港に着いた黒んぼ
小川未明
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やっと、十ばかりになったかと思われるほどの、男の子が笛を吹いています。その笛は、ちょうど秋風が、枯れた木の葉を鳴らすように、哀れな音をたてるかと思うと、春のうららかな日に、緑の色の美しい、森の中でなく小鳥の声のように、かわいらしい音をたてていました。
その笛の音を聞いた人々は、だれがこんなに上手に、また哀れに笛を吹いているのかと思って、そのまわりに寄ってきました。するとそれは、十ばかりの男の子で、しかもその子供は、弱々しく見えたうえに、盲目であったのであります。
人々は、これを見て、ふたたびあっけにとられていました。
「なんという、不憫な子供だろう?」と、心に思わぬものはなかった。
しかし、そこには、ただその子供が、一人いたのではありません。その子供の姉さんとも見える十六、七の美しい娘が、子供の吹く笛の音につれて、唄をうたって、踊っていたのでありました。
娘は、水色の着物をきていました。髪は、長く、目は星のように輝いて澄んでいました。そして、はだしで砂の上に、軽やかに踊っている姿は、ちょうど、花弁の風に舞うようであり、また、こちょうの野に飛んでいる姿のようでありました。娘は、人恥ずかしそうに低い声でうたっていました。その唄は、なんという唄であるか、あまり声が低いので聞きとることは、みんなにできなかったけれど、ただ、その唄をきいていると、心は遠い、かなたの空を馳せ、また、さびしい風の吹く、深い森林を彷徨っているように頼りなさと、悲しさを感じたのであります。
人々は、この姉と弟が、毎日どこから、ここにやってきて、こうして唄をうたい、笛を吹いてお金をもらっているのか知りませんでした。それは、どこにもこんな哀れな、美しい、またやさしい、乞食を見たことがなかったからであります。
この二人は、まったく親もなければ、他に頼るものもなかった。この広い世界に、二人は両親に残されて、こうしていろいろとつらいめをみなければならなかったが、中にも弱々しい、盲目の弟は、ただ姉を命とも、綱とも、頼らなければならなかったのです。やさしい姉は、不幸な弟を心から憫れみました。自分の命に換えても、弟のために尽くそうと思いました。この二人は、この世にも珍しい仲のよい姉弟でありました。
弟は、生まれつき笛が上手で、姉は、生まれつき声のいいところから、二人は、ついにこの港に近い、広場にきて、いつごろからともなく笛を吹き、唄をうたって、そこに集まる人々にこれを聞かせることになったのです。
朝日が上ると二人は、天気の日には、欠かさずに、ここへやってきました。姉は、盲目の弟の手を引いてきました。そして、終日、そこで笛を吹き、唄をうたって、日が暮れるころになると、どこへか、二人は帰ってゆきました。
日が輝いて、暖かな風が、柔らかな草の上を渡るときは、笛の音と唄の声は、もつれあって、明るい南の海の方に流れてゆきました。
姉は、毎日のように、こうして踊ったり、唄をうたったりしましたけれど、弟の笛の音を聞くと、いつも、疲れるということをすこしも身に覚えませんでした。
元来内気なこの娘は、人々がまわりにたくさん集まって、みんなが目を自分の上に向けていると思うと恥ずかしくて、しぜん唄の声も滅入るように低くはなりましたけれど、そのとき、弟の吹く笛の音に耳を傾けると、もう、自分は、広い、広い、花の咲き乱れた野原の中で、独り自由に駆けているような心地がして、大胆に、身をこちょうのように軽く跳ね上げて、おもしろく踊っているのでした。
ある夏の日のことでありました。その日も太陽は、早くから上がって、みつばちは花を探ねて歩き、広場のかなたにそびえる木立は、しょんぼりと静かに、ちょうど脊の高い人が立っているように、うるんだ空の下に浮き上がって見えました。
港の方では、出入りする船の笛の音が、鈍く聞こえていました。明るい、あめ色の空に、黒い煙の跡がわずかに漂っている。それは、これから、青い、青い波を分けて、遠く出てゆく船があるのでありました。
その日も、二人のまわりには、いつものごとく、人が黒山のように集まっていました。
「こんないい、笛の音を聞いたことがない。」と、一人の男がいいました。
