源氏物語
藤のうら葉
紫式部
與謝野晶子訳
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六条院の姫君が太子の宮へはいる仕度でだれも繁忙をきわめている時にも、兄の宰相中将は物思いにとらわれていて、ぼんやりとしていることに自身で気がついていた。自身で自身がわからない気もする中将であった。どうしてこんなに執拗にその人を思っているのであろう、これほど苦しむのであれば、二人の恋愛を認めてよいというほどに伯父が弱気になっていることも聞いていたのであるから、もうずっと以前から進んで昔の関係を復活さえさせればよかったのである。しかしできることなら、伯父のほうから正式に婿として迎えようと言って来る日までは昔の雪辱のために待っていたいと煩悶しているのである。雲井の雁のほうでも父の大臣の洩らした恋人の結婚話から苦しい物思いをしていた。もしもそんなことになったならもう永久に自分などは顧みられないであろうと思うと悲しかった。接近をしようとはせずに、しかもこの二人のしているのは熱烈な相思の恋であった。内大臣も甥の価値をしいて認めようとせずに、結婚問題には冷淡な態度をとり続けてきたのであったが、雲井の雁の心は今も依然とその人にばかり傾いているのを知っては、親心として宰相中将の他家の息女と結婚するのを坐視するに忍びなくなった。話が進行してしまって、中務の宮でも結婚の準備ができたあとでこちらの話を言い出しては中将を苦しめることにもなるし、自身の家のためにも不面目なことになって世上の話題にされやすい。秘密にしていても昔あった関係はもう人が皆知っていることであろう、何かの口実を作って、やはり自分のほうから負けて出ねばならないとまで大臣は決心するに至った。表面は何もないふうをしていても、あのことがあってからは心から親しめない間柄になっているのであるから、突然言い出すのも如何なものであると大臣ははばかられた。新しい婿迎えの形式をとるのも他人が見ておかしく思うことであろうから、そんなふうにはせずによい機会に直接話してみたほうがよいかもしれないなどと思っていたが、三月の二十日は大宮の御忌日であって、極楽寺へ一族の参詣することがあった。内大臣は子息たちを皆引き連れて行っていて、すばらしく権勢のある家のことであるから多数の高官たちも法会に参列したが、宰相中将はそうした高官たちに遜色のない堂々とした風采をしていて、容貌なども今が盛りなようにもととのっているのであるから、高雅な最も貴い若い朝臣と見えた。恨めしかったあの時以来、いつも内大臣と逢うのは晴れがましいことに思われて、今日なども親戚じゅうの長者としての敬意だけを十分に見せて、そしてきわめて冷静に落ち着いた態度をとっている宰相中将に、今日の内大臣は特に関心が持たれた。仏前の誦経などは源氏からもさせた。中将は最も愛された祖母の宮の法事であったから、経巻や仏像その他の供養のことにも誠心をこめた奉仕ぶりを見せた。夕方になって参会者の次々に帰るころ、木の花は大部分終わりがたになって散り乱れた庭に霞もよどんで春の末の哀愁の深く身にしむ景色を、大臣は顔を上げて母宮のおいでになった昔の日を思いながら、雅趣のある姿でながめていた。宰相中将も身にしむ夕べの気に仏事中よりもいっそうめいった心持ちになって、
「雨になりそうだ」
などと退散して行く人たちの言い合っている声も聞きながらなお庭のほうばかりがながめられた。好機会であるとも大臣は思ったのか、源中将の袖を引き寄せて、
「どうしてあなたはそんなに私を憎んでいるのですか。今日の御法会の仏様の縁故で私の罪はもう許してくれたまえ。老人になってどんなに肉身が恋しいかしれない私に、あまり厳罰をあなたが加え過ぎるのも恨めしいことです」
などと言うと、中将は畏まって、
「お亡れになりました方の御遺志も、あなたを御信頼申して、庇護されてまいるようにということであったように心得ておりましたが、私をお許しくださいません御様子を拝見するものですから御遠慮しておりました」
と言っていた。天侯が悪くなって雨風の中をこの人たちはそれぞれ急ぎ立てられるように家へ帰った。宰相中将は大臣がどうして平生と違った言葉を自分にかけたのであろうと、無関心でいる時のない恋人の家のことであるから、何でもないことも耳にとまって、いろいろな想像を描いていた。
