おおかみと人
小川未明
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未開な小さな村がありました。町へいくには、山のすそ野を通らなければなりませんでした。その間はかなり遠く三里もありまして、その間には、一軒の人家すらなかったのであります。
春から夏にかけては、まことに景色がようございましたけれども、秋の末から冬にかけては、まったくさびしゅうございました。けれど、その村の人は、町までいくには、どうしてもその高原を通らなければならなかったのです。
この辺には、おおかみがときどき出て、人間を食ったことがあります。また、きつねが出て、人をばかしたこともあります。冬になって雪が降ると、人々は、一人でこの路を通ることをおそれました。
村に猟人のおじいさんが住んでいました。このおじいさんは、長年猟人をしていまして、鉄砲を打つことの大名人でありました。どんな飛んでいる鳥も、走っているうさぎも、またくまや、おおかみのような猛獣も、たいてい的をつけたものは、そらさず一発で打ち止めるというほど上手でありました。
このおじいさんが日ごろいっていますのには、
「くまや、おおかみのような猛獣は、かえってやさしい情けがあるもんだ。昔から人間が谷に落ちてくまに助けられたり、また路に迷って、おおかみにつれてきてもらったりした話があるが、それはほんとうのことだ。」といっていました。
しかし、どのくまも、おおかみも、人間に害をしないというのではありません。そんな人を助けるというようなことは、じつにまれな話であります。山や、野や、谷に食べるものがなくなってしまうと、人間の村里を襲ってきます。そして、人間を食べたり、家畜を取ったりします。
この村の人々も、雪が積もると、おおかみや、くまに襲われることをおそれました。けれど、上手な猟人のおじいさんが住んでいるので、みなは、どれほど安心していたかしれません。ある年の冬には、三頭のくまが村を襲ってきましたのを、おじいさんは一人で打ち止めてしまったからでありました。
同じ村に、与助という才走った男が住んでいました。この男は、きわめて口先のうまい、他人の気をそらさぬので、みんなからりこう者の与助といわれていました。
ある冬の一日、与助は村の人たちと町へ出ました。そして、彼一人は、酒を飲んで帰りがおくれてしまいました。その日は、いつになくいい天気でありましたうえに、まだ日もまったく暮れないから、泊まらないで急いで村に帰ろうと思って、いい気持ちで雪路を帰っていきました。
彼は、高原を一人で通るのもそんなにさびしいとは思わなかったのです。真っ赤な夕日は、山に沈みかかって、ほんのりと余りの炎が雪の上を照らしていました。明日もまた天気とみえて雪の上はもはや幾分か堅くなって凍っています。その上を彼は、さくりさくりと朝きたときの路を歩いて、鼻唄をうたってきました。
西の方の山々は、幾重にも遠く連なっていて、そのとがった巓が、うす紅い雲一つない空にそびえていました。まったく、あたりはしんとして、なんの声もなかったのです。
与助は、だんだん酒の酔いもさめてまいりました。そして、一刻も早く村に帰ろうと思いました。このとき、かなたの森の方で、オーオというおおかみの鳴き声を聞きました。彼は、それを聞くと、ぞっとしました。
まだ村の火は見えないか、早く村に入りたいものだ、もしおおかみに見つかったら、食われてしまうだろうと思って、いっしょうけんめいに歩き出しました。そして、後方を振り返ってみますと、真っ黒な大きなものが、雪を砕いて、こっちにだんだんと迫ってくるのでありました。
与助は、足がすくんでしまいました。そして、もう一歩も動くことができなかったほど、おそれを覚えたのであります。彼は自分の命は助からないものだと思いました。なぜ、もっと早く帰らなかったろう。そう思うと酒を飲んだということを後悔しました。みなといっしょに家へ帰っていたら、いまごろは、安楽にいろりのそばで話をしていられるのだろうと思いました。けれど、いくら後悔しても、なんの役にもたちませんでした。おおかみは、だんだん彼に迫ってきました。
与助は、心の中で神さまや仏さまに、どうか命を助けてくださるようにと祈りはじめました。すると、おおかみは、もうすぐそこまで近づいて、雪の上を踏み砕く足音すら聞こえたのであります。
与助は、自分の命はないものだとあきらめました。そして、彼は振り向いて、迫ってきたおおかみに向かっていいました。
「私は死んでもいいが、家には、妻も子供もある。もしおまえが私の命を助けてくれたら、おまえの欲しいものはなんでもやる。家には、にわとりが五羽も六羽もいる。おまえが私を食べてしまわないなら、にわとりを三羽おまえにやるから、どうか私の命を助けてもらいたい。」と頼みました。
与助がこういいますと、おおかみは、ぴたりと雪の上に歩みを止めました。そして、しばらくじっとして動きませんでした。与助は、いつか猟人のおじいさんが話したことを思い出して、おおかみが情けを感じてくれたのではないかと考えました。
彼は、なんとなく後ろ髪を引かれるような気持ちがしましたが、おそるおそる前に向かって、歩き出しました。すると、おおかみは、まったく彼のいったことを聞きわけたものとみえて、害を加えるようすもなく、与助の後について歩いてくるのでありました。
与助は、たびたび後を振り向いてみるだけの勇気もありませんでした。おおかみは彼の後ろ一、二間も離れて、のそりのそりと、ともをするようについてきました。
