番茶話
泉鏡太郎
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小石川傳通院には、(鳴かぬ蛙)の傳説がある。おなじ蛙の不思議は、確か諸國に言傳へらるゝと記憶する。大抵此には昔の名僧の話が伴つて居て、いづれも讀經の折、誦念の砌に、其の喧噪さを憎んで、聲を封じたと言ふのである。坊さんは偉い。蛙が居ても、騷がしいぞ、と申されて、鳴かせなかつたのである。其處へ行くと、今時の作家は恥しい──皆が然うではあるまいが──番町の私の居るあたりでは犬が吠えても蛙は鳴かない。一度だつて贅澤な叱言などは言はないばかりか、實は聞きたいのである。勿論叱言を言つたつて、蛙の方ではお約束の(面へ水)だらうけれど、仕事をして居る時の一寸合方にあつても可し、唄に……「池の蛙のひそ〳〵話、聞いて寢る夜の……」と言ふ寸法も惡くない。……一體大すきなのだが、些とも鳴かない。殆どひと聲も聞えないのである。又か、とむかしの名僧のやうに、お叱りさへなかつたら、こゝで、番町の七不思議とか稱へて、其の一つに數へたいくらゐである。が、何も珍しがる事はない。高臺だから此の邊には居ないのらしい。──以前、牛込の矢來の奧に居た頃は、彼處等も高臺で、蛙が鳴いても、たまに一つ二つに過ぎないのが、もの足りなくつて、御苦勞千萬、向島の三めぐりあたり、小梅の朧月と言ふのを、懷中ばかり春寒く痩腕を組みながら、それでものんきに歩いた事もあつたつけ。……最う恁う世の中がせゝつこましく、物價が騰貴したのでは、そんな馬鹿な眞似はして居られない。しかし此の時節のあの聲は、私は思ひ切れず好きである。處で──番町も下六の此邊だからと云つて、石の海月が踊り出したやうな、石燈籠の化けたやうな小旦那たちが皆無だと思はれない。一町ばかり、麹町の電車通りの方へ寄つた立派な角邸を横町へ曲ると、其處の大溝では、くわツ、くわツ、ころ〳〵ころ〳〵と唄つて居る。しかし、月にしろ、暗夜にしろ、唯、おも入れで、立つて聽くと成ると、三めぐり田圃をうろついて、狐に魅まれたと思はれるやうな時代な事では濟まぬ。誰に何と怪しまれようも知れないのである。然らばと言つて、一寸蛙を、承りまする儀でと、一々町内の差配へ斷るのでは、木戸錢を拂つて時鳥を見るやうな殺風景に成る。……と言ふ隙に、何の、清水谷まで行けばだけれど、要するに不精なので、家に居ながら聞きたいのが懸値のない處である。
里見弴さんが、まだ本家有島さんに居なすつた、お知己の初の頃であつた。何かの次手に、此話をすると、庭の池にはいくらでも鳴いて居る。……そんなに好きなら、ふんづかまへて上げませう。背戸に蓄つて御覽なさい、と一向色氣のなささうな、腕白らしいことを言つて歸んなすつた。──翌日だつけ、御免下さアい、と耄けた聲をして音訪れた人がある。山内(里見氏本姓)から出ましたが、と言ふのを、私が自分で取次いで、はゝあ、此れだな、白樺を支那鞄と間違へたと言ふ、名物の爺さんは、と頷かれたのが、コツプに油紙の蓋をしたのに、吃驚したのやら、呆れたのやら、ぎよつとしたのやら、途方もねえ、と言つた面をしたのやら、手を突張つて慌てたのやら、目ばかりぱち〳〵して縮んだのやら、五六疋入つたのを屆けられた。一筆添つて居る──(お約束の此の連中の、早い處を引つ捉へてお目に掛けます。しかし、どれも面つきが前座らしい。眞打は追つて後より。)──私はうまいなと手を拍つた。いや、まだコツプを片手にして居る。うまい、と膝を叩いた。いや、まだ立つたまゝで居る。いや何にしろ感心した。
