如何に読書すべきか
三木清



        一


 先ず大切なことは読書の習慣を作るということである。他の場合と同じように、ここでも習慣が必要である。ひとは、単に義務からのみ、或いは単に興味からのみ、読書し得るものではない、習慣が実に多くのことをすのである。そして他のことについてと同じように、読書の習慣も早くから養わねばならぬ。学生の時代に読書の習慣を作らなかった者は恐らく生涯読書の面白さを理解しないで終るであろう。

 読書の習慣を養うには閑暇を見出すことに努めなければならぬ。そして人生において閑暇は見出そうとさえすれば何処どこにでもあるものだ。朝出掛ける前の半時間、夜眠る前の一時間、読書のための時間を作ろうと思えば何時いつでもできる。現代の生活はたしかに忙しくなっている。終日妨げられないで読書することのできた昔の人は羨望せんぼうに値するであろう。しかし如何に忙しい人も自分の好きなことのためには閑暇を作ることを知っている。読書の時間がないと云うのは読書しないための口実に過ぎない。まして学生は世の中へ出た者に比してはるかに多くの閑暇をもっている筈だ。そのうえ読書は他の娯楽のように相手を要しないのである。ひとはひとりで読書の楽しみを味うことができる。いな、東西古今のあらゆるすぐれた人に接することができるというのは読書における大きな悦びでなければならぬ。読書の時間を作るために、無駄に忙しくなっている生活を整理することができたならば、人生はそれだけ豊富になるであろう。読書は心に落着きを与える。そのことだけから考えても、落着きを失っている現代の生活にとって読書の有する意義は大きいであろう。

 読書を欲する者は閑暇を見出すことに賢明でなければならぬと共に、規則的に読書するということを忘れてはならない。毎日、例外なしに、一定の時間に、たとい三十分にしても、読書する習慣を養うことが大切である。かようにして二十年間も継続することができれば、そのうちにひとは立派な学者になっているであろう。読書の習慣は読書のための閑暇を作り出す。読書の時間がないと云う者は読書の習慣を有しないことを示している。読書の習慣を得た者は読書のうちに全く特別の楽しみを見出すであろうし、その楽しみが彼を読書から離さないであろう。

 他の場合においてと同様、読書にも勇気が必要である。ひとは先ず始めなければならぬ。我々はつねに読書に好都合な状態にあるのではない。読書に好都合な状態ができてから読書しようと考えるならば、遂に読書しないで終るであろう。ひとたび読書し始めるならば、落着かない心も落着き、憂いも忘れられ、不運も心にかかることなく、すべて読書に好都合な状態が生ずるであろう。いやいやながら始めて、やがて面白くなってやめられなくなる場合が多い。先ず読書することから読書に適した気分が出てくる。ひとたび読書の習慣を得れば、習慣があらゆる情念を鎮めてくれる。落着いた大学生といわれる者はたいてい読書の習慣を有するものである。


        二


 読書は一種の技術である。すべての技術には一般的規則があり、これを知っていることが肝要である。読書法についても古来いろいろ書かれてきた。しかし技術は一般的理論の単なる応用に過ぎぬものではない。技術においては一般的理論が主体化されねばならず、主体化されるということは個別化されるということである。これがその技術を身につけることであって、身についていない技術は技術と云うことができぬ。読書にとって習慣が重要であるというのも、読書が技術であることを意味している。技術は習慣的になることによって身につくのであり、習慣的になっていない技術は技術の意義を有しないであろう。そのことは固より読書にとって一般的規則が存在しないことを意味するのではない、もし何等の一般的規則も存在しないとすれば、それが技術であることもできぬ筈である。

 一般的規則の主体化を要求する点において、すでに手工業的技術は工場的生産の技術よりも遙かに大きいものがあるであろう。まして読書の如き精神的技術にあっては、一般的規則が各人の気質に従って個別化されることが愈々いよいよ必要になってくる。めいめいの気質を離れて読書の技術はないと云っても好いほどである。読書法は各人において性格的なものである。それ故に各人にとって自分に適した読書法を発明することが最も大切である。読書の技術においてひとはめいめい発明的でなければならぬ。もちろんこの場合においても発明の基礎には一般的規則がある。しかし自分の気質に適した読書法を自分で発明することに成功しない者は、永く、楽しく、また有益に読書することはできないであろう。

