南北
横光利一
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村では秋の収穫時が済んだ。夏から延ばされていた消防慰労会が、寺の本堂で催された。漸く一座に酒が廻った。
その時、突然一枚の唐紙が激しい音を立てて、内側へ倒れて来た。それと同時に、秋三と勘次の塊りは組み合ったまま本堂の中へ転り込んだ。一座の者は膝を立てた。
暫くすると、人々に腕を持たれた秋三は勘次を睥み乍ら、裸体の肩口を押し出して、
「放せ、放せ。」と叫んでいた。
勘次はただ黙って突き立ったまま、ひた押しに秋三の方へ進もうとした。
「今日という今日は、承知せんぞ!」
「何にッ!」
二人は羽がい締めにされた闘鶏のように、また人々の腕の中で怒り立った。
「放してくれ、此奴逝わさにゃ、腹の虫が納るかい。」
「泣きやがるな!」
「何にッ!」
秋三は人々を振り切った。そして、勘次の胸をめがけて突きかかると、二人はまた一つの塊りになって畳の上へぶっ倒れた。酒が流れた。唐の芋が転がった。
「抛り出せ。」
「なぐれ。」
「やれやれ。」
騒ぎの中に二人の塊りは腰高障子を蹴脱した。と、再びそこから高縁の上へ転がると、間もなく裸体の四つの足が、空間を蹴りつけ裏庭の赤万両の上へ落ち込んだ。葛と銀杏の小鉢が蹴り倒された。勘次は飛び起きた。そして、裏庭を突き切って墓場の方へ馳け出すと、秋三は胸を拡げてその後から追っ馳けた。
本堂の若者達は二人の姿が見えなくなると、彼らの争いの原因について語合いながらまた乱れた配膳を整えて飲み始めた。併し、彼らの話は、唐紙の倒れた形容と、秋三の方が勝味であったと云うこと以外に少しも一致しなかった。が、この二人の争いは、彼らにとって眼新しいものではないらしかった。彼らの話に拠ると、二人の家は村の南北に建っていて、二人の母は姉妹で、勘次の母は姉であるにも拘らず、秋三の家から勘次の父の家へ嫁いだものであった。けれども此の南北二家は親戚関係の成り立った当夜から、既に絶縁同様になっていた。と云うのは、秋三の祖父が、血統の不浄な貧しい勘次の父の請いを拒絶した所、勘次の母は自ら応じてその家へ走ったことから始まった。祖父の死後秋三の父は莫大な家産を蕩尽して出奔した。それに引き換え、勘次の父は村会を圧する程隆盛になって来た。そこで勘次の父は秋三の家が没落して他人手に渡ろうとした時、復讐と恩酬とを籠めたあらゆる意味において、「今だ!」と思った。そして、妻が反対したのに拘らず、彼は妻の実家を立て直して翌年死んだ。以後勘次の家は何事につけても秋三の家の上に立った。で、何物にも屈伏することを好まない青年の自尊心を感じることの出来る者達程、此の日の二人の乱闘の原因も、所詮酒の上の、「箸で突いた」程度のことから始まったと自然な洞察を下して、また酒盃をとり上げた。
併し此の噂は村の幾宵を騒がせた。そして、軈て来る冬の仕事の手始めとして、先ず柴山の選定に村人達が悩み始める頃迄続いていった。
まだ夕暮には時があった。秋三は山から下ろして来た椚の柴を、出逢う人々に自慢した。
そして、家に着くと、戸口の処に身体の衰えた男の乞食が、一人彼に背を見せて蹲んでいた。
「今日は忙しいのでのう、また来やれ。」
彼が柴を担いだまま中へ這入ろうとすると、
「秋か?」と乞食は云った。
秋三は乞食から呼び捨てにされる覚えがなかった。
「手前、俺を知っているのか?」
「知るも知らんもあるものか。汝大きゅうなったやないか。」
秋三は暫く乞食の顔を眺めていた。すると、乞食は焦点の三に分った眼差しで秋三を斜めに見上げながら、
「俺は安次や。心臓をやられてさ。うん、ひどい目にあった。」と彼から云った。
秋三は自分の子供時代に見た村相撲の場景を真先に思い浮かべた。それは、負けても賞金の貰える勝負に限って、すがめの男が幾度となく相手関わず飛び出して忽ち誰にも棹のように倒されながら、なお真面目にまたすがめをしながら土俵を下って来る処であった。彼は安次だ。安次は両親と僅に残された家産を失くすると、間もなく軽蔑された身体を村から消した。最早やそれから九年も経った。が、今、また秋三は彼を見たのであった。
「ほんに、お前安次やったのう。なんと汚い身体になったもんやないか。触ったら苔がめくれて来うが?」
「お母を呼んでくれんか?」
「今日はおらんぞ。お前これから何処へ行くつもりや?」
秋三は柴を下ろしながらそう云うと安次の傍へ蹲んだ。
「何処って、俺に行くところがありゃ結構やさ。」
「帰って来たんか?」
「帰ったんや。医者がお前、保たん云いさらしてのう。心臓や。」
「心臓か、えろう上品や病やのう。」
「うむ、もう念仏や。お母はおらんか。」
「お母に何ぞ用があるのか?」
「お前とこで世話になろうと思うているがの、一つ頼んでくれんかなア?」
「お前、俺とこへ来たのか?」
「うむ、医者めが、もたん云いさらしてさ。」
「それで俺とこへ転げ込んだのやな?」
「お前、酒桶からまくれ落って、土台もうわやや。お母に頼んでくれよ。おらんのか?」
「好え加減にしとけ。」
秋三は立ち上った。
「おい、頼む頼む。お母に一寸云うてくれったら。」
秋三はそのまま黙って柴を担ごうとすると、
「お前とこ、俺とこの母屋やないか、頼むで置かしてくれよ。」と安次は云った。
「俺とこが母屋や?」
「そうとも、誰なと聞いてみい。」
「縁起たれの悪いこと云うてくれるな。手前とこは谷川って云うやら。俺とこは山本や。」
その時、秋三はふと勘次の家と安次の家とは同姓で、その二家以外に村には谷川と名附けられる姓の一軒もないのに気がついた。してみれば、今安次を勘次の家へ、株内と云う口実で連れていったとしたならば? 勘次の母の吝嗇加減を知っていればそれだけ、秋三には彼女の狼狽える様子が眼に見えた。それは彼にとって確に愉快な遊戯であった。
と、忽ち、秋三は安次を世話する種々な煩雑さから迯れようとしていた今迄の気持がなくなって、ただ、勘次の家を一日でも苦しめてみることに興味を持った。
