚子を持つて出て來たのは、がつしりと肥つた若い女中で、健康さうな頬邊の色、笑はない時にも微かな皺の寄つてゐる目尻、くくり顎の線のはつきりした、何處から見ても善良で、生活力にみちみちてゐた。客馴れない事は、薄べりを踏む足つきにも歴然とあらはれてゐた。
「いよう、今晩は。」
おつさんはしまりの無い口尻から涎をたらしさうな相好をして、頓狂な聲を出したが、相手はまるつきり無感動で、食臺の上にお銚子を置いて、別段お酌をしようともしない。もう一人の年増の方が、どて燒の鍋や、生蠣の大皿を運んで來て、あんばいよく並べて行つた。
「こちらは醉月のお客さんや。」
自慢さうに三田を紹介し、
「お酌もようせん仲居さんも面白おまつしやろ。」
と三田の方には女中の事をそれとなく引合せた。さう云はれてお銚子を取上げて、女は不器用な太い手で酌をした。
「旦さん、この仲居さんはまだ新米だすさかい、氣のきかんところはかんにんしておくんなはれ。」
おつさんは盃を大切さうになめながら、素晴しい機嫌だ。
「お馴染かい。」
「お馴染もお馴染、うちの娘みたいなものですが。」
へらへら笑ひながら、おつさんは手持無沙汰に惱んでゐる女から目を放さない。
「旦さん、許して貰ひまつせ。ひつれいとは思ふけれど、きつちり坐つとつたらお酒がおいしうないわ。」
堅く膝を合せ、足のうらにお尻を乘せてゐたのが胡坐になると、一層酒の味がたちまさるのであつた。
三田は惡酒に閉口してゐた。喰べさせる物はうまいけれど、年中口中に涎のたまつてゐるおつさんと、ひとつ鍋をつツつくのもいゝ氣持はしなかつた。
おつさんは舌たらずの口で一人で喋つた。無言で、どつしりと坐つてゐる女中を促しては三田にも自分にも酌をさせ、その酒の味をほめながら、押頂くやうにして飮んだ。たるんで皺の寄つた顏にも脂肪が浮き、お金を出さないでいくらでも飮める酒の嬉しさは、かくす事が出來なかつた。
「旦さん、えらいひつれいですが。」
先刻から手放さない盃を、さして來た。三田は涎のたれさうな厚唇のあつたかみの殘つてゐさうなのに辟易したが、受取らないわけにも行かなかつた。
「僕は麥酒の方がいゝなあ。」
三田は全く弱つて、逃口上を考へながら、受けた盃を下に置いた。
「麥酒だつか。あのやうな苦いものがなんでおいしいのやろ。天下にお酒程結構なもんはあれしめんがなあ。」
「兎に角僕は麥酒だ。」
「さうだつか。旦さんは麥酒がえゝ云ふてはるさかい、早う持つて來てあげなれ。」
女中はせき立てられて立つて行つたが、その後姿を見送つて、おつさんは聲を落し、
「旦さん、あの女なあ、男に捨てられたいふて、川にはまつて死なうとしたのを、わいが助けてやつたのだつせ。」
と一大事を打あけるやうに云つた。
「え、あれが?」
三田は不意うちを喰つて息を呑んだ。
「ほんまだつせ。若い女のくせに、むちやしよる。」
おつさんは、功名話がしたくてうづうづしてゐる厚唇をなめて一膝乘出した。
おつさんの話は、おつぎやおりかに聞いたのと同じで、大雨の夜の川端で偶然助けた女を連れて歸り、身の上をきいて見ると男に捨てられた口惜しまぎれに死なうとしたと云ふので、なだめすかして思ひ止まらせ、その後衣食の世話をしてゐたといふのであつた。たゞ違ふところは、無理口説きに口説き通してゐたといふこと丈である。話のなかばにお兼といふその女は麥酒と酒のおかはりを持つて來て、二人の間に坐つたが、別段自分の話をされてゐるといふ事に特別の色も動かさなかつた。まるつきりの山だしだけれど、はちきれさうな健康な顏つきには、つくろはない愛嬌があつて、助平な年寄が愛撫の手を出したがりさうなところは認められた。
「どこぞ大阪で奉公し度い云ふので、よろしい、命を助けたついでに、それも世話してやらうとこない云ふてなあ、あちらこちら聞合せたあげくに此のこゝのうちへ連れて來ましてん。」
折角さした盃をうけつぱなしにされた形で、何時かへつて來るかと待つてゐても埓があかないのに我慢出來無くなり、そうつと手を延ばして取戻して、又ちびりちびり飮み始めた。
「しよんべん臭い百姓の伜にだまされよつて、えゝ事した迄はよかつたが、犬ころみたいに捨てられたかつて、川にはまるいふのは阿呆らしいやないか。廣い大阪には、お日いさんも照れば花も咲く、色こそ白うはないがまんざら捨てたきりやうでも無し、よう分別するが悧巧といふもんやぜと、此のおやぢが説法して聽かせました。」
醉へば醉ふ程おしやべりになるおつさんは、長過てあつかひ惡い舌で上下の唇をなめながら、くどくど繰返して自慢をする。
「人間一人救ふた心持は何ともいはれまへんな。これも天子樣の赤子の一人やさかい、おかみから御ほうびが下つてもよからうと思ふけれど、まだ下らん。」
三本四本徳利が空になつて、おつさんのろれつは愈々あやしくなつて來た。三田は時折麥酒に口はつけるが、心持が重たくなつて、いたづらに煮詰まる鍋を見てゐる事が多かつた。身投しようとする女を助けたといふ丈でも緊張した話なのに、その女を監禁して口説いてゐるといふ驚く可き事件に昂奮して、ひどく悲痛な人生の奧底に直面したやうに感じてゐた三田は、案外何の葛藤も無く、當事者は當事者相應の考へで、すらすらと解決して行くのに驚く外は無かつた。可哀さうなめにあつてゐるだらうと思つた女が、存外壯健な肉體と無頓着な精神をもつて目の前に坐つてゐるのも、本來ならば目出度い筈なのだが、なあんだ下らないと思ふ心を禁じ兼た。それにしても、おみつが話したやうに、此の女は奉公口を求め、おつさんがいくら口説いてもたゞでは應じないので、その奉公口を見つけてやるからいふ事をきけと云つてたといふのがほんとなら、此の女も結局蠣船の女中に世話して貰つて、うんと云つたのかしら。果してさうなら、何處迄世の中は單純で複雜なんだらう。全く無神經らしい健康な女を見てゐると、おつさんのやうなぢいさんでも、何の交換條件も無しに身を任せさうな氣もして、三田の心は呑氣になつた。彼は川波に少し搖れる舷に肱をついて、つかれた肚の底から欠伸の出て來るのを噛み殺した。
そんな事には頓着無く、おつさんは相手にしても面白く無い三田をうつちやらかして、女の方にしきりに話しかけてゐた。
「なあ、二度と浮氣したらあかんぜ。惡い奴にだまされたら、又身を投るやうな事になる。うゝい、死んではなみが咲くものかいふ事知つたるか。」
冷たくなつた徳利の底の酒をしたんで飮んだが、もう體の上半分の重みが支へ切れないで、
「旦さん、もう飮めまへん。若い時は家倉も飮んだおやぢだが、もうあかん。」
といひながら、ずるずると滑るやうに横に足を投出し、
「ひつれいさせて貰ひましよ。」
とぐつたり倒れると、まるまるとはちきれさうに盛上つた女の膝を枕に寢てしまつた。
年の暮になると、一年の總勘定の決濟に集つて來るのであらう、諸國の商人で醉月も忙しさを極めて居た。醉月が忙しいばかりでは無い、大阪中が何となくざわざわして、ぼろい儲をしたのか儲けそこなつたのか、何れも昂奮して血眼になつて居るやうだつた。
ついぞ懷にありあまる金のはいらない月給取さへ、誘ひ込まれて多忙がつてゐた。三田は別段平生と變つた事も無かつたが、新聞社から受取つた長編小説の原稿料も夙につかひ果し、月末に賞與金を貰ふのを樂しみにしながら、逼塞してゐた。さう云ふ時には、半分はやけになつて勉強するのが、彼の精神修養の方法だつた。たまには酒を飮みに行き度い衝動もあつたけれど、何をいふにも懷中が承知しないので、只管机にむかつてゐた。
月のなかばに、田原に誘はれて同窓會に顏を出したのが、久々で人中へ出る事であつた。ホテルの廣間を借りて、安い會費で催す、あたじけないものではあるが、時々出席して置くと、寒暑の挨拶状などを出さないでもいゝやうな氣がするのであつた。
つきあひ下手の三田でも、珍しいといふのが一徳で、會場では存外もてた。殊に最近迄新聞に連載されてゐた小説の作者だといふのが、人々の好奇心をそゝつた。食堂では田原と並んで席に着いた。恰度向ひあはせて、見た事のあるやうな、無いやうな、大兵肥滿の男がゐたが、田原とは知あひらしく、ことばをかはしてゐた。柄こそ大きいが、ぶよぶよ肥りの色白で、いかにも大阪育のぼんちらしいところのある、善良さうな人だつた。
「井元さんは三田君知つてゐませんか。」
「へえ、御高名はかねがね承つて居りますけれど。」
「さうでしたか。それでは御紹介しませう。三田君です。井元さん、日華洋行の大將さ。」
双方に口をきいて、ひきあはせた。
「樟先生ですな。せんど新聞に御作の出とります時は、毎日樂しみにして愛讀して居りました。私よりも家内の方は殊にあなたの御作が好きでして……」
自分達よりは確かに三四年先輩に違ひ無いのに、まるつきり商人らしいへりくだつた態度に出られて、口の重い三田は殆んど何もいへなかつた。それよりも、相手が日華洋行の大將だといふ事が、彼の胸をどきつかせた。
「日華洋行といひますと土佐堀の……」
「さよです。どうして御存じで。」
「私は御近所に下宿して居るものですから、散歩に出たりして記憶にあるのです。」
「へえ、さよですか。ちと御立寄下さい。むさくるしい所ですけれど。」
三田は無心でいふ相手の言葉にも顏が赫くなつた。しかし此の人の店に彼の娘がゐるのだと思ふと、話をしてゐても嬉しかつた。他人で無いやうな氣もした。こんな素性の知れてゐる人の店に彼の娘がゐるといふのが安心だつた。
「井元さんなんざあ、大したものなんだ。全く自分一人の店で、思ふやうに經營出來るんだからなあ。」
田原は、あんまり思ふに任せない自分の會社とひきくらべて、心から羨ましさうだつた。
會のおしまひ迄田原と三田は一緒だつたが、井元はつきあひが廣いと見えて、あつちこつちと人中を廻つて歩いて居た。大男に似合はない細い聲で笑ふのが、その特徴のひとつだつた。
三田の心には樂しい空想の花が開き始めた。日華洋行の主人井元安吉と知合になつたのが手蔓になつて、何といふのか名前は知らないけれど、その店に勤めてゐる美しい娘と口を聞く機會が出來さうな氣がした。此の半年の間、日曜祭日を除いては、大概一日に一度か二度は往來で擦違ひ、先方こそついぞ振向いて見た事も無いが、此方にとつては大阪中で一番忘れ難い人なのだ。いつたん近づいたら、極力いゝ印象を與へるであらう。交際する。土佐堀に端艇を浮べて月を見る景色を、年の暮だといふのにはつきりと想ひ描いた。それから父母を説いて結婚に同意させる。仲人には田原夫妻を頼まう。其處迄考へた時、最も頑固にありきたりの社會の掟を守る兩親が、おいそれと承知しない事で空想はつまづいた。しかし、兩親が反對するといふ事も亦、結局それに打勝つてしまへば、かへつて後の喜びを深くするだらうと思ひかへした。
就中緊張したのは同窓會の翌日の朝、會社へ行く途上で當の娘に出あつた時である。今日はと呼びかけて、いきなり帽子を取つて挨拶しても差支無いやうな氣がした。
けれども、三田の空想は長くは續かなかつた。同窓會で始めて紹介されてから僅かに三日目に、井元安吉は自殺してしまつた。
その日、何も知らないで執務してゐる三田のところへ、田原が突然やつて來た。
「おい、井元が死んだよ。」
と昂奮して調節を失つた聲で云つた。
「死んだ?」
「やつちやつた。」
田原は額に短銃の筒口を押當てる形をして見せた。
「今曉一時、天王寺の自宅でやつたんだ。先刻知らせがあつたものだから一寸行つて來たが、悲慘だよ。細君と、子供が三人、六十幾歳だかになるお母さんが居る。」
井元は日華洋行の營業成績が面白く無く、方々へ不義理が出來た上、最近不渡手形を出したのが世上の噂になると、根が善良過る位善良な人間だから、おもひつめて自命を絶つたのだ。彼は養子で、先代が一代に築き上げた商賣と身代を、自分の失敗で失ふ申譯なさが、遺書に認めてあつたさうだ。
「それにしても同窓會に出て來た時は、如何にも世の中が面白さうな顏をしてゐたぢやあないか。」
色白のぶよぶよ肥りの大男の笑顏は、はつきりと目に浮ぶのであつた。
「ところがね、同窓會に出たのも、みんなに袂別を告るつもりだつたらしい。細君の話によると、此の一週間ばかり、のべつに親類や友達のうちを訪問してゐたさうだ。」
「死を決してから、あれ程柔和に笑つてゐられるものかなあ。」
三田は、たつた一度口をきいたばかりだけれど、其の人の動かし難い覺悟をもつて行つた死を惜んだ。從容として死に就くといふと、おそろしくいかめしく聞えるが、たよりの無い大阪辯で、柄に似合はぬ細い聲で笑ひながら人々の間をあちらこちらと愛嬌を振まいてゐた井元にも、しつかりした肚はあつたのだ。
連立つておもてに出ると、夕刊の新聞には寫眞入りで、人の不幸をいゝ材料にして書立てあつた。
「どうも俺は他人事とは思へないよ。日華洋行つていへば、一時は素晴しいものだつたからなあ。俺だつて何時なんどき變な羽目に陷らないとも限らないんだ。げんに、今度の決算次第で、專務さんもまた失職者となるかもしれないんだ。」
「そんな事があるものか。」
「いゝや、あるんだ。今夜話すから聞いてくれよ。」
田原は友人の死に深く感動してゐた。三田は田原がしきりに繰返す井元の死に關聯する事柄に耳を貸しながら、一方には彼の娘が今後どうなるかといふ事を心配して居た。
田原と三田は、北の新地に近い金ぷらや千種の二階で、又新しく井元の死をいたみながら酒を飮んでゐた。晝間井元の家に馳つけて、無慘な死體を見て來た田原は、酒が胸に閊へ、それをまぎらす爲めに飮むので、一層醉つてしまつた。
「三田公、俺はほんとに又失職だよ。」
醉ひは醉つても、ふだんのやうにはしやがないで、田原は自分の會社の業態の面白くない事、それよりも内輪の重役や大株主の間に意見がもつれて困つて居る事を、彼には似ない愚痴つぽい調子で話すのであつた。田原を專務取締役とする車輛會社は、創立後左程の年月も經てゐないので、比較的に營業費は嵩み、積立金も少ないから利息收入も多く無く、堅實な遣口で行けば、當分無配當で押通し、後日の發展を待つ可き筈である。しかし、事業そのものに熱情を持つて居るのは田原以外には一人も無く、大阪式の目先の金儲ばかりを考へて居る連中は、三期も四期も無配當を續けて行く辛抱は出來兼る。そこで田原を壓迫して、其の年の上半期には無理に四分の配當をさせた。ところが此の下半期の決算には、六分の配當をさせようと云ふ株主間の意見で、總會を間近に控へながら、田原は極力反對してゐるが、金力の差は如何とも爲方が無く、あく迄自説を主張すれば、彼は辭表を提出する外に途が無いと云ふのであつた。
