種山ヶ原
宮沢賢治
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種山ヶ原というのは北上山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩や、硬い橄欖岩からできています。
高原のへりから、四方に出たいくつかの谷の底には、ほんの五、六軒ずつの部落があります。
春になると、北上の河谷のあちこちから、沢山の馬が連れて来られて、此の部落の人たちに預けられます。そして、上の野原に放されます。それも八月の末には、みんなめいめいの持主に戻ってしまうのです。なぜなら、九月には、もう原の草が枯れはじめ水霜が下りるのです。
放牧される四月の間も、半分ぐらいまでは原は霧や雲に鎖されます。実にこの高原の続きこそは、東の海の側からと、西の方からとの風や湿気のお定まりのぶっつかり場所でしたから、雲や雨や雷や霧は、いつでももうすぐ起ってくるのでした。それですから、北上川の岸からこの高原の方へ行く旅人は、高原に近づくに従って、だんだんあちこちに雷神の碑を見るようになります。その旅人と云っても、馬を扱う人の外は、薬屋か林務官、化石を探す学生、測量師など、ほんの僅かなものでした。
今年も、もう空に、透き徹った秋の粉が一面散り渡るようになりました。
雲がちぎれ、風が吹き、夏の休みももう明日だけです。
達二は、明後日から、また自分で作った小さな草鞋をはいて、二つの谷を越えて、学校へ行くのです。
宿題もみんな済ましたし、蟹を捕ることも木炭を焼く遊びも、もうみんな厭きていました。達二は、家の前の檜によりかかって、考えました。
(ああ。此の夏休み中で、一番面白かったのは、おじいさんと一緒に上の原へ仔馬を連れに行ったのと、もう一つはどうしても剣舞だ。鶏の黒い尾を飾った頭巾をかぶり、あの昔からの赤い陣羽織を着た。それから硬い板を入れた袴をはき、脚絆や草鞋をきりっとむすんで、種山剣舞連と大きく書いた沢山の提灯に囲まれて、みんなと町へ踊りに行ったのだ。ダー、ダー、ダースコ、ダー、ダー。踊ったぞ、踊ったぞ。町のまっ赤な門火の中で、刀をぎらぎらやらかしたんだ。楢夫さんと一緒になった時などは、刀がほんとうにカチカチぶっつかったぐらいだ。
ホウ、そら、やれ、
むかし 達谷の 悪路王、
まっくらぁくらの二里の洞、
渡るは 夢と 黒夜神、
首は刻まれ 朱桶に埋もれ。
やったぞ。やったぞ。ダー、ダー、ダースコ、ダーダ、
青い 仮面この こけおどし、
太刀を 浴びては いっぷかぷ、
夜風の 底の 蜘蛛おどり、
胃袋ぅ はいて ぎったりぎたり。
ほう。まるで、……。)
「達二。居るが。達二。」達二のお母さんが家の中で呼びました。
「あん、居る。」達二は走って行きました。
「善い童だはんてな、おじぃさんど、兄など、上の原のすぐ上り口で、草刈ってるがら、弁当持って行って来。な。それがら牛も連れてって、草食ぁせで来。な。兄ながら離れなよ。」
「あん、行て来る。行て来る。今草鞋穿ぐがら。」達二ははねあがりました。
お母さんは、曲げ物の二つの櫃と、達二の小さな弁当とを紙にくるんで、それをみんな一緒に大きな布の風呂敷に包み込みました。そして、達二が支度をして包みを背負っている間に、おっかさんは牛をうまやから追い出しました。
「そだら行って来ら。」と達二は牛を受け取って云いました。
「気ぃ付けで行げ。上で兄ながら離れなよ。」
「あん。」達二は、垣根のそばから、楊の枝を一本折り、青い皮をくるくる剥いで鞭を拵え、静に牛を追いながら、上の原への路をだんだんのぼって行きました。
「ダーダー、スコ、ダーダー。
夜の頭巾は 鶏の黒尾、
月のあかりは………、
しっ、歩け、しっ。」
日がカンカン照っていました。それでもどこかその光に青い油の疲れたようなものがありましたし、また、時々、冷たい風が紐のようにどこからか流れては来ましたが、まだ仲々暑いのでした。牛が度々立ち止まるので、達二は少し苛々しました。