「おい、南の勘とこへ行かんか。あいつはお前とこの株内や。」
「肴屋か。あんなけちんぼは、俺とこの株内やないぞ。」
「そうかて谷川って云うのは、あの家一軒ばち有るか。お前とこの株内や。」
「だいたいあの家、俺は好かんのや。」
「贅沢ぬかしてよ。俺が連れてってやるぞ。立て立て。」
「あっこはとても駄目って。」
「あくもあかんもあるもんか。手前、あっこへのたり込むのが当り前じゃ。」
「あかん、あかん。」と云って安次は頭の横で泳ぐように両手を振った。
「ぐずぐずぬかすな!」
秋三が安次の首筋を持って引き立てると、安次は胸を突き出して、「アッ、アッ。」と苦しそうな声を立てた。
「早よ歩けさ。厄介な餓鬼やのう!」
「腹へって腹へって、お前、負うてくれんか!」
「うす汚い! 手前のようなやつ、負えるかい。」
安次は片手で胸を圧えて、裂けた三尺のひと端を長く腰から垂らしたまま曳かれていった。痩せた片肩がひどく怒って見えるのは、子供の頃彼の家が、まだ此の村で安泰であった時と同じであった。そして、まだ変らぬものは、彼の姿を浮かばせている行く手に固まった安泰な山々の姿であった。
西風が吹いて来た。勘次は桑の根株を割って風呂場の下を焚きつけた。煙は風呂場の下から逆に勘次の眼を攻めて、内庭へ舞い込むと、上り框から表の方を眺めている勘次の母におそいかかった。と、彼女は、天井に沿っている店の缶詰棚へ乱れかかる煙の下から、
「宝船じゃ、宝船じゃ。」と云いながら秋三が一人の乞食を連れて這入って来るのが眼に留まった。
「やかまし、何じゃ。」と彼女は云った。
「伯母やん、結構なもんが着いたぞ、喜びやれ。」
勘次の母は店の間へ出て行って乞食の顔を見た。
「まア珍しい、安次やないか!」
「安次も提灯もあったもんか、えらい高次じゃ。」
秋三は店の間をぐるりと見廻した。が、勘次に逢うのが不快であった。彼はそのまま、帰ろうと思って敷居の外へ出かけると、
「秋公帰ぬのか?」と安次が訊いた。
「もう好えやろが。」
「云うてくれ、云うてくれ。」
「云うてくれって、お前宝船やないか、ゆっくりそこへ坐っとりゃ好えのじゃ。」
「こらこら、俺も行くぞ。」
「阿呆ぬかせ! 伯母やん、此奴どっこも行くとこが無うて困っとるのやが、ちょっとの間、世話してやっとくれ。」
「そんなこと云うて来てお前。」
と勘次の母が顔を曇らせて云いかけると、安次は行司が軍扇を引くときのような恰好で、
「心臓や、医者がお前、もう持たんと云いさらしてさ。」
「どうしてまたそんなになったんやぞ?」
「酒桶から落ってのう。亀山で奉公して十五円貰うてたのやが、どだい、こうなったらもうわやや。医者が持たん云いさらしてさ、往生したわ。」
「ふむ、それは気の毒なことやなア、長いこと見んで、私ゃもうすっかり見忘れて了うたわ。何年程になるなア?」
「九年や。」
「もうそんなになるかいな、幾つやな、そうすると四十?」
「四十二や。」
「四十二か。まあ厄年やして。」
「厄年や、あかん、今年やなんでも厄介にならんならん。」
「そうか、四十二か、まアそこへ掛けやえせ。そして、亀山で酒屋へ這入ってたのかな?」
「酒屋や、十五円貰うてたのやが、お前、どっと酒桶へまくれ込んでさ。医者がお前もう持たんと云いさらしてのう。心臓や、えらいことやったわ。」
秋三は勘次の姿が裏の水壺の傍で揺れたのを見ると、黙って少し足音を忍ばせる気持で外へ出た。が、勘次を恐れている自分に気附いたとき、彼は一寸舌を出して笑ったが、そのまま北の方へ歩いていった。
勘次は裏庭から店の間へ来ると、南天の蔭に背中を見せて帰って行く秋三の姿が眼についた。
「今来たのは秋公か?」
「お前、秋が安次を連れて来てくれたんやがな。」
安次は急に庭から立ち上ると、
「秋公、こら、秋公。」と大声で呼び出した。
勘次は秋三に逢いたくはなかった。
「安次か、えらく年寄ったやないか。」と彼は安次の呼び声を遮った。
「うん、こう鼻たれるようになったらもうあかん。帰れたもんやないけれどさ。とうとうやられてのう。心臓や。お前医者めが持たん云いさらしてのう。どうもこうもあったもんやない。このざまやさ。」
「どうした?」
「酒桶からまくれてお前、ここやられてのう。」安次は胸を押えてみせた。
「ふむ、よう死なんでこっちゃして?」
「死にゃお前結構やが、運の悪い時ゃ悪いもんで、傷ひとつしやへんのや。親方に金出さそうと思うたかて、勝手の病気やぬかしてさ。鐚銭一文出しやがらんでお前、代りに暇出しやがって。」
「そうか、道理で顔が青いって。」
「そうやろが。」
「そしてこれから何処行きや?」
「何処って、俺に行くとこあるものか。母屋に厄介になろうと思うて帰って来たのやが、秋公がお前、南の家は株内やぬかして、引っ張って来よったのや、ほんまに済まんこっちゃ。」
「秋が連れて来たんか?」
「うん、秋がお前、株内はここだけや云いよってさ。」
「母屋へ行け母屋へ。かまうか、俺がつれてってやろ。あいつ、ほんまに猾い奴や!」
「お前頼んでくれんか?」
「ええとも、あの餓鬼ったら、仕様のない奴や。」
「そうしてくれのう。土産も何もあらへんけど、二円五十銭持ってるのやが、どうにかならんかのう?」
「要るもんか。」
「要らんか、頼むぜ。」
「行こ行こ。」
「ちょっと待ってくれ、お霜さん、飯ないかなア、腹へって、腹へって。」
「飯か? 今頃お前、夕飯前でこれから焚くとこやがな。」
「ちょびっとでも好えがな。」
「じゃ見て来てやるわ。」
お霜は台所へ這入った。勘次は表へ出て北の方を眺めてみたが、秋三の姿は竹藪の向うに消えていた。彼は又秋三とひと争いをしなければならぬと思った。そして、胸の中で、自分は安次を引取ることに異議を立てるのではなく、秋三の狡猾さに立腹しているのだと理窟も一度立ててみた。が、事実は秋三や母のお霜がしたように、病人の乞食を食客に置く間の様々な不愉快さと、経費とを一瞬の間に計算した。
お霜は麦粉に茶を混ぜて安次に出した。
「飯はちょっともないのやわ、こんなもんでも好けりゃ食べやいせ。」
