海ほおずき
小川未明
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梅雨のうちに、花という花はたいていちってしまって、雨が上がると、いよいよ輝かしい夏がくるのであります。
ちょうどその季節でありました。遠い、あちらにあたって、カン、カン、カンカラカンノカン、……という磬の音がきこえてきました。
「また、あのお祭りの時節になった。ほんとうに月日のたつのは早いものだ。」と、お母さんはいわれました。
あや子はある日のこと、学校の帰り途に、その小さなお寺の境内にはいってみました。するとそこには、いろいろの店が出ていました。そして、子供らがたくさん、どの店の前にも集まっていました。赤い風船球を売っているのや、あめ屋や、またおもちゃなどを売っているのが目にはいりました。
あや子はそれらの前を通りぬけて、にぎやかなところから、すこしさびしい裏通りに出ようとしますと、そこにも一人のおばあさんが店を出していました。やはり、駄菓子やおもちゃの類に、そのほか子供の好きそうなものを並べていました。あや子は、べつにそれまではなにもほしいとは思いませんでした。ただ、いろいろな店の前を過ぎて、それらをながめてきたのでありますが、いま、おばあさんの店の前にさしかかって、ふと歩みを止めたのであります。
それは、一つのさらの中に、海ほおずきがぬれて光っていたからであります。
あや子は、これがなんというものであるか知らなかったのです。ほおずきであろうとは思ったけれど、かつてこんな珍しいものは、見たことがなかったからです。
「おばあさん、これはなんというものですか。」と、あや子はほおを染めながら、店に腰をかけていたおばあさんにききました。
おばあさんはもう、頭の髪の毛がだいぶ白くなっていて、人のよさそうなおばあさんでありましたから、あや子はつい、そういって聞く気になったのでした。
「これですか、海ほおずきですよ。ここらでは、めったに売っていませんよ。」と、おばあさんは答えました。
あや子は、家へ帰ってからお母さんの許しを受けて、買おうと思いました。それで、途すがらも海ほおずきのことを、頭の中で考えながら歩いてきました。
彼女は、あのたんぼにできる真紅なほおずきよりは、どんなに、この、海にある珍しいほおずきを、ほしいと思ったかしれませんでした。
「お母さん、海ほおずきを買ってきてもよろしゅうございますか。」と、あや子はお母さんにいいました。
「おまえがそんなにほしければ、用事をしまったらいっておいでなさい。」と、お母さんはいわれました。
あや子が用事をすましますと、かれこれ晩方になったのであります。しかし、毎日、学校へゆく途すがらであり、また町つづきでありますから、急いでいってこようと家を出かけたのです。
さっきまで、よく晴れていた空が、いつのまにか曇っていました。そして、もうすぐお寺が間近になった時分に、ぽつり、ぽつりと雨が落ちてきました。
あや子は帰ろうかと思いましたが、せっかくここまできて、買わずに帰るのが残念だという気がしましたので、急いでお寺へゆきますと、もういろいろな店は、片づきかけています。
おばあさんの店はと思って、あや子はさっそくそのお店までゆきますと、おばあさんも片づけていました。
「海ほおずきをおくんなさい。」と、あや子はせきこんでいいました。海ほおずきのはいっていたさらは、もうそこには見えませんでした。
「おお、海ほおずきは、もうこの箱の底のほうにしまいましたよ。」と、おばあさんは答えました。あや子はがっかりしました。
そのうちに、雨がだんだん降ってきました。おばあさんは、あわてて箱の中へ残りの品物を入れています。あや子は、おばあさんが気の毒になって、自分の急いで帰らなければならぬことも忘れて、おばあさんにてつだってやりました。おばあさんはたいそう喜びました。
やがてそれらの箱を小さな車に積んで、おばあさんはみすぼらしいふうをして、その車をだれも助けてくれるものもなく、一人で引いて、暗い道を帰ってゆくのです。そのとき、おばあさんはあや子を振り向いて、
「私の家は、この道をどこまでもまっすぐにいって、突き当たったら左に曲がって、一丁ばかりゆくと車屋がある。それから四軒めの家です。海ほおずきがたくさんありますよ。」といいました。あや子はしばらく立って、おばあさんのゆくのを見送っていました。そして、家に帰る時分には、もう町には燈火がついて、銀のような雨が、そんなにひどくはなかったけれど、降っていました。
