幾年もたった後
小川未明
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ある輝かしい日のことです。父親は、子供の手を引きながら道を歩いていました。
まだ昨日降った雨の水が、ところどころ地のくぼみにたまっていました。その水の面にも、日の光は美しく照らして輝いていました。
子供は、その水たまりをのぞき込むように、その前にくると歩みを止めてたたずみました。
「坊や、そこは水たまりだよ。入ると足が汚れるから、こっちを歩くのだよ。」と、父親はいいました。
子供は、そんなことは耳にはいらないように、笑って足先で、水の面を踏もうとしていました。
「足が汚れるよ。」と、父親は無理に、やわらかな白い子供の腕を引っ張りました。すると、子供は、やっと父親のあとについてきましたが、また、二足三足歩くと、また立ち止まって、こんどは頭の上に垂れ下がった木の枝をながめて笑っていました。
その木は、なんの木か知らなかったけれど、緑色の葉がしげっていました。そして、その緑色の葉の一つ一つは、青玉のように美しく日に輝いていました。
父親は子供がうれしそうに、木の葉の動くのをながめて笑っているようすを見るにつけ、また水たまりをおもしろそうにのぞき込んだようすを思い出すにつけ、この世の中が、どんなに子供の目には美しく見えるのだろうかと考えずにはいられませんでした。
父親は、子供の手を引いて、ゆるゆると道の上を歩いていきました。そして、父親は、自分も、こんなように子供の時分があったのだということを、ふと心の中に思い出したのであります。
「やはり自分もこんなように、歩いたのであろう。やはり自分の目にも、こんなように、映ったものはなんでも美しく見えたことがあったのであろう。」と、父親は思ったのでありました。
しかし、もう、いまとなっては、そんな昔のことをすっかり忘れてしまいました。これは、ひとり、この父親ばかりにかぎったことではないでありましょう。みんな人間というものは一度経験したことも年をたつにつれて、だんだんと忘れてしまうものです。そして、もう一度それを知りたいと思っても思い出すことができないのであります。
「ああ、どんな気持ちだろうか? もう一度自分もあんな子供の時分になってみたい。」と、父親はしみじみと思いました。
この父親は、やさしい、いい人でありました。無邪気な、世の中のいろいろなことはなにも知らない、ただ、なにもかもが美しく、そして、みんな笑っているようにしか見えない子供の心持ちを、ほんとうに哀れに感じていました。それでありますから、できるだけ、子供にやさしく、そして、しんせつにしてやろうと思いました。
子供は、二足、三足歩くと足もとの小石を拾って、それを珍しそうに、ながめていました。鶏が餌を探していると立ち止まって、
「とっと、とっと。」といって、ぼんやりとながめていました。
また小犬が遊んでいると、子供は立ち止まって、じっとそれをば見守りました。
「わんわんや、わんわんや。」と、かわいらしい、ほんとうに心からやさしい声を出して、小さな手を出して招くのでした。
子供にとって、木の葉も、草も、小石も、鶏も、小犬もみんな友だちであったのです。その父親は、手間がとれても、子供の気の向くままにまかせて、ぼんやり立ち止まって、それを見守っていることもありました。
「なぜ、人間は、いつまでもこの子供の心を失わずにいられないものだろうか。なぜ年を取るにつれて、悪い考えをもったり、まちがった考えをいだいたりするようになるものだろうか。ああ、自分も、どうかして、もう一度、なにも世の中のことを知らなかった、そして、なんでも美しく見える子供の時分になりたいものだ。しかし、流れた水が、もう帰ってこないように、なれるものでない。」と、父親は、考えながら歩いていきました。
すると、ふいに、耳もとで、
「もう一度、おまえは子供になれるから、心配をするな。」といったものがありました。
父親は、はっと驚きました。だれが、それをいったのだろうと、くるくると頭をあたりにまわしてみましたけれど、あたりには、だれも歩いているものはなかったのです。また、だれも自分の胸の中で思っていることを知り得るはずはなかったのでありました。
不思議なことがあるものだと思って、空を仰ぎますと、太陽が円い顔をして、にこにこと笑っていました。
いま、そういったのは、太陽かと思いましたから、
