廓そだち
泉鏡太郎



 ふるくから、ひとつた有名いうめい引手茶屋ひきてぢやや。それが去年きよねん吉原よしはら火事かじけて、假宅かりたく營業しやうばいをしてたが、つゞけて營業しやうばいをするのには、なほしをしなくてはならぬ。

 金主きんしゆ目付めつけたが、引手茶屋ひきてぢややは、見込みこみがないとふので、資本もとでおろさない。

 ことに、その引手茶屋ひきてぢややには、丁度ちやうど妙齡としごろになるむすめ一人ひとりあつて、それがその吉原よしはらるといふことを、兼々かね〴〵非常ひじやうきらつてる。むすめまち出度でたいとふ。

 女房かみさん料簡れうけんぢやあ、廓外そとて──それこそ新橋しんばしなぞは、近來きんらい吉原よしはらおの大勢おほぜいつてるから──彼處等あすこらつて待合まちあひでもすれば、一番いちばん間違まちがひいとおもつたのだが、此議これまたそのむすめ大反對だいはんたいで、待合まちあひなんといふ家業かげふは、いやだといふ殊勝しゆしよう思慮かんがへ

 なにをしよう、かにをしようとふのが、金主きんしゆ誰彼たれかれ發案さうだんで、鳥屋とりやをすることになつた。

 さうして、まあところへ、しかるべきうちむで、にはには燈籠とうろうなり、手水鉢てうづばちも、一寸ちよつとしたものがあらうといふ、一寸ちよつと氣取きどつた鳥屋とりやといふことはなしきまつた。

 その準備じゆんびいても取々とり〴〵ことがあるが、それはまあ、おあづかまをすとして、帳場ちやうばゑて算盤そろばんく、乃至ないし帳面ちやうめんでもつけようといふ、むすめはこれを(お帳場ちやうば〳〵)とつてるが、えうするに卓子テエブルだ。それをあたりから、追々おひ〳〵珍談ちんだんはじまるのだが……

 のお帳場ちやうばなるものが、近所きんじよには、四圓五十錢よゑんごじつせんだと、あたらしいのをつてる。けれども、創業さうげふさいではあるし、るたけかね使つかはないで、吉原よしはらときなんぞとちがつて、すべてに經濟けいざいにしてやらなくちやかんとふので、それから女房かみさんに、むすめがついて、其處等そこいらをその、ブラ〳〵と、あるいたものである。

 こゝくだんむすめたるや、いまもおはなししたとほり、吉原よしはらことはぢとし、待合まちあひこといやだとつた心懸こゝろがけなんだから、まあはたからすゝめても、結綿いひわたなんぞにはうよりは、わるくすると廂髮ひさしがみにでもしようといふ──

 閑話休題それはとにかく母子ふたり其處等そこらあるくと、いまつた、のお帳場ちやうばが、はしむかうの横町よこちやう一個ひとつあつた。無論むろん古道具屋ふるだうぐやなんです。

 くと三圓九十錢さんゑんきうじつせんで、まあ、それはせんのよりはやすい。が、此奴こいつきなり女房かみさんは、十錢じつせん値切ねぎつて、三圓八十錢さんゑんはちじつせんにおけなさいとつたんです。

 するとね、これから滑稽こつけいがあるんだが……その女房かみさんの、これをかたときいはくさ。

道具屋だうぐや女房かみさんは、十錢じつせん値切ねぎつたのをしやくさはらせたのにちがひない。」

 本人ほんにんは、引手茶屋ひきてぢややで、勘定かんぢやう値切ねぎられたときおなじに、これ先方むかう道具屋だうぐや女房かみさん)も感情かんじやうがいしたものとおもつたらしい。

 そこで、感情かんじやうがいしてるなと、此方こつちではおもつてる前方せんぱうが、くだん所謂いはゆる帳場ちやうばなるもの……「貴女あなた、これはつてかれますか。」とつた。

 うすると此方こつち引手茶屋ひきてぢやや女房かみさん先方むかうしやくさはらせたから、「てますか。」とつたんだらう。てますかとつたものを、たれないとはふはない。「あゝてますとも」とつて、受取うけとつて、それを突然いきなり、うむと、女房かみさん背負しよつたものです。