長い年月の間純情をもって雲井の雁を思っていた宰相中将の心が通じたのか、内大臣は昔のその人とは思われないほど謙遜な娘の親の心になって宰相中将を招くのにわざとらしくない機会を、しかも最もふさわしいような機会のあるのを願っていたが、四月の初めに庭の藤の花が美しく咲いて、すぐれた紫の花房のなびき合うながめを、もてはやしもせずに過ごしてしまうのが残念になって、音楽の遊びを家でした時に、藤の花が夕方になっていっそう鮮明に美しく見えるからといって、長男の頭中将を使いにして源中将を迎えにやった。
「極楽寺の花蔭ではお話もゆっくりとする間のありませんでしたことが遺憾でなりませんでした。それでもしお閑暇があるようでしたらおいでくださいませんか」
というのが大臣の伝えさせた言葉である。手紙には、
わが宿の藤の色濃き黄昏にたづねやはこぬ春の名残を
とあった。歌われてあるとおりにすぐれた藤の花の枝にそれは付けてあった。使いを受けた中将は心のときめくのを覚えた。そして恐縮の意を返事した。
なかなかに折りやまどはん藤の花たそがれ時のたどたどしくば
というのである。
「気おくれがして歌になりませんよ。直してください」
と宰相中将は従兄に言った。
「お供して行きましょう」
「窮屈な随身はいやですよ」
と言って、源中将は従兄を帰した。中将は父の源氏の居間へ行って、頭中将が使いに来たことを言って内大臣の歌を見せた。
「ほかの意味があってお招きになるのかもしれない。そんなふうな態度に出てくればおもしろくなかった旧恨というものも消されるだろう。どうだね」
と源氏は言った。婿の親として源氏はこんなに自尊心が強かった。
「そんな意味でもないでしょう。対の前の藤が例年よりもみごとに咲いていますからこのごろの閑暇なころに音楽の合奏でもしようとされるのでしょう」
と宰相中将は父に言うのであった。
「特使がつかわされたのだから早く行くがよい」
と源氏は許した。中将はああは言っていても、心のうちは期待されることと、一種の不安とが一つになって苦しかった。
「その直衣の色はあまり濃くて安っぽいよ。非参議級とかまだそれにならない若い人などに二藍というものは似合うものだよ。きれいにして行くがよい」
と源氏は自身用に作らせてあったよい直衣に、その下へ着る小袖類もつけて中将の供をして来ていた侍童に持たせてやった。中将は自身の居間のほうで念の入った化粧をしてから黄昏時も過ぎて、待つほうで気のもまれる時刻に内大臣家へ行った。公達が中将をはじめとして七、八人出て来て宰相中将を座に招じた。皆きれいな公子たちであるが、その中にも源中将は最もすぐれた美貌を持っていた。気高い貴人らしいところがことに目にたった。内大臣は若い甥のために座敷の中の差図などをこまごまとしていた。大臣は夫人や若い女房などに、
「のぞいてごらん。ますますきれいになった人だよ。とりなしが静かで、堂々として鮮明な美しさは源氏の大臣以上だろう。お父様のほうはただただ艶で、愛嬌があって、見ている者のほうも自然に笑顔が作られるようで、人生の苦というようなものを忘れ去ることのできる力があった。公務を執ることなどはそうまじめにできなかったものだ。しかもこれが道理だと思われたものだ。この人のほうは学問が十分にできているし、性質がしっかりとしていてりっぱな官吏だと世間から認められているらしいよ」
などと言っていたが、身なりを正しく直して宰相中将に面会した。まじめな話は挨拶に続いて少ししただけであとは藤の宴に移った。
「春の花というものは、どの花だって咲いた最初に目ざましい気のしないものはないが、長くは人を楽しませずにどんどんと散ってしまうのが恨めしい気のするころに、藤の花だけが一歩遅れて、夏にまたがって咲くという点でいいものだと心が惹かれて、私はこの花を愛するのですよ。色だって人の深い愛情を象徴しているようでいいものだから」
と言って微笑している大臣の顔も品がよくてきれいであった。月が出ても藤の色を明らかに見せるほどの明りは持たないのであるが、ともかくも藤を愛する宴として酒杯が取りかわされ、音楽の遊びをした。しばらくして大臣は酔った振りになって宰相中将に酒をしいようとした。源中将は酔いつぶされまいとして、それを辞し続けていた。