「ほんとうに、私はもう一度、子供に帰れるでしょうか? 私は世の中の苦労をしました。私の頭からは、無邪気ということがなくなってしまいました。私はどう考えましても、木の葉や小石や、犬ころを友だちとする気にはなれません。どうして、この私が、二度と子供になれるでありましょうか。」と、父親はいいました。
「もう一度、おまえを子供にしてやる。」と、太陽はいいました。
父親は、それが自分の空想でないかしらん。いくら太陽だって、そんなことをいい得るものでなかろう!。それとも、自分が死んで、こんどふたたびこの世界に生まれ変わってきたときをいうのではなかろうかと思いましたから、父親は太陽に向かって、
「ほんとうのことでございますか。この世で死ぬまでに、もう一度、子供になれるでありましょうか。」とたずねました。
「そうだ、死ぬまでに、もう一度、子供にしてやる。」と、太陽はいいました。
「ああ、うれしい!」と、父親は、自分の子供を抱き上げていいました。
「子供であることをうれしいとは、子供は思っていない。子供はまじめなんだ。子供のいうことをよく聞いてやれ! そして、子供を大事にしなければならない。」と、太陽はいいました。このときは、太陽も、まじめになって、いつものようにあいきょうよく笑っているようには見えませんでした。
そのとき、父親は、まだ年が若かったのであります。太陽がいつかいったことを後には忘れてしまいました。いったことの意味は、思い出されても、なんで太陽がものをいうものか。あれは、みんな自分の描いた空想に過ぎなかったと思ったでありましょう。そして、あのときの子供は、大きくなりました。子供があのときの父親の年ごろになったときは、もう子供には、子供が産まれて、父親は、年をとってしまいました。
父親に孫ができたわけであります。父親は、だんだん年をとって、ついにおじいさんになってしまいました。
このおじいさんは、いいおじいさんで、やさしく孫たちをかわいがりました。だから、孫たちは、おじいさん、おじいさんといって懐きました。しかしおじいさんは、もう孫たちのめんどうを見ることができなくなったほど年をとってしまいました。
すると、おじいさんは、いつとはなしに、この世の中での、うるさかったこと、めんどうだったこと、心をなやましたこと、また苦しかったこと、いろいろなことが忘れられてゆきました。
おじいさんの目は、子供の目のように美しく澄んできました。すると、なんでも、目に映ったものは美しく見えました。おじいさんは、道ばたに咲いている山茶花も、菊の花も、みんな心あってなにか物語ろうとしているように見られたのです。おじいさんは、つえを止めて、腰を伸ばして、ぼんやりとそれに見とれていました。
小鳥が、木のこずえにきて鳴いていると、おじいさんは、また立ち止まって、その鳴き声に聞きとれていました。
ある日のこと、おじいさんは、孫たちに手を引かれて歩いていました。
「おじいさん、ここは水たまりですよ。この板の上をトン、トンとお歩きなさいよ。」と、孫たちに教わって、おじいさんは、その水たまりを歩いていました。
おじいさんには、なにもかもこの世界が美しく、そして、広く見られたのであります。
太陽は、大空から、下を見ていました。そして、この有り様を笑顔でながめていました。
昔、あのおじいさんは、自分の子供を、ちょうどあのように手を引いて、この道を歩いたことがあった。いまは、孫たちに手を引かれて、ああして歩いてゆく。
「どうか、もう一度子供の時分になってみたい。」と、あの時分いっていた。そして、そのとき、俺が、「もう一度、おまえを子供にしてやる。」といったら、たいへんに喜んだものだ。いまあのように子供と同じである。
こう、太陽は考えると、下を歩いているおじいさんに向かって、
「三十年も、四十年も昔に、もう一度子供になってみたいといったが、いまおまえは、どんなに、考えている?」と、太陽はたずねました。
しかし、おじいさんは、知らぬ顔で、とぼとぼと歩いていました。おじいさんには太陽のいったことが、ちょうど子供のようにわからなかったのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社
1977(昭和52)年1月10日第1刷
1981(昭和56)年1月6日第7刷
※表題は底本では、「幾年もたった後」となっています。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:本読み小僧
2012年9月28日作成
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