麻を刈る
泉鏡太郎
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明治十二三年頃の出版だと思ふ──澤村田之助曙双紙と云ふ合卷ものの、淡彩の口繪に、黒縮緬の羽織を撫肩に引つ掛けて、出の衣裝の褄を取つた、座敷がへりらしい、微醉の婀娜なのが、俥の傍に彳ずんで、春たけなはに、夕景色。瓦斯燈がほんのり點れて、あしらつた一本の青柳が、裾を曳いて、姿を競つて居て、唄が題してあつたのを覺えて居る。曰く、(金子も男も何にも入らぬ微醉機嫌の人力車)──少々間違つて居るかも知れないが、間違つて居れば、其の藝妓の心掛で、私の知つた事ではない。何しろ然うした意氣が唄つてあつた。或は俥のはやりはじめの頃かも知れない。微醉を春の風にそよ〳〵吹かせて、身體がスツと柳の枝で宙に靡く心持は、餘程嬉しかつたものと見える。
今時バアで醉拂つて、タクシイに蹌踉け込んで、いや、どツこいと腰を入れると、がた、がたんと搖れるから、脚を蟇の如く踏張つて──上等のは知らない──屋根が低いから屈み腰に眼を据ゑて、首を虎に振るのとは圖が違ふ。第一色氣があつて世を憚らず、親不孝を顧みざる輩は、男女で相乘をしたものである。敢て註するに及ばないが、俥の上で露呈に丸髷なり島田なりと、散切の……惡くすると、揉上の長い奴が、肩を組んで、でれりとして行く。些と極端にたとへれば、天鵞絨の寢臺を縱にして、男女が處を、廣告に持歩行いたと大差はない。
自動車に相乘して、堂々と、淺草、上野、銀座を飛ばす、當今の貴婦人紳士と雖も、これを見たら一驚を吃するであらう。誰も口癖に言ふ事だが、實に時代の推移である。だが其のいづれの相乘にも、齊しく私の關せざる事は言ふまでもない。とにかく、色氣も聊か自棄で、穩かならぬものであつた。
──(すきなお方と相乘人力車、暗いとこ曳いてくれ、車夫さん十錢はずむ、見かはす顏に、その手が、おつだね)──恁う云ふ流行唄さへあつた。おつだね節と名題をあげたほどである。何にしろ人力車はすくなからず情事に交渉を持つたに相違ない。
金澤の人、和田尚軒氏著。郷土史談に採録する、石川縣の開化新開、明治五年二月、其の第六號の記事に、
先頃大阪より歸りし人の話に、彼地にては人力車日を追ひ盛に行はれ、西京は近頃までこれなき所、追々盛にて、四百六輌。伏見には五十一輌なりと云ふ。尚ほ追々増加するよし……其處で、東京府下は總數四萬餘に及ぶ。
と記して、一車の税銀、一ヶ月八匁宛なりと載せてある。勿論、金澤、福井などでは、俵藤太も、頼光、瀧夜叉姫も、まだ見た事もなかつたらう。此の東京の四萬の數は多いやうだけれども、其の頃にしろ府下一帶の人口に較べては、辻駕籠ほどにも行渡るまい、然も一ヶ月税銀八匁の人力車である。なか〳〵以て平民には乘れさうに思はれぬ。時の流行といへば、別して婦人が見得と憧憬の的にする……的となれば、金銀相輝く。弓を學ぶものの、三年凝視の瞳には的の虱も其の大きさ車輪である。從つて、其の頃の巷談には、車夫の色男が澤山あつた。一寸岡惚をされることは、やがて田舍まはりの賣藥行商、後に自動車の運轉手に讓らない。立志美談車夫の何とかがざらにあつた。
しばらくの間に、俥のふえた事は夥しい。
人力車──腕車が、此の亻に車と成つた、字は紅葉先生の創意であると思ふ。見附を入つて、牛込から、飯田町へ曲るあたりの帳場に、(人力)を附着けて、一寸(分)の字の形にしたのに、車をつくりに添へて、大きく一字にした横看板を、通りがかりに見て、それを先生に、私が話した事がある。「そいつは可笑しい。一寸使へるな。」と火鉢に頬杖をつかれたのを覺えて居る。
……更めて言ふまでもないが、車賃なしの兵兒帶でも、辻、巷の盛り場は申すまでもない事、待俥の、旦那御都合で、を切拔けるのが、てくの身に取り大苦勞で。どやどやどや、がら〳〵と……大袈裟ではない、廣小路なんぞでは一時に十四五臺も取卷いた。三橋、鴈鍋、達磨汁粉、行くさき眞黒に目に餘る。「こいつを樂に切拔けないぢや東京に住めないよ。」と、よく下宿の先輩が然う言つた。
十四五年前、いまの下六番町へ越した頃も、すぐ有島家の黒塀外に、辻車、いまの文藝春秋社の前の石垣と、通を隔つた上六の角とに向ひ合ひ、番町學校の角にも、づらりと出て居て、ものの一二町とはない處に、其のほかに尚ほ宿車が三四軒。