「そんならどしどし配當をして、みんなを喜ばしてやればいゝぢやあないか。收支相つぐなはないといふ譯ではないんだらう。」
三田は、年中理想論に惱まされて居る田原を、面倒臭く思つてゐた。職工の待遇の改善を何よりも急務とする彼の主張には同感するが、外の會社との竸爭に堪へられ無いのはわかり切つて居るのだから、先づ儲けて後に志を行へばいゝと考へ、又あからさまに注意もした。田原が理想家としての美點は、實業家としての弱味だつた。
「そりやあ多少の利益はあるんだ。しかしその利益たるや到底六分の配當は不可能な位けち臭いものなのだ。俺はあと二年間無配當で我慢してくれゝば、その後は八分の配當を保證してもいいと云つてるんだが……」
彼は無理にうはべ丈の利益勘定を捻出して蛸配當をする事は、結局何時迄も會社の状態を不安ならしめるものだといふ事と、例によつて職工の待遇改善の急を説いて止まなかつた。
「しかし、我輩と雖も失職の苦しみを再び繰返すのは實に辛いんだ。」
「再びなもんか。もう四度か五度は失職したらう。」
「ほんとだ。だが三田公、冗談ぢやあないぞ。毎日々々會社へ出かけて行つた者が、いちにち中うちでぼんやり暮らしてゐるのは堪らないぞ。女房は段々不機嫌になる、子供は最も敏感で、お父さんどうして會社に行かないのつて聞きやあがるんだ。あの苦しみ丈はとても堪らない。」
「そんなら株主の望み通り配當をしてやるのさ。」
「それが俺に出來るかい。」
田原は醉つて重たくなつた頭を横に振つた。
翌日三田は何時もよりも早く宿を出た。日華洋行がどんな樣子になつてゐるか知り度かつたのだ。會社に行くのとは全く方角が違ふのだが、同窓の先輩として、一度でも口をきいた人の死を弔ふのは當前だといふやうないひ譯を心の中にたゝみ込んで居た。
店の入口には本日休業と書いた紙が貼つてあつたが、中には頻に話聲がしてゐる。一瞬間躊躇したが、三田は思ひ切つて重たい開閉扉を押して中に入つた。整然と机は並んでゐるが、店の人達は仕事なんか手につかないらしく、あつちこつちにかたまつて、昂奮して話してゐた。主人の並ならぬ死に驚いたのと、今後の店の運命と、自分達の生活の心配と、入りまじつた混亂が、誰の顏色にもあらはれて居た。
三田は身震ひするやうに固くなつて帽子をとつた。目の前の、受附と書いた札の出て居るところに、あの娘がつゝましくひかへて居るのを見たのである。
「私は井元さんと同窓の者ですが、此度の事については深く同情して居ります。御宅へ伺ふのがほんたうだとは思ひますが、御近所に居りますので、こちらへ御悔に伺ひました。」
ついぞ使つた事の無い名刺を出して、兵隊のやうな切口上で述べた。
「えなみさん、何の御用?」
奧の方の机に坐つてゐる中年の社員が、椅子から立上らうとするのを見て、受附の娘は受取つた名刺を持つて行かうとした。
「たゞ御悔に伺つたばかりです。よろしく。」
三田は呼止めるやうに聲をかけて、もう一度叮嚀に頭を下げておもてに出た。方々の家の屋根には露霜の置く朝だつたが、額に汗を覺えた。人の不幸を弔ふ爲めとはいふものゝ、あの娘を見に行つた事は否まれなかつた。それが三田の心をたしなめた。
けれども、長い間たゞ途上で擦違ふばかりだつた娘と口をきゝ、自分の名刺を殘して來たのは少なからぬ滿足だつた。えなみさんといふ苗字も知つたが、江南かしら、榎並かしら、江波かしら──と考へながら、銀杏返の生際のいゝ優しい顏だちを想つた。
次の日の朝は何時もの通り、一筋道の向ふから急いで來るえなみさんの姿を見て、三田は胸を躍らせた。昨日日華洋行の店さきで口をきいたのだから、今日は帽子をとつて挨拶しても失禮ではあるまいと思つた。よした方がいゝかしらとも勿論考へたが、間近く來ると明かに先方でも自分を認めてゐる樣子なので、彼は黒い中折の山に手をかけた。けれども、えなみさんは明かに此方の視線を避けるやうにうつむいて、知らないふりをして通り過ぎてしまつた。三田は振かへつて、遠ざかつて行く後姿を見送つた。五六間行過たえなみさんは、何と思つてか半身を柔かくくねらせて振向いた。幾月の間、往來であふ度に三田は立どまつて見送るのだつたが、先方はついぞ振かへつた事が無かつたのだから、三田は不意うちを喰つたやうにあわてゝ歩き出した。
それつきり、その娘を途上に見る事も無くなつた。朝夕の物足りなさに驅られて、三田は又わざわざ日華洋行の前を通つて見たが、店はすつかりおもてをしめて、商號の金文字で書いてあつた看板も取はづされて居た。
その年も愈おしつまつて、田原はたうとう辭表を提出した。前期の四分さへ無理だつたのに、秋になつてから一般の不景氣のあふりを喰つて業績はおもはしく無いにも拘らず、どうしても六分の配當をしろと云ふ一派の大株主の壓迫に、死物狂で戸別訪問迄して對抗策を講じたが、結局力盡きて敗れたのである。反對派の手強い壓迫の底には、單に一期や二期の利益配當を欲しがる慾得づくばかりで無く、事毎に社會思想家がつて、理想論を振廻す田原を、小面憎く思ふ姑根性が潜んで居た。月の始めから再三重役會を開いて懇談しても、ねちねちと意地惡く絡んで來る相手方の態度に憤慨して、田原も自分の背後に控へて居る等の父親や親類の關係を辿つて一味を糾合し、華々しく決戰しようとした。しかし、味方と思ふ人の中にも、あまりに理想に走り過て居る所論をあやぶむ者も多く、殊に昂奮して來ると激越な調子になり度がる田原を危險思想の持主かと惧れる者もあつて、うまく纒まらなかつた。おまけに、反對派は田原の戸別訪問を陰謀と見做して反對宣傳を試み、此の方はうまうまと効果を收めたのであつた。その爲めに、田原の失脚は株主間の不信任の結果だと云はれても爲方の無い形になつてしまつた。
「おい三田公か。今最後の重役會で思ふさま奴等を罵倒したあげくに辭表を叩きつけてやつた。今晩は引退祝をやるから出て來てくれ。」
その日田原は電話をかけて來た。受話器をあふれるやうな高調子で、如何に彼が憤懣に堪へ無いでゐるかは推測する事が出來た。
三田は此間田原自身から、地位を保つ事が難かしい状態に陷つてゐると聞くよりも前から、密かに今日ある事を心配して居た。今時珍しく明るい性質で、物の一面しか見る事をせず、陰影には全く氣の付かない美點といへば云ふ可き特性が、到底現在の商賣人として成功させない事は、人間性に眼を光らせてゐる小説家の見逃さないところであつた。殊に普通の勤人としては再三失敗したのが、有力な身内の者の後援で、突然專務取締役の要職に就いたといふ事も不自然だつた。加之此の天降りがおとなしく從來のしきたりを踏襲して行かない。事の成否は頓着無く、よくいへば一歩進んだ施設を實行しようとするのだが、惡くいへば先走つた事をやらうと云ふのだから、反感を持たれ、あやぶまれるのはわかり切つてゐる。三田は田原の電話が切れた後、しばらくの間、如何に善良なる人間にとつて、現在の世の中は住みにくいかを考へさせられた。
一度宿に歸つて、湯に入つて和服に着換へ、田原の指定した曾根崎新地の茶屋に行くと、田原は既に蟒を相手に酒を飮んで、眞赤になつて居た。
「どうもあんまりむしやくしやするもんだから、蟒姐さんのお勸めに任せて先に始めちやつた。三田公、今晩は痛快に飮むぞ。」
「何いふて。社長さんは何時も宵の口には威張くさつて、あてがそろそろえゝ心持に醉ふて來る頃には、僕歸るよか、それで無かつたら、葉牡丹さんの膝枕で高鼾ときまつてゐるわ。」
蟒は既にコツプを手にして、うまさうに咽喉を鳴らして居た。
「おいおい、もう社長さん社長さんと云つてくれるな。今日から廢業だつて今話したぢやあないか。社長どころか、失業者だ。」
「かめへん、かめへん。社長さんみたいなやゝこしい御商賣せんかてよろし。そないな事にくよくよせんと、おいしいおいしいお酒を飮む方が悧巧だつせ。」
「そりや蟒さん姐さんのやうに禿頭がついてゐれば安心だけれどね。」
「大きに。あんたの御父さんはちやびんと違ひまつか。當分その毛脛を噛つてゐたらえゝ。」
「いやあ、こいつは參つた。」
後へひつくりかへりさうな恰好をして、田原は自分の頭を兩手で抱へた。
田原がむきになつて車輛會社に對する不平不滿をぶちまける事と想像し、如何に慰めなだめようかと考へてゐた三田は、意外に陽氣な座敷の景色に安心して、蟒の差しつけるコツプを受けた。
「田原の社長廢業を祝して乾盃しよう。」
「よからう。」
「プロヂツト。」
蟒が柄にも無い事を云つて、コツプとコツプを觸合せた。
三箇日と新年宴會の五日は、會社も休みだつた。大晦日迄はたてこんでゐた醉月も、元日には客といつては三田一人で、三番の野呂も休暇を利用して東京にゐる妻子のところへ行つてしまつた。
宿の娘とお米は島田に結ひ、外の者も小ざつぱりしたみなりに化粧をして、一人々々叮嚀に年頭の挨拶に來た。
三田は、無闇に厚ぼつたい新年の雜誌の幾册かを、此の休みのうちに讀んでしまはうと思つて、元旦から机にむかつて居た。あひにくうそ寒い曇日ではあつたが、往來には羽子をつく者もあつた。
「三田さん、あんたも羽子つきしませんか。」
と女中がかはるがはる呼びに來たが、三田は相手にならなかつた。
「三田さんみたいな人見た事無いわ。お正月の元日から、机にかぢりついて勉強してゐやはる。」
と話してゐるのが、三田の耳にも聞えて來た。
「三田さん、おみつつあんが遊びに來てゐやはるさかい、一寸御いでやす。」
午後になつて、又おつぎが呼びに來た。恰度長々しい小説を讀終つたところだつたので、三田も氣分をかへる爲めに、
「よおし。」
わざと元氣よくこたへて本を閉ぢると、勢よく立上つた。
「げんきんなものですな。おみつつあんが來やはつたいふたら、直ぐにこれや。」
先に梯子段を下りたおつぎは、階下の連中にむかつて笑ひながら報告した。あけ放した玄關前の往來で、みんなは羽子をついてゐた。根の高い島田に結つたおみつもまじつてゐた。
「さ、今度は三田さんとおみつつあんやし。」
「三田さんの御尻叩いてやらんならん。」
無理に二人を向ひあはせに立たせて、追羽子をさせようと云ふのであつた。
ひとめ ふため
みあかし よめご
いつやの むかし
ななやの やくし
ここのつ とふオ
上方らしい悠長な節でうたふのにつれて、三田は不器用な恰好で羽子をついた。
夕方からは霙が降出したので、三田の部屋隣の一番廣い座敷で、双六や歌留多が始まつた。はじめのうちこそ、正月氣分で遠慮の無くなつて居る女中達になぶられてゐるのも面白かつたが、三田は長くおつきあひをして居る根氣は無かつた。それでもなかなか解放して呉れないので、お酒を貰つて一隅で飮んでゐた。
夜遲く迄無禮講の遊びは續いた。三田はお相手にあきあきして、酒に醉つたのを口實にして引さがり、床に入つて雜誌を讀んでゐたが、そのうちに眠つてしまつた。
不意に、どたんばたん音をさせて侵入して來た人數に驚いて目をあくと、女中達がおみつの兩手をとり、後からは一人が押して、無理やりに三田の部屋へ連込んで來たところだつた。
「三田さん、おみつつあんを一緒に寢せてあげとくんなはれ。」
「おみつつあんはなあ、三田さんが好きやいふてゐやはりまつせ。」
口々に勝手な事を喋りながら、おみつを三田の夜着の中へ押入れようとする。おみつはさうはさせまいとして、疊の上に膝をついてあらがつてゐる。三田が半身起しかけると、女中達はおみつ一人を殘して、ばたばた廊下へ逃出した。
「おいおい、一寸待つてくれ、ちよつと。」
三田は寢たまゝで聲をかけた。
「あのねえ、おみつつあん一人では可哀さうだから、みんなで雜魚寢しよう。」
忍び足でもどつて來たお米が首を出して、
「え、雜魚寢? あたしらおかみさんに叱られますがな。」
と口ではいひながら、いかにも面白さうに反問した。
「叱られるかどうか、ためしに聞いて來てごらん。僕の御使だと云つて。」
「ほんまだつか。」
念をおして、げらげら笑ひながら馳けて行つた。しばらくたつて、三人の女中は一緒に歸つて來た。
「おかみさんにたづねましたらなあ、ほんまに三田さんみたいな物好な人はあらへん。うちの女衆で間に合ふ事でしたら、どないになりと御隨意に願ひますと、こない云ふてゐやはりました。」
「よし、そんならお隣の部屋で雜魚寢だ。僕は此のまゝ寢てゐるから、蒲團の四隅を持つて運んで行つてくれたまへ。」
女連はげらげら笑ひながら、隣座敷に床を敷き、やがて三田のいふ通りに、おみこしの如く運んで行つた。
えらいやつちや、えらいやつちや、えらいやつちや、えらいやつちやと口々にはやしながら。
三田が目を覺ました時は、女達は一人殘らず起きた後だつた。夜具もすつかりかたづいて、ただ何となく女臭いいきれの漂つてゐるのが名殘だつた。
顏を洗ひに階下へ下りて行くと、女中達が一齊にお早うをいふのといつしよになつて、おかみさんも聲をかけた。
「三田さん、昨晩は女衆の寢言や齒ぎしりやおならをきかされて、ようやすまれへんでしたやろ。」
「僕は何も知らないで寢てゐたが、頭の一つや二つ蹴飛ばされたかも知れない。」
「三田さんのいははること。おみつつあんの方ばかり向いて寢てゐやはつたくせに。」
お米が横あひから口を出し、どつと笑ふのを背中にして、地下室へ下りた。
「旦さん、御目出度うさん。」
思ひもかけないおつさんが、洗面器をごしごし洗ひながら頭を下げた。
「せんどはえらい御馳走さんになりまして。」
「どうしたの。又此處のうちへ歸つて來たのかい。」
「へえ、やうやく勘當がゆりましてん。」
今にも涎のたれさうな口を開いて、げらげら笑つた。
「お兼さんか、蠣船のあの人はどうしたい。」
「うふふ、しようむない田舍者ですが、旦さん又今度行てやつとくんなはれ。」
三田はばりばりの髭にかみそりを當てながら、正月らしい呑氣な心持を感じた。年があけると同時に許されて、再び閾をまたぐと云ふ事が、ひどく面白かつた。
昨日につゞく寒い日で、霙から雨になつてなほ降つてゐた。終日雜誌を讀む積りで机に向つたが、おちつかない。田原のところへでも行つて見ようかしら。寂しがりの弱虫だから、失職の打撃の後の正月を、さぞかし悄氣て暮らして居る事だらう。今から行つて誘ひ出して、晩には一ぱい飮まうかな。三田は間も無く心を決めて、机の抽出にしまつてある蟇口を出して見た。確にその中にあつた筈の十圓札が一枚なくなつてゐた。