「上さ行って好い草食え。早ぐ歩げっ。しっ。馬鹿だな。しっ。」
けれども牛は、美しい草を見る度に、頭を下げて、舌をべらりと廻して喰べました。(牛の肉の中で一番上等が此の舌だというのは可笑しい。涎れで粘々してる。おまけに黒い斑々がある。歩け。こら。)
「歩げ。しっ。歩げ。」
空に少しばかりの、白い雲が出ました。そして、もう大分のぼっていました。谷の部落がずっと下に見え、達二の家の木小屋の屋根が白く光っています。
路が林の中に入り、達二はあの奇麗な泉まで来ました。まっ白の石灰岩は、ごぼごぼ冷たい水を噴き出すあの泉です。達二は汗を拭いて、しゃがんで何べんも水を掬ってのみました。
牛は泉を飲まないで、却って苔の中のたまり水を、ピチャピチャ嘗めました。
達二が牛と、またあるきはじめたとき、泉が何かを知らせる様に、ぐうっと鳴り、牛も低くうなりました。
「雨になるがも知れなぃな。」と達二は空を見て呟きました。
林の裾の灌木の間を行ったり、岩片の小さく崩れる所を何べんも通ったりして、達二はもう原の入口に近くなりました。
光ったり陰ったり、幾重にも畳む丘々の向うに、北上の野原が夢のように碧くまばゆく湛えています。河が、春日大明神の帯のように、きらきら銀色に輝いて流れました。
そして達二は、牛と、原の入口に着きました。大きな楢の木の下に、兄さんの縄で編んだ袋が投げ出され、沢山の草たばがあちこちにころがっていました。
二匹の馬は、達二を見て、鼻をぷるぷる鳴らしました。
「兄な。居るが。兄な。来たぞ。」達二は汗を拭いながら叫びました。
「おおい。ああい。其処に居ろ。今行ぐぞ。」
ずうっと向うの窪みで、達二の兄さんの声がしました。牛は沢山の草を見ても、格別嬉しそうにもしませんでした。
陽がぱっと明るくなり、兄さんがそっちの草の中から笑って出て来ました。
「善ぐ来たな。牛も連れで来たのが。弁当持ってが。善ぐ来た。今日ぁ午まがらきっと曇る。俺もう少し草集めて仕舞がらな、此処らに居ろ。おじいさん、今来る。」
兄さんは向うへ行こうとして、振り向いてまた云いました。
「腹減ったら、弁当、先に喰べてろ。風呂敷ば、あの馬さ結付けでおげ。午まになったらまた来るがら。」
「うん。此処に居る。」
そして達二の兄さんは、行ってしまいました。空にはうすい雲がすっかりかかり、太陽は白い鏡のようになって、雲と反対に馳せました。風が出て来て刈られない草は一面に波を立てます。
どうしたのか、牛が俄かに北の方へ馳せ出しました。達二はびっくりして、一生懸命追いかけながら、兄の方に振り向いて叫びました。
「牛ぁ逃げる。牛ぁ逃げる。兄な。牛ぁ逃げる。」
せいの高い草を分けて、どんどん牛が走りました。達二はどこまでも夢中で追いかけました。そのうちに、足が何だか硬張ってきて、自分で走っているのかどうか判らなくなってしまいました。それからまわりがまっ蒼になって、ぐるぐる廻り、とうとう達二は、深い草の中に倒れてしまいました。牛の白い斑が終りにちらっと見えました。
達二は、仰向けになって空を見ました。空がまっ白に光って、ぐるぐる廻り、そのこちらを薄い鼠色の雲が、速く速く走っています。そしてカンカン鳴っています。
達二はやっと起き上って、せかせか息しながら、牛の行った方に歩き出しました。草の中には、牛が通った痕らしく、かすかな路のようなものがありました。達二は笑いました。そして、(ふん。なあに、何処かでのっこり立ってるさ。)と思いました。
そこで達二は、一生懸命それを跡けて行きました。ところがその路のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、おとこえしや、すてきに背高の薊の中で、二つにも三つにも分れてしまって、どれがどれやら一向わからなくなってしまいました。達二は思い切って、そのまん中のを進みました。けれどもそれも、時々断れたり、牛の歩かないような急な所を横様に過ぎたりするのでした。それでも達二は、