「そうかな、大きに大きに。」
「塩が足らんだら云いや。」
「結構結構。」
安次は茶碗からすが眼を出して口を動かした。
「こりゃええ、麦粉かな?」
「こりゃ麦や、塩加減はええか?」
「上加減や、こりゃうまい、お霜さん、わしは酒加減はよう味るぞな、一時亀山でや、わしがおらんと倉が持ていでのう。」
勘次は安次を待つのが五月蠅かった。ひとり出かけて行って秋三の狡さを詰ろうかとも思ったが、それは矢張り自分にとって不得策だと考えつくと、今更安次を連れて来てにじり附けた秋三の抜け目のない遣方に、又腹立たしくなって来た。
安次は食べ終ると暫く缶詰棚を眺めながら、
「しびは美味いもんや。」とひとり言を云った。
煙は又風呂場の方から巻き込んで来た。お霜は洗濯竿の脱れた音を聞きつけて立ち上った。
「お霜さん。煙草一ぷく吸わしてくれんかな。」
「安次、行くぞ。」勘次は云った。
「お前ひとりで行って来てくれんかよ。」
「お前、行かにゃ何んにもならんが。」
「もうお前、ひ怠るてひ怠るて歩けるか。」
「たったそこまでやないか、向うまで行ったら締めたもんや。お前図々しい構えてりゃことがあるかい。」
「堪えてくれ。もうもうお前、今夜あたりでも参るかもしれんのじゃ。」
「そんなことを云うてらちがあくか。」
「こらかなわんのう。」
「行こって、行こって、悪るうなりゃ俺が引き受けてやろぞ。」
「もうお前。」
「行こ行こ、何んじゃ!」
勘次は安次の手首をとった。安次は両足を菱張りに曲げて立ち上った。
秋三は麦の種播きに出掛けようと思っていた。が、勘次が安次を間もなく連れて来るにちがいなかろうと思われるとそう遠くへ行く気にもなれなかった。で、彼は軒で薪を割りながら暇々に家の中の人声に気をつけた。
よく肥えた秋三の母のお留は古着物を背負って、村々を廻って帰って来た。
「今日は馬が狸橋から落ちよってさ。」
彼女は人の見えない内庭へ這入って大声でそう云うと、荷を縁に下ろして顔を撫でた。が、便所へ行く筈だったと気が附くと、裾を捲って裏口へ行きかけたが、台所の土瓶が眼につくと、また咽喉が渇いているのに気がついた。彼女は土瓶を冠って湯を飲んだ。そこへ勘次が安次を連れて這入って来た。
「秋公いるかな?」
「お前今日な、馬が狸橋の上から落ちよってさ、そりゃ豪いこっちゃぞな。」とお留は云った。
「秋公はな! 今俺とこへ来よったんやが。」
「知らんぞな。わしゃ今帰ったばっかりやが。お前、馬が横倒しにどぶんと水の中へはまりよったら見い、馬ったら豪いものや。くれんといっぺんに起き返りよるな。ありゃ! 何んじゃ、お前安次やして!」
「さっき来たんやが、お前いやせんだ。」
安次は怒った肩を撫でながら縁に腰を下ろした。
「どうしてるのや?」
「どうって見た通りのざまや。」
「そうか。安次か。長いこと何処へ言ってたんや!」
「亀山や。」
「亀山か、近いところにいたんやして、お前何んじゃぞ、それ痩せて! 死神に憑かれたみたいやないか。」
「あかん。」
「あかんって、どうしたんやぞ。」
「医者がもうお前、持たん云いさらしてさ、心臓や。どだいわやや。」
「心臓や、それは困ったことやないか。まア待っとくれ。」
お留は周章てて厠へ行った。そして、戻るとき戸棚の抽出しから白紙を出して、一円包んで出て来ると安次に黙って握らせた。
「あかんのや、あかんのや、もうそんなことして貰うたて。」と安次は云って押し返した。
しかし、お留は無理に紙幣を握らせた。「薬飲んでるのか?」
「いいや、此の頃はもう飲みとうない。」
「叔母やん、秋がさっき来てな、安次を俺とこへ置いとけって云うのやが、俺とこは困るぜ。」と勘次はきり出した。
「何んやぞ? わし一寸も知らんが。」
「秋公はひどい奴や、こんな病人を俺とこへ無理に引っ張って来てさ。」
「そうかな、あいつ何処へ行っとるのやろ。」
「ほんとにあいつは酷い奴やぞ、わざわざ母屋へ頼って来てるのに、俺とこへ連れて来て、何ぼ何でもあんまりや!」
「わしとこにいりゃええわして。」
「阿呆ぬかせ!」と秋三は裏口から叫んで這入って来た。
「秋公、お前、ひどすぎるやないか。」と勘次は云った。
「何がひどい。手前とこは株内や、株内が引きとるのに何の不足がある。」
「お前こそ母屋やないか。母屋のなりして、株内へ廻すってことがあるかい。」
「母屋や、阿呆たれよ、どこがどう母屋や。それを検べてから云うて来い。」
「安次が母屋母屋云うてりゃ、それで分ってるこっちゃ。何も母屋やないもの頼って来る理窟があるか。」
「そんなもの、何代前の母屋かしれたもんか。俺とこが母屋やったら、何処でも母屋や。こんな死にぞこないの、油虫みたいな奴は、どこへへたばりさらすか知れるかい。」
「もう止さえせ。昼日中喧嘩して!」とお留は口を入れた。
「お母ア、黙っとりゃええんじゃ。」
「秋公頼むわ。どこへでもええで寝さしてくれよ。」と安次は云った。
「ぬかしてよ。汝や汝で、何ぜ俺とこを母屋やなんてたれるのや。どこで聞いて来た。他家んとこへ来るなら来るで、ちゃんとして来い。」
「そんなに大っきな声出さんでも、ええわして。」とお留は云った。
「いいや、声ででも嚇しつけんと、こんな奴、何さらすかしれん。」
「阿呆なこと云うてんと、置いといてやらえな。」
「こんな奴置く位なら、石の頭巾冠ってる方が、ましじゃ。」
勘次は今が引き時だと思った。そして、そのまま黙って帰りかけると、秋三は彼を呼びとめた。
「勘公、此奴をどうするつもりや。」
「どうするって、こちゃ知らんわ。」
「知らん! もういっぺん云うてみよ。」
「こちゃ知らんてことよ。」
勘次は後も見ずに帰っていった。秋三は勘次の後を追い馳けようとして二三歩進んだが、又引き返すと、縁へごろりと横になっている安次の襟を持ってひき起した。
「寝さらして、こら!」
「もう勘忍してくれ。」
「勘忍も糸瓜もあるかえ。南へ行きやがれ南へ。」
「もうお前、へたばるが。」
「立てったら、立ちさらせ。」
安次は蹲んだまま怒った片肩をなお張り上げて、戸口までずるずる引き摺られた。