盆暮の賞與か、たまにはいる原稿料の外には、まとまつた金を持つた事の無い三田は、銀行との取引は無かつた。銀行預金としたところで、どうせ短時日に引出してしまふのだから、ろくに利子のつく筈も無い。それよりも手數のかゝらない方がいゝと云ふので、現に暮の賞與金は手つかずに、押入の柳行李の底にしまつてある。毎日の小遣は蟇口に小出しにして、これは無雜作に机の抽出にほうり込んで置くのであつた。それが十圓札一枚と一圓札二枚と、銀貨銅貨をまぜて都合十圓なにがしかあつた。年中ぴいぴいして居る癖がついて、なかみがいくら殘つてゐるかは、よく承知して居るのである。念の爲めに柳行李の方も調べてみたが、これは新聞紙に包んだまゝどん底に入れてあつて、無事だつた。
前にゐた下宿では、盜癖のある小婢がゐて、時折間違があつたが、此處に來てからは安心して居た。たしかに盜られたに違ひ無いが、昨日の晩床に入る時にはあつたのだから、雜魚寢の爲めに隣の部屋へ行つてからの出來事でなければならない。眞夜中の事かしら、朝になつてからの事かしら、何れにしても疑ふべき人間は、女中達とおみつの外に無かつた。
數箇月の間、一度も斯うした間違ひは無かつたのだから、冷靜に疑の絲を辿つて行けば、他所から來たおみつを第一に數へなければならない。假におみつの所業として、夜中にみんなの寢息をうかゞつて雜魚寢の部屋を拔出したとすると、あんまり度胸が太過ぎる。又、三田の机の抽出に蟇口がほうり込んである事を知つてゐるわけは無いと考へると、疑は第二の人間にかゝるのが至當である。そんなら女中達の中の一人か。三田は忌はしい嫌疑に濁つた頭を轉換させる爲めにも、此の部屋に居るのがいやになつて、田原の家をこゝろざして出た。
御影の田原の家はひつそりして、あるじの悄氣てゐるのに引込まれ、子供達迄つまらない姿をしてゐるだらうと想像してゐたのにひきかへ、方々の酒藏の間をぬけて海邊に出ると、早くもその家の騷ぎが聞えて來た。小雨の横なぐれに降りそゝぐ海を見はらす二階には、澤山の人數が酒を飮んでゐて、三田は門をくゞるのを躊躇した位である。
「どちらさんです。」
出迎へたのは酒びたしになつたやうな男だつた。ずるつこけさうな袴を引ずつて、坐つても體中ふらふらしてゐた。
「三田さんですな。」
念を押して、とつつきの梯子段を、あぶない恰好で上つて行つた。
「まあ、三田さんですか。どうぞ御上り下さいまし。」
いれちがひに田原の細君が、空の徳利を兩手に持つて下りて來た。
「大變な騷ぎですね。」
「えゝ會社の職工さん達が年始に來てくれまして、殺風景では御座いますけれど、兎に角御屠蘇だけでも祝つて頂きませう。」
女學校出とは思はれない、舊家に育つた面影のある細君は、正月の儀式をおろそかにしない風があつた。
「折角みんなが愉快に騷いでゐるところへ、私のやうなものが飛込んでは面白くないでせう。又出直す事にしませう。」
「そんなことは御座いませんのですよ。三田さんさへ我慢して下されば、あの人達は……」
さういつて押問答をしてゐるところへ、
「よお、三田公。どうしたんだ。あがらないつて事があるか。」
と大きな聲を梯子段の中途からかけて、朱面のやうに醉つた田原が下りて來た。
「一寸でもいゝから上つてくれよ。工場の奴等が失脚專務をなつかしがつて來てゐるんだからな。とても愉快なんだ。」
彼はいきなり三田の手をつかんで、力任せに引上げようとした。
「あぶない。」
細君が聲をしぼつたと同時に、足駄の足下のしつかりしない三田は友達を支へ兼て二人は一緒に玄關の三和土の上へ倒れた。
「大丈夫だ、大丈夫だ。」
「あなたは大丈夫でも三田さんはたまりませんよ。どうかなさりはしませんか。」
「いゝえ。」
三田は友達を扶け起し、細君に心配をさせない爲めに、相手を抱上るやうにして二階へ上つた。
「諸君、僕の竹馬の友三田公です。御紹介します。」
田原は自分の隣に三田を坐らせた。
「御目出度う御座います。」
「始めまして。」
十疊の座敷からはみ出して縁側にゐる者迄、一齊に坐り直して挨拶した。中には脱ぎすてゝあつた紋つきの羽織を着る者もあつた。折角水いらずで飮んで居たところへ、自分達とは樣子が違ひ、しかも正月だといふのにふだん着の着流しと云ふ形を見て、一座はしばらく聲が止んだ。
「おい、みんな飮め飮め。酒ならいくらでも其處いらの酒庫にある。三田公なんかに遠慮する必要はない。こいつはタンクといふあだ名のある男なんだから、みんなで盃をさしてやつてくれ。」
「へい、そんならえらいひつれいですが。」
先づ一人年長者らしいのが盃をさすと、急ち十幾人が、あつちからもこつちからも、獻盃に集まつて來た。
「大將、話せらあ。」
最初玄關に取次に出たのが、さつさと返盃する三田の手際を稱讃したので、一座はどつと笑つた。直ぐに一人の異分子は、殆ど存在しないものゝ如く、失脚した重役を取卷く職工連の、何のくつたくも無い酒盛となつた。
「大將、大將はうちの專務さんとは友達だといふ事だが、今度の事についてはどういふ御意見です。」
中では一番年の若いのが、盃を持つてやつて來て、ぴたりと三田の前に坐つた。
「僕は一介の職工であります。しかし、生意氣なやうですが、生れながらの職工ではありません。多少學事にこゝろざした事もありましたが、今は生産的勞働者たる事を天職と心得、田原專務の理解ある指揮の下に働いてゐるものであります。否、働いてゐたものです。」
少し出齒で、おまけに醉拂つてゐて唇が乾く爲め、演説口調で喋ると、唾が飛散する。惡い相手につかまつたものだと、三田が苦り切つてゐるにも拘らず、田原は頗る滿足の體で、
「此先生は中學出でね、第一の新思想家なんだ。八時間勞働要求の時なんか、僕もさかんにいためつけられたんだ。勿論こつちも率先して實施しようとは思つてゐたのだが、外の重役の奴等が同意しやあがらないんだから……」
「專務さん、それは吾々にもわかつてゐました。專務さんの立場はわかつてゐたけれど、既に吾々も世界的に目覺めて……」
「やい、學者よせやい。旦那方はそんな事あみんな御承知なんだ。」
「一文にもならん演説なんぞせんと、御酒を祝ふのが正月や。みんなして歌でもうたふたら、專務さんも喜ばはるやろ。」
二三人年とつたのが、若い中學出をたしなめた。
「何を云つてるんだ。そんな幇間根性でゐるから結束した運動が出來ないんだ。吾々が父とも思ふ專務さんが、横暴なる資本家に壓迫されて辭表を出すといふ時に、吾々が懷手して見てゐられるか。うたなんかうたつてゐる場合ぢやあ無いぞ。」
「何いひくさる。口ばかり達者でも、工場へ出て見い。一人前のうではあらへんやないか。」
「馬鹿な、問題が違ふわ。」
「違ふ事あらへん。仕事も出來んおぬしみたいなもんに、口きゝづらされたらえらい迷惑や。」
「何だと。貴樣達が意氣地無しで、勞働者の生活を改善する事を知らんから、何時も口をきいてやるんだ。」
「阿呆、何ぬかす。わがのやうな若僧に頼まんかて俺達は困る事あらへんぞ。」
「低能ツ。」
「阿呆。」
突然殺氣だつた二三人が立上つた。
「待て、待て。待つてくれ。」
夙にべろべろに醉つて、すべて其の場の事は自分を思ふ人々の熱情のあらはれだと考へていゝ氣持になつてゐた田原も、愕然として目の前の御膳を蹴飛ばしながら立上つた。すんでの事に修羅場となりさうだつた座敷の眞中に、田原はどつかりと胡坐を組んだ。
「諸君、まあ靜かに聞いてくれたまへ。」
もとより演説は學生時代から飯よりも好きで、殊におだてのきく大衆相手の芝居がかつたのは御手のものだから、正になぐりあひさうだつた者も席について、一瞬間座敷は緊張した。
「諸君、諸君の熱情には感謝する外に言葉がない。私は諸君と仕事をするやうになつてから、一日たりとも諸君の爲め、會社の爲めによかれと念ずる事を忘れた事は無い。私は馬鹿だ。世間見ずだ。書生つぽだ。御坊ちやんだ。低能だ。阿呆だ。しかし、自ら耻ぢないのは、私は誠心誠意を以て、諸君の爲め、會社の爲めに盡した事である。勞働時間の制限、賃銀の増額、養老積金の創設、寄宿舍の改善等、未だ理想的とは申兼るが、少なくとも或程度迄は目的を貫徹した。不肖田原が微力を以て、頑迷不靈の金力主義者等に對抗し、鋭意諸君竝びに會社の幸福繁榮をはかる爲めに日も足らざりしは、諸君の認むるに吝ならざるところと敢て信じます。然るに今囘會社百年の爲めに正論を唱へ、飽迄も初志の徹底を期して奮鬪したるも力及ばず、遂に辭表を提出するの止むなきに至り、再び會社に於て諸君と見ゆる事の出來ない身の上となりました……」
田原は何時の間にか自分自身の雄辯に感激して、涙を一ぱい眼に溜めて居たが、我慢が出來なくなり、嗚咽して言葉も途絶えた。膝に手を置いて固くなつて聽いてゐた職工達も、醉つた時の感傷性も手傳つて、水洟をすゝり始めた。
「わかつた。專務さん、もう何も云つて下さるな。吾々は團結して專務さんを擁護するんだ。未だ遲くは無い。諸君、團結せよ。」
中學出の職工はいざり出て、田原の手をとりながら叫んだ。感動の極、おいおい泣出した大の男もあつた。
三田はこつそり劇的場面をすべり出て、細君にだけいとまを告げておもてに出た。雨は益々しげく、風に飛ぶ潮のしぶきと共に吹きつける。小石のごろごろする濱邊を、傘を斜めにして通る頭の上で、
「田原專務萬歳。」
と、二階をゆるがす合唱が聞えた。この醉拂ひの聲を、三田は不思議に寂しく聞いた。絶間無く岸を打つ浪の音よりも、萬歳の聲は長く耳の底に殘つた。
机の抽出の中にほうり込んで置いた蟇口の中の十圓札が一枚紛失した事は誰にも話さずに三田の肚の中にしまつてあつた。若しいひ出して誰彼に嫌疑がかゝつても面白く無い。盜んだやつが舌を出してゐる事を考へると癪にさはるけれど、盜みもしない人間が疑はれたり、調べられたりするよりは我慢が出來る。第一机の抽出に蟇口をいれて置くといふのがよく無いのだと、結局三田は自分の不注意を戒めたばかりだつた。
松の内も過ぎて、東京から歸つて來た三番の野呂は、毎晩お米を相手に酒を飮んでゐたが、何時盜まれたのか財布の中の五圓札が一枚なくなつたと騷ぎ出した。
「僕の財布の中の札が一枚消えてなくなつたのだが、誰か心當りは無いか。鼻紙だの半巾と一緒に床の間に置いて、一寸風呂に入つてゐる間の出來事なんだ。たしかに五枚あつたのが四枚しか無い。」
女中三人を部屋に呼びつけて、大きな聲で怒鳴るやうに訊くのであつた。
「野呂さん、ほんまだつか。うちでその樣な間違のあつたゝめしが無いのに、どないしたんでつしやろ。」
「あんさんのおもひ違ひではおまへんか。」
お米とおつぎが交々いふのにつゞいて、おりかの聲も聞えた。
「だつて野呂さんをかしいぢやありませんか。どうせとるのなら財布ぐるみ持つて行きさうなものですねえ。五枚あると思つてゐても、ほんとは四枚だつたのではないでせうかねえ。」
「そんな事があるもんか。今日歸りに買物をした時、十圓札三枚を五圓に兩替して貰つて、その中の一枚丈拂つたんだ。」
「そんならその時落しはつたのと違ひまつか。」
「誰が落すもんか。大枚五兩だぜ。」
口さきで訊いたからとて埓のあかない事はわかり切つてゐるのだが、その埓のあかなさに野呂はじれつたがつて居る樣子だつた。
「お前達の中で、僕が風呂に行つてる時此の部屋に來のは誰だ。」
おどかせば白状させる事が出來るとでも思つてゐるのか、一段と居丈高になつた。
「あたしは來やしません。臺所が忙しくて、そんなひまはありませんでした。」
「おつぎさん、あんた二階にゐたんやないか。」
「いゝえ、階下で干物取入れてゐた。あんたこそ野呂さんの洋服たゝんでゐたのやないのんか。」
「何いふて。野呂さんが御風呂場に行かはる前に、あてら階下に下りてん。」
三人とも互に無關係な事をあきらかにしようと、とりとめも無い事をいひ合つた。
「お客さんいふても三田さんの外にはゐてはらへんし……」
先刻から耳をすまして聞いてゐた三田は、自分の名前が出たのでどきつとした。つい此間自分も蟇口から札を一枚拔取られたので、他人事とは思はれなかつた。入物ごと取るので無く、目立たないやうに一枚ぬき取る方法迄同じだとすると、同一犯人である事は確かだ。一番深い疑をかけてゐたのはおみつだつたが、あれは全く見當違ひだつたと思ふと、その人は殊に犯人にし度くなかつたのだから、安心に似た心持もあつた。しかし、自分の名前が不圖耳に入つた時は、三田も流石に胸が騷いだ。まさかに嫌疑をかけられようとは考へられないが、相手が自分に對して好意を持つてゐない人間だから何ともいへない。三田は十圓札を盜まれた時に、いち早く問題にしなかつた自分の手ぬかりを悔いた。
「さうするとお前達は、一人も此の部屋には足踏しなかつたといふんだな。」
野呂は又同じ詰問を繰返した。
「五圓札一枚はあきらめてもいゝけれど、此の部屋で金がなくなつたとあつては、安心して醉月に止つてゐる事は出來ない。場合によつてはおもて沙汰にしても調べて見なくてはならん。」
女中達はすつかり脅かされてしまつて、何の意味も無い事をくどくどとつぶやきあつてゐるばかりだつた。その時、
「みな二階で何してる。ぺちやくちや喋つて居らんで、早う來て御膳だてせんならんで。」
梯子の下で、おかみさんの叫ぶのが聞えた。
「へえ、今直に行きます。」
お米の細い聲が廊下に出て答へた。
「何してんのや。三人ともかたまつて。」
「今、野呂さんのお金が失せた云はゝつてなあ。」
「何? お金がなうなつた?」
仰山に驚いた樣子で、とんとん梯子段を上つて來た。
「野呂さん、あんたとこでお金がなくなりましたのか。」
「あゝ、一寸風呂に行つた間に、財布の中から五圓札を一枚ぬかれてしまつた。其處のところに置いといたのだが。」
「へえ、ほんまだつか。あんたの思ひ違へではおまへんか。あたしとこでは開闢以來そのやうな事はあらへんのやがなあ。」
おかみさんは自分のうちに惡名をつけられたやうに思つてゐるらしく、中腹な口のきゝ方だ。
「開闢以來ない事だと云つたつて、現に僕の部屋で、僕の財布の金が盜まれたんだから爲方が無いぢやあないか。」
「ほしたら誰ぞ盜んだと云はゝるのですな。」
「まあさう考へる外に爲方が無いぢやないか。」
「そんなら誰がとつたかわかつてゐますか。うちでお金が紛失したと云はれては、そのまゝにはして置かれへん。」
「誰がとつたかわかつてゐれば文句は無いさ。わからないから訊いてゐるんだ。」
「お前達覺えはあるか。」
おかみさんはかみつくやうに女中達に訊いたが、その實野呂に對する敵意を示す爲めに意氣込んでゐるのであつた。
「覺えは無いといふのだよ。誰も此の部屋に足踏しなかつたと云ふんだ。不思議ぢやあないか。此の三人の外には、一番の三田さんといふ人しかゐないんだからねえ。」
「野呂さん、置いて貰ひまつさ。お金は尊いものには違ひないが紙でこしらへたものでつせ。何時何處で落さんものでも無し、又勘定違ひといふ事もおまつしやろ。滅多にうちのお客さんの事なんぞ云ふて貰ふたら困りますがな。」
