眠い町
小川未明
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この少年は、名を知られなかった。私は仮にケーと名づけておきます。
ケーがこの世界を旅行したことがありました。ある日、彼は不思議な町にきました。この町は「眠い町」という名がついておりました。見ると、なんとなく活気がない。また音ひとつ聞こえてこない寂然とした町であります。また建物といっては、いずれも古びていて、壊れたところも修繕するではなく、烟ひとつ上がっているのが見えません。それは工場などがひとつもないからでありました。
町はだらだらとして、平地の上に横たわっているばかりであります。しかるに、どうしてこの町を「眠い町」というかといいますと、だれでもこの町を通ったものは、不思議なことには、しぜんと体が疲れてきて眠くなるからでありました。それで日に幾人となくこの町を通る旅人が、みなこの町にきかかると、急に体に疲れを覚えて眠くなりますので、町はずれの木かげの下や、もしくは町の中にある石の上に腰を下ろして、しばらく休もうといたしまするうちに、まるで深い深い穴の中にでも引き込まれるように眠くなって、つい知らず知らず眠ってしまいます。
ようやく目がさめた時分には、もういつしか日が暮れかかっているので、驚いて起ち上がって道を急ぐのでありました。この話がだれからだれに伝わるとなく広がって、旅する人々はこの町を通ることをおそれました。そして、わざわざこの町を通ることを避けて、ほかのほうを遠まわりをしてゆくものもありました。
ケーは、人々のおそれるこの「眠い町」が見たかったのです。人の恐ろしがる町へいってみたいものだ。己ばかりはけっして眠くなったとて、我慢をして眠りはしないと心に決めて、好奇心の誘うままに、その「眠い町」の方を指して歩いてきました。
なるほどこの町にきてみると、それは人々のいったように気味の悪い町でありました。音ひとつ聞こえるではなく、寂然として昼間も夜のようでありました。また烟ひとつ上がっているではなく、なにひとつ見るようなものはありません。どの家も戸を閉めきっています。まるで町全体が、ちょうど死んだもののように静かでありました。
ケーは壊れかかった黄色な土のへいについて歩いたり、破れた戸のすきまから中のようすをのぞいたりしました。けれど、家の中には人が住んでいるのか、それともだれも住んでいないのかわからないほど静かでありました。たまたまやせた犬が、どこからきたものか、ひょろひょろとした歩みつきで町の中をうろついているのを見ました。ケーは、この犬はきっと旅人が連れてきた犬であろう、それがこの町の中で主人を見失って、こうしてうろついているのであろうと思いました。ケーはこうして、この町の中を探検していますうちに、いつともなしに体が疲れてきました。
「ははあ、なんだか疲れて、眠くなってきたぞ。ここで眠っちゃならない。我慢をしていなくちゃならない。」
と、ケーは独り言をして、自分で気を励ましました。
けれど、それは、ちょうど麻酔薬をかがされたときのように、体がだんだんしびれてきました。そして、もうすこしでもこうしていることができなくなったほど、眠くなってきましたので、ケーはついに我慢がしきれなくなって、そこのへいの辺に倒れたまま、前後も忘れて高いいびきをかいて寝入ってしまいました。
よく眠ったと思いますと、だれか自分を揺り起こしているようでありましたから、ケーは驚いて目をみはって起き上がりますと、いつのまにやら日はまったく暮れていて、四辺には青い月の光が冷ややかに彩っていました。
「もう何時ごろだろう、これはしまったことをしてしまった。いくら眠くても、我慢をして眠るのではなかったが。」
と、ケーは大いに後悔しました。けれども、もはやしかたがありません。
彼は、そこに落ちていた自分の帽子を拾い上げて、それをかぶりました。
そして四辺を見まわしますと、すぐ自分のそばに一人のじいさんが、大きな袋をかついで立っていました。
ケーは、このじいさんを見ると、だれか自分を揺り起こしたように思ったが、このじいさんであったかと考えましたから、彼は臆する色なく、そのじいさんの方に歩いて近づきました。月の光で、よくそのじいさんの姿を見守ると、破れた洋服を着て、古くなったぼろぐつをはいていました。もうだいぶの年とみえて、白いひげが伸びていました。
「あなたはだれですか。」
と、少年は声に力を入れて問いました。
するとじいさんは、とぼとぼとした歩きつきをして、ケーの方に寄ってきて、
