「ゼエレン・キェルケゴオル」序
和辻哲郎
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キェルケゴオルのドイツ訳全集は一九〇九年から一九一四年へかけて出版せられた。その以前にも前世紀の末八〇年代から九〇年代へかけて彼の著書はかなり翻訳せられたが、宗教的著作のほかは、かなり厳密を欠いたものであった。
彼に関する研究は、一八七九年に出たブランデスの論文が最も早いものの一つで、その後漸次多くなり、今世紀に入ってからは著しく盛んになっている。一九〇九年までには単行本が六冊、その後一九一三年までには単行本が十冊、雑誌の論文が十篇に達している。戦争が始まってから後にも『キルケゴオルとニイチェ』という本が出たそうである。
キェルケゴオルはその誠実な人格的生活、真生活築造の情熱、及びプラグマチズム風の認識論、特に主意的な人生観、著しい宗教的傾向、ただ宗教心の内にのみ真実になる個人主義、──などにおいて十分注意せられる価値がある。
私がキェルケゴオルを読み初めたのはきわめて偶然に菅原教造氏の勧めに従ったのであった。そして最初はあまり引きつけられなかった。ところが昨年の六月の初めに、突然彼の内部へはいったような心持ちを経験した。その後私はほとんど彼のみを読んだ。私は自分の問題と彼の問題とがきわめて近似していることを感じた。ついには彼の内に自分の問題のみを見た。
その問題は概括すれば「いかに生くべきか」に関している。自分の性質と要求との間の焦燥。自己を真実に活かすための種々の葛藤。自己の価値と運命とについての信念、情熱、不安。個性の最上位を信じながら社会的勢力との妥協を全然捨離し得ない苦悶。(金、地位、名声などに因する種々の心持ち。)愛の心と個性を重んずる心との争い。(女、肉欲、愛、結婚生活、親子の関係、自分の仕事などについての種々の心持ち。)個性と愛とを大きくするための主我欲との苦闘。主我欲を征服し得ないために日々に起こる醜い煩い。主我欲の根強い力と、それに身を委せようとする衝動と。愛と憎しみと。自己をありのままに肯定する心と、要求の前に自己の欠陥を恥ずる心と。誠実と自欺と。努力と無力と。生活を高めようとする心と、ほしいままに身を投げ出して楽欲を求むる心と。──これらのものが絶えず雑多な問題を呼び醒ます。
私の努力はそれと徹底的に戦って自己の生活を深く築くにある。私の心は日夜休むことがない。私は自分の内に醜く弱くまた悪いものを多量に認める。私は自己鍛錬によってこれらのものを焼き尽くさねばならぬ。しかし同時に私は自分の内に好いものをも認める。私はそれが成長することを祈り、また自己鞭撻によってその成長を助けることに努力する。これらのことのほかに、私は自己を最も好く活かす方法を知らない。──私は自己の内のある者を滅ぼすのが直ちに自己を逃避することになるとは思わない。私は自分の上に降りかかってくるように感じられる運命に対しては、それがいかに苦しいことであっても、勇ましく堪え忍び、それによって自己を培う。しかし事が自分の自由の内にあって自分の決意を待つものである限りは、私は自己の意志によってある者を殺し他の者を活かせる。もしくは一つの者を、殺した後に活かせる。これはもとより、私には容易なわざでない。それゆえ、私は精進する。
このような努力においてもキェルケゴオルは私のきわめて近い友であり、また師であった。
私はこの書において、できるだけキェルケゴオルを活かそうと努めたが、それがどのくらいに成功しているかは自分にはわからない。私は彼についての解釈があまり自分勝手になっていはしないかを恐れている。ことに私は、今振り返ってみると、日本人らしい accent で彼の思想感情を発音したように感じる。それにはギリシア及びキリスト教文明の教養の乏しいことも原因となっているに相違ない。しかしなお他に動かし難い必然がありはしないか。
私は近ごろほど自分が日本人であることを痛切に意識したことはない。そしてすべて世界的になっている永遠の偉人が、おのおのその民族の特質を最も好く活かしている事実に、私は一種の驚異の情をもって思い至った。最も特殊なものが真に普遍的になる。そうでない世界人は抽象である。混合人は腐敗である。──しかも私は真に日本的なものを予感するのみで、それが何であるかを知らない。私は我々の眼前にそれが現われていると信じたくない。なぜなら私は悪しき西洋文明と貧弱な日本文明との混血児が最も栄えつつあるのを見ているのだから。──しかし私は西洋文明を拒絶することによって真に日本的なものが現われるとは信じない。偉大な西洋文明を真髄まで吸収しつくした後に、初めて真に高貴な日本的がその内に現われるのではないだろうか。
この際このことを言うのはやや自己弁解に類する。しかし私はそう信じている。
今度の世界戦争は恐らく Menschheit の向上に何ら貢献するところがないだろう。物質主義はますます勢力を得るに相違ない。しかし断然たる反動は必ず起こらねばならぬ。我々は第二の Renaissance を期待する。新しい価値、自由にして剛健な内よりの道徳、個性の尊重、真の意味の実行、享楽の卑下、より高い者を実現するための誠実なる悩苦の生活。世紀末から世紀始めへかけて五六の偉人がその礎石を置いた。キェルケゴオルもまたその内に伍するのである。
この書の成るに当たって、永い間本を借してくだすった井上先生、大塚先生、小山内薫氏、本を送ってくだすった原太三郎氏、及び本の捜索に力を借してくだすった阿部次郎氏、岩波茂雄氏に厚くお礼を申し上げる。
大正四年八月
底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「時事新報」
1915(大正4)年9月7、8日
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
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