「誤解してはいかんよ。僕は一番のお客を疑ふなんて事はないんだ。たゞね、此の三人の外には二階にゐる人はあの人丈だと云つた迄さ。」
聞いてゐる三田は坐つてはゐられなかつた。野呂の言葉には確かに自分を疑ふ調子は含んでゐないで、矢張女中を怪しんでゐる事は明白で、自分の外は即ち三人の女中だといひ度い爲めに引合に出してゐるのだとは思ふが、それにしても不愉快だつた。
「よろしうおま。あんたの念ばらしにみんな裸にして調べて貰ひまつさ。お前達せんぐり着物からおこしから振ふてみせてあげ。」
突然おかみさんの男性的な聲が、一際強く響いた。
「お米、お前から着物ぬいだらえゝ。お前が野呂さんの一番お氣に入りらしいからなあ。」
「おかみさん、裸になるのはかんにんしとくれやす。」
「何も耻しい事なんぞあらへんがな。お前は何處から何處迄野呂さんにお目にかけた筈やないか。それ位の事はわかつて居る。お客さんの念ばらしにすつぱり脱いだらどうだ。」
我儘で癇癪持のおかみさんは、自分の氣に喰はない事にぶつかると、ふだんのあけすけな心持に、意地の惡さを加へて、散々に當り散らかさなければ承知しないのであつた。
「さ、早う帶解いたらえゝ。愚圖々々してゐたら埓があかんわ。」
「おかみ、何もさう迄いはなくたつていゝぢやないか。誰も女中達を裸にして見せろとは云やあしない。たゞ心當は無いかと訊いたばかりなんだ。」
見るに見兼るといふよりも、全く自分を目ざしたおかみさんのあてつけに辟易して、野呂はなだめる態度になつた。
「いゝえ、あんさんはよくてもこちらが心持が惡い。醉月でお客さんの物がなくなつたとあつては、うつちやつては置かれまへん。あての氣の濟むやうに詮議せんならん。」
「そんな事を云はれては僕が迷惑だよ。たかが五圓札一枚で、みんなにいやな思ひをさせるのは僕の本意で無い。君が詮議したいのなら此の部屋を出て行つてやつてくれたまへ。」
「ほうだつか。えらい御邪魔しましたなあ。あては、あんさんがうちの女衆になくなつたお金の行方を訊ねてゐやはるのやと思ふて、お客さんの手をからんでも、自身たづねてあげるのがほんまやろと考へましてなあ、三人とも裸にむいてお目にかけようとしたのですが、そんならとつとと去にまつさ。さ、みなも早う階下に行つて働かんと又どのやうな事が起るかもしれへんぜ。」
捨ぜりふを殘して廊下に出たが、何と思つてか、三田の部屋に肥大な體を運んだ。
「大きな聲出してつまらん事いふて濟んまへん。さぞ御きゝ苦しい事ておましたやろ。」
ほんの挨拶のつもりで、襖を半分あけて顏を出した。
「お金が無くなつたとかいふんですね。」
三田も知らん面も出來ないので、机に向つてゐた體を扭向けた。
「へえ、三番の野呂さんの財布の中から五圓の御札に羽が生えて飛びましてん。あたしとこではついぞ其樣な事はおまへんのでしたが、不思議な事があるもんですなあ。」
大きな聲を出して濟まなかつたと詑に來たのが、一層大きな聲で、明かに野呂の部屋迄聞えよがしにいふのであつた。三田は勝ほこつたおかみさんの態度が面白くなかつた。
「不思議だねえ、僕の部屋でも蟇口の中の札が一枚羽が生えて飛んで行きましたよ。」
魔がさしたやうに皮肉な言葉が唇をついて出た。
「え、ほんまだつか。何時です。矢張今日だつか。」
急に聲を落しておかみさんは部屋の内に入つて來た。大きな聲を出されて、野呂に聞かれては困るといふ顏色が正直にあらはれてゐた。
「僕のは正日の元日か二日なんです。鍵もかゝらない此の机の抽出にほうり込んで置いたんだからこつちが惡いと思つて默つてゐた。けれども又向ふの部屋で同じ事があつたとすると、ちつと面白くありませんね。」
三田は机の抽出の中の蟇口から、十圓札一枚ぬきとられた時の事を、手短かに話した。おかみさんは何もいはず、引呼吸になつて聞いて居たが、
「三田さん、あんたのお話でちつと思ひ當る事もおますよつて、ひとつ洗ひ立てゝ見まつさ。それ迄は何も云はんとみてゐとくれやす。」
とひどく決心した樣子を示した。
「しかし、あんまり荒立てない方がいゝかもしれませんよ。どうも僕は人間を調べるのは嫌ひだ。」
折角の平和がみだれ、みんなに氣まづい事が起りさうな豫感があつて、三田は喋つた事を後悔した。
次の日から、おりかの姿が見えなくなつた。おかみさんは氣まりの惡いやうな、又一面には迅速に審いた手際をほこるやうな樣子で、三田のところへ挨拶に來た。
「えらい申譯の無い事てして……」
と前置しての話によると、犯人はおりかで、昨夜遲く迄責め糺したあげく、すつかり白状させたのである。
「あの女はちと足りん方でおましたが、心根は惡い者では御座りません。人さまの物に手をつけるいふやうな事は、滅多にする筈はないのですが、あのやうな面皰だらけの野猿坊みたいなもんでも、近頃情人が出來てあつたさうで、そやつに唆かされて惡心が萌したものと見えます。」
その情人といふのは此の宿の料理人で、年齡はおりかよりも二つ三つ若い、苦味走つたいゝ男だといふのであつた。それも勿論暇を出された。
三田はその料理人の後姿だけしか見た事が無かつた。隨分長い間の事だけれど、餘程變物と見えて、ついぞ他人と口をきいて居るのを見た事も無く、何時も薄暗い上方風の土間になつてゐる臺所で、齒のある下駄を穿いて庖丁の手を動かしてゐる姿丈が記憶にある。
その男と、つい近頃いゝ仲になつたらしく、おかみさんも氣がつかなかつたが、朋輩の者は、何となくあやしいと睨んでゐたさうだ。料理人は道樂者で、給金を貰ふと松島の遊廓に遊びに行つたが、おりかを手に入れたのは、金廻の惡い時の間に合せの意味と、もう一つには遊びの資金を貢がせよう爲めだつたらしく、おりかは頭の物迄取られた事もかくさずに話したさうである。たうとうしまひには、男のあく事の無い要求に據處無く、三田の蟇口から十圓盜み、それがわからなかつたのに安心して、今度は野呂の財布から五圓とつたのださうである。
「ほんにお耻しい話ですが、なんせあのやうな馬鹿者のした事ですさかい、こらへて頂かうと思ひましてな、此の通り頭を下げまつさ。」
おかみさんは丸髷のあたまを疊に近くして、ほつと一息ついたが、直ぐに帶の間から十圓札を一枚出して、それは自分が辨償するから納めてくれといふのであつた。
「そりやあいけない。君に辨償して貰ふなんて筋違ひだ。金を盜むのはよくない事だが、隨分長い間世話になつたのだから、おりかさんに御禮にやつたと思へばいゝ。それは絶對に御斷りします。」
三田は少しく不機嫌になつて、きつぱり斷つた。
「ようわかりました。あんたの氣性を知らん事も無いのに、あてが惡おました。かんにんしておくんなはれ。」
おかみさんはもう一度叮嚀に頭を下げて、三田が突返した札を帶の間にしまつて部屋を出て行つた。
行つたと思ふと、直ぐに三番の野呂の部屋で、今迄のひそひそ聲とはうつて變つた高調子で、
「野呂さん、今日はあてあやまりに來たのだつせ。」
と云ふのが聞えた。此處でも一部始終を殘らず話した上で、帶の間に用意してある札を出して受取らせようとするのであつた。
「そりやあいかんよ。本人が改心して返却するのなら兎に角、おかみに損をかけるといふ理窟は無いからなあ。」
あれ程威張つたおかみさんが、頭を下げて詑に來たので、野呂は完全に復讐した得意の體だつた。
「それではこちらの氣が濟みません。うちのお客さんの物がなうなつたのを知らん顏してゐては、責任いふものが明かでなくて面白く無い。あての性分として、これ丈はどうしても納めて貰はん事には、氣色が惡うて堪らん。何だ彼だといはんと、しまつといておくんなはれ。」
「さうか。そんならおかみの氣の濟むやうに取つて置かうか。」
「さうしておくんなはれ。これで氣分がすうつとした。」
わざとらしい男笑を高々と響かせて、おかみさんは梯子段を下りて行つた。
三田は聞いてゐて驚いた。こつちと向ふと、全く人を見て扱ひを別にしてゐるおかみさんのやり口は、あんまりはつきりし過ぎてゐた。
正月が過ると、宿屋は又忙しくなつた。各室ともふさがつて、今日も又幾組斷つたといふ事をおかみさんも女中達も自慢にして話した。料理人のかはりが來ないので、おかみさん自身重たい體で臺所の土間に立ち、たゞさへてんてこ舞して居る女中にのべつ幕無しの小言を浴せかけながら働いてゐた。斯ういふ場合にも、やがては高座の藝人にしたてる娘丈は、決して客の前に出さず、又水仕事などもさせないで、只管藝事ばかりを勵ませてゐるのだつた。
おりかのかはりも見つからなかつた。一人めみえに來たのはあつたが、腋臭がひどいといふ理由で採用にならなかつた。お米とおつぎとは二月の寒さにも、二階と階下の客の用で、額に汗を流して居た。
「えらいなあ。」
「ほんに、二人ではやり切れへん。」
廊下で顏を合せて、ほつと息をつく二人の口をついて、忙しさをかこつ言葉が出るのであつた。
「お前達、ほうびはたんと貰へるのやよつて、もちつと辛抱して、骨をしみせずと働いておくれ。」
叱るのだかなぐさめるのだかわからない調子で、おかみさんも頻に手不足を氣にしてゐた。
さういふ状態が一箇月近くも續いたが、二月の末になつて、おかみさんの姪だといふ二十三四の女が手傳に來る事になつた。それ程濃くない髮なのに、前髮も鬢もふくらませる丈ふくらませ、女中並の粗末な着物ながら、拔衣紋の形にたゞ者で無いところを見せた、色の冴えない平顏ながら二重瞼のはつきりした悧巧な目つきの、誰が見ても一寸いゝ女として許せる柄だつた。
「おときさんはなあ、うちのおかみさんの姪で、先頃迄生駒で藝奴に出てゐやはつたのだつせ。」
とおつぎはいちはやく三田に話した。生駒の聖天樣には、三田も山上りの意味で出かけた事がある。山の下の町は兩側に料理屋が並び、あやしげな藝者が出入する景色は凄いものだつた。おときは其處で稼いでゐたのださうだが、近頃すつかり體を壞してしまつて、商賣も出來ない爲め、養生の積りで手助に來たと云ふ事だつた。
おときは三田の部屋にも給仕に來た。平氣で人の顏を正面から見守るところにも、しやうばい人らしいところがあつた。三田がだんまりで居る爲めか、差向ひでは多く口をきかなかつたが、おつぎやお米は、
「おときさんは三田さんが好きやいふてゐやはりまつせ。」
と云つてからかつた。冗談とは知りながら、その事を思ひ出して、三田は愈々口がきゝ惡くなるのだつたが、女の方は三田の意氣地の無いのを見透したやうに、ぢいつと顏を見ながら、口元に皮肉な微笑を漂はせてゐるのであつた。
朝は外の女中と一緒に早く起きて、縁側や廊下の拭掃除迄しなければならないのだつたが、さう云ふ事には馴れない爲めか、體を壞してゐるので體力が續かないのか、大儀らしく縁側に横坐りに身を崩して、ひまを盜んだり、時には三田の部屋の前の籐椅子に腰を下して、捨鉢になつて怠けて居る事もあつた。
「あたし、あのやうな商賣してゐたものですから、惡い病氣になつてしまつたのですよ。」
とあけつぱなしに話しもした。
「三田さんも因果やなあ。おときみたいな女に好かれたらかなはん。」
とおかみさん迄もあたり憚らぬ冗談をいふやうになつた。
「あてはほんまに三田さん好きやわ。えゝ男やないけれど、無駄な口はこればかしもきかず、いやらしい事は少しも云はんし、男らしうてよろしいな。」
すれつからしは自分から面白がつて、輕い口を叩いた。わざと三田の給仕役は自分ときめてゐたが、變つた女が目の前にあらはれると、急ち好奇心を動かす野呂は、部屋を距てた向ふから、
「おときさあん、おときさあん。」
と尻を長く引張つて呼ぶ事もあつた。
「好かん奴。」
舌うちして、返事もしないでゐると、お米が野呂にそゝのかされて迎ひに來るのである。
「おときさん、一寸來てほしいわ。野呂さんがあんたの御酌でないとおいしい事無い云ははるよつて。」
「あたしら行かんかてあんたがゐたらえゝや無いか。あては一番の受持ときめた。」
「はあん、えらい御邪魔しました。濟んまへん。」
何がをかしいのか、きやらきやら笑ひながら野呂のところへ復命に歸つて、又仰山に笑ふのであつた。
おときは、今迄見た男といふ男のすべてが、直ぐに物にする機會を作らうとばかりするのに馴れて、男はみんなさうしたものときめて居たところ、まるつきり型の違ふ人間に出つくはしたので、珍しいもの好きの心から、からかつたりからかはれたりして、退屈を忘れようと云ふのだつた。何とかして相手にも氣を持たせる爲め、又一面にはほんとに眞面目に聽いてくれさうなので、これからの身のふり方を如何したらいゝかと相談する事などもあつた。
出來る事なら十分養生をして元氣な體になり、生駒なんぞはこりこりしたから、今度は大阪に住替てしやうばいをし度いと思ふけれど、自分のやうな藝無しでは、此の望はかなひさうも無い。今、或人に勸められてゐるのは、山陰道の米子で、藝者を抱へ度がつて居るのがあるから行つて見ないかといふ話で、此の方ならば何時でも先方から實物を見に來ると云ふ位乘氣なので、直ぐにも纒まるに違ひ無いが、鳥取縣なんてどんな處だらうと考へると心細い。いつたい自分のやうな女は、どうするのが一番いゝのだらうと云ふやうな話なのだ。勿論三田には返事のしやうも無い。どうせ何處の土地へ行つたつて、此の病毒の沁みた體を賣る外には途が無いに違ひ無いのだ。生駒だらうが、米子だらうが同じ事だ。三田にとつては、斯ういふ風に、全く浮ぶ瀬の無い人間を見る事は氣の毒で堪らない。しかし、それを救ふ力も無いのだから、結局氣持が重苦しくなるばかりだつた。
「ねえ、三田さん、あんたならどないしやはります。自分の事にして考へて見とくんなはれ。」
たゝみかけて無理な注文を出されて、三田は愈々閉口するばかりだ。
「だつて僕にはわからないよ。自分の事にして見ろつたつて、藝者になつた事も無し、生駒だつて米子だつて、君なら抱へようと云ふ人もあるだらうが、僕では誰も買ひもしまい。」
三田は苦笑の外に手を知らなかつた。
二月の末から三月へかけて、暖い日には宿の玻璃戸の外を、海の方から來る鴎の群が、雪白の翼をひるがへして飛ぶ長閑な日もあつたが、終日その玻璃戸をがたがた鳴らして吹く風の日も多かつた。びしよびしよ雨の降る日には、川の水も白けて寒く、見てゐる丈でも底冷がして、なかなか火鉢は手放せなかつた。
風の日には頭痛がし、雨の日にはお腹や腰が痛むと云つて、おときは客の居ない部屋の疊につつ伏して居る事が多かつた。早春らしい青空の日には、縁の日當に長々と眠つてゐる事もあつた。そんなだらしの無い恰好をして居るところを、おかみさんに見つかると、肚ではそれ程怒つてゐなくても、言葉の調子の男のやうに荒いのが、家中に響く小言を浴せかける。