「そんなことせんと、ここで休ましといてやらえな。」とお留は云った。
「何アに此の餓鬼、贋病使うてくさるのや、あっこまで歩けんことあるものか。」
「痛いが、痛いが、痛いたら!」と安次は云った。
「やかましい、歩け歩け!」
秋三は忙しそうに安次を曳いて、勘次を見守りながらまた南の方へ下って行った。
お留は安次に渡した一円の紙幣が庭に落ちているのを見ると、走って行って渡そうかと思ったが、しかしそれでは却って追い出すようでいけないし、
「まア好えわア。」と彼女は呟いた。
それより此の次もう一円増してやる方が、息子の無情な仕打ちを差し引いて功徳になるように思われた。彼女は台所へ戻ると又土瓶を冠って湯を飲んだ。
勘次は後から追って来る秋三の視線を強く背中に感じ出した。足がだんだんと早くなった。それに何ぜだか後を見ていることが出来なかった。竹藪を廻ると急に彼は駈け出したが、結局このままでは自分から折れない限り、二人の間でいつまでも安次を送り合わねばならぬと考えついた時には、もう彼の足は鈍っていた。そして今逆に先手を打って、安次を秋三から心良く寛大に引き取ってやったとしたならば、自分の富の権威を一倍敵に感ぜしめもし、彼の背徳を良心に責めしめもする良策になりはしないか、と考えついた時には、早や彼は家に帰って風呂の湯加減をみる為に、一寸手さきを湯の中につけていた。が、更に又彼は自分の愛人の姿を思い浮べて考えた。もしそうして彼女が自分の博愛を聞き知ったとしたならば? それは確に幸福な婚姻の日を、早めるに役立つことになるだろう。
秋三は着いた。不足な賃銀を握った馬丁のように荒々しく安次を曳いて、
「勘次、勘次。」と呼びながら這入って来た。勘次は黙って出迎えた。
「これ勘公、逃げさらすなよ。」
「遠いところを済まんのう、何んべんも。」
秋三は急に静な微笑を浮べた勘次のその出方が腑に落ちかねた。
「安次、手前ここに構えとれよ。今度俺とこへ来さらしたら、殴打しまくるぞ。」
安次は戸口へ蹲んだまま俯向いて、
「もうどうなとしてくれ。」と小声で云った。
「当分ここにおったらええが、その中に良うなろうぜ。」
そう勘次が静に云うと、安次は急に元気な声で早口に、
「すまんこっちゃ、すまんこっちゃ。」
と云いながら続けさまに叩頭した。勘次は落ちつけば落ちつく程、胸の底が爽やかに揺れて来た。が、秋三は勘次の気持を見破ると、盛り上って来た怒りが急に折れて侮辱の念に変って来た。と同時に安次の弱さに腹の底から憎悪を感じると、彼の掌はいきなり叩頭している安次の片頬をぴしゃりと打った。
「しっかり、養生しやれ。」
秋三は嘲弄した微笑を勘次に投げた。
「ええか、頼んだぞ。」と彼は云うと、威勢好く表へ立った。
勘次は秋三の微笑から冷たい風のような寒さを感じた。彼は暫く庭の上を見詰めたまま動けなかった。
「すまんこっちゃわ、えらい厄介かけてのう、大きに大きに。」
勘次も安次に叩頭されればされる程、不思議に安次を軽蔑したくなって来た。彼は黙って裏の井戸傍へ立って来た。が、秋三の冷たい微笑を思い出すと身体が竦んで固まった。彼は秋三に追いついて力限り打ち踣めしてしまいたかった。恋人との婚姻もこのまま永久に引き延ばしていたかった。そして、安次を最も残忍な方法で放逐して了ったならば、彼は秋三の嘲笑を一瞬にして見返すことが出来るように思われた。
安次は股引の紐を結びながら裏口へ出て来ると、水溜の傍の台石に腰を下ろした。彼は遠い物音を聞くように少し首を延ばして、癖ついた幽かな笑いを脣に浮かべながら水菜畑を眺めていた。数羽の鶏の群れが藁小屋を廻って、梨の木の下から一羽ずつ静に彼の方へ寄って来た。
「好えチャボや。」と安次は呟いて鶏の群れを眺めていた。
お霜は遅れた一羽の鶏を片足で追いつつ大根を抱えて藁小屋の裏から現れた。
「また来たんか?」
「また厄介になったんや、すまんが頼むぞな。ええチャボやな。こいつなら大分大っきな卵を産みよるやろ?」
「勘はな?」
「さア、今そこにうろうろしていらったが。」
安次は三尺の中から丸めた紙幣をとり出した。
「お霜さん。これ持っててくれんかな。二円五十銭あるのやが、何ぞの足しに、ならんかな。」
「そんなにたんと預かっておいて、お前使うて了うたらどうするぞ。」と、お霜は笑って云った。
「何アに使うて貰うたら結構や。持っててお呉れ、使い残りで悪いけど、それだけばち有りゃせんのや。」
「まアお前持ってやいな。お霜さんが安次の金とったなんて云われると、こちゃ困るわ。」
お霜は家の中へ這入って大根を切った。安次はまた三尺の中へ紙幣を巻くと、
「トトトトトト。」
と呼びながら鶏の方へ手を延ばした。どこかで土を掘り返す鋤の音がした。菜園の上からは白い一条の煙が立ち昇っていて、ゆるく西の方へ靡いていた。
勘次は叺を抱えて蔵の中から出て来ると、誰にも相手にされず、台石の上でひとりぼんやりしている安次の姿が眼についた。それは弱々しいとり残された者の感じで不意に彼の心に迫って来た。と勘次は急に今までと全く違った愛情を安次に対して感じ出した。
「安次、今晩は御馳走を食わそうか、よう?」
「いいや、もう結構や。」
「風呂が沸いてるぞ、お前這入らんか?」
「あかんのじゃ、あいつに這入ると、やられるんじゃ。」
「そうかて、いつまでも這入らずにいられまいが。」
「何アに、もうお前かれこれ二タ月這入らんが。」
「二タ月よ?」
安次はまた三尺から紙幣を出すと近寄って来た勘次にそれを差し出した。
「お前これ持ってくれんかのう。二円五十銭あるのやが、何んぞの足しになるやろぜ。」
「自分で持ってりゃええやないか。」
「こんなもの、五月蠅うてしょうがないが。」
勘次は安次の謟う容子を見るとまた不快になった。そのまま内庭へ這入って行って叺を下ろすと、流し元にいたお霜が嶮しい顔をして彼の傍へ寄って来た。
「お前まアどうするつもりや、あんな者連れ込んで来てさ。」
「抛っておいたらええが。」
