カフエ・ミネルワ
斎藤茂吉



 森鴎外の作、「うたかたの記」といふ短篇は、ミユンヘンを場面として、巨勢といふ若い日本洋画家と、マリイといふ独逸少女との恋愛を物語り、少女は湖水に溺れて、『少女は蘇らず。巨勢は老女と屍の傍に夜をとほして、消えて迹なきうたかたのうたてき世を喞ちあかしつ』といふに終る、まことに可憐な小説である。これは夙に水沫集に収められて多くの人に読まれた。そこで、巨勢といふ洋画家は原田直二郎をモデルにして書いたものだといふことをも、既に普く人の知るところとなつてゐる。

 この小説は単にこの可憐な恋愛を叙してゐるのみでなく、当時狂人となつてゐた国王の Ludwigルードヰツヒ 二世と、その侍医であつた Guddenグツデン との事件をも配してゐる。Gudden は当時すでに独逸第一流の精神病学者だつたので、この小説を私は忘れずにゐた。国王は狂してゐたので、Starnbergスタルンベルヒ 湖畔の Bergベルヒ の離宮に静養中、湖水に溺れて死に、それを止めようとした侍医も同時に死んだ。侍医の屍には爪痕があつて国王と争闘した形跡があつたけれども、その真相が誰にも分からなかつた。その真相の臆測に就いて細々と論じた文章をば私は専門の雑誌のうへで読んだことがある。併しそれは、侍医が国王に対して他意あつたのではないといふ証明みたやうなものに過ぎなかつたやうである。

 この小説にも、『新聞号外には、王の屍見出しつるをりの模様に、さまざまの臆説附けて売るを、人々争ひて買ふ』とは云つてゐるが、国王の死んだ真相をば、この少女に関聯せしめてゐる。そこがこの小説の面白い点でもあるのである。

 少女は、『美術学校にて雛形となる少女ハンスルといふ娘』であるが、小説ではスタインバハといふ名を得た画工の娘といふことにしてある。また国王は娘の母に恋慕したことがあるので、その因縁が年頃になつた娘にも繋つたといふのが、この小説の一面の骨子である。この魯曼的な、幼稚なごとくであつてなほ棄てがたいのは、さういふ厳しい遺伝の理法にも触れて居り、作者は年若に似ず細かい西洋学をも理会し得たといふことに注意せねばならぬのである。

 作は、カフエ・ミネルワといふ珈琲店の場面から始まつてゐる。私はミユンヘンに留学中、その前半は業房の為事に追はれて、何事をも顧る暇がなかつた。大正十三年のはじめに、ふと、〔Cafe'カフエ Minervaミネルワ〕 の事を想起して、この珈琲店を訪ねて見ようとおもつた。

 さてミユンヘン案内書を検しても既にさういふ珈琲店の名は無かつた。そこで或る日曜の午後に、ひとりして美術学校の前を通つて見たが、美術学生のための道具店は閉ぢてゐるし、その近くには珈琲店らしいものは一つもなかつた。ただ、食店らしいものがあり、その戸が閉ぢて、窓際のところに腰掛などを高く積重ねてあるに過ぎない。窓の下の方には雪が積んで細い氷柱つららが垂下がつてゐる。私は失望して踵をかへした。

 それから私はをりさへあれば、Café Minerva のことを訊ねて見た。日本媼もそれを知らなかつたし、教室の近くにある行附ゆきつけの珈琲店の主人あるじも知らなかつた。ある日、大学の近くの書店を訪うたついでに、近くの酒店兼珈琲店に寄つた。ここは、往年のカフエ・ミネルワを聯想せしめるところであつて、烟草のけむりもうもうと立ちこめ、人ごゑが威勢よく起る間に、静に西洋将棋を楽しんでゐる者もゐる。麦酒の大杯を傾けてゐる一群の側に、日本の碁を弄してゐる数人などもゐる。日本碁の方法は簡単に独逸語に訳され、それを見ながら勝負を極めようとしてゐる。この遊は何時の頃からであらうか、北方独逸から始まつて此処の都市にも及んだごとくである。