「私は、ほうぼう歩いたものだが、こんないい笛の音を聞いたことがなかった。なんだか、この笛の音を聞いていると、忘れてしまった過去のことが、一つ、一つ心の底に浮かび上がって目に見えるような気がする。」と、他の一人の男がいいました。
「あれで目があいていたら、どんなかわいい男の子でしょう。」と、ある一人の女がいいました。
「私は、あんな器量よしの娘を見たことがない。」と、他の年をとった、荷物をかついだ旅の女らしい人がいいました。
「あれほどの器量なら、こんなことをしていなくてもよさそうなものだ。あんな美しい娘なら、だれでももらい手があるのに。」と、脊の低い男がのびあがって、あちらを見ながら、いっていました。
「きっと、あれには、だれかついているものがあるでしょう。そして、金もうけをしようというのでしょう。」
「いいえ、あの娘は、そんな下卑た子供ではありません。きっと、あの弟のために、こうして苦労をしているのです。」と、さっきから黙って、じっと娘の踊るのを見ていた女の人がいいました。
人々は、思い思いのことをいいました。中には、金を足もとへ投げてやったものもありました。中には、いろいろのことをしゃべりながら、いつか消えるように、銭もやらずに去ってしまったものもありました。
つつがなく、やがて、その日も暮れようとしていました。海の上の空を、いぶし銀のように彩って、西に傾いた夕日は赤く見えていました。人々は、おいおいにその広場から立ち去りました。うす青い着物をきた姉は、弟をいたわって、自分たちもそこを去ろうとしたときであります。
一人の見なれない男が、姉の前に進み出ました。
「この町の大尽のお使いでまいったものです。ちょっと大尽がお目にかかってお話したいことがあるからいらっしてくださるように。」といいました。
姉は、これまでこんなことをいったものが、幾人もありましたから、またかと思いましたが、その大尽というのは、名の聞こえている大金持ちだけに、娘はすげなく断ることもできないという気がして、少なからず当惑いたしました。
「どんなご用があって、わたしにあいたいと申されるのですか?」と、姉は、その使いの男にたずねました。
「私にはわかりません。あなたがいらしてくださればわかることです。けっして、あなたのお身にとって悪いことでないことだけはたしかであります。」と、その男は答えました。
「わたしは、弟を置いて、どこへもいくことはできません。弟を連れていってもいいのでしょうか?」と、姉はたずねました。
「弟さんのことは、聞いてきませんでした。大尽は、なんでもあなた一人に、お目にかかってお話をしたいようです。けれどけっして手間を取らせません。あすこへ馬車を持ってきています。それに、日も、まだまったく暮れるには間がありますから……。」と、その男はいいました。
姉は、黙って、しばらく考えていましたが、なんと思ったか、
「そんなら、きっと一時間以内に、ここまで帰してくださいますか。」と、男に向かってたずねました。
「おそらく、そんなには時間を取らせますまい。どうか、せっかく使いにまいった私の顔をたてて、あの馬車に乗って、一刻も早く大尽の御殿へいらしてください。いまごろ大尽は、あなたの見えるのをお待ちでございます。」と、男はいいました。
あちらに、草の上にすわって、手に笛を持っておとなしく、弟は、姉のくるのをまっていました。
姉は、思案に沈んだ顔つきをして、着物のすそを夕風になぶらせながら弟のそばへ、はだしのまま近寄ってきました。そして、目は見えぬながら微笑んで、姉を迎えた、弟に向かって、
「姉さんは、ちょっと用事があっていってくるところがあるのよ。おまえは、どこへもいかずに、ここに待ってておくれ、すぐに姉さんは帰ってくるから。」と、やさしくいいました。
弟は、盲目の目を、姉の方に向けました。
「姉さんは、もう帰ってこないのではないの。僕は、なんだかそんなような気がするんだもの。」といいました。
「なぜ、そんな悲しいことをいうの。姉さんは、一時間とたたないうちに帰ってきてよ。」と、姉は、目に涙をためて答えました。
弟は、やっと姉のいうことがわかったみえて、黙ってうなずきました。
姉は、使いの男につれられて、いかめしい馬車に乗りました。馬車は、ひづめの音を砂地の上にたてて、日暮れ方の空の下をかなたに去りました。
弟は、そのひづめの音が遠く、かすかに、まったく聞こえなくなるまで、草の上にすわって、じっと耳を澄ましていました。
