唐模樣
泉鏡太郎
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惟ふに、描ける美人は、活ける醜女よりも可也。傳へ聞く、漢の武帝の宮人麗娟、年はじめて十四。玉の膚艷やかにして皓く、且つ澤ふ。たきもしめざる蘭麝おのづから薫りて、其の行くや蛺蝶相飛べり。蒲柳纖弱、羅綺にだも勝へ難し。麗娟常に身の何處にも瓔珞を挂くるを好まず。これ袂を拂ふに當りて、其の柔かなる膚に珠の觸れて、痕を留めむことを恐れてなり。知るべし、今の世に徒に指環の多きを欲すると、聊か其の抱負を異にするものあることを。
麗娟宮中に歌ふ時は、當代の才人李延年ありて是に和す。かの長生殿裡日月のおそき處、ともに𢌞風の曲を唱するに當りてや、庭前颯と風興り、花ひら〳〵と飜ること、恰も霏々として雪の散るが如くなりしとぞ。
此の姫また毎に琥珀を以て佩として、襲衣の裡に人知れず包みて緊む。立居其の度になよやかなる玉の骨、一つ〳〵琴の絲の如く微妙の響を作して、聞くものの血を刺し、肉を碎かしめき。
女子粧はば寧ろ恁の如きを以て會心の事とせん。美顏術に到りては抑々末也。
同じ時、賈雍將軍は蒼梧の人、豫章の太守として國の境を出で、夷賊の寇するを討じて戰に勝たず。遂に蠻軍のために殺され頭を奪はる。
見よ、頭なき其の骸、金鎧一縮して戟を横へ、片手を擧げつゝ馬に跨り、砂煙を拂つてトツ〳〵と陣に還る。陣中豈驚かざらんや。頭あるもの腰を拔かして、ぺた〳〵と成つて瞪目して之を見れば、頭なき將軍の胴、屹然として馬上にあり。胸の中より聲を放つて、叫んで曰く、無念なり、戰利あらず、敵のために傷はれぬ。やあ、方々、吾が頭あると頭なきと何れが佳きや。時に賈雍が從卒、おい〳〵と泣いて告して曰く、頭あるこそ佳く候へ。言ふに從うて、將軍の屍血を噴いて馬より墜つ。
勇將も傑僧も亦同じ。むかし行簡禪師は天台智大師の徒弟たり。或時、群盜に遇うて首を斬らる。禪師、斬られたる其の首を我手に張子の面の如く捧げて、チヨンと、わけもなしに項のよき處に乘せて、大手を擴げ、逃ぐる數十の賊を追うて健なること鷲の如し。尋で瘡癒えて死せずと云ふ。壯なる哉、人々。
むかし宋の武帝の女、壽陽麗姫、庭園を歩する時梅の花散りて一片其の顏に懸る。其の俤また較ふべきものなかりしより、當時の宮女皆爭つて輕粉を以て顏に白梅の花を描く、稱して梅花粧と云ふ。
隋の文帝の宮中には、桃花の粧あり。其の趣相似たるもの也。皆色を衒ひ寵を售りて、君が意を傾けんとする所以、敢て歎美すべきにあらずと雖も、然れども其の志や可憐也。
司馬相如が妻、卓文君は、眉を畫きて翠なること恰も遠山の霞める如し、名づけて遠山の眉と云ふ。魏の武帝の宮人は眉を調ふるに青黛を以つてす、いづれも粧ふに不可とせず。然るに南方の文帝、元嘉の年中、京洛の婦女子、皆悉く愁眉、泣粧、墮馬髻、折要歩、齲齒笑をなし、貴賤、尊卑、互に其の及ばざるを恥とせり。愁眉は即ち眉を作ること町内の若旦那の如く、細く剃りつけて、曲り且つ竦むを云ふ。泣粧は目の下にのみ薄く白粉を塗り一刷して、ぐいと拭ひ置く。其の状涙にうるむが如し。墮馬髻のものたるや、がつくり島田と云ふに同じ。案ずるに、潰と云ひ、藝子と云ひ投と云ひ、奴はた文金、我が島田髷のがつくりと成るは、非常の時のみ。然るを、元嘉、京洛の貴婦人、才媛は、平時に件の墮馬髻を結ふ。たとへば髷を片潰して靡け作りて馬より墮ちて髻の横状に崩れたる也。