臺所から縁側に出て仰山に覗き込む細君を「これ平民の子はそれだから困る……食べものではないよ。」とたしなめて「何うだい。」と、裸體の音曲師、歌劇の唄ひ子と言ふのを振つて見せて、其處で相談をして水盤の座へ……も些と大業だけれども、まさか缺擂鉢ではない。杜若を一年植たが、あの紫のおいらんは、素人手の明り取ぐらゐな處では次の年は咲かうとしない。葉ばかり殘して駈落をした、泥のまゝの土鉢がある。……其へ移して、簀の子で蓋をした。
弴さんの厚意だし、聲を聞いたら聞分けて、一枚づゝ名でもつけようと思ふと、日が暮れてもククとも鳴かない。パチヤリと水の音もさせなければ、其の晩はまた寂寞として風さへ吹かない。……馴染なる雀ばかりで夜が明けた。金魚を買つた小兒のやうに、乘しかゝつて、踞んで見ると、逃げたぞ! 畜生、唯の一匹も、影も形もなかつた。
俗に、蟇は魔ものだと言ふ。嘗て十何匹、行水盥に伏せたのが、一夜の中に形を消したのは現に知つて居る。
雨蛙や青蛙が、そんな離れ業はしなからうと思つたが──勿論、それだけに、蓋も嚴重でなしに隙があればあつたのであらう。
二三日經つて、弴さんに此の話をした。丁ど其日、同じ白樺の社中で、御存じの名歌集『紅玉』の著者木下利玄さんが連立つて見えて居た。──木下さんの方は、弴さんより三四年以前からよく知つて居たが──當日連立つて見えた。早速小音曲師逃亡の話をすると、木下さんの言はるゝには、「大方それは、有島さんの池へ歸つたのでせう。蛙は隨分遠くからも舊の土へ歸つて來ます。」と言つて話された。嘗て、木下さんの柏木の邸の、矢張り庭の池の蛙を捉へて、水掻の附元を(紅い絹絲)……と言ふので想像すると──御容色よしの新夫人のお手傳ひがあつたらしい。……其の紅い絲で、脚に印をつけた幾疋かを、遠く淀橋の方の田の水へ放したが、三日め四日め頃から、氣をつけて、もとの池の面を窺ふと、脚に絲を結んだのがちら〳〵居る。半月ほどの間には、殆ど放した數だけが、戻つて居て、皆もみぢ袋をはいた娘のやうで可憐だつた、との事であつた。──あとで、何かの書もつで見たのであるが、蛙の名は(かへる)(歸る)の意義ださうである。……此は考證じみて來た。用捨箱、用捨箱としよう。
就て思ふのに、本當か何うかは知らないが、蛙の聲は、隨分大きく、高いやうだけれども、餘り遠くては響かぬらしい。有島さんの池は、さしわたし五十間までは離れて居まい。それだのに、私の家までは聞えない。──でんこでんこの遊びではないが、一町ほど遠い遠うい──角邸から響かないのは無論である。
久しい以前だけれど、大塚の火藥庫わき、いまの電車の車庫のあたりに住んで居た時、恰も春の末の頃、少々待人があつて、其の遠くから來る俥の音を、廣い植木屋の庭に面した、汚い四疊半の肱掛窓に、肱どころか、腰を掛けて、伸し上るやうにして、來るのを待つて、俥の音に耳を澄ました事がある。昨夜も今夜も、夜が更けると、コーと響く聲が遙に聞える、それが俥の音らしい。尤も護謨輪などと言ふ贅澤な時代ではない。近づけばカラ〳〵と輪が鳴るのだつたが、いつまでも、唯コーと響く。それが離れも離れた、まつすぐに十四五町遠い、丁ど傳通院前あたりと思ふ處に聞えては、波の寄るやうに響いて、颯と又汐のひくやうに消えると、空頼みの胸の汐も寂しく泡に消える時、それを、すだき鳴く蛙の聲と知つて、果敢ない中にも可懷さに、不埒な凡夫は、名僧の功力を忘れて、所謂、(鳴かぬ蛙)の傳説を思ひうかべもしなかつた。……その記憶がある。
それさへ──いま思へば、空吹く風であつたらしい。