「なんぼお前は寢て稼いでゐたといふて、晝日中寢そべつて居られては、うちの品行が惡う見えてかなはん。」
などゝ、相手の弱點を無遠慮にさらけ出すのを聞いてゐると、いつたん沈んでは浮び上れ無い女は一層可哀さうだつた。しまひには足腰も利かなくなり、骨も肉も腐つて來るのだらうと思はれた。
それでも、酒飮の客の前にでも出ると、外の女中とは違つて、お酌のしぶりも型に入つたところがあるので、おときさんおときさんとおだてあげ、うまく行つたらものにしようとする氣振を見せる者もあつた。
「知らん事故爲方も無いが、あのやうな女にかゝりあふたらえらい目にあはされますがな。」
とおときを嫌ふおつぎは、蔭口をきいて居たが、それが事實になつて現はれた。
「三田さん、あんた知つてゐやはりまつか。野呂さんがなあ、おときさんからえゝ物貰はゝつたのだつせ。」
白肥の顏中笑ひにして、さも小氣味よさゝうに話すのだつた。女と見れば機會をうかゞつて一度はどうにかし度いと云ふ好みの病的に強い野呂は、最初からおときに目をつけて居たが、おときの方では嫌つてゐた。ところがおときも小遣にも不自由する身の上なので、たうとう野呂の望をかなへさせたが、驚く事には其の仲立は、今でも引續いて野呂のお伽をつとめて居るお米だつた。しかも野呂は、お米の口から相手が病氣の體だと聞かされながら、たかをくゝつて引張込んで、結局今では醫者に通つてゐると云ふのだつた。
「おかみさんの云ふ事がどうでつしやろ。野呂さん云ふ人は、コレラの虫の居る魚を知りながらも喰べる人ですと。」
おつぎは朗かな聲で、面白をかしい男女情事の光景迄描寫した。
三田はその後廊下で野呂にあふ度に、人間の世の中の掟ををかして、天罰をかうむつた人を見るやうな、一種痛快な感想を禁じる事が出來なかつた。
「三田さん、あたしたうとう米子の方へ行く事になつてしまふたんですよ。」
おときが給仕に來て、遂に決心した事を話したのは、三月もなかばを過ぎてからだつた。何とかして大阪を離れ度く無いと思つて愚圖々々して居たけれど、もう目の前に花時も迫つて來て居るのに、着物をこしらへる事さへ出來ないので、思ひ切つて知らぬ田舍に行く決心をしたと云ふ。
「だつて君は體がほんとで無いつていふんぢやあないか。それで差支無いのかい。」
今でも醫者に通つて居る野呂をまのあたり見て居るので、此の女が山陰道の町に行つてからの事が、はつきり想像されるのであつた。おときは妙にむすめらしく羞を含んだ表情をして、心持顏を赤くしながら、
「何が差支る云やはりまんの。」
と首を傾けて、習慣性の微笑に、いたづらと捨鉢をまぜてきゝかへした。
「何がつて、困るだらう。」
三田は云ひにくくて、頬張つた飯を不器用にもぐもぐ噛みながら、自分の方が顏の赤くなるのを感じた。
「いやな三田さん、何も困る事なんぞあらしまへん。」
さういふ話をきつかけに、もつと冗談口をきいて居たいのがおときの肚だつたが、三田はそれつきり箸を置いてお茶を請求した。
「どうせ汚れた體ですもん、どうならうとかまふもんですか。御客だつてさうですわ。たかのしれたお金で人をおもちやにするのですさかい、ちつとやそつとのむくいは當前でつしやろが。」
突然何か癪にさはつたやうな口をきいて、自分を嘲るやうに笑つた。三田は、さういふ運命の下に居ない自分なんかには、何をいふ事も許され無いやうな氣がして、胸が重くなつた。
米子の藝者屋の主人だといふ六十近い婆さんが、隣の十疊の部屋におちついたのは、それから間も無かつた。生際のあだ白く拔上つた、黒眼鏡の下の鼻の、婆さんらしく無くつんと高いのが、根性をよく見せ無かつた。磨き込んだ爲めか、いやに赤味の失せずに光つて居る顏色も、かへつて邪險に見えた。それが猫撫聲で話をしてゐるのを、三田は忌々しく思つて居た。婆さんはおときの外にも一人二人抱へる爲めに上阪したのだと云ふ事で、五六日滯在してゐたが、愈々明日は歸るといふ晩には、仲に立つて口をきいた男などを呼んで、醉月で酒盛をした。おときと、もう一人米子につれて行かれると云ふ女が、二人とも島田に結つて立働いて居た。おときよりも年上の女は、三味線を彈いて流行唄をうたつた。
「三田さん、あたし明日立つ事にきまりましてん。」
酒が廻つて亂雜な騷ぎになつた座敷をぬけて、これも飮まされたらしいおときが挨拶に來た。
「それについて、あんさんにお願がおますが、かなへてくれはりまつか。」
三田の机の側にぴたりと坐つて、ひどく眞劍だつた。三田は何を云ひ出されるのか少々不氣味に思つて、默つて相手を見守つた。
「なあ三田さん、これが一生の御願ですがな。」
「御願つて何さ。御願にもいろいろあるからね。」
「あのなあ、あての名前をつけておくんなはれ。」
何かと思つて内心びくびくしてゐたところ、米子に行つてから、何といふ名で出ようか考へてくれと云ふのだつた。
「駄目だよ、僕なんかにそんな事を頼んだつて。それよりも生駒に居た時の名がいゝぢやないか。何ていふんだか知らないが。」
「生駒ではをかしな名前で、供奴いふてましてん。」
「供奴! いゝ名ぢやあないか。」
「いゝえ、お供の奴さんでは出世しまへん。なんぞ縁起のよろしい名前を考へとくんなはれ。」
「おときつていふ本名がいゝぢやないか。假名の名前は優しくていゝぜ。」
「おときだつか。本名はいややは。」
「そんなら小登喜さ。のぼるよろこびなら縁起もいゝや。」
「小登喜?」
矢張滿足はしない樣子だつたが、しばらくして、
「三田さん、頂いて置きまつさ。」
と叮嚀に頭を下げた。
翌日、三田が會社へ行つてゐる間に、おときは米子の藝者屋の婆さんにつれられて立つた。三田の机の抽出の中には、半紙に鉛筆で走書したものがはいつて居た。
三田さん、あたしは行きます。小登喜といふ名は大切に致します。
あなた樣も早くよい奧さんを貰ふて末永く御榮え遊ばされ度候。
花の少ない大阪の市民の口にも、造幣局の櫻の噂がのぼる頃となつた。醉月はおのぼりさんで賑つて、何時も手不足で困つて居たが、漸く料理人も新規に雇入れ、女中の補充には蠣船からお兼を連れて來た。ぽかぽか暖くなると蠣は禁漁になり、蠣船は貸端艇屋や、氷屋にかはつてしまふので、それを機會におかみさんは、おつさんと堅い約束をして、お兼を働かせる事になつたのである。約束といふのは、一切お兼には手を出さないと云ふ事で、その代償として當分の飮代をつかませた。
お兼はまるつきり氣が利かなかつた。大きな體の取廻しが惡く、何處か心にもうつろなところがあるらしく、お膳を落したり、瀬戸物を割つたりして、のべつにおかみさんの小言を喰つて居た。人間は極めて善良で、いくら叱られても默々として働いて居た。着物の着こなしが下手なのか、つんつるてんの感じの消えない、あく迄も山出しだつたが、邪氣の無い健康な肉體にはち切れる程漲つて居る若々しい血色は、好色者の好奇心を唆るところがあると見えて、おときに貰つた記念の惱みから漸く救はれたばかりの野呂は、早くもたゞならぬ冗談をいひかけるのであつた。
「野呂さん、あんたもあきれたものだんな。おときさんの事でもう懲々しやはつたらう思ふてましたがな。」
おつぎが大きな聲で云ふのが聞えると、
「おときさんには懲々したさ。だから今度は健康無比のお兼さんにしようと云ふんだ。いくら俺がちやびんだつて、おつさんよりはましだらうぢやあないか。」
と野呂の答へが續いた。
その野呂のもの好きに助勢するのは、相も變らぬお米だつた。お米が夜更にこつそりと三番から出て來るのは、今でも三田の目にふれるのだつたが、それにも拘らず男と女とをくつつけて見る異常な興味を持つてゐるらしかつた。
「お兼さん、ちよつと來て。野呂さんがえゝ物あげるいふてはるし。」
全く相手を馬鹿にしながら、野呂と共々にからかつて居るのであつた。
三田は野呂といふ男の、大法螺を吹く威張やで、女と見れば相手の人格を無視して直ぐに手に入れようとする態度を憎んでゐたので、此の田舍女が何んとかして肱鐵砲を喰はせてくれゝばいいのにと念じてゐたが、事實は雜作も無く裏切られてしまつた。
何時も銀杏返に結つてゐたお兼が、大きな束髮に變つた日の事である。おつぎは話をする前に顏中笑になつて、をかしくて堪らなさうに呼吸をはづませたものである。
「三田さん、三田さん。あんたお兼さんのつむりの大きい櫛見やはりましたか。あれなあ、野呂さんからのおつかひ物ですと。」
三田も不似合なお兼の廂髮のうしろに、大き過る位大きい西班牙櫛のさゝつて居るのを、をかしいと思つて居たが、それが特別の意味のあるものとは知らなかつた。いつたいあのカルメンの用ゐさうな圖でかい櫛は、思ひ切つて野蠻な風をしない限りは、どんな髮にも似合はないものとして三田は忌々しく思つて居たが、その時以來一層嫌ひになつた。
「あの人、前から束髮にしい度い云ふてゐたのですが、櫛が無いのんで、よう結ぶ事出來へんのでした、そこがそのなあ、お米さんのとりもちで、あの櫛ひとつで野呂さんとひと晩仲ようしやはりましてん。」
三田はあまりの不愉快にそれつきり取あはなかつた。
だが、野呂がお兼をためすのに成功した事は、お米とおつぎの口から、此の宿のみんなの耳に傳はつた。
「おつさん、あんた此の樣な事聞かされてどない思ふたるねん。」
何も彼もかくしておけないおつぎは、おつさんに迄話を持つて行つた。
「へえ、ほんまか。」
流石におつさんも驚いたが、
「たつしやなつもりでゐても、年とつたらかなはん。お兼みたいなもんでも、少しでも若い男の方がえゝと見える。」
よだれの垂れさうな大口を開いて、何のくつたくも無く笑つてのけた。
寒いうちは石垣の間にでも冬籠して居たのか、ちつとも姿を見せなかつた龜の子が、ぬるみ始めた水に夫婦でぽつかりと浮び出した。
「三田さん、次の日曜にお花見になと出かけまほか。」
「行かう。おみつつあんを誘つて。」
「おときさんよりもおみつつあんの方がよろしうおまつか。」
「そりやあいゝさ。あたし三田さん好きやわ、なんて人前で大きな聲を出さない丈でもいゝ。」
「そしたらお辨さげて行きまほ。」
そんな話をしてゐる頃であつた。陽氣がよすぎるので、會社の勤にはみが入らず、誰も彼も懷中の乏しきは氣ぶりにも見せないで、吉野に行かうとか、奈良の方がいゝとか、しきりに遠足の計畫も提案されて居た。
或日、三田が事務室の机の上に積まれた書類を整理して居ると、
「三田さん、面會です。」
と給仕の子供が、室の入口に顏を出して、いけぞんざいに叫んだ。三田は洋筆を置いて立つた。
「女の人ですよ。」
少し低能の癖に體ばかり年に似合はず發育して居る給仕は、いやみな笑を口許に浮べてさゝやいた。
女の訪問者なんか思ひもかけない事なので、全く見當がつかなかつたが、應接間の扉を開けると、意外にも其處に立つて居るのは、此の正月情人の爲めに盜みをして、醉月を追出されたおりかだつた。洋風の室に馴れ無い爲め、何處に體を置いていゝか見當のつかない樣子だつた。
「三田さん、御機嫌よう。御變りもありませんか。」
一見して下宿か安料理屋の女中としか見え無い女に、勤先へやつて來られて不機嫌な三田を見ると、元來金を盜んだひけ目のあるおりかは、一層身の置所に困つた風で、てれかくしに愛想笑を見せた。
「まあ、かけたまへ。」
三田は自分が先に手本を示して、無理におりかを腰かけさせた。ちんちくりんの女だから、卓子の上に面皰だらけの顏を載せたやうで、足は床につくかつかない形だつた。
「醉月の人達、お米さんもおつぎさんもみんな達者ですか。」
「達者だ。」
「おかみさんも?」
「あゝ。」
「野呂さんどうしました。」
「ゐるよ。」
それつきり話はきれてしまつた。其處に給仕がお茶を運んで來た。どんな客でも、應接間へ通つた人には茶を出すのが會社のならはしだつた。
「濟みませんねえ、あたしなんかうつちやつといて下さればいゝんだのに。」
そんな事を云ひながら、二三度縮毛の頭を下げた。給仕は吹出しさうな顏をして引さがつた。
「あたしねえ、今御靈さんの裏手の牛屋にゐるんですよ。洋食もありますがねえ。」
根比べのやうに三田は默つて居るので、おりかは爲方が無く口を切つた。
「へえ、あの人も一緒かい。」
「あの人つて?」
「君のいゝ人さ。」
「あらやだよお。誰があんな奴と一緒にゐるもんか。」
みそつぱをあからさまに、ひどく力んで否定したが、急ち聲を落して、
「三田さん、實はねえ、あいつのことで是非々々あなたにきいて頂き度い事があつて來たんだけど、どうでせうねえ。隨分あたし氣まりは惡いんだけど、大阪では外に知つてる人もないし、それに三田さんはなさけ深い方だから……」
おりかは料理人ともろともに醉月を追出されると直ぐにその牛屋の女中に住込んだが、梅田の驛近くの宿屋に口を見付た男の爲めに年中いたぶられて、折角の客からの貰ひも卷あげられ、おまけに晝日中呼出しに來られるのに辟易してゐたが、その牛屋の主人と云ふのが顏役で、おりかの打あけ話を聞いて、男と手を切らせるやうに話をつけてくれる事になつた。
「それについて少しばかしお金が入るんだけど、三田さん、何とかして頂けないでせうかねえ。」
おりかは流石に額から汗を流して頼むのであつた。
「つまり手切金かい。」
「いゝえ、手切金なんて程澤山は入らないんですよ。二十圓も貸して下さればいゝんですがねえ。あいつときれいさつぱり別れてしまへば、あんたにも長く御迷惑はかけないで、直きに御返し出來るんですがねえ。」
大阪には外に頼る人もなく、又三田程親切な人は無いので、氣まりの惡いのをがまんして來たのだと、繰返し繰返し、結局二十圓の金を貸して呉れといふのであつた。
三田はその話を信じなかつた。情人にみつがせられて困つて居るのは事實に違ひ無いが、牛屋の主人の顏役といふのが仲に立つた以上、手切金も主人が立替てくれさうなものである。殊に二十圓といふ僅な金高が、ほんとの手切金らしく思はれなかつた。こつちを御人よしだと思つてやつて來たんだらう。つい此間人の金を盜んで置きながら、よくものめのめ出て來られたものだと、ぺらぺら喋るみそつぱの口を、忌々しく思つた。斷然斷つてやらうと思つてゐるとこへ、給仕が呼びに來た。
「三田さん、支店長さんが御呼びです。」
三田は胸がどきんとした。何時迄もこんな女と差向ひで話をしてゐるのは面白くないと思つた。それで、
「話はわかつたがね、僕は今忙しいから、いづれ君の奉公してゐる牛屋に行つて見るよ。」
と云ひながら立上つた。
「何時來て下さいます。なるたけ早くね。」
「あゝ、今晩行くかも知れない。」
一刻も早く追出さうと思ふばかりだつた。
「では待つてますよ。」
