噴水物語
岡本かの子
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「それはヘロドトスの古希臘伝説中の朴野な噴水からアグリッパの拵えた羅馬市中百五つの豪壮な噴水、中世の僧院の捏怪な噴水、清寂な文芸復興期の噴水、バロッコ時代の技巧的な噴水──どれもみな目に見えぬものを水によって見ようとする人間の非望を現わしたものではないでしょうか」
「これも理想を追求する人間意慾の現れと見るときには、あまりに雛型過ぎて笑止なおもちゃじみた事柄ですが」
「だが英国くらい昔から噴水に縁の無い国はありませんわ」と若い夫人は老いたる良人のロジャー氏と私を交る交る見て笑いながら言った。
或る年の夏である。ロンドンのチェルシーに住む室内設計家エム・ロジャー氏の客間である。私はロジャー氏の新しく作った室内仕掛けの新噴水を見物するためにエドナ夫人から招かれた。夫人はただ古典詩人というばかりでなく東洋に非常に興味を持つというので、その招待は東洋の婦人の私に近付きを求める為めでもあった。
新噴水は大広間の床を大きく楕円形に掘り窪めて、その底に据えられてあった。
短い柱から肋骨のように左右相対に細長い水盤が重なって出ている。上は短かく次々と少しずつ長くなって、最後の盤はペリカンの嘴のように長い。盤の一つ一つは独木舟を差し込んだように唐突で単純に見えるが、その底は傾斜して水の波浪性を起用し、盤の突端までに三段の水沫を騰らしている。
水を圧し上げ、水を滴らす仕掛けとしてはこれで充分である。而も与えられたる水量を最も時間的空間的に形式表現化する方法手段に於ても経済的効果を極めている。(今ではこの様式のものは珍らしくもないが、当時独仏の表現派芸術が漸やく普遍実用化されて、家具や室内装飾に盛んに取り付け出された時代に、この様式の噴水は欧洲でも珍らしかった。まして英国では異端の方であった。)
私は床から四段ばかり階段になって下ったこの噴水の窪地へ降りて、ロジャー氏の説明を聴いた。ロジャー氏は齢のせいか少しとぼとぼする気魄を無理に緊張させるように警句を使ったり、誇張した譬えを持って来たりして、私に新噴水の力学上の関係や構造の近代性を頻りに説明した。磊落を装っているが、若い愛妻の詩的精神に使役されて、如何にこの噴水構造に苦心したかを暗に談話のうちにほのめかした。そしてやや疲労して来ると、若い夫人から絡みつかれている無形の電気網を振り切るように肘を頻りに後へ排する癖があった。
だんだん会談に疲れたか、氏は「科学は情熱だからね」と殆ど泣き笑いとでもいうべき語調を床にいる夫人の方へ投げかけた。夫人は素知らぬ顔で水量の平衡を保って、如何にも健全そうな噴水を、とみこう見していたが、
「なに言ってらっしゃるのです」と床から私のいる窪へ階段を降りて来た。
「あなたがいくら巧者なことを仰っしゃっても駄目ですわ、この噴水には水の仙女が一人も現れていませんわ」
「そらまた始まった」
ロジャー氏は苦笑して横を向いた。夫人は良人に構わず私に向いて言うのであった。水には落下の性を姿に現したプリムノという仙女と、流暢の性を現したカンリロエという仙女と、清浄を現したアカステという仙女と、飛沫を現したプレキサウレという仙女とが巣付いている。他の水の形ではこの中の一人か二人しか見えないけれども、噴水になるとこの四人の仙女が一度に現れるところが特色である。しかし、いくら噴水といっても凡庸のでは駄目である。名作になるとはじめてそれらが現れる──と。
私は「それは詩的象徴のお話しなんでしょう」と軽く訊ね返した。ところが夫人の答えは
「いえ、縹渺とほんとに目に現れるのです。私は随分見ました。方々のよい噴水で」
夫人はそれからベルサイユの噴水中ラトナの水盤の話や、フローレンスのベッキオ宮内の噴水の話や、現代ではシカゴのバッキンガムの噴水に現れる仙女の話をした。しかしより多くローマの噴水に就て語った。
この豊量に水に恵まれた都には、聖ピエトロ大伽藍前のピアッツアの噴水を中心にして、僧院にも市場にも全都に散在している。製作年代は各世紀に亙り、様式は時代の制約を受けつつ工夫の限りを尽している。
夫人はバルベリニ広場の「貝を吹くトリトン」を童話のようだと面白がった。ポリの邸館の広場に在る「トレビの噴水」を劇的だと言った。
「市街の広場を圧するほど展開した岩組が、簾の滝のように水で充ちている。その上にトリトンに牽かして行く貝殻型の車駕に御して海神が嘯いている。夏の真昼、水の落ち口の池の角のところに佇って、あのきらきら降り注ぐ陽の光の無音の雨の音と、滝の簾の音とぴったりリズムを合すときに、ひょっとすると岩の陰から少し青ざめたプリムノの仙女と白く薔薇色のプレキサウレの仙女とがふわっと浮び上って、くるくると身体を縺れ合すと直ぐ流れに融け込んで見えなくなってしまいます。不思議なことにそれに見惚れている間は何秒であるのか、何分であるのか、天地の物音はぴたりと音を止めたようになって、見ている者の意識に入らないのです。この間の恍惚の痺れ。これを何に譬えたらいいでしょうか。幻想を起さす為めに世紀末のフランスの廃頽詩人たちが喫んだアッシという土人の煙草なぞはおよそ不健康な恍惚の痺れです。噴水の恍惚は醒めたあと愈々精神を明澄にします」
ちょうどこの時分英国にはコナン・ドイルの神秘主義というものが流行っていた。舞台へ空の椅子を置いて、死人の魂を呼び戻すと称する集りなどが行われていた。私はエドナ夫人に「あなたはドイルの神秘主義を信奉なさいますか」と訊いてみた。夫人は「あんな通俗なもの、単なる霊媒術です」と言った。そして「私のは合理に拠る美的判断の結果、粗物を棄捨した現実脱化です。心理学的方法はリップスに拠りますが、むかしの羅典民族と同じエスプリです。詩人の魂です」と言った。
こういう話をする間、ロジャー氏は独りでぶつぶつ言いながら新噴水にかかずらっていた。その後、二三度訪ねたが、ロジャー氏は屋根を天文台のように蒼穹抜きにしてみたり、ステインド硝子を窓に嵌めたりしていた。新噴水を夫人の気に入るよう、いわゆる仙女が現われるよう効果を工夫してもいた。しかし夫人は相変らず「仙女が見えない」の一点張りだった。私はいくら美しく智的詩人型の若夫人でも、あんまり自分の幻想に固執して老夫を労わらなさ過ぎる態度に嫌な気がして遠のいてしまった。
底本:「岡本かの子全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年9月22日第1刷発行
底本の親本:「丸の内草話」青年書房
1939(昭和14)年5月発行
入力:門田裕志
校正:石井一成
2013年10月6日作成
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