少年の日の悲哀
小川未明
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三郎はどこからか、一ぴきのかわいらしい小犬をもらってきました。そして、その小犬をかわいがっていました。彼はそれにボンという名をつけて、ボン、ボンと呼びました。
ボンは人馴れたやさしい犬で、主人の三郎にはもとよりよくなつきましたが、まただれでも呼ぶ人があれば、その人になついたのです。だから、みんなにかわいがられていました。三郎は朝早く起きてボンを連れて、空気の新鮮なうちに外を散歩するのを楽しみとしていました。また、小川に連れていって、ボンを水の中に入れて毛を洗ってやったりして、ボンを喜ばせるのをも楽しみの一つとしているのです。
三郎は、独り犬ばかりでない猫もかわいがりました。また、小鳥や、金魚などをもかわいがりました。なんでも小さな、自分より弱い動物を愛したのであります。
三郎の隣に、おばあさんが住んでいました。そのおばあさんは、一ぴきの猫を飼っていました。その猫は、よく三郎の家へ遊びにきました。くると三郎は、その猫を抱いて、顔を付けたり、頭をなでたりしてかわいがってやりました。猫はよくやってきて、三郎が大事にしておいた金魚を殺したり、またお勝手にあった魚を取ったりしたことが、たびたびありました。けれど、三郎は猫をいじめたことがありませんでした。それは猫の性質だから、しかたがないと思ったのです。
けれど、そのおばあさんは、いじの悪いおばあさんでした。ボンがお勝手もとへゆくと、なんにもしないのに水をかけたり、手でぶつまねをしたり、あるときは小石を拾って投げつけたりしました。そして、夜が明けると、ばあさんは勝手もとの戸を開けて、外に出ると、
「ほんとうにしかたのない犬だ。こんなところに糞をして、あんな犬ってありゃしない。」
と大きな声で、さもこちらに聞こえるようにどなるのであります。
ほんとうにこのおばあさんは、自分かってなおばあさんでした。自分の家の猫が、近所の家へいって魚をくわえてきたのを見ても知らぬ顔をしていました。そんなときは、
「こう、こう、こう、みいや、家へ入っておいで。」
といって、猫を家の中へ入れて、戸を閉めてしまいます。
三郎は、かわいがっているボンが、ばあさんのために小石を投げられたり水を頭からかけられたりしてきますと、今度、ばあさん家の猫がきたら、うんといじめてやろうと思いました。しかし、猫がやってきますと、いつも三郎がその猫をかわいがっているものですから、すこしもおそれず、すぐに三郎のそばに、なきながらすりよってくるのでした。これを見ると、もう三郎は、その猫をいじめるというような考えがまったくなくなってしまいました。そして、猫の頭をなでて、いつものごとくかわいがってやったのであります。
ボンは、おとなしい犬でありました。それにかかわらず、この犬を悪くいったのは、この隣のいじの悪いばあさん一人ではなかったのであります。もう一軒近所に、たいへんに犬を怖がる子供のある家がありました。ほかの子供らは、みな犬といっしょになって遊んでいましたのに、その子供だけは、どういうものか臆病者で、犬を見ると怖がっていたのです。そして、ボンが尾を振りながら、なつかしそうにその子供のそばへゆきますと、子供は犬の頭をなでてかわいがろうとせずに、火のつくように泣きたって家へ駆けこむのでありました。
「どうしたんだ。」
と、びっくりしてその子供の母親が家から飛び出してきます。すると子供は泣きじゃくりをしながら、
「犬が追っかけたんだ。」
といいます。母親はこれを聞いて、
「ほんとうに悪い犬だ。あっちへゆけ。」
といって、おとなしくしているボンを棒でなぐったり、また、ものをぶつけるまねなどをして追うのです。
「おばさん、犬はなにもしないんですよ。」
と、三郎はじめ他の子供がいいましても、その子供の母親は耳に入れません。なんでも犬を悪いことにしてしまって、ボンを見るといじめたのであります。
ボンは隣のばあさんと、その弱虫の子供の母親から、さんざん悪くいわれました。
「三郎や、あんなに、ご近所でやかましくおっしゃるのだから、ボンを、だれかほしいという人があったら、やったらどうだい。」
と、姉や祖母が、三郎にいいました。
三郎はそこで考えました。しかしどう考えてみましても、ボンにすこしの悪いとこところがありませんものを、そして自分がこんなにかわいがっていますものを、ほかにやらなければならぬという理由がないと思いました。
「だって犬がなんにもしないのに、犬をしかる道理がない。これは人間のほうが、かえって悪いのじゃありませんか。僕はいくら近所でやかましくいったって、犬が悪くないのだから、ほかへやるのはかわいそうでなりません。もしほかへやったら、どんなに悲しがって泣くかしれません。」
と、三郎は、姉や祖母にいいました。
隣のばあさんは、犬をしかりながら、自分の家の猫はひじょうにかわいがっていました。もし夜中に外で、猫が猫とけんかでもしていますと、ばあさんは起きて出て、物干しざおを持ってきて、猫がけんかをして鳴いているほうへゆきました。そして、自分の家の猫に向かっているほかの猫を突いたりなぐったりしたのです。
あまりばあさんが自分かってのものですから、三郎はある日のこと、隣の猫をしばらくの間隠してやりました。するとばあさんは、きちがいのようになって猫を探して歩きました。
