『さびし』の伝統
斎藤茂吉




 短歌には形式上の約束があるために、新らしい言葉がなかなか入り難い。入れようとすると無理が出来て、その企の放棄せられることは、常に実作者のあひだに行はれてゐる事柄である。若しこれが約束に対して放肆になれば破調の歌となり自由律の歌になつてしまふのであるが、自由律を唱へる人々と雖、ときどき定型のやうなものを作つて見て、故郷を偲ぶごとき面持をしてゐる。

 さういふ風であるから、短歌でその観照なり表現なりが伝統的になり易いのは、先づ理論よりも実際が示してゐるのである。万事が新機軸を出し変化を試みてゐるあひだに立つて、歌では、いまだに、『あしひきの』とか、『たまきはる』とか、『ひさかたの』とかいふ枕詞まで使つて歌を作つてゐる。

 さういふことは時代に逆行するものだとして、伝統破壊を試みた人々は既に幾たりもゐた。明治新派和歌のうちで、与謝野氏等は、一時、『らむ』とか『けり』とかを使はぬことにして一首を纏めようと意図し、議論でもさう云ひ、また実行もしたものである。然るに、追々二たび元に帰つて、やはり、『らむ』とか『けり』とかを用ゐるやうになつた。歌の形式上の約束は、おのづからさういふ伝統を強ひるところがある。

 そんならば、言語表現の伝統は常に変らないかといふに、常に少しづつ変つて来てゐる。これは文学芸術に伝統主義を唱へる人でも認めて居ることであるが、歌に於てもその例に漏れない。

 このことを歌に拠つて証明し得るのであるけれども、今差当り、『さびし』といふ一語を借りて、その伝統の趣、その変化の趣を少しく記載することとする。


  題しらず

寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵を並べむ冬の山里 (西行法師)

  山家

寂しさに堪へてすむ身の山里は年ふるままに訪ふ人もなし (頓阿法師)

  山家郭公

寂しさに堪へて住めとや問ひすてて都に向ふ山ほととぎす (加藤枝直)

  信州数日

寂しさの極みに堪へて天地に寄するいのちをつくづくと思ふ (伊藤左千夫)


 斯く類似の、『寂しさに堪ふ』といふのがあるから、この事についてその伝統の経過を少しく記載することとする。



 万葉集ではサビシといはずに大部分サブシといつてゐた。佐夫思サブシ佐夫之サブシ左夫之サブシ佐夫斯サブシ佐夫志サブシといふ仮名書きのあるのによつても分かる。また、『不怜』の文字は旧訓にサビシと訓ませたが、真淵の万葉考でサブシが好からうといふ説を出し、諸家それに従ふやうになつてゐる。

 それなら、万葉集にサビシと訓ませたところは一つもないかといふに、ただ一つある。巻十五(三七三四)に、『遠き山せきも越え来ぬ今更に逢ふべきよしの無きが佐夫之佐サブシサ』といふ歌があつて、結句にサブシサの語があるが、この結句は、『一云。佐必之佐サビシサ』とあるから、これはサビシサと訓ませてゐる例である。この例があるために、サブシからサビシが転じたのであらうといふ説も可能となるわけである。この転化の説は、その道の専門家もさう云つて居る。

 さて、万葉のサブシが、新古今あたりのサビシと同じ語だとして、この語の持つ概念、語感に幾分違ふところがある。これは実例に拠るのが最も便利であるから、煩しいけれども次にその実例を抽出することにする。



そのつまの子は不怜弥可サブシミカおもひて寐らむ
(巻二。二一七)

楽浪ささなみ志我津しがつの子らが罷道まかりぢの川瀬の道を見れば不怜毛サブシモ (巻二。二一八)


大宮人の退まかり出て遊ぶ船には楫棹かぢさをも無くて不楽毛サブシモ漕ぐ人なしに (巻三。二五七)

山の端に味鳬あぢむらさわぎ行くなれど吾は左夫思恵サブシエ君にしあらねば (巻四。四八六)

今よりはの山道は不楽サブシけむ吾が通はむと思ひしものを (巻四。五七六)

