赤い鳥
鈴木三重吉
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冷吉は自分には考へる女がなかつたものだから、讀んだ物の中の、赤い鳥を遁がして出て行く女を、自分の女にして考へてゐた。そのために自分に女のないのが餘計に暗愁を増すやうな事もあつたけれど、それでも外に何もないのだから、やつぱりその女を考へずにはゐられなかつた。
それは表紙が好きだから買つて來た、譯したものを集めた、或本に出てゐた小説であつた。冷吉はいつも、その女が家から遁げて出かけて、窓の鳥籠を下しに引き返すパセイジを考へ浮べるのが癖になつてゐた。
その本は母に見附けられて、間もなく取り上げられて了つたから、その小説の作者の名前も、耳馴れぬ長い外國名前だつたといふ事しか記憶してゐなかつた。けれども、冷吉にはもとよりそんな事はどうでもよかつた。何の本でもたゞ戀の事さへ書いてあれば、解らないところがあつてもいゝから、ずん〴〵貪つて讀んでゐた。
戀の女はグレツチエンといふ女である。そこはオランダの、何とかいふ、昔からの物の蹟の多い、古い町であつた。相手の青年畫家は、フランスからこの町へ來て、こゝの女のしめりつぽい碧い目と、琥珀色の絹のやうなふさ〳〵しい髮と、純白な裾長い着物を着た、典雅な姿を寫し取るために止まつてゐた。さうしてそんなモデルに相應しい女を見出す前に、或古い寺院の壁畫に畫かれた、十字架に倒れたキリストを取り下して、窃かに土に葬り入れつゝあるマグダーレンが、わが求めて來た女の型をしてゐるのを戀ひて、その女を活きた女のやうに毎日見に行つてゐたが、或夕方、同じこの畫の前に禮拜して、最早薄暗くなつた圓柱の蔭に下りて行く一人の女の、目差と膚と、白い着物の痩せた形とが、壁畫のマグダーレン自身が拔け出たよりも、もつとそれに似て居るのに愕いて、その儘どこへどう去つたとも別らぬその女に戀ひ移る。
青年はそれからは毎日その姿を求めて町をさまよふのであつた。さうして話の記載の何頁かを置いて、再び夕方の或物古い町角で、その、わが悲しい妻となるべきグレツチエンが、圖らずも、小さい雨の中を、この男の戀ひ求める目の前を過ぎるのに會ふ事が出來た。
男は急いで跡を附けて行つた。けれども、それは全く自分の目の迷ひであつたかのやうに、いつしかその女の姿を見失つて、雨の足のみ蜘蛛の絲のやうに絶え〴〵に落ち續く、靜かな町筋の路上に空しく立ち止まらなければならなかつた。青年はかうしてまた久しい間のはかない求めの續きに返りつゝ、暮れかゝる町筋をしほ〳〵と行くと、或しめやかな家の窓に、小さい雨に濡れつゝ懸つてゐる、薄赤い色の鳥のゐる鳥籠を、入れ忘れたらしい飼主の女の手が、丁度男が下へ來かゝる時にカーテンを開けて取り入れるよと見ると、それが見失つたマグダーレンの女であつた。
男はそれからは幾度も、この窓の下を往き返るために出て來るけれど、生憎戀ひる女の一部分をも見る事を得ずして、毎日同じその窓に置かれた鳥籠の中へ、紙切れに、
「わが戀ふるマグダーレンに似た女よ。」と書いては入れて行き〳〵した。女は夕日の沈む時刻にその鳥を取り入れる度に、いく度も得る同じ手の同じ文字の紙切れをいくつも溜めて、やつと自分を戀ひる男だと知ると共に、日夜小さき胸を轟かせて、その誰だとも別らぬ男を戀ひる。男はその前に畫のマググーレンに戀ひた。女には生れてはじめての戀であつた。
