黒い塔
小川未明
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昔のことでありました。ある小さな国の女皇に二人のお子さまがありました。姉も妹もともに美しいうえに、りこうでありました。女皇は、もう年をとっていられましたから、お位を姉のほうのお子さまに譲ろうと思っていられました。
そのうち、姉のほうが、目をわずらわれて、すがめになられました。いままで、花のように美しかった顔が急に醜くなってしまいました。すると、女皇は、いままでのように、姉のほうはかわいがられずに、妹のほうをかわいがられるようになりました。
姉は、それをたいへん悲しみました。なにも自分の知ったとがではない。病気でこんなに醜くなったものを、なんでお母さまはきらわれるのだろうかとなげきました。
しかし、妹の情けは、前とすこしも変わりません。姉さんをうやまい、なつかしみました。しかるに、不幸の姉は、ある日こと、また、高い階段から落ちて、産まれもつかぬちんばになってしまった。
すがめでさえ醜いといってきらわれた、母の女皇は、そのうえちんばになっていっそう醜くなった姉のほうを、ますますうとんぜられたのであります。そればかりでなく、妹までが、姉をきらうようになったのであります。
これと反対に、妹の姫はますます美しくなりました。花よりも、星よりも、この世界に見られる、いかなる美しいものよりも、もっと美しく見られたのであります。貴い宝玉も、その美しさにくらべることができなかったのであります。
女皇の心は、いつしか、王位を妹に譲ろうときめていました。けれども、この街の民はどう思うかと気づかわれました。あたりまえならば姉が王位をつぐのが順序でありますから、街の人民は、なんといって、反対すまいものでもなかったのであります。
そこで、女皇は、街の人々にこれを聞くことにいたしました。すると、街の人々は、
「それは、われわれどもが王さまをいただくなら、美しい妹姫のような女皇が望ましいものでございます。醜いお方は、なんとなく気持ちが悪うございますから、どうか妹の姫をいただきたいものでございます。」と、訴えました。
これをお聞きになると、女皇はだれの心も同じものだと思われて、いまはなんの躊躇もなく、位を妹に譲ることになさいました。
独り、姉のほうは、さびしく、悲しくへやのうちに日を送られました。だれに向かって、訴えてみようもありません。さらばといって、このままこの城に長くいることもできないのでありましょう。いずれは、どこか遠いところに移されてしまうであろうと思うと、気がおちつくこともできません。いっそ、自分からこの城を去ってしまいたいなどと思って、毎日、窓ぎわに立って遠く、あてなくながめていられました。
この街には、昔から、高い、不思議な塔が立っていました。だれがこの塔を建てたものかわかりません。また、なんのために造ったものかわかりません。人々は気味悪がって、かつてひとりとして、この塔の上に登ったものはなかったのであります。
このきみ悪い、白い塔が、ちょうどこの姉の姫の立っていられる窓から、かなたに見えたのであります。
夕暮れ方の光を受けて、その塔は、謎のように、白壁や、煙突や、その他工場の建物や、雑然とした屋根などが見える、街の中にそびえて、そこらを見下ろしていました。
いましも、ふと姉の目が、この不思議な高い塔の頂に止まりますと、思いなしか、その塔が手招ぎするような気がしたのであります。
「これは、わたしの目のせいであろう。」と思って、姉の姫は、いってみるなどという妄想は断たれました。そのうちに、日は沈んで、静かな夜は街の上にかかると、したがって塔の影も見えなくなってしまいました。
毎日こうして、姉はへやのうちに閉じこもってさびしく日を送りました。母や、妹は、音楽会や、船遊びなどに出かけられるのを、自分だけは、ただこの窓から、遠くの空しかながめることができなかったのです。どんなに海のながめは美しかろう。どんなに花の咲いている野原のながめは美しかろうと思っても、不具の身は出かけることもできませんでした。やがて、その日も暮れかかりました。姉は、独り窓から街の方をながめていました。そのうち塔の頂に目が止まると、またしても、その塔が自分を手招ぎするような気がしたのであります。
「あの塔の上に登ったら、きっと海が見えるにちがいない。」と、そのとき姉は思いました。そう思うと、しきりにいってみたくなりました。
明くる日、姉は、だれにも知れないように、苦心をして城からのがれ出ました。そして、町の人々に女皇の姫であるということを気づかれないようにして、塔の立っているところまでやってきました。
塔の周囲は荒れ果てていました。草が茫々としてしげっていました。幾十年このかた、だれも、この塔に上ったものがありません。町の人々は、この塔を幽霊塔と名づけていました。