──春は櫻の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、續いて、秋の新仁和賀には、十分間に車の飛ぶこと、此の通りのみにて七十五輌。
と、大音寺前の姉さん、一葉女史が、乃ち袖を卷いて拍子を取つた所以である。
──十分間に七十五輌、敢て大音寺前ばかりとは云はない。馬道は俥で填まつた。淺草の方の悉い事は、久保田さん(万ちやん)に聞くが可い。……山の手、本郷臺。……切通しは堰を切つて俥の瀧を流した。勿論、相乘も渦を卷いて、人とともに舞つて落ちる、江智勝、豐國あたりで、したゝかな勢に成つたのが、ありや〳〵、と俥の上で、蛸の手で踊つて行く。でつかんしよに、愉快ぶし、妓夫臺談判破裂して──進めツ──いよう、御壯、どうだい隊長と、喚き合ふ。──どうも隊長。……まことに御壯。が、はずんで下りて一淀みして𢌞る處から、少し勢が鈍くなる。知らずや、仲町で車夫が、小當りに當るのである。「澄まねえがね、旦那。」甚しきは楫を留める。彼處を拔けると、廣小路の角の大時計と、松源の屋根飾を派手に見せて、又はじめる。「ほんの蝋燭だ、旦那。」さて、最も難場としたのは、山下の踏切の處が、一坂辷らうとする勢を、故と線路で沮めて、ゆつくりと強請りかゝる。處を、辛うじて切拔けると、三島樣の曲角で、又はじめて、入谷の大池を右に、ぐつと暗くなるあたりから、次第に凄く成つたものだ──と聞く。
……實は聞いただけで。私の覺えたのは……そんな、そ、そんな怪しからん場所ではない。國へ往復の野路山道と、市中も、山まはりの神社佛閣ばかり。だが一寸こゝに自讚したい事がある。酒は熱燗のぐい呷り、雲助の風に似て、茶は番茶のがぶ飮み。料理の食べ方を心得ず。お茶碗の三葉は生煮えらしいから、そつと片寄せて、山葵を活きもののやうに可恐がるのだから、われながらお座がさめる。さゝ身の煮くたらしを、ほう〳〵と吹いてうまがつて、燒豆府ばかりを手元へ取込み、割前の時は、鍋の中の領分を、片隅へ、群雄割據の地圖の如く劃つて、眞中へ埋た臟もつを、箸の尖で穴をあけて、火はよく通つたでござらうかと、遠目金を覗くやうな形をしたのでは大概岡惚も引退る。……友だちは、反感と輕侮を持つ。精々同情のあるのが苦笑する。と云つた次第だが……たゞ俥に掛けては乘り方がうまい、と──最も御容子ではない──曳いてる車夫に讚められた。拾ひ乘だと、樹の下、塀續きなぞで、わざ〳〵振向いて然う言つた事さへある。
乘るのがうまいと言ふ下から、落ちることもよく落ちた。本郷の菊坂の途中で徐々と横に落ちたが寺の生垣に引掛つた、怪我なし。神田猿樂町で、幌のまゝ打倒れた、ヌツと這出る事は出たが、氣つけの賓丹を買ふつもりで藥屋と間違へて汁粉屋へ入つた、大分茫としたに違ひない、が怪我なし。眞夏、三宅坂をぐん〳〵上らうとして、車夫が膝をトンと支くと蹴込みを辷つて、ハツと思ふ拍子に、車夫の背中を跨いで馬乘りに留まつて「怪我をしないかね。」は出來が可い。師走の算段に驅け𢌞つて五味坂で投出された、此の時は、懷中げつそりと寒うして、心、虚なるが故に、路端の石に打撞かつて足の指に怪我をした。最近は……尤も震災前だが……土橋のガード下を護謨輪で颯と言ふうちに、アツと思ふと私はポンと俥の外へ眞直に立つて、車夫は諸膝で、のめつて居た。蓋し、期せずして、一つ宙返りをして車夫の頭を乘越したのである。拂ふほど砂もつかない、が、此れは後で悚然とした。……實の處今でもまだ吃驚してゐる。
要するに──俥は落ちるものと心得て乘るのである。而して、惡道路と、坂の上下は、必ず下りて歩行く事──
これ、當流の奧儀である、と何も矢場七、土場六が、茄子のトントンを密造する時のやうに祕傳がるには及ばない。──實は、故郷への往復に、其の頃は交通の必要上止むを得ず幾度も長途を俥にたよつたため、何時となく乘るのに馴れたものであらうと思ふ。……