「あなたは末世に過ぎた学才のある人物でいながら、年のいった者を憐んでくれないのは恨めしい。書物にもあるでしょう、家の礼というものが。甥は伯父を愛して敬うべきものですよ。孔子の教えには最もよく通じていられるはずなのだが、私を悩まし抜かれたとそう恨みが言いたい」
などと言って、それは酒に酔って感傷的になっているのか源中将を少しばかり困らせた。
「伯父様を決して粗略には思っておりません。御恩のあるお祖父様の代わりと思いますだけでも、私の一身を伯父様の犠牲にしてもいいと信じているのですが、どんなことがお気に入らなかったのでしょう。もともと頭がよくないのでございますから、自身でも気づかずに失礼をしていたのでございましょう」
とうやうやしく源中将は言うのであった。よいころを見て大臣は機嫌よくはしゃぎ出して「藤のうら葉の」(春日さす藤のうら葉のうちとけて君し思はばわれも頼まん)と歌った。命ぜられて頭中将が色の濃い、ことに房の長い藤を折って来て源中将の杯の台に置き添えた。源中将は杯を取ったが、酒の注がれる迷惑を顔に現わしている時、大臣は、
紫にかごとはかけん藤の花まつより過ぎてうれたけれども
と歌った。杯を持ちながら頭を下げて謝意を表した源中将はよい形であった。
いく返り露けき春をすぐしきて花の紐とく折に逢ふらん
と歌った源中将は杯を頭中将にさした。
たをやめの袖にまがへる藤の花見る人からや色もまさらん
頭中将の歌である。二男以下にもその型で杯がまわされ「みさかな」の歌がそれぞれ出たわけであるが、酔っている人たちの作ったものであったから、以上の三首よりよいというものもなかった。七日の夕月夜の中に池がほの白く浮かんで見えた。大臣の言葉のように、春の花が皆散ったあとで若葉もありなしの木の梢の寂しいこのごろに、横が長く出た松の、たいして大木でないのへ咲きかかった藤の花は非常に美しかった。例の美音の弁の少将がなつかしい声で催馬楽の「葦垣」を歌うのであった。
「すばらしいね」
と大臣は戯談を言って、「年経にけるこの家の」と上手に声を添えた。おもしろい夕月夜の藤の宴に宰相中将の憂愁は余す所なく解消された。夜がふけてから源中将は酔いに悩むふうを作って、
「あまり酔って苦しくてなりません。無事に帰りうる自信も持てませんからあなたの寝室を拝借できませんか」
と頭中将に言っていた。大臣は、
「ねえ朝臣、寝床をどこかで借りなさい。老人は酔っぱらってしまって失礼だからもう引き込むよ」
と言い捨てて居間のほうへ行ってしまった。頭中将が、
「花の蔭の旅寝ですね。どうですか、あとで迷惑になる案内役ではないかしら」
「寄りかかって松と同じ精神で咲く藤なのですから、これは軽薄な花なものですか。とにかくそんな縁起でもない言葉は使わないでおきましょう」
と言って、中将の先導をなお求める宰相中将であった。頭中将は負けたような気がしないでもなかったが、源中将はりっぱな公子であったから、ぜひ妹との結婚を成立させたいとはこの人の念願だったことであって、満足を感じながら従弟を妹の所へ導いた。宰相中将はこうした立場を与えられるに至った夢のような運命の変わりようにも自己の優越を感じた。雲井の雁はすっかり恥ずかしがっているのであったが、別れた時に比べてさらに美しい貴女になっていた。
「みじめな失恋者で終わらなければならなかった私が、こうして許しを受けてあなたの良人になり得たのは、あなたに対する熱誠がしからしめたのですよ。だのにあなたは無関心に冷ややかにしておいでになる」
と男は恨んだ。
「少将の歌われた『葦垣』の歌詞を聞きましたか。ひどい人だ。『河口の』(河口の関のあら垣や守れどもいでてわが寝ぬや忍び忍びに)と私は返しに謡いたかった」
女はあらわな言葉に羞恥を感じて、
「浅き名を言ひ流しける河口はいかがもらしし関のあら垣
いけないことでしたわ」
と言う様子が娘らしい。男は少し笑って、
「もりにけるきくだの関の河口の浅きにのみはおはせざらなん
長い年月に堆積した苦悩と、今夜の酒の酔いで私はもう何もわからなくなった」