けれども姉は、そんなことを気にかけませんでした。また、たとえ命を捨てるようなことがあっても、それを惜しまないと思いましたから、ただ一人で、その暗い、わずかにこわれかかった窓からさしこむ、光線をたよりとして、一段一段上へと登ってゆきました。姫は、日ごろ自分の心を慰める、小さな竪琴を携えてゆくことを忘れませんでした。これだけは、つねに姫の仲のよい友だちであって、月夜の晩に、花の下に姫を慰めたのであります。
暗い塔の中は、冷たい、しめった空気がみなぎっていました。また階段には、人の骨だか、獣物の骨だかわからぬようなものが、散らばっていたりしました。姫は、それらの上を踏んだりまたいだりして上ってゆきました。
やっと塔の頂上に達しますと、そこは体をいれるだけの狭いへやになっていました。もとより、ほこりがたまっていました。姉は、そこにすわりました。そして、その塔のいちばん高い窓から四方をながめることができました。
そこからは、鏡のように光った海が見えました。街は目の下になって、大きな建物も小さく見え、往来などは白い筋のようにかすんで、人影などは、ありのようになって見えたのです。
姉の姫は、この景色をあかずながめていられました。そして、持ってきた竪琴を弾じて独り心を慰めていました。
空を飛んでいる小鳥は、この不思議な音色を慕って、どこからともなく、たくさんこの塔の周囲に集まってきました。そして、その頂に止まったり、また窓頭に降りてきて、音色に聞きとれていました。
姫は、これらの小鳥を心から愛しました。そして太陽が、だんだん西に移ってゆくのも忘れていました。
このとき、はるか、沖の方から黒い雲が起こってまいりました。たちまち空は曇って、墨を流したようになり、風がヒューヒューといって空を吹いてきました。けれど、昔から立っている塔は、その風のためにびくともいたしませんでした。姉の姫は、この急に変わった、ものすごい空の模様をながめて、どうなることだろうと案じていました。そして、たよりなく、塔の上で、独り琴を鳴らしていました。
大声に狂って駆ける風までが、このいい琴の音に聞きとれたとみえて、しばらくその叫び声を鎮めたのであります。
姫は、だんだん心細くなりました。いまは塔を下りて帰ることもできないほどに、風雨がつのったのでありました。しかたなく、姫はこの心の悲しみを琴の糸に托して、いつまでも琴を弾いていました。
このとき、ふと目を上げて沖の方をながめますと、真っ黒な壁を築いたように海が浮き上がったのです。そして、ひどいとどろきをあげて陸に向かって押し寄せてまいりました。
「つなみだ!」
と、姫は驚きの叫びをあげました。そして、じっと見つめていますと、真っ黒な壁はだんだん近くなって、街をはしの方からのんで、もっと押し寄せてきました。
姫はお母さまや妹のいるお城を見ながら案じて、どうかしてお母さまや妹の身の上に危害のないようにと祈っている間に、はや、真っ黒な壁はついにお城ものんで、もっともっと押し寄せてきて、街全体をのみつくして、かなたの野原の方まで、一面に海となってしまったのです。
しかし、この不思議な高い塔だけは、波にさらわれずに昔のままに立っていました。姫は一人で、その塔の頂に泣いていました。
夜になったらどうなるであろう。姫はとても命が助からないと思って、心細さに震えていましたとき、灰色の海の上に一そうの赤い船が見えました。
その船は絵にも見たことのない、また話にも聞いたことのないような、きれいな不思議な船でありました。
赤い船は、塔をめあてにだんだん近づいてまいりました。姫は塔の窓からその赤い船をながめて声をあげて救いを求めました。
すると赤い船は、だんだん近づいてきて、船の中に乗っていた見慣れないふうをした人は、塔の窓から姫を救い出して、赤い船に入れて、どこへともなく連れていってしまいました。
そしてその赤い船は、まったく姿を地平線のかなたに消してしまいました。
海の水はますます増してきて、その夜のうちに、塔ものみつくしてしまいました。明くる日になると、一面に海となっていました。もう、昔の街は跡形もなかったのです。
風だけは、悲しい叫びをたてて海の上を吹いていました。小鳥は、いまもなお姫のゆくえをたずねて、夏になると北へ、冬になると南へ、旅をして、あわれな姫を探しています。
底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社
1976(昭和51)年11月10日第1刷
1977(昭和52)年C第3刷
※表題は底本では、「黒い塔」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:江村秀之
2013年9月23日作成
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