何といふづうづうしいやつだらう、本來ならば來られた義理ではないぢやあないかと思ひながら、彼はうなづいて置いて、さつさと事務室に引上げた。
支店長室に入つて行くと、
「三田君、誰か女の御客さんださうだが、どういふ人だね。」
いきなり意外な質問に三田はすつかり面くらはされた。
「以前宿にゐた女中なんですが……」
「それが何か用事でもあるのかね。あまり私行上の事に迄立入つて世話は燒き度くないが、會社に迄たづねて來られるやうな間柄ですか。」
「いえ、私もづうづうしいのに驚いたのですが、金を貸してくれと云つて突然やつて來ましたのです。」
かくすにもかくす丈のいひわけは無いので、いつそ正直に一部始終を話してしまつた。まさかに金を盜んだやつだとは云はなかつたが、料理人とくつついて追出された事、その情人にいたぶられて困つてゐる事を詳しく述べた。
「しかし、特に君のところへ無心をいひに來ると云ふのはをかしいぢやあないか。」
支店長は疑のとけない樣子でつつ込んで來た。
「どういふ積りなんですか、私を一番親切な人間だと思ふと云つてやつて來たのですが……」
「三田君、いゝ加減にせんといかんぜ。親切は結構だが、あまり度が過ると馬鹿になる。」
さう云つて、さもをかしさうに全身に波を打たせてからからと笑つた。
會社の營業時間が終ると、三田は誰よりも先に仕事をしまつて追出した。晝間突然おりかにやつて來られて、ふだんから會社員の型にはづれて居る爲めに、三文文士だとか内職づとめだとか、兎角蔭口をきかれ勝だつたのが、一段と噂の種になつたところへ、支店長に呼びつけられた事迄も殘らず知れ渡つたので、數十人の社員の眼は、一樣に嘲笑の色を帶びて、三田の一身に注がれたのである。彼は全く敗走する兵卒の如く、人目を避けて退出した。
先刻おりかと別れる時は、何でもいゝから早く其場をきり上げ度い一心で、こつちから牛屋をたづねる約束をしたが、斯うなつてはいつそ直ぐにも出かけて行つて、手取早くけりをつけた方がいゝ。愚圖々々して居て又押かけられては堪らないと思つた。三田は御靈さんの境内の文樂座の前を通つて、裏手の狹い道に出た。直ぐ目の前に、かなり大きいすきやき屋があつた。三田は躊躇せずに入つた。階下は土間になつてゐて、洋食部と書いた黒塗の看板がかゝつて居た。三田は靴を脱いで、二階に上つた。
廣い二間つゞきの座敷には二列に食臺が並んで居たが、時間の關係か、客は一組も無かつた。
「おいでやす。お誂は?」
いかにも牛屋の姐さんらしい大柄の女中が、後にくつついて來た。
「あのねえ、此のうちにおりかさんといふ人ゐますか。」
「おりかさん?」
女中は折角誂物を訊いたのには答へないで、思ひもかけない事をいふ客をうさんくさゝうに見ながら、首を傾けた。
「おりかさん? そのやうな人は居たれしめへん。」
「ゐない? ゐない筈は無いがなあ。くりくり肥つた、背の低い、縮毛の、みそつぱで、面皰だらけの女の人なんだが。」
全く心當りの無い樣子なので、三田は即座に尋人の特徴を描出した。
「あゝ、ゐてはりま。その人やつたらおりかさんやおまへんで。おちかさんですがな。」
「おちかさん? 違ふ。僕のきいてるのはおりかさんていふんだ。」
「いゝえ、違ふ事あれしめへん。ちつこいくせによう肥つた、癖髮で面皰のあとの仰山ある人でつしやろ。その人やつたら、うちにゐてはりまつせ。」
三田の描寫はすつかり効果をあらはして、女は名前の違ふ事なんか問題にしないで立上つた。
「おちかさんでしたら、今直ぐに呼んで來てあげます。」
梯子段のところで、三田の人相をしつかりと頭にたゝみ込む爲めに振かへつて見たが、そのまま階下に下りて行つた。
間もなく姿をあらはしたのはおりかだつた。
「あらやだ。三田さんぢやあないの。お松さんたら、役者のやうないゝ男があんたを尋ねて來てゐるよなんて、すつかりかつがれちやつた。」
「なんだい、僕だつていゝ男ぢやあないか。」
「あらやだ。三田さんはいゝ男つていふんぢやなくて、頼母しい男なんですよお。」
おりかは、晝間の約束を守つて三田がやつて來たので、すつかり悦喜してしまつた。面皰つらを皺だらけにして、げらげら笑ひながら、一人ではしやいだ。
「今の人におりかさんて云つたら、そんな人はゐませんと云つたが、此處ではおちかさんていふのかい。」
「えゝ、その方が呼びいゝだらうと思つてねえ。」
おりかは名前なんか何だつていゝぢやあないかといひ度さうな無雜作を以て答へた。
「三田さんは御酒でしたね。牛肉ですか、かしわですか。かしわの方がいゝでせう。牛は臭くていやだねえ。」
一人で心得て、いそいそ立つて行つた。
煮つまる鍋を前にして、三田はおりかの酌で飮んで居たが、どう考へても自分の立場は不思議だつた。金を盜まれた女にまた金を貸してくれと頼まれ、うかうかと呼出された形で此處に來て居るのは、決していゝ役で無かつた。全く御人よしと見くびられてゐるのだと云はれても否めない。その馬鹿々々しい役廻を、何とか氣の利いた方に轉換する事は出來ないかしらと考へてゐた。斷然要求をしりぞけるのが男らしくていゝかしら。默つて二十圓ほうり出してやる方が、かへつて大きいかしら。
「どうしたのさ、三田さん。たんとあがつて下さいよ。うちの御酒惡くないでしよ。」
おりかは三田の默々としてゐるのを不機嫌と思つて、しきりに酒を勸めた。
「醉はせて口説かうといふのかい。」
「あらやだ。三田さんも人が惡くなつたねえ。」
「そりやあ惡くなるさ。おりかさんみたやうな凄いのとつきあつてゐるんだもの。今日も會社で君の爲めに叱られちやつた。」
支店長に呼びつけられて、油を絞られた話をした。
「あらまあ、濟まなかつたねえ。會社は女が行つちやあいけないんですか。」
「つまりみんなが燒餅やくのさ。」
「よかつたなあ。」
ひとに迷惑のかゝる事なんか何とも思はないらしく、面白さうに笑ふのであつた。
「それであんた何ていつたの。」
「君がいろ男にせめられて、金を借りに來た事を話してしまつた。」
「やだよ、三田さん。」
「さうしたら、そんなふしだらな女に一文も貸すなつて支店長が云つたよ。」
つい飮まされた、惡酒の醉が出て、三田は割合に上機嫌になつてしまつた。厚顏無耻なのか、無智の極罪が無いのかわからないおりかに對しても、とるにも足りないものに向ふ時の、ゆとりのある心持が湧いて來た。
「ふんとにあんたきいてくれないの。あたしの後生一生の御願なんですけどねえ。」
三田が冗談をいふ丈の心持になつたのと反對に、おりかは相手が頼りにならなくなつて、不安心らしく眞面目に訊いた。
「今その御金が無いと、あたしあいつの爲めにどんな目にあはされるかしれないんですもの。きつと御返しゝますから、何とか助けて下さいな。御恩は死ぬ迄忘れません。」
ほんとの涙か嘘の涙か、目の中を濡らして眞劍に膝を進めた。
「だがねえ、どういふわけで僕がさういふ役を振られるのか、それがわからない。お人よしだとか、甘いとかいふので目星をつけられたのかしら。」
「まあ、三田さんたら……」
面皰だらけのおりかの頬をつたつて、涙が落ちて來た。困つた事になつたぞと思つてゐたところに、どかどか二階に上つて來た三人連の會社員らしい客があつた。衝立も何も無い部屋だから、妙な場面に陷つてしまつた三田とおりかを、先方では早くもをかしく思つたらしく、しきりに視線を集めては、さゝやき合つて居た。三田は一層弱つてしまつたが、おりかは別段の動搖も見せないで、目頭に殘る涙を袖で拭いて、しばらくなほざりになつて居たお銚子を取上げた。
「もう御酒はやめる。僕は歸るから勘定してくれないか。」
一刻も居たゝまれない氣持がして、盃を拒んだ。
「まだいゝぢやありませんか。御飯もあがらないくせに。」
おりかはあわてゝ引止めようとしたが、三田は頭を横に振つた。
「それぢやあどうしても歸るんですか。三田さん、怒つてらつしやるの。」
「怒つてゐやあしない。たゞ歸るんだ。」
それが性分なのだが、ひとつの事を繰返してゐるのが嫌ひなので、おもはず語氣が強くなつた。おりかも爲方なく立上つて、勘定書を取つて來なければならなかつた。
勘定をすまして歸るばかりになつたが、つれなく歸つて行く自分の態度を辯解するやうな心も動いた。その瞬間に三田は拾圓札二枚をちひさくたゝんで、おりかの目の前にほうり出した。
「それでいゝんだらう。」
驚いてゐるおりかにはかまはずに、三田は勢よく立上つて一文字に梯子段を下りた。
「三田さん、濟みません。」
おもて迄おりかは追かけて來たが、三田はさつさと歩き出した。大きな朧月が、うすら明るい空にぼやけて浮んでゐた。ありもしない財布から、二十圓を無意味に投出した後の心持は寂しかつた。
「矢張俺はお人よしだなあ。」
此のせち辛い世の中に生きて行くのが心細いやうな感慨さへ胸に湧いて來た。
なまぬるい夜風に吹かれながら、ぽかりぽかり自分の靴の音をきいて歩いて居るうちに、味の濃過ぎた酒の臭ひも消えて、白々とした心持になつた。
「今日は大層遲い御歸りですな。何處ぞへ寄つて來てゞしたの。」
宿の格子をあけると、靴を脱ぐひまも無く、おつぎが出て來て訊いた。
「今日は不思議な人に逢つた。」
「不思議な人ですつて?」
「おりかさんさ。」
「え、おりかさん? うちに居たおりかさんだつか。あの人何處に居てはります。」
「御靈さんの裏手のすきやき屋の仲居さんになつて居る。」
「ほんまですかいな。」
たつぷり好奇心は持ちながら、全く信じられない顏をして居るおつぎに、三田は多少の嘘をまぜて話した。まさかに會社にたづねて來て、情人と別れる爲めに入用の金を貸してくれと云はれたとは云ひ兼て、偶然往來で逢つて誘はれて行つた事にした。あんまりみんなに憎まれ過ぎて居るおりかをかばふ心持も、そのおりかに甘く見られてゐる自分自身をかばふ氣もあつた。
「おりかさん、あんたに逢ふてどないして居やはりました。途法ない困つて居りましたやろ。」
「さうでも無かつた。相變らず面皰だらけの顏をして、げらげら笑つてゐたつけ。」
「へえ、逃げもかくれもせんと。」
まだまだいろいろ訊き度がつて居るのを振切るやうにして二階へ上つて行く後から、帳場で耳を傾けて居たおかみさんが、わざわざ廊下へ出て來て聲をかけた。
「三田さん、おりかのやつ、ようあんたに顏が合はされたもんですなあ。」
人の物に手をかけた根性の曲つたものを、手ひどくどづいて來て貰ひたかつたやうな意氣込で、何か痛快な事を期待して居るのは、言葉のいきにも現はれて居た。
「僕もさう思つたんだが、本人は存外平氣らしかつた。おかみさんを始め、こゝのうちの人達はみんな無事かつてきいて居ましたよ。」
「ようその樣な口がきかれたもんや。それであの料理人の男も同じ家に奉公してゐるのだつしやろか。」
「いゝえ、あの男は梅田の驛の近所の宿屋にゐて、今でもお金をねだりに來て困るとこぼして居ました。」
「さうでつしやろ。もともとおりかみたいな女に誰が好んで手を出すもんで。これをみつがせよう爲めのわるさですがな。」
母指とひとさし指で圓をこしらへて、一寸痛快らしく笑つた。
「そしてあんさんはおりかの居る家へ行かはりましたのか。」
「來ないかつて云ふもんだから、おりかさんのお酌で飮んで來た。」
「まあま、あんさんもよう出來たお方ですなあ。」
家中に響き渡るやうな大きな聲で、仰山に驚いて見せた。臺所で働いて居る者も、帳場に居る娘も、一齊に笑つた。
お花見の計畫も、懷中の乏しさにずるずるに延びて居るうちに、花は遠慮なく散つてしまつた。水の流も深くなつて、またたくひまに貸端艇が、中之島附近から土佐堀へかけ、又道頓堀のどぶ泥のやうな水面にも、無數に浮ぶ時節となつた。三田が醉月へ來てから、早くも一年になつたのである。最初のうちこそ、だんまりむつつりの、とつつきにくい人間として氣ぶつせいに思つて居たが、今では氣心も漸くわかつて、おかみさんも女中も、それ程變物あつかひにはしなくなつた。しかし、未だに手を叩いて用事をいふ事は一度も無く、食事と食事の間には茶も飮まず、部屋は少しもちらかさず、全く手のかゝらないのが、かへつて一脈不氣味な、氣心の知れない感を宿の者にいだかせるのであつた。
三田は一番の古顏だつたが、それに次ぐものは野呂だつた。野呂は此の宿に來た頃、三田につきあひを求めたが、相手にされなかつたので、それ以來顏を合せても、二人は挨拶をしなかつた。三田はそんな事は無頓着だつたが、野呂は明かに含んで居た。此の男も酒のみで、飮めば必ず助平になるたちだつた。お米は引續いてお酌に侍り、夜もこつそりその部屋に忍んで來て居た。女中を相手に大言壯語をもてあそぶのは野呂の好むところだつた。如何に自分が大正化學工業株式會社にとつて缺く可らざる働手であるか、如何に社長に信用されて居るか、如何に部下に怖れられて居るかと云ふ樣な、お山の大將のほこりを得々としてひけらかした。
その野呂と、のつぴきならぬ事になつて、三田は一緒に酒を飮まなければならなくなつた。或日の事で、三田が退出時間の近づく事ばかり念じながら仕事をして居るところへ、支店長が呼んで居ると給仕が云つて來た。又何かお小言かと思ひながら、ふてくされた肚で行くと、存外支店長は上機嫌で、
「三田君、君は今晩何か先約でもあるかね。若しひまならば一緒に飯を喰はう。」
といふ意外な話だつた。支店長の同窓の友達で、大正化學工業株式會社の社長をして居る大河原といふのが來阪中なので、その宿をたづねたところ、何かと世話をしてゐたのが野呂で、いろいろ話の末に、三田と同宿だといふ事がわかつた。久々でうちとけた話をしようといふので、支店長が大河原を招く事になつた時、その場のついでゞ野呂も誘つたから、その話相手に三田にも出てくれといふのであつた。よくない役廻だとは思つたが、別段用事も無いと云つた手前、今更斷るわけにも行かなかつた。
「どうも私は口不調法で、とても接待役はつとまり兼ますが……」
「いやあ、どうしてどうして、北の新地は僕なぞよりは地の理を知つてる筈ぢやあないか。大分君の私生活については野呂君から面白い報告があつた。今晩あらためて拜聽する事にしませう。」
と大に意味のありさうな事を云つて、三田をいやがらせた。
夕方、三田は支店長と肩を並べて歩きながら、今朝出がけに氣の付いた靴下の兩方の踵に大きな穴のあいて居るのを思ひ出した。支店長にその事を話して、途中で買つて穿きかへる方がいゝかしらとも思つたが、何となくいひ出し惡くて、新地の茶屋に着くまで愚圖々々になつてしまつた。靴を脱ぐと、踵から全身に風の沁み渡る氣がして、人しれず赤面した。
