青い時計台
小川未明
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さよ子は毎日、晩方になりますと、二階の欄干によりかかって、外の景色をながめることが好きでありました。目のさめるような青葉に、風が当たって、海色をした空に星の光が見えてくると、遠く町の燈火が、乳色のもやのうちから、ちらちらとひらめいてきました。
すると毎日、その時分になると、遠い町の方にあたって、なんともいえないよい音色が聞こえてきました。さよ子は、その音色に耳を澄ましました。
「なんの音色だろう。どこから聞こえてくるのだろう。」
と、独り言をして、いつまでも聞いていますと、そのうちに日がまったく暮れてしまって、広い地上が夜の色に包まれて、だんだん星の光がさえてくる時分になると、いつともなしに、その音色はかすかになって、消えてしまうのでありました。
また明くる日の晩方になりますと、その音が聞こえてきました。その音は、にぎやかな感じのするうちに、悲しいところがありました。そして、そのほかのいろいろの音色から、独り離れていて、歌をうたっているように思われました。で、ここまで聞こえてくるには、いろいろのところを歩き、また抜けたりしてきたのであります。町の方には電車の音がしたり、また汽車の笛の音などもしているのでありました。
さよ子は、よい音色の起こるところへ、いってみたいと思いました。けれども、まだ年もゆかないのに、そんな遠いところまで、しかも晩方から出かけていくのが恐ろしくて、ついにゆく気になれなかったのでありますが、ある日のこと、あまり遅くならないうちに、急いでいってみてこようと、ついに出かけたのでありました。
さよ子は、草原の中につづいている小径の上にたたずんでは、幾たびとなく耳を傾けました。西の方の空には、日が沈んだ後の雲がほんのりとうす赤かった。さよ子は、電車の往来しているにぎやかな町にきましたときに、そのあたりの騒がしさのために、よい音色を聞きもらしてしまいました。これではいけないと思って、ふたたび静かなところに出て耳を澄ましますと、またはっきりと、よい音が聞こえてきましたから、今度は、その音のする方へずんずん歩いていきました。いつしか日はまったく暮れてしまって、空には月が出ました。
さよ子は、かつて、きたことのないような町に出ました。西洋ふうの建物がならんでいて、通りには、柳の木などが植わっていました。けれども、なんとなく静かな町でありました。
さよ子はその街の中を歩いてきますと、目の前に高い建物がありました。それは時計台で、塔の上に大きな時計があって、その時計のガラスに月の光がさして、その時計が真っ青に見えていました。下には窓があって、一つのガラス窓の中には、それは美しいものばかりがならべてありました。金銀の時計や、指輪や、赤・青・紫、いろいろの色の宝石が星のように輝いていました。また一つの窓からは、うすい桃色の光線がもれて、路に落ちて敷石の上を彩っていました。よい音色は、この家の中から聞こえてきたのであります。
さよ子は、家の中がにぎやかで、春のような気持ちがしましたから、どんなようすであろうと思って、その窓の際に寄り添って、そこにあった石を踏み台にして、その上に小さな体を支えて中をのぞいてみました。
へやの中はきれいに飾ってあります。大きなランプがともって、うす赤いガラスの花がさが懸かっています。
そこに大きなテーブルが置いてあって、水晶で造ったかと思われるようなびんには、燃えるような真っ赤なチューリップの花や、香りの高い、白いばらの花などがいけてありました。テーブルに向かって、ひげの白いじいさんが安楽いすに腰かけています。かたわらには三人の美しい姉妹の娘らがいて、一人は大きなピアノを弾き、一人はマンドリンを鳴らし、一人はなにか高い声で歌っていました。それが歌い終わると、にぎやかな笑い声が起こって楽しそうにみんなが話をしています。じいさんは喜んで、笑い顔をして目を細くして、三人の娘らの顔を見比べているようでありました。
さよ子は、この世間にも、楽しい美しい家庭があるものだと思いました。あまり遅くならないうちに帰らなければならぬと思って、窓ぎわを離れてから振り向くと、高い、青い時計台には流るるような月光がさしています。そして町を離れて、野原の細道をたどる時分にはまた、彼のよい音色が、いろいろの物音の間をくぐり抜けてくるように、遠く町の方から聞こえてきました。