汽車は、米原を接續線にして、それが敦賀までしか通じては居なかつた。「むき蟹。」「殼附。」などと銀座のはち卷で旨がる處か、ヤタ一でも越前蟹(大蟹)を誂へる……わづか十年ばかり前までは、曾席の膳に恭しく袴つきで罷出たのを、今から見れば、嘘のやうだ。けれども、北陸線の通じなかつた時分、舊道は平家物語、太平記、太閤記に至るまで、名だたる荒地山、歸、虎杖坂、中河内、燧ヶ嶽。──新道は春日野峠、大良、大日枝の絶所で、其の敦賀金ヶ崎まで、これを金澤から辿つて三十八里である。蟹が歩行けば三年かゝる。
最も、加州金石から──蓮如上人縁起のうち、嫁おどしの道場、吉崎の港、小女郎の三國へ寄つて、金ヶ崎へ通ふ百噸以下の汽船はあつた。が、事もおろかや如法の荒海、剩へ北國日和と、諺にさへ言ふのだから、浪はいつも穩かでない。敦賀は良津ゆゑ苦勞はないが、金石の方は船が沖がかりして、波の立つ時は、端舟で二三里も揉まれなければ成らぬ。此だけでも命がけだ。冬分は往々敦賀から來た船が、其處に金石を見ながら、端舟の便がないために、五日、七日も漾ひつゝ、果は佐渡ヶ島へ吹放たれたり、思切つて、もとの敦賀へ逆戻りする事さへあつた。
上京するのに、もう一つの方法は、金澤から十三里、越中伏木港まで陸路、但し倶利伽羅の嶮を越す──其の伏木港から直江津まで汽船があつて、すぐに鐵道へ續いたが、申すまでもない、親不知、子不知の沖を渡る。……此の航路も、おなじやうに難儀であつた。もしこれを陸にしようか。約六十里に餘つて遠い。肝心な事は、路銀が高値い。
其處で、暑中休暇の學生たちは、むしろ飛騨越で松本へ嶮を冒したり、白山を裏づたひに、夜叉ヶ池の奧を美濃路へ渡つたり、中には佐々成政のさら〳〵越を尋ねた偉いのさへある。……現に、廣島師範の閣下穗科信良は──こゝに校長たる其の威嚴を傷つけず禮を失しない程度で、祝意に少し揶揄を含めた一句がある。本來なら、別行に認めて、大に俳面を保つべきだが、惡口の意地の惡いのがぢき近所に居るから、謙遜して、二十字づめの中へ、十七字を割込ませる。曰く、千兩の大禮服や土用干。──或は曰く──禮服や一千兩を土用干──此の大禮服は東京で出來た。が、帽を頂き、劍を帶び、手套を絞ると、坐るのが變だ。床几──といふ處だが、(──親類の家で──)其の用意がないから、踏臺に嵬然として腰を掛けた……んぢや、と笑つて、當人が私に話した。夫人、及び學生さん方には内證らしい。──その學生の頃から、閣下は學問も腹も出來て居て、私のやうに卑怯でないから、泳ぎに達しては居ないけれども、北海の荒浪の百噸以下を恐れない。恐れはしないが、不思議に船暈が人より激しい。一度は、餘りの苦しさに、三國沿岸で……身を投げて……いや、此だと女性に近い、いきなり飛込んで死なうと思つた、と言ふほどであるから、一夏は一人旅で、山神を驚かし、蛇を蹈んで、今も人の恐るゝ、名代の天生峠を越して、あゝ降つたる雪かな、と山蛭を袖で拂つて、美人の孤家に宿つた事がある。首尾よく岐阜へ越したのであつた。
道は違ふが──話の次でだ。私も下街道を、唯一度だけ、伏木から直江津まで汽船で渡つた事がある。──後にも言ふが──いつもは件の得意の俥で、上街道越前を敦賀へ出たのに──爾時は、旅費の都合で。……聞いて、眞實にはなさるまい、伏木の汽船が、兩會社で激しく競爭して、乘客爭奪の手段のあまり、無賃銀、たゞでのせて、甲會社は手拭を一筋、乙會社は繪端書三枚を景物に出すと言ふ。……船中にて然やうな事は申さぬものだが、龍宮場末の活動寫眞が宣傳をするやうな風説を聞いて、乘らざるべけんやと、旅費の苦しいのが二人づれで驅出した。
此の侶伴は、後の校長閣下の事ではない。おなじく大學の學生で暑中休暇に歸省して、糠鰊……易くて、量があつて、舌をピリヽと刺戟する、糠に漬込んだ鰊……に親んで居たのと一所に、金澤を立つて、徒歩で、森下、津幡、石動。……それよりして、倶利伽羅に掛る、新道天田越の峠で、力餅を……食べたかつたが澁茶ばかり。はツ〳〵と漸と越して、漫々たる大きな川の──それは庄川であらうと思ふ──橋で、がつかりして弱つて居た處を、船頭に半好意で乘せられて、流れくだりに伏木へ渡つた。樣子を聞くと、汽船會社の無錢で景物は、裏切られた。何うも眞個ではないらしいのに、がつかりしたが、此の時の景色は忘れない。船が下流に落ちると、暮雲岸を籠めて水天一色、江波渺茫、遠く蘆が靡けば、戀々として鷺が佇み、近く波が動けば、アヽ鱸か? 鵜が躍つた。船頭が辨當を使ふ間、しばらくは船は漂蕩と其の流るゝに任せて、やがて、餉を澄まして、ざぶりと舷に洗ひ状に、割籠に掬むとて掻く水が、船脚よりは長く尾を曳いて、動くもののない江の面に、其船頭は悠然として、片手で艫を繰りはじめながら、片手で其の水を飮む時、白鷺の一羽が舞ひながら下りて、舳に留まつたのである。