かくして、遂に女は男から熱した心を私語かれる或日が來た。やがて男は、女をつれて、晝と夜との麗しい、人に見られぬ國へ落ちようといふ。女は小鳥のやうな驚きに惑ひつゝも、たゞ男のいふ何事にも從ひたいために、何を考へ返す餘裕もなくそれを肯うて、一人小さい胸を戰かせる。
翌る日の夕方、男は馬車を町角に待たせて窓の下に立つた。窃かに待つてゐた女は、身も空にそつと拔け出して、たそがれの蔭りの石段を下りて男の肘に投ずる。
「いゝか?」と男はわく〳〵して私語く。女は打ち顫へつゝ、現ともなく手を引かれて小走りに駈け出したが、走せつゝも何だか心にかゝる。何かもう一度一寸戸口まで引き返さなければ濟まぬやうな心持が後に引かれる。
「待つて下さい。一寸待つて。」と、遂に女は男に請うて一人走せ歸つた。
あの鳥。出し忘れたあの鳥。──女は背延をして窃つと窓の鳥籠を下すと、せか〳〵とその金網の口を開けて、鳥を取り出して放して了ふ。鳥はぱた〳〵と夕方の目を掠めて立ち上つた。女はわが久しく飼ひつゝ馴れたその赤い色が、どちらへどう飛んだかを見極めるいとまもなく、そのまゝ走せて馬車に乘る。
女はかうして男のものになつて家を出て行つて了つたけれど、男はしばらく伴らつてゐる内に、いつしか女に對して段々に石膏のやうな冷い男になつて來る。男は自分の女の價を忘れて、再び畫のマグダーレンを戀ひ求めるのであつた。女にはこれまで自分がこの男に戀されてゐた譯がやう〳〵解つて來た。男はやつぱり自分を戀したのではなかつた。男が自分を求めたといふことは、自分を通して暗に畫のマグダーレンを得ようとしたのである。畫の女から、活きた私語と口づけとを得るために、マグダーレンに似た自分を戀したのみである。男には遂にあの畫かれた女の外には何物もあり得ないのであつた。
果して男は、しまひに、女に畫のマグダーレンの儘の扮裝をさせて、それをカンバスの前に立たせて、自分の戀ひるマグダーレンを、この女を通して自分の手で再現しようとする。女は畫にかゝれながら男にいふ。私はあなたの前にはたゞあの畫の女の人形であつた。けれどもその單なる人形もこのやうにあなたを戀ひてゐる。どうぞ畫が出來ても、私をもいつまでもお側にだけはつれてゐて欲しいと言ひつゝさめ〴〵と泣いて、涙ながらに男に畫かれて行くのであつた。
冷吉はこのしまひのところで、自分がこの女のやうにほろ〳〵と涙が出た。それほど女の心が哀れであるだけに、さきに女が籠から遁がして出た鳥の赤い色が、それだけ悲しい色を増して、どうしても女が自分の女のやうにしか考へられなくなるのであつた。
毎日頭の痛い冷吉は、何をするのも厭で、いつも灰色のやうなさびしい心に、この鳥の女の事なぞばかり考へて怠惰けてゐたが、家にゐると祖父から終日何だかだと解らない事を言つて、がみ〴〵言はれるのが五月蠅くてたまらないので、どこか一人かけ離れたところへ遁げて、じつと自分の好きなやうにしてゐたくてならなかつた。母だつて、心配して自分の氣嫌ばかり取る癖に、自分の頭がどんなに惡いかといふ事が分らないのだから何の足しにもならない。冷吉は少しの間──の宿屋へでも行つてゐたいと母にねだつた。それが丁度祖父と言ひ爭つた當分だつたので、そのために出て行つて了つたやうに誤解されては私が困るからと、母はいろ〳〵に言つてなだめたけれど、しまひには持て餘して、それではどうなりとするがいゝと言つたのをいゝ機にして、たうと出て行つた。
