公園の花と毒蛾
小川未明
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それは、広い、さびしい野原でありました。町からも、村からも、遠く離れていまして、人間のめったにゆかないところであります。
ある石蔭に、とこなつの花が咲いていました。その花は、小さかったけれど、いちごの実のように真紅でありました。花は、目を開けてみて、どんなに驚いたでありましょう。
「なんという、さびしい世界だろう。」と思いました。
どこを見ましても、ただ、草が茫々としてしげっているばかりで、目のとどくかぎりには、友だちもいなければ、また、自分に向かって呼びかけてくれるようなものもありませんでした。すぐ、自分のそばにあった、黒みがかった石は黙り込んでいて、「寒いか。」とも、また「さびしいか。」とも、声をばかけてくれません。
小さな、気の弱いとこなつの花は、どうして自分から、この気心のわからない、なんとなく気むずかしそうに見える石に向かって声をばかけられましょう。
花は、独りでふるえていました。ただ、やさしい眸で、自分をいたわってくれるのは、太陽ばかりでありました。しかし、太陽は、自分ひとりだけをいたわってくれるのではありません。この広い野原にあるものは、みんな、そのやさしい光を受けていたのです。この石も、また、こちらの脊の高い草も、その光を浴びました。そして、それをありがたいともなんとも思っていないように平気な顔つきをしていました。しかし、太陽は、けっしてそれに対して気を悪くするようなことがなく、平等に笑顔をもってながめていました。
とこなつの花は、自分だけが、とくに恵まれたわけではないけれど、太陽に対して、いいしれぬなつかしさを感じていたのです。そして、どうかして、すこしでも長く、太陽の顔をながめていたいものだと願っていました。しかし、この高原にあっては、それすらかなわない望みでありました。たちまち、白い雲が渦を巻いて、空を低く流れてゆきます。それは、すぐに太陽を隠してしまうばかりでなく、あるときは、まったくそのありかすらわからなくしてしまうのでありました。
花は、この雲の出ることをいといました。しかし、そばにあった石や、あちらの強そうな脊の高い草は、平気でありました。花は、まだ、この雲は我慢もできましたけれど、寒い風と雨と、そして、息のつまるような濃い、冷たい、霧とを、どんなにおそれたかしれません。
「ああ、あの冷たい、身を切るような、霧の出ないようにはならないものか。」と、花は、しばしば、空想したのであります。
けれど、自然の大きな掟は、この小さい、ほとんど目に入るか入らないほどの花の叫びや、願いでは、どうなるものでもなかった。そして、夜となく、昼となく、深い谷底からわき起こる霧は転がるように、高い山脈の谷間から離れて、ふもとの高原を、あるときは、ゆるゆると、あるときは、駆け足で、なめつくしてゆくのでした。
その霧のかかっている間は、花は、うなされつづけていました。毒のある針でちくちく刺されるような痛みを、柔らかな肌に感じたばかりでなく、息苦しくなって、しまいには酔ったもののように、頭が重くなって、足もとがふらふらとして起っていられなくなるのでした。そして、全身に悪感を感ずるのでありました。
霧が去った後は、風に吹かれてぼたぼたと滴るしずくの音が、この広い野原に聞かれました。しかし、この苦痛は、この野原に生い立つすべての草や、石や、木の上にかかる運命でありました。せめても、とこなつの花は、そう思って、あきらめているのでありました。かたわらの石や、あちらの脊の高い草は、たとえ風に吹かれても、霧にぬれても、平気な顔つきをしていたのです。花は、それをうらやましくも、またのろわしいことにも思いました。
珍しく、空の晴れた日でありました。山の頂から高原にかけて、澄みわたった大空の色は、青く、青く、見られたのです。
とこなつの花は、頭を上げて、じっと太陽の光に見入っていました。このとき、青い空をかすめて、どこからともなく、一羽の鳥が飛んできました。最初は、ほんの黒い点のように見えたのです。そして、だんだんその姿がはっきりと見えました。けれど、それは、高く、高くて、鳴いている声すら、とこなつの花のところまでは、かろうじて聞こえてきたほどであります。
「どこへあの鳥は飛んでゆくのであろう? そして、あんなに自由に。」と、花は、真紅の花びらを、風にふるわせながら独り言をいっていました。
すると、その鳥の姿は、ますます、近くなってきたのであります。花は、それを見て不思議に思っていました。どうして、あの旅の鳥は、こんなにさびしい殺風景な野原に下りるのだろう? とにかくあの鳥は、この野原に下りようと思っているのだと考えました。
小鳥は、はたして、花の思ったように、野原に下りました。しかも、すぐ花の咲いている石の上にきて止まったのであります。
この思いがけない、まったく理解されないできごとに、花はどんなにか驚いたでありましょう。花は、つくづくとはじめて見る敏捷そうな渡り鳥の、きれいな羽の色と、黒い光った目と、鋭いとがったつめとをながめたのであります。すると、小鳥はくびをかしげて、かえって花よりも熱心に花を見つめているのでありました。
「あなたは、なにを探しに、この野原へお下りになったのですか。」と、花はたずねました。
このとき、無頓着な石は、黙って眠っていました。小鳥は、その石の頭で、くちばしを磨きました。そして、花を見守って、
「私は、あなたを見つけて、わざわざこの野原に下りたのであります。」と、答えました。
