露宿
泉鏡太郎
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二日の眞夜中──せめて、たゞ夜の明くるばかりをと、一時千秋の思で待つ──三日の午前三時、半ばならんとする時であつた。……
殆ど、五分置き六分置きに搖返す地震を恐れ、また火を避け、はかなく燒出された人々などが、おもひおもひに、急難、危厄を逃げのびた、四谷見附そと、新公園の内外、幾千萬の群集は、皆苦き睡眠に落ちた。……殘らず眠つたと言つても可い。荷と荷を合せ、ござ、筵を鄰して、外濠を隔てた空の凄じい炎の影に、目の及ぶあたりの人々は、老も若きも、算を亂して、ころ〳〵と成つて、そして萎たやうに皆倒れて居た。
──言ふまでの事ではあるまい。昨日……大正十二年九月一日午前十一時五十八分に起つた大地震このかた、誰も一睡もしたものはないのであるから。
麹町、番町の火事は、私たち鄰家二三軒が、皆跣足で逃出して、此の片側の平家の屋根から瓦が土煙を揚げて崩るゝ向側を駈拔けて、いくらか危險の少なさうな、四角を曲つた、一方が廣庭を圍んだ黒板塀で、向側が平家の押潰れても、一二尺の距離はあらう、其の黒塀に眞俯向けに取り縋つた。……手のまだ離れない中に、さしわたし一町とは離れない中六番町から黒煙を揚げたのがはじまりである。──同時に、警鐘を亂打した。が、恁くまでの激震に、四谷見附の、高い、あの、火の見の頂邊に活きて人があらうとは思はれない。私たちは、雲の底で、天が摺半鐘を打つ、と思つて戰慄した。──「水が出ない、水道が留まつた」と言ふ聲が、其處に一團に成つて、足と地とともに震へる私たちの耳を貫いた。息つぎに水を求めたが、火の注意に水道の如何を試みた誰かが、早速に警告したのであらう。夢中で誰とも覺えて居ない。其の間近な火は樹に隱れ、棟に伏つて、却つて、斜の空はるかに、一柱の炎が火を捲いて眞直に立つた。續いて、地軸も碎くるかと思ふ凄じい爆音が聞えた。婦たちの、あつと言つて地に領伏したのも少くない。その時、横町を縱に見通しの眞空へ更に黒煙が舞起つて、北東の一天が一寸を餘さず眞暗に代ると、忽ち、どゞどゞどゞどゞどゞと言ふ、陰々たる律を帶びた重く凄い、殆ど形容の出來ない音が響いて、炎の筋を蜿らした可恐い黒雲が、更に煙の中を波がしらの立つ如く、烈風に駈𢌞る!……あゝ迦具土の神の鐵車を驅つて大都會を燒亡す車輪の轟くかと疑はれた。──「あれは何の音でせうか。」──「然やう何の音でせうな。」近鄰の人の分別だけでは足りない。其處に居合はせた禿頭白髯の、見も知らない老紳士に聞く私の聲も震へれば、老紳士の脣の色も、尾花の中に、たとへば、なめくぢの這ふ如く土氣色に變つて居た。
──前のは砲兵工廠の焚けた時で、續いて、日本橋本町に軒を連ねた藥問屋の藥ぐらが破裂したと知つたのは、五六日も過ぎての事。……當時のもの可恐さは、われ等の乘漾ふ地の底から、火焔を噴くかと疑はれたほどである。
が、銀座、日本橋をはじめ、深川、本所、淺草などの、一時に八ヶ所、九ヶ所、十幾ヶ所から火の手の上つたのに較べれば、山の手は扨て何でもないもののやうである、が、それは後に言ふ事で、……地震とともに燒出した中六番町の火が……いま言つた、三日の眞夜中に及んで、約二十六時間。尚ほ熾に燃えたのであつた。
しかし、其の當時、風は荒かつたが、眞南から吹いたので、聊か身がつてのやうではあるけれども、町内は風上だ。差あたり、火に襲はるゝ懼はない。其處で各自が、かの親不知、子不知の浪を、巖穴へ逃げる状で、衝と入つては颯と出つゝ、勝手許、居室などの火を消して、用心して、それに第一たしなんだのは、足袋と穿もので、驚破、逃出すと言ふ時に、わが家への出入りにも、硝子、瀬戸ものの缺片、折釘で怪我をしない注意であつた。そのうち、隙を見て、縁臺に、薄べりなどを持出した。何が何うあらうとも、今夜は戸外にあかす覺悟して、まだ湯にも水にもありつけないが、吻と息をついた處へ──
