幸福に暮らした二人
小川未明
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南洋のあまり世界の人たちには知られていない島に住んでいる二人の土人が、難船から救われて、ある港に着いたときでありました。
砂の上に、二人の土人がうずくまってあたりの景色に見とれていました。その港はかなり開けたにぎやかな港でありましたから、華やかなふうをしたいろいろな人が歩いていました。またりっぱな建物も見られました。そして、あちらには、煙突から黒い煙が上がって、その煙は雲切れのした大空を沖の方へとなびいていました。
それから目に見るもの、また、耳に聞くもの、一つとしてこの二人の黒んぼの心を驚かさないものはなかったのです。二人はあちらに見える、白く塗った三階建ての家屋を見ましたときに、それがなんであるかすらもよくわからなかったのでした。しかし、自分たちと異った人間がそばの家々から顔を出してのぞいたり、またその中に動いたりしているようすなどを見ると、あちらの美しい建物の中には、もっと力の強い、偉い人間が住んでいるのだろうということを想像しました。それにつけても、こんな美しい街がどうしてできたものか、まただれによって、どうして美しく地上にいろいろなものが造られたのであるか、それを考えることすらが、二人にはできなかったのであります。
太陽の光は、故郷の土の上に照りつけるほど強烈ではなかった。そして、それだけ夢を見ているような、うっとりした気持ちにさせたのであります。二人はあの怖ろしいあらしの夜を怒濤にもまれて、真っ暗な中を漂っていたこと、また、夜が明けると、青い、青い、はてしもない海の上を、幾日も、幾日も漂っていたこと、そしてそのあげくに、見も知りもしない船に救われたこと、そして、いま、このどことも知らない港について、陸に上がって砂原にうずくまって、日の光を浴びているということすら、このときは頭の中に思い出さずに、ただ、うっとりとあたりの景色に見とれていたのでありました。
あたりを往来する人々は、この二人のいるそばに近寄って、珍しそうにながめて、笑ってすぐにゆくものもあれば、また、しばらくは立ち止まってゆくものもありました。
人間だということだけは同じであるが、色も、姿もなにひとつ同じものはなく、そして、言葉すらまったく通じなかったので、たがいに顔を見合わしながら、心のうちでは不思議なものを見るものだというくらいに思ったのであります。
二人の黒んぼは、極度に自分らの身のまわりに集まってくる人たちをおそれていました。こんなにりっぱな街を造ることのできる人々だから、どんなに力があるであろう。また、どんなことでもなし得ないことはなかろうから、自分たち二人の命は、まったくこの人たちに自由になされるものだというように思ったからであります。
二人の黒んぼを見た、港の人々は口にこそ出していわなかったが、
「なんという怖ろしい顔つきをしている野蛮人であろう。人間を食うというのは、この種族ではなかろうか!」と、心に思ったのでありました。
南方の太陽に近い下の野原では、やしの木は、もっと元気よく、もっと葉が濃く、丈が高くしげっていました。二人はこの港の郊外にも、やしの木が、ところどころに影が黒く、日に照らされて立っているのを見たのであります。
この木の影を見たときに、二人は、どんなになつかしく思ったでありましょう。
「やはり夢ではなかった。また死んでいってからの極楽でもなかった。やはりこの世の中の景色なんだ。」
こう思って安心すると同時に、ここからは遠く隔たっている、故郷のことを思い出さずにはいられませんでした。このとき、ある日、海に出て、あらしのためにさらわれた記憶が蘇ったのでありました。
「自分の故郷はどちらだろう……。」
二人の黒んぼは、いい合わしたように、左を見たり、右を見たりして、涙ぐみました。
日の光がかげって、天気が変わりそうになったので、そばに立っている人々は、しだいに少なく、みんなあちらにいってしまいました。
ちょうどこのとき、一人のおじいさんがつえをついて、前を通りかかりましたが、懐から財布を出して、一つの銀貨を二人のうずくまっている前に投げ出して立ち去りました。
ぴかぴか光る銀貨は、砂の上に落ちて光っていました。二人の故郷では銭というようなものがなかったから、それがなんであるかわかりませんでしたけれど、ただ、その美しい光に魅せられて、二人のうちの年とったほうが、真っ黒な毛の生えた、つめの伸びた黒い手でふいに、小鳥をつかむときのようにすばしこく銀貨を握ってしまいました。
二人のものに、ものを恵んでくれたものは、このおじいさん一人だけでした。それほど、あまり姿が違っていたので、この街の人々には、かわいそうというほどの同情の念が起こらなかったのであります。