花は、恥ずかしい気がして、これをきくと、黙ってうなだれていました。すると、小鳥は、言葉をつづけて、
「ほんとうにさびしい原であります。どこを見まわしても、赤い花の姿を見ないのです。私は、ただ、あなたの姿を見つけたばかりにここへ下りてきました。」
「私は、あちらから飛んできた鳥です。この青い、空の下を、山を越えて旅をしてきました。そして空の下に、身にしみるような悲しい、赤いあなたの姿を見つけたのです。どうか、それについての私の話を聞いてください。」
「私は、海や、山や、町の上を旅して、あてなく空のかなたから、かなたの空へと飛んでゆく鳥であります。悲しいことも、さびしいことも、数あまりあるほどのいろいろなめに遇うてきました。そのなかで、いまでも、この青い空の色を見るにつけて思い出さるるのは、北の海の上を幾日も航海したときのことであります。あるときは、岸の上に、あるときは、人の住まない島に、また、あるときは、船のほばしらの上に、身を休めたのでありました。そして、くる日も、つぎにくる日も、見るものは、青い、海の色ばかりでありました。」
「そんなときに、遠くゆく、船のほばしらの頂に、赤い旗のなびくのを見て、私は、どんなに悲しく、なつかしく思ったでしょう。私は、いまあなたの姿を見て、北海が恋しくなりました。あなたの姿は、あの船のほばしらの頂に、潮風に吹かれて、ひるがえる赤い旗のように、私の胸の血潮をわかせます。あなたがこのさびしい野原に、こうしてひとりで頼りなく咲いていられるのは、あの旗が、荒々しい、北海の波の間にひらめくのと同じだと考えられるのです。あなたは、さびしくはありませんか。」
かく、小鳥は語りました。とこなつの花は、いつしか涙ぐましいまでに哀しさを自らの心にそそられました。そして、頭をもたげて身のまわりをながめると、あちらの脊の高い強そうな草は、無神経に、いつもと変わらず平気な顔つきをしているのでありました。
とこなつの花は、渡り鳥から、いろいろ世の中の有り様をききました。世の中というものは、かぎりなく広い。そして、こんなさびしい、頼りないところばかりが、世の中でないこともきかされたのであります。
小鳥の話によると、よく自分の運命にも似ているといった、船のほばしらの頂の赤い旗は、潮風にさらされたり、雨や、風に打たれて色があせたり、波のしぶきによって、黒く汚れが染み出ても、それでも幾日めか、幾月めか、海の上に漂った暁には、燈火の美しい、人影が動く、建物の櫛比した、にぎやかな港に入ってきて、しばらくはおちつくことができるのだと知られました。
それにくらべて、なんという自分は不幸な境遇であろう。このまま永久に、この野原にいなければならないのかと考えました。花はもうじっとして、それにたえていることができませんでした。そこで、とこなつの花は、小鳥に頼んだのであります。
「あなたは、わたしをかわいそうとは思われませんか。もし、このままいつまでもここにいたら、わたしは、さびしさと悲しさのために気がふさいで死んでしまいます。どうか、わたしをにぎやかなところへ連れていってください。」と、花はいいました。
鳥は、花のいうことを聞いていました。
「小さな赤い花さん、あなたのお歎きは、もっともだと思います。しかし、この世の中はどこへいっても、頼りなさと悲しいことから、だれでも救われることはないのであります。ここにおちついておいでなさい。私は、またいつかこの空を通るときに、かならず下りてあなたをなぐさめてあげましょう。そして、いろいろこの世の中で見てきたおもしろい話をしてあげます。あなたは、それをお聞きになれば、見たと同じく感じられるでありましょう。もし、また私が、どんなことで、ふたたびここにくることができなくとも、旅する鳥の中で、私とおなじ心をもつ鳥が、きっと、あなたを見つけて下りてくるでありましょう。その鳥は、私のように、やさしくいって、あなたをなぐさめるでありましょう。それをたのしみに、あなたは、このさびしいところに、我慢をしなければなりません。」と、小鳥は答えました。
「小鳥さん、それは無理ではありませんか。わたしは、この世界じゅうが風の寒く、霧の深いところと思っていました。そして、なぜこんな世の中に生まれてきたろうとうらんでいました。それを、いまあなたから、にぎやかな街や、にぎやかな村の話をききました。この世界は、けっしてこれだけでないことを知りました。どうか、わたしをにぎやかな町の方へ連れていってください。わたしはただ一目なりと明るい、にぎやかな世界を見ましたら、死んでもいいと思います。」と、花は、重ねて頼んだのであります。
「なにが、あなたの幸福になるか、また、不しあわせになるかわかりません。」と、鳥は、すぐに花の願いをばきき入れませんでした。
「小鳥さん、しかし、霜が降り、雪が積もる前に、わたしは死んでしまわなければならない身の上です。あなたは、わたしが、さびしい荒れはてた土地で枯れてしまうのが、あたりまえの運命であるとお考えなさるのですか? どうか、わたしをにぎやかな町へ連れていってください。あなたのお力で、それができると思います。」と、花はいいました。
「私は、あなたをにぎやかな町へ連れてゆくことができます。そして、安全なところに、あなたを置くこともできます。ただ、それが、ほんとうにあなたを、幸福にさせるか、不しあわせにさせるか知らないのです。」と、小鳥は答えました。
小鳥は、とこなつの花が無理に頼むのを断りかねて、ついに承知をいたしました。小鳥は鋭いくちばしで土を掘って、花をくわえて、地から離しますと、そのまま高く空に舞い上がりました。花は、目をまわしていました。小鳥は、長い間飛んで、その日の晩方、にぎやかな町に着いて、公園に下りると、花を花壇のすみに植えたのでした。