いや、そんな事より、力餅さへ食はぬ二人が、辨當のうまさうなのに、ごくりと一所に唾をのんでお腹が空いて堪らない。……船頭の菜も糠鰊で。……
これには鰯もある──糠鰯、且つ恐るべきものに河豚さへある。這個糠漬の大河豚。
何と、此の糠河豚を、紅葉先生に土産に呈した男がある。たべものに掛けては、中華亭の娘が運ぶ新栗のきんとんから、町内の車夫が内職の駄菓子店の鐵砲玉まで、趣を解しないでは置かない方だから、遲い朝御飯に茶漬けで、さら〳〵。しばらくすると、玄關の襖が、いつになく、妙に靜に開いて、懷手で少し鬱した先生が、
「泉。」
「は。」
「あの、河豚は、お前も食つたか。」
「故郷では、惣菜にしますんです。」
「おいら、少し腹が疼むんだがな。」
「先生、河豚に中害つて、疼む事はないんださうです。」
「あゝ、然うか。」
すつと、其のまゝ二階へ、──
いま、我が瀧太郎さんは、目まじろがず、一段と目玉を大きくして、然も糠にぶく〳〵と熟れて甘い河豚を食ふから驚く。
新婚當時、四五年故郷を省みなかつた時分、穗科閣下は、あゝ糠鰊が食ひたいな、と暫々言つて繰返した。
「食はれるものかね。」
「いや、然うでない、あれは珍味ぢやぞ。」
その後歸省して、新保村から歸つて、
「食つたよ。──食つたがね、……何うも何ぢや、思つたほどでなかつたよ。」
然うだらう。日本橋の砂糖問屋の令孃が、圓髷に結つて、あなたや……鰺の新ぎれと、夜行の鮭を教へたのである。糠鰊がうまいものか。
さて、其の晩は伏木へ泊つた。
夜食の膳で「あゝあ、何だい此れは?」給仕に居てくれた島田髷の女中さんが、「鯰ですの。」鯰の魚軒、冷たい綿屑を頬張つた。勿論、宿錢は廉い。いや、羹も食はず、鯰を吐いた。洒落ではなしに驚いた。港を前に鯰の皿、うらなつて思ふに、しけだなあ。──風の模樣は……まあ何だらうと、此弱蟲が悄々と、少々ぐらつく欄干に凭りかゝると、島田がすつと立つて……九月初旬でまだ浴衣だつた、袖を掻い込むで、白い手を海の上へさしのべた。手の半帕が屋根を斜に、山の端へかゝつて颯と靡いた。「此の模樣では大丈夫です。」私は嬉しかつた。
おなじ半帕でも、金澤の貸本屋の若妻と云ふのが、店口の暖簾を肩で分けた半身で、でれりと坐つて、いつも半帕を口に啣へて、うつむいて見せた圖は、永洗の口繪の艷冶の態を眞似て、大に非なるものであつたが、これは期せずして年方の插繪の清楚であつた。
處で汽船は──うそだの、裏切つたのと、生意氣な事を言ふな。直江津まで、一人前九錢也。……明治二十六七年頃の事とこそいへ、それで、午餉の辨當をくれたのである。器はたとへ、蓋なしの錻力で、石炭臭い菜が、車麩の煮たの三切にして、「おい來た。まだ、そつちにもか──そら來た。」で、帆木綿の幕の下に、ごろ〳〵した連中へ配つたにせよ。
日一杯……無事に直江津へ上陸したが、時間によつて汽車は長野で留まつた。扇屋だつたか、藤屋だつたか、土地も星も暗かつた。よく覺えては居ないが、玄關へ掛ると、出迎へた……お太鼓に結んだ女中が跪いて──ヌイと突出した大學生の靴を脱がしたが、べこぼこんと弛んで、其癖、硬いのがごそりと脱げると……靴下ならまだ可い「何、體裁なんぞ、そんな事。」邊幅を修しない男だから、紺足袋で、おや指の尖に大きな穴のあいたのが、油蟲を挾んだ如く顯はれた。……渠は金釦の制服だし、此方は袴なしの鳥打だから、女中も一向に構はなかつたが、いや、何しても、靴は羊皮の上等品でも自分で脱ぐ方が可ささうである。少し氣障だが、色氣があるのか、人事ながら、私は恥ぢた。