 背負しよふとふと、ひよろ〳〵、ひよろ〳〵。……一足ひとあしあるすとまたひよろ〳〵。……

 女房かみさんは、よわつちやつた。可恐おそろしくおもいんです。が、たれないといふのはくやしいてんで、それにされるやうにして、またひよろ〳〵。

 二歩ふたあし三歩みあしひよろついてるとおもふと、突然いきなり、「なにをするんだ。」といふものがある。

 本人ほんにんくらんでるから、なにうしたかはわからない。が、「なにをするんだ。」とはれたから、無論むろん打着ぶつかつたにちがひない、とおもつたんです。で、「眞平まつぴら御免ごめんなさい。」とふと、またひよろ〳〵とそれを背負しよつてあるく。うすると、その背後うしろで、むすめは、クツクツクツクツわらふ。と、背負しよつてるひとは、「なんだね、おまへわらごツちやないやね。」とひながらまたひよろ〳〵。

 て、うなると、この教育けういくのあるむすめが、なにしろ恰好かつかうわるい、第一だいいちまたちやうがわるい、まへ𢌞まはしてひざつてなほせといふ。

 それからむすめが、手傳てつだつて、女房かみさんは、それをその、むねところへ、兩手りやうていた。

 くと、今度こんどは、あし突張つツぱつてうごかない。まへへ、丁度ちやうどひざところおもしがかる。が、それでもこしゑて、ギツクリ〳〵一歩ひとあし二歩ふたあしづゝはあるく。

 今度こんどくらまない。背後うしろはうえるから、振返ふりかへつて背後うしろると、むすめ何故なぜか、途中みちしやがんでてうごかない。さうして横腹よこばらかゝへながら、もうしておくれ〳〵とつてる。無論むろん可笑をかしくてこと出來できないのだ。

 それが、非常ひじやうひと雜沓ざつたうする、江戸えど十字街じふじがい電車でんしや交叉點かうさてんもあるし、大混雜だいこんざつなか有樣ありさまなんです。おそらく妙齡としごろむすめ横腹よこばらかゝへながらあるいたのも多度たんとはあるまいし、また帳場ちやうばつてあるいた女房かみさん澤山たんとはあるまい。うしても光景くわうけいが、吉原よしはら大門おほもんなか仕事しごとなんです。

 往來わうらい行交ゆきかふもの、これを噴出ふきださざるなし。して、そのことを、その女房かみさんかたときまたいはく、

交番かうばん巡査おまはりさんが、クツクツつてわらつてたつけね。」

 するとかたはらから、またその光景やうすむすめふのには、「その巡査おまはりさんがね、洋刀サアベルを、カチヤ〳〵カチヤ〳〵ゆすぶつてわらつてた。」とします。

 で、きやくうていはく

「それをうちまでつてたの、」

 女房かみさんこたへて、

串戲じようだんつちやけません。あれをつてようものなら、かはつこつてしまつたんです。」と、無論むろんたか俥代くるまだいはらつて、くるまうちまでつてたものです。

 今度こんど買物かひものときは、それにかんがみて、途中とちうからでは足許あしもとられるといふので、宿車やどぐるまつてうちした。

 そのとき買物かひものざるひとつ。さうして「三十五錢さんじふごせん俥賃くるまちんられたね。」と、女房かみさんふと、またむすめそばて、「ちがふよ、五十錢ごじつせんだよ。」とふ。

 それからまたべつとき手水鉢てうづばちわきく、手拭入てぬぐひいれをひにつて、それをまた十錢じつせん値切ねぎつたといふはなしがありますが、それはまあ節略せつりやくして──なんでも値切ねぎるのは十錢じつせんづゝ値切ねぎるものだと女房かみさんおもつてる。

