おかしいまちがい
小川未明
|
ある田舎に、一人の男がありました。その男は、貧乏な暮らしをしていました。
「ほんとうに、つまらない、なにひとつおもしろいことはなし、毎日おなじようなことをして、日を送っているのだが、それにも飽きてしまった。」
男は、そう思いました。そして、あう人に向かって愚痴をもらしました。
これを聞いた人々の中には、
「これは、おまえさんばかりがそうなのではない、みんながそうなのですよ、しかし、いったからとてしかたがないから黙っているのですよ。」といったものもあります。
しかし、男は、それを聞いただけでは、あきらめられませんでした。もっと、おもしろいことや、しあわせのことがなかったら、生きているかいはないように考えました。
男は、お膳に向かって飯を食べますときに、
「いつも、こんなまずいものばかり食っているのでは、生まれてきたかいがない。」と思いました。
また、仰向いて、家の内をじろじろと見まわしては、
「いつも、こんな汚らしい、狭い家に住んでいるようでは、生まれてきたかいがない。」と思いました。
そして、男は、人の顔を見ると不平をもらしました。なかには、
「あなたのおっしゃるとおりですよ、人間はいつまでも生きていられるものではありませんから、せめて生きている間だけでも、おもしろいめや、好きなことをしなくては、生きているかいはありません。世間には、そうしたりっぱな暮らしをしているものもあるのですから……。」と答えたものもあったのです。
男は、仕事をするのも、なんだかばからしくなって、ぼんやりとして日を送っていますと、そのうちに秋となり、冬となりました。冬になると、雪が降ってきて、田も圃もまた家も、雪の中に埋もれてしまったのです。小鳥は、毎日のように枯れた林にきては、いい声でさえずっていました。
「あんなに、あちらは雲切れがしていますよ。あっちへいったら、きっとおもしろいことがあるでしょう。」
こんなふうに、小鳥はいっているように聞こえました。するとある日のこと、男は、また人にあって、
「ほんとうに、毎日、おもしろくなくてしょうがありません。もっと暮らしのいいところはないものでしょうか。」といいました。
すると、その人は、男に向かって、
「おまえさん、旅へゆきなさると、金がもうかるそうですよ。いま、あちらは景気がいいといいますから、きっと暮らし向きも、いいにちがいありません。」と答えました。
「旅といいますと、どこですか?」と、男はうれしそうに、どきどきする胸を押さえてたずねました。
この人は、雲切れのした、あちらの空を指さして、
「あの国境の山を越しますと、もう雪はありません。いまごろは、暖かい花が咲いています。そこへゆけば、いつだって仕事のないことはありませんよ。」と答えました。
男は、雪がないと聞いただけでも、もはやじっとしていられませんでした。さっそく、その旅へ出かける用意をいたしました。
「俺は旅へゆこう。そして雪のない、いい国で働こう。金がもうかり、おもしろいことがたくさんあって、いい暮らしができるだろう。そうすれば、俺は、もう一度この村に帰って、みんな家も圃も売って、後始末をつけて出直すつもりだ。そして、旅で一生を送ることにしよう。」と、男は考えました。
男は、家を閉めて、留守を隣の人に頼んで旅へ出かけたのであります。もとよりたくさんの旅費を持っているわけではありません。やっと、あちらへ着くだけの金しかなかったのを懐に入れて出かけました。
男は、ただ、雲切れのした明るい空を望んで、道を急ぎました。山に近づくにつれて、雪はますます深くなりました。しかし一の山をあちらにまわれば、雪がなくなるのだ、そして、そこには、暖かな風が吹いて、花が咲いている。そればかりでない、自分のかつて見たことのないような、美しい、にぎやかな町があるのだ。そこで自分は、いい暮らしをすることができる。きっと、その町の人は、遠くから出かけてきた自分をあわれんでくれるにちがいない。またしんせつにしてくれるにちがいない。ほんとうに、そうであったら自分は、どんなにしあわせだろう?
