けしの圃
小川未明
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旅から旅へ渡って歩く、父と子の乞食がありました。父親は黙りがちに先に立って歩きます。後から十になった小太郎はついていきました。
彼らは、いろいろの村を通りました。水車小屋があって、そこに、ギイコトン、ギイコトンといって、米をついているところもありました。また、青葉の間から旗が見えて、太鼓の音などが聞こえて春祭りのある村もありました。またあるところでは、同じ街道を曲馬師の一隊が、ぞろぞろと馬に荷物をつけて、女や男がおもしろそうな話をしながらいくのにも出あいました。そうかと思うと、さびしい細路を、二人は町の方へ急いでいることもありました。いまにも、降ってきそうな、灰色に曇った空を気にしながら、父親が大またに歩むのを、小太郎は小さな足で追いかけたのです。けれど小太郎は、こんなときにでも、圃の中に立っている梅の木の葉の間から、青い、青い梅がのぞいているのを見逃しませんでした。そして、そんな景色を見ると、なんということなく、悲しくなって、自分には、面影すら覚えのないお母さんのことなどが思い出されて涙が出るほどでありました。
「お父さん、私のお母さんは?」と、小太郎は父に聞きますと、
「おまえには、母親なんかないのだ。」と、父親は答えました。
「そんなら、私のお母さんは、死んでしまったの?」
「うるさいってことよ。ああ、そうだ。死んだんだよ。」と、父親はどなりました。
子供は、付き場がなく、小さな胸をわななかせて黙ってしまうのでありました。
村や、町を歩きまわって、たくさんお金をもらってきたときは、父親は機嫌がようございましたけれど、もし、少なかったときは、口先をとがらして、
「やい、この盲目め、これんばかり働いてきてどうするんだ。ここらあたりへ捨てていってしまうぞ。」とどなりました。そして、小太郎の差し出した手から、お金をひったくるように奪い取るのでありました。
小太郎は、すが目でありました。自分にもあまり覚えのない時分に、どうして片方の目をつぶしてしまったのかわかりません。
あるとき、こんなことがありました。それはなんでも北の方で、青い海の見える町でありました。町といっても家数の少ない小さなさびしい町で、魚問屋や、呉服屋や、荒物屋や、いろんな商店がありましたが、いちばん魚問屋が多くあって、町全体が魚臭い空気に包まれていました。その町の木賃宿に泊まったときに、父親は、子供を、知らぬ男と女の前に出して、なにかいっていました。
その話は、よく小太郎にはわからなかったけれど、知らぬ男と女に、小太郎をくれてやるというような話らしかったのです。小太郎は、なんとなく心細くなって泣きたくなりました。そして、はたしてそれはほんとうに父がそう思っているのだろうかと振り向いて父親の顔をじっと見つめました。ちょうど、そのとき、知らぬ女が、
「だって、この子は入れ目じゃないかね。いくらなんぼでも役にたたない。」といいました。つづいて、知らぬ男が、しゃがれ声でなにかいいました。
「さあ、あちらへいこう。」と、父親は、急に小太郎の手を取りました。小太郎は、やはり自分は父親とは離れることがないのだと思うと、急に気がゆるんで一時に熱い涙がほおに伝わりました。
それから、その暗い宿を立って、また松原の中の小路を歩いて、つぎの町の方へと二人はいきました。
小太郎は、歩きながらいろいろなことを空想しました。いつも父親に気に入らないことがあるたびにひどくいじめられるよりは、あの女の人のところへ、もらわれていったら、あの女の人は、自分をかわいがってくれなかろうか。けれど、あのしゃがれ声の男の人は怖い。などと思いました。また、小太郎は、女の人がいった言葉を思い出しました。
「いくら、なんぼでも……。」と、女の人はいったが、なんぼとは、どういう意味のことだろうと考えました。小太郎には、女の人のいったことが心にはっきりわからなかったのであります。
「お父さん、さっきの女の人は、どこの人なの?」と、小太郎は父親に聞きました。
「西国のものらしいが、俺は知らねえ。」と、父親は答えました。
その後、父親は小太郎の入れ目を取り出して捨ててしまいました。いままでかわいらしい、美しかった少年の顔は、急に醜いものとなってしまいました。けれど、その方がかえって、見る人々からかわいそうだといわれて、お金をたくさんもらえることと父親は思ったのです。