……思ひ出す事がある。淺草田原町の裏長屋に轉がつて居た時、春寒い頃……足袋がない。……最も寒中もなかつたらしいが、何うも陽氣に向つて、何分か色氣づいたと見える。足袋なしでは仲見世へ出掛け憎い。押入でふと見附けた。裏長屋のあるじと言ふのが醫學生で、内證で怪い脈を取つたから、白足袋を用ゐる、その薄汚れたのが、片方、然も大男のだから私の足なんぞ二つ入る。細君に内證で、左へ穿いた──で仲見世へ。……晝間出掛けられますか。夜を待つて路次を出て、觀世音へ參詣した。御利益で、怪我もしないで御堂から裏の方へうか〳〵と𢌞つて、象と野兎が歩行ツくら、と云ふ珍な形で行くと、忽ち灯のちらつく暗がりに、眞白な顏と、青い半襟が爾側から、
「ちよいと、ちよいと、ちよいと。」
「白足袋の兄さん、ちよいと。」
私は冷汗を流して、一生足袋を斷たうと思つた。
後に──丸山福山町に、はじめて一葉女史を訪ねた歸り際に、襟つき、銀杏返し、前垂掛と云ふ姿に、部屋を送られて出ると、勝手元から、島田の十八九、色白で、脊のすらりとした、これぞ──つい此の間なく成つた──妹のお邦さん、はら〳〵と出て、
「お麁末樣。」
と、手をつかれた時は、足が縮んだ。其の下駄を穿かうとする、足袋の尖に大きな穴があつたのである。
衣類より足袋は目に着く。江戸では女が素足であつた。其のしなやかさと、柔かさと、形の好さを、春信、哥麿、誰々の繪にも見るが可い。就中、意氣な向は湯上りの足を、出しなに、もう一度熱い湯に浸してぐいと拭き上げて、雪にうつすりと桃色した爪さきに下駄を引掛けたと言ふ。モダンの淑女……きものは不斷着でも、足袋は黄色く汚れない、だぶ〳〵しない皺の寄らないのにしてほしい。練出す時の事である。働くと言へば、説が違ふ。眞黒だつて破れて居たつて、煤拂、大掃除には構ふものか、これもみぐるしからぬもの、塵塚の塵である。
──時に、長野泊りの其の翌日、上野へついて、連とは本郷で分れて、私は牛込の先生の玄關に歸つた。其年父をなくした爲めに、多日、横寺町の玄關を離れて居たのであつた。駈け込むやうに、門外の柳を潛つて、格子戸の前の梅を覗くと、二疊に一人机を控へてた書生が居て、はじめて逢つた、春葉である。十七だから、髯なんか生やさない、五分刈の長い顏で、仰向いた。
「先生。……奧さんは。……唯今、歸りました。」
「あゝ、泉君ですか。……先生からうかゞつて存じて居ります。何うも然うらしいと思ひました。僕は柳川と云ふものです。此頃から參つて居ります。」
「や、ようこそ、……何うぞ。」
慇懃で、なかが可い。これから秋冷相催すと、次第に、燒芋の買ひツこ、煙草の割前で睨み合つて喧嘩をするのだが、──此の一篇には預る方が至當らしい。
處で──父の……危篤……生涯一大事の電報で、其の年一月、節いまだ大寒に、故郷へ駈戻つた折は、汽車で夜をあかして、敦賀から、俥だつたが、武生までで日が暮れた。道十一里だけれども、山坂ばかりだから捗取らない。其の昔、前田利家、在城の地、武生は柳と水と女の綺麗な府中である。
佐久間玄蕃が中入の懈怠のためか、柴田勝家、賤ヶ嶽の合戰敗れて、此の城中に一息し湯漬を所望して、悄然と北の莊へと落ちて行く。ほどもあらせず、勝に乘つたる秀吉が一騎驅けに馬を寄せると、腰より采を拔き出し、さらりと振つて、此れは筑前守ぞや、又左、又左、鐵砲打つなと、大手の城門を開かせた、大閤大得意の場所だが、そんな夢も見ず、悶え明かした。翌朝まだ薄暗かつたが、七時に乘つた俥が、はずむ酒手もなかつたのに、其の日の午後九時と云ふのに、金澤の町外れの茶店へ着いた。屈竟な若い男と云ふでもなく年配の車夫である。一寸話題には成らうと思ふ、武生から其の道程、實に二十七里である。──深川の俥は永代を越さないのを他に見得にする……と云つたもので、上澄のいゝ處を吸つて滓を讓る。客から極めて取つた賃銀を頭でつかちに掴んで尻つこけに仲間に落すのである。そんな辣腕と質は違つても、都合上、勝手よろしき處で俥を替へるのが道中の習慣で、出發點で、通し、と極めても、そんな約束は通さない。が、親切な車夫は、その信ずるものに會つて、頼まれた客を渡すまでは、建場々々を、幾度か物色するのが好意であつた。で、十里十五里は大抵曳く。廿七里を日のうちに突つ切つたのには始めて出逢つた。……