 ところでかように自分自身の読書法を見出すためには先ず多く読まなければならぬ。多読は濫読らんどくと同じでないが、濫読は明かに多読の一つであり、そして多読は濫読から始まるのが普通である。古来読書の法について書いた人は殆どすべて濫読を戒めている。多くの本をみだりに読むことをしないで、一冊の本を繰り返して読むようにしなければならぬと教えている。それは、疑いもなく真理である。けれどもそれは、ちょうど老人が自分の過去のあやまちを振返りながら後に来る者が再び同じあやまちをしないようにと青年に対して与える教訓に似ている。かような教訓には善い意志と正しい智慧ちえとが含まれているであろう。しかしながら老人の教訓を忠実に守るに止まるような青年は、進歩的な、独創的なところの乏しい青年である。昔から同じ教訓が絶えず繰り返されてきたにもかかわらず、人類は絶えず同じ誤謬ごびゅうを繰り返しているのである。例えば、恋愛の危険については古来幾度となくさとされている。けれども青年はつねにかように危険な恋愛に身をゆだねることをやめないのであって、そのために身を滅す者も絶えないではないか。あやまちを為すことを恐れている者は何もつかむことができぬ。人生は冒険である。恥ずべきことは、誤謬を犯すということよりもむしろ自分の犯した誤謬から何物をも学び取ることができないということである。努力する限りひとはあやまつ。誤謬は人生にとって飛躍的な発展の契機ともなることができる。それ故に神もしくは自然は、老人の経験に基く多くの確かに有益な教訓が存するにも拘らず、青年が自分自身でつねに再び新たに始めるように仕組んでいるのである。だからといって、もちろん、先に行く者の与える教訓が後に来る者にとって決して無意味であるというのではない。そこに人生の不思議と面白さとがあるのである。読書における濫読も同様の関係にある。濫読を戒めるのは大切なことである。しかしひとは濫読の危険を通じて自分の気質に適した読書法に達することができる。一冊の本を精読せよと云われても、特に自分に必要な一冊が果して何であるかは、多く読んでみなくては分らないではないか。古典を読めと云われても、すでにその古典が東西古今に亙って数多く存在し、しかも新しいものを知っていなくては古典の新しい意味を発見することも不可能であろう。読書は先ず濫読から始まるのが普通である。しかしいつまでも濫読のうちに止まっていることは好くない。真の読書家は殆どみな濫読から始めている、しかし濫読から抜け出すことのできない者は真の読書家になることができぬ。濫読はそれから脱却するための濫読であることによって意味を有するのである。

 濫読に止まるなということは多読してはならぬということではない。多読家でないような読書家があるであろうか。寧ろ読書家とは多読家の別名である。ことわざに、賢者はただ一冊の本の人間を恐れる、という。ひとは多く読まなければならぬ。読書の必要はただ一冊の本の人間にならないために、云い換えれば、一面的な人間にならないために、存在するのである。単に自分自身の時代のみでなく、また過ぎ去った時代について、単に、自分自身の国のみでなく、また世界について、全体の生活と思想について正しい見通しを得るために、多く読まなければならぬ。即ち読書において一般的教養を心掛けることが大切である。読書家とは一般的教養のために読書する人のことである。単に自分の専門に関してのみ読書する人は読書家とはいわれぬ。教養とは或る専門の知識を所有することをいうのではなく、かえって、教養とはつねに一般的教養を意味している。専門家になるために読書の必要のあることは云うまでもないが、ひとは特に一般的教養のために読書しなければならぬ。そして専門家も一般的教養を有することによって自分の専門が学問の全体の世界において、また社会及び人生にとって、如何なる地位を占め、如何なる意義を有するかに就いて正しい認識を得ることができるのである。専門家も人間としての教養をそなえ専門家の一面性の弊に陥らないように読書は勧められるのである。そのうえ自分の専門以外の書物から専門家が自己の専門に有益な種々の示唆を与えられる場合も少くないであろう。かくして多読は濫読の意味においては避くべきことであるとしても博読の意味においては必要であると云わねばならぬ。