折要歩は、密と拔足するが如く、歩行に故と惱むを云ふ、雜と癪持の姿なり。齲齒笑は思はせぶりにて、微笑む時毎に齲齒の痛みに弱々と打顰む色を交へたるを云ふ。これなん當時の國色、大將軍梁冀が妻、孫壽夫人一流の媚態より出でて、天下に洽く、狹土邊鄙に及びたる也。未だ幾ほどもあらざりき、天下大に亂れて、敵軍京師に殺倒し、先づ婦女子を捕へて縱に凌辱を加ふ。其の時恥辱と恐怖とに弱きものの聲をも得立てず、傷み、悲み、泣ける容、粧はざるに愁眉、泣粧。柳腰鞭に折けては折要歩を苦しみ、金釵地に委しては墮馬髻を顯實す。聊も其の平常の化粧と違ふことなかりしとぞ。今の世の庇髮、あの夥しく顏に亂れたる鬢のほつれは如何、果してこれ何の兆をなすものぞ。
隋の沈光字は總持、煬帝に事へて天下第一驍捷の達人たり。帝はじめ禪定寺を建立する時、幡を立つるに竿の高さ十餘丈。然るに大風忽ち起りて幡の曳綱頂より斷れて落ちぬ。これを繋がんとするに其の大なる旗竿を倒さずしては如何ともなし難し。これを倒さんは不祥なりとて、仰いで評議區々なり。沈光これを見て笑つて曰く、仔細なしと。太綱の一端を前齒に銜へてする〳〵と竿を上りて直に龍頭に至る。蒼空に人の點あり、飄々として風に吹かる。これ尚ほ奇とするに足らず。其の綱を透し果つるや、筋斗を打ち、飜然と飛んで、土に掌をつくと齊しく、眞倒にひよい〳〵と行くこと十餘歩にして、けろりと留まる。觀るもの驚歎せざるはなし。寺僧と時人と、ともに、沈光を呼んで、肉飛仙と云ふ。
後に煬帝遼東を攻むる時、梯子を造りて敵の城中を瞰下す。高さ正に十五丈。沈光其の尖端に攀ぢて賊と戰うて十數人を斬る。城兵這奴憎きものの振舞かなとて、競懸りて半ばより、梯子を折く。沈光頂よりひつくりかへりざまに梯子を控へたる綱を握り、中空より一たび跳返りて劍を揮ふと云へり。それ飛燕は細身にしてよく掌中に舞ふ、絶代の佳人たり。沈光は男兒のために氣を吐くものか。
洛陽伽藍記に云ふ。魏の帝業を承くるや、四海こゝに靜謐にして、王侯、公主、外戚、其の富既に山河を竭して互に華奢驕榮を爭ひ、園を脩め宅を造る。豐室、洞門、連房、飛閣。金銀珠玉巧を極め、喬木高樓は家々に築き、花林曲池は戸々に穿つ。さるほどに桃李夏緑にして竹柏冬青く、霧芳しく風薫る。
就中、河間王深の居邸、結構華麗、其の首たるものにして、然も高陽王と華を競ひ、文柏堂を造營す、莊なること帝居徽音殿と相齊し、清水の井に玉轆轤を置き、黄金の瓶を釣るに、練絹の五色の絲を綆とす。曰く、晉の石崇を見ずや、渠は庶子にして尚ほ狐腋雉頭の裘あり。況や我は太魏の王家と。又迎風館を起す。
室に、玉鳳は鈴を啣み、金龍は香を吐けり。窓に挂くるもの列錢の青瑣なり。素柰、朱李、枝撓にして簷に入り、妓妾白碧、花を飾つて樓上に坐す。其の宗室を會して、長夜の宴を張るに當りては、金瓶、銀榼百餘を陳ね、瑪瑙の酒盞、水晶の鉢、瑠璃の椀、琥珀の皿、いづれも工の奇なる中國未だ嘗てこれあらず、皆西域より齎す處。府庫の内には蜀江の錦、呉均の綾、氷羅、罽氈、雪穀、越絹擧て計ふべからず。王、こゝに於て傲語して曰く、我恨らくは石崇を見ざることを、石崇も亦然らんと。
晉の石崇は字を季倫と云ふ。季倫の父石苞、位已に司徒にして、其の死せんとする時、遺産を頒ちて諸子に與ふ。たゞ石崇には一物をのこさずして云ふ。此の兒、最少なしと雖も、後に自から設得んと。果せる哉、長なりて荊州の刺史となるや、潛に海船を操り、海を行く商賈の財寶を追剥して、富を致すこと算なし。後に衞尉に拜す。室宇宏麗、後房數百人の舞妓、皆綺紈を飾り、金翠を珥む。