(なあに、向うの方の草の中で、牛はこっち向いて、だまって立ってるさ。)と思いながら、ずんずん進んで行きました。
空はたいへん暗く重くなり、まわりがぼうっと霞んできました。冷たい風が、草を渡りはじめ、もう雲や霧が、切れ切れになって眼の前をぐんぐん通り過ぎて行きました。
(ああ、こいつは悪くなってきた。みんな悪いことはこれから集ってやって来るのだ。)と達二は思いました。全くその通り、俄に牛の通った痕は、草の中で無くなってしまいました。
(ああ、悪くなった、悪くなった。)達二は胸をどきどきさせました。
草がからだを曲げて、パチパチ云ったり、さらさら鳴ったりしました。霧が殊に滋くなって、着物はすっかりしめってしまいました。
達二は咽喉一杯叫びました。
「兄な。兄な。牛ぁ逃げだ。兄な。兄な。」
何の返事も聞えません。黒板から降る白墨の粉のような、暗い冷たい霧の粒が、そこら一面踊りまわり、あたりが俄にシインとして、陰気に陰気になりました。草からは、もう雫の音がポタリポタリと聞えてきます。
達二は早く、おじいさんの所へ戻ろうとして急いで引っ返しました。けれどもどうも、それは前に来た所とは違っていたようでした。第一、薊があんまり沢山ありましたし、それに草の底にさっき無かった岩かけが、度々ころがっていました。そしてとうとう聞いたこともない大きな谷が、いきなり眼の前に現われました。すすきが、ざわざわざわっと鳴り、向うの方は底知れずの谷のように、霧の中に消えているではありませんか。
風が来ると、芒の穂は細い沢山の手を一ぱいのばして、忙しく振って、
「あ、西さん、あ、東さん、あ西さん。あ南さん。あ、西さん。」なんて云っている様でした。
達二はあんまり見っともなかったので、目を瞑って横を向きました。そして急いで引っ返しました。小さな黒い道が、いきなり草の中に出て来ました。それは沢山の馬の蹄の痕で出来上っていたのです。達二は、夢中で、短い笑い声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。
けれども、たよりのないことは、みちのはばが五寸ぐらいになったり、また三尺ぐらいに変ったり、おまけに何だかぐるっと廻っているように思われました。そして、とうとう、大きなてっぺんの焼けた栗の木の前まで来た時、ぼんやり幾つにも岐れてしまいました。
其処は多分は、野馬の集まり場所であったでしょう、霧の中に円い広場のように見えたのです。
達二はがっかりして、黒い道をまた戻りはじめました。知らない草穂が静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図をしてでもいるように、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました。
空が光ってキインキインと鳴っています。それからすぐ眼の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらわれました。達二はしばらく自分の眼を疑って立ちどまっていましたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと近寄って見ますと、それは冷たい大きな黒い岩でした。
空がくるくるくるっと白く揺らぎ、草がバラッと一度に雫を払いました。
(間違って原を向う側へ下りれば、もうおらは死ぬばかりだ。)と達二は、半分思う様に半分つぶやくようにしました。それから叫びました。
「兄な、兄な、居るが。兄な。」
また明るくなりました。草がみな一斉に悦びの息をします。
「伊佐戸の町の、電気工夫の童ぁ、山男に手足ぃ縛らえてたふうだ。」といつか誰かの話した語が、はっきり耳に聞えて来ます。