小鳥は、おびえた花を公園の花壇のすみのところに植えますと、花を顧みて、
「さあ、あなたのお望みのところへ連れてまいりました。ここはちょうど人間の歩くところも見えれば、また話し声もよく聞こえます。そして、ここにいれば安心なのです。あなたは、これからいろいろと世の中の不思議なことを知ることができます。私は、ここへ二度とあなたをおたずねするか、どうかはわかりません。あなたは幸福にお暮らしなさいまし。」と、うす暗がりの中から、やさしい、悲しい声で、小鳥はいいました。
公園の木立は、青黒い、夜の空に立っていました。細かな葉が、かわいらしい、清らかな歯を見せて笑っているように、微風に揺らいでいました。花は、あたりのようすがまったく変わってしまったのを知りました。あのさびしい、うす寒い高原から、永久に別れてしまったことが疑われるような、そして、そういうことはあり得ないような、ただなんとなく、おちつきのない気持ちでいましたから、小鳥に対して、十分のお礼や、お別れの言葉すらいうことを忘れてしまいました。
「さようなら。」と一声いい残して、小鳥の影は、いずこへともなく飛び去ってしまいました。
花は、不安な、悩ましい一夜を送りました。しかし、花は、「ついに憧れていたところへきた。」と考えると、急に、いきいきとした気持ちになるのでした。そのうちに、夜がほのぼのと白んで、太陽が上がった。このとき、花は、どんな光景をながめたでありましょう。
その日から、この花の生活は、一変したのでした。花壇には、赤や、黄や、紫や、白や、さまざまな色彩の花が、いっぱいに咲いていました。とこなつの花は、それらの花をいままで見たことがありません。みんな自分よりは、脊が高くて、いい匂いのする美しい花ばかりでありました。どうして、こんなに、いろいろな花がここに植わっているのだろうと怪しみました。あるとき、みつばちが飛んできて、頭の上をゆき過ぎようとして、また立ちもどって、とこなつの花に止まりました。
「なんという、いじけた小さい花だろう。ろくろくこの花には、みつもありゃしまい。いったいおまえさんは、どこからきたのですか?」と、みつばちはたずねました。
とこなつの花は、みつばちのさげすむようないい方に対して腹をたてたけれど、忍耐をして、
「わたしは、遠い、高原に生まれて、そこで、雨や、風や、霧にさらされて咲いていました。」と答えました。
「だれが、おまえさんをここへ連れてきたのですか、私は、毎日、この花壇の上を飛びまわって、ここに咲いているたくさんな花の一つ一つをみまっているのですが、つい、おまえさんのお姿を見つけなかった。」と、みつばちはいいました。
「名も知らない旅の鳥が、わたしをここへ連れてきてくれました。」と、花は答えました。
とこなつの花は、このとき、あの霧の深い、うす寒い風の吹いた、さびしい高原を思い出したのです。そして、あの高原にいたころは、どんなに、この小さな赤い、自分の姿が、美しく思われたか? 高く、青空を飛びゆく小鳥までが、自分を見つけてわざわざ下りてきたのにと考えますと、いま、この花壇にきて、自分のみすぼらしい、いじけた姿が、ほとんど目に入らないほど、きれいな花の間に混じっているのを悲しく、恥ずかしく感じました。
「ここに咲いている花は、みんなどこからきたのですか。」と、とこなつの花は、みつばちにたずねました。
「西の国からも、南の国からも、また、海のあちらの熱帯の島からもきた。種子や、苗を船に乗せて、人が持ってきたのだ。」と、みつばちは答えました。
とこなつの花は、考えに沈みました。そして、あの高原の自分のそばにあった黙った石や、また自分のいるところから、あちらにあった脊の高い草の姿などを思い浮かべて、いまはそれすらなつかしく思ったのです。
もはや、花は冷たい霧にぬれて、しずくの滴る美しい、なやましげな姿を自ら見ることもなく、また、黄昏がた、高い山脈のかなたのうす明るい雲切れのした空を憧れる悲しい思いもなくなって、その高原に生まれた花は、まったく、平凡な花に化してしまいました。
ひとり、この花ばかりでなしに、諸国からここに集められた、それらの珍しい花々も、みんな特色を失って、一様に街頭から風に送られてくるほこりを頭から浴びて、葉の面が白くなっていました。
むし暑い、夏の日の午後の公園は、草や、木さえが疲れて物憂そうに見られました。そして、赤い花や、黄色い花や、紫の花が、たがいにからみ合うようにして、だらけきって咲いていたのであります。
ちょうど、このとき、一人のみすぼらしいようすをした男が、公園の中へ入ってきました。男は、しばらく、ぼんやりとした顔つきで、なにか頭の中で考えてでもいるように、あたりをぶらぶらと散歩していましたが、しばらくすると、花壇の前にやってきました。
「百合の花の咲いているところは、どこだろうか?」と、あたりに目をくばっていいました。
花壇には、百合ばかりでも、幾種類となく集められた場所があります。やがて、男は、その前へゆきかかると、
「ああ、ここだ。黒い百合がないだろうか?」と、男はいいながら、百合の花の上に目を向けて探しました。
男は、その中から、つぼみの黒い一本の百合を探し出したのであります。
「これは、黒い百合でないだろうか?」と、彼は、頭をかしげていました。そして、かたわらの木影にあった、ベンチに腰をかけて空想にふけったのであります。