不忍の池で懸賞づきの不思議な競爭があつて、滿都を騷がせた事がある。彼の池は内端に𢌞つて、一周圍一里強だと言ふ。彼の池を、朝の間から日沒まで、歩調の遲速は論ぜぬ、大略十五時間の間に、幾𢌞りか、其の囘數の多いのを以て勝利とする。……間違つたら、許しツこ、たしか、當、時事新報の催しであつたと思ふ。……二人ともまだ玄關に居たが、こんな事は大好だから柳川が見物、參觀か、參觀した。「三人ばかり倒れて寢たよ、驅出すのなんざ一人も居ない、……皆な恁う腕を組んで、のそり〳〵と草を踏んで歩行いて居たがね、あの草を踏むのが祕傳ださうだよ、中にはぐつたりと首を垂れて何とも分別に餘つたと云ふ顏をして居たのがあります。見物は山も町も一杯さ。けれども、何の機掛もなしに、てくり〳〵だから、見て居て變な氣がした。──眞晝間、憑ものがしたか、魅されてでも居るやうで、そのね、鬱ぎ込んだ男なんざ、少々氣味が惡かつた。何しろ皆顏色が眞つ蒼です」──此時、選手第一の賞を得たのは、池をめぐること三十幾囘、翌日發表されて、年は六十に餘る、此の老神行太保戴宗は、加州小松の住人、もとの加賀藩の飛脚であつた。
頃日聞く──當時、唯一の交通機關、江戸三度と稱へた加賀藩の飛脚の規定は、高岡、富山、泊、親不知、五智、高田、長野、碓氷峠を越えて、松井田、高崎、江戸の板橋まで下街道、百二十里半──丁數四千三十八を、早飛脚は滿五日、冬の短日に於てさへこれに加ふること僅に一日二時であつた。常飛脚の夏(三月より九月まで)の十日──滿八日、冬(十月より二月まで)の十二日──滿十日を別として、其の早の方は一日二十五里が家業だと言ふ。家業を奮發すれば、あと三里五里は走れようが、それにしても、不忍池の三十幾囘──況んや二十七里を日づけの車夫は豪傑であつた。乘つたものに徳はない。が、殆ど奇蹟と言はねばならない。
が、其の顏も覺えず、惜むらくは苗も聞かなかつたのは、父のなくなつた爲めに血迷つたばかりでない。幾度か越前街道の往來に馴れて、賃さへあれば、俥はひとりで驅出すものと心得て居たからである。しかし、此の上下には、また隨分難儀もした。
炎天の海は鉛を溶かして、とろ〳〵と瞳を射る。風は、そよとも吹かない。斷崖の巖は鹽を削つて舌を刺す。山には木の葉の影もない。草いきれは幻の煙を噴く。八月上旬……火の敦賀灣、眞上の磽确たる岨道を、俥で大日枝山を攀たのであつた。……
上京して、はじめの歸省で、それが病氣のためであつた。其頃、學生の肺病は娘に持てた。書生の脚氣は年増にも向かない。今以て向きも持てもしないだらうから、御婦人方には内證だが、實は脚氣で。……然も大分手重かつた。重いほど、ぶく〳〵とむくんだのではない、が、乾性と稱して、その、痩せる方が却て質が惡い。
午飯に、けんちんを食べて吐いた。──夏の事だし、先生の令夫人が心配をなすつて、お實家方がお醫師だから、玉章を頂いて出向くと、診察して、打傾いて、又一封の返信を授けられた。寸刻も早く轉地を、と言ふのだつたさうである。私は、今もつて、決してけんちんを食はない。江戸時代の草紙の裡に、松もどきと云ふ料理がある。たづぬるに精しからず、宿題にした處、近頃神田で育つた或婦が教へた。茄子と茗荷と、油揚を清汁にして、薄葛を掛ける。至極經濟な惣菜ださうである。聊かけんちんに似て居るから、それさへも遠く慮る。
重湯か、薄粥、或は麺麭を少量と言はれたけれども、汽車で、そんなものは得られなかつた。乘通しは危險だから。……で、米原で泊つたが、羽織も着ない少年には、粥は煮てくれぬ。其の夜から翌日。──
──いま、俥で日盛りを乘出すまで、殆ど口にしたものはない。直射する日の光りに、俥は坂に惱んで幌を掛けぬ。洋傘を持たない。身の楯は冬の鳥打帽ばかりである。私は肩で呼吸を喘いだ。剩へ辿り向ふ大良ヶ嶽の峰裏は──此方に蛾ほどの雲なきにかゝはらず、巨濤の如き雲の峰が眞黒に立つて、怨靈の鍬形の差覗いては消えるやうな電光が山の端に空を切つた。──動悸は躍つて、心臟は裂けむとする。
私は、先生が夏の嘉例として下すつた、水色の絹べりを取た、はい原製の涼しい扇子を、膝を緊めて、胸に確と取つて車上に居直つた。而して題を採つて極暑の一文を心に案じた。咄! 心頭を滅却すれば何とかで、悟れば悟れるのださうだけれど、暑いから暑い。悟ることなんぞは今もつて大嫌ひだ。……
汝炎威と戰へ、海も山も草も石も白熱して、汝が眼眩まんとす。起て、其の痩躯をかつて、袖を翳して病魔に楯せよ。隻手を拂つて火の箭を斬れ。戰ひは弱し。脚はふるふとも、心は空を馳よ。然らずんば……