 て、みせをする、料理人れうりにんはひつて、おきやく一寸々々ちよい〳〵あることになる。

 と、あるきやくたゝく。……まあおほいに勉強べんきやうをして、むすめようきにつた。──さうすると、そのおきやくが、「鍋下なべした」をつていとつた。

「はい。」とつて引下ひきさがつたがわからない。女房かみさんに、「一寸ちよつと鍋下なべしたもつい、とつたがなんだらう。」と。

 こゝまたきいちやんととなへて、もと、其處そこうち内藝妓うちげいしやをしてたのがある。いま堅氣かたぎで、手傳てつだひにる。

 と、のきいちやんのところて、みぎ鍋下なべしただが、「なんだらう、きいちやんつてるかい。」と矢張やつぱわからない女房かみさんくと、これがまたらない。」とふ。

料理番れうりばんくのもくやしいし、なんだらう……」と三人さんにんかんがへた。かんがへた結果あげく、まあ年長としうへだけに女房かみさん分別ふんべつして、「多分たぶん釜敷かましきことだらう、丁度ちやうどあたらしいのがあるからつておいでよ。」とつたんださうです。

 うすると、きいちやんいはく、「釜敷かましき? なんにするだらう?」

 此處こゝがその、ひどなかちやうしき面白おもしろいのは、女房かみさんが、「なにかのお禁呪まじなひになるんだらう。」とつた。そこで、そのむすめが、うや〳〵しくおぼんせて、その釜敷かましきつてる。と、きやくめうかほをして、これをながめて、さつしたとえて噴出ふきだして、「ことだよ〳〵。」とふ。

 でまあかう體裁ていさいなんですがね。女中ぢよちうにはすべ怒鳴どならせないことにしてあるんださうだが、帳場ちやうばておあつらへをとほすのに、「ほんごぶになまイ」ととほす。とこれもの一人ひとりもなし。で、まことこまつてる。

 と、また或時あるときその女中ぢよちうが、おなじやうに、「れいしゆ。」とつた。またわからない。「おはやねがひます。」とまた女中ぢよちうつた。

 するとそのむすめが、「きいちやん、れいしゆあるかい、れいしゆあるかい。」といた。

 もと藝妓げいしやのきいちやんが、もう一人ひとり手傳てつだひにむかつて、

「あ、はや八百屋やほやへおいで、」とつた。女中ぢよちうが、

八百屋やほやつてうなさるんです。」

 きいちやんが、

「だつてあるかないからないが、八百屋やほやつたらばれいしゆがあるだらう。」

 女中ぢよちうおどろいて、

冷酒ひやざけことですよ。」

 冷酒れいしゆ茘枝れいし間違まちがへたんですが……そんならはじめから冷酒ひやざけなら冷酒ひやざけつてくれればいのにと家内中うちぢうものみなつてる。またその女中ぢよちうが「けいらん五、」と或時あるときつた。さうして、それは、その、きいちやんたるものがきつけて、れいしきで、「そんなものはない。」とつたが、これは教育けういくのあるむすめわかつた。

「ね、きいちやん、けいらんツて玉子たまごことだね。」

 するとまたきいちやんのつた言葉ことば面白おもしろい。

「そんなやつがあるものか。」

「だつて玉子屋たまごや看板かんばんにはなんいてある?」

矢張やつぱたまごいてあるだらう。」とふんです。

 ……いま鍋下なべした、おしたぢを、むらさき、ほん五分ごぶなまなぞとて、しんこくと悚然ぞつとする。れないでねぎをくれろといふときにも女中ぢよちうは「みつなしのほん五分ごぶツ」といふ。うもはなはしやくさはると、家内中うちぢう連中ものがこぼすんです。

 して、おしたぢならおしたぢ、ねぎならねぎならでよからうとつてる。

 ──も一つ可笑をかしはなしがある。鳥屋とりやのおきやくかへときに、むすめが、「こんだいつ被入いらつしやるの。」とふと、女房かみさんまたうツかり、「おちかうち──」とおくす。

明治四十五年五月

底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店

   1942(昭和17)年1020日第1刷発行

   1988(昭和63)年112日第3刷発行

※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。

※表題は底本では、「くるわそだち」とルビがついています。

入力:門田裕志

校正:川山隆

2011年86日作成

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