男は、さまざまな空想にふけりました。そして幾日も幾日も旅をつづけました。男は、夜になるとさびしい宿屋に泊まりました。しかし、にぎやかな町や、たのしい生活のことを空想すると、男は、すこしもさびしいとは思いませんでした。
男がいなくなった後は、村は雪にうずもれて、その家は閉まっていました。そして、裏の木立には、いつもの小鳥がきて止まって、男がいたときのようにさえずっていました。
男は、山を越えて、あちらの村へ入ってきました。もうそこは雪が降らなかったのです。けれど、花は咲くどころでありませんでした。寒い風が、林や森の上に吹いていました。
故郷にいる時分、明るい、なつかしい空の色は、その国に入っては見られませんでした。やはり、曇ったり、また晴れたりすることがあっても、明るい、オレンジ色のなつかしい空を毎日見ているわけにはゆかなかったのです。男はにぎやかな町を探して歩きました。すると、やや大きな繁華な町があったのです。
「どれ、この町に、いい仕事の口があるか、聞いてみよう。」と、男は、その町の人たちにたずねました。
町の人々は、この男のようすをつくづくとながめましたが、
「おまえさんは、この国のものでないようだが、どこからこられましたか。」とたずねました。
「私は山のあちらの国からやってまいりました。いま国のほうは雪が降っています。こちらへくれば仕事があって、いいお金になるとききましたので出かせぎにやってまいりました。」と、男は答えました。
町の人々は顔を見合わせていました。
「それはうそですよ。こちらの不景気といってはお話になりません。みんなは、あちらの山をながめて、あの山を越すと雪はあるというが、今年は豊作で暮らし向きがいいという。こちらにぼんやり遊んでいるよりか出かせぎにいったほうがましだといって、せんだってから、もう何人も出かけましたよ。」と、町の人々は、あきれた顔つきをして話しました。
男は、途方に暮れはててしまいました。なお、そこここと口を探して歩きましたが、やはりいい口が見つかりませんでした。
「それは、一日も早くお国へお帰りなさいまし、まだ、お国のほうが、どんなに暮らし向きがいいかしれません。今年は、こちらは不作で困っています。」と、ある人は、男にいいました。
男は、持ってきた金をすっかり遣い果たしてしまいました。しかたなくまた、山を越えて自分の村へ帰ろうとしました。
雪は、だんだん深くなって寒く、そして腹は空いてきました。宿屋はあっても泊まる金もなかったのです。夜は寺の縁の下にガタガタと寒さに震えながら、寝たこともあります。そのとき、男は、どんなに、いままで自分の家にいて気ままに暮らしていたことをありがたいことだと思ったでしょう。
それよりか、男は、もう二日もなにも食べずにいました。腹が空いて、頭がぼんやりとして、どこをどう歩いているやらわからずに、前へのめりそうなかっこうをして雪道をたどっていました。
そのとき、いままで、毎日、まずいものを食べているのを不平に思ったことが、まちがっていたのを気づきました。
男は泣きたくなりました。またうらめしくなりました。家に帰ったら、腹いっぱい飯を食べようと考えました。
やっと村へ帰ると、いつか、旅へ出かせぎにゆけば困るようなことはないと教えてくれた人に出会いました。
「おまえさん、どこへいっておいでなすった。旅へゆかれたという、うわさを聞きましたが、もう帰ってきなすったのか。」と、その人は怪しみながら、見る影もない男のようすを見守って問いました。
男は、なにかいいたかったが、疲れやら、腹がへっているやらで、なにも口がきけませんでした。ただ、その人の顔を見ると腹だたしくなって、いきなり顔をたたきました。
その人は、びっくりして、飛びのきました。
「気が狂いなすったのか?」
と、その人はわめきました。
男は、またとぼとぼと、のめりそうに歩いてくると、隣のおばあさんに出会いました。
「まあ、おまえさんは、どうして、そんなふうをして帰ってきなすったか。ものもいえないのは腹がへっているからだろうが、まあ、上がって、ご飯をおあがんなさい。」と、おばあさんは、しんせつに男を自分の家に入れてお膳を出して、茶わんに飯を盛ってやりました。
男は、じっと茶わんをにらんでいましたが、いきなり、その茶わんを取って投げ捨てました。そして、おばあさんのかたわらにあったおひつを引ったくって、頭からかぶりました。
おばあさんは、びっくりして、あわてて家の外へ飛び出しました。
「だれかきてくれ! 隣の人が気が狂った。」と叫びました。
村の中は大騒ぎでした。そのとき、男の家の裏では、木に小鳥が止まって、おかしそうにさえずっていました。
底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社
1976(昭和51)年12月10日第1刷
1982(昭和57)年9月10日第7刷
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:雪森
2013年4月10日作成
2013年8月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。