浮舟
泉鏡花
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「浪花江の片葉の蘆の結ぼれかかり──よいやさ。」
と蹌踉として、
「これわいな。……いや、どっこいしょ。」
脱いで提げたる道中笠、一寸左手に持換えて、紺の風呂敷、桐油包、振分けの荷を両方、蝙蝠の憑物めかいて、振落しそうに掛けた肩を、自棄に前に突いて最一つ蹌踉ける。
「……解けてほぐれて逢う事もか。何を言やがる。……此方あ可い加減に溶けそうだ。……まつにかいあるヤンレ夏の雨、かい……とおいでなすったかい。」
さっと沈めた浪の音。磯馴松は一樹、一本、薄い枝に、濃い梢に、一ツずつ、翠、淡紅色、絵のような、旅館、別荘の窓灯を掛連ね、松露が恋に身を焦す、紅提灯ちらほらと、家と家との間を透く、白砂に影を落して、日暮の打水のまだ乾かぬ茶屋の葭簀も青薄、婦の姿もほのめいて、穂に出て招く風情あり。此処は二見の浦づたい。
真夏の夜の暗闇である。この四五日、引続く暑さと云うは、日中は硝子を焼くが如く、嚇と晴れて照着ける、が、夕凪とともに曇よりと、水も空も疲れたように、ぐったりと雲がだらけて、煤色の飴の如く粘々と掻曇って、日が暮れると墨を流し、海の波は漆を畝らす。これでいて今夜も降るまい。癖に成って、一雫の風を誘う潮の香もないのであった。
男は草鞋穿、脚絆の両脚、しゃんとして、恰も一本の杭の如く、松を仰いで、立停って、……眦を返して波を視た。
「ああ、唄じゃねえが、一雨欲しいぜ……」
俄然として額を叩いて、
「慌てまい。六ちゃん、いや、ちゃんと云う柄じゃねえ。六公、六でなし、六印、月六斎でいやあがら。はははは。」
肩を刻んで苦笑いして、またふらふらと砂を踏み、
「野宿に雨は禁物でえ。」
その時躓く。……
「これわいな! 慌てまいとはこの事だ。はあ、松の根ッ子か。この、何でもせい。」
岸辺の茶屋の、それならぬ、渚の松の舫船。──六蔵は投遣りに振った笠を手許に引いて、屈腰に前を透かすと、つい目の前に船首が見える。
船は、櫂もなく艪もなしに、浜松の幹に繋いで、一棟、三階立は淡路屋と云う宏壮な大旅館、一軒は当国松坂の富豪、池川の別荘、清洒なる二階造、二見の浦の海に面した裏木戸の両の間、表通りへ抜路の浜口に、波打際に引上げてあった。
夫女巌へ行くものの、通りがかりの街道から、この模様を視めたら、それも名所の数には洩れまい。舷に鯔は飛ばないでも、舳に蒼い潮の鱗。船は波に、海に浮べたかと思われる。……が藍を流した池のような浦の波は、風の時も、渚に近いこの船底を洗いはせぬ。戯にともづなの舫を解いて、木馬のかわりにぐらぐらと動かしても、縦横に揺れこそすれ、洲走りに砂を辷って、水に攫われるような憂はない。
気の軽い、のん気な船は、件の別荘の、世に隔てを置かぬ、ただ夕顔の杖ばかり、四ツ目に結った竹垣の一重を隔てた。濡縁越の座敷から聞え来る三味線の節の小唄の、二葉三葉、松の葉に軽く支えられて、流れもあえず、絹のような砂の上に漂っているのである。
「この何でもせい。……住吉の岸辺の茶屋に、よいやさ。」
と風体、恰好、役雑なものに名まで似た、因果小僧とも言いそうな這奴六蔵は、その舷に腰を掛けた、が、舌打して、
「ちょッ面倒だ。宿銭は鐚でお定り、それ、」
と笠を、すぽりと落し、次手に振分の荷を取って、笠の中へ投げ込んで、
「いや、お泊りならばァ泊らんせ、お風呂もどんどん湧いている、障子もこの頃はりかえて、畳もこの頃かえてある。──嘘を吐きゃあがれ。」
空手を組んで、四辺を見たが、がッくりと首を振って、
「待てよ……青天井が黒光りだ。電は些と気が無えがね、二見ヶ浦は千畳敷、浜の砂は金銀……だろう、そうだろそうだろ然うであろ。成程どんどん湧いていら、伊良子ヶ崎までたっぷりだ。ああ、しかし暑いぜ。」
腕まくりを肩までして、
「よく皆、瓦の下の、壁の裡へ入ってやがる。」
瓦の下、壁の裡、別荘でも旅館でも、階下も二階もこの温気に、夕凪の潮を避け、南うけに座を移して、伊勢三郎が物見松に、月もあらば盗むべく、神路山、朝熊嶽、五十鈴川、宮川の風にこがれているらしい。ものの気勢も人声も、街道向は賑かに、裏手には湯殿の電燈の小暗きさえ、燈は海に遠かった。
六蔵ニヤニヤと独笑して、
「お寝間のお伽もまけにしてと──姉さん、真個かい、洒落だぜ洒落だぜ洒落じゃねえ。入らっしゃい、お一方、お泊でございますよ。へい、お早いお着様で、難有う存じます。これ、御濯足の水を早くよ。あいあい、とおいでなさる。白地の手拭、紅い襷よ……柔な指で水と来りゃ、俺あ盥で金魚に化けるぜ。金魚うや、金魚う。」
と可い気な売声。
「はてな、紺がすりに、紺の脚絆、おかしな色の金魚だぜ。畜生め、鯰じゃねえか。刎ねる処は鮒だ奴さ。鮒だ、鮒だ、鮒侍だ。」
と胸を揺って、ぐっと反ったが、忽ち肩ぐるみ頭をすくめて、
「何を言やあがる。」
で、揚あしを左の股、遣違いにまた右て。燈は遠し、手探りを、何の気もなく草鞋を解いて、びたりと揃えて、トンと船底へ突込むと、殊勝な事には、手拭の畳んで持ったをスイと解き、足の埃をはたはたと払って、臀で楫を取って、ぐるりと船の胴の間にのめり込む。
「御案内引あいあい……」
と自分で喚き、
「奥の離座敷だよ、……船の間──とおいでなすった。ああ、佳い見晴、と言いてえが、暗くッて薩張分らねえ。」