 然るに濫読と博読とが区別されるようになる一つの大切な基準は、その人が専門を有するか否かということである。何等の方向もなく何等の目的もない博読は濫読にほかならぬ。一般的な読書に際しても、ひとはなお何等か専門というべきものを有しなければならぬ。一般的教養も専門によって生きてくるのであって、専門のない一般的教養はディレッタンティズムにほかならない。一般的教養と専門とは排斥し合うものでなく、むしろ相補わねばならぬものである。ひとはもとよりつねに一定の目的をもって読書するものではない。何か目的がなければ読書しないというのは読書における功利主義であって、かような功利主義は読書にとって有害である。目的のない読書、いわば読書のための読書というものも大切である。これによってひとは一般的教養に達することができる。一般的教養を得るという目的で一定の計画に従って読書することは勿論もちろん善いことではあるが、しかしかような計画は実行されないのが普通であって、むしろ若い時代から手当り次第に読んだものの結果が一般的教養になるという場合が多い。一般的教養は目的のない読書の結果である。けれども当てなしに読んだものが身に附いて真の教養となるというには他方専門的な読書が必要である。専門のない読書は中心のない読書であって、如何に多く読んでも何も読まなかったに等しいことになる。いわゆる読書家の陥り易い弊はディレッタンティズムである。


        三


 如何に読むべきかという問題は何を読むべきかという問題と関聯かんれんしている。ひとはすべての書物を同じ仕方で読むことはできないし、また同じ仕方で読んではならぬ。博く読むためには書物の種類に従って読み方を変えなければならない。そこに読書の技術があるのである。

 何を読むべきかに就いては、もちろん、善いものを読まねばならず、悪いものを読んではならぬということは明かである。悪い本を読むことはそのこと自身無益であるばかりでなく、悪い本を読んでいるうちには善いものと悪いものとを区別することができなくなってしまうという危険がある。ひとはただ善いものを読むことによって善いものと悪いものとを見分ける眼を養うことができるのであって、その逆ではない。善い本は必ずしも読み易い本ではない。大きな、分厚な、むつかしい本であるからといって避くべきではなく、その方面で最も善い本を読むように努めなければならぬ。読書においても努力が大切であり、そして努力はつねに報いられるのである。やさしい本、読者にびる本ばかりを読んでいては、真の知識も教養も得ることができぬ。一度でその本が全部理解されなくても好い、ともかく善いものにぶっつかってゆくことが肝要である。もし一度で理解することができなければ、しばらく間をおいて再び読むようにするが好い。努力して読書する習慣を作ることが大切である。尤も、むつかしい本、大きな本がつねに善い本であるという風に誤解してはならぬ。それはペダンチックな人の陥る誤解である。善い本は本質的に云ってすべて最も理解し易い本であるというのみでなく、初めから困難なしに読める本にも善い本は多いのである。そして読書においてぶっつかる困難を克服するためには系統的に読むことが大切である。読書も無秩序であっては益がなく順序を追うて読むようにしなければならぬ。先輩の意見を聞くことが有益であるのは何よりもこの点についてである。

 一般に何が善い本かといえば、もちろん古典といわれるような書物である。古典は歴史の試煉を経て生き残ってきたものであり、すでに価値の定まった本である。古典は決してふるくなることがなく、つねに新しく、つねに若々しいところを有している。古典を読むことによってひとは書物の良否に対する鑑識眼を養うことができるのである。古典を愛しないような真の読書家はなく、古典についての教養を有しないような真の教養人はない。古典はつねに安心して読むことができ、幾度繰り返し読んでもつねに新たな利益を得ることのできるものである。かように価値の定まった本を読むように心掛けねばならぬところから、人々は屡々しばしば、古典というほどでなくても既にいくらかの年数を経てなお読まれているような本を読むことにして、新刊書をすぐ手に取ることはやめねばならぬという風に忠告している。これは確かに有益な忠告である。ただ新刊書ばかりあさるのは好くないことに相違ない。しかしながら読書における尚古しょうこ主義にもまた限界がある。アカデミズムに対してジャーナリズムには独自の意義があるように新刊書を読むということにもそれ自身の意義があるのである。時代の感覚に触れるために、また今日の問題が何処どこにあるかを知るために、ひとは新刊書に接しなければならぬ。新しい感覚をもち新しい問題をもって対するのでなければ古典も生きてこないであろう。すべて過去が活かされ、伝統がよみがえってくるのは現在からである。古典を顧みないというのは固より悪いことであるが、新刊書を恐れるというのも正しくないことである。古典は安心して読むことができる本であるに対して、新刊書を読むことは一種の冒険である。しかし読書においても冒険するのでなければ得ることがないであろう。古典を偏愛して新刊書を嫌悪する者において読書は単に趣味的になる傾向があり、一種のディレッタンティズムに陥り易い。しかしまた新刊書ばかり漁って古典を顧みない者も他の種類のディレッタンティズムに陥る危険がある。読書にも年齢があり、老人は古典的なものを好み、青年は新しいものを求めるというのが普通である。青年が新刊書を喜ぶということはその知識欲の旺盛おうせいを示すものであって排斥すべきことではないが、しかしそこにはまた単なる好奇心のとりこになる危険もあるのである。古典のために新刊書を軽蔑けいべつすることなく、新刊書のために古典を忘却することのないようにするのが肝要である。