などと、いや何うも氣恥かしいが、其處で倒れまいと、一生懸命に推敲した。このために、炎天に一滴の汗も出なかつたのは、敢て歌の雨乞の奇特ではない。病める青草の萎えむとして水の涸いたのであつた。
けれども、冬の鳥打帽を被つた久留米絣の小僧の、四顧人影なき日盛りを、一人雲の峰に抗して行く其の勇氣は、今も愛する。
心は空を馳よ。然らずんば──苦しいから、繰返して、
汝炎威と戰へ。海も山も、草も石も白熱して汝が眼眩まんとす。起て……
うゝ、と意氣込むと、車夫が流るゝ汗の額を振つて、
「あんたも暑からうなあ──や、青い顏をして!……も些ツとで茶屋があるで、水など飮まつせえ。」
水を……水をと唯云つたのに、山蔭に怪しき伏屋の茶店の、若き女房は、優しく砂糖を入れて硝子盃を與へた。藥師の化身の樣に思ふ。人の情は、時に、あはれなる旅人に惠まるゝ。若いものは活返つた。
僥倖に雷は聞こえなかつた。可恐い夕立雲は、俥の行くにつれて、峠をむかう下りに白刃を北に返した電光とともに麓へ崩れて走つたが、たそがれの大良の茶屋の蚊柱は凄じかつた。片山家は灯の遲い縁柱の暗中に、刺しに刺して、悶えて揮ふ腕からは、血が垂れた。其の惱ましさを、崖の瀧のやうな紫陽花の青い叢の中に突つ込むで身を冷しつゝ、且つもの狂はしく其の大輪の藍を抱いて、恰も我を離脱せむとする魂を引緊むる思ひをした。……紫陽花の水のやうな香を知つた。──一夕立して過ぎながら、峠には水がなかつたのである。
やがて、星の下を雨とともに流れの走る、武生の宿に着いたのであつた。
一宿り。一宿りして、こゝを、又こゝから立つて、大雪の中を敦賀へ越した事もある。俥はきかない。俥夫が朝まだき提灯で道案内に立つた。村へ掛ると、降積つた大竹藪を弓形に壓したので、眞白な隧道を潛る時、雀が、ばら〳〵と千鳥に兩方へ飛交して小蓑を亂す其の翼に、藍と萌黄と紅の、朧に蝋燭に亂れたのは、鶸、山雀、鸞、目白鳥などの假の塒を驚いて起つのであつた。
峠に上つて、案内に分れた。前途は唯一條、峰も谷も、白き宇宙を細く縫ふ、それさへまた降りしきる雪に、見る〳〵、歩一歩に埋もれ行く。
絡つた毛布も白く成つた、人は冷たい粉蝶と成つて消えむとする。
むかし快菴禪師と云ふ大徳の聖おはしましけり。總角より教外の旨をあきらめ給ひて、常に身を雲水にまかせ給ふ……
殆ど暗誦した雨月物語の青頭巾の全章を、雪にむせつゝ高らかに朗讀した。
禪師見給ひて、やがて禪杖を拿なほし、作麽生何所爲ぞと一喝して、他が頭を撃たまへば、たちまち氷の朝日に逢ふが如く消え失せて、かの青頭巾と骨のみぞ草葉にとゞまりける。
あたりは蝙蝠傘を引つ擔いで、や聲を掛けて、卍巴を、薙立て薙立て驅出した。三里の山道、谷間の唯破家の屋根のみ、鷲の片翼折伏した状なのを見たばかり、人らしいものの影もなかつたのである。二つめの峠、大良からは、岨道の一方が海に吹放たれるので雪が薄い。俥は敦賀まで、漸と通じた。
此の街道の幾返。さもあらばあれ、苦しい思ひばかりはせぬ。
紺青の海、千仭の底よりして虹を縱に織つて投げると、玉の走る音を立てて、俥に、道に、さら〳〵と紅を掛けて敷く木の葉の、一つ〳〵其のまゝに海の影を尚ほ映して、尾花、枯萩も青い。月ならぬ眞晝の緋葉を潛つて、仰げば同じ姿に、遠く高き峰の緋葉は蒼空を舞つて海に散る……
を鹿なく此の山里と詠じけむ嵯峨のあたりの秋の頃──峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覺束なく思ひ、駒を早めて行くほどに──
カーン、カーンと鉦の音が細く響く。塚の森の榎の根に、線香の煙淡く立ち、苔の石の祠には燈心が暗く灯れ、鉦は更に谺して、老たるは踞り、幼きたちは立ち集ふ、山の峽なる境の地藏のわきには、女を前に抱いて、あからさまに襟を搜る若い男。ト板橋の欄干に俯向いて尺八を吹く一人も見た。
天上か、奈落か、山懷の大釜を其のまゝに、凄いほど色白な婦の行水する姿も見た。
「書生さん、東京へ連れてつて──」
赤い襷の手を空ざまに、若苗を俥に投げて、高く笑つた娘もある。……
おもしろいぞえ、京へ參る道は、上る衆もある下向もある。