神さぶと不欲いなにはあらずやや多く斯くして後に佐夫之サブシけむかも (巻四。七六二)

家に行きて如何にか吾がせむ枕づく嬬屋つまや佐夫斯久サブシクおもほゆべしも (巻五。七九五)

言ひつつも後こそ知らめとのしくも佐夫志サブシけめやも君いまさずして (巻五。八七八)

古に妹と吾が見しぬばたまの黒牛潟を見れば佐府下サブシモ (巻九。一七九八)

秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども不怜サブシ君にしあらねば (巻十。二二九〇)

うつくしと念ふ吾妹をいめに見てきてさぐるに無きが不怜サブシサ (巻十二。二九一四)

さざれ浪浮きて流るる泊瀬河よるべき磯の無きが不怜也サブシサ (巻十三。三二二六)

荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼たぬ不楽有哉サブシクモアルカ (巻十六。三八六三)


下恋したこひに何時かも来むと待たすらむこころ左夫之苦サブシク
(巻十七。三九六二)

我背子が国へましなばほととぎす鳴かむ五月さつき佐夫之家牟サブシケムかも (巻十七。三九九六)

桜花今ぞ盛と人はいへど我は佐夫之毛サブシモ君とし在らねば (巻十八。四〇七四)


何時しかも使の来むと待たすらむ心左夫之苦サブシク南風みなみふき
(巻十八。四一〇六)


ほととぎす弥頻いやしき喧きぬ独のみ聞けば不怜毛サブシモ
(巻十九。四一七七)

吾のみし聞けば不怜毛サブシモほととぎす丹生にふの山辺にい行き鳴かなも (巻十九。四一七八)


 上の例を見ると、その多くは、有るべき物の無い、共にゐるべきもののゐない、一たびゐた者が去つた、従つて独のみ居るといふ、充実せられぬ、空虚感から来る、一種特有な沁々とした不快を伴ふ消極的感情をあらはすのに、サブシといふ語を用ゐてゐるやうである。それであるから、サブシといふ感情は、いかにも身体(肉体)に即して居り、覚官的であり、常に、対者を予想し、対者の肉体をも予想してゐるやうに思へる。従つて、万葉集のサブシは、覚官的にして切実である。

 人麿の、『川瀬の道を見ればさぶしも』(二一八)は、単に川瀬を通つて行く道といふ自然の光景のやうに見えるが、実は、志賀津のをとめの死んでゆく身体、その美女そのものを予想してゐるのだから、ただほのぼのとした、後世のサビシと違ふのであつて、覚官的にやはり切実なのである。また、『志賀の海人の大浦田沼はさぶしくもあるか』(三八六三)も風景のみのやうに見えるが、実は、『荒雄らが行きにし日より』といふのが関連してゐるので、やはり荒雄等の去つたといふ空虚感をあらはしてゐるのであるから、荒雄等の肉体が写象として欠けていてはならないのである。万葉集のサブシにはさういふ特色があると思ふ。

 斯く、覚官的に切実な感情であるから、広義のカナシと相通ずることがある。例へば、巻一(二九)の人麿作長歌の終の句は、『百磯城ももしきの大宮処見者ミレバ悲毛カナシモ』であるが、『或云、見者ミレバ左夫思母サブシモ』ともなつてゐるから、カナシとサブシと同じところに使つてゐるのである。また、巻三(四三四)に、『風速かざはやの美保の浦廻うらみ白躑躅しらつつじ見れども不怜サブシ亡き人思へば』の第四句は、『或云、見者ミレバ悲霜カナシモ無き人思ふに』となつてゐる。即ち茲では、サブシとカナシと一つ処に用ゐられてゐる。なほ、巻九の紀伊国にて作歌四首の中、(一七九六)には『黄葉もみぢばの過ぎにし子等と携はり遊びし磯を見れば悲裳カナシモ』。(一七九八)には、『いにしへに妹と吾が見しぬばたまの黒牛潟を見れば佐府下サブシモ』とあつて、同じやうな感情を、一つはカナシといひ一つはサブシと云つてゐるのである。カナシは情の切なるものであり、特に万葉集でのカナシの用例は、肉体的であり、人間的であるから、サブシの用例もまた肉体的であり、人間的である。