勝手な事を吐くうちに、船の中で胡坐に成った。が兎が櫂を押さないばかり、狸が乗った形である。
「何、お風呂だえ、風呂は留めだ。こう見えても余り水心のある方じゃねえ。はははは、湯に水心も可笑いが、どんどん湧いてるは海だろう。──すぐに御膳だ。膳の上で一銚子よ。分ったか。脱落もあるめえが、何ぞ一品、別の肴を見繕ってよ、と仰せられる。」
と仰せられ、
「ああ、いい酒だぜ、忠兵衛のおふくろかい、古い所で……妙燗妙燗。」
と二つばかり額を叩く。……暢気さも傍若無人で、いずれ野宿の、ここに寝てしまうつもりでいよう。舫船を旅籠とより、名所を座敷にしたようなことを吐す。が。僅か一時ばかり前、この町通り、両側の旅籠の前を、うろついて歩行いた折は、早や日も落ちて、脚にも背にも、放浪の陰の漾った、見るからみじめな様子であった。
黄昏に、御泊を待つ宿引女の、廂はずれの床几に掛けて、島田、円髷、銀杏返、撫つけ髪の夕化粧、姿を斜に腰を掛けて、浅葱に、白に、紅に、ちらちら手絡の色に通う、団扇の絵を動かす状、もの言う声も媚かしく傾城町の風情がある。
浦づたいなる掃いたような白い道は、両側に軒を並べた、家居の中を、あの注連を張った岩に続く……、松の蒔絵の貝の一筋道。
氷店、休茶屋、赤福売る店、一膳めし、就中、鵯の鳴くように、けたたましく往来を呼ぶ、貝細工、寄木細工の小女どもも、昼から夜へ日脚の淀みに商売の逢魔ヶ時、一時鳴を鎮めると、出女の髪が黒く、白粉が白く成る。
優い声で、
「もし、お泊りかな。」
「お泊りやすえ。」
彼方でも、お泊りやす、此方でも、お泊りやす、と愛嬌声の口許は、松葉牡丹の紅である。
「泊るよ。」
其処へ、突掛けに 紺がすりの汗ばんだ道中を持って行くと、
「はい、お旅籠は上中下と三段にございますがな、最下等にいたしましても……」
何うして、こんな旅籠へ一宿出来よう、服装を見ての口上に違いないから。
「何だ。無価泊めようと云うのじゃねえのか。」
「外を聞いておくんなはれ。」
「指揮は受けねえ。」と肩を揺って、のっさり通る。
「お泊りやす。」
「俺か。」とまたずっと寄る。
「否、違いまんの。」
「状あ見ろ、へへん。」
と、半分白い目で天を仰いで、拗ねたようにそのまま素通。
この辺とて、道者宿、木賃泊りが無いではない。要するに、容子の好い婦人が居て、夕をほの白く道中を招く旅籠では、風体の恁の如き、君を客にはしないのである。
荷も石瓦、古新聞、乃至、懐中は空っぽでも、一度目指した軒を潜って、座敷に足さえ踏掛くれば、銚子を倒し、椀を替え、比目魚だ、鯛だ、と贅を言って、按摩まで取って、ぐっすり寝て、いざ出発の勘定に、五銭の白銅一個持たないでも、彼はびくとも為るのではなかった。
針が一本──魔法でない。
この六でなしの六蔵は、元来腕利きの仕立屋で、女房と世帯を持ち、弟子小僧も使った奴。酒で崩して、賭博を積み、いかさまの目ばかり装った、己の名の旅双六、花の東都を夜遁げして、神奈川宿のはずれから、早や旅銭なしの食いつめもの、旅から旅をうろつくこと既にして三年越。
右様の勘定書に対すれば、洗った面で、けろりとして、
「おう、仕立ものの用はねえか。羽織でも、袴でも。何にもなきゃ経帷子を縫って遣ら。勘定は差引だ。」
女郎屋の朝の居残りに遊女どもの顔を剃って、虎口を遁れた床屋がある。──それから見れば、旅籠屋や、温泉宿で、上手な仕立は重宝で、六の名は七同然、融通は利き過ぎる。
尤も仕事を稼ぎためて、小遣のたしにするほどなら、女房を棄てて流浪なんかしない筈。
からっけつの尻端折、笠一蓋の着たッ切雀と云うも恥かしい阿房鳥の黒扮装で、二見ヶ浦に塒を捜して、
「お泊りだ、お一人さん──旅籠は鐚でお定り、そりゃ。」と指二本、出女の目前へぬいと出す。
誰が対手に成るものか、黙って動かす団扇の手は、浦風を軒に誘って、背後から……塩花塩花。
六は門並六七軒。
風体と面構で、その指二本突出して、二両を二百に値切っても、怒って喧嘩はしないけれど、誰も取合うものはなし。
いざ、と成れば、法もかく、手心は心得たが、さて指当って、腹は空く、汗は流れる、咽喉は乾く、氷屋へ入る仕覚も無かった。
すねた顔色、ふてた図体、そして、身軽な旅人の笠捌きで、出女の中を伸歩行く、白徒の不敵らしさ。梁山泊の割符でも襟に縫込んでいそうだったが、晩の旅籠にさしかかった飢と疲労は、……六よ、怒るなよ……実際余所目には、ひょろついて、途方に暮れたらしく可哀に見えた。
この後を、道の小半町、嬉しそうに、おかしそうに、視め視め、片頬笑みをしながら跟いて歩行いたのは、糊のきいた白地の浴衣に、絞りの兵児帯無雑作にぐるりと捲いた、耳許の青澄んで見えるまで、頭髪の艶のいい、鼻筋の通った、色の浅黒い、三十四五の、すっきりとした男で。何処にも白粉の影は見えず、下宿屋の二階から放出した書生らしいが、京阪地にも東京にも人の知った、巽辰吉と云う名題の俳優。
で、六が砂まぶれの脚絆をすじりもじって、別荘の門を通ったのと、一足違いに、彼は庭下駄で、小石を綺麗に敷詰めた、間々に、濃いと薄いと、すぐって緋色なのが、やや曇って咲く、松葉牡丹の花を拾って、その別荘の表の木戸を街道へぶらりと出た。
巽は時に、酔ざましの薬を買いに出たのであった。