男には、こんな思い出があったのでした。──毎年、夏になると、その小さな町に、お祭りがあるのです。その町というのは、この大きな都会にくらべてこそ小さいといわれるけれど、子供の時分、その町は、どんなににぎやかなところであったか。また、なんでも欲しいものは、この町に、ないものがなかった。だから、いちばん開けたところであると、ほんとうに、そう思われたのでありました。そして、お祭りというのは、この町にある、ある宗の本山の報恩講であって、近在から男や、女が出てくるばかりでなく、遠いところからもやってきました。ちょうどその人たちが、この町に集まることによって、町じゅうがお祭り気分になったのです。
見せ物師は、旅からもやってきました。毎年その日を忘れずに、国境を越えてやってくるのでした。彼は、ある日のこと、人にもまれながら、寺の境内に入りました。すると、犬芝居や、やまがらの芸当や、大蛇の見せものや、河童の見せものや、剣舞や、手品や、娘踊りなどというふうに、いろいろなものが並んでいました。その中に、女の軽業がありました。この小舎は脊がいちばん高くて、看板がすてきにおもしろそうでありましたから、彼はついに木戸銭を払って、奥の方に入ってゆきました。
彼は、そこで、どんなものを見たでしょうか。半裸体の若い女が、手にかさを持って繩の上を渡るのや、はしごの頂で逆立ちをするのや、その他いろいろのものを見ました。しかし、それらは、べつに心に深い印象をとどめなかったけれど、ただひとつ、忘れられないものがあった。それは、やはり若い女が──桃の実のように肥った、顔にはげるほど濃く白粉を塗って、目ばかり大きく黒く、髪はハイカラに結ったのが──堅そうに黒い腹帯をしめて、仰向けに一段高い台の上にねて、女の腹の上に、重い俵を幾つも積み重ねる光景であります。
彼は、その女のいきいきとした顔と、赤い唇と、黒い腹帯と、太い短い足とを、どういうものか忘れることができませんでした。
小舎の外へ出てからも、町の中を歩いても、この軽業小舎で鳴らしている、ドンチャン、ドンチャンの音が耳についたのでした。
白いかもめが、晩方になると、北の海の方へ飛んでゆく影が見えて、圃には、切ると内部の真っ赤な、大きなすいかがごろごろところげるころになりますと、町のお祭りは近づいたのです。
「腹帯が切れて、南の国の町で、軽業の女が死んだ。」といううわさが、だれか、新聞に書いてあるのを見たものか、彼の耳に入ったときに、彼はびっくりしました。
このときまで、まだ目にありありとあの女の姿が残っていたので、その女が死んだのでないかと思うと、心臓の鼓動が高くなるのを覚えたのです。南の国の町というのは、どんな町であろうか。彼は、明るい空の下に、赤い旗影や、白い旗影などがひらひらとひるがえって、人影が、町の中を往来する光景などを、ぼんやりと目に描いたのでありました。
そのうちに、ほんとうにお祭りの日がきたのでした。そして、去年集まった見せ物師らは、また方々から寺の境内に集まりました。軽業の一座もやってきました。彼は、どんなに心の中で楽しみにして、その日を待っていたでしょう。
一年は、こうしてめぐってきた。圃にも、庭にも、去年のそのころに咲いた花が、また黄に、紫に咲いていたのでした。彼は、ドンチャン、ドンチャンとあちらで鳴るにぎやかな音を聞きながら、町を、その方に向かって歩いていった。やはり人々にもまれながら寺の境内に入ると、片側に高い軽業の小舎があって、昨年見たときのような絵看板が懸かっていました。彼は、木戸銭を払ってのぞきました。そして、幾人もいる肉襦袢一枚の若い女らの群れから、目に残っている女を探しました。それらの若い女らは、ほとんど人間とは思われないほど、そして、なにかの獣のように、ころころとあたりを転げまわっているのです。しかし、いつかの女を探し出すことができなかった。彼は耳にしたうわさを思い出して、ほんとうに、あの女が死んだのではないかと思うと悲しくなりました。ちょうど、そのときであった。
「昨年、ご当地で、お目どおりいたしました娘は、さる地方において、俵を積み重ねまする際に、腹帯が切れて、非業の最期を遂げました。それにつきましても、命がけの芸当ゆえ、無事になし終わせました際は、どうぞご喝采を願います。」と、出方がいった。出方は、いい終わると、拍子木をたたいて小舎の奥へ入りました。
あらわれたのは、脊のすらりとした女でした。彼はどういうものか、去年ほどの感興を惹きませんでした。
「やはり、黒い腹帯が切れて、あの女は死んだのだ。」
彼は、こう思うと、いいしれぬむごたらしさを、かの女たちの身の上について感じたのでした。
この日は、町は、いつもと異なって、いろいろの夜店が、大門の付近から、大通りにかけて、両側にところ狭いまで並んでいました。
彼は、四つ角のところに、さまざまの草花を、路の上にひろげている商人を見ました。そこから、広い、大通りをまっすぐにゆけば、やはりにぎやかだったが、裏町の方へゆく道は、前後とも、火影が少なくなって、暗く、溝のくぼみのように、さびしげにさえ見られました。ダリアの花や、カンナの花や、百合の花などが、カンテラの火にゆらゆらと浮き出したように照らされているのが、ちょうど艶麗な女が、幾人も立っている絵姿を見るような気がしました。そして、なかには、朽ちかかった花びらがあって、だらりと出した舌のように、ながく垂れているのです。
「この黒い花は、なんだろう?」
一本のひょろひょろとした、茎の頂に、重そうに咲いているのを指して、彼はたずねた。
「黒百合です。」と、商人は答えました。
彼は、黒百合の花を見て、魅せられたような気がした。ちょうどこのとき、女の黒い腹帯が頭の中に思い出された。しかし、気味が悪かったので、買わずに帰りました。その後になって、黒百合は、北海道辺に、まれにあるということを聞きました。あまり、縁起のよい花でないということも聞いたのです。
