くわの怒った話
小川未明
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あるところに、性質のちがった兄と弟がありました。父親は死ぬときに、自分の持っている圃を二人に分けてやりました。
兄はどちらかといえば、臆病で、働くことのきらいな人間でありましたが、弟は、どうかして自分の力で働いて、できるだけの仕事をしたいものだと、日ごろから思っていました。
いよいよ父親がなくなってしまいますと、二人は、これから自分で働いて、生活をしなければならなくなりました。あるときのこと、弟は兄に向かって、
「兄さん、私は、お父さんが分けてくだすった圃を売って、その金を持って旅に出て、なにか仕事をして働きたいと思いますが、兄さんはどうなさいますか。」といいました。
兄は、黙って考えていました。
「どうするって、俺には、べつにいい考えがないから、当分こうしているよりしかたがない。おまえは、かってにするがいいが、その金をなくしてしまったら、どうするつもりだ。」と、兄はいいました。
「兄さん、私は、とにかく思ったことをやってみます。そして、その金をなくしてしまったらまた働いて、体をもとでに、つづくかぎりやってみます。」と、弟は答えました。
弟は、ほどなく、その自分に分けてもらった土地を売り払って、旅へ出かけてゆきました。その後に残った兄は、圃に出てくわを取って働いていましたが、もとから働くことが好きでありませんから、たいていは怠けて家にいました。そして、困ったときは、道具などを片端から売って食べていました。
「運は寝て待て。」ということわざがあるから、きっと、そのうちにいいことがまわってくるにちがいないと、兄は信じきっていたのです。
その年も暮れ、翌年になると、不思議に運がめぐってきました。汽車がこの村を通って、停車場が近くに建つといううわさがたつと、急にあたりが景気づきました。そして、他所からもいろいろな人間がたくさんに入り込んできて、土地の価が一時にずっと上がり、兄の持っている場所は、その中でも町の目ぬきのところとなりましたので、いちばん高く売れるのでありました。
「それ見よ、俺のいわないことじゃない。なんでもあせると、弟のやつみたいに損をするものだ。昔から、運は寝て待てというから、冒険などをするものじゃない。おれの土地などは、買い人が山ほどある。こっちの価の付け放題じゃないか。」と、兄は、得意になって独語をもらしました。
いよいよ、兄の持っている土地が高い価で売れることにきまると、兄は、その日を最後として圃をみまいました。
「ああ、いやないやなくわ仕事も、今日かぎりでしなくていいことになった。これから、町にりっぱな店を出して、その帳場にすわればいいのだ。仕事はみな奉公人がしてくれるし、金は銀行に預けておけば、利子に利がついて、ますます財産が殖えるというものだ。もうこんなくわなどを使うことはあるまい。まったく不要なものだ。」と兄はいって、永年自分の手に握ってきたくわを、地面にたたきつけるように投げ出しました。すると、くわは、ひっくりかえって、さもうらめしそうな顔つきをして、兄をながめました。
「なんで、そんないやな顔をして、俺をにらむんだい。もうおまえの世話になどなりはしない。俺は明日から旦那さまだ。おまえは、俺を見たくっても、いままでのように容易に見られはしないのだぞ。」と、兄はあざわらって、くわをののしりました。
それから、幾日かたってから、兄は、町にりっぱな商店を出しました。そして、そこの帳場にすわって、多くの奉公人を使う身分となりました。
彼は、まったくの幸福者となったのであります。ある日、帳場にすわって、兄は、煙草をふかしながら、外の往来をぼんやりとながめていました。路の上には、重い荷を載せて停車場にゆく車がつづいていました。また、停車場からほかへ運んでゆく車などで、終日織るがように見られたのであります。
そのとき、ふと、彼は、いましも重い荷を車に付けて、店の前を通って停車場へゆきつつある、弟の姿を認めたのでありました。
「弟じゃないか。弟のやつめ車引になってしまいやがった。あんな大きな口をきいていたが、あのざまはなんということだ。それにしても、俺がこんなにいま、金持ちになって、ここに店を出していることを、知らぬはずはないだろう。いや、まだ知らないのかしらん。」と、兄は独語をもらしましたが、弟の耳に聞こえるように、大きなせきばらいをいたしました。