又思出す事がある。故人谷活東は、紅葉先生の晩年の準門葉で、肺病で胸を疼みつゝ、洒々落々とした江戸ツ兒であつた。(かつぎゆく三味線箱や時鳥)と言ふ句を仲の町で血とともに吐いた。此の男だから、今では逸事と稱しても可いから一寸素破ぬくが、柳橋か、何處かの、お玉とか云ふ藝妓に岡惚をして、金がないから、岡惚だけで、夢中に成つて、番傘をまはしながら、雨に濡れて、方々蛙を聞いて歩行いた。──どの蛙も、コタマ! オタマ! と鳴く、と言ふのである。同じ男が、或時、小店で遊ぶと、其合方が、夜ふけてから、薄暗い行燈の灯で、幾つも〳〵、あらゆるキルクの香を嗅ぐ。……あらゆると言つて、「此が惠比壽ビールの、此が麒麟ビールの、札幌の黒ビール、香竄葡萄、牛久だわよ。甲斐産です。」と、活東の寢た鼻へ押つつけて、だらりと結んだ扱帶の間からも出せば、袂にも、懷中にも、懷紙の中にも持つて居て、眞に成つて、眞顏で、目を据ゑて嗅ぐのが油を舐めるやうで凄かつたと言ふ……友だちは皆知つて居る。此の話を──或時、弴さんと一所に見えた事のある志賀さんが聞いて、西洋の小説に、狂氣の如く鉛筆を削る奇人があつて、女のとは限らない、何でも他人の持つたのを内證で削らないでは我慢が出來ない。魔的に警察に忍び込んで、署長どのの鉛筆の尖を鋭く針のやうに削つて、ニヤリとしたのがある、と言ふ談話をされた。──不束で恐れ入るが、小作蒟蒻本の蝋燭を弄ぶ宿場女郎は、それから思ひ着いたものである。
書齋の額をねだつた時、紅葉先生が、活東子のために(春星池)と題されたのを覺えて居る。……春星池活東、活東は蝌蚪にして、字義(オタマジヤクシ)ださうである。
去年の事である。一雨に、打水に、朝夕濡色の戀しく成る、乾いた七月のはじめであつた。……家内が牛込まで用たしがあつて、午些と過ぎに家を出たが、三時頃歸つて來て、一寸目を圓くして、それは〳〵氣味の惡いほど美しいものを見ましたと言つて、驚いたやうに次の話をした。
早いもので、先に彼處に家の建續いて居た事は私たちでも最う忘れて居る、中六番町の通り市ヶ谷見附まで眞直に貫いた廣い坂は、昔ながらの帶坂と、三年坂の間にあつて、確かまだ極つた名稱がないかと思ふ。……新坂とか、見附の坂とか、勝手に稱へて間に合はせるが、大きな新しい坂である。此の坂の上から、遙に小石川の高臺の傳通院あたりから、金剛寺坂上、目白へ掛けてまだ餘り手の入らない樹木の鬱然とした底に江戸川の水氣を帶びて薄く粧つたのが眺められる。景色は、四季共に爽かな且つ奧床しい風情である。雪景色は特に可い。紫の霞、青い霧、もみぢも、花も、月もと數へたい。故々言ふまでもないが、坂の上の一方は二七の通りで、一方は廣い町を四谷見附の火の見へ拔ける。──角の青木堂を左に見て、土の眞白に乾いた橘鮨の前を……薄い橙色の涼傘──束ね髮のかみさんには似合はないが、暑いから何うも仕方がない──涼傘で薄雲の、しかし雲のない陽を遮つて、いま見附の坂を下りかけると、眞日中で、丁ど人通が途絶えた。……一人や二人はあつたらうが、場所が廣いし、殆ど影もないから寂寞して居た。柄を持つた手許をスツと潛つて、目の前へ、恐らく鼻と並ぶくらゐに衝と鮮かな色彩を見せた蟲がある。深く濃い眞緑の翼が晃々と光つて、緋色の線でちら〳〵と縫つて、裾が金色に輝きつゝ、目と目を見合ふばかりに宙に立つた。思はず、「あら、あら、あら。」と十八九の聲を立てたさうである。途端に「綺麗だわ」「綺麗だわ」と言ふ幼い聲を揃へて、女の兒が三人ほど、ばら〳〵と駈け寄つた。「小母さん頂戴な」「其蟲頂戴な」と聞くうちに、蟲は、美しい羽も擴げず、靜かに、鷹揚に、そして輕く縱に姿を捌いて、水馬が細波を駈る如く、ツツツと涼傘を、上へ梭投げに衝くと思ふと、パツと外へそれて飛ぶ。小兒たちと一所に、あら〳〵と、また言ふ隙に、電柱を空に傳つて、斜上りの高い屋根へ、きら〳〵きら〳〵と青く光つて輝きつゝ、それより日の光に眩しく消えて、忽ち唯一天を、遙に仰いだと言ふのである。