一時間はたち、二時間はたっても、ついに姉は帰ってきませんでした。いつしか、日はまったく暮れてしまって、砂地の上は、しっとりと湿り気を含み、夜の空の色は、藍を流したようにこくなって、星の光がきらきらと瞬きました。港の方は、ほんのりとして、人なつかしい明るみを空の色にたたえていたけれど、盲目の弟には、それを望むこともできませんでした。
ただ、おりおり、生温かな風が沖の方から、闇のうちを旅してくるたびに、姉の帰るのを待っている弟の顔に当たりました。弟は、もはやたえられなくなって、泣いていました。そして、姉は、どこへいったろう。もうこれぎり帰ってこなかったらどうしようと心細くなって、涙が流れて止まらなかったのであります。
いつも姉は、自分の吹く笛の音につれて、踊ったと思うと、弟は、もし自分の吹いた笛の音を聞きつけたら、きっと姉は、自分を思い出して帰ってきてくれるにちがいないと思いました。
弟は、熱心に笛を吹き鳴らしました。かつて、こんなに心を入れて、笛を吹いたことはなかったのであります。姉は、この笛の音をどこかで聞きつけるであろう。聞きつけたら、きっと自分を思い出して帰ってきてくれるにちがいない、と、弟は思いました。弟は、それで、熱心に笛を吹き鳴らしました。
ちょうど、ここに一羽の白鳥があって、北の海で自分の子供をなくして、心を傷めて、南の方へ帰る途中でありました。
白鳥は黙って、山を越え、森を越え、河を越えて、青い、青い海を遠く後にして、南の方をさして旅をしていました。白鳥は疲れると流れの辺に降り、翼を休めて、また旅に上りました。かわいい子供をなくして、白鳥は、歌う気にもなれなかったのです。ただ、黙って暗い夜を、星の下を駆けていました。
白鳥は、ふと、悲しい笛の音をききました。それは、普通の人の吹く笛の音色とは思われない。なんでも胸になやみのあるものが、はじめてこんな笛の音色を出し得ることを白鳥は知りました。白鳥は、子供をなくして、しみじみと悲しみを味わっていましたから、その笛の音色をくみとることができたのです。
白鳥は、その目に見えない細い糸の、切れては、また、つづくような、悲しい音色がどこから聞こえてくるかと翼をゆるやかに刻んで、しばらくは夜の空をまわっていましたが、やがて、広場から起こることを知りました。白鳥は、注意深くその広場に降りたのであります。そして、そこに、一人の少年が草の上にすわって、笛を吹いているのを見ました。
白鳥は、少年に近づきました。
「どうして、こんなところに、たった一人で笛を吹いているのですか。」とたずねました。
盲目の少年は、やさしい声で、だれかこうしんせつに聞いてくれましたので、少年は、姉が自分をここに置いて、どこへかいってしまったことをありのままに告げました。
「ほんとうに、かわいそうに。わたしが、姉さんにかわってめんどうを見てあげます。わたしは、子供をなくした白鳥です。これから、あちらの遠い国へ帰ろうと思っています。二人は、南の国へいって、波の穏やかな岸辺で笛を吹いたり、踊ったりして送りましょう。わたしは、いまあなたをわたしとおなじ白い鳥の姿にしてあげます。海を越え、山を越えてゆくのですから……。」と、白鳥はいいました。
ついに、盲目の少年は、白い鳥となりました。夜のうちに、二羽の白鳥は、このさびしい、暗い広場から飛びたって、ほんのりと明るく、空を染めた港を見下ろしながら、その上を過ぎて、遠くいずこへとなく、消え去ってしまったのであります。後には、空に星が輝いていました。大地は黒く湿って、草木は音なく眠っていました。
姉は、それから程経て、大尽の屋敷からもどってきました。思ったより、たいへんに時間がたったので、弟はどうしたろうと心配してきたのであります。けれど、そこには、弟の姿が見えませんでした。どこを探ねても見えませんでした。星の光が、かすかに地の上を照らしています。そこには、いままで目に入らなかった月見草が、かわいらしい花を開いていました。そして、これもいままで見なかった、姉の青い着物のえりに、宝石が星の光に射られて輝いていました。
明くる日から、姉は、狂人のようになって、すはだしで港の町々を歩いて、弟を探しました。