 古典を読むことが大切である如く、ひとはまたつねに原典を読むように心掛けねばならぬ。解説書とか参考書とかを読むことも固より必要ではあるが、本質的には原典を中心としてこれに頼らねばならぬ。原典はつねに最も信頼し得る書物である。例えばプラトンとかカントとかについて千の文献を読むにしても、原典を読むこと、これを繰り返して読むことをしないならば、深く根本的に学ぶことができぬ。第三者の書いた解説書よりも原典は本質的な意味においては一層理解し易いものである。多数の参考書を読むよりも一冊の原典を繰り返して読むことがそのものを掴むのに結局近道である。そのうえ原典は屡々解説書よりも短いという利益を有している。原典を読むことは読書を単純化するに必要な方法である。それは何よりも読書の経済化、簡易化を意味している。前に述べた規則的に読むという必要は原典の場合において特に大きいであろう。本はひとに読んで貰うのでなくて自分自身で読まねばならぬとすれば、この自分自身で読むという必要は原典の場合においては絶対的である。然るに世の中には文学上の作品についてさえ、それを自分で読まないで、他人の書いた解説や批評ばかりを読んでいる人が少くないのである。ひとはつねに源泉にまねばならぬ。源泉はつねに新しく、豊富である。原典を読むことによって最も多く自分自身の考えを得ることもできるのである。

 原典を読むことが必要であるように、できるだけ原書を読むようにすることが好い。どのような飜訳よりも原書がすぐれていることは確かである。原書の有する微妙な味、繊細な感覚は飜訳によって伝えられることが不可能である。そのうえ飜訳はすでに解釈であるということを知らねばならぬ。ひとは原語で読む困難を避けてはならない。飜訳で読むのが原書で読むのよりも速いということはあるにしても、ゆっくり読むことはそれだけ自分で考えながら読む余裕を与えることにもなるのであり、そしてこれは大切なことである。原書を読むには語学の力がなければならないが、その語学というものも決して手段に過ぎないようなものではなく、却って語学そのものが一つの重要な教養である。一つの国語はその民族の精神の現われであり、その思想の蓄積であるということができる。勿論あらゆるものを原語で読むということは不可能であり、またあらゆる場合に原語で読まねばならぬというわけではない。原語で読むことができないという理由でそれを読まないというのは悪い口実である。また飜訳で間に合わせて十分な書物も多い。しかし重要な本はできるだけ原書で読むようにしなければならぬ。飜訳の方が簡単であるからというので原語で読むことを避けようとするのは読書における便宜主義であって、便宜主義は読書においても有害である。

 善い本を読まねばならぬことは明かであるにしても、何が善い本であるかを見分けることは容易でない。古典といわれるものは善い本であるに相違ないが、その古典も多数であって選択が必要であり、殊に新刊書の場合においては選択は愈々いよいよ困難である。自分ですべての本に当ってみることは不可能であるとすれば、読書の指針として他人の挙げた目録とか新刊紹介とかに頼らねばならず、すでに定評のあるものを読むようにしなければならぬ。しかしながら定評とか他人の意見とかにばかり頼るということは危険である。読書においてもひとは自主的でなければならず、発見的であることが大切である。各人は自分に適した読書法を見出さねばならぬように自分に適した本を見出すことに努めなければならぬ。単に自分にびるというのでなくて、自分に役立ち、自分を高めてくれるような本を読むようにしなければならぬ。各々の人間には個性があるのであるから、一人の人間に適する本がすべて他の人間にも適するというわけではない。読書においても個性は尊重されねばならぬ。一般に善い本といわれるものの中でも自分に適したものとそうでないものとが自分の個性によって決ってくる。読書においてひとは何よりも特に古典の中から自分に適したものを発見するように努力しなければならぬ。それによって自分の思想というものも作られてくるのであり、愛読書といわれるものも定まってくるのである。愛読書を有しない人は思想的に信用のおけない人であるとさえ云うことができるであろう。自分に適した善い本が決ってくれば読書もおのずから系統立ってくるのであって、即ちそれと同じ系統に属する書物を、或いは過去にさかのぼり或いは現代にくだって、読むようにすれば好い。固より他の系統のものを読まなくても好いというわけではなく、却って偏狭にならないために博く読むことはつねに必要なことである。けれども無系統な博読は濫読に過ぎない。