「チョ、チョ、チョ、みいや。こう、こう、みいや、みいや……。」
とわめきながら、四辺を歩きまわりました。そして、しまいには一軒一軒、よその家を訪れて、
「家の猫はきていませんでしょうか。」
と、聞いて歩きました。三郎は、あまりばあさんが気をもんでいるのを見て、はじめはおもしろうございましたが、しまいには不憫になって、ついに猫を放してやりますと、ばあさんは飛びたつばかりに猫を抱きあげて喜んでいました。
ある日の朝、三郎は起きて外に出ますと、いつも喜んで駆け寄ってくるボンが見えませんでした。彼は不思議に思って口笛を鳴らしてみました。けれど、どこからもボンの走ってくる姿を見いださなかったのであります。
「ボンはどこへいったろう。」
と思って、三郎は口にボンの名を呼びながら、あっちこっちと探して歩きました。けれど、ついにその影・形を見なかったのです。三郎は隣のばあさんが、いつか猫が見えなかったときに、きちがいのようになって探して歩いたのを思い出して、あのときは猫を隠して悪いことをしたと後悔いたしました。
ちょうどそこへ、隣のばあさんがきかかりまして、
「こんなに早く、なにをしておいでだい。」
と、ばあさんは聞きました。
「ボンが見えなくなったので探しています。」
と、三郎がいいますと、ばあさんは、さもうれしそうな顔つきをして、
「そうかい。もう、家の勝手口に糞をしなくて、それはいいあんばいだ。」
と、独り言をしてゆきすぎました。また弱虫の子供の母親は、ボンがいなくなったと聞いて、家の外に出て、いい気味だといわぬばかりに笑っていました。
三郎は悔しくてしかたがありませんでした。しかし、いくらほうぼうを探しても、ボンはいなかったのであります。彼は、いまごろボンは、どこにどうしているだろうと思いました。だれに連れられていったものか、また路を迷ったものか、あるいは縛られていようか、ほかの子供や、大きな犬にいじめられていようか、と、いろいろのことを考えて、その夜は眠られなかったのであります。そして、幾日か過ぎました。その間、三郎は一日としてボンのことを忘れた日はなかったのです。
それから、またしばらくたったある日のことでありました。三郎が我が家から程隔たったところを歩いていますと、ある大きな屋敷がありまして、その門の前を通りますと、門の中で子供らと犬とが遊んでいました。
三郎はふとのぞきますと、なんで自分が一日も忘れなかったほどにかわいがっていたボンを忘れることがありましょう。まさしくその犬はボンでありました。どうして、こんなところにきたろうと不審に思いながら、よく見ていますと、子供らは、たいへんにこの犬をかわいがっていました。三郎は、しばらく立ってこのようすを見ていましたが、ボンは、いまだ三郎を見つけませんでした。そこで三郎は口笛を鳴らしました。すると犬は、この口笛を聞きつけて、急に飛び上がってこっちへ駆けてきました。そして喜んでクンクン泣いて三郎にすがりつきました。三郎はまたうれしさのあまり、犬を抱き上げて犬の毛の中に頬をうずめました。
門の中の子供らは、たいそうこの有り様を見て驚きました。そして、犬の後を追って門のところまで出てきてみますと、もはや犬が外をもふり向かずに三郎についてあっちへゆきかけますので、中にも一人の子供は、しくしく声をたって泣き出しました。
「君、その犬をつれていってはいけない。」
と、その中の一人が、三郎に向かっていいました。
「これは僕のかわいがっていたボンだよ。十日ばかり前に見えなくなったのだ。いま、見つけたから、つれて帰るんだよ。」
と、三郎は答えました。
「ああ、そんなら君のところの犬だったのかい。十日ばかり前に、牛乳屋がいい犬を拾ってきたといってくれたのだよ。そんなら、それは君の家のだかい……。」
といって、子供らは残念そうにして立っていました。中にも一人の子供はやはり泣いていました。
このようすを見ますと、三郎は子供らがかわいそうに思われました。あんなに犬を大事にしてかわいがってくれるなら、いっそのこと、この犬を子供らにあたえようかという考えが起こったのです。そして、ふたたび自分の家へつれて帰ると、隣のいじ悪いばあさんがまた犬をしかるばかりでなく、あの弱虫の子供の母親までが犬をいじめると思いました。いっそ犬を子供らにあたえたほうが、かえって犬のしあわせになるかもしれないと思いましたので、
「君らが犬をかわいがってくれるなら、この犬を君らにあげよう。」
と、三郎はいいました。
「ああ、僕らは、ほんとうにかわいがるから、どうかこの犬をおくれよ。」
といって、子供らは意外なのに、驚かんばかりに喜びました。そして三郎から、その犬をもらいました。独り三郎は、なごり惜しそうにしてさびしく、一人で我が家の方へ帰っていったのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社
1976(昭和51)年11月10日第1刷発行
1982(昭和57)年9月10日第7刷発行
初出:「少年世界」
1917(大正6)年10月
※表題は底本では、「少年の日の悲哀」となっています。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:ぷろぼの青空工作員チーム校正班
2011年11月2日作成
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