「家へいったら、にわとりを三羽やるぞ。」と、与助は、ちょうど念仏を唱えるように、同じことを繰り返していいながら歩きました。
おおかみが彼に対して、まったくなにもしないということを悟ると、彼は、心でいろいろのことを考えはじめました。
「早く、村の灯火が見えてくれればいい。」と思ったり、また、
「にわとりを三羽やる約束をしたが、どのにわとりをやったらいいものだろう。」と思ったりしました。
しかし考えてみると、やるようなにわとりはなかったのです。いずれも去年の秋高い値を出して買ったので、いま、卵をよく産んでいるのでありました。それをおおかみにやってしまうのはまったく惜しいことでありました。けれど、彼は自分の命には換えられないからと思いました。そんなことを考えているうちに、はるかかなたに村の灯火が望まれたのであります。
「家へいったら、にわとりを三羽やるぞ。」と、与助は同じことを口では繰り返していっていましたが、だんだんにわとりが惜しいという心が前よりも募ってきました。
なにも自分は、おおかみににわとりをやらなければならぬという理由はないはずだ。おおかみが人間の命を取ろうとするのこそまちがっているが、自分がおおかみに、にわとりをやらなければならぬという理由はないであろう。これは、こうしておおかみをだましておいて、村に入ったら大きな声を出して叫べばいい。そうすればみんなが飛び出してきて、おおかみを殺してくれるからと思いました。
彼は、とうとう村に入りました。どの家も、日が暮れてしまって寒いので戸を閉めていました。与助は思いきって大きな声を出すことができませんでした。もしまちがったら、おおかみに食い殺されてしまうと思ったからであります。
「家へいったら、にわとりを三羽やるぞ。」と、与助は、やはりいいつづけて歩きました。そして、彼はついに自分の家の戸口に着いたのであります。そのとき、彼はちょっと振り返ってみますと、黒いおおかみは、すこし彼から離れたところにきて立ち止まっていました。
「どれ、家へ入ってから。」と、与助はいって、戸を開けて躍り込みますと、あわてて後ろ戸をピーンと閉めてしまいました。そして、堅く棒をかって、にわとり小舎の前にいって、内をのぞいてみますと、六羽のにわとりは、よくふとって、とまり木に止まって安らかに眠っていました。
「どうして、このいいにわとりを一羽だってやれるものか。毎日卵を産んでいるのに。」と、与助は独り言をしました。そして、いくらおおかみが暴れたって、あのじょうぶな戸を破って入ることはできない。もしそんなときは、鉄砲も刀もあると考えました。
彼は、それよりおおかみへの約束などはかまわずに家へ上がって、今日はまず無事でよかったと喜んで、夕飯の膳に向かって、酒を飲みはじめたのであります。
彼は、戸の外に立っているおおかみはどうしたろうと思いましたが、まさか開けてみるだけの勇気もありませんでした。彼がだいぶさかずきを重ねて、いい心持ちになったころ、ちょうど村はずれの方にあたって、ものすごいおおかみの鳴き声を聞いたのであります。彼はあまりいい気持ちはしませんせした。
「やはり畜生などというものは知恵のないものだ。とうてい、知恵のある人間には勝てるものでない。」といいました。彼は、明くる日昨日あった事柄を村の人々に語って、自分がうまくおおかみをだましてやったと誇りました。
「人間の命を取ろうなんていうのが、ふらちなんだから、おおかみの約束を破ったってさしつかえない。」と、与助はいっていました。
「どんなおおかみだったえ。」と、村の人々は聞きました。
「灰色の大きいおおかみだった。見たところでは年をとっているおおかみだった。」と、彼は答えました。
「おともをしてきたのだから、なにかやればよかったのだ。」と、中にはいったものもありました。
けれど、知恵自慢の与助は、得意そうに笑って、
「あのとき、鉄砲でズドンと一発打てば、それまでだったのだ。せめても、こっちが命を助けてやったのをありがたく思ったがいいのだ。」といいました。
この話を聞いて猟人のおじいさんは、頭をかしげて、
「そんなうそをいうもんじゃない。おおかみがあだを返さなければいいが。」といいました。
これを聞いた与助は、おおかみの出るのをおそれて、その後町へいくにも帰るにも、みんなといっしょでなければ歩けなかったのであります。みんなは、それをおもしろがって、わざと帰りには、与助を後に残して、さっさときかかりますと、与助は死にもの狂いになってみんなを呼び止めながら、後を追いかけてきました。そして、いつしか、だれいうとなく、りこう者の与助は、「臆病者の与助」と、みんなからあだ名されるようになってしまったのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社
1976(昭和51)年12月10日第1刷
1982(昭和57)年9月10日第7刷
初出:「こども雑誌」
1920(大正9)年1月
※表題は底本では、「おおかみと人」となっています。
※初出時の表題は「狼と人」です。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:雪森
2013年4月10日作成
2013年8月24日修正
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