そして、黒い路が、俄に消えてしまいました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非常に強い風が吹いて来ました。
空が旗のようにぱたぱた光って翻えり、火花がパチパチパチッと燃えました。
達二はいつか、草に倒れていました。
そんなことはみんなぼんやりしたもやの中の出来事のようでした。牛が逃げたなんて、やはり夢だかなんだかわかりませんでした。風だって一体吹いていたのでしょうか。
達二はみんなと一緒に、たそがれの県道を歩いていたのです。
橙色の月が、来た方の山からしずかに登りました。伊佐戸の町で燃す火が、赤くゆらいでいます。
「さあ、みんな支度はいいが。」誰かが叫びました。
達二はすっかり太い白いたすきを掛けてしまって、地面をどんどん踏みました。楢夫さんが空に向って叫んだのでした。
「ダー、ダー、ダー、ダー、ダースコダーダー。」それから、大人が太鼓を撃ちました。
達二は刀を抜いてはね上りました。
「ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」
「危なぃ。誰だ、刀抜いだのは。まだ町さも来なぃに早ぁじゃ。」怪物の青仮面をかぶった清介が威張って叫んでいます。赤い提灯が沢山点され、達二の兄さんが提灯を持って来て達二と並んで歩きました。兄さんの足が、寒天のようで、夢のような色で、無暗に長いのでした。
「ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」
町はずれの町長のうちでは、まだ門火を燃していませんでした。その水松樹の垣に囲まれた、暗い庭さきにみんな這入って行きました。
そして達二はまたうとうとしました。そこで霧が生温い湯のようになったのです。可愛らしい女の子が達二を呼びました。
「おいでなさい。いいものをあげましょう。そら。干した苹果ですよ。」
「ありがど、あなたはどなた。」
「わたし誰でもないわ。一緒に向うへ行って遊びましょう。あなた驢馬を有っていて。」
「驢馬は持ってません。只の仔馬ならあります。」
「只の仔馬は大きくて駄目だわ。」
「そんなら、あなたは小鳥は嫌いですか。」
「小鳥。わたし大好きよ。」
「あげましょう。私はひわを有っています。ひわを一疋あげましょうか。」
「ええ。欲しいわ。」
「あげましょう。私今持って来ます。」
「ええ、早くよ。」
達二は、一生懸命、うちへ走りました。美しい緑色の野原や、小さな流れを、一心に走りました。野原は何だかもくもくして、ゴムのようでした。
達二のうちは、いつか野原のまん中に建っています。急いで籠を開けて、小鳥を、そっとつかみました。そして引っ返そうとしましたら、
「達二、どこさ行く。」と達二のおっかさんが云いました。
「すぐ来るがら。」と云いながら達二は鳥を見ましたら、鳥はいつか、萌黄色の生菓子に変っていました。やっぱり夢でした。
風が吹き、空が暗くて銀色です。
「伊佐戸の町の電気工夫のむすこぁ、ふら、ふら、ふら、ふら、ふら、」とどこかで云っています。
それからしばらく空がミインミインと鳴りました。達二はまたうとうとしました。
山男が楢の木のうしろからまっ赤な顔を一寸出しました。
(なに怖いことがあるもんか。)
「こりゃ、山男。出はって来。切ってしまうぞ。」達二は脇差しを抜いて身構えしました。
山男がすっかり怖がって、草の上を四つん這いになってやって来ます。髪が風にさらさら鳴ります。
「どうか御免御免。何じょなことでも為んす。」
「うん。そんだら許してやる。蟹を百疋捕って来。」
「ふう。蟹を百疋。それ丈けでようがすかな。」
「それがら兎を百疋捕って来。」
「ふう。殺してきてもようがすか。」
「うんにゃ。わがんなぃ。生ぎだのだ。」
「ふうふう。かしこまた。」
