薬売り
小川未明
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どこからともなく、北国に、奇妙な男が入ってきました。
その男は黄色な袋を下げて、薬を売って歩きました。夏の暑い日に、この男は村から村を歩きましたが、人々は気味を悪がって、あまり薬を買ったものがありません。
けれど、男は根気よく、日盛りをかさをかぶって、黄色な袋を下げて、
「あつさあたりに、食べあたり、いろいろな妙薬」といって、呼び歩きました。
子供らは、人さらいがきたといって、この薬売りがくると怖ろしがって逃げ隠れたりして、だれもそばには寄りつきませんでした。
ある日のこと、太郎は独り圃に出て遊んでいました。遠くの方で、糸車の音が聞こえてきました。海のある方の空が、青くよく晴れ渡って雲の影すらなかったのです。とんぼが、きゅうりや、すいかの大きな葉の上に止まったり、棒の先に止まったりしているほか、だれも人影がなかったのです。
このとき、かなたから、薬売りの声が聞こえたのであります。毎日、毎日、こうして根気よく歩いても、あまり買う人がないだろうと、村の人々がいったことを太郎は胸に思い出して、なんとなく、その薬売りが気の毒なような感じがしたのでありました。
けれど、また気味悪くも思ったので、隠れようとしましたが、そんな場所がなかったので、きゅうりの垣根の蔭に黙って立っていますと、薬売りの声はだんだん近づいてきたのでありました。
その細い、さびしい途は、すぐこの圃のそばを通っていました。どうかして、薬売りの男に自分の姿が発見からなければいいがと、太郎は心で気をもんでいました。
いつしか薬売りは、間近にやってきましたから、太郎は顔を見ないように下を向いていますと、
「坊ちゃん、坊ちゃん。」
不意に、こう呼びかけられたので、太郎は思わず身震いしました。そうしてやっと、顔を上げて、おそるおそる薬売りのほうを見ますと、かさをかぶった薬売りは途の上に立って、じっとこちらを向いていました。
「坊ちゃん、お願いがありますが。」と、薬売りはいいました。
「なあに。」と、太郎は、お願いと聞いて返事をしました。
「のどが渇いて、しかたがありませんのですが、この辺に水はありませんでしょうか。」と、薬売りは扇子を指頭でいじりながらいいました。
「ずっと、あっちまでゆかないと井戸はありませんよ。」と、太郎は答えました。
「そうですか。私は、もうのどが渇いて、我慢ができなくなりました。まだ、そんなに遠方でございますか。」といって、薬売りは、まだなにかいいたそうでありました。
このとき、太郎は、思いついて、
「おじさん、すいかをもいであげましょうか。」と聞きました。
すると、薬売りは笑顔になって、
「私も、それをお願いしようと思ったんですが、これは坊ちゃんの家の圃ですか。」と問いました。
「これは僕の家の圃です。」と、太郎は答えました。
「そうですか、そんなら一ついただきたいものです。」と、薬売りはいいました。
太郎は、いちばん実のいった、水気のたくさんありそうなのをもぎって、薬売りの前へ持っていって渡しました。
薬売りは、太郎のしんせつに感じて、たいへんに喜びました。
「坊ちゃん、あなたのごしんせつは忘れませんよ。ここに私は、たいへんによくきく薬を持っています。この薬は、病気のときや、けがなどをして気を失ったときには、のむとすぐにきく霊薬でございます。たくさんは持っていませんが、ここに二粒、三粒あります。お礼にこれをさしあげておきます。」と、薬売りはいって、黄色な袋の中から、小さな紙包みになった丸薬を出して、太郎に与えたのであります。
「おじさん、どうもありがとう。」といって、太郎は礼を述べました。
「私は、そのうち船がこの港に入ったときに、それに乗ってお国を去りますよ。また、しばらくは、お目にかかりません。来年の夏も再来年の夏も、お国へはこないつもりでございます。坊ちゃんは、お達者で大きくおなりなさい。」といって、薬売りは太郎の頭をなでてくれました。
やがて、この二人は別れたのであります。
二、三日たつと、この港に見慣れない一そうの黒い船が入ってきました。こんな船はめったに見ることがないのであります。その船は沖に一日一晩泊まっていましたが、あくる日は、その影も姿もなかったのであります。そうしてその日から、村に薬売りがこなくなりました。
太郎は、薬売りのくれた丸薬を、大事にしてしまっておきました。
曇った日のことです。太郎は海辺にゆきますと、ちょうど波打ちぎわのところに、一羽のやや大きな鳥が落ちて、もだえていました。どうしたのだろうと思って、近寄ってみますと、わしが血だらけになって、翼を傷めているのであります。