 この人間的だといふことは、後世の用例の天然的に相対し、覚官的・情緒的だといふのは、抽象的・情調的だといふのに相対立せしめることが出来る。



 古今集、後撰集、拾遺集、金葉集、詞花集にはサビシの用例は少く、後拾遺集には六七首あるが、先づ概して少い方である。


〔古今集〕

河原のおほいまうち君の身まかりての秋、かの家のほとりをまかりけるに、紅葉の色まだ深くもならざりけるを見てかの家によみていれたりける

打ちつけに寂しくもあるか紅葉も主なき宿は色なかりけり (近院の右のおほいまうち君)

〔後撰集〕

独侍りける頃人の許よりいかにぞととぶらひて侍りければ朝顔の花につけて遣はしける

夕暮の寂しきものは朝顔の花をたのめる宿にぞありける (読人不知)

〔拾遺集〕

河原院にて荒れたる宿に秋来るといふこころを人々よみ侍りけるに

八重葎しげれる宿の寂しきに人こそ見えね秋は来にけり (恵慶法師)

夏柞の紅葉のちり残りたりけるにつけて女五のみこのもとに

時ならで柞の紅葉散りにけりいかにこのもと寂しかるらむ (天暦御製)

〔後拾遺集〕

広沢の月を見てよめる

すむ人もなき山ざとの秋の夜は月の光もさびしかりけり (藤原範永朝臣)

   ○

花見にと人は山べに入りはてて春は都ぞさびしかりける (道命法師)

右兵衛督俊実子におくれて歎き侍りける頃とぶらひにつかはしける

いかばかり寂しかるらむ木枯の吹きにし宿の秋の夕ぐれ (右大臣北方)

親なくなりて山寺に侍りける人のもとにつかはしける

山里の柞の紅葉散りにけり木の本いかにさびしかるらむ (読人しらず)

題しらず

寂しさに煙をだにも断たじとて柴をりくぶる冬の山ざと (和泉式部)

月夜中納言定頼が許に遣はしける

板ま荒みあれたる宿の寂しきは心にもあらぬ月を見る哉 (弾正尹清仁親王)

良暹法師の許につかはしける

おもひやる心さへこそ寂しけれ大原山のあきのゆふぐれ (藤原国房)

〔金葉集〕

 ○

道もなくつもれる雪に跡たえて古里いかに寂しかるらむ (皇后宮肥後)

〔詞花集〕

山家月をよめる

さびしさに家出しぬべき山里を今宵の月に思ひとまりぬ (源道済)


 以上の歌を読むに、大体自然の風光とか、草木とかの有様について、『さびし』の語を使つてゐるが、その背景には、人の死んだこととか、孤独でゐることとか、さういふ人間的な要素が未だ残つてゐる。併しさういふ人間的、肉体的な要素が追々と奥の方に隠れ、辛うじて歌の詞書に拠つて知ることが出来るほどである。而して表面に立つものは自然の風光で、『木枯の吹きにし宿の秋の夕ぐれ』とか、『大原山の秋のゆふぐれ』とかいふやうになり、此等の歌集につづく千載集、新古今集などの『さびし』に移行してゐるのである。

 前言した如く、此等の例には、『身まかり』とか、『独侍りける』とか、『子におくれて』とか、『親なくなりて』とかいふ、人間的な要素の籠つてゐる部分と、『荒れたる宿に秋来る』とか、『柞の紅葉ちり残りたる』とか、『山家月をよめる』とかいふ、天然風光の部分と、相交錯してゐることに注意し得る。『誰々のもとに遣はしける』といふのでも、相手となるべき人間のゐないことを示してゐるので、万葉集の場合ならば、多く恋人と一しよにゐないことを示してゐるので、それの一種のモデイフイカチヨンと看做すことが出来る。また、『煙をだにも断たじとて』とか、『柞の紅葉散りにけり』といふやうな心は、あるべきものの無い、空虚に本づく一種の消極的感情で、やはり万葉時代のサブシのモデイフイカチヨンと看做し得るのである。