油断をしているうちに、達二はいきなり山男に足を捉まいて倒されました。山男は達二を組み敷いて、刀を取り上げてしまいました。
「小僧。さあ、来。これから、俺れの家来だ。来う。この刀はいい刀だな。実に焼きをよぐかげである。」
「ばが。奴の家来になど、ならなぃ。殺さば殺せ。」
「仲々ず太ぃやづだ。来ったら来ぅ。」
「行がない。」
「ようし、そんだらさらって行ぐ。」
山男は達二を小脇にかかえました。達二は、素早く刀を取り返して、山男の横腹をズブリと刺しました。山男はばたばた跳ね廻って、白い泡を沢山吐いて、死んでしまいました。
急にまっ暗になって、雷が烈しく鳴り出しました。
そして達二はまた眼を開きました。
灰色の霧が速く速く飛んでいます。そして、牛が、すぐ眼の前に、のっそりと立っていたのです。その眼は達二を怖れて、横の方を向いていました。達二は叫びました。
「あ、居だが。馬鹿だな。奴は。さ、歩べ。」
雷と風の音との中から、微かに兄さんの声が聞えました。
「おおい、達二。居るが。達二。達二。」
達二はよろこんでとびあがりました。
「おおい。居る、居る。兄なぁ。おおい。」
達二は、牛の手綱をその首から解いて、引きはじめました。
黒い路がまたひょっくり草の中にあらわれました。そして達二の兄さんが、とつぜん、眼の前に立ちました。達二はしがみ付きました。
「探したぞ。こんたな処まで来て。何して黙って彼処に居なぃがった。おじいさんうんと心配してるぞ。さ、早く歩べ。」
「牛ぁ逃げだだも。」
「牛ぁ逃げだ。はあ、そうが。何にびっくりしたたがな。すっかりぬれだな。さあ、俺のけら着ろ。」
「一向寒ぐなぃ。兄なのなは大きくて引き擦るがらわがんなぃ。」
「そうが。よしよし。まず歩べ。おじいさん、火たいて待ってるがらな。」
緩い傾斜を、二つ程昇り降りしました。それから、黒い大きな路について、暫らく歩きました。
稲光が二度ばかり、かすかに白くひらめきました。草を焼く匂がして、霧の中を煙がほっと流れています。
達二の兄さんが叫びました。
「おじいさん、居だ、居だ。達二ぁ居だ。」
おじいさんは霧の中に立っていて、
「ああそうが。心配した、心配した。ああ好がった。おお達二。寒がべぁ、さあ入れ。」と云いました。
半分に焼けた大きな栗の木の根もとに、草で作った小さな囲いがあって、チョロチョロ赤い火が燃えていました。
兄さんは牛を楢の木につなぎました。
馬もひひんと鳴いています。
「おおむぞやな。な。何ぼが泣いだがな。さあさあ団子たべろ。食べろ。な。今こっちを焼ぐがらな。全体何処まで行ってだった。」
「笹長根の下り口だ。」と兄が答えました。
「危ぃがった。危ぃがった。向うさ降りだらそれっ切りだったぞ。さあ達二。団子喰べろ。ふん。まるっきり馬こみだぃに食ってる。さあさあ、こいづも食べろ。」
「おじいさん。今のうぢに草片附げで来るべが。」と達二の兄さんが云いました。
「うんにゃ。も少し待で。またすぐ晴れる。おらも弁当食うべ。ああ心配した。俺も虎こ山の下まで行って見で来た。はあ、まんつ好がった。雨も晴れる。」
「今朝ほんとに天気好がったのにな。」
「うん。また好ぐなるさ。あ、雨漏ってきた。草少し屋根さかぶせろ。」
兄さんが出て行きました。天井がガサガサガサガサ云います。おじいさんが、笑いながらそれを見上げました。
兄さんがまたはいって来ました。
「おじいさん。明るぐなった。雨あ霽れだ。」
「うんうん。そうが。さあ弁当食ってで草片附げべ。達二。弁当食べろ。」
霧がふっと切れました。陽の光がさっと流れて入りました。その太陽は、少し西の方に寄ってかかり、幾片かの蝋のような霧が、逃げおくれて仕方なしに光りました。
草からは雫がきらきら落ち、総ての葉も茎も花も、今年の終りの陽の光を吸っています。
はるかの北上の碧い野原は、今泣きやんだようにまぶしく笑い、向うの栗の木は、青い後光を放ちました。