二人は、幾日めかで陸に上がって、はじめて砂の上にうずくまったのであったが、まもなく、船の人がきて、二人は、あちらに連れられてゆきました。二人は、ただこうして街の光景をながめただけでありました。そして、ふたたびこの港から離れてしまって、航海がつづけられたのであります。船は、南へ、南へとゆきました。
この二人は、村にいるときから仲がよくて、ちょうど兄弟のように思われたのでありますが、ひとたび難船をして、もう助からないものと思ったのが、救われましてからは、二人の仲は、いっそう親密になりました。船の中でも、二人は、おじいさんからもらった銀貨を出して、かわるがわるそれを掌の上にのせては、額を合わせてのぞきながら、
「これは、二人の仲間のものだ。」といっていました。銀貨には偉そうな人間の顔が描かれていました。二人は、それが貨幣であって、それと同じものが、数えることのできないほどたくさんにあって、世界の文明がゆきわたっている国々に流通しているということなどは知りませんでした。だから、「なんにするのだろう?」と思ってしまいました。もとより言葉も通じませんから、船の人々と話をするというようなこともありませんでした。
「偉い人が、これを胸につけるのだろう。」と、年上の甲のほうがいいました。
「それにちがいない。」と、年下の乙はうなずきました。
「あのおじいさんは、白いひげをはやしていたが、きっと偉い人間なのだろう。」と、甲はいいました。
「きっと、あの人が、あの島の頭かもしれない。それで、よく難船をしても助かったというので、これをくれたのかもしれない。」と、乙は答えました。
二人は、それを持って故郷に帰れるのを、真に心の中で誇りながら、幸福に感じていました。それから、いろいろのことがありましたけれど、とにかく、ついに二人は、無事に故郷の島に着くことができたのであります。
この島の強い、幾人かの頭というようなものは、みんな二人よりは年上でありました。そして、強いものほど、頭蓋骨をたくさん家の中に並べていました。その頭蓋骨はどうしたのかといいますに、たがいに武力を争わなければならなかったり、また、口では話がつかずに、力できめなければならなかったときに、戦って倒した相手の頭でありました。だから、それをたくさん持っているものほど、村の人々に尊敬せられ、恐れられたりしていたのであります。
二人のものが、自分らの部落に帰りましたときに、みんなは、どんなにびっくりしたでありましょう。もう難船をして死んだものと思っていました。そして、もうそのときから、日数もよほどたっていましたので、帰ってこないものとあきらめていました。二人の生きて帰ってきたことは、彼らにとっては信じられない奇蹟でありました。
「おまえがたは幽霊じゃないか?」といって、黒んぼの仲間は、二人のものを取り囲みました。二人のようすは、島を出るときとは、まったく違っていました。手や、足や、顔の毛はいっそう深くなって、そして、見違えるほどにやつれていたからです。
「なにが幽霊なものか、俺たちはみんなおまえがたの顔を覚えている。」と、二人はいって、だれかれの名をいっては、なつかしさのあまり抱きつきました。
すると、みんなは、どうして助かったか? どうして帰ってきたか? といって、口々にたずねました。二人は、難船したときの模様や、暗かった夜のものすごい光景や、救われてから港に着いて、陸に上がって、それはそれはいいつくされない美しい、不思議な世界を見てきたようなことを話しました。そして年上の甲は、
「その国の王さまが、二人に、このぴかぴか光るものをくださったのだ。これさえ持っていればどこへでもゆけるありがたいものだといってくだされたのだ。」といって、銀貨をみんなに示しました。
「ここに書いてある怖ろしい人が、その王さまなのだ。」
太陽の光はまぶしく、銀貨の面に反射しました。みんなは、この光をおそれるように後退りをしました。そして、目をみはりました。
「えらいものを持ってきたものだ。俺たちは、まだこんな光るものを見たことがない。」
みんなは、手に手に、武器を持っていました。それは、竹槍や、たまたま海岸に打ち上げられた難破船に着いている、鉄片で造られた剣のようなものでありました。しかし、彼らはまだ、こんなにぴかぴか光る金属を見たことがなかったのであります。
そのとき、いちばん狡猾な、悪智恵のある年とった男だけは、みんなが手にとって不思議そうにながめている銀貨に、自分一人は手を触れようともせずに、すこし隔たったところから、みんなのようすを嘲笑った目でにらんでいました。
「あのぴかぴか光るものは、いつか俺のものになるんだ。ばかものめ。」と、その目つきはいっているのでした。
この不思議な光るものが、部落に入ってきてからは、みんなにもそれが欲しいという欲望が起こりました。