嘗て河陽の金谷に別莊を營むや、花果、草樹、異類の禽獸一としてあらざるものなし。時に武帝の舅に王鎧と云へるものあり。驕奢を石崇と相競ふ。鎧飴を以て釜を塗れば、崇は蝋を以て薪とす。鎧、紫の紗を伸べて四十里の歩障を造れば、崇は錦に代へて是を五十里に張る。武帝其の舅に力を添へて、まけるなとて、珊瑚樹の高さ二尺なるを賜ふ。王鎧どんなものだと云つて、是を石崇に示すや、石崇一笑して鐵如意を以て撃つて碎く。王鎧大に怒る。石崇曰く、恨むることなかれと即ち侍僮に命じて、おなじほどの珊瑚六七株を出して償ひ遷しき。
然れども後遂に其の妓、緑珠が事によりて、中書令孫秀がために害せらる。
河間王が宮殿も、河陰の亂逆に遇うて寺院となりぬ。唯、堂觀廊廡、壯麗なるが故に、蓬莱の仙室として呼ばれたるのみ。歎ずべきかな。朱荷曲池のあと、緑萍蒼苔深く封して、寒蛩喞々たり、螢流二三點。
唐の開元年中、呉楚齊魯の間、劫賊あり。近頃は不景氣だ、と徒黨十餘輩を語らうて盛唐縣の塚原に至り、數十の塚を發きて金銀寶玉を掠取る。塚の中に、時の人の白茅冢と呼ぶものあり。賊等競うてこれを發く。方一丈ばかり掘るに、地中深き處四個の房閣ありけり。唯見る東の房には、弓繒槍戟を持ちたる人形あり。南の房には、繒綵錦綺堆し。牌ありて曰く周夷王所賜錦三百端と。下に又棚ありて金銀珠玉を裝れり。西の房には漆器あり。蒔繪新なるものの如し。さて其北の房にこそ、珠以て飾りたる棺ありけれ。内に一人の玉女あり。生けるが如し。緑の髮、桂の眉、皓齒恰も河貝を含んで、優美端正畫と雖も及ぶべからず。紫の帔、繍ある〓(「韈」の「罘-不」に代えて「囚」)、珠の履をはきて坐しぬ。香氣一脈、芳霞靉靆く。いやな奴あり。手を以て密と肌に觸るゝに、滑かに白く膩づきて、猶暖なるものに似たり。
棺の前に銀樽一個。兇賊等爭つてこれを飮むに、甘く芳しきこと人界を絶す。錦綵寶珠、賊等やがて意のまゝに取出だしぬ。さて見るに、玉女が左の手のくすり指に小さき玉の鐶を嵌めたり。其の彫の巧なること、世の人の得て造るべきものにあらず。いざや、と此を拔かんとするに、弛く柔かに、細く白くして、然も拔くこと能はず。頭領陽知春制して曰く、わい等、其は止せと。小賊肯かずして、則ち刀を執つて其の指を切つて珠を盜むや、指より紅の血衝と絲の如く迸りぬ。頭領面を背けて曰く、於戲痛哉。
冢を出でんとするに、矢あり、蝗の如く飛ぶ。南房の人形氏、矢繼早に射る處、小賊皆倒る。陽知春一人のみ命を全うすることを得て、取り得たる寶貝は盡くこれを冢に返す。官も亦後、渠を許しつ。軍士を遣はし冢を修む。其時銘誌を尋ぬるに得ることなく、誰が冢たるを知らずと云ふ。
晉の少主の時、婦人あり。容色艷麗、一代の佳。而して帶の下空しく兩の足ともに腿よりなし。餘は常人に異なるなかりき。其の父、此の無足婦人を膝行軌に乘せ、自ら推しめぐらして京都の南の方より長安の都に來り、市の中にて、何うぞやを遣る。聚り見るもの、日に數千人を下らず。此の婦、聲よくして唱ふ、哀婉聞くに堪へたり。こゝに於て、はじめは曲巷の其處此處より、やがては華屋、朱門に召されて、其の奧に入らざる處殆ど尠く、彼を召すもの、皆な其の不具にして艷なるを惜みて、金銀衣裳を施す。然るに後年、京城の諸士にして、かの北狄の囘文を受けたるもの少からず、事顯はるゝに及びて、官司、其の密使を案討するに、無足の婦人即ち然り、然も奸黨の張本たりき。後遂に誅戮せらる、恁の如きもの人妖也。