「抛っておけって、たちまちお前どこへ置くぞ。汚い! わしは知らんぞな。お前勝手に世話しやいせ。」
「ええが。」
「ええがも無いやないか。お前たちまちどこへ寝せるつもりや。食わす位ならまだ我慢もしよが、どんと寝附かれて動きもこじりも出来んようになったらどうするぞ!」
「抛っといたらええってば。」
「抛っといてそれで済むもんならええわさ。それより、お前どこで寝せるぞ、奥の間か?」
「小屋へ置いときゃええ。」
「たあいもないお前、あんとこで死なれてみい。五月になったら蚕さん夜養せんならんのに誰が恐うて行くもんがあるぞ。お前の阿呆にもあきれるわ。」
「秋が連れて来たんやないか、秋に怒ったらええ。」
「秋ってあの餓鬼、どうも仕方のない奴や。ひとん所の恩も知りさらさんとからに、ひとん処へあんな者引っ張って来やがってな、私今晩喧嘩しまくってやらんならん!」お霜は呟きながらまた大根を切った。
「米を何んぼ出しとこう?」
「連れて来るものがないと、終いにゃあんな乞食の病人引っ張って来さらして!」
「米をよ。」
「一斗でええ。」とお霜はわが子に怒鳴り出した。
夜、お霜が秋三の家へ安次を連れて行くと云い出したとき、勘次は秋三の前でいかにも寛大に安次を引き取った自分の態度を思い出した。これは困った。しかし、安次を拒んでいるのは自分ではないと思うと気が休まった。それに母親ひとりでとても秋三を説き伏せ終おせるものではないのを知ると、結局また安次は自分の家に落ちつくにちがいないと考えた。でお霜が出掛けてゆくことには、余り親子争いをしたくなかった彼は、外見、自分も母親同様の考えだと云うことを、ただ彼女だけに知らせるために黙っていた。が、安次を連れて行くことには反対した。けれども、自分のその気持を秋三に知らさない限り、自分の骨折りが何の役に立つだろう。そう思うと彼には秋三の罵倒が眼に見えた。が、また自分に安次を引き受ける気持のある以上、敵の罵倒に反抗し得るだけの力は、自然出て来るであろうと思われた。
秋三の母はひと笊豆をむき終えた。そこへ姉のお霜は黙って一人這入って来た。
「姉やんか。丁度ええわ。あのな、生繻子の丸帯が出たのやが、そりゃ安いのや、買わいせな。」とお留は云った。
「それよりお前とこの秋って、どうも仕様のない奴やぞ。株内やぬかしてからに、わしとこへお前、安次みたいな者引っ張って来さらしてさ。お前とこが困るなら、わしとこかて同じこっちゃ。」
「秋ゃいくら云うても聞きゃせんのやして。あんな者の云うこと生しやいすな。」
「そうかて連れて来られたもの、黙っていられるかいな。」
「うちへ連れて来やいせ。何処かて同じこっちゃがな。なア姉やん、中古でな、ほんまに持って来いやが見せようか。織留のとこに一寸した汚点があるのやが、二円五十銭にしとくわな。」
「要らん要らん。銭がないわ。」
「直ぐ売れてしまうで今やなきゃあかんぞな。銭なんていつでもええわ。上村の三造さんの嫁さんに頼まれてるのやで、姉やんが要らんだら持っていくけど。」
「わしらそんな良えのしたかて、何処へも見せに行くところがないわ。」
「そんなこと云うてたら、裸体でいようかしらず、まアいっぺん見てみやいせ。」
お留が奥の間へ立っていった後へ、秋三は牛の雑炊をさげて表の方から帰って来た。
「秋よ、お前もお前やないか、とうとうわしとこへ安次をにじりつけてさ。」と、お霜は云った。
秋三はお霜の来た用事を悟ると痛快な気持が胸に拡った。彼はにやにやしながら云った。
「にじりつけるか。勘が引受けよったのやないか。勘に訊いてみい、勘に。」
「連れて来んもの、誰が引受けるぞ。」
「そりゃお前、お前とこが株内やで俺が連れて行くのはあたり前の話や。」
「お前株内や株内や云うけど、苗字が一緒やで株内やと定ってまいが、それに自分勝手に私とこへ連れて来て、たちまちわしとこが迷惑するやないか。」
「定ってら、あんな物に迷惑せんとこって、あるもんか。」
「そんならなぜわし所へ連れて来た?」
「伯母やんみたいなしぶったれや、あんな奴の世話、いっぺん位しといてもええぞ。」
「お前って、煑ても焼いても食えん奴やぞ! 業ざらし。」
「また喧嘩してるわ。もう止さえせ。」とお留は、帯を持って出て来て云った。
「こんなしぶったれ婆と、誰が喧嘩するか。」と秋三は笑って見せた。
「お前、黙っていやいて云うのにな!」
「こいつ、どうしたらええ奴やろ!」とお霜は秋三を睥んで云った。
「姉やん見やいせ。良え光沢やろが。汚点が惜しいことにちょっと附いてるのでな。」
お霜は差し出された丸帯を見向きもせず、
「いまに思いしらせてやるわ、覚えてよ。」とまた云った。
秋三は「帰ね帰ね」と云うとそのまま奥庭の方へ行きかけた。
「何を云うのや! 姉やん、あんな奴に相手にならんと、まア一寸此の帯を見やいせな。」
「そんなもの、どうでもええわ。それよか、安次のことをきりつけんと私とこが困るわ。」
「安次ならうちへ連れて来てたもれ。なア、手にとって見てみやえな。中古でも夜さりゃと新に買うたように見えようがな。」
「そんなら安次を連れて来るぜ。帯は後でゆっくり見せて貰うわ。」
「あかんぞ、あかんぞ!」と秋三は叫ぶと、奥庭から柄杓を持って走って来た。
「うちへ置いといてやってもええわして。」とお留は云った。
「あかん。」
「そんなこと云うてたら、仕方あらへんやないか。」
「あかん、あかん。」
「おかしい子やな。あんな死にかけてる者、何処へ行くところがあるぞ、可哀想に。」
「あんな腐った鰯みたいな奴と一緒にいたら、虫が湧くわ。」
「そんな無茶苦茶云うてんと。」
「あかんったらあかん。南のが引き取りゃそれでええんじゃ。」
「お前とこ虫が湧きゃ、わしとこでも虫が湧くわ。」とお霜は云った。
「勘が引受けよったんや。不足があるなら何処へでも抛り出しゃええ。俺とこはもう関係があるもんか。」
「勘が引受けたって、勘はお前、お前が無理に連れて来たで、置いたまでのことやないか。」
「どう云うたかよう勘にきいて来い。」
「勘は知らんと云うとったが。」
「知らん? よしッ、そんなら勘を呼んで来い。殴打しまくってやるぞ。」