ある日の暮れ方、二人は町に入りました。この町はいままで見たほかのどの町よりも、なんとなく気持ちのいい町でありました。ちょうど幾台となしに、馬が荷車を引いて、ガラガラと町の中を通ってあちらへいくのを見ました。
一軒の酒屋の前へきかかりますと、父親は小太郎に向かって、
「おまえは向こうの角に待っていれ。」といいました。父親は酒が好きで、よくこうして、待たされたことがありますので、小太郎はうなずいて、町の角に立って、馬の通るのをながめていました。そのうちに、長い馬の列はいってしまいました。けれど、まだ父親の出てくるようすが見えませんでした。小太郎は、父親はどうしたのだろうと思って、酒屋の入り口に立って、うす暗い内をのぞきました。しかしそこには、父親のいるけはいもなければ、また人の話し声もしませんでした。
「お父さん、お父さん。」と、小太郎は、急に心細くなって泣き声を出して、父を呼びました。けれど、なんの返答もありません。その内に番頭が顔を出して、
「だれも、家にはきていない。」といいました。小太郎は、父は、もう先にいってしまったのかと思って、後を追うために駆け出しました。
いくら駆けても、父の姿を見いだすことはできませんでした。小太郎は、父が、たしかに、あの町の角で待っていれといったことを思いうかべて、自分を独り置き残して、どこかへいってしまうはずがないと考えました。そして、いまごろは、父があの町の角で、自分を捜していはしまいかと思うと、また酒屋の前までもどってきました。けれど、そこにも、ついに父の姿を見いだすことはできませんでした。
「これは、きっと自分を置いて、お父さんはどこか遠いところへいってしまったのだ。」と、小太郎は思いました。
彼は、あてなく、いなくなった父親をたずねて町の中を歩きまわりました。そのうちにだんだん日が暮れてきて、歩いている人の顔がぼんやりとしてわからなくなりました。とうとう小太郎は、足が疲れ、腹がすいて、町はずれにさしかかったとき、倒れてしまいました。
小太郎は、ぼんやりとして、西の空に沈んでしまった入り日のあとが、わずかばかり赤くなっているのをながめていました。すると、ちょうどこのとき、町はずれに流れている河がありました。その橋を渡って、つえをつきながらきかかるおばあさんがありました。おばあさんは腰が曲がっていました。そして、黒い頭巾をかぶっていました。
おばあさんは、小太郎の倒れているそばを通りかかろうとしまして、そこに子供の寝ているのを見てびっくりいたしました。
「かわいそうに。」といって、おばあさんは、どうしてこんなところに寝ているのかと聞きました。
小太郎は、お父さんがいなくなったのをくわしく物語りました。おばあさんは、小太郎の話を一部始終聞き終わると、
「私は、この町に昔から住んでいる占い者だ。やはり私の見た占いが当たっていた。この町を出て二、三丁向こうへいくと、大きな屋敷がある。そのまわりを石垣で取り巻いている。おまえは、ここにあるこの笛を吹いて、その石垣の石をかぞえながら、今夜の中に、その屋敷のまわりを一まわりすると、おまえのまだ知らない、ほんとうのお母さんにあうことができる。」と、黒い頭巾をかぶったおばあさんはいいました。
小太郎は、ほんとうのお母さんに、今夜あわれるということを聞くと、いままでの悲しいことも、また腹の減ったことも、疲れたこともすっかり忘れてしまいました。そして、勇気づいて、急に飛び上がりました。おばあさんの教えてくれた方に走っていこうとしますと、おばあさんは、小太郎を呼び止めました。
「この笛を吹くことを忘れてはならん。さあ、この笛を持っていって、石垣の石を一つずつ数えながら五つ数えてはこの笛を吹き、十数えてはこの笛を吹くのだ。」といって、たもとから四つか五つの子供の吹く、おもちゃの笛を取り出して、小太郎に渡しました。
小太郎は、よほどきてから、向こうから歩いてくる人に、
「このあたりの、石垣のある大きな屋敷は、どこでしょうか。」と、聞きました。
「ああ、あの女のきちがいのいる大きな屋敷ならもうじきですよ。」と、その人はいいました。
小太郎は、その屋敷には、きちがいがいるのだろうかとびっくりしました。けれど、なんにしてもお母さんにあえるといううれしさで、歩いてきますと、なるほど、大きな屋敷がありました。
屋敷は、石垣で取り巻いていて、その内側には、こんもりとした樹がしげっていました。夜が更けるにつれて、あたりはひっそりとしました。月が上がって、青白く、野原も路も彩ったのであります。小太郎はおばあさんからもらった笛を吹きながら、石垣の石を一つずつ数えて屋敷をまわりました。