前日みそか、阿波の徳島から出京した、濱野英二さんが駈けつけた。英語の教鞭を取る、神田三崎町の第五中學へ開校式に臨んだが、小使が一人梁に挫がれたのと摺れ違ひに逃出したと言ふのである。
あはれ、此こそ今度の震災のために、人の死を聞いたはじめであつた。──たゞ此にさへ、一同は顏を見合はせた。
内の女中の情で。……敢て女中の情と言ふ。──此の際、臺所から葡萄酒を二罎持出すと言ふに到つては生命がけである。けちに貯へた正宗は臺所へ皆流れた。葡萄酒は安値いのだが、厚意は高價い。たゞし人目がある。大道へ持出して、一杯でもあるまいから、土間へ入つて、框に堆く崩れつんだ壁土の中に、あれを見よ、蕈の生えたやうな瓶から、逃腰で、茶碗で呷つた。言ふべき場合ではないけれども、まことに天の美祿である。家内も一口した。不斷一滴も嗜まない、一軒となりの齒科の白井さんも、白い仕事着のまゝで傾けた。
これを二碗と傾けた鄰家の辻井さんは向う顱卷膚脱ぎの元氣に成つて、「さあ、こい、もう一度搖つて見ろ。」と胸を叩いた。
婦たちは怨んだ。が、結句此がために勢づいて、茣蓙縁臺を引摺り〳〵、とにかく黒塀について、折曲つて、我家々々の向うまで取つて返す事が出來た。
襖障子が縱横に入亂れ、雜式家具の狼藉として、化性の如く、地の震ふたびに立ち跳る、誰も居ない、我が二階家を、狹い町の、正面に熟と見て、塀越のよその立樹を廂に、櫻のわくら葉のぱら〳〵と落ちかゝるにさへ、婦は聲を發て、男はひやりと肝を冷して居るのであつた。が、もの音、人聲さへ定かには聞取れず、たまに駈る自動車の響も、燃え熾る火の音に紛れつゝ、日も雲も次第々々に黄昏れた。地震も、小やみらしいので、風上とは言ひながら、模樣は何うかと、中六の廣通りの市ヶ谷近い十字街へ出て見ると、一度やゝ安心をしただけに、口も利けず、一驚を喫した。
半町ばかり目の前を、火の燃通る状は、眞赤な大川の流るゝやうで、然も凪ぎた風が北に變つて、一旦九段上へ燒け拔けたのが、燃返つて、然も低地から、高臺へ、家々の大巖に激して、逆流して居たのである。
もはや、……少々なりとも荷もつをと、きよと〳〵と引返した。が、僅にたのみなのは、火先が僅ばかり、斜にふれて、下、中、上の番町を、南はづれに、東へ……五番町の方へ燃進む事であつた。
火の雲をかくした櫻の樹立も、黒塀も暗く成つた。舊暦七月二十一日ばかりの宵闇に、覺束ない提灯の灯一つ二つ、婦たちは落人が夜鷹蕎麥の荷に踞んだ形で、溝端で、のどに支へる茶漬を流した。誰ひとり晝食を濟まして居なかつたのである。
火を見るな、火を見るな、で、私たちは、すぐ其の傍の四角に彳んで、突通しに天を浸す炎の波に、人心地もなく醉つて居た。
時々、魔の腕のやうな眞黒な煙が、偉なる拳をかためて、世を打ちひしぐ如くむく〳〵立つ。其處だけ、火が消えかゝり、下火に成るのだらうと、思つたのは空頼みで「あゝ、惡いな、あれが不可え。……火の中へふすぶつた煙の立つのは新しく燃えついたんで……」と通りかゝりの消防夫が言つて通つた──
(──小稿……まだ持出しの荷も解かず、框をすぐの小間で……こゝを草する時……
「何うしました。」
と、はぎれのいゝ聲を掛けて、水上さんが、格子へ立つた。私は、家内と駈出して、ともに顏を見て手を握つた。──悉い事は預るが、水上さんは、先月三十一日に、鎌倉稻瀬川の別莊に遊んだのである。別莊は潰れた。家族の一人は下敷に成んなすつた。が、無事だつたのである。──途中で出あつたと言つて、吉井勇さんが一所に見えた。これは、四谷に居て無事だつた。が、家の裏の竹藪に蚊帳を釣つて難を避けたのださうである──)
──前のを續ける。……
其處へ──
「如何。」
と聲を掛けた一人があつた。……可懷い聲だ、と見ると、弴さんである。