客筋と云うのではない、松坂の富豪池川とは、近い血筋ほどに別懇な親類交際。東に西に興行の都度、日取の都合が付きさえすれば、伊勢路に廻って遊ぶのが習いで、別けて夏は、三日なり二日なり此処に来ない事はないのであった。
今度も、別荘の主人が一所で、新道の芸妓お美津、踊りの上手なかるたなど、取巻大勢と、他に土地の友だちが二三人で、昨日から夜昼なし。
向う側の官営煙草、兼ねたり薬屋へ、ずっと入って巽が、
「御免よ。」
「はい、お出でなさいまし。」
唯、側対いの淡路屋の軒前に、客待うけの円髷に突掛って、六でなしの六蔵が、(おい、泊るぜえ)を遣らかす処。──考えても──上り端には萌黄と赤と上草履をずらりと揃えて、廊下の奥の大広間には洋琴を備えつけた館と思え──彼奴が風体。
傍見をしながら、
「宝丹はありますかい。」
「一寸、ござりまへんで。」
「無い。」
「左様で、ござりません。仁丹が可うござりますやろ。」と夕間暮の薬箪笥に手を掛ける、とカチカチと鳴る環とともに、額の抜上った首を振りつつ大な眼鏡越にじろりと見る。
「宝丹が欲しいんだがね。」
「強い、お生憎様で。」
「お邪魔を。」
「何うだ、姉え、これだけじゃ。」
六は再指二本。
この、笠ぐるみ振分けを捲り手の一方へ、褌も見える高端折、脚絆ばかりの切草鞋で、片腕を揮ったり、挙げたり、鼻の下を擦ったり、べかこと赤い目を剥いたり、勝手に軒をひやかして、ふらふらと街道を伸して行くのが、如何にも舞台馴れた演種に見えて、巽はうかうか独笑してその後に続いたのである。
やがて一町出はずれて、小松原に、紫陽花の海の見える処であった。
「君、君。」
何と思ったか、巽がその六でなしを呼んだのである。
「ええ、手前で、へい。」と云うと、ぎっくり腰を折って、膝の処へ一文字に、つん、と伏せた笠の上、額を着けそうにして一ツおじぎをした工合が、丁寧と言えば丁寧だが、何とも人を食った形に見える。
辰吉は片頬笑して、
「突然で失礼ですがね、何処此処と云ってるよりか、私の許へ泊っちゃ何うです。」
「へい、貴方へ。」と、俯向けていた地薄な角刈の頭を擡げて、はぐらかす気か、汗ばんだか、手の甲で目を擦って、ぎろりと巽の顔を見た。
「何うです、泊りませんか……ッたってね、私も実は、余所の別荘に食客と云うわけだが、大腹な主人でね、戸締りもしない内なんだから、一晩、君一人ぐらい、私が引受けて何うにもしますよ。」
「へええ、御串戯を。」と道の前後を眗して、苦笑いをしつつ、一寸頭を掻いたは、扨は、我が挙動を、と思ったろう。
「串戯なもんですか。」
其処が水菓子屋の店前で──巽は、別に他に見当らなかったので、──居合す小僧に振向いて、最う一軒薬屋はないか、と聞いて、心得て出て、更めて言った。
「真個だよ、君。」
と笑いながら、……もう向うむいて行きかける六蔵を再呼んで、
「……今君が通って来た、あの、旭館と淡路屋と云う大な旅館の間にある、別荘に居るんだからね。」
「何とも難有え思召で、へい。」
と、も一度笠を出して面を伏せて、
「いずれまた……」
「ではさようなら。」
「御機嫌よろしゅう。」
二見ヶ浦を西、東。
思いも掛けない親船に、六はゆすぶった身体を鎮めて、足腰をしゃんと行く。
「兄さん、兄さん。」
「親方。」
と若い女が諸声で、やや色染めた紅提灯、松原の茶店から、夕顔別当、白い顔、絞の浴衣が、飜然と出て、六でなしを左右から。
「親方。」
「兄さん。」
「ええ、俺が事か。兄さん、とけつかったな。聞馴れねえ口を利きやあがる。幾干で泊める。こう、旅籠は幾干だ。」
「否、宿屋じゃありません。まあ、お掛けなさいな。」
「よう一寸。」
「何にも持たねえ、茶代が無えぜ。」
「何んですよ、そんな事は。」
「はてな、聞馴れねえ口を利きやあがる。」
「その代りね、今、親方、其処で口を利いたでしょう。」
「一寸、あの方は何と云って。矢張り普通の人間とおんなじ口の利き方をなさる事? 一寸さあ……」
と衣紋を抜く。
六蔵解めぬ面の眉を顰め、
「何だ、人間の口の利方だ?……ほい、じゃ、ありゃ此処等の稲荷様か。」
「まあ!」
「何だい?」
「あら、名題の方じゃありませんか、巽さんと云う俳優だわよ。」
「畜生め、此奴等、道理で騒ぐぜ。むむ、素顔にゃはじめてだ。」
と、遠くを行く辰吉のすらりとした、後姿に伸上る。
「可いわねえ。」と、可厭な目色。
「黙ってろ。俺もこう見えて江戸児だ。巽の仮声がうめえんだ。……」
「あら、嬉しい。ひい!」と泣声を放ったり。
「馳走をしねえ、聞かして遣ら。二見中の鮑と鯛を背負って来や。熱燗熱燗。」と大手をふった。
これじゃ頓て、鼻唄も出そうである。
「もしもし、貴方。」
と媚かしい声。
溝端の片陰に、封袋を切って晃乎とする、薬の錫を捻くって、伏目に辰吉の彳んだ容子は、片頬に微笑さえ見える。四辺に人の居ない時、こうした形は、子供が鉄砲玉でも買って来たように、邪気無いものである。
水菓子屋で聞いた薬屋へ行くには、彼は、引返して別荘の前をまた通らねば成らなかった。それから路を折曲って、草生の空地を抜けて、まばら垣について廻って、停車場方角の、新開と云った場末らしい、青田も見えて藁屋のある。その中に、廂に唐辛子、軒に橙の皮を干した、……百姓家の片商売。白髪の婆が目を光らして、見るなよ、見るなよ、と言いそうな古納戸めいた裡に、字も絵も解らぬ大衝立を置いた。
