霧の夜に
南部修太郎
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霧の深い、暖かな晩だつた。誘はれるやうに家を出たKと私は、乳色に柔かくぼかされた夜の街を何處ともなく彷徨ひ歩いた。大氣はしつとりと沈んでゐた。そして、その重みのある肌觸りが私の神經を異樣に昂ぶらせた。私の歩調はともすれば早み勝ちだつた。──私達はK自身の羸ち得た或る幸福に就いて、絶えず語り續けた。それは二人の心持を一そう興奮させた。そして、夜の更けるのも忘れてゐた。
「咽喉が渇いたね……」さう云つて、私達は或る裏通のカフエエにはいつた。丁度十一時を少し過ぎてゐた。
それは全く初めての、見知らぬカフエエだつた。中は明りや飾りのけばけばしい割に、がらんとしてゐた。Kと私と、私達から二三卓を離れた暖爐の前の卓を圍む三人──その一人は外國人だつた──と、帳場の前に固つた四人の給仕女達と、それが廣い室内の人影で、如何にも冬の夜更けらしい寂しさを感じさせた。
「ほんとに咽喉が渇いた。紅茶にしよう……」と云つて、私達は熱い紅茶を啜つた。
暖爐の前の男の一人はもう可成り醉つてゐた。
「ねえ君、己のロシヤ語なんざあ怪しいもんさ。あつはつはあ……」と、彼は肥つた體を搖す振つて豪傑笑ひをしながら、連れの男を振り返つた。「何しろ、チタの監獄で聞き覺えたきりなんだ。それももう十五六年前と來ちやあ、忘れるのも無理はないよ……」彼は割れるやうなだみ聲で得意らしくかう云つて、ウ井スキイのグラスを取り上げた。
「處で、ガスボデイン。燐寸のことはスピイチカつと……。今度は君の名が聞きたいんだ。と云つたつて分らねえしな。名前、名前、何てつたつけな。畜生奴つ……」彼は醉ひにたるんだ眼を傍の外國人へ眞面に向け掛けて、じれつたさうに云つた。
「………………」その饒舌な醉ひどれ男の日本語を當惑氣な笑顏で聞き入つてゐた外國人は、幽かな聲で何かを呟いた。彼は如何にも人の好きさうな老人だつた。頭髮は既に雪白に變つて、禿げ上つた額の皺の五六條と、その額の下に隱れてゐる、優しい、細い眼の光が、上品な、そして、何となく懷しい人柄に感じさせた。が、その表情、その物ごしには何處かに物寂しい影が差してゐるやうに思はれるのであつた。
「ガスボデイン。名前だよ。君のネエムだよ……」と、醉ひどれ男は熟柿のやうな顏を振り立てながら、ひつつこく話し掛けた。が、老人はその顏を見詰めて、詞もなく微笑するばかりだつた。
「ちえつ、分らねえんだな……」と、男は卑しい身振を示して、舌打ちした。
「何だか、ロシヤ人らしいぢやないか……」と、私はKを顧みて囁いた。
「さうらしいね……」と、Kも頷いた。
「君、君。どうしたんだい、あの西洋人は?」と、やがてKは果物を運んで來た給仕女に、小聲に訊ねた。
「あの人、ロシヤ人なのよ。もう二三度入らしたけど、英語も日本語もまるつきりお分りにならないんでせう。御註文の時ずゐ分困るわ……」給仕女は輕く眉根を寄せて答へた。
「やつぱりさうだ……」と、Kは私を振り返つた。私は頷いて、直ぐ給仕女に云つた。
「ねえ君。あすこにゐる人に名前のことはイイミヤつて云ふんだつて教へて上げ給へ……」ロシヤ人と聞くと急にそそり立てられた小さな好奇心が、私に生覺えのロシヤ語を吐き出させた。
「イイミヤ……」給仕女は赤い唇をつぼめて聞き返した。そして、私達の側を離れて行つた。
「おい、確かい。生兵法何とかだぜ……」Kは私を見てにやりと笑つた。
「うん、さうさう。イイミヤ、さうだ、イイミヤだ……」と、同時に醉ひどれ男は遠くから私の方にちらつと視線を投げ掛けて、聲高く口走つた。
「イイミヤ。ダア、ダア……」何か自分の理解の出來る音の響を心待ちに待つてゐたらしい老人は、その詞を聞きつけると顏中を小皺に笑ひ崩して、快活に頷いた。そして、胸のポケツトから金の飾鉛筆を取り出すと、給仕女の差し出した紙片に何かを認めた。
「分らねえ、こいつあロシヤ字だ……」紙上の文字を見詰めてゐた男は失望の色を見せて叫んだ。「おい、そつちの若いガスボデイン。こいつを一つ讀んでくれ給へ。」
「さあ、讀めますかどうか……」突然私の方を振り向いて呶鳴つた男に答へて、私はかう云つた。──給仕女が紙片を持つて來た。が、鉛筆の色薄く書かれた文字は老人らしく佶屈な、分りにくい文字だつた。
「コオリン、コオリンぢやありませんか……」と、私は男に向つて聲高く云つた。