屋敷の周囲には広々とした圃がありました。そして、そこにはばらの花や、けしの花が、いまを盛りに咲き乱れているのであります。なんともいえない、なつかしいいい香りが夜の空気にしみ渡っているのにつけて、小太郎はほんとうのお母さんを思い出しました。そして、石を数えては、また笛を吹きながら屋敷の外側を歩いていました。
すると、向こうに、ぼんやりとして人影が動いたような気がしました。小太郎は、だれだろうと思いました。なんでも、その人影は笛の音をいっしょうけんめいに聞いているようでありました。小太郎が笛を吹くと、その影は、動いてだんだんこっちに近づいてくるようであります。
「三百八十六。」と、小太郎は石を数えて、また笛を吹き鳴らしました。その音色は、細く、悲しく、夜のあたりに響いたのです。響いたかと思うと、はかなく、跡なく消えてゆきました。そのときだんだん人影は、こちらに近づきました。小太郎は、だれか、自分をしかるのではなかろうかと思いました。けれどその影は、穏やかに動いて、そんなけはいもなく、なんとなく笛の音を聞いては、こちらを遠くから、透かして見ているようでありました。
だんだんその影が近づきますと、それは女の影であることがわかりました。美しい女が、髪を垂れて、月の光を浴びてたたずみながら、ぼんやりとこちらを見つめているようすでありました。小太郎はもしやこの女の人が、自分のほんとうのお母さんではなかろうかと思いました。そして、占い者のおばあさんが、今夜、おまえはほんとうのお母さんにあえるといったことを思い出して、なんとなく小太郎の胸は躍ったのであります。
小太郎は、躍る胸を心で押さえながら、また石を数えて、「三百八十九。」といって、笛を鳴らしました。
このとき、美しい女は、けしの咲いている圃の中を走って小太郎に近づきました。
「小太郎じゃないか。」と、美しい女の人はいいました。
小太郎は、自分の名を呼ばれたので、びっくりしました。急には、返事ができなくて、黙って、立って女の姿を見守っていますと、
「おまえは、小太郎じゃないか。」と、なつかしい声で、二度呼びかけられたので、小太郎は、自分を忘れて、
「あなたは、お母さんですか。」といって、女の人に飛びつきました。
「どうして、よくおまえはかえってきておくれだ。おまえがいなくなった日から、私は、幾年の間毎晩、ここに立っておまえの帰るのを待っていたかしれない。ちょうどおまえが四つの夏の日だった。やはりこうして笛を吹いて、門の外に出たかと思うと、いつのまにかおまえの姿が見えなくなった。おまえの帯にはお守り袋がついていて、それに名まえが書いてあるから、迷ったならだれか連れてきてくれるだろうと思ったが、それぎりついに帰ってこなかった。きっと、人さらいに連れられていってしまったものと思ったが、私は、その日から、病気になってしまって、明け暮れおまえの身の上ばかり案じていた。おまえは子供の時分に片方の目がいけなくて入れ目をしていたが、ほんとうの小太郎なら目が悪いはずだ。」といって、女の人は小太郎の顔を見ました。
小太郎は、いつか父親が怒って、悪い方の目から、入れ目を掘り出して、どこかへ捨ててしまってから、まったくふさがって醜くなっていましたので、母親は見てびっくりしましたが、まさしく自分の子供であることがわかって、家の中へつれて入りました。
家の中はりっぱでした。乞食をして歩いていた小太郎は、かつてこんなりっぱな家を見たことがありませんでした。小太郎は、はじめて姉や、妹にもあい、また、ほんとうのお父さんにもあうことができました。
その日から、小太郎は、なに不足のない生活を送りましたが、ときどき、乞食の父親を思い出して、いまごろは、どうしているだろうと思うと、いい知れぬ悲しさを覚えて涙ぐんだのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社
1976(昭和51)年12月10日第1刷
1982(昭和57)年9月10日第7刷
初出:「赤い鳥」
1920(大正9)年7月
※表題は底本では、「けしの圃」となっています。
※初出時の表題は「罌粟の圃」です。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:江村秀之
2013年10月25日作成
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