宝丹は其処にあったが、不思議に故郷に遠い、旅にある心地がして、巽はふと薄い疲労さえ覚えた。道もやがて別荘の門から十町ばかり離れたろう。
右から左に弁ずる筈を、こうして手に入れた宝丹は、心嬉しく、珍らしい。
「あの、お薬をめしあがりますなら、お湯か何ぞ差上げますわ。」
唯、片側の一軒立、平屋の白い格子の裡に、薄彩色の裙をぼかした、艶なのが、絵のように覗いて立つ。
黒髪は水が垂りそう、櫛巻の房りとした、瓜核顔の鼻筋が通って、眉の恍惚した、優しいのが、中形の浴衣に黒繻子の帯をして、片手、その格子に掛けた、二の腕透いて雪を欺く、下緊の浅葱に挟んで、──玉の荵の茶室を起った。──緋の袱紗、と見えたのは鹿子絞の撥袋。
片手に象牙の撥を持ったままで、巽に声を掛けたのである。
薬の錫を持ったなり、浴衣の胸に掌を当てて、その姿を見たが、通りがかりの旅人に、一夜を貸そうと云った矢先、巽は怪む気もしないで、
「恐入りますな。」
「さあ何うぞ。」
と云って莞爾した。が、撥を挙げて靨を隠すと、向うむきに格子を離れ、細りした襟の白さ、撫肩の媚かしさ。浴衣の千鳥が宙に浮いて、ふっと消える、とカチリと鳴る……何処かに撥を置いた音。
すぐに、上框へすっと出て、柱がくれの半身で、爪尖がほんのりと、常夏淡く人を誘う。
巽は猶関わず格子を開けた。
「じゃあ御免なさいよ。」
と、土間に釣った未だ灯を入れない御神燈に蔦の紋、鶴沢宮歳とあるのを読んで、ああ、お師匠さん、と思う時、名の主は……早や次の室の葭戸越、背姿に、薄りと鉄瓶の湯気をかけて、一処浦の波が月に霞んだようであった。
「恐入ります。」
婦は声を受けて、何となく、なよやかな袖を揺がしながら、黙って白湯を注いでいる。
「拝借します。」
と巽は其処の上框へ。
二つ三つ、すらすらと畳触り。で、遠慮したか、葭戸の開いた敷居越に、撓うような膝を支いて、框の隅の柱を楯に、少し前屈みに身を寄せる、と繻子の帯がキクと鳴る、心の通う音である。
「温湯にいたしましたよ、水が悪うございますから。」
「……御深切に。」
取った湯呑は定紋着、蔦を染めたが、黄昏に、薄りと蒼ずむと、宮歳の白魚の指に、撥袋の緋が残る。
「ああ、私。」と、ばらりと落すと、下褄の端にちらめいて、瞼に颯と色を染めた、二十三四が艶なる哉。
「私、何うしたら可いでしょう。極りが悪うござんすわ。」
と婦は軽く呼吸を継いで、三味線の糸を弾くが如く、指を柱に刻みながら、
「私、お知己でもないお方をお呼び申して、極りが悪いものですから、何ですか、ひとりで慌てしまって、御茶台にも気が付きません。……そんな自分の湯呑でなんか。……失礼な、……まあ、何うしたら可うございましょうね。」
と襟を圧えて俯向いて、撥袋を取って背後に投げたが、留南奇の薫が颯として、夕暮の奇しき花、散らすに惜しき風情あり。辰吉は湯呑を片手に、
「何うしまして、結構です。難有う。そしてお師匠さん。貴女の芸にあやかりましょう。」
「存じません。」
と、また一刷毛瞼を染めつつ、
「人様御迷惑。蚊柱のように唸るんでございますもの、そんな湯呑には孑孑が居ると不可ません。お打棄りなさいましよ。唯今、別のを汲替えて差上げますから。」と片手をついて立構す。
辰吉は圧えるように、
「ああ、しばらく。貴女がそんな事をお言いなすっちゃ私は薬が服めなく成ります。この図体で、第一、宝丹を舐めようと云う柄じゃないんですもの。鯱や鯨と掴合って、一角丸を棒で噛ろうと云うまどろすじゃありませんか。」
婦が清い目で、口許に嬉しそうな笑を浮べ、流眄に一寸見て、
「まあ、そうしてお商売は、貴方。」
「船頭でさあね。」
「一寸! 池川さんのお遊び道具の、あの釣船ばかりお漕ぎ遊ばす……」
お師匠さんは御存じだ。
「雑と、人違いですよ。」と眦を伏せてぐっと呑んで、
「申兼ねましたが、もう一杯。丁ど咽喉が渇いて困っていた、と云う処です。」
艶なお師匠さんは、いそいそして、
「お出ばなにいたしましょうね。」
「薬を服みました後ですから、お湯の方が結構です──何ですか、お稽古は日が暮れてからですか。ああ、いや、それで結構。」
辰吉は錆のある粋な笑で、
「ははは、些と厚かましいようですな。」
「沢山おっしゃいまし。──否、最う片手間の、あの、些少の真似事でございます。」
「お呼び申せば座敷へも……?」
「可厭でございますねえ、貴方。」
と片手おがみの指が撓って、
「そんな御義理を遊ばしちゃ、それじゃ私申訳がありません。それで無くってさえ、お通りがかりをお呼び申して、真個に不躾だ、と極りが悪うございましてね、赫々逆上ますほどなんですもの。」
身を恥じるように言訳がましく、
「実は、あの、小婢を買ものに出しまして、自分でお温習でもしましょうか、と存じました処が、窓の貴方、荵の露の、大きな雫が落ちますように、螢が一つ、飛ぶのが見えたんでございますよ……」
「螢。」
と巽は、声に応じて言返した。
「はあ、時節は過ぎましたのを、つい、珍しい。それとも一ツ星の光るお姿か知ら、とそう思って立ったんですが、うっかり私、撥なんか持って、螢だったら、それで叩きますつもりだったんでしょうかねえ。そんな了簡で、螢なんて、蜻蛉か蝙蝠で沢山でございます。」