その翌日から、さよ子は二階の欄干に出て、このよい音色に耳を傾けたときには、ああやはりいまごろは、あの青い時計台の下で、あの親孝行の娘らが、ああして、ピアノを鳴らしたり、歌をうたったり、マンドリンを弾いたりして、年老った父親を慰めているのだろうと思いました。そして、美しく飾りたてたへやのようすなどを目に描きました。
ある日のことでありました。毎日のように町の方から聞こえてくるよい音色が、ひじょうに悲しみを帯びて聞こえてきましたので、さよ子はどうしたことかと思って、ついまたそこまでいってみる気になりました。
さよ子は、今度は路を迷わずに、その町にくることができました。月はすこし欠けていましたけれども、やはり流るるような青い青い光は、時計台を照らして、高い塔が夜の空にそびえているのを見ました。さよ子は例の窓のところにきて、石の上に立ってのぞきますと、へやのようすにすこしも変わりがなかったけれど、大きなテーブルのそばのベッドの上には、年老った娘らの父親が横たわっていました。三人の娘らは、当時のように笑いもせずに、いずれも心配そうな顔つきをしていました。やがて父親は、なにかいって金庫の方を指さしました。するといちばん年上の娘が、その金庫の方に歩いていって、そのとびらを開けました。そして中から、たくさんの金貨を盛った箱を、父親のねているまくらもとに持ってきました。父親はなにかいっていましたが、やがて半分ばかり床の中から体を起こして、やせた手でその金貨を三人の娘らに分けてやりました。
この光景を見たさよ子は、なんとなく悲しくなりました。そして家へ帰る路すがら、自分もいつかお父さんや、お母さんに別れなければならぬ日があるのであろうと思いました。
あいかわらず、その後も、町の方からは聞き慣れたよい音色が聞こえてきました。乳色の天の川が、ほのぼのと夢のように空を流れています。星は真珠のように輝いています。その夜、町の方からは、これまでにないよい音色が聞こえてきました。その音はいつもよりにぎやかそうで、また複雑した音色のように思われました。さよ子はまたそこまでいってみたくなりました。
彼女はまた、その家の窓の下にきて、石の上に立って中をのぞいてみました。すると、へやの中のようすは、これまでとはすっかり変わっていました。もっと美しく、もっときれいに、もっと珍しいものばかりで飾られているばかりでなく、三人の娘らのほかに、見慣れない年若い紳士が四、五人もいました。それらの男は、楽器を鳴らしたり、歌をうたったりしました。娘らは、いずれも美しく着飾って、これまでになくきれいに見えました。そしてテーブルの上には、いろいろの花が咲き乱れているばかりでなく、桃色のランプの外に緑色のランプがともって、楽園にきたような感じがしたのであります。けれど、ただ一人父親の姿が見えませんでした。これらの若い男や、女は、たがいによい声で歌い、また話し、また手を引き合って舞踏をやっていました。
その夜さよ子は、家に帰るときに考えました。どうしてあの人々は、ああして楽しく遊んでばかりいられるのだろう……と、思うと、なんとなく、不思議でならなかったのであります。
その後というものは、毎夜、さよ子は町の方から聞こえてくるよい音色を聞くたびに、不思議な思いをせずにはいられなくなりました。
やがて、紅く燃えていたような夏が逝きかけました。つばめは海を渡って、遠い南の永久夏の国に帰る時分となりました。ある夜、さよ子は二階の欄干に出て、涼しくさえた星の光を見ながら、町の方から聞こえてくる、よい音色に耳を澄まそうとしたけれど、どうしたことか、聞き慣れたその音色は聞こえてこなかった。明くる日もやはり聞こえてこなかった。
さよ子は、いぶかしく思って、その町にやってきました。すると、その家は堅く閉まって、店頭に売り家の札がはってありました。独り、高く時計台は青く空に突っ立って、初秋の星の光が冷たくガラスにさえかえっていました。
底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社
1976(昭和51)年11月10日第1刷発行
1982(昭和57)年9月10日第7刷発行
初出:「処女」
1914(大正3)年6月
※表題は底本では、「青い時計台」となっています。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:ぷろぼの青空工作員チーム校正班
2011年11月2日作成
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