 このころは連日ミユンヘンの街に雪が降つた。そこで為事を終へるとなるべくかういふ処に来て身を暖め、食欲に飽かうといふ人々が多かつた。次の訪問の時に、ここに来てゐた客の一人は私に向つて、カフエ・ミネルワといふのは、〔Cafe' Universita:tウニウエルジテート〕 の筋向の珈琲店の前身だといふことを教へて呉れた。それは、二月十日の日曜のことである。その珈琲店は代も替り名も替つたといふことであつた。

 併しその珈琲店を訪ねて見るに、カフエ・ミネルワの後身ではなかつた。これは今の名は 〔Cafe' Stefaneステフアネ〕 といふので、此処にゐる誰もが私の問に答へ得るものがなかつた。

 二月十六日は土曜日であつた。午後に教室を辞して、法文科大学の裏街にある書店を訪ね、かねて註文しておいた心理学の雑誌に就いていろいろ談合した序に、カフエ・ミネルワのことを聞いてみた。若い店員は奥の方に入つて行きしばらくすると、一人の老翁が出て来て云ふに、『それはやつぱり元のところに建物がありますよ。いまは踊場か何かになつてをりますよ』。

 私は喜んで二たび美術学校の前に行き、例の文房具屋にカフエ・ミネルワをたづねても五六人もゐる若い店員だちには誰一人その名を知るものは無かつた。私はその近くの建物を一々見た。一つには、Café und Wein Restaurant Serenissimus. Fritz Randows Künstlerspiele といふ看板が出てゐた。これは果してカフエ・ミネルワの後身には相違ない。ただ夜の商売らしくいまは戸が閉ぢてゐる。私がこの一月に一たび覗いて失望して帰つたその家であつた。

 即ち、「うたかたの記」の頃の Minerva は今は、Serenissimusセレニシムス になつてゐるのであつた。ルードヰヒ二世の歿したのは、西暦一八八六年の八月十三日午後七時頃であるから、西暦一九二四年の今までは既に三十八年の星霜を閲してゐる。縦ひミユンヘンの人であつても偶〻会ふ途上の人にむかひ、カフエ・ミネルワを云々するのは時の流を顧慮せざるものの所業であつた。

 そのうち二月が過ぎ三月に入つた。南方の山嶽を越えて吹いてくる Föhn によつて、雪がしきりに解けた。道の片側が既に乾ききつてゐるところもある。

 三月の二日は恰も日曜であつた。けふは朝のうちからミユンヘンの寺院めぐりをした。それから、午後、英吉利公園を散歩し、夜食後に思付いて Serenissimus に行つた。そして、小さい卓に身を凭せ白い葡萄酒を飲み、この高等寄席かうとうよせのいろいろの芸の進行するのを見てゐた。ここの芸は、舞踊も声楽も大戦後の官能をば必然的に取入れたもので、Platzlプラツツル などで聞くやうな古色を帯びた郷土風のものとは全くその趣を異にしてゐた。私は夜半を大分過ぎた午前一時ごろ其処を辞したが、カフエ・ミネルワの後身だといふことが脳裏を往来するので、或る感慨を保ちながら宿に帰つた。

 四月になり五月になつて、春光の隈なきころ、私はイサール川を渡つて新しく整理された東部墓域に Bernhardベルンハルト vonフオン Guddenグツデン 先生の墓に数回詣でたのであつた。


グッデン先生の伝記に関する文献。(1) Grashey : Nekrolog auf Dr. Bernhard von Gudden, Arch. f. Psychiatrie. Bd. 17. 18. (2) Kraepelin : Bernhard von Guddeņ Münch. med.

底本:「日本の名随筆 別巻3 珈琲」作品社

   1991(平成3)年525日第1刷発行

   1997(平成9)年520日第6刷発行

底本の親本:「斎藤茂吉全集 第五巻」岩波書店

   1973(昭和48)年11月初版発行

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2010年530日作成

2011年415日修正

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