蜻蛉は寝たから御存じあるまい、軒前を飛ぶ蝙蝠が、べかこ、と赤い舌を出して、
「これは御挨拶だ。」
と飜然と行る。
「それですから、ふっと、その格子を覗きました時は、貴方の御手の御薬の錫をば、あの、螢をおつかまえなすった、と見ましたんですよ。」
器は巽の手に光る。
彼は掌に据えて熟と視た。
「まあ、お塩梅が沢山悪いんじゃありませんか、何しろお上りなすって、お休みなさいましたら何うでしょう。貴方、御気分は如何です。」と、摺寄って案じ顔。
巽は眉の凜とした顔を上げて、
「否、気分は初めから然したる事も無いのです。宝丹は道楽に買った、と云って可いくらいなんですが。」
爾時、袂へ突込んで、
「今の、螢には、何だか少し今度は係合がありそうですよ──然うですか、螢を慕ってお師匠さん、貴女格子際へ出なすったんだ。」
「貴方のお口から、そんな事、お人の悪い、慕って、と云う柄じゃありません。」
「まあまあ……ですがね、私が宝丹を買いに出たはじまりが、矢張り螢ゆえに、と云ったような訳なんですよ。ふっと、今思出したんです……」
「へええ。」と沈んだような声で言う、宮歳は襟を合せた。
「今度、当地へ来ます時に、然うです。興津……東海道の興津に、夏場遊んでる友だちが居て、其処へ一日寄ったもんです。夜汽車が涼しいから、十一時過ぎでした、あの駅から上りに乗ったんですよ、右の船頭が。」
「……はあ、可うございます。ほほほ。」と笑が散らぬまで、そよそよ、と浅葱の団扇の風を送る。指環の真珠が且つ涼しい。
「頂戴しますよ。」
と出してあった薄お納戸の麻の座蒲団をここで敷いて、
「小さな革鞄一つぶら下げて、プラットホームから汽車の踏段を踏んで、客室の扉を開けようとすると、ほたりと。」
巽は口許の片頬を圧えて言ったのである。
「虫が来て此処へ留ったんです、すっと消え際の弱い稲妻か、と思いました。目前に光ったんですから吃驚して、邪険に引払うと、最う汽車が動出す。
妙にあとが冷つくのです、濡れてるようにね、擦って見ても何ともないので。
忘れていると、時々冷い。何か、かぶれでもしやしないかしら、螢だと思ったものの、それとも出合頭に、別の他の毒虫ででもありはしないかと、一度洗面台へ行って洗いましたよ。彼処で顔を映して見ても別に何事もないのです、そのうちに紛れてしまう。それでも汽車で、うとうとと寝た時には、清水だの、川だの、大な湖だの、何でも水の夢ばかり切々に見ましてね、繋ぎに目が覚める、と丁ど天龍川の上だったり、何処かの野原で、水が流れるように虫の鳴いてた事もありましたがね。最う別に思出しもしないで、つい先刻までそれ切りで済んでいました。
今しがたです……
池川さんの、二階で、」
と顔を見合せた時、両方で思わず頷く様な瞳を通わす、ト圧えた手を膝にして巽はまた笑を含んで、
「……釣舟にしておきましょう、その舟のね、表二階の方へ餉台を繋いで、大勢で飲酒ながら遊んでいたんですが、景色は何とも言えないけれど、暑いでしょう。この暑さと云ったら暑さが重石に成って、人間を、ずんと上から圧付けるようです。窓から見る松原の葭簀茶屋と酸漿提灯と、その影がちらちら砂に溢れるような緋色の松葉牡丹ばかりが、却って目に涼しい。海が焼原に成って、仕方がない、それじゃ生命も続くまいから、陸の方の青い草木を水にしておけ、と天道の御情けで、融通をつけて下さる、と云った陽気ですからね。」
「まあ、随分、ほほほ、もう自棄でございますわね、こんなに暑くっちゃ。」
その癖、見る目も涼しい黒髪。
「些とでも涼しい心持に成りたくッて、其処等の木の葉の青いのを熟と視ていて、その目で海を見ると、漸と何うやら水らしい色に成ります。
でないと真赤ですぜ。日盛なんざ火が波を打っているようでしょう。──さあ、然うなると不思議なもので今も言った通りです。潮煮の鯛の目、鮑の蒸したのが涼しそうで、熱燗の酒がヒヤリと舌に冷いくらい──貴女が云った自棄ですか──
夕方、今しがた一時は、凪の絶頂で口も利けない。餉台を囲んだ人の話声を、じりじりと響くように思って、傍目も触らないで松原の松を見ていて、その目をやがて海の上にこう返すと、」
巽は目を離して指したが、宮歳の顔を見て、鏽びた声して低く笑った。
「はははは、べッかっこをするんじゃありませんよ──。然うすると、海の色が朝からはじめて、颯と一面に青く澄んで、それが裏座敷の廻縁の総欄干へ、ひたひたと簾を流すように見えましてね、縁側へ雪のような波の裾が、すっと柔かに、月もないのに光を誘って、遥かの沖から、一よせ、寄せるような景色でした。
悚と涼しく成ると、例の頬辺が冷りとしました、螢の留った処です。──裏を透して、口の裡へ、真珠でも含んだかと思う、光るように胸へ映りました。」
敷居に凭れかかり、団扇を落して聞いていた婦は、膝の手を胸へ引いて、肩を細く袖を合せた。
「可厭な心持じゃなかったんです──それが、しかし確に、氷を一片、何処かへ抱いたように急に身を冷して、つるつると融るらしく、脊筋から冷い汗が流れました。香がします、水のような、あの、螢の。」
月の柳の雫でも夜露となれば身に染みる。
「私は何かに打たれたように、フイと席を立って戸外へ出ました。まだ明い。内の二階で、波ばかり、青く欄干にかかったようには、暮れてはいません。