と酔いに託して帳台の内の人になった。宰相中将は夜の明けるのも気がつかない長寝をしていた。女房たちが気をもんでいるのを見て、大臣は、
「得意になった朝寝だね」
と言っていた。そしてすっかり明るくなってから源中将は帰って行った。この中将の寝起き姿を見た人は美しく思ったことであろう。
第一夜の翌朝の手紙も以前の続きで忍んで送られたのであるが、はばかる必要のない日になって、かえって雲井の雁が返事の書けないふうであるのを、蓮葉な女房たちは肱を突き合って笑っている所へ大臣が出て来て手紙を読んでみた。雲井の雁はますます羞恥に堪えられなくなった。
やはり昔と同じように冷ややかなあなたに逢っていよいよ自分が哀れな者に思われるのですが、おさえられぬ恋からまたこの手紙を書くのです。
咎むなよ忍びにしぼる手もたゆみ今日あらはるる袖のしづくを
などと手紙はなれなれしく書いてあった。大臣は笑顔をして、
「字が非常に上手になったね」
などと言っていることも昔とはたいした変わりようである。返事の歌を詠みにくそうにしている娘を見て、
「どうしたというものだ。見苦しい」
と言って、雲井の雁が父をはばかる気持ちも察して大臣は去ってしまった。手紙の使いは派手な纏頭を得た。そして頭中将が饗応の役を勤めたのであった。始終隠して手紙を届けに来た人は、はじめて真人間として扱われる気がした。これは右近の丞で宰相中将の手もとに使っている男であった。
源氏も内大臣邸であった前夜のことを知った。宰相中将が平生よりも輝いた顔をして出て来たのを見て、
「今朝はどうしたか、もう手紙は書いたか。聡明な人も恋愛では締まりのないことをするようにもなるものだが、最初の関係を尊重して、しかもあくせくとあせりもせず自然に解決される時を待っていた点で、平凡人でないことを認めるよ。内大臣があまりに強硬な態度をとり過ぎて、ついにはすっかり負けて出たということで世間は何かと評をするだろう。しかしあまり優越感を持ち過ぎて慢心的に放縦なほうへ転向することのないようにしなくてはならない。今度の態度は寛大であっても、大臣の性格は、生一本でなくて気むずかしい点があるのだからね」
などとまた源氏は教訓した。円満な結果を得て、宰相中将につりあいのよい妻のできたことで源氏は満足しているのである。宰相中将は子のようにも見えなかった。少し年上の兄というほどに源氏は見えるのである。別々に見る時は同じ顔を写し取ったように思われる中将と源氏の並んでいるのを見ると、二人の美貌には異なった特色があった。源氏は薄色の直衣の下に、白い支那風に見える地紋のつやつやと出た小袖を着ていて、今も以前に変わらず艶に美しい。宰相中将は少し父よりは濃い直衣に、下は丁字染めのこげるほどにも薫物の香を染ませた物や、白やを重ねて着ているのが、顔をことさら引き立てているように見えた。今日は御所からもたらされて灌仏が六条院でもあることになっていたが、導師の来るのが遅くなって、日が暮れてから各夫人付きの童女たちが見物のために南の町へ送られてきて、それぞれ変わった布施が夫人たちから出されたりした。御所の灌仏の作法と同じようにすべてのことが行なわれた。殿上役人である公達もおおぜい参会していたが、そうした人たちもかえって六条院でする作法のほうを晴れがましく考えられて、気おくれが出るふうであった。宰相中将は落ち着いてもいられなかった。化粧をよくして身なりを引き繕って新婦の所へ出かけるのであった。情人として扱われてはいないが、少しの関係は持っている若い女房などで恨めしく思っているのもあった。苦難を積んで護って来た年月が背景になっている若夫婦の間には水が洩るほどの間隙もないのである。内大臣も婿にしていよいよ宰相中将の美点が明瞭に見えて非常に大事がった。負けたほうは自分であると意識することで大臣の自尊心は傷つけられたのであるが、中将の娘に対する誠実さは、今までだれとの結婚談にも耳をかさず独身で通して来た点でも認められると思うことで、不満の償われることは十分であった。女御よりもかえって雲井の雁のほうが幸福ではなやかな女性と見えるのを夫人や、そのほうの女房たちは不快がったのであるが、そんなことなどは何でもない。雲井の雁の実母である按察使大納言の夫人も、娘がよい婿を得たことで喜んだ。
