ちょうと怒濤
小川未明
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美しいちょうがありました。
だれがいうとなく、この野原の中から、あまり遠方へゆかないがいい。ゆくと花がない、ということをききましたから、ちょうは、その野原の中を飛びまわっていました。
しかし、その野原は広うございましたので、毎日遊ぶのに、不自由を感じませんでした。自分ばかりでない、たくさんのほかのこちょうもいました。また、みつばちもいましたから、さびしいことはなかったのです。
野原には圃がありました。菜の花が咲いています。また、麦がしげっています。そのほか、えんどうの花や、いろいろの花が咲いていました。その花の上や、青葉の上を飛びまわっているだけでも、一日かかるのでありました。
ある日のこと、みつばちは、そのちょうに向かっていいました。
「私たちは、菜の花や、えんどうの花の上を飛びまわっているだけなら、まちがいはありません。それはこの圃の中にさえいれば、夏になると、なすや、うりの花が咲きますから、とうぶん花の絶えるようなこともありません。その時分にはせみも鳴くし、いろいろの虫も鳴きます。まあ遠くへいくなどという考えを起こさずに、おちついていることですね。」と、みつばちはいったのです。
ちょうは、このときに、格別、ほかへいってみたいなどという考えをもちませんでしたから、みつばちのいうことを笑ってきいていました。
そして、風に吹かれて、ちょうは、美しい羽をひらひらさせて、菜の花の圃を飛んでいました。このちょうの美しいのは、ひとり、みつばちの目にそう見えたばかりでなく、同じちょうの仲間でも評判になっていました。それほど、このちょうの羽は大きく、赤・黄・黒・青、いろいろの色で彩られていました。
ちょうは、圃の上で、多くの仲間に出あいましても、自分の羽ほどきれいなのを持っている仲間を見たことがありませんでした。また、そんなに大きな羽を持っているのも見ませんでした。
「あなたは、ほんとうに美しくお生まれついてしあわせですね。」と、ある仲間は、心からうらやましく感じて、そういいました。
あるとき、一つの羽の青い、小さなこちょうは、彼に向かって、
「あなたは、けっして、この野原からほかへいってはいけませんよ。この野原の中の女王ですもの。」といいました。
「なぜ、そんなにほかへいってはいけないのですか。」と、ちょうは問いました。
すると、羽の青いちょうは、
「私は、やはり、この野原にばかりいるのがつまらなくて、あちらへいったのですよ。それはあんまり遠いところではなかったのです。あの青木の見える街道を一つ越えたばかりです。するとふいに、大きな袋のようなもので私はすくわれました。私はびっくりしました。人間が、私を捕らえたのです。みると、その人間は、ほかにも、私よりはきれいなちょうを幾つも手に持っていました。ちょうど、それはあなたのように美しいちょうばかりでした。しかし、あなたほど美しいとは思いませんでした。私はどうなることかと身震いをしていますと、『なんだ、こんなつまらないちょうか。』といって、その人間は私をふたたび自由にしてくれました。私は、自分の体が、あなたのように美しくなかったのを、ほんとうに、そのとき、幸福に感じました。私は、そこから、すぐにもとの道をもどって、この野原に帰ってきましたのです。」と美しいちょうに向かって語りました。
ちょうは、その話をきいて、いろいろの空想にふけったのです。
「人間が、そんなにちょうを捕らえて、なににするのでしょう。」と、青いちょうにたずねました。
「どうせ、殺されるのだと思います。そして、なにになるものか私にはわかりせんが、人間は残酷なものだといいますから、格別、用はなくても殺すのでしょう。」と、青いちょうは答えました。
また、美しいちょうはたずねました。
「いったい、あちらに、なにがあるのでしょうか。」といって、青いちょうの顔を見守ったのです。
青い、小さなちょうは、菜の葉の上に羽を休めながら、
「私もよく、知りませんが、なんでも話にきくと、人間の住んでいるりっぱな町があるそうです。その町には、この野原に咲いているよりも、もっと美しい花が、たくさんあるそうです。まだほかにいろいろ珍しいものや、私たちには用事のない、名の知らないようなものがいたるところにあるということです。」といいました。
「そんな美しい花を人間はどこから持ってきたのでしょうか。また、なににするのでしょうか。」
「人間は、どんな遠いところからでも、船や車に乗せて持ってくることができます。人間は、やはり美しいものはなんでも好きなようです。ずっと南の方からも、また、北の方からも、いろいろ珍しい草や、花を集めてくるのです。」
青い、小さなちょうは、自分の知っているかぎりをみんな話してしまうと、
「またお目にかかります。」といって、どこへともなく飛び去ってしまいました。
その後で、美しいちょうは、独り物思いに沈みました。ちょうは、人間の造った町にいってみたくなったのです。「人間は、美しいものはなんでも好きだというから、きっと、自分も好きにちがいない。好きなものは、たとえ捕らえても、命を取るようなことはしないだろう。そして、かえって、愛してくれるにちがいない。」と、ちょうは思ったのであります。
ちょうは、いつまでも、この野原の中を、あちらこちらと飛んでいることに飽きてしまいました。そして、ぜひ一度、だれでもいってみたいと思う町にいって、いろいろな珍しい花を見てこようと思いました。
ある日、ちょうは、いつか、みつばちのいったことをも忘れて、野原を離れて、あちらの空へ独りで飛んでゆきました。これは、いい天気の日で、空の色は、四方一帯に晴れていました。しばらく旅をしたと思うと、ちょうは、はるか目の下に黒い屋根の固まった町を見たのであります。
「美しい花のあるというのは、この町か。」と、ちょうは思いました。