名所図絵にありそうな人通りを見ていると、最う何もかも忘れました。が、宝丹は用心のために、柄にもない船頭が買ったんですが。
今の螢のお話で、無遠慮に御厄介に成りました。申訳にもと、思いますから、──私も、無理に附着けたらしいかも知れませんが、螢の留ったお話をしたんです。」
と半ば湯呑のあとを飲むと、俯目に紋を見て下に置いた。彼は帰りがけの片膝を浮かしたのである。
唯、呼吸を詰めて、
「貴方。」
「え。」
余り更まった婦の気に引入れられて驚いた体に沈んで云った。
婦は肩を絞るように、身をしめた手を胸に、片手を肱に掛けながら、
「螢じゃありませんわ。螢じゃありませんわ。」
「何がですえ。」
「そりゃ、あの……何ですよ、屹と……そして、その別荘のお二階へ、沖の方から来ましたって、……蒼い、蒼い、蒼い波は。」
柱の姿も蒼白く、顔の色も俤立って、
「お話を伺いますうちにも、私は目に見えますようで。そして、跡を、貴方の跡を追って浪打際が、其処へ門まで参っているようですよ。」
と、黒繻子の帯の色艶やかに、夜を招いて伸上る。
白い犬が門を駈けた。
辰吉は腰を掛けつつ、思わず足を爪立てた。
「貴方、その欄干にかかりました真蒼な波の中に、あの撫子の花が一束流れますような、薄い紅色の影の映ったのを、もしか、御覧なさりはしませんか。」
……と云う、瞳の色の美しさ、露を誘って明いまで。その色に誘われて、婦が棄てた撥袋の鏡台の端に掛ったのを見た。
我にもあらず茫と成って、
「彼処に見える……あれですか。」
「否、あんなものじゃありません。」とやや気組んで言う。
「それでは?……」
「否、絽の色なんです。──あの時あの妓──は緋の長襦袢を着ていました。月夜のような群青に、秋草を銀で刺繍して、ちらちらと黄金の露を置いた、薄いお太鼓をがっくりとゆるくして、羅の裾を敷いて、乱次なさったら無い風で、美しい足袋跣足で、そのままスッと、あの別荘の縁を下りて、真直に小石の裏庭を突切ると、葉のまばらな、花の大きなのが薄化粧して咲きました、」と言う……
大輪の雪は、その褄を載せる翼であった。
「あの、夕顔の竹の木戸に、長い袂も触れないで、細りと出たでしょう。……松の樹の下を通る時は、遠い路を行くようでした。舟の縁を伝わると、あれ、船首に紅い扱帯が懸る、ふらふらと蹌踉たんです……酷く酔っていましたわね。
立直った時、すっきりした横顔に、縺れながら、島田髷も姿も据りました。
私はその時、隣家の淡路館の裏にあります、ぶらんこを掛けました、柱の処で見ていたんですよ、一昨年ですわね、──巽さん。」
と、然も震を帯びた声で、更めて名を呼んで、
「貴方に焦れて亡く成りました、あの、──小雪さん──の事ですよ。」
実に、それは、小雪は伊勢の名妓であった。
辰吉は、ハッと気を打って胸を退いた。片膝揚げつつ框を背後へ、それが一浪乗って揺れた風情である。
褄に曳いたも水浅葱、団扇の名の深草ならず、宮歳の姿も波に乗ってぞ語りける。
「不思議ですわね、あの時、海が迎いに来て、渚が、小雪さんに近く成ると、もう白足袋が隠れました。蹴出しの褄に、藍がかかって、見渡す限り渚が白く、海も空も、薄い萌黄でござんした。
其処に唯一人、あの妓が立ったんです。笄がキラキラすると、脊の嫋娜とした、裾の色の紅を、潮が見る見る消して青くします。浪におされて、羅は、その、あの蹴出しにしっとり離れて、取乱したようですが、ああした品の可い人ですから、須磨の浦、明石の浜に、緋の袴で居るようでした。」
──驚破泳ぐ、とその時、池川の縁側では大勢が喝采した。──
「あれあれ渚を離れる、と浪の力に裾を取られて、羅のそのまんま、一度肩まで浸りましたね。衝と立つ時、遠浅の青畳、真中とも思うのに、錦の帯の結目が颯と落ちて、夢のような秋草に、濡れた銀の、蒼い露が、雫のように散ったんです。
まあ、顔が真蒼、と思うと、小雪さんは熟と沖を凝視めました、──其処に──貴方のお頭と、真白な肩のあたりが視えましたよ。
近所を漕いだ屋根舟の揺れた事!
貴方は泳いで在らしったんです。
真裸の男まじりに、三四人、私の知った芸者たちも五六人、ばらばらと浜へ駈けて出る。中には舫った船に乗って、両手を挙げて、呼んだ方もござんした、が、最うその時は波の下で、小雪さんの髪が乱れる、と思う。海の空に、珠の簪の影かしら、晃々一ツ星が見えました。」
「その裸体なのは別荘の爺やさんでございましたってね。」
「さよう治平と云う風呂番です。」と言いながら、巽の面は面の如く瞳が据った。
灯なき御神燈は、暮迫る土間の上に、無紋の白張に髣髴する。
「爺さんが海へ飛込んで、鉛の水を掻くように、足掻いて、波を分けて追掛けましたわね。
丁ど沖から一波立てて、貴方が泳返しておいでなさいます──
あとで、貴方がお話しなすッたって……あの、承りましたには、仰向けに成って、浪の下の小雪さんが、……嘸ぞ苦しかったでしょう、乳を透して絽の紅い、其処の水が桃色に薄りと搦んでいる、胸を細く、両手で軽く襟を取って、披けそうにしていたのが、貴方がその傍にお寄りなさいました煽りに、すっと立って、髷に水をかぶっていて、貴方の胸へ前髪をぐっちょり、着けました時、あの、うつくしい白足袋が、──丁ど咽喉の処へ潮を受けてお起ちなすった、──貴方の爪先へ、ぴたりと揃った、と申すじゃありませんか。」
巽は框をすっくと立った!