源氏の姫君の太子の宮へはいることはこの二十日過ぎと日が決定した。姫君のために紫夫人は上賀茂の社へ参詣するのであったが、いつものように院内の夫人を誘ってみた。花散里、明石などである。その人たちは紫夫人といっしょに出かけることはかえって自身の貧弱さを紫夫人に比べて人に見せるものであると思ってだれも参加しなかったから、たいして目に立つような参詣ぶりではなかったが、車が二十台ほどで、前駆も人数を多くはせずに人を精選してあった。それは祭りの日であったから、参詣したあとで一行は見物桟敷にはいって勅使の行列を見た。六条院の他の夫人たちのほうからも女房だけを車に乗せて祭り見物に出してあった。その車が皆桟敷の前に立て並べられたのである。あれはだれのほう、それは何夫人のほうの車と遠目にも知れるほど華奢が尽くされてあった。源氏は中宮の母君である、六条の御息所の見物車が左大臣家の人々のために押しこわされた時の葵祭りを思い出して夫人に語っていた。
「権勢をたのんでそうしたことをするのはいやなことだね。相手を見くびった人も、人の恨みにたたられたようになって亡くなってしまったのですよ」
と源氏はその点を曖昧に言って、
「残した人だってどうだろう、中将は人臣で少しずつ出世ができるだけの男だが、中宮は類のない御身分になっていられる。その時のことから言えば何という変わり方だろう。人生は元来そうしたものなのですよ。無常の世なのだから、生きている間はしたいようにして暮らしたいとは思うが、私の死んだあとであなたなどがにわかに寂しい暮らしをするようなことがあっては、かえって今派手なことをしておかないほうがその場合に見苦しくないからと私はそんなことも思って、十分まで物はせずにいる」
などと言ったのち源氏は高官なども桟敷へ伺候して来るので男子席のほうへ出て行った。今日近衛の将官として加茂へ参向を命ぜられた勅使は頭中将であった。内侍使いは藤典侍である。勅使の出発する内大臣家へ人々はまず集まったのであった。宮中からも東宮からも今日の勅使には特別な下され物があった。六条院からも贈り物があって、勅使の頭中将の背景の大きさが思われた。宰相中将はいでたちのせわしい場所へ使いを出して典侍へ手紙を送った。思い合った恋人どうしであったから、正当な夫人のできたことで典侍は悲観しているのである。
何とかや今日のかざしよかつ見つつおぼめくまでもなりにけるかな
想像もしなかったことです。
というのであった。自分のためには晴れの日であることに男が関心を持っていたことだけがうれしかったか、あわただしい中で、もう車に乗らねばならぬ時であったが、
かざしてもかつたどらるる草の名は桂を折りし人や知るらん
博士でなければわからないでしょう。
と返事を書いた。ちょっとした手紙ではあったが、気のきいたものであると宰相中将は思った。この人とだけは隠れた恋人として結婚後も関係が続いていくらしい。
姫君が東宮へ上がった時に母として始終紫の女王がついて行っていねばならないはずであるが、女王はそれに堪えまい、これを機会に明石を姫君につけておくことにしようかと源氏は思った。紫夫人も、それが自然なことで、いずれそうした日のなければならない母と子が今のように引き分けられていることを明石夫人は悲しんでいるであろうし、姫君も幼年時代とは違ってもう今はそのことを飽き足らぬことと悲しんでいるであろう、双方から一人の自分が恨まれることは苦しいと思うようになった。
「この機会に真実のお母様をつけておあげなさいませ。まだ小さいのですから心配でなりませんのに、女房たちといっても若い人が多いのでございますからね。また乳母たちといっても、ああした人たちの周到さには限度があるのですものね、母がいなければと思いますが、私がそうずっとつききっていられないあいだあいだはあの方がいてくだすったら安心ができると思います」
