くもと草
小川未明
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ちょうど赤ちゃんが、目が見えるようになって、ものを見て笑ったときのように、小さな花が道ばたで咲きました。
花の命は、まことに短いのであります。ひどい雨や、強い風が吹いたなら、いつなんどきでも散ってしまわなければならない運命でありました。
しかし、このはかない間が、花にとってまたこのうえの楽しいことがないときだったのです。晴れやかな陽の顔も、またあのやわらかな感じのする雲の姿も、みつばちのおとずれも、その楽しいことの一つでありましたが、その中にもいちばん喜ばしい心の踊ることは、美しいちょうのどこからか、飛んできて止まることでありました。
この道ばたに咲いた小さな花は、この世の中に、ぱっとかわいらしい瞳を開いたときからどんなに、ちょうのくることについて空想したかしれません。
「自分のような人目をひかない花には、どうして、そんなに空想するような、きれいなちょうがきて止まることがあろう?」
こう、花は悲しく笑ったこともありました。重い荷を車に積んでゆく、荷馬車の足跡や、轍から起こる塵埃に頭が白くなることもありましたが、花は、自分の行く末にいろいろな望みをもたずにはいられなかったのです。
道ばたでありますから、かや、はえがよくきて、その花の上や、また葉の上にもとまりました。花は、毎日、日暮れ方になると、ブンブンと鳴く、かの音を聞きました。またあるときは、はえの汚れた足で体をきたなくされることをいといました。しかし、それをどうすることもできなかったのです。
ある日のこと、怖ろしい顔つきをした大ぐもが、どこからかやってきました。
「かわいそうに、かや、はえが毎日ここへはやってきませんか? そして、あなたを苦しめはしませんか?」と、くもは、さも深く同情をしたような言葉つきでたずねました。
花は、くもが、顔つきに似ず、やさしくいってくれますので、なんだか涙ぐましく感じました。
「やってはきますが、べつに、わたしをいじめはいたしませんから我慢をしています。」と、花は答えました。
くもは、大きな光る目を怒らして、
「それは、悪いやつらです。私が、征伐をしてあげます。あなたは、そのかわり、しばらく窮屈な思いをしなくてはなりません。」と、命令するようにいって、くもは、ろくろく花の返答も気かずに、細い糸で葉と葉との間や、茎と茎との間に網を張りはじめました。
花にとってこのくもの巣が、どんなに、かや、はえのくることより迷惑であるかしれなかったのです。
花は、この厚顔ましいくもが、せめて花弁だけ、糸でしばりつけないのを、せめてものしあわせと考えていました。そして、くもは、横着者であって、かや、はえがこないときは、根もとの方に隠れて眠っていました。
ある日、きれいなちょうが飛んできました。そして、花の上にとまりました。
「なんて、いい香いのする、かわいらしい花でしょう。わたしは、あなたのような香いが大好きです。いままで、いろいろな花の上にとまりましたが、こんなになつかしい香いを吸ったことがありません。どうか、お友だちになってくださいね。」といいました。
そのとき、花は、どんなに喜んだでしょう? それは、びっくりしたほどでした。それから、ちょうと花は、親しくなりました。ちょうは飛び立ったかと思うと、まもなく、また自分を待っている花の上に帰ってきました。
そのとき、いままで眠っていたくもが、起き上って、すぐ花のところまできていました。そして、ぴかぴか光る目で、じっとちょうを見つめていました。この有り様を知ると花は、急に小さな心臓がとどろきました。しかし、ちょうは、ちっともそのことを知りませんでした。
「ちょうさん、あなたのきれいな羽をお気をつけなさい。細い糸にかかりますよ。」と、花は、ちょうに注意をしました。
ちょうは、びっくりしました。そして、目をあたりにくばりますと、なるほど、細い糸が葉の間に、茎と茎の間にかかっていて、それには、かや、はえの死骸が、あるかなきかに残っているのをはじめて見ました。
「ほんとうに、油断がなりませんのね。あなたが注意してくださらなければ、もうちょっとでわたしは、網にかかるところでした。」と、ちょうは、花弁の上にとまって、心から感謝しました。
「ご機嫌よう」
日が暮れかかる前に、ちょうと花とは、たがいにこういって、別れを惜しみました。
ちょうが、見えなくなると、怖ろしい顔つきをしたくもが花の上にのぼってきました。
「おまえは、なんで、ちょうにいらない注意などをするのだ。」といって、花に向かって、くもは、なじりました。
「あなたは、かってに、私の家へ巣を張っているのでしょう。どうか、早くここからほかへいってください。」と、花は、かえって、くもに向かっていったのです。
すると、くもは、たいそう怒りました。
「生意気な、どうするかみておれ……。」といって、こんどは、かわいらしい花の頭の上まですっかり網を張ってしまいました。
ちょうは、翌日のこと、花のいい香りを忘れずに、またやってきました。そして、なに心なく花の頭の上にとまろうとすると、
「だめです、だめです! 早くお逃げなさい。」と、花は苦しい中から叫びをあげました。
ちょうは、このいじらしい有り様を見て、驚いて飛び去りました。二、三日してから、ちょうは花の身の上を気遣ってきてみました。しかし、もうそのときは、小さな花は枯れていました。
底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社
1977(昭和52)年1月10日第1刷
1981(昭和56)年1月6日第7刷
※表題は底本では、「くもと草」となっています。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:本読み小僧
2012年11月24日作成
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