下を向いて、重い荷物を車に付けて引いていました弟は、こちらを振り向きました。そして兄と顔を合わせますと、車のかじ棒を地に下ろして、店先へやってきました。
「兄さん、しばらくでございます。」と、弟はいって、頭を下げました。
「おまえは、なんというようすをしている。あのとき俺のように、じっとしておちついていたなら、おまえもいまごろ金持ちになっているものを、いまとなってはとりかえしがつかないじゃないか。」と、兄は、さげすんだ調子でいいました。
「兄さん、なにが幸福になり、なにが不幸福になるか、わかったものでありません。あれから私は、事業を起して失敗しました。いまは、自分の腕ひとつを頼りに生活をしていますが、そのほうが、どれほど安心であるかしれません。」と、弟は、すこしも兄の金持ちになったのを、うらやむようすもなく答えました。
「なにをばかなことをいうのだ。そんな生活で、おまえはいいと思うのか。」と、兄は笑いました。
「兄さん、どうぞ私のことはかまわんでください。そして、あなたは幸福にお暮らしください。」といって、弟は、暇を告げて、また重い車を引いてゆきました。
兄は、弟の姿を見送って、「どこまで、あいつは、負け惜しみが強いのか?」といって、笑ったのであります。
兄は、それから、毎日愉快に遊ぶことばかり考えて、おもしろい日を送っていました。しかるに、不意に、思いがけない災難に出あいました。それは、兄が金を預けておいた銀行がつぶれて、みんな金をなくしてしまったことであります。
ほんとうに兄は、夢かとばかり驚きました。たちまち、昔にまさる貧乏なものとならなければならなくなりました。
「なにが幸福になり、なにが不幸福になるか、わかるものでありません。」といった弟の言葉が、いまさら兄の頭の中に浮かんできました。
ある日、兄が思案に沈んで、外をながめていますと、弟が、いつものように重い荷を車に積んで通りかかりました。兄は、いいところへ弟がきたと思って、さっそく弟を呼び入れました。そして、事の次第を弟に語ったのであります。
「いま、おまえのいったことがよくわかった。おれも自分の力で働く気が起こった。どうか俺を助けてくれ。」と、弟に頼みました。
このとき、弟は、じっと兄の顔を見つめていました。そして、いいました。
「兄さん、そう、あなたがお考えになったら、だれにも頼らずに、一人で自分の力でできる仕事をやりなさい。」と、冷ややかにいいました。
「俺は、おまえのように車が引けるだろうか。」と、兄は、おどおどしながら弟に問いました。
「そこに、私の引いてきた車がありますから、ひとつ引いてごらんなさい。」と、弟は、厳かにいいました。
兄は、重い荷物の積んである車を引いてみました。けれど、ちっとも動きません。
「これはだめだ。とても俺には引けない。」と、兄は両腕の痛むのをさすりながら、いいました。
「兄さん、あなたは昔、くわをお持ちになったのですから、そういう仕事を私が探してきます。」と、弟はいって、その日は立ち去りました。
その後で、兄は、物置き小舎にゆきました。そして、まったく忘れていた、昔、地面にたたきつけたくわを、うす暗い中から採り出しました。
「ああ、ここにあった。明日からこれを持って働こう。」と兄は、くわに、あらためて手をかけようとしますと、くわは、ものすごい白目で兄をにらみました。兄は、当時、くわをののしっていったことを思い出しました。
「ああ、自分が悪かった。みんな考えていたことがまちがっていたのだ。」と、心の中でわびて、くわに手をかけて、それを振り上げようとしましたが、
「ばかにするな。」と、くわはいって持ち上がりませんでした。
底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社
1976(昭和51)年11月10日第1刷
1977(昭和52)年C第3刷
※表題は底本では、「くわの怒った話」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:江村秀之
2013年9月23日作成
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