大きさは一寸二三分、小さな蝉ぐらゐあつた、と言ふ。……しかし其綺麗さは、何うも思ふやうに言あらはせないらしく、じれつたさうに、家内は些と逆上せて居た。但し蒼く成つたのでは厄介だ。私は聞くとともに、直下の三番町と、見附の土手には松並木がある……大方玉蟲であらう、と信じながら、其の美しい蟲は、顏に、其の玉蟲色笹色に、一寸、口紅をさして居たらしく思つて、悚然とした。
すぐ翌日であつた。が此は最う些と時間が遲い。女中が晩の買出しに出掛けたのだから四時頃で──しかし眞夏の事ゆゑ、片蔭が出來たばかり、日盛りと言つても可い。女中の方は、前通りの八百屋へ行くのだつたが、下六番町から、通へ出る藥屋の前で、ふと、左斜の通の向側を見ると、其處へ來掛つた羅の盛裝した若い奧さんの、水淺葱に白を重ねた涼しい涼傘をさしたのが、すら〳〵と捌く褄を、縫留められたやうに、ハタと立留まつたと思ふと、うしろへ、よろ〳〵と退りながら、翳した涼傘の裡で、「あら〳〵あらあら。」と言つた。すぐ前の、鉢ものの草花屋、綿屋、續いて下駄屋の前から、小兒が四五人ばら〳〵と寄つて取卷いた時、袖へ落すやうに涼傘をはづして、「綺麗だわ、綺麗だわ、綺麗な蟲だわ。」と魅せられたやうに言ひつゝ、草履をつま立つやうにして、大空を高く、目を据ゑて仰いだのである。通りがかりのものは多勢あつた。女中も、間は離れたが、皆一齊に立留つて、陽を仰いだ──と言ふのである。私は聞いて、其の夫人が、若いうつくしい人だけに、何となく凄かつた。
一昨年の秋九月──私は不心得で、日記と言ふものを認めた事がないので幾日だか日は覺えて居ないが──彼岸前だつただけは確だから、十五日から二十日頃までの事である。蒸暑かつたり、涼し過ぎたり、不順な陽氣が、昨日も今日もじと〳〵と降りくらす霖雨に、時々野分がどつと添つて、あらしのやうな夜など續いたのが、急に朗かに晴れ渡つた朝であつた。自慢にも成らぬが叱人もない。……張合のない例の寢坊が朝飯を濟ましたあとだから、午前十時半頃だと思ふ……どん〳〵と色氣なく二階へ上つて、やあ、いゝお天氣だ、難有い、と御禮を言ひたいほどの心持で、掃除の濟んだ冷りとした、東向の縁側へ出ると、向う邸の櫻の葉が玉を洗つたやうに見えて、早やほんのりと薄紅がさして居る。狹い町に目まぐろしい電線も、銀の絲を曳いたやうで、樋竹に掛けた蜘蛛の巣も、今朝ばかりは優しく見えて、青い蜘蛛も綺麗らしい。空は朝顏の瑠璃色であつた。欄干の前を、赤蜻蛉が飛んで居る。私は大すきだ。色も可し、形も可し……と云ふうちにも、此の頃の氣候が何とも言へないのであらう。しかし珍しい。……極暑の砌、見ても咽喉の乾きさうな鹽辛蜻蛉が炎天の屋根瓦にこびりついたのさへ、觸ると熱い窓の敷居に頬杖して視めるほど、庭のない家には、どの蜻蛉も訪れる事が少いのに──よく來たな、と思ふうちに、目の前をスツと飛んで行く。行くと、又一つ飛んで居る。飛んで居るのが向うへ行くと、すぐ來て、又欄干の前を飛んで居る。……飛ぶと云ふより、スツ〳〵と輕く柔かに浮いて行く。