「……吃驚なすって、貴方は、小雪さんの胸を敷いて、前へお流れなさいましたってね。」
「そして驚いて水を飲んだ、今も一斉に飲むような気がします。」と云う顔も白澄むのである。
「其処を爺さんが抜切って、小雪さんを抱きました。ですけれども、最うその時、あの妓の呼吸は絶えていたのです──あの日は、小雪さんは、大変にお酒を飲んでいたんですってね、茶碗で飲んで、杯洗まであけたんだそうですね。深酒の上に、急に海へ入ったもんですから、血が留ってしまったんでしょう。
そして、死体に成ってから、貴方のお胸に縋着いたんじゃありませんか、海の中で、」
と膝を寄せる、褄が流れて、婦は巽の手を取った。
指が触ると、掌に、婦の姿は頸の白い、翼の青い、怪しく美しい鳥が留ったような気がして、巽の腕は萎えたる如く、往来に端近な処に居ながら、振払うことが出来なかった。……四辺を見ると、次の間の長火鉢の傍なる腰窓の竹を透いて、其処が空地らしく幻の草が見えた。
「巽さん。」
「…………」
「あの、風呂番の爺さんは、そのまま小雪さんを負い返して、何しろ、水浸しなんですから、すぐにお座敷へは、とそう思ったんでしょう。一度、あの松に舫った、別荘の船の中へ抱下しましたわね。雫に浜も美しい……小雪さんの裾を長く曳いた姿が、頭髪から濡れてしおしおと舷に腰を掛けました。あの、白いとも、蒼いとも玉のように澄んだ顔。紅も散らない唇から、すぐに、吻と息が出ようと、誰も皆思ったのが、一呼吸の間もなしにバッタリと胴の間へ、島田を崩して倒れたんです。
お浴衣じゃありましたけれど、其処にお帯と一所に。」
と婦は情に堪えないらしく、いま、巽の帯に、片頬を熟と。……一息して、
「貴方のお召ものが脱いで置いてありました。婦の一念……最うそれですもの。……螢はお迎いに行ったんですよ。欄干にかかりました二見ヶ浦の青い波は、沖から、逢いに来たんです。
不便とお思いなさいまし。小雪さんは一言も何にも口へは出さないで、こがれ死をしたんです。
素振、気振が精一杯、心は通わしたでしょうのに、普通の人より、色も、恋も、百層倍、御存じの貴方でいて、些とも汲んでお遣んなさらない!──否、小雪さんの心は、よく私が存じております。──
俺は知らない、迷惑だ、と屹と貴方は、然うおっしゃいましょうけれど、芸妓したって、女ですもの、分けて、あんな、おとなしい、内気な小雪さんなんですもの、打ちつけに言出せますか。
察しておいで遊ばしながら、──いつも御贔屓を受けていましたものですから、池川さんの、内証の御寵妓ででもあるようにお思いなすって、その義理で、……あれだけに焦れたものを、かなえてお遣んなさらない。……
堅気はそうじゃあござんすまい、こうした稼業の果敢い事は、金子の力のある人には、屹と身を任せている、と思われます。
御酒の上のまま事には、団扇と枕を寝かしておいて、釣手を一ツ貴方にまかして、二人で蚊帳も釣りましたものを。」……と言う。
その蚊帳のような、海のような、青いものが、さらさらと肩にかかる、と思うと、いつか我身はまた框に掛けつつ、女の顔が弗と浮いて、空から熟と覗いたのである。
「これが俳優なの。」
「まあ。」
しょろしょろ、浪が嬲るような、ひそひそと耳に囁く声。
松原の茶店の婦の、振舞酒に酔い痴れて、別荘裏なる舫船に鼻唄で踏反って一寝入りぐッと遣った。が、こんな者に松の露は掛るまい、夜気にこそぐられたように、むずむずと目覚めた六蔵。胴の間に仰向けで、身うちが冷える。唯、野宿には心得あり。道中笠を取って下腹へ当がって、案山子が打倒れた形でいたのが。──はじめは別荘の客、巽辰吉が、一夜の宿をしようと云った、情ある言を忘れず、心に留めて、六が此処に寝たのを知って、(船に苫を葺いてくれるのじゃないか。)と思った。
舷へ、かたかたと何やら嵌込む……
その嵌めるものは、漆塗の艶やかな欄干のようである、……はてな、ひそめく声は女である。──
うまれながらにして大好物。寝た振でいて目を働かすと、舷に立かかって綺麗な貝の形が見える、大きな蛤。
それが、その貝の口を細く開いた奥に、白銀の朧なる、たとえば真珠の光があって、その影が、幽に暗夜に、ものの形を映出す。
「芸妓が化けたんだ、そんな姿で踊でも踊っていたろう。」
時に、そんなのが一個ではない。左舷の処にも立っている。これも同じように、舷へ一方から欄干らしいものを嵌めた、かたり、と響く。
外にもまだ居る……三四人、皆おなじ蛤の姿である。
「祭礼の揃かな、蛤提灯──こんなのに河豚も栄螺もある、畑のものじゃ瓜もあら。……茄子もあら。」
但しその提灯を持っているものの形は分らぬ。が、蛤の姿である……と云うのが、衣服、その袖、その帯と思う処がいずれも同じ蛤で、顔と見るのが蛤で、目鼻と思い、口と思うのが蛤で、そして灯が蛤である。
襟か袖かであるらしく、且つ暗の綾の、薄紫の影が籠む。
時にかたかたと響いて、二三人で捧げ持った気勢がして、婦の袖の香立蔽い、船に柱の用意があって、空を包んで、トンと据えたは、屋根船の屋根めいて、それも漆の塗の艶、星の如き唐草の蒔絵が散った。左舷右舷も青貝摺。
六蔵は雛壇で見て覚えのある車のようだ、と偶と思う。
