北海の白鳥
小川未明
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昔、ある国に金持ちの王さまがありました。その御殿はたいそうりっぱなもので、ぜいたくのあらんかぎりを尽くしていました。支那の宝玉や、印度の更紗や、交趾の焼き物や、その他、南海の底から取れたさんごなどで飾られていました。そしてそのほか、古酒のつぼが並べられてあり、美しい女は、花のように御殿にいて王さまのお相手をして、琴や、笛や、妙なる鳴り物の音と朗らかな歌の声は、夜となく昼となく、雲間に洩れたのであります。
王さまは、まったく幸福でありました。かつて、不幸ということをお知りにならなかったのです。ちょうどそのころ、東の国から薬売りが、「これは支那の昆崙山にあった、不老不死の薬でございます。」といって、献上したので、王さまはいままで、年をとり死をおそれていられたのに、幸い不思議な妙薬を得て、その憂いがなくなり、ますます幸福に日をお送りなされていました。なんでもその薬を奉ったものは、莫大のお金を頂いて、どこへかいってしまったそうであります。
するとここに、怪しげなようすをしたものが、この国にさまよってきました。このものは、人間の運命を占って、行く末のことを語るのです。なんでもこのものの生国は西蔵だということでありますが、幾歳になるかわからないような人間でありました。脊は低く、目の光は、きらきらと光っていました。
この占い者のうわさが王さまの耳に達しますと、さっそくお召しになりました。王さまは、にこにこ笑って、この怪しき男をごらんになったのです。そして、ご自身の運命をこのものに見てもらおうと仰せられたのです。
「どうじゃ、朕の運命を見てもらおう。朕ほど、しあわせのものは、またとこの世の中にあるまいと思うが。」と仰せられました。
怪しげなようすをした、脊の低い占い者は、王さまの足もとに平伏していましたが、このとき、その黒い二つの目ばかりがきらきらとする顔を上げました。
「恐れ入りますが、しばらくご猶予を願います。」といって、大地にすわって深く念じ、長く瞑目していました。
そのうちに日が暮れてしまいました。御殿の広い庭頭には、かがり火がたかれました。その炎の影は、この怪しの占い者を照らし、空を焦がすかと思われるばかりに紅く見えました。
占い者は、じっと祈っていましたが、やがてその頭を上げて、占ったところを申しあげました。
「陛下は、これまで戦いに負けられたことがありません。なんでも思うままに、なしとげられてこられました。」と、占い者はいって、あるとき、王さまがわずかな兵で大軍を破られたこと、あるときは、ほとんど危うかったところを逃れられて逆に敵軍を陥れられたこと、あるときは、重い病気にかかられたのを、神術を使う巫女が現れて、祈祷してなおしたことなどを委細申しあげました。
「なるほど、それに相違がない。汝の占いは怖ろしいほどよく当たるようだ。それで未来はどうじゃ。おそらく未来変わりがあるまい。」と、王さまは占い者に問われました。
このとき、占い者は空を仰ぎました。いつしか空には、金銀の砂をまいたように、燦爛として星が輝いていました。
「この地上に住む人間の霊魂が、あの空の星でございます。」と、占い者はいった。
王さまは、夜の空を仰がれました。頭の上には無数の星が輝いていました。
「なるほど、たくさんな星の数だ。大きいのも小さいのもある。大きなのは、それほどの徳を持っている偉大な人間にちがいなかろう。帝王である朕は、あの中のもっとも大きな星がそれであろう。占い者よ、そうではなかろうか?」と、王さまはいわれました。
占い者は、うやうやしく頭を下げてから、顔を上げて申しました。
「まことに恐れ多うございますが、陛下のは、あそこに見える紅色の小さな星でございます。」と、占い者は答えました。
「なに、朕の頭の上に見える大きな星ではないのか。そして、あの紅い哀しげな星がそれであるのか。それはどういうわけじゃ。」と、王さまは問われました。
「いまは、陛下は幸福であらせられますが、今後幾年かの後に、強いものが出てきて天下を取るのでございます。それがあの星に現れています。思うに、そのものはまだ年若く、子供であります。北方の荒野の中に、犬や馬と駆けています。そのものがやがて、大軍を率いて押し寄せてくるにちがいありません。あの大きな星の光は、その男の運命を現すものでございます。」と、占い者は申しあげました。
これをお聞きになった、王さまは、深い憂いに沈まれました。いつしかかがり火は消えて、管弦の音も止んでしまったのでございます。王さまの運命を見た占い者は、いとまを告げて、いずこにか姿を消してしまいました。
王さまは、これまでのごとく幸福ではありませんでした。そして、花を見、月を見るにつけて、なんによらず、全盛の短い、はかない運命を悲しまれたのであります。
この世の中のおもしろいこと、はなやかなことを見もし、また、しつくされた王さまは、どうか永久に平和な、静かな生活を送りたいと思われました。それを送るには、あまりに人間の生活は煩わしいと思われました。
ちょうど、亜剌比亜から名高い魔法使いが入ってきました。王さまは、このものをお召しになって、どうか永久に静かな、平和な、そして、なにものにも煩わされず、美しい、自然のうちに生活することのできるようにしてくれたなら、たとえ、高い山の頂の木でも、さびしい広野に咲く一本の花にでもいいから、自分はなりたいものだと仰せられました。
この魔法使いは、王さまの願いを聞き入れました。彼は、王さまを、手に持っている一本のつえで、ちょっとたたきさえすれば、思うような形に変えてしまうことができるのです。この魔法使いは、王さまをどんな姿に、変えてしまったでありましょうか。
「陛下は、この国も、富も、幸福も、お入り用ではございませんのですか。」と、最後に、魔法使いは王さまに伺いました。
「朕は、もっとそれ以上のもの、永久の平和を求めているのじゃ。早く、朕を石になり、草になり、汝の魔法でしてもらいたい。」といわれました。
このとき魔法使いは、つえを上げて王さまをたたきますと、不思議や王さまの姿が消え失せて、そこには一個のはまぐりが残りました。
魔法使いは、はまぐりを見て、また空を見ました。そして、どこにか立ち去ってしまいました。二、三日たつと、空を一羽のわしが、高らかに下を見おろしながら飛んできました。そして、はまぐりを見つけますと、すぐに降りてきて、それをくわえ、北を指して、はるかに飛んでゆきました。
わしは夜となく、昼となく、幾日か、北へ旅をしました。砂漠を越え、山を越え、陸を越えて、青々とした海の上を飛んでゆきました。
北にゆくにしたがって、海の水はますます青くなりました。空の色はさえてきました。岩が鋭くそびえて、荒波が打ち寄せていました。ちょうどその上へきかかったわしは、くわえているはまぐりをはるか下の岩に向かって落としました。すると、はまぐりは岩に当たって微塵に砕けました。同時に雪のような白鳥が、無数に飛びたったのであります。
その日から、白鳥は海の上を舞いはじめました。血よりも赤い、西の夕焼けが、波の面を彩るころには、空を飛ぶ白鳥は、遠い、故郷にあこがれるもののごとく鳴いたのです。そして、永久に白鳥は、北海の王となったのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社
1976(昭和51)年11月10日第1刷
1977(昭和52)年C第3刷
※表題は底本では、「北海の白鳥」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:江村秀之
2013年10月6日作成
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