底本:「イーハトーボ農学校の春」角川文庫、角川書店
1996(平成8)年3月25日初版発行
底本の親本:「【新】校本宮澤賢治全集 第八巻 童話Ⅰ 本文篇」筑摩書房
1995(平成7)年5月25日初版第一刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本巻末の大塚常樹氏による注釈は省略しました。
※表題は底本では、「種山ヶ原」となっています。
※「 町はずれの町長のうちでは、まだ門火を燃していませんでした。その水松樹の垣に囲まれた、暗い庭さきにみんな這入って行きました。」と「 そして達二はまたうとうとしました。」の行間に、底本の親本の104、105頁にあたる下記の文章が脱落しているのは底本通りです。
「 小さな奇麗な子供らが出て来て、笑って見ました。いよいよ大人が本気にやり出したのです。
「ホウ、そら、遣れ。ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」「ドドーン ドドーン。」
「夜風さかまき ひのきはみだれ、
月は射そゝぐ 銀の矢なみ、
打ぅつも果てるも 一つのいのち、
太刀の軋りの 消えぬひま。ホッ、ホ、ホッ、ホウ。」
刀が青くぎらぎら光りました。梨の木の葉が月光にせわしく動いてゐます。
「ダー、ダー、スコ、ダーダー、ド、ドーン、ド、ドーン。太刀はいなづま すゝきのさやぎ、燃えて……」
組は二つに分れ、剣がカチカチ云ひます。青仮面が出て来て、溺死する時のやうな格好で一生懸命跳ね廻ります。子供らが泣き出しました。達二は笑ひました。
月が俄かに意地悪い片眼になりました。それから銀の盃のやうに白くなって、消えてしまひました。
(先生の声がする。さうだ。もう学校が始まってゐるのだ。)と達二は思ひました。
そこは教室でした。先生が何だか少し瘠せたやうです。
「みなさん。楽しい夏の休みももう過ぎました。これからは気持ちのいゝ秋です。一年中、一番、勉強にいゝ時です。みなさんはあしたから、又しっかり勉強をするのです。
どなたも宿題はして来たでせうね。今日持って来た方は手をあげて。」
達二と楢夫さんと、たった二人でした。
「明日は忘れないでみなさん持って来るのですよ。もし、ぜんたい、してしまはなかった人があっても、やはりその儘、持って来るのです。すっかりしてしまはなかった人は手をあげて。」
誰も上げません。
「さうです。皆さんは立派な生徒です。休み中、みなさんは何をしましたか。そのうちで一番面白かったことは何ですか。達二さん。」
「おぢいさんと仔馬を集めに行ったときです。」
「よろしい。大へん結構です。楢夫さん。あなたはお休みの間に、何が一番楽しかったのですか。」
「剣舞です。」
「剣舞をあなたは踊ったのですか。」
「さうです。」
「どこでゞすか。」
「伊佐戸やあちこちです。」
「さうですか。まあよろしい。お座りなさい。みなさん。外にも剣舞に出た人はありますか。」
「先生、私も出ました。」
「先生、私も出ました。」
「達二さんも、さうですか。よろしい。みなさん。剣舞は決して悪いことではありません。けれども、勿論みなさんの中にそんな方はないでせうが、それでお銭を貰ったりしてはなりません。みなさんは、立派な生徒ですから。」
「先生。私はお銭を貰ひません。」
「よろしい。さうです。それから………。」
達二は、眼を開きました。みんな夢でした。冷たい霧や雫が額に落ちました。空は霧で一杯で、なんにも見えません。俄かに明るくなったり暗くなったりします。一本のつりがねさうが、身体を屈めて、達二をいたはりました。」
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年9月5日作成
2017年7月16日修正
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