廣い座敷で暫く待つてゐると、大河原が野呂を從へてやつて來た。支店長に引合はされて三田は大河原に挨拶した後で、野呂とも口をきかなければならなかつた。
「やあ、三田さん。今日は私迄支店長さんの御招にあづかりました。」
「始めまして。わたくしは三田です。」
同時に双方が頭を下げたが、野呂はすつかり馴染のやうな口をきゝ、三田は一年近くも同宿で顏を合せてゐるくせに、初對面の挨拶も變なものだと思ひながら、正式には初對面に違ひ無いので、あらたまつた口上を述べた。
「なんだ、三田君は野呂さんとは始めてかい。」
野呂の口から、三田とはよく知合つて居る樣に聞かされてゐた支店長は、すくなからず意外な樣子だつた。
「えゝ、ついかけちがひまして。」
「左樣か。僕は親しくつきあつて居るやうに聞いたものだから……」
「いや、三田さん。あなたの事は洗ひざらひ支店長さんに御話してしまひましたよ。はつはつはつは。御互にざつくばらんがいゝです。」
野呂はその場のゆきちがひをつくり笑でごまかして、つぼにはまらない事を云ふのであつた。
ぬけめのなさゝうな骨相の大河原大正化學工業會社長は、如何にも親しげに舊友の支店長と話をして居るし、又めいめいの地位の相違もある爲め、自然に三田は野呂の相手をつとめなければならなかつた。
酒と一緒に藝者があらはれると、野呂は第一に活氣づき、支店長や大河原から三田に迄、一々盃を貰つて歩き、をかしくも無い事にも仰山な高笑を酬いて、一座を賑かさうと心懸けてゐた。三田は、自分もちつとは取持役として働かなければならないのだとは感づきながら、どうしても氣輕に座を立つ事が出來なかつた。
「三田君、君は酒豪なんだから、遠慮なく飮んでくれたまへ。」
と支店長は見るに見かねるといふよりも、あんまり氣の利かないのが腹だたしさうに、二度三度同じ言葉を繰返した。その肚の中は、底の底迄わかつて居るのだが、三田は自分の性分を、どうする事も出來なかつた。平生酒に對しては隨分意地の汚ない方なのが、御馳走酒ではうまくなかつた。いくら勸められても、兎角盃は膳の上に冷い酒をたゝへてゐた。
「三田さん、ちつとも上らんではないですか。あなたの御手並は兼々聞及んでゐるのですが、例のそら蟒先生ですな、あれを盛つぶすのはあなた丈ですよ。」
段々醉の廻つて來た野呂は、顏中脂肪でぬらぬら光らせ、若い藝者の手を握つたり、助平たらしい冗談を云つたりするあひ間には、何彼と三田をいやがらせるのであつた。
「さうさう、三田君の御氣に入だといふ蟒といふのを呼んでくれ。」
野呂にきかされて名前を知つてゐる支店長も、面白さうに相槌をうつた。
「蟒? けつたいな名前だんな。そのやうな藝妓はんは、新地にはゐたれしめへんぜ。」
大丸髷を頂いて、どつしり構へてゐる仲居頭は意地の惡さうな太い眉毛を寄せて首をひねつた。
「なんとかいひましたなあ、三田さん。背のおそろしく高い、眞青になつてコツプ酒を飮む……」
「わかりました。お葉さんでつしやろ。」
「それそれ、お葉さん即ち蟒さ。三田さんのところへしけ込んで來てゐるのがやけて堪らんから、からかつてやつたところが、えらい女でなあ、俺の此の茶瓶にざあと酒を浴せやがつた。」
野呂は大河原や支店長への座興に、自分の薄禿の頭を叩いて笑はせた。
蟒があらはれた時は、大河原も野呂も十分に醉ひ、量を節してゐる支店長さへ誘はれて聲が高くなり、三田丈が妙に白けた心持で不機嫌をおしかくして居た。
「いよう、蟒姐さん。」
お約束の座敷に出てゐたのであらう、すぐれて背の高いので裾を引いて、一段とひよろ長く見えるのを、見上げる形で野呂がはやした。
「今晩は。此處のうちの逢状に三田樣故はやはや御越しと書いてあつたので、あんたが此のうちを知つてる筈は無いがと不思議に思ふて來ましてん。おゝしんど。姐さん、コツプ貸しとくんなはれ。」
醉つた時にはおきまりで、傍に人無きが如き我儘を極める蟒は、外の客には目もくれずに、三田の前に坐つて、直ぐさまコツプ酒をあふりつけた。
「おいおい、なんぼ三田さんがいゝからつて吾々にも御言葉を下し賜はつてもいゝだらう。」
「初對面の方は羞しおますさかいな。」
「初對面だつて。驚いたねえ、俺の此の茶瓶に酒をぶつかけたのは、よもや忘れは致すまいが。」
わざと芝居めかした太い聲を出して、野呂は禿頭をつき出した。
「へえ、あんたの茶瓶にお酒をかけましたかいな。あんまり度々なので、何時何處でやつたかよう覺えません。」
「冗談いつちやあいけないぜ。お前が三田さんのところへ忍んで來た時さ。忘れたか。」
蟒は始めて思ひ出した。
「あゝ、あんたでしたかいな。あても阿呆やなあ。そのやうなしようむない茶瓶に、おいしいお酒かけるやうなもつたいない事、なんでしたのやろ。」
「まあ、お葉さん姐さんのいはゝる事。」
若い藝者や舞妓は、よく訓練されたかしましい聲をはりあげて笑つた。
「さ、みなしてコツプで飮みまほういな。あんたも床柱しよつてえらさうな顏してゐないで飮んだらどうですか。」
「僕は弱卒だ。その上茶瓶仲間だから、酒でもぶつかけられてはかなはん。まあ、お前と三田君の合戰を拜見してゐよう。」
「へえ、大けな體して、おまわりさんみたいな髯はやした男が、御酒もよう飮めへんのか。そんな事て、御役所だか病院だか知らんが、よう勤まるもんですな。」
蟒はたて續けにコツプ酒をあふりながら、支店長を尻目にかけて、口から出まかせの毒口をきいてゐた。ふだんから決して愛想のいい方で無いのが、殊に御機嫌斜めだつた。
「おいおい、むちやいふなよ。そちらは三田さんところの大將だぜ。」
野呂は蟒の放言をさし止めようと氣を揉んでゐた。
「大將だらうが兵隊だらうが御酒のよう飮めんやうな男は一人前とはいはれへん。さ、三田公、飮まん人はほつといて、こちらはこちらで飮みまほ。おゝ暑つ。足袋脱がして貰ひまつせ。」
いきなり脱いだ足袋を座敷の隅へ投げて、飮み干したコツプを三田に差した。
「さかんなものだねえ。」
と大河原が苦々しげにいふと、
「きゝしに勝る豪の者だよ。」
と支店長も興ざめた顏をして答へた。
三田は自分の一身の處置に困つてしまつた。本來ならば支店長の下役として、客の接待につとめなければならないのが、生れついての氣重の爲めに、盃を貰つたり返したりする事さへ滿足には出來ないで、内心ひどく參つてゐたところへ、我儘氣儘な蟒が出現して、傍若無人に振舞ふので、座敷はちぐはぐな心持でいつぱいになつてしまつた。前から來てゐた若い藝者や舞妓は、型にはづれた蟒の振舞に調子が合せ切れなくなつて、一人減り二人減り、殘つてゐる者は膝に手を置いて、所在なさに難澁してゐた。三田の心になつて見ると、一座の不興に對する責任は、みんな自分がしよはされたやうだつた。
「三田公、あんたなんで飮みなれへんの。そのコツプ返してほしいわ。」
一向頓着無く、蟒がせめ立てるので、愈々酒を飮む氣は無くなるのであつた。
「今日はいけないよ。場所を考へろよ。」
小聲で云ひながら手を振つて見せたが、かへつて氣勢を高めてしまつた。
「なんで今日はいけないのか聞かして貰ひまほ。三田公ともあらうものが、今日も明日もあるものか。」
「よせよ。今日は接待役なんだ。君も、あつちに居るおれきれきの方に行つて、御機嫌をうかがつて來てくれ。」
「阿呆らしい。御酒を飮まんやうな人間の御機嫌がうかゞへますかいな。第一あんたみたいな不精者を接待役に擇ぶのが間違ひのもとや。なあ、大將。三田公は三田公らしく氣儘に御酒を飮ませて置いたらどうでつしやろ。」
折角三田は聲を落してさゝやいてゐたのに、蟒はわざと高調子で、あまつさへ支店長の方へからんで行つた。
「三田君、氣儘に飮んで貰ひ度いね。此の姐さんのお相手は君でなければつとまらんよ。」
支店長は心の中の不滿を聲に出して、怒鳴るやうに云つた。
「大將。あんたよう物のわかつた御方だんな。此の姐さんの御相手はほんまに三田公に限るのだつせ。三田公は男ぶりがえゝといふのでも無し、藝事も出來へんし、無粹の親玉みたいなもんやけれど、酒の飮みつぷりがよろしいなあ。ようてようてたまらん。」
蟒はコツプと徳利を兩方に捧げて、ふらふら立上ると、支店長と大河原がしきりに話をしてゐる前に行つて坐つた。
「おいおい、さう手放しでのろけられてはそれこそたまらんぞ。」
すつかり虎になりながらも、蟒の横暴を懲らしてやらうといふ肚で、横つちよから野呂が聲をかけた。
「えらい御世話さん。あんたのろけいふのはどないな事か知つてゐやはりまつか。三田公とあたしのやうなきれいな交際をして居るものが、友達をほめるのはのろけとは違ひまんがな。なあ、大將。さうでつしやろ。」
「さうさう。」
支店長はうるさゝうに、冷かすやうにうなづいて見せた。酒癖を露骨にあらはして來た蟒は、相手が自分をうるさがつてゐると見てとつて、愈々つむじを曲げてしまつた。
「ふふん、あんた此のあてをうるさい、邪魔な奴やと思ふてゐる。邪魔なら邪魔でいにまつせ。」
「なあに邪魔なものか。珍しい藝者もあるものだとつくづく感心してゐるのだ。」
「ほんまだつか。」
「ほんとさ。」
「そんなら此のコツプを受けとくんなはれ。」
「そりやあ困るよ。酒丈は許してくれ。」
「一杯丈受けたつてよろしいがな。折角差したコツプをつき戻されたら、心地惡うてかなはん。」
蟒は醉へば醉ふ程蒼ざめて、それが此の女の取柄ともいふ可き澄んだ眼が、どんよりとすわつて來た。
「心地惡うてかなはんと云はれても、飮めないものは爲方が無い。そんなに飮ませ度いのなら三田君に飮ませたらいゝだらう。」
「いゝえ、あんたに是非とも飮んで貰ひ度い。」
なみなみとついだ酒の光るコツプを鼻さきへつきつけて、どうしても飮ませようとする氣勢を見せた。
「いかんいかん。何と云つても飮まんよ。」
「これ程頼んでも拜んでも飮みなれへんのか。」
「飮まん。」
支店長の聲は叱るやうに力強く響いた。
「飮まんといふても飮ません事には肚の虫が承知せん。」
「承知するもしないもあるか。勝手に管を卷いてゐろ。」
疳癪筋を額に立てゝ、支店長は更に大きな聲で怒鳴つた。
「怒らはつたな。面白い。怒られてへこむやうなんとは違ひまつせ。飮まんと云ふなら、かうして飮ましてやる。」
あつといふ間も無かつた。蟒はコツプのふちに盛上つてゐた酒を、支店長の頭からぶつかけた。
「あれえ、姐ちやん。」
はらはらしながら、取さばく力も無く膝に手を置いて居た若い藝者の立騷ぐ中を、蟒は一文字に部屋の外に消えてしまつた。
三田は突然東京の本店へ復歸を命ぜられた。支店長につれられて北の新地のお茶屋へ行き、蟒が酒癖を出して支店長に酒を浴せてから間も無かつた。誰から誰に傳つたのか、事の次第は大袈裟に、社内の者の噂となつた。支店長と三田とが一人の女を張合つて、三田の方が若い丈有利になり、女は三田の爲めに支店長の面前で啖呵を切つたあげく、怒つてつかみかゝらうとした支店長に、酒をぶつかけたと云ふのだつた。まるで新派の芝居でする「通夜物語」の一場面の如き話になつてしまつた。しかも支店長はその女に未練があるので、本店に三田をかへした後でゆるゆる掌中のものにしようと云ふ魂膽だといふのであつた。
三田は何の辯解もしなかつた。再び東京に歸るのは嬉しくない事もなかつたが、何と云つても突然の轉任のうらには、馬鹿々々しい出來事が潜んでゐるのだから、なさけなかつた。支店長は本店にむかつて、如何いふ理由を述べて轉任の申請をしたのだらう。さういふ事を追及して考へると、全く東京なんかに歸る氣はしなくなつた。
それでも、轉任の命令が下ると、一週間以内に出立する内規だつたから、直ぐにそれぞれ手配をした。一年半大阪に居た間に、自分の周圍にゐた人々に別れを告げる爲め、その人達を招待する事にした。醉月の主人とおかみさん、娘、女中三人、おつさん、田原、蟒、おみつの十人を撰び、場所はおりかの奉公してゐる牛肉屋の二階ときめた。既に野呂の口から、新地の一夜の出來事は、殘らず宿の者に傳へられ、みんなは蟒の狼藉を憎み、三田の災難に同情して居たので、今度の轉任も勿論それに起因するものと推察してゐた。
「ほんまにえらい災難ですなあ。あの蟒さんいふ人は、もともと評判のようない人では無いのでつしやろか。なんであんたあのやうな人を御贔負にしてゐやはつたのか、ほんまに口惜いと、みなで云ふてまつせ。」
おつぎはさも腹立たしさうに蟒を罵つた。
「僕の轉任は、蟒のしわざの爲めでは無いよ。第一醉つた時の間違ひなんか、咎む可き事では無いさ。」
三田はさり氣なく云つてのけたが、あんまり人に兎や角いはれるのが面白くなさゝうなので、宿の者も蔭で評判する丈で、一切その事は口にしなくなつた。
けれども、三田の催すお別れの會に、蟒も招かれて來ると云ふのは、何としても合點が行かなかつた。
「あてにはどうしても三田さんの御腹の中がようわからん。矢張惚れてゐやはるのんやろか。」
「あのやうな怖い顏つきしてゐやはつても、此の道ばかりは別や云ふよつてなあ。」
「それかといふて、何も蟒さんのやうな醉ひたんぼの女はんに惚れはらんかて、外にどつさりえゝ女がありさうなもんやないか。」
口々に各自の意見をのべて、三田の物好を笑つたり、蟒のやうな女を友達扱ひにするだらしの無さに憤慨したりした。
「お前達のいふ事はみな違ふて居る。三田さんは怒りつぽいやうに見えて、その實あの人程心の廣い方は珍しい。」
一度も口をきいた事も無いくせに、ひどく三田贔負の醉月の主人は、自ら信じるところあるらしく、たゞ一人三田の肚の中迄飮込んだやうな事を云つて居た。
愈々翌朝は出立といふ日の晩、三田が主人の別れの會は、おりかの奉公して居る御靈さんの裏の午肉屋の二階で催された。宿の主人は折角ながら外出は嫌ひだといふ理由で、おかみさんは女中達を出してやると後で困るから自分とお兼だけは留守番をするといふ理由で不參だつた。お米とおつぎとおつさんと、珍しくも後日娘義太夫になる筈の娘が、途中でおみつを誘つて來た。他所ゆきの顏つきをして、此の人々が二階へ通ると、三田は一足先に來てゐて、おりかと話しながら待つて居た。
「まあ、みなさん御揃ひで、あたし羞しいよ。」
おりかはいろいろ弱味のある身を羞ぢてか、眞赤になつた面皰だらけの顏に袂を當てた。
女同志は御互にしつくりとは結びつかない話を喋り合つて居たが、結局は三田の身の上に落て行つた。
「三田さんも急に御歸りなさる事になつたんだつてねえ。」
「それがあの蟒さんのわるさの爲めいふ事知つてゝだつか。」
「へえ、あののんだくれの藝者?」
苦い顏をして腕ぐみしたまゝ感慨に耽つて居る三田には頓着無く、おつぎとお米はおりかが眞相を知らないのに優越感を起して、かはるがはる左右から話すのであつた。此の場に臨んでは、もう遠慮も我慢もいるものかといふ勢だつた。