「やあ、御無事で。」
弴さんは、手拭を喧嘩被り、白地の浴衣の尻端折で、いま逃出したと言ふ形だが、手を曳いて……は居なかつた。引添つて、手拭を吉原かぶりで、艷な蹴出しの褄端折をした、前髮のかゝり、鬢のおくれ毛、明眸皓齒の婦人がある。しつかりした、さかり場の女中らしいのが、もう一人後についてゐる。
執筆の都合上、赤坂の某旅館に滯在した、家は一堪りもなく潰れた。──不思議に窓の空所へ橋に掛つた襖を傳つて、上りざまに屋根へ出て、それから山王樣の山へ逃上つたが、其處も火に追はれて逃るゝ途中、おなじ難に逢つて燒出されたため、道傍に落ちて居た、此の美人を拾つて來たのださうである。
正面の二階の障子は紅である。
黒塀の、溝端の茣蓙へ、然も疲れたやうに、ほつと、くの字に膝をついて、婦連がいたはつて汲んで出した、ぬるま湯で、輕く胸をさすつた。その婦の風情は媚かしい。
やがて、合方もなしに、此の落人は、すぐ横町の有島家へ入つた。たゞで通す關所ではないけれど、下六同町内だから大目に見て置く。
次手だから話さう。此と對をなすのは淺草の万ちやんである。お京さんが、圓髷の姉さんかぶりで、三歳のあかちやんを十の字に背中に引背負ひ、たびはだし。万ちやんの方は振分の荷を肩に、わらぢ穿で、雨のやうな火の粉の中を上野をさして落ちて行くと、揉返す群集が、
「似合ひます。」
と湧いた。ひやかしたのではない、まつたく同情を表したので、
「いたはしいナ、畜生。」
と言つたと言ふ──眞個か知らん、いや、嘘でない。此は私の内へ來て(久保勘)と染めた印半纏で、脚絆の片あしを擧げながら、冷酒のいきづきで御當人の直話なのである。
「何うなすつて。」
少時すると、うしろへ悠然として立つた女性があつた。
「あゝ……いまも風説をして、案じて居ました。お住居は澁谷だが、あなたは下町へお出掛けがちだから。」
と私は息をついて言つた、八千代さんが來たのである、四谷坂町の小山内さん(阪地滯在中)の留守見舞に、澁谷から出て來なすつたと言ふ。……御主人の女の弟子が、提灯を持つて連立つた。八千代さんは、一寸薄化粧か何かで、鬢も亂さず、杖を片手に、しやんと、きちんとしたものであつた。
「御主人は?」
「……冷藏庫に、紅茶があるだらう……なんか言つて、呆れつ了ひますわ。」
是は偉い!……畫伯の自若たるにも我折つた。が、御當人の、すまして、これから又澁谷まで火を潛つて歸ると言ふには舌を卷いた。
「雨戸をおしめに成らんと不可ません。些と火の粉が見えて來ました。あれ、屋根の上を飛びます。……あれがお二階へ入りますと、まつたく危うございますで、ございますよ。」
と餘所で……經驗のある、近所の産婆さんが注意をされた。
實は、炎に飽いて、炎に背いて、此の火たとひ家を焚くとも、せめて清しき月出でよ、と祈れるかひに、天の水晶宮の棟は櫻の葉の中に顯はれて、朱を塗つたやうな二階の障子が、いま其の影にやゝ薄れて、凄くも優しい、威あつて、美しい、薄桃色に成ると同時に、中天に聳えた番町小學校の鐵柱の、火柱の如く見えたのさへ、ふと紫にかはつたので、消すに水のない劫火は、月の雫が冷すのであらう。火勢は衰へたやうに思つて、微に慰められて居た處であつたのに──
私は途方にくれた。──成程ちら〳〵と、……
「ながれ星だ。」
「いや、火の粉だ。」
空を飛ぶ──火事の激しさに紛れた。が、地震が可恐いため町にうろついて居るのである。二階へ上るのは、いのち懸でなければ成らない。私は意氣地なしの臆病の第一人である。然うかと言つて、焚えても構ひませんと言はれた義理ではない。
濱野さんは、其の元園町の下宿の樣子を見に行つて居た。──氣の毒にも、其の宿では澤山の書籍と衣類とを焚いた。
家内と二人で、──飛込まうとするのを視て、
「私がしめてあげます。お待ちなさい。」
白井さんが懷中電燈をキラリと點けて、さう言つて下すつた。私は口吃しつゝ頭を下げた。