あくる日もやはり雨が降っていました。
カン、カン、カンカラカンノカン、……と雨の中に、遠く磬をたたく音がきこえていました。
そのつぎの日には、雨が晴れて、めっきり暑くなりましたが、もうお祭りは終わってしまって、あや子は学校の帰りに、そのお寺の境内を通りましたけれど、なんの店もなかったのです。ただ青々とした木立が、空にしげっていました。
しかし、彼女はどうしても海ほおずきを目から忘れることができませんでした。家に帰ってもそのことばかり思い出していました。
「お母さん、あのおばあさんの家へ、海ほおずきを買いにいってきてはいけませんか。」と、ある晩、たまりかねてききました。
するとお母さんは笑いながら、
「その家がわかっているならいっておいで。しかし、おまえ一人ではいけないから、ねえやをいっしょにつれておいでなさい。」といわれました。
あや子は喜んで女中をつれて、二人はいっしょにおばあさんの家をたずねてゆきました。
いい月夜でありました。二人は長い長い町を歩いてゆきました。だんだんゆくにつれて場末になるとみえて、町の中はさびしく、人通りも少なく、暗くなってきました。けれどもまだ宵のうちで、どこの家も起きています。
やっと二人は、その町はずれに突きあたりました。それから左に曲がりました。なるほど、おばあさんのいったように、一丁ばかりゆくと一軒の車屋がありました。このあたりは、どの家も狭く、汚く、屋根が低うございました。
あや子は車屋から四軒めの家を数えてゆきますと、その家は、はや、戸が閉まっていました。が、戸のすきまから燈火がさしていました。
「今晩は、今晩は。」と、あや子と女中は、かわるがわるにいって、その戸をたたきました。するとやっと、ことことと人の出てくるけはいがしました。そして戸が開いて、
「だれですかえ。」と、頭の髪の白いおばあさんが顔を出していいました。
「海ほおずきをおくんなさい。」と、あや子はいいました。
「どこからおいでなすったの。」と、おばあさんは目をくしゃくしゃさしてききました。
「おばあさん、私ですよ。いつかお祭りのとき雨が降って買われなかったので、今晩買いにきたのです。」と、あや子は答えました。
「あ、そうですか。」と、おばあさんは思い出したとみえて、うなずきました。そして、そのまま奥へはいりました。二人は外の戸口のところに待っていますと、おばあさんは、海ほおずきの一かたまりになっているのをつまみ出して、安くあや子に売ってくれました。二人は大喜びでありました。そして、その家から出て、また長い町を歩いて家へ帰りますと、夜もいつしか更けていました。
お父さんやお母さんまでが、その海ほおずきを珍しがって、手にとってながめられました。あくる日、あや子は学校へ持っていって、お友だちにも分けてやりました。
その年の夏も暮れてしまったのです。お母さんのおっしゃられたように、月日のたつのはほんとうに早いものです。
また夏がめぐってきました。するとあや子は、去年買った海ほおずきのことを思い出しました。ある日、あや子はおばあさんの家をたずねてゆきました。車屋から四軒めの家をさがしますと、そこは綿屋になって、ほかの若い人たちが住んでいました。
お祭りの日になりました。磬の音が遠くあちらできこえました。あや子はある晩、おばあさんがまた店を出していないかと思って、お寺の境内へきてみますと、去年出たようないろいろの店はありましたが、おばあさんの姿は、やはり見えませんでした。そして、いつかおばあさんの店を出していた場所には、知らぬ背の高い男が、ダリアを地面にたくさん並べていました。カンテラの火は、それらのダリアの花を照らしていました。中に、黒いダリアの花が咲いていました。
あや子は家へ帰ってからも、なおその花が目についていたのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社
1977(昭和52)年1月10日第1刷
1981(昭和56)年1月6日第7刷
※表題は底本では、「海ほおずき」となっています。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:本読み小僧
2012年10月15日作成
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