冷吉は汽車に乘り遲れて、じと〴〵と雨になつた午後を、薄汚いベンチにかゝつて、いら〳〵した頭を抱へて次の列車を待ち飽ぐんだ。何だか自分がさうして出た事を悔いるやうなその時の陰鬱な心持は、あとで考へると、飛んでもない拙らない災害を受ける事の或物を暗示したやうな氣特がした。
行つた先は、父のゐた時分から家の行きつけの心安い海水浴の宿屋であつた。かういふ、冬が往つたばかりの時分に一人でひよつくり來たものだから、主婦さんは待ち設けない事で、どこか體でもお惡いのですかと聞いた。冷吉はありの儘に、頭が痛くてくさ〳〵するから母にさう言つて出て來たのだと話した。
時が時だから他にはだれ一人泊つてゐる客もなかつた。上り口の次の間には、座蒲團や煙草盆やちやぶ臺なぞがすつかり積み寄せられてゐた。主婦さんは、ひつそりした帳場で、物馴れないやうな年の入つた下女とたつた二人で解し物なぞをした。大きな二た棟の建物は、冷吉の這入つた階下の一室の外は、上下とも悉く灰色の雨戸が鎖されて、部屋へ出這入りする廊下なぞは、いつも夕方のやうに暗かつた。それに丁度、來てから薄曇つた日ばかり續いて、三月と言つてもまだほろゝ寒い潮風に、閉切つた障子は終日どんよりと蔭つてばかりゐた。外へ出て試たつて探す日向もなかつた。
それでも家にゐて祖父にぐづ〴〵言れてばかりゐる事を考へると、厭な籠から出てゐるやうなものであつた。冷吉は物蔭に馴れた淋しい鳥のやうに、たつた一人でのそ〳〵してゐた。さうして、頭のぢき〴〵痛い、暗くなる心を充たすために、例の赤い鳥の女の事なぞばかり考へた。かういふ剥げたやうな淋しいところにゐて、いろ〳〵の事を考へるのが、自分の、求めても得られない、孤獨な心持に似合はしいやうに感じられた。何だか止み間なく物に考へ入つてゐるやうな氣がして、その癖何にも取りとめた事を考へてゐるのでもなく茫つとしてゐるやうな事もあつた。
冷吉は頭が疲れて來ると、門の外に茫んやり立ち盡して、薄寒くしぶく、果てもない大洋を見た。人と口を聞いたりするのも厭であつた。それには、この家の主婦さんは、世話は何でもよくしてくれるけれど、黒人上りの妾にも似ず、しつとりした、餘計な事を言はない女だから面倒臭くなくてよかつた。
かうして冷吉は時々當てもなく、自分を知るものゝ一人もゐない、この古けた町の裏筋なぞを、例の見失つたマグダーレンに似た女を求めて彷徨ふやうな心持を包んで、剥げ黒ずんだ、物さびしい家ばかり並んだ、日影もない、どんよりした小路に沿うてぶら〴〵歩いた。
たゞ町の表筋へは厭だから出なかつた。その町筋の或部分には、やつぱりぼろ〴〵の草屋根の下に、思ひ〳〵の、惡どい色をしたのれんの下つた家が澤山あつて、その後から頭ばかりてか〳〵光らせて白粉をべた〴〵になすつた、狐の面のやうな女が、洗ひざらした、薄汚い着物の膝をだらしなく崩して、通るものを見さかひもなく調弄つた。
「ちよいと〳〵。容子がいゝよお前さん。」
「へん、つん〳〵して行くわよう。憎つたらしい。」
「あら、何だと思つたらまだ十六七の子供ぢやないの?」
こんな、しわがれた惡體をついて、大勢でげら〴〵笑つた。冷吉はかういふ墮落した女の慘ましいさまを見るのに堪へないやうな氣がして、こゝを通るのが不愉快であつた。
冷吉がこの町筋で思ひも設けぬ災害に會つたのは、來てから六日目の暗い夜であつた。