しかし、ちょうはどこへ降りたらいちばん安全だろうと、しばらく空中に迷っていました。そのとき、なんともいわれない、やさしいいい音色がきこえてきたのであります。ちょうは、かつて、こんないい音をきいたことがありませんでした。これはきっと、人間の中での、やさしい人間の住んでいるところだろうと、なんの考えもなく、そう思わずにはいられませんでした。
ちょうは、そのやさしい音色のする方へと、音をたどって降りてゆきました。そこは、ある大きな家の裏のところであって、いい音色は、へやの中からもれているのです。ちょうは、なにに止まったらいいかと、しばらく、この庭を見まわしました。その庭は広かったとはいえ、もっともっと広い野原から飛んできたちょうには、広いとは感じられなかったのです。
ちょうは、幾つかの鉢に、いろいろの花の咲いているのを見ました。これは、どれも、いままで見たことのないような、美しい花ばかりであります。ちょうは、いつか羽の青いこちょうの物語ったことなどを思い出しました。なかにも、ちょうは、黒い鉢に植わった、真紅なばらの花を見たときには、ほんとうに、びっくりしてしまいました。それで、たちまち、なんともいえない香気に恍惚となってしまって、ちょうは、あとさきの考えもなく、その真紅な花弁に吸いつけられたように、その上に降りて止まったのです。
こんなに美しい花が、この世の中にあるだろうかと、ちょうは思いました。これこそ、私が憧れていた花だと、ちょうは思いました。
「まあ、なんというきれいなこちょうさんでしょう。わたしは、まだこんなに美しいちょうは見たことがなかった。さあ、わたしのみつを思うぞんぶんに吸ってください。」と、真紅のばらはいいました。
遠く、町に憧れて飛んできたちょうは、この花に接吻しました。それは、ほんのつかのまであったのです。
「あすこに、子供があなたをじっと見ていますよ。きっと、ここにやってきて、あなたを捕らえますよ。そして、針であなたの体を刺してしまいますよ。はやく、お逃げなさい。そして、また、忘れずにきてください。わたしは待っています。」と、ばらの花はいいました。
このとき、大きな袋のようなものが空を横ぎりました。もし、もうすこし早くちょうが、その花の上を飛び去らなかったら、きっと、捕らえられてしまったのです。しかし、ちょうは、ただ、はげしい風のあおりを身に感じただけで、無事でありました。
ちょうは、その夜、近くの草原に休みました。そして、また、明くる日、この庭にいってみたのです。けれど、哀れなちょうは、ばらの花に近寄ることができませんでした。人間が、その庭にいたからです。
三日めの晩方、ちょうは、今日こそは、花に近寄って、いろいろの思いを語ろうと思ったのであります。
天気の変わる前兆か、西の夕焼けは、気味の悪いほど、猛り狂う炎のように渦巻いて紅くなりました。
ちょうが、大きな羽をはばたいて、庭さきに降りようとした刹那、真紅なばらの花は、もう寿命がつきたとみえて、音もなく、ほろりほろりと、金色を帯びた夕日の光の中に砕けて散るところでありました。
これを見たちょうは、どんなにうらめしく思ったでしょう。そして、またこの花と語るのはいつであろうとなげきました。ちょうは気も狂いそうでありました。無念と残念とで、もう生きている心地はなかったのです。自分の体は、どうなってもいいというように、ちょうは、絶望のあまり、深い考えはなしに、空高く、高く、どこまでも高く舞い上がりました。ちょうは、下界の有り様を、もはやなにも見たいと思いませんでした。
すると、空には、怖ろしい、烈しい風が吹いていました。ちょうの体は、急流にさらわれた木の葉のように、あっと、思うまもなく、遠く、遠く、吹き飛ばされてしまいました。
どんな強い風に飛ばされた木の葉も、一度は落ちるように、ちょうは冷たい土の上に落とされました。そして、気がついたときに、すさまじい音が、真っ暗な中から、起こってきこえていたのです。そこは、海辺でありました。
ちょうは、湿った砂の上にしがみついて、ふるえていました。夜が明けると、自分の美しかった羽は破れていて、そして、前には青い青い海が、うねり、うねっているのが見られたのです。日の光を浴びて、ちょうは、いくらか元気が出てきました。そして、どこかの辺りに、花が咲いてはいないかと、ひらひらと舞い上がったのでした。けれど、風が強くて、ややもすると傷ついた羽が、そのうえにも破れてしまいそうでした。やっと、砂の丘に黄色な花の咲いているのを見つけて、その花の上にとまりました。
黄色な花は、ちょうど星のように咲いていました。そして、風に吹かれて、頭を地につけていました。あまりみつばちもいなければ、また、ほかのちょうの姿も見えませんでした。花は黙っています。海の上では鳥が鳴いていました。なんとなく、悲壮な景色であったのです。
ちょうは、じっとして、終日、その花の上に止まっていました。もとの野原へ帰ろうと思っても、いまは方角すらわからないばかりか、遠くて、傷ついた身には、それすらできないことでありました。
たちまち、海の上が真紅に燃えました。夕日が沈むのです。この光景を見ると、ちょうは、ふたたびばらの姿を思い出しました。もう永久に、あの姿が見られないと思うと、ちょうは、また物狂おしく、昨日のように、空高く舞い上がったのです。美しい花弁のように傷ついたちょうの姿は、夕日に輝きました。強い風は、無残にちょうを海の上に吹きつけました。そして、たちまち怒涛は、ちょうをのんでしまったのです。
底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社
1977(昭和52)年1月10日第1刷
1981(昭和56)年1月6日第7刷
初出:「中学生」
1922(大正11)年6月
※表題は底本では、「ちょうと怒濤」となっています。
※初出時の表題は「蝶と怒濤」です。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:江村秀之
2014年1月28日作成
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