「俺も一番。」
で、來合はせた馴染の床屋の親方が一所に入つた。
白井さんの姿は、火よりも月に照らされて、正面の縁に立つて、雨戸は一枚づゝがら〳〵と閉つて行く。
此の勢に乘つて、私は夢中で駈上つて、懷中電燈の燈を借りて、戸袋の棚から、觀世音の塑像を一體、懷中し、机の下を、壁土の中を探つて、なき父が彫つてくれた、私の眞鍮の迷子札を小さな硯の蓋にはめ込んで、大切にしたのを、幸ひに拾つて、これを袂にした。
私たちは、其から、御所前の廣場を志して立退くのに間はなかつた。火は、尾の二筋に裂けた、燃ゆる大蛇の兩岐の尾の如く、一筋は前のまゝ五番町へ向ひ、一筋は、別に麹町の大通を包んで、此の火の手が襲ひ近いたからである。
「はぐれては不可い。」
「荷を棄てても手を取るやうに。」
口々に言ひ交して、寂然とした道ながら、往來の慌しい町を、白井さんの家族ともろともに立退いた。
「泉さんですか。」
「はい。」
「荷もつを持つて上げませう。」
おなじむきに連立つた學生の方が、大方居まはりで見知越であつたらう。言ふより早く引擔いで下すつた。
私は、其の好意に感謝しながら、手に持ちおもりのした慾を恥ぢて、やせた杖をついて、うつむいて歩行き出した。
横町の道の兩側は、荷と人と、兩側二列の人のたゝずまひである。私たちより、もつと火に近いのが先んじて此の町内へ避難したので、……皆茫然として火の手を見て居る。赤い額、蒼い頬──辛うじて煙を拂つた絲のやうな殘月と、火と炎の雲と、埃のもやと、……其の間を地上に綴つて、住める人もないやうな家々の籬に、朝顏の蕾は露も乾いて萎れつゝ、おしろいの花は、緋は燃え、白きは霧を吐いて咲いて居た。
公園の廣場は、既に幾萬の人で滿ちて居た。私たちは、其の外側の濠に向つた道傍に、やう〳〵地のまゝの蓆を得た。
「お邪魔をいたします。」
「いゝえ、お互樣。」
「御無事で。」
「あなたも御無事で。」
つい、鄰に居た十四五人の、殆ど十二三人が婦人の一家は、淺草から火に追はれ、火に追はれて、こゝに息を吐いたさうである。
見ると……見渡すと……東南に、芝、品川あたりと思ふあたりから、北に千住淺草と思ふあたりまで、此の大都の三面を弧に包んで、一面の火の天である。中を縫ひつゝ、渦を重ねて、燃上つて居るのは、われらの借家に寄せつゝある炎であつた。
尾籠ながら、私はハタと小用に困つた。辻便所も何にもない。家内が才覺して、此の避難場に近い、四谷の髮結さんの許をたよつて、人を分け、荷を避けつゝ辿つて行く。……ずゐぶん露地を入組んだ裏屋だから、恐る〳〵、それでも、崩れ瓦の上を踏んで行きつくと、戸は開いたけれども、中に人氣は更にない。おなじく難を避けて居るのであつた。
「さあ、此方へ。」
馴染がひに、家内が茶の間へ導いた。
「どうも恐縮です。」
と、うつかり言つて、挨拶して、私たちは顏を見て苦笑した。
手を淨めようとすると、白濁りでぬら〳〵する。
「大丈夫よ──かみゆひさんは、きれい好で、それは消毒が入つて居るんですから。」
私は、とる帽もなしに、一禮して感佩した。
夜が白んで、もう大釜の湯の接待をして居る處がある。
この歸途に、公園の木の下で、小枝に首をうなだれた、洋傘を疊んだばかり、バスケツト一つ持たない、薄色の服を着けた、中年の華奢な西洋婦人を視た。──紙づつみの鹽煎餅と、夏蜜柑を持つて、立寄つて、言も通ぜず慰めた人がある。私は、人のあはれと、人の情に涙ぐんだ──今も泣かるゝ。
二日──此の日正午のころ、麹町の火は一度消えた。立派に消口を取つたのを見屆けた人があつて、もう大丈夫と言ふ端に、待構へたのが皆歸支度をする。家内も風呂敷包を提げて駈け戻つた。女中も一荷背負つてくれようとする處を、其處が急所だと消口を取つた處から、再び猛然として煤のやうな煙が黒焦げに舞上つた。渦も大い。幅も廣い。尾と頭を以つて撃つた炎の大蛇は、黒蛇に變じて剩へ胴中を蜿らして家々を卷きはじめたのである。それから更に燃え續け、焚け擴がりつゝ舐め近づく。