忽ち心着くと、同じ處ばかりではない。縁側から、町の幅一杯に、青い紗に、眞紅、赤、薄樺の絣を透かしたやうに、一面に飛んで、飛びつゝ、すら〳〵と伸して行く。……前へ〳〵、行くのは、北西の市ヶ谷の方で、あとから〳〵、來るのは、東南の麹町の大通の方からである。數が知れない。道は濡地の乾くのが、秋の陽炎のやうに薄白く搖れつゝ、ほんのり立つ。低く行くのは、其の影をうけて色が濃い。上に飛ぶのは、陽の光に色が淡い。下行く群は、眞綿の松葉をちら〳〵と引き、上を行く群は、白銀の針をきら〳〵と飜す……際限もなく、それが通る。珊瑚が散つて、不知火を澄切つた水に鏤めたやうである。
私は身を飜して、裏窓の障子を開けた。こゝで、一寸恥を言はねば理の聞えない迷信がある。私は表二階の空を眺めて、その足で直に裏窓を覗くのを不斷から憚るのである。何故と言ふに、それを行つた日に限つて、不思議に雷が鳴るからである。勿論、何も不思議はない。空模樣が怪しくつて、何うも、ごろ〳〵と來さうだと思ふと、可恐いもの見たさで、惡いと知つた一方は日光、一方は甲州、兩方を、一時に覗かずには居られないからで。──鄰村で空臼を磨るほどの音がすればしたで、慌しく起つて、兩方の空を窺はないでは居られない。從つて然う云ふ空合の時には雷鳴があるのだから、いつもはかつぐのに、其の時は、そんな事を言つて居る隙はなかつた。
窓を開けると、こゝにも飛ぶ。下屋の屋根瓦の少し上を、すれ〳〵に、晃々、ちら〳〵と飛んで行く。しかし、表からは、木戸を一つ丁字形に入組んだ細い露地で、家と家と、屋根と屋根と附着いて居る處だから、珊瑚の流れは、壁、廂にしがらんで、堰かるゝと見えて、表欄干から見たのと較べては、やゝ疎であつた。此の裏は、すぐ四谷見附の火の見櫓を見透すのだが、其の遠く廣いあたりは、日が眩いのと、樹木に薄霧が掛つたのに紛れて、凡そ、どのくらゐまで飛ぶか、伸すか、そのほどは計られない。が、目の屆くほどは、何處までも、無數に飛ぶ。
處で、廂だの、屋根だのの蔭で、近い處は、表よりは、色も羽も判然とよく分る。上は大屋根の廂ぐらゐで、下は、然れば丁ど露地裏の共同水道の處に、よその女房さんが踞んで洗濯をして居たが、立つと其の頭ぐらゐ、と思ふ處を、スツ〳〵と浮いて通る。
私は下へ下りた。──家内は髮を結ひに出掛けて居る。女中は久しぶりのお天氣で湯殿口に洗濯をする。……其處で、昨日穿いた泥だらけの高足駄を高々と穿いて、此の透通るやうな秋日和には宛然つままれたやうな形で、カラン〳〵と戸外へ出た。が、出た咄嗟には幻が消えたやうで一疋も見えぬ。熟と瞳を定めると、其處に此處に、それ彼處に、其の數の夥しさ、下に立つたものは、赤蜻蛉の隧道を潛るのである。往來はあるが、誰も氣がつかないらしい。一つ二つは却つてこぼれて目に着かう。月夜の星は數へられない。恁くまでの赤蜻蛉の大なる群が思ひ立つた場所から志す處へ移らうとするのである。おのづから智慧も力も備はつて、陽の面に、隱形陰體の魔法を使つて、人目にかくれ忍びつゝ、何處へか通つて行くかとも想はれた。
先刻、もしも、二階の欄干で、思ひがけず目に着いた唯一匹がないとすると、私は此の幾千萬とも數の知れない赤蜻蛉のすべてを、全體を、まるで知らないで了つたであらう。後で、近所でも、誰一人此の素ばらしい群の風説をするもののなかつたのを思ふと、渠等は、あらゆる人の目から、不可思議な角度に外れて、巧に逸し去つたのであらうも知れぬ。
さて足駄を引摺つて、つい、四角へ出て見ると、南寄の方の空に濃い集團が控へて、近づくほど幅を擴げて、一面に群りつゝ、北の方へ伸すのである。が、厚さは雜と塀の上から二階家の大屋根の空と見て、幅の廣さは何のくらゐまで漲つて居るか、殆ど見當が附かない、と言ふうちにも、幾干ともなく、急ぎもせず、後れもせず、遮るものを避けながら、一つ一つがおなじやうに、二三寸づゝ、縱横に間をおいて、悠然として流れて通る。櫻の枝にも、電線にも、一寸留まるのもなければ、横にそれようとするのもない。
