みつばちのきた日
小川未明
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雪割草は、ぱっちりと目を開いてみると、びっくりしました。かつて、見たことも、また考えたこともない、温かな室の中であったからです。そして、自分のまわりには、美しいいろいろの花が、咲き乱れていたからであります。
雪割草は、小さな頭の中で、過去を考えずにはいられませんでした。この雪の降る、風の烈しい、岩蔭で咲いた日のことが、ぼんやりと浮かびました。それは、谷から捲き起こる風の叫びであったか、また、山を越えて、あちらの海からうめき起こる波の音であったかしれないが、たえず、すさまじい、魂を戦かせるような響きをきいて、花弁を震わせながら咲いていたのでした。
しかし、その日を不幸だとは考えなかった。春になると、羽のうす紅い、小さなちょうが、たずねてきてくれた。また、夜になると、清らかな星がじっと見守って、いろいろ不思議な話をしてくれたからであります。
「しかし、いったいここは、どこなんだろう。」と、雪割草は、あたりをながめて、独語をもらしました。
すると、すぐ、自分の頭の上に、くじゃくの羽を垂れたような、貴族的ならんが、だらりと舌を出したように、みごとな花をつけていましたが、その言葉をききつけると、
「おまえさんのような田舎者には、ここは、ちとぜいたくすぎるようなところなんだよ。ここは、人間が金をかけて造っている温室なのさ。わたしはここへきてから二年めになるから、よくこの室の中のことは、なんでも知っている。おまえさんだって、山にいてごらんなさい。どんなに寒いことか。そして、まだなかなか花を咲くどころでない。こうしてかわいがられたのも、早くおまえさんに花を咲かして、お客に売るつもりなんだから、これから、おまえさんも、いままでのように、いいことはあるまいよ。」と、らんはいいました。
雪割草は、なるほどそういうらんのようすを見上げて、美しい姿だと、つくづく感心しました。
「それで、あなたは、どうしてここにきて、二年もおいでなさるのですか?」と、雪割草は、らんに向かって聞きました。
らんは、さもゆったりとした姿で、おうへいに雪割草を見下ろしながら、
「世界の植物を愛する人たちで、おそらく、わたしを知っていないものはあるまいね。わたしは、南の温かな島の林の中で育ちました。それは、いま思い出しても陽気な、おもしろいことばかりが目に浮かんでくるのです。それを一つ一つおまえさんに話してあげたいと思いますが、わたしは、なんだか、この二、三日、体のぐあいがよくないから、いつか気分のいいときにいたしましょう。なに、体が悪いって、寒さがこたえたのですよ。南の方の私の生まれた島は、いまごろは暑い日がつづくのですから、無理はありません。しかし、ここにいると、のんきですよ。わたしの大きらいな風も当たらないし、人間が万事いいようにしてくれますからね。しかし、なにしろ高価なことをいいますから、ちょっとお客がわたしには手が出せないのです。それで、去年は、わたしは、ここに残りました。今年もどうだか。なかなか素人の手に渡って、つらいめをさせられるよりか、どれほどここのほうがいいかしれません。」と、らんは答えました。
「それは、そうだ。俺なども、去年傷をしなけりゃ、とっくにここにはいないのだ。今年は傷もなおったし、どこかへゆかなけりゃならないかもしれない。そうすりゃ、また、みんなと、こうして顔を合わすこともないのだ。」といったものがあります。雪割草は、その声のする方を振り向きますと、それは、サボテンでありました。
「あなたがたは、みんな熱い国の生まれでしょう。だからそうお思いなされるんですけれど、わたしなどは、元来が野育ちなのですから、やはり風に吹かれたり、おりおりは、雨にもさらされたほうが、しんみりといたしますわ。そして、わたしは、ちょうや小さなはちが大好きですの。」と、かわいらしい声を出していったものがあります。雪割草は、だれかと思って、その方を見ると、しゅろ竹の蔭から、うす紅いほおをして、桜草が笑いながらいっているのでありました。
雪割草は、一目見たときから、この桜草が好きになりました。
「あーあ。」と、このとき、だれやらが、怠屈まぎれにあくびをしていました。
雪割草は、桜草のいったことに、同感しました。ガラス戸をとおして、外に風が、黒ずんだ常磐木を動かしているのを見ては、早くこの息づまるような温室の中から、広々とした外に出たいものだと思っていました。
「外へ出たいなどと、ほんとうにいやなこった。俺は、今年も傷痕が痛んで、ろくな花が咲けそうでない。もう一年このままに、この室の中で眠ることになるだろう。外に出ても、これよりかもっときれいな、気持ちのいい室へゆかれるならいいが、それでなけりゃ、このまま眠っていたほうが、どれほどいいかしれやしない。」と、そのとき、サボテンはいいました。