「人間の頭蓋骨よりか、あのぴかぴか光るものに描いてある頭のほうがいい。あれを胸のあたりに下げていたら、いちばん偉い人間になれるのだ。」という考えを、みんなは頭の中にもったのであります。そうして、いままでよりか、みんなに一つ欲望が増したので、いつか、この光る銀貨のために争いが起こらなければならなく思われたのでした。
「ほんとうに、いつこの光る大事な品を盗まれるかしれないから、油断はできないぞ。」と、甲と乙とはいい合って、二人は、それを大事に守っていました。
二人は、ほかにだれもいないときに、銀貨を取り出して見入っていました。すると、遠い、港の街や、空や、丘や、木立の影が、ありありと夢のように、記憶に浮かんでくるのでした。もう、二度とは見られなくなった、遠い、遠い、かなたの国の景色であります。そして、おじいさんがつえをついてきて、二人に、この光るものを投げていった有り様が、なお昨日のように念頭に思い出されるのでありました。二人は、そのことを思うと、うっとりとして、心は青い、青い、海を越えてかなたに憧れたのであります。
「これは、命よりも大事なものだぞ。」と、二人はいい合って、おたがいの心をいましめました。
部落にはもう一人強い男がありました。その男には、美しい娘がありました。ある日のこと、その男は甲のもとへやってきました。
「私の娘をおまえにやるから、いつかのぴかぴか光るものを私にくれないか。」といいました。
甲は迷いました。その男の娘というのは、評判の美人であったからであります。そして、すぐには返答ができなかったので考えておくことにしました。甲は、独りになって、その娘の姿を目に思い浮かべました。かわいらしい口もと、白いきれいな歯、そして、二つの美しい目の光は、大事にしているあの金属から放つ光よりも、もっとやさしいうるおいのあるものでありました。甲は、もう、その娘を自分のものにされることなら、あの大事なものを手放してもいいという気になりました。そして、そのことを乙に相談しました。
すると、乙は目に涙をたたえながら、
「あの暗い、怖ろしい夜のことを忘れたか? 俺たちは、ああして助かったのだ。そして、あの港に上がって、ああしてふたたび生きてここに帰ったのだ。二人は苦労を一つにしてきたのに、おまえは自分一人の幸福のために、たいせつな記念を失っていいのか?」といいました。
甲は、自分の考えが悪かったと悟って、乙にわびたのであります。その後は、二人はあいかわらず睦まじく、仲よく暮らしていました。
かの狡猾な悪智恵のある男は、部下をたくさんにもっていました。男は、どうかして、二人を殺して、あの光るものを奪い取ろうと思いました。その男が、計略をめぐらしているということを、二人は耳にしました。そして、もう一刻もここにいるのが危険になりましたときに、二人は相談をして、どこか安全なところへ逃れることにいたしました。
ある夜、二人は、ひそかに部落から逃れ出ました。そして、谷を伝い、山を越えて、高らかに波の打ち寄せる海岸までやってきました。
「もうここまできてしまえば安心だ。まあ休んで、これからゆく先のことを考えよう。」と、甲はいいました。
「ほんとうに、俺たちは、どこへいったら、安心して楽しく暮らすことができるだろう。」と、乙はいいました。
その夜は、空がよく晴れていました。そして、一面に海をおおうた空には星が輝いていました。
砂の上に横になって、しばらく空をながめていました甲は、ふいに体を起こしました。
「俺は、あんなに美しい星が毎夜光っていることを知らなかった。あの星さえ見ていたら、あの港も、おじいさんも、白い家も、俺たちの乗っていた船もみんな思い出せるではないか?」といいました。すると、やはり黙って空を仰いでいた乙はうなずきました。
「おまえ、あのぴかぴか光るものはどうした。海の中へ投げてしまえ。あれもきっとだれも手のとどきはしない空に上って星となるのだから……。」といいました。
甲は銀貨を取り出して、遠く海の中に投げてしまいました。
このとき海の上は、いっそう明るくなったような気がしました。彼らの部落は、また昔の平穏に帰りました。
底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社
1977(昭和52)年1月10日第1刷
1981(昭和56)年1月6日第7刷
初出:「童話」
1923(大正12)年1月
※表題は底本では、「幸福に暮らした二人」となっています。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:江村秀之
2014年1月28日作成
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