彼は、その後、いろいろの経験をし、また苦労をしました。たまたま、この公園にきて百合の花を見て、昔のことを思い出したのです。
とこなつの花は、いつまでも、男が側のベンチから去らずに、それに腰をかけて考え込んでいるのを見ました。花は、小さなくびをかしげて、男が、「黒い百合の花が、咲いていはしないか?」といったのを聞いて、高原の景色を思い出しました。とこなつの花は、かつてあの高原にいたけれど、黒い百合の花を見たことがなかったので、脊伸びをして、その花を見ようとしました。けれど、地面にはっている真紅の花には、あちらの百合圃に、たった一本まじっている、黒い百合の花が見えなかったのでした。
そのうちに、日が暮れかかった。木々のこずえが、さやさやと鳴りはじめて、空の色は、青黒く見え、燈火の光がきらめき、草の葉や、木のこずえに反射しているのが見られたのです。男は、ベンチから起ち上がりました。
「黒い百合の花が咲いた時分に、またやってこよう。こちらの空には、どうして、星の光が、こう少ないのか? 故郷にいる時分は、毎夜、降るように、きらきらと輝く星が見られたのに……。」と、立ち去るときに男はいいました。
とこなつの花は、なるほど、男のいうように、どうしてこっちにきてから星の光が見えないかと気がついて、怪しみました。あの高原にいるころ、暁の風が、頭の上の空を渡り、葉末に露のしずくの滴るとき、星の光が、無数にきらめいていた。それが、たがいに追いかけ合ってでもいるように、金や、銀や、青や、赤の星がきらめいていた。そして、いつともなしに時がたつと、みんな影を地平線のかなたに没してゆく。
翌日は、とこなつの花は、朝のうちから、空模様がおかしく、暴風のけはいがするのを身に感じました。
昼ごろ、せんだってのみつばちが、どこからともなくやってきて、花の上に止まりました。
「どうなさいましたか?」と、とこなつの花は、みつばちに声をかけました。すると、みつばちは、
「今日は風ですよ、なんだか天気がおかしくなりました。こういう日は、高い脊の花に止まっているのは危険です。いくら香気があっても、またきれいに咲いていても、風といっしょに吹き飛ばされたり、折れた下になったりしては、たまりませんからね。今日は、あなたのところに置いてくださいまし。あなたは、脊が低く、地面についていますから、ここなら危ないことはありません。あの雲ゆきの早いのをごらんなさい。」と、花に向かっていいました。
花は、頭を上げて空を見ました。
「ほんとうに、そうですね。」
「あなたは、黒い百合の花をごらんになりましたか?」と、とこなつの花は、みつばちにたずねました。
みつばちは、小さな、すきとおるような、美しい羽をふるわして、
「黒い花ですって? 私どもは、黒い花は、人間の死骸から、生えたのだといっています。そして、毒があるといって、けっして止まりはいたしません。めったに、黒い花はないものです。なんでも黒い花を、ただ見ただけでも悪いといっていますよ。」と答えました。
とこなつの花は、これを聞くと、くびをすくめました。そして、男のいったことから、脊伸びをして、この近くに咲いているのを見ようとしたことを思い出して、思わずぞっとしました。
「なんで、そんなことをお聞きなさるのですか?」と、みつばちはたずねました。
「いいえ……。」と、とこなつの花はいって、黙ってしまいました。
ますます風の吹くのが、強くなりました。
「今日は、公園に、なにかあるのでしょうか。」と、花は、先刻から風の中を人々が、ぞろぞろと花壇のまわりを歩いているので、なんでもこの付近のできごとなら、知らないものがないほどくわしいみつばちに向かって、たずねました。
すると、みつばちは手足をたがいにこすりあいながら、
「農産物の展覧会があるのですよ。花の咲いている時分は、私も広い圃から、圃を渡って飛び歩いたものです。なにしろ、二里も先まで、いったのですからね。それが、日数がたつにつれて、それらの野菜は、太い根を持ったり、また、まるまると肥えたり、大粒に実ったりしましたからね。大根や、ねぎや、豆や、芋などを昨日から、近在の百姓だちが会場に持ち込んでいますよ。そして、一等と二等とは、たいした賞品がもらえるということです。」と、みつばちは答えました。
ほんとうに、公園はいろいろの人たちでにぎわっていました。あちらから楽隊の鳴らしている楽器の音が、風に送られて聞こえてきたり、また、歌をうたっている声が聞こえてきたりしました。
この日、白髪のおばあさんが、農産物展覧会場へあらわれました。
おばあさんは、なにも農産物に興味をもったわけではありません。場末の町に住んでいるのだけれど、用事があって、こちらの知った人のところへやってきますと、その人の家で、展覧会のある話を聞きました。
「大根でも、なすでも、芋でも、なんでもよくできたものには、一等、二等と礼がついて賞が出る。」ということを聞くと、ふと、おばあさんは、胸に思い出したことがあります。
「その展覧会は、どこにあるのですか?」と、おばあさんはたずねました。
「じき、近くの公園ですよ。まあ、いってごらんなさい。それは、大きななすや、みごとなきゅうりや、野菜物はなんでもありますから。大根なんか、どうしてあんな太いのがあるかと思われるほどですよ。」と、知った家の人はいいました。