それから、わずかな間に、みんなの上に思いがけない変わったことが起こりました。
あのようにおうへいにいっていたらんは、ある日貴婦人が店のものにつれられて、この温室に入ってきたときに、
「この花をきってください。」といったので、店のものは、はさみで、らんの花を根もとからきってしまいました。
らんは、また、来年でなければ、花が咲かないのです。
その翌日、洋服を着た男の人が、やはり店のものといっしょに、この温室の中に入ってきました。
「かわいらしい、雪割草の花だな。これを届けてもらおうか。」といいました。そして、雪割草は、その日の午後、この温室の中から、外に出されたのです。
外は、風が寒かった。しかし、雪割草の花は、これくらいの風に我慢ができないようなことはありませんでした。それに、空の色は、ほんとうにさえて、青く、青く、美しかったものでありましたから、かえって、花は、外に出されたことを喜んでいました。
雪割草の花は、ある大きな家の窓の際に持ってゆかれました。
「この花は、ここに出しておいてだいじょうぶだろうか?」と、洋服を着た主人はいいました。
「ええ、寒さには強いから、だいじょうぶです。」と、植木屋は答えました。
「ああ、そして、明日、桜草を二鉢ばかりとどけてもらおうか。」と、洋服を着た主人がいいました。
「かしこまりました。」と、植木屋は答えて帰ってゆきました。
雪割草は、あの温室から出たことを、すこしも悲しいとは、思いませんでしたけれど、ただ、あの、なつかしい桜草に別れたことが、名残惜しくて、ここにつれてこられる道すがらも、桜草の姿を目に思い浮かべては、涙ぐんでいたのでしたが、明日は、ふたたびいっしょになれると聞いて、うれしくてなりませんでした。
ちょうど、日が暮れかかるすこし前でした。一ぴきのみつばちがどこからか飛んできて、花の上に止まりました。そのみつばちはなんとなく、痛々しそうに見えました。
「ほんとうに、こんなかわいらしい花が、こんなところに咲いているとは知らなかった。」と、みつばちは、びっくりしたようにいいました。
「私は、今日ここへきたばかりです。」と、雪割草は答えました。
「長い、寒い冬の間、私は、花を探して歩いていました。けれど、まだ、あなたのように、美しい、小さな花を見ませんでした。私は、寒さのために体が弱っています。私のうすい羽は疲れています。私は、元気がありません。しかしこうして、太陽が暖かに照らしていますので、どんなにいまは気持ちがいいかしれません。どうかお願いですから、あなたの胸にあるみつをすわしてください。」といって、みつばちは、小さな花の上に止まりました。
しばらくすると、みつばちは、じつに悲しそうな声で叫びました。
「ああ、あなたの胸はあんまり小さい。そして、私のもらうだけのみつはありません。」といって、悲しみました。
雪割草の花も、この言葉をきくと、なんとなくさびしさやら、哀れさに身ぶるいをしました。
「そんなに、お悲しみなさいますな。明日になれば、やさしい、美しい桜草がくるはずになっています。そうしたら、桜草に頼んで、みちをおもらいなさいまし。」と、雪割草の花はなぐさめました。
いじらしいみつばちは、雪割草のそばを離れかねて、じっとして体を太陽の光にぬくめて葉の上に止まっていました。そのうちに、日は西の空に傾きました。常磐木の葉蔭から、赤い空の色が見られました。すると、みつばちは、彼に別れを告げて、いずこへとなく飛んでいってしまいました。
その晩は、雪割草は、雲切れのした空に輝く、星の光をなつかしげにながめることができました。そして、明日、桜草がくるのを楽しみにいたしていました。
その明くる日も、いいお天気でありました。日にまし、春が近づいてきました。庭の木々も元気づいて、空を飛んでゆく雲の影も希望に光っていました。はたして、なつかしい桜草はやってきました。二つの鉢が並んだとき、
「あなたは、ここへきておいでなさったのですか?」と、桜草は、ほおを紅くしていいました。
「私は、昨日から、あなたを待っていました。」と、雪割草は、桜草をながめました。そして、昨日は、かわいらしいみつばちのきたことを話しました。また、今日もくるであろうと思ったそのみつばちは、とうとうその日はきませんでした。
底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社
1977(昭和52)年1月10日第1刷
1981(昭和56)年1月6日第7刷
初出:「福岡日日新聞」
1923(大正12)年1月1日
※表題は底本では、「みつばちのきた日」となっています。
※初出時の表題は「蜜蜂の来た日」です。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:江村秀之
2013年12月5日作成
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