と女王は良人に言った。源氏は自身の心持ちと夫人の言葉とが一致したことを喜んで、明石へその話をした。明石は非常にうれしく思い、長い間の願いの実現される気がして、自身の女房たちの衣裳その他の用意を、紫夫人のするのに劣らず派手に仕度し始めた。姫君の祖母の尼君は姫君の出世をどこまでも観望したいと願っていた。そしてもう一度だけ顔を見たいと思う心から生き続けているのを、明石は哀れに思っていた。その機会だけは得られまいと思うからである。最初は紫夫人が付き添って行った。紫夫人には輦車も許されるであろうが、自身には御所のある場所を歩いて行かねばならない不体裁のあることなども、明石は自身のために歎かずに源氏夫婦が磨きたてて太子に奉る姫君に、自分という生母のあることが玉の瑕と見られるに違いないと心苦しがっていた。姫君が上がる式に人目を驚かすような華奢はしたくないと源氏は質素にしたつもりであったが、やはり並み並みのこととは見えなかった。限りもなく美しく姫君を仕立てて、紫夫人は真心からかわいくながめながらも、これを生母に譲らねばならぬようなことがなくて、真実の子として持ちたかったという気がした。源氏も宰相中将もこの一点だけを飽き足らず思った。
三日たって紫の女王は退出するのであったが、代わるために明石が御所へ来た。そして東宮の御息所の桐壺の曹司で二夫人ははじめて面会したのである。
「こんなに大人らしくおなりになった方で、私たちは長い以前からの知り合いであることが証明されるのですから、もう他人らしい遠慮はしないでおきたいと思います」
となつかしいふうに紫夫人は言って、いろいろな話をした。これが初めで二夫人の友情は堅く結ばれていくであろうと思われた。明石のものを言う様子などに、あれだけにも源氏の愛を惹く力のあるのは道理である、すばらしい人であると夫人にはうなずかれるところがあった。今が盛りの気高い貴女と見える女王の美に明石は驚いていて、たくさんな女性の中で最も源氏から愛されて、第一夫人の栄誉を与えているのは道理のあることであると思ったが、同時に、この人と並ぶ夫人の地位を得ている自分の運命も悪いものでないという自信も持てたのであったが、入り代わって帰る女王はことさらはなばなしい人に付き添われ、輦車も許されて出て行く様子などは陛下の女御の勢いに変わらないのを見ては、さすがに溜息もつかれた。
きれいな姫君を夢の中のような気持ちでながめながらも明石の涙はとまらなかった。しかしこれはうれしい涙であった。今までいろいろな場合に悲観して死にたい気のした命も、もっともっと長く生きねばならぬと思うような、朗らかな気分になることができて、いっさいが住吉の神の恩恵であると感謝されるのであった。理想的な教養が与えられてあって、足りない点などは何もないと見える姫君は、絶大な勢力のある源氏を父としているほかに、すぐれた麗質も備えていることで、若くいらせられる東宮ではあるがこの人を最も御愛寵あそばされた。東宮に侍している他の御息所付きの女房などは、源氏の正夫人でない生母が付き添っていることをこの御息所の瑕のように噂するのであるが、それに影響されるようなことは何もなかった。はなやかな空気が桐壺に作られて、芸術的なにおいをこの曹司で嗅ぎうることを喜んで、殿上役人などもおもしろい遊び場と思い、ここのすぐれた女房を恋の対象にしてよく来るようになった。女房たちのとりなし、人への態度も洗練されたものであった。紫夫人も何かのおりには出て来た。それで明石との間がおいおい打ち解けていった。しかも明石はなれなれしさの過ぎるほどにも出過ぎたことなどはせず、紫夫人はまた相手を軽蔑するようなことは少しもせずに怪しいほど雅致のある友情が聡明な二女性の間にかわされていた。源氏も、もう長くもいられないように思う自身の生きている間に、姫君を東宮へ奉りたいと思っていたことが、予期以上に都合よく実現されたし、それは彼自身に考えのあってのことではあるが、配偶者のない、たよりない男と見えた宰相中将も結婚して幸福になったことに安心して、もう出家をしてもよい時が来たと思われるのであった。紫夫人は気がかりであるが、養女の中宮がおいでになるから、何よりもそれが確かな寄りかかりである、また、姫君のためにも形式上の母は女王のほかにないわけであるから、仕えるのに誠意を持つことであろうからと源氏は思っているのであった。花散里のためには宰相中将がいるからよいとそれも安心していた。
翌年源氏は四十になるのであったから、四十の賀宴の用意は朝廷をはじめとして所々でしていた。