おばあさんは、その話を聞くと、いそいそとして、その家から出て、公園へやってきました。公園のこの展覧会場は、楽隊で、人を呼び寄せていました。そして、そこでは、わずかな日数を限って、その間は、野菜物を安く売るのでありました。おばあさんは、内へ入ると、どの出品物にも目をくれずに、すぐに大根の並べてあるところへいってみました。するとそこには、白い、太い、大根がいろいろと並べてあって、その中のいちばん太いのに、赤い紙札がついて、「一等賞」と書いてありました。
なんでも、一等賞は、たいしたほうびがもらえるらしいのであります。それを見ると、おばあさんは目をまるくしました。
「おや、これが一等賞かい?」
と、独り言をいいました。
じつは、おばあさんは、今朝、すぐ自分の家の近くの八百屋で、大きな大根を見てびっくりしたのです。いままでの、長い年月に、おばあさんは、たくさんの大根を見たけれど、いまだにこんな大きなのを見たことがなかったのです。
「まあ、大きな大根だこと。」と、そのとき、おばあさんはいいました。
「私も長い間八百屋をしていますが、こんなのを見たのは、はじめてです。」と、八百屋の主人もいいました。
おばあさんは、展覧会にきて、一等賞をとった大根を見つめて、これよりは八百屋の店頭にあったのが大きいと思いました。
「まだ、あの大根は売れずにあるだろうか。あれを持ってきてここへ出せば、あのほうが一等賞だ。」と、おばあさんは思いました。そして、いそいで、外へ出ると、電車に乗ってゆきました。
三、四時間の後、おばあさんは、大きな二本の大根を持って、展覧会場に現れました。
係のものは、驚きました。それは、一等の出品物よりたしかに大きく太かったからであります。
「おばあさん。ほんとうにみごとな大根ですね。」と、係のものはいいました。
「おばあさん、圃の土は、赤土ですか、黒土ですか。」と、係のものは問いました。
「黒土でございます。」と、おばあさんは答えました。
「種子はどこから取り寄せて、何月の何日に圃にまいて、いつ肥料を何回ぐらいやったのですか、どうか話してください。」と、係のものはいいました。
そんなことを問われると、おばあさんは、自分が圃に作った大根でないから、ちっともわかりませんでした。ただ、もじもじとしていて、答えることができなかったのであります。
「おばあさん、あなたがお作りになったのではないでしょう。」と、係のものはいいました。
「私は、八百屋にあるのを買ってきました。しかし、これは私のものです。」と、おばあさんはいいました。
「それでは、いけません。買ってきたものは、いけません。」と、係のものは、頭を振りながら答えました。
「なぜですか。こんなに大きいのが、なぜいけません。私の持ってきた大根が一等賞でございます。」と、おばあさんは、白髪頭をふりたてて怒り声でいいました。
係のものは、これを聞くと笑いながら、
「たしかに、この大根は、一等賞の資格があります。けれど、作り手がわからないから、賞品を渡すわけにはいきません。」といいました。
「作り人は、だれでも、私が買ったのだから、この大根は、私のものでございます。賞は、私がもらいます。」と、おばあさんは、それになんの不思議があろうかといわぬばかりにがんばりました。
しかし、係のものは、頭を振りました。
「いいえ、賞品は、野菜を作った人の手柄をほめてあげるので、その他の人には、だれにも渡さないのです。この大根を作った百姓は、どこのだれという人だか、おばあさんにはわかりますまい。みごとな大根ですから、ここに並べておいて、みんなに見せるのはさしつかえないから、二、三日貸しておいてください。」と、係のものはいいました。
おばあさんは白目を向けて、係のものを見ながら、
「よく、そんなことがいわれたものだ。これは私のものだから、ほうびをくれないなら、さっさと持って帰りますよ。較べて見れば分かるものを、賞をくれるのを惜しんで、ただ貸してくれいもないものだ。」と、欲張りのおばあさんは、ぷんぷんと怒って、大きな二本の大根を抱えて、会場の入り口から出ました。
黄昏方の空は、水あめのような色をしていて、ひどい風が、ヒューヒューと音をたてて吹いていました。電線はうなって、公園の常磐木や、落葉樹は、風にたわんで、黒い頭が、空に波のごとく、起伏していました。
おばあさんは、二本の葉のついている大きな大根を抱えて、ちょうど、赤い旗を、監督が振っている電車の交叉点の方へと歩いていきました。
風は、いくたびもおばあさんを吹き倒そうとしました。おばあさんは、二本の大根をしっかりと抱いて、風に吹き倒されまいと歩きました。風は、おばあさんの白髪を波立たせ、大根の葉を吹きちぎりそうに、もみにもんだのであります。
そのうちに、ピューッときた風は、とうとうおばあさんを倒してしまいました。おばあさんは、大根を抱えたまま、起き上がろうとしましたが、風が強くて起き上がることができませんでした。そのうちに、通る人々が、黒くなって、そのまわりに集まってきました。
「みつばちさん、あちらが、たいそう騒々しいですね。」
と、とこなつの花は、みつばちにいいました。
「じき、この鉄さくのあちらは往来です。いってみてきましょう。」と、みつばちは答えて飛びゆきました。
やがて、みつばちはかえってきて、花の上に止まると、
「どこかのおばあさんが転んだのを、しんせつに人が起こしてやると、おばあさんの抱えていた一本の太い大根が、二つに折れたといって、おばあさんが怒っているのですよ。」といいました。
翌日になると風は静まりました。朝早くから、まだ太陽の上がらないうちに、みつばちは起きて飛ぶ用意をしました。
「私は、昨日は一日なにも食べなかった。今日は腹がすいてたまらないから、大きな花を尋ねまわって、うんとみつを吸ってこなければなりません。じゃ、さようなら。また、お目にかかります。」といって、とこなつの花に別れを告げていこうとしました。