時に、蛤が口を開いた。否、提灯が、真珠の灯を向けたのである、六の顔へ──そして女の声で言った。
「これが俳優なの?」
「まあ。」
「醜い俳優だわね。」
──ままにしろ、此奴等──と心の裡で、六蔵は苦り切る。
「まだ、来ていやしまいと思ったのに、」
「そして、寝ているんだもの、情のない。」
「心中の対手の方が、さきへ来て寝ているなんて。」
「ねえ、」
と応じて、呆れたように云った、と思うと、ざっと浪が鳴って、潮が退いたらしく寂寞する。
欄干も、屋根も、はっと消えて、蒔絵も星も真の暗闇。
直ぐに、ひたひた、と跫音して、誰か舷へ来たらしい。
透通るような声が、露に濡れて、もの優しい湿を帯びつつ、
「……巽さん。」
途端に、はっと衣の香と、冷い黒髪の薫がした。
「ああれ、違って……違っているよう。」
蛤の灯がほんのりと、再来て……
「お退きよ、退いておくれよ。」
「よう、お前。」
と言う。……人をつけ、蛤なんぞに、お前呼ばわりをされる兄哥でないぞよ。
「此処は、今夜用がある。」
「大事の処なんだから。」
「よう。」
「仕ようがない。ね、酔っぱらって。」
「臭い事。」
「憎らしい、松葉で突ついて遣りましょう。」
敏捷い、お転婆なのが、すっと幹をかけて枝に登った。呀、松の中に蛤が、明く真珠を振向ける、と一時、一時、雨の如く松葉が灌ぐ。
「お、痛。」
「何うしたの。」と下から云う。
松の上なが、興がった声をして、
「松葉が私を擽るわよ、おほほ、おほほ。」
「わはは。」と浜の松が、枝を揺って哄と笑う。
「きゃッ。」と我ながら猿のような声して笑って、六蔵はむっくと起きて、
「姉等、仕立ものの用はねえか。」と、きょとんとして四辺を視た。
浅葱を飜す白浪や。
燃ゆるが如き緋の裳、浪にすっくと小雪の姿。あの、顔の色、瞳の艶、──恋に死ぬ身は美しや、島田のままの星である。
蛤が六つ七つ、むらむらと渚を泳いで、左右を照らす、真珠の光。
凄じいほど気高い顔が、一目、怨めしそうに六蔵の面を視て、さしうつむいて、頸白く、羅の両袖を胸に犇と掻合す、と見ると浪が打ち、打ち重って、裳を包み、帯を消し、胸をかくし、島田髷の浮んだ上に、白い潮がさらり、と立つ。と磯際の高波は、何とてそのまま沖に退くべき。
颯と寄る浪がしら、雪なす獅子の毛の如く、別荘の二階を包んで、真蒼に光る、と見る、とこの小舟は揺上って、松の梢に、ゆらりと乗るや、尾張を越して富士山が向うに見えて、六蔵素天辺に仰天した。
這奴横紙を破っても、縦に舟を漕ぐ事能わず、剰え櫓櫂もない。
「わああ、助けてくれ、助船。」
「何うしました、何うした。」
人目を忍んで、暗夜を宮歳と二人で来た、巽は船のへりに立つと、突然跳起きて大手を拡げて、且つ船から転がり出した六蔵のために驚かされた。
菩提所の──巽は既に詣ではしたが──其処ではない。別荘の釣舟は、海に溺れた小雪が魂をのせた墓である。
「小雪さんを私と思って。」……
あの、船で手を取って、あわれ、生命掛けた恋人の、口ずから、切めて、最愛い、と云って欲い、可哀相とだけも聞かし給え。
御神燈は未だ白かったのに、夜の暗さ、別荘の門、街道も寝静まる、夢地を辿る心地して、宮歳のかよわい手に、辰吉は袖を引かれて来たのであった。
「へい、仕立ものの御用はねえかね。」
きょろん、とした六蔵より、巽が却って茫然とした。
宮歳の姿は、潮の香の漾う如く消えたのである。
別荘の主人池川の云うのには、その宮歳は、小雪と姉妹のように仲のよかった芸妓である。
内証ながら、山田の御師、何某にひかされて、成程、現に師匠をしている、が、それは、山田の廓、新道の、俗に螢小路と云う処に媚かしく、意気である。
言語道断、昨夜急に二見ヶ浦へ引越して来る筈はない!
扨て翌朝の事であった。
電話で、新道の一茶屋へ、宮歳の消息を聞合せると、ぶらぶら病で寝ていたが、昨日急に、変が変って世を去った。
──写真を抱いていましたよ、死際に薄化粧して……巽さんによろしく……──
その時、別荘の座敷の色は、二見ヶ浦の、海の蒼いよりも藍であった。
簾に寄る白浪は、雪の降るより尚お冷い。
その朝、六蔵も別荘の客の一人であった。が、お先ばしりで、衆と一所に、草の径を、幻の跡を尋ねた──確に此処ぞ、と云う処に、常夏がはらはら咲いて、草の根の露に濡れつつ、白檀の蒔絵の、あわれに潮にすさんだ折櫛が──その絵の螢が幽に照った。
松に舫った釣舟は、主人の情で、別荘の庭に草を植え、薄、刈萱、女郎花、桔梗の露に燈籠を点して、一つ、二見の名所である。
底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」ちくま文庫、筑摩書房
2009(平成21)年7月10日第1刷発行
初出:「新小説」
1916(大正5)年4月号
※「一寸」に対するルビの「ちゃと」と「ちょっと」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2018年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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