明州の人、柳氏、女あり。優艷にして閑麗なり。其の女、年はじめて十六。フト病を患ひ、關帝の祠に祷りて日あらずして癒ゆることを得たり。よつて錦繍の幡を造り、更に詣でて願ほどきをなす。祠に近き處少年の僧あり。豫て聰明をもつて聞ゆ。含春が姿を見て、愛戀の情に堪へず、柳氏の姓を呪願して、密に帝祠に奉る。其の句に曰く、
江南柳嫩緑。
未成陰攀折。
尚憐枝葉小。
黄鸝飛上力難。
留取待春深。
含春も亦明敏にして、此の句を見て略ぼ心を知り、大に當代の淑女振を發揮して、いけすかないとて父に告ぐ。父や、今古の野暮的、娘に惚れたりとて是を公に訴へたり。時に方國沴氏、眞四角な先生にて、すなはち明州の刺史たり。忽ち僧を捕へて詰つて曰く、汝何の姓ぞ。恐る〳〵對て曰く、竺阿彌と申ますと。方國僧をせめて曰く、汝職分として人の迷を導くべし。何ぞかへつて自ら色に迷ふことをなして、佗の女子を愛戀し、剩へ關帝の髯に紅を塗る。言語道斷ぢやと。既に竹の籠を作らしめ、これに盛りて江の中に沈めんとす。而して國沴、一偈を作り汝が流水に歸るを送るべしとて、因て吟じて云ふ。
江南竹巧匠。
結成籠好。
與吾師藏法體。
碧波深處伴蛟龍。
方知色是空。
竺阿彌、めそ〳〵と泣きながら、仰なれば是非もなし。乞ふ吾が最後の一言を容れよ、と云ふ。國沴何をか云ふ、言はむと欲する處疾く申せ、とある時、
江南月如鏡亦如鉤。
明鏡不臨紅粉面。
曲鉤不上畫簾頭。
空自照東流。
國沴大に笑つて、馬鹿め、おどかしたまでだと。これを釋し、且つ還俗せしめて、柳含春を配せりと云ふ。
唐の開元年中の事とぞ。戸部郡の令史が妻室、美にして才あり。たま〳〵鬼魅の憑る處となりて、疾病狂せるが如く、醫療手を盡すといへども此を如何ともすべからず。尤も其の病源を知るものなき也。
令史の家に駿馬あり。無類の逸物なり。恆に愛矜して芻秣を倍し、頻に豆を食ましむれども、日に日に痩疲れて骨立甚だし。擧家これを怪みぬ。
鄰家に道術の士あり。童顏白髮にして年久しく住む。或時談此の事に及べば、道士笑うて曰く、それ馬は、日に行くこと百里にして猶羸るゝを性とす。況や乃、夜行くこと千里に餘る。寧ろ死せざるを怪むのみと。令史驚いて言ふやう、我が此の馬はじめより厩を出さず祕藏せり。又家に騎るべきものなし。何ぞ千里を行くと云ふや。道人の曰く、君常に官に宿直の夜に當りては、奧方必ず斯の馬に乘つて出でらるゝなり。君更に知りたまふまじ。もしいつはりと思はれなば、例の宿直にとて家を出でて、試みにかへり來て、密かに伺うて見らるべし、と云ふ。
令史、大に怪み、即ち其の詞の如く、宿直の夜潛に歸りて、他所にかくれて妻を伺ふ。初更に至るや、病める妻なよやかに起きて、粉黛盛粧都雅を極め、女婢をして件の駿馬を引出させ、鞍を置きて階前より飜然と乘る。女婢其の後に續いて、こはいかに、掃帚に跨り、ハツオウと云つて前後して冉々として雲に昇り去つて姿を隱す。