その秋三十九歳で源氏は準太上天皇の位をお得になった。官から支給されておいでになる物が多くなり、年官年爵の特権数がおふえになったのである。それでなくても自由でないことは何一つないのでおありになったが、古例どおりに院司などが、それぞれ任命されて、しかもどの場合の院付きの役人よりも有為な、勢いのある人々が選ばれたのであった。こんなことになって心安く御所へ行くことのおできにならないことになったのを六条院は物足らずお思いになった。この御処置をあそばしてもまだ帝は不満足に思召され、世間をはばかるために位をお譲りになることのできぬことを朝夕お歎きになった。
内大臣が太政大臣になって、宰相中将は中納言になった。任官の礼廻りをするために出かける中納言はいっそう光彩の添うた気がして、身のとりなし、容貌の美に欠けた点のないのを、舅の大臣は見て、後宮の競争に負けた形になっているような宮仕えをさせるよりも、こうした婿をとるほうがよいことであるという気になった。雲井の雁の乳母の大輔が、
「姫君は六位の男と結婚をなさる御運だった」
とつぶやいた夜のことが中納言にはよく思い出されるのであったから、美しい白菊が紫を帯びて来た枝を大輔に渡して、
「あさみどりわか葉の菊をつゆにても濃き紫の色とかけきや
みじめな立場にいて聞いたあなたの言葉は忘れないよ」
と朗らかに微笑して言った。乳母は恥ずかしくも思ったが、気の毒なことだったとも思いおかわいらしい恨みであるとも思った。
「二葉より名だたる園の菊なればあさき色わく露もなかりき
どんなに憎らしく思召したでしょう」
と物馴れたふうに言って心苦しがった。納言になったために来客も多くなり、この住居が不便になって、源中納言はお亡くなりになった祖母の宮の三条殿へ引き移った。少し荒れていたのをよく修理して、宮の住んでおいでになった御殿の装飾を新しくして夫婦のいる所にした。二人にとっては昔を取り返しえた気のする家である。庭の木の小さかったのが大きくなって広い蔭を作るようになっていたり、ひとむら薄が思うぞんぶんに拡がってしまったりしたのを整理させ、流れの水草を掻き取らせもして快いながめもできるようになった。
美しい夕方の庭の景色を二人でながめながら、冷たい手に引き分けられてしまった少年の日の恋の思い出を語っていたが、恋しく思われることもまた多かった。当時の女房たちは自分をどう思って見たであろうと雲井の雁は恥ずかしく思っていた。祖母の宮に付いていた女房で、今までまだそれぞれの部屋に住んでいた女房などが出て来て、新夫婦がここへ住むことになったのを喜んでいた。
源中納言、
なれこそは岩もるあるじ見し人の行くへは知るや宿の真清水
夫人、
なき人は影だに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの水
などと言い合っている時に、太政大臣は宮中から出た帰途にこの家の前を通って、紅葉の色に促されて立ち寄った。宮がお住まいになった当時にも変わらず、幾つの棟に分かれた建物を上手にはなやかに住みなしているのを見て大臣の心はしんみりと濡れていった。中納言は美しい顔を少し赤らめて舅の前にいた。美しい若夫婦ではあるが、女のほうはこれほどの容貌がほかにないわけはないと見える程度の美人であった。男はあくまでもきれいであった。老いた女房などは大臣の来訪に得意な気持ちになって、古い古い時代の話などをし出すのであった。そこに出たままになっていた二人の歌の書いた紙を取って、大臣は読んだが、しおれたふうになった。
「ここの水に聞きたいことが私にもあるが、今日は縁起を祝ってそれを言わないことにしよう」
と言って、大臣は、
そのかみの老い木はうべも朽ちにけり植ゑし小松も苔生ひにけり
この歌を告げた。中納言の乳母の宰相の君は、あの当時の大臣の処置に憤慨して、今も恨めしがっているのであったから、得意な気持ちで大臣に言った。
いづれをも蔭とぞ頼む二葉より根ざしかはせる松の末々
この感想がどの女房の歌にも出てくるのを中納言は快く思った。雲井の雁はむやみに顔が赤くなって恥ずかしくてならなかった。