一度内へ入つて、神棚と、せめて、一間だけもと、玄關の三疊の土を拂つた家内が、又此の野天へ逃戻つた。私たちばかりでない。──皆もう半ば自棄に成つた。
もの凄いと言つては、濱野さんが、家内と一所に何か罐詰のものでもあるまいかと、四谷通へ夜に入つて出向いた時だつた。……裏町、横通りも、物音ひとつも聞えないで、靜まり返つた中に、彼方此方の窓から、どしん〳〵と戸外へ荷物を投げて居る。火は此處の方が却つて押つゝまれたやうに激しく見えた。灯一つない眞暗な中に、町を歩行くものと言つては、まだ八時と言ふのに、殆ど二人のほかはなかつたと言ふ。
罐詰どころか、蝋燭も、燐寸もない。
通りかゝつた見知越の、みうらと言ふ書店の厚意で、茣蓙を二枚と、番傘を借りて、砂の吹きまはす中を這々の體で歸つて來た。
で、何につけても、殆どふて寢でもするやうに、疲れて倒れて寢たのであつた。
却説──その白井さんの四歳に成る男の兒の、「おうちへ歸らうよ、歸らうよ。」と言つて、うら若い母さんとともに、私たちの胸を疼ませたのも、その母さんの末の妹の十一二に成るのが、一生懸命に學校用の革鞄一つ膝に抱いて、少女のお伽の繪本を開けて、「何です。こんな處で。」と、叱られて、おとなしくたゝんで、ほろりとさせたのも、宵の間で。……今はもう死んだやうに皆睡つた。──
深夜。
二時を過ぎても鷄の聲も聞えない。鳴かないのではあるまい。燃え近づく火の、ぱち〳〵〳〵、ぐわう〳〵どツと鳴る音に紛るゝのであらう。唯此時、大路を時に響いたのは、肅然たる騎馬のひづめの音である。火のあかりに映るのは騎士の直劍の影である。二人三人づゝ、いづくへ行くとも知らず、いづくから來るとも分かず、とぼ〳〵した女と男と、女と男と、影のやうに辿ひ徜徉ふ。
私はじつとして、又たゞひとへに月影を待つた。
白井さんの家族が四人、──主人はまだ燒けない家を守つてこゝにはみえない──私たちと、……濱野さんは八千代さんが折紙をつけた、いゝ男ださうだが、仕方がない。公園の圍の草畝を枕にして、うちの女中と一つ毛布にくるまつた。これに鄰つて、あの床屋子が、子供弟子づれで、仰向けに倒れて居る。僅に一坪たらずの處へ、荷を左右に積んで、此の人數である。もの干棹にさしかけの茣蓙の、しのぎをもれて、外にあふれた人たちには、傘をさしかけて夜露を防いだ。
が、夜風も、白露も、皆夢である。其の風は黒く、其の露も赤からう。
唯、こゝに、低い草畝の内側に、露とともに次第に消え行く、提灯の中に、ほの白く幽に見えて、一張の天幕があつた。──晝間赤い旗が立つて居た。此の旗が音もなく北の方へ斜に靡く。何處か大商店の避難した……其の店員たちが交代に貨物の番をするらしくて、暮れ方には七三の髮で、眞白で、この中で友染模樣の派手な單衣を着た、女優まがひの女店員二三人の姿が見えた。──其の天幕の中で、此の深更に、忽ち笛を吹くやうな、鳥の唄ふやうな聲が立つた。
「……泊つて行けよ、泊つて行けよ。」
「可厭よ、可厭よ、可厭よう。」
聲を殺して、
「あれ、おほゝゝゝ。」
やがて接吻の音がした。天幕にほんのりとあかみが潮した。が、やがて暗く成つて、もやに沈むやうに消えた。魔の所業ではない、人間の擧動である。
私は此を、難ずるのでも、嘲けるのでもない。況や決して羨むのではない。寧ろ其の勇氣を稱ふるのであつた。
天幕が消えると、二十二日の月は幽に煙を離れた。が、向う土手の松も照らさず、此の茣蓙の廂にも漏れず、煙を開いたかと思ふと、又閉される。下へ、下へ、煙を押して、押分けて、松の梢にかゝるとすると、忽ち又煙が、空へ、空へとのぼる。斜面の玉女が咽ぶやうで、惱ましく、息ぐるしさうであつた。