「私だ、おまえを起こしたのは! 私はおまえに頼みがある。じつは私がこの眠い町を建てたのだ。私はこの町の主である。けれど、おまえも見るように、私はもうだいぶ年を取っている。それで、おまえに頼みがあるのだが、ひとつ私の頼みを聞いてくれぬか。」
と、そのじいさんは、この少年に話しかけました。
ケーは、こういってじいさんから頼まれれば、男子として聞いてやらぬわけにはゆきません。
「僕の力でできることなら、なんでもしてあげよう。」
ケーは、このじいさんに誓いました。じいさんは、この少年の言葉を聞いて、ひじょうに喜びました。
「やっと私は安心した。そんならおまえに話すとしよう。私は、この世界に昔から住んでいた人間である。けれど、どこからか新しい人間がやってきて、私の領土をみんな奪ってしまった。そして私の持っていた土地の上に鉄道を敷いたり汽船を走らせたり、電信をかけたりしている。こうしてゆくと、いつかこの地球の上は、一本の木も一つの花も見られなくなってしまうだろう。私は昔から美しいこの山や、森林や、花の咲く野原を愛する。いまの人間はすこしの休息もなく、疲れということも感じなかったら、またたくまにこの地球の上は砂漠となってしまうのだ。私は疲労の砂漠から、袋にその疲労の砂を持ってきた。私は背中にその袋をしょっている。この砂をすこしばかり、どんなものの上にでも振りかけたなら、そのものは、すぐに腐れ、さび、もしくは疲れてしまう。で、おまえにこの袋の中の砂を分けてやるから、これからこの世界を歩くところは、どこにでもすこしずつ、この砂をまいていってくれい。」
と、じいさんは、ケーに頼んだのでありました。
少年は、じいさんから、不思議な頼みを受けて、袋を持って、この地球の上を歩きました。ある日、彼はアルプス山の中を歩いていますと、いうにいわれぬいい景色のところがありました。そこには幾百人の土方や工夫が入っていて、昔からの大木をきり倒し、みごとな石をダイナマイトで打ち砕いて、その後から鉄道を敷いておりました。そこで少年は、袋の中から砂を取り出して、せっかく敷いたレールの上に振りかけました。すると、見るまに白く光っていた鋼鉄のレールは真っ赤にさびたように見えたのでありました……。
またある繁華な雑沓をきわめた都会をケーが歩いていましたときに、むこうから走ってきた自動車が、危うく殺すばかりに一人のでっち小僧をはねとばして、ふりむきもせずゆきすぎようとしましたから、彼は袋の砂をつかむが早いか、車輪に投げかけました。すると見るまに車の運転は止まってしまいました。で、群集は、この無礼な自動車を難なく押さえることができました。
またあるとき、ケーは土木工事をしているそばを通りかかりますと、多くの人足が疲れて汗を流していました。それを見ると気の毒になりましたから、彼は、ごくすこしばかりの砂を監督人の体にまきかけました。と、監督は、たちまちの間に眠気をもよおし、
「さあ、みんなも、ちっと休むだ。」
といって、彼は、そこにある帽子を頭に当てて日の光をさえぎりながら、ぐうぐうと寝こんでしまいました。
ケーは、汽車に乗ったり、汽船に乗ったり、また鉄工場にいったりして、この砂をいたるところでまきましたから、とうとう砂はなくなってしまいました。
「この砂がなくなったら、ふたたびこの眠い町に帰ってこい。すると、この国の皇子にしてやる。」
と、じいさんのいった言葉を思い出し、少年は、じいさんにあおうと思って、「眠い町」に旅出をしました。
幾日かの後「眠い町」にきました。けれども、いつのまにか昔見たような灰色の建物は跡形もありませんでした。のみならず、そこには大きな建物が並んで、烟が空にみなぎっているばかりでなく、鉄工場からは響きが起こってきて、電線はくもの巣のように張られ、電車は市中を縦横に走っていました。
この有り様を見ると、あまりの驚きに、少年は声をたてることもできず、驚きの眼をみはって、いっしょうけんめいにその光景を見守っていました。
底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社
1976(昭和51)年11月10日第1刷発行
1982(昭和57)年9月10日第7刷発行
初出:「日本少年」
1914(大正3)年5月
※表題は底本では、「眠い町」となっています。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:ぷろぼの青空工作員チーム校正班
2011年11月2日作成
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