 即ち、サブシ・サビシの用語は大体の伝統を追尋することが出来るが、時代のおもかげと共に幾分づつの変化を来してゐることを見得るのである。



 千載集、新古今集になると、『さびし』の用例が頓に増加して来てゐる。今その一部分を次に記すことにする。詞書、作
者略す


〔千載集〕

三室山おろす嵐のさびしきにつまとふ鹿の声たぐふなり

松風の音だに秋は寂しきに衣うつなりたまがはの里

夕されば小野の萩原吹く風に寂しくもあるか鹿の鳴くなる

寂しさを何にたとへむを鹿なく深山のさとの明方の空

寂しさにあはれもいとどまさりけり独ぞ月は見るべかりける

山ざとの筧の水の氷れるは音きくよりも寂しかりけり

寂しさに浮世をかへて忍ばずば独聞くべき松の風かは

〔新古今集〕

つくづくと春の眺めのさびしきはしのぶに伝ふ軒の玉水

夕づく日さすや庵の柴の戸にさびしくもあるか蜩のこゑ

寂しさはその色としもなかりけり槙たつ山の秋の夕ぐれ

ふか草の里の月影さびしさも住みこしままの野辺の秋風

寂しさはみ山の秋の朝ぐもり霧にしをるる槙の下つゆ

降る雪にたく藻の煙かきたえて寂しくもあるか塩竈の浦


 此等の例でも、『寂しきに』、『寂しくもあるか』と、『寂しさ』とは、動詞に使つたのと名詞に使つたのとの差別のみならず、その感情の色調にも違ふところがあるが、それは一つ一つによつて知ることが出来る。

『寂しさ』と名詞になると、縹渺とした色調で、ここに抜いた千載集の、『寂しさにあはれもいとどまさりけり独ぞ月は見るべかりける』や、西行の、『松風の音あはれなる山里にさびしさ添ふるひぐらしのこゑ』などのごとくに、『あはれ』といふ語とも相交錯せしめて、その時その時の心を表はしたものもある。

 この時代の用例になると、万葉集時代のものと違つて来てゐる。結論は稍器械的・模型的になるが、心的・抽象的になり、天然的になり情調的に縹渺として来てゐるから、万葉時代の肉体的に切実なものとは違つてゐる。此がまた一つのモデイフイカチヨンであつて、それに働き掛けた要素は外国文学(漢文学)と仏教と平安朝の生活と平安末期から鎌倉へかけての戦争などであらう。

 和漢朗詠集に載つた白楽天の、『前頭には更に蕭条たるものあり』といふ句と、定家の、『見わたせば花も紅葉もなかりけり』や、西行の、『心なき身にもあはれは知られけり』と、相通ずるやうなものである。此等の変化の跡と環境との関係は、思想の豊かな人々が、私の提供したこのテーマを精細に整理して呉れるといい。そして結論は大体私の云つたとほりで大きい間違は無いつもりである。

 それから、此処に抜いた歌は、千載・新古今の二勅撰集に限つたが、その他の勅撰集にも用例は多いし、私家集になるともつともつと多い。この文章のはじめに頓阿の一首を抜いて置いたが、その一首の前後にも、『さびしさは忍びこそせめ厭ひきて世をうぢ山の嶺の松風』。『さびしさは思ひしままの宿ながら猶聞きわぶる軒の松風』。『さびしさを忍びやかねむ山ふかみ世を憂きものと思ひ果てては』。『さびしさを思ひこそやれ山里はともと聞きける松の嵐に』。『さびしさを老となるまで忍び来ぬ今はみ山に住みや果てまし』がある。これはほんの一例に過ぎぬが、当時の歌人が『さびしさ』に対した態度の一般を知ることが出来る。