「ハラシヨオ。コオリン、アレキサンドロヰツチ。コオリン……」と、その時老人は力強く受け答へた。そして、ビイルのコツプ片手に立ち上ると、彼は少しよろめきながら、その丈高い痩躯を私の卓に近附けて來た。彼の顏には今までの力の無い、寂しげな微笑は消えて、恰も舊知に接したやうな晴れやかな眼色と、故國の文字を讀み上げた異國の青年に對する好奇の光とが、その顏中に表れた。が、うす白髮の髭の生えた口元を喜びに笑み崩しながら、被さるやうに迫つて來たその姿を見ると、私は何となくどぎまぎし出した。そして、聞き噛りの語學に對する無力の頼りなさは、その時一齊に私に注がれた人達の視線と共に、かつと私の顏を燃え上らせた。私は俯向いて、てれ隱しに冷えた紅茶を啜つた。
老人は私の傍の椅子に腰を降して、もう一度ぢつと私の顏を覗き込んだ。白哲人種特有の體臭がむつと私の鼻を衝いた。
「君はロシヤ語が話せるんですか?」と、老人はロシヤ語で訊ねた。
「いいえ……」と、私が答へると、老人の顏には期待を裏切られた當惑の色がまざまざと浮んだ。
「でも、君は字が讀めるぢやありませんか。」
「字は少し讀めます。然し、話はまるで駄目です……」老人は怪しげな發音の、そして全く片言の私の詞を聞きながら、不思議な面持で私を見詰めてゐたが、それでも通話の道を得た滿足らしい表情を見せた。その表情はますます私を畏縮させたが、續いて彼が何かを云はうとした時、反對に彼の詞を遮つて私は訊ねた。
「英語はお話せになりませんか?」
「いや、駄目です。然し、フランスかドイツならば……」
「ドイツ語がお話しになれるんですか。私もそれなら少しはやれます……」と、自分ながら文法書の引例のやうな堅苦しいドイツ語に氣が差しながら、そして、自ら厚顏に驚きながら云つた。
「ふむ。ドイツ語が話せますか?」老人は羊のやうな優しい眼をしばだたかせて頷いた。そして、コツプの縁を叩きながら、給仕女にビイルを命じた。
「おい、僕にもくれ給へ……」私も續いて云つた。「何だい。そんなににやにや笑ふなよ。全く汗みづくだ。ドイツだつてずゐ分怪しいんだからな……」と、私は煙草を吹かしながら皮肉らしく笑つてゐるKを振り返つた。
「かうなりや仕方がない。やるだけやるさ……」かう云つたKに顏を見合せて笑つた時、傍の老人はそれを自分に對する好感の表現とでも思つたのか、同時に快活に笑つた。
「君は學生ですか?」ビイルを一口啜つてかう云つた老人のドイツ語は、期待した程流暢ではなかつた。それが少し私を元氣づけた。
「いいえ、學生生活はもう終りました。」
「それにしては大變若く見えますよ……」と、老人は怪訝さうに私を見て、默り込んだ。
「何時日本へおいででしたか?」
「一月程前に……」
「一體、あなたの故郷は何處です……」話の中絶する手持無沙汰をもて餘して、反對に何かを訊ねようとあせりながらかう云つた時、老人はひよいと眞顏のなつた。と同時に、その眼は何か悲痛な事柄にでも出會つたやうに暗い瞬きを繰り返した。そして、やがて深い惱みの色がその微醺を帶びた顏中に擴がった。
老人の刹那の表情の變化を見ながら、自分の迂濶な詞がその胸に與へた或る痛みを想像した時、私の頭には老人の背後に大きな悲劇の影を作つてゐるロシヤのことがふと思ひ浮んだ。そして、この好人物らしい老人が、若しや不幸な、慘酷な運命の渦卷の中に呻いてゐる故國から心を破られ、住む家を追はれて寂しく流浪して來た不幸な人達の一人ではないかと思つた時、自分の心なき問の詞を悔いずにはゐられなかつた。
暫くの沈默の内に暗い回想に沈んでゐたらしい老人は、やがてためらひながら、重い唇を開いて云つた。
「ハリコフだ。」
「ハリコフ……」私は老人の聲に續いて、思はず聲を上げた。そして、今自分の傍に坐つてゐる老人と、その故郷との隔りの餘に遠過ぎる事を傷ましく思ひ浮べた。
「さうです。ハリコフを出てからかれこれ一年になります。あの町がその後どうなつたか、私の家、私の家族がどうなつたかは少しも分りません……」かう云つてちよつと詞を途切つた老人は深く眉を顰めたが、少しせきこむやうにして續けた。「君はツアアル一家虐殺の話を聞きましたか?」
「聞きました。ほんとに殘虐な話です。」
「然し、私の家族がさう云ふ目に會つてゐないとは、どうして云へませう……」老人の聲は沈んだ。そして、形の好い、高い鼻の下に生えてゐる、如何にも身柄の好さを語るやうな銀白の髭が細く、幽かに顫へた。
「では、全く一人で日本へ來られたのですね。」