衣紋を細く、圓髷を、おくれ毛のまゝ、ブリキの罐に枕して、緊乎と、白井さんの若い母さんが胸に抱いた幼兒が、怯えたやうに、海軍服でひよつくりと起きると、ものを熟と視て、みつめて、むくりと半ば起きたが、小さい娘さんの胸の上へ乘つて、乘ると辷つて、ころりと俵にころがつて、すや〳〵と其のまゝ寢た。
私は膝をついて總毛立つた。
唯今、寢おびれた幼のの、熟と視たものに目を遣ると、狼とも、虎とも、鬼とも、魔とも分らない、凄じい面が、ずらりと並んだ。……いづれも差置いた荷の恰好が異類異形の相を顯したのである。
最も間近かつたのを、よく見た。が、白い風呂敷の裂けめは、四角にクハツとあいて、しかも曲めたる口である。結目が耳である。墨繪の模樣が八角の眼である。たゝみ目が皺一つづゝ、いやな黄味を帶びて、消えかゝる提灯の影で、ひく〳〵と皆搖れる、猅々に似て化猫である。
私は鵺と云ふは此かと思つた。
其の鄰、其の鄰、其の上、其の下、並んで、重つて、或は青く、或は赤く、或は黒く、凡そ臼ほどの、變な、可厭な獸が幾つともなく並んだ。
皆可恐い夢を見て居よう。いや、其の夢の徴であらう。
其の手近なのの、裂目の口を、私は餘りの事に、手でふさいだ。ふさいでも、開く。開いて垂れると、舌を出したやうに見えて、風呂敷包が甘澁くニヤリと笑つた。
續いて、どの獸の面も皆笑つた。
爾時であつた。あの四谷見附の火の見櫓は、窓に血をはめたやうな兩眼を睜いて、天に冲する、素裸の魔の形に變じた。
土手の松の、一樹、一幹。啊呍に肱を張つて突立つた、赤き、黒き、青き鬼に見えた。
が、あらず、それも、後に思へば、火を防がんがために粉骨したまふ、焦身の仁王の像であつた。
早や、煙に包まれたやうに息苦しい。
私は婦人と婦人との間を拾つて、密と大道の夜氣に頭を冷さうとした。──若い母さんに觸るまいと、ひよいと腰を浮かして出た、はずみに、此の婦人の上にかざした蛇目傘の下へ入つて、頭が支へた。ガサリと落すと、響に、一時の、うつゝの睡を覺すであらう。手を其の傘に支へて、ほし棹にかけたまゝ、ふら〳〵と宙に泳いだ。……この中でも可笑い事がある。
──前刻、草あぜに立てた傘が、パサリと、ひとりで倒れると、下に寢た女中が、
「地震。」
と言つて、むくと起返る背中に、ひつたりと其の傘をかぶつて、首と兩手をばた〳〵と動かした……
いや、人ごとではない。
私は露を吸つて、道に立つた。
火の見と松との間を、火の粉が、何の鳥か、鳥とともに飛び散つた。
が、炎の勢は其の頃から衰へた。火は下六番町を燒かずに消え、人の力は我が町を亡ぼさずに消した。
「少し、しめつたよ。起きて御覽、起きて御覽。」
婦人たちの、一度に目をさました時、あの不思議な面は、上﨟のやうに、翁のやうに、稚兒のやうに、和やかに、やさしく成つて莞爾した。
朝日は、御所の門に輝き、月は戎劍の閃影を照らした。
──江戸のなごりも、東京も、その大抵は焦土と成んぬ。茫々たる燒野原に、ながき夜を鳴きすだく蟲は、いかに、蟲は鳴くであらうか。私はそれを、人に聞くのさへ憚らるゝ。
しかはあれど、見よ。確に聞く。淺草寺の觀世音は八方の火の中に、幾十萬の生命を助けて、秋の樹立もみどりにして、仁王門、五重の塔とともに、柳もしだれて、露のしたゝるばかり嚴に氣高く燒殘つた。塔の上には鳩が群れ居、群れ遊ぶさうである。尚ほ聞く。花屋敷の火をのがれた象は此の塔の下に生きた。象は寶塔を背にして白い。
普賢も影向ましますか。
若有持是觀世音菩薩名者。
設入大火。火不能燒。
由是菩薩。威神力故。
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「露宿」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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