引返して、木戸口から露地を覗くと、羽目と羽目との間に成る。こゝには一疋も飛んで居ない。向うの水道端に、いまの女房さんが洗濯をして居る、其の上は青空で、屋根が遮らないから、スツ〳〵晃々と矢ツ張り通るのである。「おかみさん。」私は呼んだ。「御覽なさい大層な蜻蛉です。」「へゝい。」と大きな返事をすると、濡手を流して泳ぐやうに反つて空を視た。顏中をのこらず鼻にして、眩しさうにしかめて、「今朝ツから飛んで居ますわ。」と言つた。別に珍しくもなささうに唯つい通りに、其處等に居る、二三疋だと思ふのであらう。時に、もうやがて正午に成る。
小一時間經つて、家内が髮結さんから歸つて來た。意氣込んで話をすると──道理こそ……三光社の境内は大變な赤蜻蛉で、雨の水溜のある處へ、飛びながらすい〳〵と下りるのが一杯で、上を乘越しさうで成らなかつた。それを子供たちが目笊で伏せるのが、「摘草をしたくらゐ笊に澤山。」と言ふのである。三光社の境内は、此の邊で一寸子供の公園に成つて居る。私の家からさしわたし二町ばかりはある。此の樣子では、其處まで一面の赤蜻蛉だ。何處を志して行くのであらう。餘りの事に、また一度外へ出た。一時を過ぎた。爾時は最う一つも見えなかつた。そして摘草ほど子供にとられたと言ふのを、何だか壇の浦のつまり〳〵で、平家の公達が組伏せられ刺殺されるのを聞くやうで可哀であつた。
とに角、此の赤蜻蛉の光景は、何にたとへやうもなかつた。が、同じ年十一月のはじめ、鹽原へ行つて、畑下戸の溪流瀧の下の淵かけて、流の廣い溪河を、織るが如く敷くが如く、もみぢの、盡きず、絶えず、流るゝのを見た時と、──鹽の湯の、斷崖の上の欄干に凭れて憩つた折から、夕颪颯として、千仭の谷底から、瀧を空状に、もみぢ葉を吹上げたのが周圍の林の木の葉を誘つて、滿山の紅の、且つ大紅玉の夕陽に映じて、かげとひなたに濃く薄く、降りかゝつたのを見た時に、前日の赤蜻蛉の群の風情を思つたのである。
肝心の事を言ひおくれた。──其の日の赤蜻蛉は、殘らず、一つも殘らず、皆一つづゝ、一つがひ、松葉につないで、天人の乘る八挺の銀の櫂の筏のやうにして飛行した。
何と……同じ事を昨年も見た。……篤志の御方は、一寸お日記を御覽を願ふ。秋の半かけて矢張り鬱々陰々として霖雨があつた。三日とは違ふまい。──九月の二十日前後に、からりと爽かにほの暖かに晴上つた朝、同じ方角から同じ方角へ、紅舷銀翼の小さな船を操りつゝ、碧瑠璃の空をきら〳〵きら〳〵と幾千萬艘。──家内が此の時も四谷へ髮を結ひに行つて居た。女中が洗濯をして居た。おなじ事である。其の日は歸つて來て、見附の公設市場の上かけて、お濠の上は紀の國坂へ一面の赤蜻蛉だと言つた。惜い哉。すぐにもあとを訪ねないで……晩方散歩に出て見た時は、見附にも、お濠にも、たゞ霧の立つ水の上に、それかとも思ふ影が、唯二つ、三つ。散り來る木の葉の、しばらくたゝずまふに似たのみであつた。
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「番茶話」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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