「さうです。たつた一人でです。私は全く妻子の運命を考へる隙もなく命一つで遁げて來ました。とに角、この平和な日本へ來るまでの困難は考へても恐ろしい程でした。今はTホテルにゐるのですが、さて、これから何處へ行かうと云ふ望みもありません。それに知人はなし、ほんとに寂しい……」と、その寂しいと云ふ心の底から絞り出したやうな老人の詞が、メスのやうに私の胸に迫つた。老人の人懷しさうな瞳には涙が潤んでゐた。
「でも、やつとこのカフエエの女達と知合になりました。みんなはほんとに親切です。だが、惜しい事に私は日本語が話せません……」老人は再び寂しい微笑を浮べて、そのまま口を噤んだ。
部屋の中にはひよいと沈默が續いた。十二時に近い夜の町は裏通だけにひつそりと鎭まつて、近くの大通から響く電車の軋りが侘びしげに聞こえた。
「さあ大分晩くなつたやうです。いづれまた此處でお眼に掛からうぢやありませんか……」老人はふとかう云つて立ち上つた。そして、帳場へ急いで拂ひを濟ますと、また私の處へ戻つて來た。そして、覺束ない日本語で云つて、手を差し延べた。
「さよなら……」
「ダス井ダニエ……」私は老人の手を力強く握り締めて、互に親しみの籠つた笑顏を見合せた。
老人は少しよろめくやうにして戸口の外へ出て行つた。私の眼にはそのうしろ姿の寂しさが強く殘つた。私は自分の椅子に歸つて、Kと共に詞もなくぼんやりしてゐた。
「おい君。先生。話の樣子はどうだつたい? 厭やにしん猫を極めてたね……」離れた卓で給仕女達とふざけてゐた醉ひどれ男は、縺れた舌でがむしやらに呶鳴つた。
「やつぱりロシヤから遁げて來た、可哀想な老人ですよ……」云ひながら、私はコツプを取り上げて、飮み殘しの冷えたビイルを一息にあほつた。
「はつはつは、人間、ロシヤなんかに生れるのが不仕合せだ。己は日露戰爭のちよつと前に日探の嫌疑で掴まつてね、三月ばかりチタの監獄で臭い飯を食つたよ。そん時しみじみさう思つたね……」と、頭を短く刈つて、二重廻しをだらしなく羽織つた、でつぷり肥つた體のこなしの何處となく卑しい感じのする男の樣子が、支那浪人と云つた想像を私に描かせた。
「ぢや、そん時のロシヤ語ですね。」
「さうだ。ロシヤ人だと云ふんであの年寄と話さうとしたが、ガスボデイン、ダア、ニエエト、それつきりしか覺えてねえんだ。これぢやお話にならないさ。はつはつはつは……」彼は身を反らして、腹に波打たせるやうにして、無遠慮に哄笑した。
「行かうぢやないか……」と、Kに促されて、私達は拂ひを濟まして立ち上つた。
「まあ待ち給へ。もう少し一緒に飮まうぢやないか……」醉ひどれ男は千鳥足に私達に近附いて來て、私の手を掴みながらひつつこく酒を強ひようとした。その肥つた手を振り拂つて、Kと私はカフエエを出た。冷たい夜風がほてつた頬を氣持よく撫でて過ぎた。
Kも私も默默として歩き續けた。二人の心の内には人の聲を抑へつけるやうな或る力が深く働いてゐた。そして、恐らくKも私と同じやうに無言の中に、或る一つの事を考へてゐるに違ひなかつた。あの不幸な老いたる漂泊者、あの饒舌な醉ひどれ男、ふと私の頭の中には、色色な運命を擔つて人は生れる──さう云つた意識が新しい陰影を伴つて、強く感じられて來た。私は暗い氣持に胸を抑へられながら、あの老人の寂しい運命の行末を思つた。あの醉ひどれ男のたはれた生活の行末を思つた。と、私の頭には今更のやうに人間の一生の果敢なさが感じられて來た。
「あの老人の身に降りかかつた不幸、また僕がSを却けてI子を羸ち得た幸福、それも同じやうなただ一つの運命の操りの糸か知ら……」と、明るい電車通に出た時、ふとKが口を切つた。
「さうかも知れない。僕には、今、すべての人間の意志と行爲とが、擅な運命の力強い手に全く支配されてゐるやうな氣がするから……」と、それまでのKの努力と心の惱みを深く知りながらも、思はず私はさう答へ返した。
「寂しいね……」と、Kは呟いた。
「寂しいね……」と、私も同時に呟いた。
何時か雨もよひの空になつてゐた。濃い霧は更け渡つた夜の町を深く、しつとりと包んでゐた。そして、その中にすべての街路の燈灯が涙を含んだやうに潤んだ光を投げてゐた。──Kと私とは暗い路上に視線を落したまま、詞もなく、あてどもなく歩き續けて行くのだつた。
底本:「若き入獄者の手記」文興院
1924(大正13)年3月5日発行
入力:小林徹
校正:柳沢成雄
2000年2月19日公開
2006年1月11日修正
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