 徳川時代の歌を見ても、『さびし』の語を用ゐたのを幾つも拾ふことが出来る。それが新古今系統のものに多く、万葉系統のもの例へば賀茂真淵のものなどにも見当るが、それは真淵の中の新古今風の歌に多い。例へば、『津のくにの難波のあしの枯れぬればこと浦よりも寂しかりけり』。『冬がれに里のわらやのあらはれてむら鳥すだく梢さびしも』。『野も山も冬はさびしと思ひけり雪に心のうかるるものを』。『塩やだにまれなる浦のよそめには煙のすゑも寂しかりけり』などであつて、万葉調に移り得ない前の歌風のものである。併し全体としては、『さびし』の用例は少い。

 田安宗武の家集天降言を読むに、やはり数首の用例を拾ふことが出来るが、これも全体としては少い方であり、『さびしも』と止めたのが多く、新古今流の『さびし』と稍違つてゐる。即ち次の如くである。


夏過ぎて秋さりくれば我が宿の荻の葉そよぐ音のさびしも (田安宗武)

松かぜにたぐへてさびし玉川の里の少女が衣うつおと (同)

風冴ゆる池の汀の枯蘆の乱れふすなる冬はさびしも (同)

楯並めてとよみあひにし武士の小手指原は今はさびしも (同)


 それから、鹿持雅澄の歌は、純万葉調のものであるから、サビシの例は一つも無いやうで、サブシの例としては、『霍公鳥なかる国にはかくばかり照れる月夜もさぶしからまし』があるのである。平賀元義の歌もまた純万葉調であるが、これも用例が極めて少く、『雪ふりていたも寂しき夕暮に百舌鳥が音遠し逢崎の里』があるくらゐである。これは、意識して態々さうしたといふよりも、万葉調の歌を作つて居れば、新古今調の歌は無くなり、従つて、新古今流の『さびし』の用例が無くなるといふ結果となるのである。

 明治になつてから、古今・新古今を宗とする流派の歌には、『さびし』の用例は可なり多い。万葉を学んだ正岡子規の歌にはその用例は少く、『森深み山鳥鳴きてたまたまに人に逢ふさへ淋しかりけり』。『人取りてくらひきといふぬす人の住みにし森を行けばさぶしも』などで、新古今流の『さびし』といふほど深い意味は無く、普通平凡な意味に使つてゐる。子規は寧ろ客観的な人であつたから、自然『さびし』といふ語から遠ざかり、新古今流の歌からも遠ざかつたので、益々この語の用例が少くなつたものと見える。

 然るに、その門人の伊藤左千夫の歌になると、サビシ、サブシの用例が増加して来てゐる。今実例を少しく抽いて見よう。


かつしかの田中にいつく神の森の松を少み宮居さぶしも

森中のあやしき寺の笑ひごゑ夜の木霊にひびきて寂し

一花のくれなゐ牡丹床にさせば冬の庵もさぶしくもあらず

かぎろひの夕畑蕎麦そばの白き花の寒けく見えてこころさぶしも

青野原川ひと筋のながき日をものさびしらに鳴く蛙かも

鳥が音も夕ぐれ寂しのこりたる霜葉の映えに道いそぎつつ

軒の端の梅の下枝の花遠みいたも寂しも吾がひとり居り

妻ごひは誰もするともただ一日居ねば寂しみ我もするかも

山人のつとの兎に冬ごもるいほりの七日さびしくもなし

こもりくの谷の若葉の繁り深みかはづころろ鳴く声さびしらに

なげしなる槍の塗柄に血潮手に握れるあとを見るが寂しも

わくらはに寂しき心湧くといへど児等がさやけき声に消につつ

秋草のはなのくさぐさ捧ぐれど色はひと日を保たず寂し

日も好きに梅の寂しさ世の人はあまりに春にうとくこそあれ

世の中を憂けく寂しく病む人ら暫し茲に居れだありやの園

冬の日の寒きくもりを物もひの深きこころに寂しみて居り

よみにありて魂静まれる人らすらもこの寂しさに世をこふらむか

帰りせく寂しき胸に霜枯の浅間のふもと日も暮るるかも

しらしらと胡蝶花しやがの葉ひらに降りし花あはれ寂しゑわが心から


 此等の例を見るに、左千夫の『さびし』の用ゐ方は、万葉集の『さぶし』に相応するものと、新古今集時代前後の『さびし』の心持をも混へてゐるやうに思へる。これが、雅澄や元義やの使つた例と違ふ点である。



