白すみれとしいの木
小川未明
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北の方のある村に、仲のよくない兄弟がありました。父親の死んだ後は兄は弟をば、むごたらしいまでに、いじめました。
弟は、どちらかといえば、気のきかない、おんぼりとした質で、学校へ行っても、あまり物事をよく覚えませんでした。だから、兄は弟をば、つねにばか者扱いにしていたのであります。
弟は気がやさしくて、けっして兄に対して手向かいなどをしたことがありません。いつも兄にいじめられて、しくしく泣いていました。
冬の、ある寒い寒い晩のこと、格別弟が悪いことをしたのではないのに、兄は弟をいじめました。
「おまえみたいなばかは、こんな寒い晩に外に立っているがいい。そして、凍え死んだって、俺はおまえをかわいそうとは思わないぞ。」と、兄はののしりました。
弟は、どうかそんなことはいわずに、家の中に置いてくれいと頼みますのを、兄は無理に弟を戸の外に出して、かぎをかけてしまいました。
家の外は、野にも山にも雪が積もっていました。その晩は、めったにない寒さであって、空は青ガラスを張ったようにさえて、星晴れがしていました。また、皎々とした月が下界を照らしていました。
弟は、雪の上に茫然としていますと、目から流れ出る涙までが凍ってしまうほどでありました。弟は、こんな不運なくらいなら、いっそ河にでも入って死んでしまったほうがいいと思いました。
いつのまにか、寒さのために雪の上は堅く凍っていました。それは鋼鉄のように、飛び上がってもカンカンと響くばかりで、埋まることはありませんでした。
弟は雪の上を渡って、河のある方へいきました。すると、河の水もまた鋼鉄のように凍っていたのであります。
身を投げて死のうにも、水がないし、どうしたらいいだろうと思って、途方に暮れていますと、はるかかなたに、きばのようにとがった高い山が、月に照らされて見えるのでありました。
昔から、あの山の下には、鬼が住んでいるといわれていました。
弟は、どうせ死ぬなら、いっそ鬼にでも食われて死んでしまったほうがいいと思いました。それにしても、何十里あるかわかりませんでした。
月光に照らされている、その遠い山影を望みますと、もし雪を渡ってまっすぐにいくことができたならそんなに遠くもないだろう。駆けて、駆けていったら、今夜の中にもいかれないことはないと思われました。
弟は、そう思うと、雪の上をひた走りに走りはじめたのです。河も野もどこも平坦な白い畳を敷き詰めたようでありましたから、どんな近道もできるのでありました。
彼は、駆けて、駆けて、駆けぬきました。そして疲れると、体から汗が出て、これほどの寒さもそんなに寒いとは思いませんでした。彼は、ところどころ休みました。そして行く手にそびえて見える高い山を仰ぎました。月の光が、かすかにその山を浮き出しているのでした。
弟は、ほとんど自分でも、どうしてこうよく走れるかわからないほど走りました。そして、どこをどう走ってきたかわかりませんでした。夜明けごろでありました。赤い火の球が自分の前になって、雪の上をころころと転げていきました。
彼は、これはなんだろうと思いました。きっと魔物にちがいない。けれどもう自分の命を惜しいと思いませんから、それをつかまえようといっしょうけんめいに跡を追いました。すると火の球は、ころころと谷底に転がり落ちました。
彼も、火の球について谷へ下りようとしますと、もはや夜が明けていました。そして、そこは路もないまったく山中で、あのきばのように高い山は、まだ遠くなって見えたのであります。
どうしたらいいかと思って、まごまごしていますと、その中に日の光がさしてきました。雪はしだいに軟らかくなって、弟は、もう一歩も身動きすることができなくなりました。
ちょうどそこへ、薪を負ったおじいさんが通りかかりました。そして弟を見つけて、こんなところに少年がいたのでびっくりいたしました。
おじいさんは、この山中にただ一人住んでいる不思議な人間でありました。弟は、おじいさんの小屋につれられてまいりました。
「こんな山中だけれど、なに不自由はない。長くここに住めば、春、夏、秋、冬、いろいろの美しいながめもあれば、楽しみもある。おまえはいいと思ったら、いつまでも住むがいい。」と、おじいさんはいいました。ふもとには、温泉もわいていたのであります。
そのうち雪が消えて春になりました。弟は、故郷が恋しくなりました。いまごろ兄さんはどうしていなさるだろうかと思いました。そのことをおじいさんにいいました。するとおじいさんは、木の実と草の種子を弟に与えました。
「この草の種子は、白すみれだ。おまえが、この種子をまきながらいけば、またここへ帰ってくるような時分に白い花が咲いているので路がわかる。この木の実は、おまえが腹が減ったときに食べるしいの実だ。」といいました。
弟は、最初、この山へくるときには、雪の上を渡って一夜にきましたけれど、雪が消えてからは、森や、林や、河があって、五日も六日も歩かなければ、自分の生まれた村に帰ることができませんでした。彼は、木の実と草の種子をもらって、出発したのであります。そしてある日の暮れ方、彼は、ようやく懐かしい我が家へ帰ったのであります。
「兄さん、ただいま帰りました。」と、弟はいって、敷居をまたぐと、なにかしていた兄は、びっくりして振り向いて、
「おまえは、まだ死ななかったのか。もうおまえみたいなばかには用事がないから、さっさと出ていけ。」といって、弟は、取りつく島がなかったのです。
「自分の真心がいつか、兄さんにわかるときがあろう。」と、弟は、一粒のしいの実を裏庭に埋めて、どこへとなく立ち去りました。
兄は、その後白すみれの花を見て、いじらしい花だと思いました。そして、弟の姿を思い出しました。また、しいの木に風の当たるのを聞いて、悲しいと思い、弟をいじめたことを後悔したそうです。
底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社
1976(昭和51)年12月10日第1刷
1982(昭和57)年9月10日第7刷
初出:「読売新聞」
1920(大正9)年1月9~10日、12日
※表題は底本では、「白すみれとしいの木」となっています。
※初出時の表題は「白菫と椎木」です。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:江村秀之
2013年11月1日作成
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