月の光が、しっとりと絹糸のように、空の下の港の町々の屋根を照らしています。そこの、果物屋には、店頭に、遠くの島から船に積んで送られてきた、果物がならんでいました。それらの果物の上にも、月の光が落ちるときに、果物は、はかない香りをたてていました。また、酒場では、いろいろの人々が集まって、唄をうたったり、酒を飲んだりして笑っていました。その店頭のガラス戸にも、月の光はさしています。また、港にとまっている船の旗の揺れている、ほばしらの上にも月の光は当たっています。波は、昔からの、物憂い調子で、浜に寄せては返していました。
姉は、あてもなくそれらの景色をながめ、悲しみに沈みながら、弟をさがしていました。けれど、弟は、どこへいったのかわかりませんでした。
一日、この港に外国から一そうの船が入ってきました。やがて、いろいろなふうをした人々が、港の陸へうれしそうに上がってきました。なんでも、南の方からきたので、人々の姿は軽やかに、顔は日に焼けて、手には、つるで編んだかごをぶらさげていました。それらの群れの中に、見なれない、小人のように脊の低い、黒んぼが一人混じっていました。
黒んぼは、日当たりの途を歩いて、あたりを物珍しそうに、きょろきょろとながめながらやってきますと、ふと、町角のところで、うす青い着物をきた娘に出あいました。娘は黒んぼを、物珍しそうに振り返りますと、黒んぼは立ち止まって、不思議そうに、娘の顔を見つめていましたが、やがて近寄ってまいりました。
「あなたは、南の島で、唄をうたっていた娘さんではありませんか。いつ、こちらにこられたのですか。私は、あちらの島をたつ前の日に、あなたを、島で見ましたはずですが。」と、黒んぼはいいました。
姉は、不意に問いかけられたのでびっくりして、
「いえ、わたしは南の島にいたことはありません。それはきっと人違です。」と答えました。
「いや、人違いでない。まったくあなたでした。水色の着物をきて、盲目の十ばかりになる、男の子が吹く笛の調子に合わせて、唄をうたって踊っていたのは、たしかにあなたです。」と、黒んぼは疑い深い目つきで、娘をながめながらいいました。
姉は、これを聞くと、さらにびっくりしました。
「十ばかりの男の子が笛を吹いている? そして、その子供は盲目なんですか?」
「それは、島でたいした評判でした。娘さんが美しいので、島の王さまが、ある日金の輿を持って迎えにこられたけれど、娘は弟がかわいそうだといって、お断りしてゆきませんでした。その島には、白鳥がたくさんすんでいますが、二人が笛を吹いたり、踊ったりしている海岸には、ことにたくさんな白鳥がいて、夕暮れ方の空に舞っているときは、それはみごとであります。」と、黒んぼは答えて、それなら、やはり、この娘は人違いかというような顔つきをしていました。
「ああ、わたしは、どうしたらいいだろう。」と、姉は、自分の長い髪を両手でもんで悲しみました。
「もう一人、この世の中には、自分というものがあって、その自分は、わたしよりも、もっとしんせつな、もっと善良な自分なのであろう。その自分が、弟を連れていってしまったのだ。」と、姉は胸が張り裂けそうになって、後悔しました。
「その島というのは、どこなんですか。わたしは、どうかしていってみたい。」と、姉はいいました。
黒んぼは、このとき、港の方を指さしながら、
「ずっと、幾千里となく遠いところに、銀色の海があります。それを渡って陸に上がり、雪の白く光った、高い山々が重なっている、その山を越えてゆくので、それは、容易にゆけるところでない。」と答えました。
このとき、夏の日は暮れかかって、海の上が彩られ、空は、昨日のように真っ赤に燃えて見られました。
底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社
1976(昭和51)年12月10日第1刷
1982(昭和57)年9月10日第7刷
初出:「童話」
1921(大正10)年6月
※表題は底本では、「港に着いた黒んぼ」となっています。
※初出時の表題は「港に着いた黒んぼの話」です。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:富田倫生
2012年5月23日作成
2012年9月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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