太郎は、これを見ると、きっとどこかで、わしかなにものかと戦って傷を受けてきたにちがいない、そうして、ここまで飛んできて、ついに気力を失って落ちたのだと思いましたから、彼は、さっそく家に駆けて帰って、いつか薬売りからもらいました丸薬を持ってきて、それを死にかかっているわしにのませてやりました。
この間、絶えず波は押し寄せてきて、わしをさらっていこうとしていたのであります。しばらく、じっと太郎はそこに立って見守っていますと、わしは、しだいに体を動かしはじめました。そのうちに、力強い羽ばたきを二、三度つづけてしますと、生まれ変わったように元気づいて立ち上がりました。そうして、曇った空に大きく輪を描いて下の荒波を見下ろしながら、どこへともなく飛び去ってしまったのでありました。
太郎は、いまさら、薬売りのくれた霊薬のききめに驚きました。いったいあの薬売りは、どこからきて、どこへ去ったのだろう。彼は、見慣れない船のきたことや、その船が立った日から、薬売りの見えなくなった、いろいろのことを思って、しばらくぼんやりと海の上をながめていますと、遠く、いくつとなく船が黒い煙を上げて、いったりきたりしています。
その夜、海がたいへんに暴れました。波が高く、風が叫びました。雨戸をコトコトと鳴らしました。海辺にある太郎の家は、大風の吹くたびに、ぐらぐらと揺るぐかと思われたのであります。
太郎は夜中に風の音を聞いて眠ることができませんでした。そうして、こんな日に航海する人は、どんなに難儀をしなければならぬだろうと思いますと、薬売りのじいさんは、いまごろどうしたろうか、もはやどこかの港に着いたであろうか、それとも、また遠い国へいくので、船に乗っているであろうかと、その身の上などが案じられたのでありました。
このとき、まくらもとの雨戸をたたくような音がしました。太郎は、きっと海の方から強く吹きつける風の音だろうと思っていました。すると、つづいて羽ばたきする音が聞こえました。
「きっと、風のために、海鳥がねぐらを取られて騒いでいるのだろう。」と思いました。
その羽ばたきが、あまりたびたび聞こえましたので、なんであろうと、太郎は起きて、雨戸を開けて外を見ますと、空は真っ暗で星の光ひとつ見えずに、波が高く騒いでいました。
そのとき、不意に、一羽の鳥が窓からへやの中に飛び込みました。それは、いつか命を助けてやったわしでありました。わしは一つの袋をくわえていました。そして、畳の上に落とすと、また暗の中に飛び込んで、どこへともなく立ち去って、姿をくらましたのであります。
太郎は、わしが落としていった袋を拾い上げてみますと、それは黄色な小さな袋であった。薬売りの持っていた大きな袋の形によく似ていました。ともすると、この袋も薬売りが持っていたのかもわかりませんでした。
袋を開けてみますと、その中には小さな遠眼鏡が入っていました。これこそ、じつにどんな鳥の目よりも敏い不思議な眼鏡であって、まったく、わしがいつか命を救ってもらったお礼に太郎に持ってきてくれたものだとわかりました。
夜が明けると、風は止みましたけれど、沖の上には黒雲が垂れ下がって、ゆく船の影が見えませんでした。
太郎は浜辺に立って、わしのくれた遠眼鏡で沖の方をながめますと、ちょうど、わしの瞳のようにその眼鏡は、幾百里も遠い遠い海原の景色が、その中に映るのでありました。
その方は波が穏やかで、太陽が静かに大空に燃えていました。空は、青く、青く晴れて、海鳥が飛んでいるのも見えました。そうして幾そうかの船が黒い煙を上げて、ゆうゆうとして波の上を航海していました。太郎は、遠目鏡で、薬売りの乗っていった船は見えないかと、いろいろに探しました。
すると、いちばん遠くゆく船があります。つぎに、それよりやや後れて形の変わった船があります。もしや、それでないかと、じっと眼鏡をその船の上に向けて子細に見ますと、いつかこの港に入った、彼の見慣れない船でありました。
薬売りは、どうしたかと、太郎は、なお船の中を探しますと、甲板の上に、薬売りは、知らぬ商人となにやら笑いながら、煙草を喫って話をしていました。商人は、顔の色のおそろしく黒い男でありました。
そうして、箱の中から、さんごや、真珠や、めのうや、水晶や、その他、いろいろと高価な、美しい宝石を出して、薬売りに示しておりました。
太郎はいつまでも、その船を見送っていますと、船はだんだん、知らぬ遠い遠い国の方へ小さくなっていってしまったのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社
1976(昭和51)年11月10日第1刷
1977(昭和52)年C第3刷
※表題は底本では、「薬売り」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:江村秀之
2013年10月01日作成
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