「秋よ、もう黙っていやいせ!」とお留は叱った。
「いいや、勘の餓鬼、豪そうな顔して引受けさらしたくせに、そんなほざいたことをぬかしてるなら、こちにも考えがあるわ。」
「ひちくどい! もうええわして。」
「云うとこまで云わにゃことが分るかい。勘を呼んで来い、勘を。」
「姉やん、もうこうなったら本当にきりがないでな。姉やんとこ今晩ひと晩、安次を置いといてやっとくれ。」
「そんな鳥黐桶へ足突っこむようなこと、わしらかなわんわ。」とお霜は云った。
「ひと晩でええわ。そしたら明日どこぞへ小屋建てよう、清溝の柿の木の横へでも、藁でちょっと建てりゃわけやないわして、半日で建つがな。」
「それでもお前、十五六円やそこらかかろがな?」
「その位はそりゃかかるわさ。そやけど瓦のかけらでもあろまいし、藁ばっかしで建てたら後が何なと間に合うがな、なア、そうしようまいか?」
「藁かて二三十束も要るやないか。」
「そんなもの、高が知れてるわして。あんな安次みたいな者を世話しといたら、功徳になるぞな。」
「ひんなかで建つやろか?」
「そればっかしにかかりゃ半日で建つやろまいか。皆で建てよまいか。そしたら私ゃお粥位毎日運んでやるし、姉やんとこ抛っときゃええわ。」
「そうしようか、藁三十束で足るかお前?」
「足るとも。三畳敷位の小っちゃいのでけっこうやさ。それで安次も一生落ちつけるのや、有難いもんやないか。」
「あんな奴、抛っとけ。」秋三は笑いながら云った。
「阿呆ばっかし云うて!」とお留は叱った。
「あんな碌でもない奴は、人目につかん処で死にさらしゃええんじゃ。」
「お前はよっぽど罰あたりやぞ!」
「俺が罰あたりなら、南の伯母やんら、とっくの昔罰あたって死んでら。のう伯母やん?」
「あれ見やえ!」とお留は云って姉を見た。
お霜は何か考えているらしく黙っていたが、
「お前、小屋建てるなら組で建てて貰うまいか?」と云い出した。
「組が建ててくれりゃ結構やけどなア。」
「そりゃ建てるわさ。いっぺん組長さんに相談してみよまいか?」
「どうなと勝手にせ!」と秋三は云って又奥庭の方へ這入って行った。
「そんなことしてると、またごてごて長びくでな。」とお留は云った。
「そうかてお前、実の所は組が引きとらんならんのやして、お前とこが母屋や云うたて、そんなこと昔から云うてるだけで、何も特別と安次とこと交際してたわけでもなしさ。うちかて株内や云うたてはっきりしたことって何一つないのやし、組が引取らんならんのや。なアそうやろう? その間、わし処に安次を置いとくわ。」
「そんねにうまい工合にいくやろか?」
「まア事は何でもあたってみよや。組長さんに相談してみよにさ。」
「そうしてみるか?」
「なア? わし、これから行って来るわ、事は何んでも当って見よや。何も母屋や株内や云うたかて名だけや。わし一寸これから行って来うぞ。」
お霜は外へ出ていった。
「しぶったれ!」と秋三は奥庭から叫んだ。しかし、勘次と反馳してゆくお霜の出方がますます彼を喜ばしめた。
「こりゃ面白い、こりゃ面白い。」と、秋三は膝を叩いて喜び出した。
お留は丸帯の汚点をランプの下に晒してみた。小指の爪で一寸擦ると、
「こりゃ姉やんに持って来いやがなア。」と云いながらまた奥の間へ這入っていった。
安次の小屋が組から建てられることに定ったと知ったとき、勘次は母親をその夜秋三の家へ送ったことを後悔した。しかし、今はもうその方が何方にとっても得策であるに拘らず、強いてそれを打ち壊してまでも自分は自分の博愛を秋三に示さねばならないか? いやそれよりも、一体秋三とは何者か? そう思うと、彼は今一段自分の狡猾さを増して、自分から明らかに堂々と以後一家で負う可き一切の煩雑さを、秋三に尽く背負わして了ったならば、その鮮かな謀叛の手腕が、いかに辛辣に秋三の胸を突き刺すであろうと思われた。
彼は初めて秋三に復讐し終えたような快活な気持になった。
一週間の後、小さな藁小屋が掘割の傍に建てられた。そこは秋三の家に属している空地であった。
その日最早や安次は自由に歩くことも出来なくなっていた。彼は勘次の家の小屋から戸板に吊られて新しい小屋まで運ばれた。
勘次は自分の手から全く安次が離れていったのだと思うと、今迄の安次に向っていた自分の態度は、尽く秋三に動かされていた自分の頭の所作事であったと気が附いた。けれども別に何の悔い心も起らなかった。ただ彼は自分の博愛心を恋人に知らす機会を失つたことを少なからず後悔した後で、それほどまでも秋三に踊らせられた自分の小心が腹立たしくなって来た。が、曽て敵の面前で踊った彼の寛大なあのひと踊りの姿は、一体彼の心の何処へ封じ込まねばならないのか? 彼は次第に不機嫌になって来た。
「厄介者が行ってくれたんで、晴々するわ。あんな者にいられると、こちまで病気つくがな。」
お霜は安次の立った後の掃除をしながらそう勘次に云った。勘次は何ぜだか母親に突きかかっていきたくなったが黙っていた。
「それでもお前のお蔭でみやいせ、蒲団三枚も損したわ。あの蒲団かて手織やが、まだそんねに着やせんのやぞ。お前ら碌なことしやせんのや。」
「好きで誰が連れて来る!」と息子は強く云った。お霜は何ぜ息子が怒り出したのかを疑いながら、
「お前が要らんことせなんだら誰が来るぞ!」と云い返した。
「済んでから、ごてごて云うな!」
「云う云う。お前の阿呆にもあきれるわ。」
「勝手に饒舌ってよ!」
「要らんことばっかしてな。お前ら自家の財産減らすことより考えやせんのや。」
「安次の一疋やそこら何んじゃ。それに組へのこのこ出かけていって恰好の悪いこと知らんのか!」
「何を云うのや、お前!」
お霜は勘次をじっと見た。
「しぶったれ!」勘次は小屋の外へ出ていった。
お霜は何ぜ勘次が怒るのか全く分らなかった。が、自分の吝嗇の一事として、曽て勘次を想わない念から出たことがあっただろうか? 彼女は追っ馳けていって自分の悩ましさを尽く勘次に投げかけてやりたくなった。すると涙が溢れて来た。