        四


 善いものを読むということと共に正しく読むということが大切である。正しく読まなければ善いものの価値も分らないであろう。正しく読むということは何よりも自分自身で読むということである。マルクス・アウレリウスは彼の師について感謝をもって書いている。「ルスティクスは私に、私の読むものを精密に読むこと、皮相な知識で満足しないこと、また軽薄な批判者が云うことに直ちに同意しないことを教えた」。正しく読むことは自分の見識に従って読むことである。

 正しく読もうというには先ずその本を自分で所有するようにしなければならぬ。借りた本や図書館の本からひとは何等根本的なものを学ぶことができぬ。高価な大部の全集とか辞典のようなものは図書館によるのほかないにしても、図書館は普通はただ一寸ちょっと見たいもの、その時の調べ物にだけ必要なもの、多数の専門文献のために利用されるのであって、一般的教養に欠くことのできぬもの、専門書にしても基礎的なものはなるべく自分で所有するようにするが好い。しかしただ手当り次第に本を買うことは避けねばならず、本を買うにも研究が必要であり、自分の個性に基いた選択が必要である。その人の文庫を見れば、その人がどのような人であるかが分る。ただ沢山持っているというだけでは何にもならぬ。自分に役立つ本をそろえることが必要である。ただ善い本を揃えるというのでも足りない、すべての善い本が自分に適した本であるのではない。各人は自分に適した読書法を見出さねばならぬように、自分自身の個性のある文庫を備えるようにしなければならぬ。何を読むべきかについて、ひとは本に対する或る感覚を養うことが大切である。古本屋は自分の立場からであるにしても自分の決して読まない本に対して特殊な価値の感覚を有している。一つの本を見たとき読書家にも何かそれに類似の感覚がなければならぬ、さもなければ彼は読書において真に発見的であることができぬ。しかも本に対するこの感覚は本に親しむことによって得られるのである。

 正しく読むためには緩やかに読まねばならぬ。決して急いではならない。その本から学ぶためにも、その本を批評するためにも、その本を楽しむためにも、緩やかに読むことが大切である。然るに緩やかに読むということは今日の人には次第にまれな習慣である。生活が忙しくなり、書物の出版が多くなった今日においては、新聞や雑誌、映画やラジオなどの影響が深くなった今日においては、その習慣を得ることは困難になっている。自分で写本して読んだ昔の人には緩やかに読むという善い習慣があった。しかし今日においてもこの習慣を養うことは必要であり、特に学生の時代に努力されねばならぬ。勿論すべての本を緩やかに読まねばならぬというのではない。或る本はむしろ走り読みするのが好く、また或る本はその序文だけ読めば済み、更に或る本はその存在を知っているだけで十分である。そのような本が全く不必要な本であるというのでもない。すべての書物を同じ調子で読もうとすることは間違っている。しかし様々な本をただ走り読みしたり、拾い読みしたりするのでは根本的な知識も教養も得ることができぬ。自分の身につけようとする書物は緩やかに、どこまでも緩やかに、そして初めから終りまで読まなければならぬ。途中で気が変ることは好くない。最後まで読むことによって最初に書いてあったことの意味も真に理解することができるのである。他の仕事においてと同様、一冊の本にかじりついて読み通すということは読書の能率をあげる所以ゆえんである。