とこなつの花は、黙っていましたが、いざみつばちが飛び去ろうとするときに、それを呼び止めて、
「みつばちさん、いくら腹がすいていても、けっして、黒い百合の花などに忘れても止まってはいけません。お気をつけなさいまし。」といいました。
「ごしんせつに、ありがとうございます。気をつけます。」といって、みつばちは、元気よく、朝の空気の中を、羽を鳴らして飛んでゆきました。
その日は、昼過ぎから、夜にかけて、雨が降りました。そして、雨は、じきにやみました。すると、すがすがしい気分が、あたりに漂って、ぬれた木の葉や、草の葉が、そこここに立っている電燈の光に照らされて、きらきらと輝いています。
とこなつの花は、みつばちが、夜になっても、帰ってこないので、どこで眠ったろうと考えていました。風が、さやかに吹きわたると、木々の露がぽたぽたと地上に落ちました。いつしか快い気持ちになって、花は眠りますと、ふいに、夜中に、ひやりとなにか身に感じたので、驚いて目をさましたのであります。
花は、おそくなって、みつばちが帰ってきて、ぬれた体を触れたのだと思いましたが、さしてくる電燈の光で見ると、それは、みつばちでなくて、羽の黄色な、小さいとがった形をした蛾でありました。蛾の黄色なすきとおるような羽は、気味の悪いほど、冷たく、硫黄の色のように見えたのです。花は、高原にいる時分に、たくさんの蛾をば見ました。しかし、この蛾と同じ感じのするような蛾をば見なかった。この蛾は、人間の目を見るように、くるくるとした二つの目を持っていました。
花は、蛾に対して、なにもいう気にはなれなかったが、しかし、知らぬ顔をしていることもできなくて、
「黄色な蛾さん、いまごろ、あなたは、どこから飛んできたのですか。私は、まだあなたのような姿の蛾を見たことがありません。山からですか? 野原からですか? どこから、あなたは飛んできたのですか。」と、たずねました。
蛾は、ちょうど体の色にふさわしい、冷たい、すきとおる声で答えました。
「私たちは、戦場で産まれました。たくさんの人間が死んだ、その死骸が腐っている広い野原の中で産まれました。私たちは、明るい日の光や、火や、炎を見ることは大きらいです。真っ暗な闇が大好きなのです。私たちは風の吹く日に、暗い野原から野原へ、町から町へ飛んでゆきます。そして、みんな火という火を消してしまいます。明るい街を、真っ暗にしてしまうのです。それがために、私たちは、自身の体が火に焦げても、また死んでもいといはいたしません。明るいということは、死よりも恐ろしいのです。」と、蛾は、くるくるとした二つの目で花を見守りました。
「そんなに、あなたがたは、たくさんいっしょになって、旅をなさるのですか。」と、花は問いました。
「幾十万、幾百万、その数はわかりません。私たちは、太陽の輝いている空も暗くすることができます。また、どんなににぎやかな明るい街の火でも暗くすることができます。私たちは、昨夜、海の上を渡って、南の国へゆこうとして、風のためにわずかばかりが迷って、この方向に飛んできました。いまに、その私たちの仲間が、ここの空を過ぎるでありましょう。」と、蛾はいいました。
花は、頭をあげて、そばに立っている、電燈の光を見ますと、蛾が幾つも止まっているのでした。
花は、たちまちのうちに、無数の黄色な蛾が飛んできたのを見ました。どの木の葉にも、またどの草の葉にも、蛾が止まっていました。ちょうど花びらの降りかかったように見えたのです。
急に、さわさわという音がして、燈火の光がうす暗くなったと思って、立っている電燈の方を見ると、幾百、幾千となく蛾が火を目がけて襲ったのです。そのために、光をさえぎったので、中には、ガラスに頭を打ちつけて、下に落ちる蛾や、火のまわりを、すきもあろうかと、羽ばたきをしながらまわるのや、いろいろありました。このとき、あちらに立っている電燈を見ても、同じような光景でありました。そして、羽の白い粉が、火の周囲の空間を、光ったちりのまかれたように散っているのでした。花は、いま蛾のいったことを思い出して、蛾の仲間が、ようやくここへやってきたのだと知りました。
この都会の火を消すために、蛾が襲ってきたのです。とこなつの花は、このたくさんな数えきれないほどの黄色の蛾が、いずれも二つのくるくるとした、円い人間の目のような目を持ち、長いひげと大きな口を持っているかと思うと、ぞっとするほど、恐怖を覚えたのです。で、目を閉じて、見まいとしていました。
そのうちに、待ち通しかった夜が明けかかった。花は、うなされながらも、いくらかは眠ったような気持ちもしました。しかし頭は重かったのであります。
花は、あたりが明るくなると、自分の体の上に止まっていた、黄色な蛾が、いないのに気づきました。そればかりでなく、頭を上げて、あたりを見まわしますと、あれほどたくさんに飛んできた蛾が、影も形もないのに驚いたのであります。
「昨夜のは、みんな夢だったろうか?」と、花は、怪しまざるを得なかったのでした。
敏捷で、自由で、怜悧で、なんでもよく知っているみつばちは、きっと昨夜のできごとも知っているであろう。はやく、みつばちが、やってきてくれないものかと、花は、待っていましたが、その日は、みつばちはついにきませんでした。
高原に生まれた花は、この街の中にきてから体がたいそう弱りました。朝晩、冷ややかな露を吸わないだけでも、元気をなくした原因だったのでした。それに、むし暑い日がつづいたので、頭までがいきいきとせずに重くあったのです。