お霜が安次の小屋へ行ってみたとき、もう組の人達は帰っていた。
「厄介ばっかしかけて、ほんまにすまんこっちゃ。」
安次はお霜を見ると弱々しい声で云った。お霜は彼の声からいかにも有難そうな気持を感じると初めて愉快になって来た。
「きょうは天気がよいで気持好かろが、ここにいたらお前、ええ隠居さんやがな。」
彼女は貸した安次の着ている蒲団を一寸見た。そして彼が死んでからまだ役に立つかどうかと考えたが、彼女の気持が良ければ良いだけ、安次を世話した自分の徳が、死んだ良人の「あの世の苦しさ」まで滅ぼすように思われてありがたくなって来た。彼女は入口の筵戸を捲き上げた。陽の光りは新しい小屋いっぱいに流れ込んだ。病人の頬や眼窩や咽喉の窪みに深い影が落ちて鎮まった。お霜は床に腰を下ろすと、うっとりしながら眼の前に拡っている茶の木畑のよく刈り摘まれた円い波々を眺めていた。小屋の裏手の深い掘割の底を流れる水の音がした。石橋を渡る駄馬の蹄の音もした。そして、満腹の雀は弛んだ電線の上で、無用な囀りを続けながらも尚おいよいよ脹れて落ちついた。
「姉さん、すまんな、今お医者さんとこへ行って来たんやわ。もう来てくれやっしゃるやろ。」
暫くしてお霜はお留に呼び醒まされて彼女を見た。
「どうや、一寸はええか?」とお留は安次を覗いて訊いた。
「すまんこっちゃ、皆に厄介かけるなア。」
お霜は妹にそう云っている安次の声からも感謝の気持を見出した。そして、自分が預る「仏の利生」を、それだけ妹の方に分けられはすまいかと、今さら不安な気持が起って来ると、自分よりも先に医者を迎えに行ったお留の仕打ちに微かな嫉妬を感じて来た。
「何ぞ欲しいものはないか?」とお霜は安次に訊いた。
「結構や。」
「お前この間、銭持ってたの、どうしたぞ。それだけ欲しいもんでも買う方が好かろが?」
「火ん中へ燻べて了うた。」
「燻べた!」
「邪魔になって仕様がない。」
「たあいもない。どうや、あんな物燻べて何んにもならんやないか!」
「もう半分気が触れてるのやぞ。」とお留は云った。
二人は暫く安次の痩せ衰えた顔を黙って眺めていた。すると、どちらも同じように、病人が最早や自分達と余程離れた不思議な遠い世界にいることを感じて恐ろしくなって来た。が直ぐその後で、お霜は病人が紙幣を自分に預ってくれと頼んだとき、預っておけば好かったと思って後悔した。だが、お留は、安次に与えようとしてまだそのままにしておいた金包のことを思い出すと、今まで忘れていたのは結局自分に仏様がそれだけ授けて下さったのだと思って喜んだ。
霜が降りた。夜が明け初めると間もなくその日は晴れ渡るであろう。山々の枯れた姿の上には緑色の霞が流れていた。いつもの雀は早くから安次の新しい小屋の藁条を抜きとっては巣に帰った。が、一疋の空腹な雀は、小屋の前に降りると小刻みに霜を蹴りつつ、垂れ下った筵戸の隙間から小屋の中へ這入っていった。
中では、安次が蒲団から紫色の斑紋を浮かばせた怒った肩をそり出したまま、左右に延ばした両手の指を、縊られた鶴の爪のように鋭く曲げて冷たくなっていた。が、雀は一粒の餌さえも見附けることが出来なかった。で、小屋の中を小声で囀りながら一廻りすると外へ出て来て、また茶畑の方へ霜を蹴り蹴りぴょんぴょんと飛んでいった。
野路では霜柱が崩れ始めた。お霜は粥を入れた小鉢を抱えたまま、
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。安次が死んどる。熱いお粥食わそう思って持っててやったのに、死んどるわア。」と叫びながら、秋三の家の裏口から馳け込んだ。
お霜の叫びに納戸からお留が出て来た。秋三は藁小屋から飛び出て来た。そして二人が安次の小屋へ馳けて行くと、お霜はそのまま自分の家へ馳けて帰って勘次に云った。
「お前えらいこっちゃ。安次が死によった。折角お粥持っててやったのに、冷とうなって死んどるのやして。」
「死によったか!」
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。」
お霜は小鉢を台所へ置くと、さて何をして好いものかと迷ったが、別に大事な出来事が起ったのでもなく、ただ自分ひとりが勝手に狼狽えているのだと気が附いた。が、その狼狽えたどこかには、常より却って晴やかな気持が流れていたことには彼女とても気附かなかった。
勘次とお霜は直ぐ又安次の小屋へ行った。勘次は初め秋三と顔を合すのが不快さに行きたくはなかったが、それは却って秋三を恐れているようでいけないし、とうとう何時の間に決心したのか自分ながら分らずに、ただ母親に曳かれる気持で小屋へ来た。
「おい、喜びやれ、往生しよったぞ。」
秋三は勘次を見るなり皮肉な微笑を浮かべて云った。
勘次は彼の微笑から曽て覚えた嘲弄を感じると、憤りが胸に込み上げた。が、それを見抜かれるのが不快であった。彼は入口に下っていた筵戸を引きちぎって、
「こんな邪魔物は要らんやろが。」とごまかした。
「伯母やんに訊いてみよ、神棚へでも吊らっしゃろで。」
勘次は秋三を一寸睥んだが、また黙って霜解けの湿った路の上へ筵を敷いて上から踏んだ。
「さアお前らぼんやりしてんと、どうするのや?」とお霜は云った。
「和尚さん呼んで来うまいか。」とお留は云った。
「それよか何より棺桶や。棺桶どうする?」と秋三は云い出した。
「うちのお父つぁんの死んだときは棺桶やったが、あれでもお前、八円したぞな。」とお霜は云った。
「六分板やろが。あれならその位かかるわさ。杉の四分板やったら五円位で出来るやろ。」とお留は云った。
「大分苦しみよったらしいな。」
勘次は安次の紫色に変っている指さきを弄びながらそう云うと、
「苦しかったやろまいか。可哀想に、水いっぱい飲ましてくれる者がありゃせんしさ。」とお留が云った。
「やっぱり極道すると、碌な死にざま出来やせんなア。」とお霜は云った。
「棺桶どうする。」と秋三はまた云い出した。
「箱棺で好かろが。あれなら三円位で出来るしな。」