 右に大体、万葉集から伊藤左千夫までの実例を示した。そして此処に示さなかつたものにも、まだ多くあるが、差し向き此処に示すことを罷める。そして次の二首を示して愚見を簡単に云ふこととする。


題しらず

寂しさに堪へたる人の又もあれないほをならべむ冬の山里 (西行法師)

信州数日

寂しさの極みに堪へて天地に寄するいのちをつくづくと思ふ (伊藤左千夫)


 西行のは山家集と新古今巻六に載つて居り、左千夫のは明治四十二年の作である。そして、この二つを見れば、その外形に於ても、その心に於ても相通ずるものがある。そしてこれが『伝統』によつて結びつけられてゐることに気づくのである。

 西行の『さびし』は、万葉時代の『さぶし』を通過して来て、天然の寂寥相に没入して行つた新古今時代の特殊なものであることは既に云つたごとくである。

 然るに、その後万葉調歌人によつて、一時さういふ新古今時代の『さびし』が却けられつつあつて、寧ろ万葉時代の『さぶし』に通ずる『さびし』が復活しつつあつたのであるが、同じ万葉調歌人の伊藤左千夫等のものになると、やはり万葉の『さぶし』に通ふ『さびし』に、新古今時代の『さびし』をも加味するに至つた。これが此処に並べた西行の歌の語と似てゐるのを見ても分かるのである。そして左千夫の場合は、正岡子規在世時代よりも、子規歿後、親鸞に傾倒し、「新仏教」同人となり、人生をいひ信仰を云ふに至つてから後のことであるやうにおもはれる。

 此処でもう一たび繰返すと、万葉時代の『さぶし』は、肉体的・人間的であつたが、それが『伝統』してゐるあひだに、第一のモデイフイカチヨンを経て、心的・抽象的・天然的となつた。これが新古今時代の『さびし』の傾向である。それが幾時代かの『伝統』を経てゐるうちに、万葉の復古を挿入しつつ新古今時代の用例を加味して第二のモデイフイカチヨンが行はれた。これが此処に示した左千夫等の用例である。

 左千夫等以後、もつと若い人々によつて作られた歌の中に、『さびし』の例は幾つもあるが、これにはまた西洋の用例の加味もあるやうである。例へば独逸語のアインザームといふ用例のごときである。斯くの如くにして、何時までも続く伝統の『さびし』といふ語も、第三第四乃至第何番目ものモデイフイカチヨンを経得ることとなるのである。その関係は微妙でありまた漸次的であるから、今さし当つて、どういふモデイフイカチヨンをなし得るか予言することが出来ない。

 そして、この『さびし』の語は、人間本来のある切実な心の状態をあらはすのに適当な語であるから、縦ひ色調ニユアンス上の細かい変化はあつても、根本に於ては依然として『伝統』を続けることが出来るであらう。特に短歌のごとき形式約束の堅いものに於てはこの予想は先づ動かないと謂つていい。

 新古今時代に於けるこの語の色調上モデイフイカチヨンは、外来文学・外来思想によつて働きかけられたものであるが、それが俳諧の方で芭蕉などによつて継承せられ、平安朝以後の、悲哀、寂寥に結合せられた日本国民の感情が、軍歌にも一種の哀調を好むといふ風になつて、この語の伝統も長くつづくべき筈である。

『うき我を淋しがらせよ閑古鳥』といふ芭蕉の観照は、『急がるる深山の奥の習はしに寂しかれとや訪ふ人のなき』といふ新千載の歌にあひ通ふので、この歌の中にある、『習はし』とはやがて習性であり傾向であり、我々民族のあひだには既に牢として抜くべからざるものになつてゐるやうにおもへる。

底本:「日本の名随筆63 万葉(三)」作品社

   1988(昭和63)年125日第1刷発行

   1991(平成3)年91日第5刷発行

底本の親本:「斎藤茂吉全集 第一四巻」岩波書店

   1975(昭和50)年7月発行

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2010年530日作成

2011年415日修正

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