 緩やかに読むということはその真の意味においては繰り返して読むということである。ぜひ読まねばならぬ本は繰り返して読まなければならぬ。繰り返して読むということは老人の楽しみであると云われるであろう。老人は新刊書を好まないで、昔読んだ本を繰り返して読むことを好むのが普通である。しかし繰り返して読むことは青年にとってもまた楽しみであり、有益でなければならない。繰り返して読むことは先ずよく理解するために必要である。左右を比較し前後を関係づけることによってよく理解することができる。よく理解するためには精読しなければならないのであって、精読は古来つねに読書の規則とされている。よく理解するためには全体を知っていなければならず、すべての部分は全体に関係づけられ、全体から理解されることによって、初めて真に理解されるのであり、そのためには繰り返して読むことが必要である。ひとは初めから全体を予料しながら読んでゆくのであるが、全体は読み終ったとき初めて現実的になるのであって、かくしてひるがえって再び読み返すことが要求されるのである。尤も我々は必ずしもつねに直ぐ繰り返して読まねばならぬわけではない。読んでみて結局分らなかったものはそのままにしておいて、暫らく時を経て自分の知識や思索が進んだ時に再び取り出して読むようにするのも好い。以前に読んだことのある本を繰り返して読んでみるということは楽しいものである。その当時の記憶がよみがえってくるということもあろうし、また思わぬ誤解をしていたことを見出すということもあろうし、また新しい発見をするということもあるであろう。繰り返して読むということの楽しみは、その本と友達になるということの楽しみである。緩やかに読むことは大切であるが、最初から緩やかに読まねばならぬものは古典のように価値の定まった本であって、新しい本を手にした場合にはむしろ最初は一度速く読んでみてその内容の大体をつかみ、それから再び繰り返して今度は緩やかに読むようにするのも好い。緩やかに読むということは本質的には繰り返して読むということである。

 繰り返して読むことは細部を味うために必要である。一冊の本の全体の意味を掴むだけならば緩やかに読む必要もないのであって、繰り返して緩やかに読むことは寧ろその部分部分を味って読むために要求されることである。とりわけ古典的な書物には一見無駄に思われるようなところのあるものである。全く無駄のないような書物は善い書物ではない。一見無駄に思われるような部分からひとは思い掛けぬ真理を発見するに至ることがある。今日の多くの著述家とは違って昔の人は彼自身極めて緩やかに、自然に書いたということを考えねばならぬ。彼等の書物を味うために我々もまた緩やかに読まねばならず、繰り返して細部に亙って吟味しつつ読まねばならぬ。著者がさほど重要性をおかなかったところに読者が自分自身にとって重要な意味を発見するということは可能である。繰り返して読むことは読書において発見的であるために特に要求されている。

 かように発見的であるということは読書において何よりも大切である。もちろん著者の真意を理解するということはあらゆる場合に必要なことであり、それにはできるだけ客観的に読まなければならず、そしてそれには繰り返して読むということが必要な方法である。自分の考えで勝手に読むのは読まないのと同じである。ひとはそれから何物かを学ぼうという態度で書物に対しなければならぬ。理解は批評の前提として必要である。かようにして客観的に読むということは大切であるが、しかし書物に対しては単に受動的であることは好くない。発見的に読むということが最も重要なことである。発見的に読むには自分自身に何か問題をもって書物に対しなければならぬ。そして読書に際しても自分で絶えず考えながら読むようにしなければならぬ。読書はその場合著者と自分との間の対話になる。この対話のうちに読書の真の楽しみが見出されねばならぬ。自分で考えることをしないで著者に代って考えて貰うために読書するというのは好くない。もとより自分自身だけで何でも考えることができるものであるならば、読書の必要も存在しないであろう。読書は思索のためのものでなければならず、むしろ読書そのものに思索が結び附かなければならない。ことごとく書を信ずれば書なきにかずと古人も云った。批評的に読むということは自分で思索しながら読むということであり、自分で思索しながら読むということは単に批判的に読むということにのみ止まらないで、発見的に読むということでなければならぬ。しかも発見的に読むためには既に云ったように自分自身の読書法を身につけることが必要である。そしてこの読書法そのものも自分が要求をもって読書することによっておのずから発見されるものである。

底本:「読書と人生」新潮文庫、新潮社

   1974(昭和49)年1030日発行

   1986(昭和61)年93020

初出:「学生と読書」

   1938(昭和13)年12

入力:Juki

校正:小林繁雄

2010年15日作成

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