令史少からず顛動して、夜明けて道士の許に到り嗟歎して云ふ、寔に魅のなす業なり。某將是を奈何せむ。道士の曰く、君乞ふ潛にうかゞふこと更に一夕なれ。其の夜令史、堂前の幕の中に潛伏して待つ。二更に至りて、妻例の如く出でむとして、フト婢に問うて曰く、何を以つて此のあたりに生たる人の氣あるや。これを我が國にては人臭いぞと云ふ議なり。婢をして帚に燭し炬の如くにして偏く見せしむ。令史慌て惑ひて、傍にあり合ふ大なる甕の中に匐隱れぬ。須臾して妻はや馬に乘りてゆらりと手綱を掻繰るに、帚は燃したり、婢の乘るべきものなし。遂に件の甕に騎りて、もこ〳〵と天上す。令史敢て動かず、昇ること漂々として愈々高く、やがて、高山の頂一の蔚然たる林の間に至る。こゝに翠帳あり。七八人群飮むに、各妻を帶して並び坐して睦じきこと限なし。更闌けて皆分れ散る時、令史が妻も馬に乘る。婢は又其甕に乘りけるが心着いて叫んで曰く、甕の中に人あり。と。蓋を拂へば、昏惘として令史あり。妻、微醉の面、妖艷無比、令史を見て更に驚かず、そんなものはお打棄りよと。令史を突出し、大勢一所に、あはゝ、おほゝ、と更に空中に昇去りぬ。令史間の拔けた事夥し。呆れて夜を明すに、山深うして人を見ず。道を尋ぬれば家を去ること正に八百里程。三十日を經て辛うじて歸る。武者ぶり着いて、これを詰るに、妻、綾羅にだも堪へざる状して、些とも知らずと云ふ。又實に知らざるが如くなりけり。
唐の玄宗、南の方に狩す。百官司職皆これに從ふ中に、王積薪と云ふもの當時碁の名手なり。同じく扈從して行いて蜀道に至り、深谿幽谷の間にして一軒家に宿借る。其の家、姑と婦と二人のみ。
積薪に夕餉を調へ畢りて夜に入りぬ。一間なる處に臥さしめ、姑と婦は、二人戸を閉ぢて別に籠りて寢ねぬ。馴れぬ山家の旅の宿りに積薪夜更けて寢ね難く、起つて簷に出づ。時恰も良夜。折から一室處より姑の聲として、婦に云うて曰く、風靜に露白く、水青く、月清し、一山の松の聲蕭々たり。何うだね、一石行かうかねと。婦の聲にて、あゝ好いわねえ、お母さんと云ふ。積薪私に怪む、はてな、此家、納戸には宵から燈も點けず、わけて二人の女、別々の室に寢た筈を、何事ぞと耳を澄ます。
婦は先手と見ゆ。曰く、東の五からはじめて南の九の石と、姑言下に應じて、東の五と南の十二と、やゝありて婦の聲。西の八ツから南の十へ、姑聊も猶豫はず、西の九と南の十へ。
恁くて互に其の間に考案する隙ありき。さすがに斯道の達人とて、積薪は耳を澄して、密かに其の戰を聞居たり。時四更に至りて、姑の曰く、お前、おまけだね、勝つたが九目だけと。あゝ、然うですね、と婦の聲してやみぬ。
積薪思はず悚然として、直ちに衣冠を繕ひ、若き婦は憚あり、先ず姑の閨にゆき、もし〳〵と聲を掛けて、さて、一石願ひませう、と即ち嗜む處の嚢より局盤の圖を出し、黒白の碁子を以て姑と戰ふ。はじめ二目三目より、本因坊膏汗を流し、額に湯煙を立てながら、得たる祕法を試むるに、僅少十餘子を盤に布くや、忽ち敗けたり。即ち踞いて教を乞ふ。姑微笑みて、時に起きて座に跪坐たる婦を顧みて曰ふ、お前教へてお上げと。婦、櫛卷にして端坐して、即ち攻守奪救防殺の法を示す。積薪習ひ得て、將た天が下に冠たり。
それ、放たれたる女は、蜀道の良夜にあり。敢て目白の學校にあらざる也。
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「唐模樣」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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