「寝棺はどうや、もっと安かろが?」
「寝棺は高い高い。どんねに安うても十両はかかる。」
「そうか。そんなら箱棺の口や。どうや伯母やん。ひとつ奮発してくれんか?」
「伯母やん。伯母やんって、損のいくことやったら、何んでもわしににじりつけるのやな。わしとこはもう、蒲団出したやないか。お前とこしてやれ。」
「そうかて、本当に勘が何もかも引き受けよったんやないか。そのくせ組へにじりつけて了うてさ。棺桶ぐらいしてもええぞ。」
「うちのがしたらええわして。」とお留は秋三をたしなめた。
「俺がする。」と勘次は云った。
「それみよ。」と秋三は煽てて云って、勘次の額に現れ始めた怒りの条を見れば見る程、ますます軽快に皮肉の言葉が流れそうに思われた。
「勘よ、うちにビール箱が沢山あったやろが、あれで作ったらどうやろな?」とお霜は云い出した。
秋三はにやにや笑いながら、
「そいつは好え。あれなら八分板や、あんなもんでして貰うたら、それこそ極楽へ行きよるに定ってる。やっぱり伯母やんやなけりゃ、ええ考えが出て来んわ。」
「なア、あれはほんとに好かろが、三つ位で出来るやろ。」
「二つでええとも。あれでして貰うたら、安次もなかなか腐らへんわ。そりゃ結構や。」とお留は云った。
「勘よ。お前これから帰んで、一寸拵えて来てくれんか。」
勘次は黙って帰って来た。母親が煽動に乗せられているのを思うと、別に大工の手にかけて棺を造ろうかと思った。が、しかし一々秋三に反抗するのもあまり大人気ないように思われた。が、何かにつけて自分の弱味──安次を組の手に押し附けたと云う此の弱味、それは自分の知らないことだと彼一人拒否したとて免れないその点に、──絶えず触れて出ようとする秋三の態度には我慢がしきれなかった。彼は棚からビール箱を下ろすと、一枚一枚釘打で板を放した。放しながら、秋三を叩いている所を想像すると、尚お彼の力は加わった。
「此の餓鬼! 此の餓鬼! 此の餓鬼!」
彼は釘打を振り上げては打ち下ろした。すると、自分が棺を造っているのだと云うことも忘れて了って、だんだん加わって来る気持良い興奮の中に、間もなく彼は三つの箱をばらばらの板切れにして了った。そして、一時間の後には旭の紋の浮き上った四角い大きな箱棺が安次の小屋へ運ばれていた。
「こりゃ上等や。こんなんなら俺でも這入りたいが。どうや伯母やん、一寸這入ってみやえ。」と秋三はお霜に云って、勘次の造って来た箱棺を叩いてみた。
「冗談云わんと、早よ安次を入れてたもれ。」とお霜は云った。
「こんな汚い奴、俺ゃ知らんぞ。」
「何でも知らん知らんと云うてよ。」
お霜は安次の蒲団を捲って、「早う。」と秋三を促した。
「おい、掻き込もうやないか、汚い。」
秋三は勘次にそう云って棺を横に倒すと安次の死体の傍へ近寄せた。
二人は安次の身体を転がしながら、棺の中へ掻き寄せようとした。が、張り切った死人の手足が縁に閊えて嵌らなかった。秋三は堅い柴を折るように、膝頭で安次の手足の関節をへし折った。そして、棺を立てると身体はごそりと音を立てて横さまに底へ辷った。
秋三は棺を一人で吊り上げてみた。
「此奴、軽石みたいな奴や。」
「そやそや、お前今頃から棺桶の中へ入れたらあかんがな。お医者さんの診断書貰うて、役場へ死亡届出さにゃ叱られるわして。」とお留は云った。
「そんなら、もういっぺん打ちやけるか?」
秋三はお霜を眺めてそう訊くと、お霜は安次の着ていた蒲団を摘まみ上げて眺めた。
「そんな汚い物、焼いて了え。」と秋三は云った。
「よう云うてくれるな。これでもお前、洗濯してちゃんとしたら、結構間に合うわ。」
「まだそれでも、着て寝よう思うてるのやな。」
「きまってるわ。」
「しぶったれ!」
「何がしぶったれや!」
「まアまア伯母やんみたいなしぶったれて、あったもんやないわ。」
すると、お霜はいつになく厳しい眼付で秋三を睥みながら腰を延ばした。
「よう云うな! 汝や自分の棟の下で飯が食っていけるのは、誰のお蔭やと思うてる。此のしぶったれの伯母が有ってこそやぞ。それも知りさらさんとからに、渋ったれ渋ったれって一寸は人の恩も考えてから云いや!」
「ぬかしてよ! 俺とこが恩受けてるのは、手前とこの親父にじゃ。」
「わしがいなんだら、誰がお前らに恩を施すぞ!」
「恩恩って、大っきな声でぬかすな! 手前とこが有るばっかしで、俺とこまで穢しやがって、そんな恩施しなら、いつなと持っていけ!」
勘次は怒りのために慄え出した。と、彼は黙って秋三の顔を横から殴打った。秋三は蹌踉めいた。が、背面の藁戸を掴んで踏み停ると、
「何さらす。」と叫んで振り返った。
再び勘次は横さまに拳を振った。秋三は飛びかかった。と忽ち二人は襟を握って、無数の釘を打ち込むように打ち合った。ばたりと止めて組み合った。母親達は叫びを上げた。彼女達は、夫々自分の息子を引き放そうとした。が、二人の塊りは無言のまま微かな唸りを吐きつつ突き立って、鈍い振子のように暫く左右に揺れていた。
「此の餓鬼めッ。」
「くそったれッ。」
勘次の身体は秋三を抱きながら、どっと後の棺を倒して蒲団の上へ顛覆した。安次の半身は棺から俯伏に飛び出した。四つの足は跳ね合った。安次の死体は二人に蹴りつけられる度毎に、へし折れた両手を振って身を踊らせた。と、間もなく、二人は爆ぜた栗のように飛び上った。血が二人の鼻から流れて来た。
「エーイくそッ。」
「何にをッ。」
二人は再び一つに組みついた。と、また二人は安次の上へどっと倒れると、血に濡れながら死体の上で蹴り合い出した。
底本:「日本文學全集 29 横光利一集」新潮社
1961(昭和36)年2月20日
1966(昭和41)年12月30日15刷
初出:「人間」
1921(大正10)年2月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:ウィルキンス賢侍
校正:米田
2012年1月4日作成
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