「よし給へ。今その蟒も來るんだから。」
三田は堪り兼て話を兩斷してしまつた。恰も其の時、
「やあ、皆さん、遲くなりました。」
と梯子の中段から大きな聲をかけて、田原がせり上げの樣にあらはれると、後には蟒がつゞいた。
「今途中ででつくわしてなあ、道行のやうに並んで來た。」
田原は何時もに變らぬつけ元氣で、何となく固くなつてゐる一座を賑かにしようとするのであつた。
「噂をすれば影さ。待ちくたぶれて惡口を云つてたところだ。」
「あてのでつしやろ。」
蟒も流石に眞面目な顏をしてゐたが、商賣人だけに氣を取り直して、急ち田原と調子を合せて、室内の陽氣を高めようとするのであつた。
「あの女故に三田さんも東京へ歸らはる事になつた。あいつが來たら、みなでどづいてやろ、こない云ふてゐやはつたのと違ひまつか。」
度胸を定めて先手を打つて、たしかに異心のある外の女達の方に、腹藏なく笑ひかけた。
「全くその通りだ。さ、おりかさん、御馳走を頼むよ。今日こそは蟒の頭から熱燗一合ぶつかけてやるから。」
三田の冗談に一座は腹をかゝへた。笑と酒は人と人との間に横はる邪魔を直ぐさま追拂つて、めいめいの話聲も高くなり、話題の少ないのをまぎらす女達の笑聲は絶間がなくなつた。
三つ四つ食臺をつなぎ合せた上に、一齊に濃い湯氣を立てゝ居る牛鍋を兩側から挾んで、口も箸も忙しく動いた。
「おい三田公、あちらにゐらつしやる御老體はどなただ。紹介して呉れなくちやあいけないぢやあないか。」
酒量の無い癖に最初に馬力をかける田原は、見る間に赤く額を染めて、ふだんから人一倍高い調子が更に高くなり、一人で喋つてゐたが、飮干した盃をおつさんに差した。
「醉月のおつさんでね、そもそも僕があの宿へ行く事になつたのは、天神橋の蛸安で、此の人と落合つたおかげなんだよ。」
「そんなら御話は兼々三田公から承つて居ります。僕は田原です。何分よろしく。」
眞面目くさつてつきつける盃を、おつさんはにたにた笑ひながら兩手で受けて押頂いた。
「社長さんの御盃を頂いてはもつたいないわ。」
「何云やあがるんだい。昨日の社長、今日の浪人だ。東京に追かへされる三田公の方が、喰扶持に離れない丈まだしもましだ。此おつさん隅に置けねえ惡者だぞ。」
田原は下手な卷舌で、がらりと碎けたところを見せて、おつさんに親しい心持を持たせてしまつた。
「おつぎにゐらつしやるのは醉月の娘はん、豐竹小呂昇はんと承知して居るが、こちらにゐらつしやるも一人の娘はんはどなた樣です。」
お米とおつぎの間に、特に今日結つたばかりの島田の首を行儀よく据ゑて、つゝましく笑つてゐるのに、田原は先刻から目をつけて居た。
「そちらはおみつつあん。」
三田は何と云つていゝか一寸躊躇したが、
「何時か蟒女史の大嵐の時、びしよ濡にした一張羅を仕立直して貰つた人の話をした事があつたらう……」
「あゝあの……」
横合から蟒が感嘆の聲をあげたが、あゝあの淫賣かと云はうとしたので、あわてゝ自分で口を押へて、
「へえ、あんたでしたか。その節うちの三田公のくたぶれた着物を縫ふてやらはつたのは。」
とあやふくきり拔けた。
「おい蟒。俺の頭からざぶりとやつてくれ。おみつつあんに着物を縫直して貰へるなら、酒でも水でもなんでも構はん。」
田原は頓狂な形をしておみつを拜みながら、ざんぎりの頭をぴよこぴよこ下げた。
最初のうちこそ敵意を持つてゐたが、惡醉さへしなければ目端の利く蟒は、誰にもへだてを忘れさせ、全く水入らずの會合となつた。おつさんは好物の酒にありついたので、口尻に唾の垂れさうな恰好で盃を含み、お米もおつぎもおみつも、田原と蟒に強ひられて、お白粉の顏をほの紅くした。
「君はちつとも飮まないやうだが、コツプでも貰はうぢやあないか。今晩は僕も首を横に振らないで、最後迄つきあふよ。」
「三田さん、今夜丈はかんにん。」
蟒はあわてゝ手を振つて拒んだ。
「此處でコツプで飮み出したら、折角の御別れの會を、又むちやにしてしまひまつせ。」
しんそこから訴へるやうな眞面目な顏をして、どうしてもきかなかつた。
とはいふものゝ、ほろ醉は次第に度を過して來た。殊に田原は調子に乘つて女連に盃をさし、醉はせる積りが、かへつて自分が醉つてしまつた。
「三田公、お前はどうせ大阪の人間ではないと思つてゐたが、斯う早く引上ようとは思はなかつたよ。お前のおふくろに、一人前の人間にして呉れと頼まれてゐたんだが、未だ半人前にもならないうちに俺の目の屆かないところへ手放してしまつては、佛つくつて魂入れずだ。」
何か一演説やらなくては納まらないやうな感慨深い心持が襲つて來た。それを無理に振捨る態度を見せて、彼はいきなり立上つた。
「諸君。三田公の爲めに乾盃しませう。」
「よろし、ひとつしめましよか。」
第一におつさんが應じた。めいめいの盃に酒をたゝへて、一齊に飮干すと、しやんしやんしやんと〆たのである。
三田は不意に、鼻の頭に水洟がたまつた氣がして、眼の中があつくなつた。
「有難う。わたくしも皆さんの健康を祝します。」
居ずまひの崩れてゐたのが、きちんと坐り直して、三田はサイダアを飮んでゐる宿の娘の前に空つぽになつてゐるコツプを取ると、手酌でいつぱいにして一息に飮んだ。ぐぐうつと腹の底迄酒が沁みると、胸に込み上て來る醉と共に、何か心にたまつて居る事を、殘らず吐出してしまひ度くなつた。
「少々遲ればせながら、一寸挨拶を申述べます。」
少し醉つたかなと考へる餘裕は十分あつたが、それを押切つてしまふ感激が燃えて居た。
「謹聽々々。」
田原は自分の御株を奪はれたやうにも思はれ、又自分の舞臺が廻つて來たやうにも感じて、さかんに拍手した。
「今晩はそれぞれ御忙しいところを繰合せて御出で下さつて、滿足に思ひます。今度突然東京に歸る事になりましたが、此の大阪の一年有半は、皆さんの御蔭でいゝ修業を致しました。その間に、最も親切にかたくなな私をよき友達としてつきあつて下さつた皆さんに別辭を述べるには多少の感慨があります。醉月の御主人夫婦の缺席は遺憾ですが、娘はんもおつさんもお米さんもおつぎさんも來てくれ、又我が飮友達蟒さんは、ひくてあまたの御座敷を斷つて來てくれ、その蟒さんにお酒をぶつかけられた爲めにはからずも御友達になつたおみつつあんもゐるし、場所はおりかさんの奉公してゐるところで、考へて見ると此の座敷の中に、私の一年有半の大阪生活は、そのまゝ生きて動いて居るやうに思はれます。」
「ひやひや。」
田原はだんまりの三田の意外な雄辯に感興をそゝられて、又しても拍手しないではゐられなかつた。
「たゞ一つ殘念なのは、私が會社のゆきかへりに殆ど毎日すれ違ひ、ひそかになつかしく思ひながら、遂に機會を失して友達となる事の出來なかつた無名の美しき人を此の場に見る事の出來ない事であります。」
「へえ、三田さんにその樣な人がおましたの?」
「誰だ誰だ、そいつは。」
蟒と田原は同時に左右から詰寄つた。
「三田さん、それはあんさんが今日は逢はなんだので氣色が惡い、今日は逢ふたので縁起がええ云はゝつた何處やらの御店につとめてゐる娘さんの事でつしやろ。」
おつぎは三田にからかつた頃のことを思ひ出して、得意さうに云つた。
「ふうむ、初耳だね。」
「初耳なものか。君はその娘を見た事がある。一度往來で見る光榮を有した事がある。」
「さうかなあ、俺の記憶には無いよ。しかしほんとに三田公がおもひを焦したとすると實に愉快だ。いつたい全體何者だ。」
「日華洋行の受附なんだ。」
「へえゝ、意外千萬だなあ。」
「私は正直にいふと、若し機會があればその娘さんには眞劍になつたかと考へるのであります。」
三田はひどく眞面目な顏をして、ずばりといひ切つて、もう一杯コツプの酒を飮干した。
三田は一息ついてから、そもそも靴屋のおやぢと不愉快な交渉をした事、ぶかぶかの靴を穿いて裏通を歩いて行く向ふから、つゝましやかに來ては擦違ふ銀杏返の娘の事、その娘に對してどういふ心持を持つてゐたか、日華洋行の主人の悲慘な最期の爲めに、ふたゝび逢はなくなつた事を話した。どういふものか、愈々大阪を去るといふ時になつて、その娘の姿は、最も明かに彼の心によみがへつて來たのだ。
「ふうむ、そいつは面白いなあ。」
小説でも讀むやうな興味で、田原はしきりに詳しく聞き度がつた。外の者も、三田にもそんな心持があつたのかと、半信半疑で呼吸を呑んだ。
「その娘さんを此處に見る事の出來ないのは、たつた一つの遺憾であります。」
三田は又繰返して云つた。
「けなり、けなり。その娘さんの話もうやめてほしいわ。名前も知らず、何處の人かも知らんで、なつかしいとか忘られんとか云ふ柄かいな。」
蟒はわざと怒つた樣子を見せて話を遮つた。
「まあ、さうやくなよ。三田公の一目惚なんか全く話だ。默つて聞いてゐてやれよ。」
「あかん。あてがあかんいふたらあかん。」
田原と蟒の爭ふのを、みんなは面白がつて見てゐた。
「あかんも何もないよ。話し度くてももう種は盡てしまつた。たゞ遺憾々々と繰返しまして、扨てその遺憾はあるにはあるが……」
三田は立てつゞけに飮んだ酒で高くなつた聲で續けた。
「その外のお友達とは斯う迄親しくおつきあひをし、私としては一生忘れられない人々となりました。私は字が下手なので手紙を書くことは大嫌ひです。だから東京へ歸つたが最後手紙なんかは恐らく書きますまい。年賀状さへ出さないだらうと思ひます。けれども、どうぞ三田といふ男がゐた事を忘れないで下さい。みなさんからも手紙を頂かうとは思ひません。たゞ忘れないで下さい。私も忘れません。青二才の口から云ふと變だからいゝ加減にして置きますが、みなさんの友情に對し、心の中ではしみじみ感謝して居ます。怒る言葉は樂に出るけれど、感謝の言葉といふ奴は、いやみになつていけません。だからこれでおしやべりは止めて、もう一度皆さんの健康を祈ります。」
三田は又なみなみと酒をみたしたコツプを高く捧げて、美事に干した。
「三田さん、あたしにも飮ましとくんなはれ。なんやら涙みたいなもんが眼の底から湧いて來てかなはん。」
今日ばかりはコツプ酒は御免だと云つてゐた蟒は、何かに感じて涙で目の中を濡らしてゐた。それをまぎらす爲めであらう、いきなり三田の手からコツプを奪ひ取ると、
「さ、誰ぞお酌。」
と甲走つた聲で叫んだ。
「來たぞ、來たぞ。斯う來なくては面白くないんだ。」
田原は直ぐに調子を合せて、徳利を取あげた。蟒は咽喉を鳴らして、一息に流し込んだ。
「あゝおいしい。もう珠數切つたからはあとの事は知りまへんで。三田公、今晩は夜どほし飮みまほういな。」
無理に控へてゐた酒だから、もうひとつ續けさまにあふつたが、あかりの下で振仰いだ頬邊には涙が光つてゐた。
大阪らしくどんより曇つた朝、三田は宿醉のはれぼつたい顏をして、梅田まで見送るといふおつさん、娘はん、お米、おつぎ、おみつに取圍まれて、荷車を從へながら、今更なつかしい川岸を歩いて行つた。めいめいいろいろな感慨はありながら、變に胸のふさがつたやうな氣持で、誰一人はかばかしく口をきく者も無かつた。
驛にはおりかも來て待つてゐたが、三田が必ず來てゐると思つて居た田原と蟒の姿は見えなかつた。
切符を買つたり、荷物を預けたりしてゐると、もともとぎりぎりの時間だつたから、直ぐに改札口は開いた。
「田原さんと蟒さん姐さんはどないしやはつたのやろ。」
と三田が我慢して云ひ出さない言葉を、さも不平さうにいふものもあつた。
「昨晩の飮過で頭があがらないんだらう。田原なんか、あんなに醉拂つて居て、無事に御影まで歸れたかどうかわからないぜ。」
しまひには足腰の立たなくなる迄コツプであふりつけた蟒と、前後不覺になつて牛肉屋の床の間を枕にして寢てしまつた田原の前夜の姿を、三田は寂しく思ひ出した。
澤山な人の群がる歩廊に立つても、三田は田原と蟒を心待に待つた。ほんとに自分を知つてゐるのは、廣い世の中に此の二人きりのやうな氣がした。いくら昨晩は醉つたからつて、今日はどうしても來なければならない筈だと、遂には不平に思つたが、時間は刻々に迫つて、三田の乘る可き汽車は轟然と驛の中へ侵入して來た。
「さあ、愈々御別れだ。」
急に名殘惜さが深くなつたが、否應なしに乘込んだ。
窓から頭を出して、其處に一列に並んでゐるみんなとそれぞれ挨拶をかはしてゐるところへ、田原と蟒がかけつけた。二人とも兩手に麥酒瓶を持つて、いきせき切つて來た。
「あぶない、あぶない。もう少し寢てゐたら間に合はないところだつた。昨夜は夜中に目が覺めたら、一人で知らないうちに寢てゐるんだ。驚いたねえ、それが堂島裏町の宿屋なんだ。」
田原は窓に近く寄つて、手に持つてゐた麥酒瓶を腋の下に挾んで、三田と握手した。あんまりひどい醉ひ方なので、まだしも本性のある蟒が、近所の宿屋へ連れて行つて、荷物のやうに預けて來たのださうだ。
「今朝かつて、あてが起しに行つてあげなんだら、よう間に合ひはしませんでしたぜ。」
蟒はさういふひまに、これは兩手の麥酒を側に居るおりかに渡し、素早く自分の袂から紙製のコツプを取出した。それを三田にも田原にもおつさんにも、外の女達にもひとつ宛持たせ、帶の間から栓拔を出して、手際よく瓶の口を取り、みんなのコツプになみなみと酌いだ。
「いゝか、三田公の爲めに別れの乾盃だ。さうして萬歳を三唱する。」
部下に命令するやうな態度で田原がいつた時、發車の合圖の汽笛が高く響いた。送る者と送られる者と、あたりの人の好奇心に輝く視線を殘らず身に浴びながら、一齊に乾盃した。
「三田公萬歳。」
田原は音頭を取つて聲を張上げたが、これは流石に誰も應じなかつた。
「萬歳。」
田原は構はずに三度叫んだが、その時汽車は既に人々を後に殘して滑り出した。
うす汚なく曇つた空の下に、無秩序に無反省に無道徳に活動し發展しつゝある大阪よ、さらばさらばといふ樣に、烟突から煤烟を吐き出しながら、東へ東へと急走した。
底本:「大阪の宿」岩波文庫、岩波書店
1943(昭和18)年1月15日第1刷発行
1951(昭和26)年9月10日第3刷改版発行
2009(平成21)年2月19日第13刷発行
底本の親本:「水上瀧太郎全集四卷」岩波書店
1940(昭和15)年11月発行
初出:「女性」大阪プラトン社
1925(大正14)年10月~1926(大正15)年6月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年5月22日作成
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