とこなつの花は、高原にいて、あの寒い、雪の積もる冬にあうことをおそれましたが、ここにきてから、こんなに早く体が弱ってしまっては、秋を待たずに枯れてしまうようにさえ思われました。
「ああ、わたしも、もう先が長くあるまい。」と、花は、自らも考えました。そして、昼間も、うつらうつらとした気持ちで、居眠りをつづけているようになりました。
周囲の常磐木の葉に、強く照りつけた太陽の光も、このしぼみかかった、哀れな花の上には頼りなげに照らしたのです。ちょうど、この花に映った太陽の光は、燐の炎のように青白くさえ見られました。
だれかつぶやいている声がしたので、ふと花は、目をさましますと、もう日は暮れていました。そばにあったベンチに腰をかけている人間は、たしかに、せんだって、黒い百合の花を探していた男であります。
「なぜだか、あの笛の音を聞くと、私は、お母さんと、あの山奥の温泉場へいったときのことが目にうかんでくる。あの時分は、お母さんは達者で、自分は、まだ子供だった。未開な温泉宿では、夜は谷川の音が聞こえて静かだった。行燈の下で、毛ずねを出して、男どもが、あぐらを組んで、下を向いて将棋をさしていた。」
男は、こう独り言をしていました。
もう、空は暗かったので、花には、男の顔がわからなかった。ただその声に聞き覚えがあっただけです。公園の鉄さくの外を按摩の吹いて通る笛の音が、細く、きれぎれに聞こえてきました。
その後は、ベンチによりかかった男のため息ばかりが、闇の中でしたのであります。
翌日の朝は、いい天気でした。白い雲が、静かにこずえの頂を離れて、空に流れていました。とこなつの花は、ぐったりとしていました。そして、いつになく元気がなかったのです。どこからかみつばちが飛んできました。
「いい天気じゃありませんか。」といって、花に声をかけました。
「昨夜は、恐ろしい夢を見て、今日は、頭が重くてしかたがありません。」と、花は答えました。
「どんな夢をごらんになりましたか? ほんとうに顔の色がよくありませんね。あなたは、だいぶん疲れておいでのようですから、お大事になさいまし。」と、みつばちがいいました。
とこなつの花は、一昨夜、黄色な蛾がきたことを語りました。すると、みつばちは、花のいうことを半分も聞かずに、
「なんで夢のもんですか。みんな事実ですよ。この公園には、黒い百合の花が咲いたり、不思議な毒蛾がきたりしたために、人間が大騒ぎをしていますよ。あなたは、まだなんにもお知りになりませんか。」と、みつばちはいいました。
とこなつの花は、これを聞くと、
「黒い百合の花が咲いたのですか?」とたずねました。
「百合圃に、一本咲いています。それで、今日あそこへ植物学者がきて検べています。後ほどここへもあの人たちは、やってくるでしょう。」と、みつばちはいいました。
とこなつの花は、なんとなく胸騒ぎを感じた。
「みつばちさん、そんなら、一昨夜、たくさんきた蛾は、毒蛾なんでしょうか。」と問いました。
「毒蛾ですとも、昨夜、ついこのベンチに腰をかけていた男が、あの蛾に刺されたのです。そして、病気になったというので、やはり学者が、今日この公園にきて、蛾を探しています。しかし、あれほどいた蛾が、不思議なことに、一匹も見つからないですよ。」と、みつばちはいいました。
とこなつの花は、このそばのベンチに腰をかけていた男が、蛾に刺されて病気になったということを聞いて、びっくりしました。
「なんという、あの人は、不しあわせの人なんでしょうね。」と、花は、あの男が独り言していたことなどを思い出しながらいいました。
「その男は、なんでも昼間黒い百合の花を折ろうとしたのです。それを番人に見つかって、しかられたのです。男は、夜、ここへやってきました。すると、一昨夜、この都を襲った毒蛾が、どこかに残っていたとみえて、その男を刺したのです。それで男は、毒が身体にまわって、なんでも死にそうだといいますが、私は、黒い百合の花に触れたのではないかと思います。」と、みつばちは答えた。
このとき、あちらでは、にぎやかな音楽の響きが起こっていました。なにかの催し事があるとみえるのです。
一方に悲しむものがあれば、また、一方に楽しむものがある。それが、この世の中の有り様でした。このとき、こちらに、ぞろぞろと歩いてくる人たちがありました。それは、みつばちが、先刻いった学者たちの一行であります。その中の白い洋服を着て、眼鏡をかけた一人は、とこなつの花の咲いている前に歩み寄りました。
「やあ、こんな花がここに咲いているのは珍しい。このとこなつは、高い山にあるとこなつです。」と、ほかの人々を顧みていった。
「どうして、こんなところに咲いているのでしょう。」と、その一人がたずねました。
「まれにあることです。風か、なにかで、種子が飛んできたのですね。」と、白い洋服の男は答えました。そして、手をさし伸べて、とこなつの花を根もとから引き抜きました。
鳥が、くわえてきて、ここに植えた、花の運命も、ついに終わりがきたのであります。みつばちは、それを見ると、いずこへともなく飛びゆきました。
底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社
1977(昭和52)年1月10日第1刷
1981(昭和56)年1月6日第7刷
初出:「朝日新聞」
1922(大正11)年6月26日~7月10日
※表題は底本では、「公園の花と毒蛾」となっています。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:江村秀之
2013年11月27日作成
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