何の巧もないが、松並木、間の宿々、山坂掛け、道中の風情見る如し。──これは能登、越中、加賀よりして、本願寺まゐりの夥多の信徒たちが、其の頃殆ど色絲を織るが如く、越前──上街道を往來した趣である。
晴、曇、又月となり、風となり──雪には途絶える──此の往來のなかを、がた〳〵俥も、車上にして、悠暢と、花を見、鳥を聞きつゝ通る。……
恁る趣を知つたため、私は一頃は小遣錢があると、東京の町をふら〳〵と俥で歩行く癖があつた。淺草でも、銀座でも、上野でも──人の往來、店の構へ、千状萬態、一卷に道中の繪に織込んで──また内證だが──大福か、金鍔を、豫て袂に忍ばせたのを、ひよいと食る、其の早業、太神樂の鞠を凌ぐ……誰も知るまい。……實は、一寸下りて蕎麥にしたい處だが、かけ一枚なんぞは刹那主義だ、泡沫夢幻、つるりと消える。俥代を差引くと其いづれかを選ばねばならない懷だから、其處で餡氣で。金鍔は二錢で四個あつた。四海波靜にして俥の上の花見のつもり。いや何うも話にならぬ。が此の意氣を以てして少々工面のいゝ連中、誰か自動車……圓タクでも可い。蕎麥を食ながら飛ばして見ないか。希くは駕籠を二挺ならべて、かむろに掻餅を燒かせながら、鈴鹿越をしたのであると、納まり返つたおらんだ西鶴を向うに𢌞して、京阪成金を壓倒するに足らうと思ふ。……
時に蕎麥と言へば──丁と──梨。──何だか三題噺のやうだが、姑忘聽之。丁と云ふのは、嘗て(今も然うだらう。)梨を食べると醉ふと言ふ。醉ふ奴があるものかと、皆が笑ふと、「醉ひますさ。」とぶつ〳〵言ふ。對手にしないと「僕は醉ふと信ずるさ。」と頬を凹まして腹を立てた。
若い時の事だ。今では構ふまい、私と其の丁と二人で、宿場でふられた。草加で雨に逢つたのではない。四谷の出はづれで、二人とも嫌はれたのである。
「おい。」
と丁が陰氣に怒つた。
「こんな堅い蕎麥が食はれるかい。場末だなあ。」
と、あはれや夕飯兼帶の臺の笊に箸を投げた。地ものだと、或はおとなしく默つて居たらう。が、對手がばらがきだから堪らない。
「……蕎麥の堅いのは、うちたてさ、フヽンだ。」
然うだ、うちたての蕎麥は、蕎麥の下品では斷じてない。胃弱にして、うちたてをこなし得ないが故に、ぐちやり、ぐちやりと、唾とともに、のびた蕎麥を噛むのは御勝手だが、その舌で、時々作品の批評などすると聞く。──嘸うちたての蕎麥を罵つて、梨に醉つてる事だらう。まだ其は勝手だが、斯の如き量見で、紅葉先生の人格を品評し、意圖を忖度して憚らないのは僭越である。
私は怯懦だ。衞生に威かされて魚軒を食はない。が、魚軒は推重する。その嫌ひなのは先生の所謂蜆が嫌ひなのではなくて、蜆に嫌はれたものでなければならない。
麻を刈ると題したが、紡ぎ織り縫ひもせぬ、これは浴衣がけの縁臺話。──
少し涼しく成つた。
此の暑さは何うです。……まだみん〳〵蝉も鳴きませんね、と云ふうちに、今年は土用あけの前日から遠くに聞こえた。カナ〳〵は土用あけて二日の──大雨があつた──あの前の日から鳴き出した。
蒸暑いのが續くと、蟋蟀の聲が待遠い。……此邊では、毎年、春秋社の眞向うの石垣が一番早い。震災前までは、大がい土用の三日四日めの宵から鳴きはじめたのが、年々、やゝおくれる。……此の秋も遲かつた。
それ、自動車が來たぜ、と婦まじりで、道幅が狹い、しば〳〵縁臺を立つのだが、俥は珍らしいほどである。これから、相乘──と云ふ處を。……おゝ、銀河が見える──初夜すぎた。
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
初出:「時事新報 第一五五二九号~一五五四四号」時事新報社
1926(大正15)年9月23日~10月8日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「車夫」に対するルビの「くるまや」と「しやふ」と「わかいしゆ」、「船頭」に対するルビの「せんどう」と「おやぢ」の混在は、底本の通りです。
※表題は底本では、「麻を刈る」となっています。
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2018年1月27日作成
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