十月の二十日過ぎに六条院へ行幸があった。興の多い日になることを予期されて、主人の院は朱雀院をも御招待あそばされたのであったから、珍しい盛儀であると世人も思ってこの日を待っていた。六条院では遺漏のない準備ができていた。午前十時に行幸があって、初めに馬場殿へ入御になった。左馬寮、右馬寮の馬が前庭に並べられ、左近衛、右近衛の武官がそれに添って列立した形は五月の節会の作法によく似ていた。午後二時に南の寝殿へお移りになったのであるが、その通御の道になる反橋や渡殿には錦を敷いて、あらわに思われる所は幕を引いて隠してあった。東の池に船などを浮けて、御所の鵜飼い役人、院の鵜飼いの者に鵜を下ろさせてお置きになった。小さい鮒などを鵜は取った。叡覧に供えるというほどのことではなく、お通りすがりの興におさせになったのである。山の紅葉はどこのも美しいのであるが、西の町の庭はことさらにすぐれた色を見せているのを、南の町との間の廊の壁をくずさせ、中門をあけて、お目をさえぎる物を省いて御覧にお供えになったのであった。二つの御座が上に設けられてあって、主人の院の御座が下がって作られてあったのを、宣旨があってお直させになった。これこそ限りもない光栄であるとお見えになるのであるが、帝の御心にはなお一段六条院を尊んでお扱いになれないことを残念に思召した。
池の魚を載せた台を左近少将が持ち、蔵人所の鷹飼いが北野で狩猟してきた一つがいの鳥を右近少将がささげて、寝殿の東のほうから南の庭へ出て、階段の左右に膝をついて献上の趣を奏上した。太政大臣が命じてそれを大御肴に調べさせた。親王がた、高官たちの饗膳にも、常の様式を変えた珍しい料理が供えられたのである。人々は陶然と酔って夕べに近いころ、伶人が召し出された。大楽というほどの大がかりなものでなく、感じのよいほどの奏楽の前で御所の侍童たちが舞った。朱雀院の紅葉の賀の日がだれにも思い出された。「賀王恩」という曲が奏されて、太政大臣の子息の十歳ぐらいの子が非常におもしろく舞った。帝は御衣を脱いで賜い、父の太政大臣が階前でお礼の舞踏をした。主人の院はお折らせになった菊を大臣へお授けになるのであったが、青海波の時を思い出しておいでになった。
色まさる籬の菊もをりをりに袖打ちかけし秋を恋ふらし
当時ごいっしょに舞った大臣は、自身も人にすぐれた幸福は得ていながらも、帝の御子であらせられた院の到達された所と自身とは非常な相違のあることに気がついた。時雨は彼の出て来るおりをうかがっていたようにはらはらと降りそそいだ。
「紫の雲にまがへる菊の花濁りなき世の星かとぞ見る
最もふさわしい時に咲いた花でございます」
と大臣は院へ申し上げた。夕風が蒔き敷く紅葉のいろいろと、遠い渡殿に敷かれた錦の濃淡と、どれがどれとも見分けられない庭のほうに、美しい貴族の家の子などが、白橡、臙脂、赤紫などの上着を着て、ほんの額だけにみずらを結い、短い曲をほのかに舞って紅葉の木蔭へはいって行く、こんなことが夜の闇に消されてしまうかと惜しまれた。奏楽所などは大形に作ってはなくて、すぐに御前での管絃の合奏が始まった。御書所の役人に御物の楽器が召された。夜がおもしろく更けたころに楽器類が御前にそろった。「宇陀の法師」の昔のままの音を朱雀院は珍しくお聞きになり、身にしむようにもお感じになった。
秋をへて時雨ふりぬる里人もかかる紅葉の折りをこそみね
現今の御境遇を寂しがっておいでになるような御製である。
帝が、
世の常の紅葉とや見るいにしへのためしにひける庭の錦を
と朱雀院へ御説明的に申された。帝の御容貌はますますお美しくおなりになるばかりであった。今ではまったく六条院と同じお顔にお見えになるのであるが、侍している源中納言の顔までが同じ物に見えるのは、この人として過分なしあわせであった。気高い美が思いなしによるのかいささか劣って見えた。鮮明にきわだってきれいな所などはこの人がよけいに持っているように見えた。この人は笛の役をしたのである。合奏は非常におもしろく進んでいった。歌の役を勤める殿上人は階段の所に集まっていたが、その中で弁の少将の声が最もすぐれていた。
前生の善果を持って生まれてきたような人たちというべきであろう。
底本:「全訳源氏物語 中巻」角川文庫、角川書店
1971(昭和46)年11月30日改版初版発行
1994(平成6)年6月15日39版発行
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