冷吉は母へ出す手紙を郵便局へ出しに行くために、仕方なくこの町筋を通りかゝると、さうした或あいまい屋で、破れたやうな、下手な三味線を彈いてゐる店先に、ぼろけた重くろしさうなどてらを着た、船乘りらしい汚い男が二三人、板の間に乘さばつて、コツプ酒の息で互にふざけ合つてゐた。
冷吉がその前を通り過ぎて、物の小半町も行きかけると、後から、一人の男が、何か惡戲をして遁げて來たらしい容子で、息を切らしてあたふた走り過ぎたが、だれか追つかけて來るものを待ち設けるやうに後を振り返りながら、ついと横の小さい路地へ外れて暗がりに隱れた。するともう一人の男が、やつ張り前の男に調弄はれでもしたと見えて、怒つたやうにその男の名を呼びかけながら、火の消えた提灯を持つて息卷きながら追つかけて來た。大分醉つてゐるらしく、足許も危つかしくよろ〳〵してゐた。
「畜生。どこへ行きやがつた。何とか。」と呼び立てながら、よろけ〳〵冷吉の側を通り拔けて向うへ行つた。すると、隱れてゐた一方の男は、甘く相手を遣り過して、こつそりと元來た方へ引き返して行つた。すつぽかされた男はそれとは氣附かずに、譯の解らない事をぶつ〴〵言ひ罵りながら、ふいと往來の眞ん中へ立ち止つて、何か考へ出さうとしてゐるものゝやうに見えた。後で考へると、それは兵兒帶の解けたのを結び直してゐたのであつた。
冷吉はさつきから、この男たちは、今通つた店でわい〳〵言つてゐた連中らしいといふ事を考へたゞけで、もとより何の氣もなく、その立ち止つた男の側を通り拔ける拍子に、その男が引き摺つてゐた帶を、薄暗がりだからつひ見えないで踏み附けた。
「何だおい。」と、その男は下駄に壓へられた帶を引つ手繰つた。
「どうも濟みません。」
「おい待て。何だと?」
「御免なさい。つひ暗かつたもんですから。」と、そこ〳〵に遁げるやうにして行くと、
「待てこの野郎。」と、いつまでも絡まつて來た。
「何です?」
冷吉は仕方なしに足を止めなければならなかつた。
「何だとは何だ。」と、わざと餘計に醉つた振をするやうな口調でさう言ひつゝ、よろけかゝつて、節ばつた手でぐいと冷吉の肩を掴んだ。
「何をするんです? もうあんなに謝罪つたんだから怺へてくれたつていゝぢやないか。」
「何でえ。」と、ぐつと小突く。
「ではどうすればいゝんだ、亂暴ぢやないか、そんなに。」と冷吉も癪に障つた。
「何が亂暴でえ。貴樣こそ小僧の癖に、人の帶を蹈んどきやがつて何をつべこべ理窟を垂れやがるんでえ。全てえ貴樣はのらくらと、ど、どこに泊つてる書生つぽか貴樣は。」と放さない。
冷吉はわざと意地惡く困らせるのだと思つたから、隙を見てすつと振り放して逃げかけると、
「待て、野郎。」と言ひさま、提灯を振り上げて、ぴしやりと目の上を喰はせた。
冷吉はぐづ〴〵してゐるだけ損だから、その儘撲ぐられ損にしてすた〳〵遁げ延びたが、何かしら水々したものが目の上から頬へかけて流れ落ちるのに氣が附いて、傍の小店の灯で見ると、それを撫でた手の平に、ねば〳〵した血がべつとり附いてゐるのであつた。
「おや、ま、どうなすつたんです?」と、店の女房さんが愕いて立つて來た。何といふ亂暴な事をするのだらうと、冷吉は捩ぢ切りたいやうに悔しかつた。
「ま、あなた、そんなにやみくもにお障りなすつちやいけません。ハンケチか何かでじつと押へてゐなさらなけや。……あれ、目ですね。目から出るのですかい。まあ、どうなすつたんでせう。」
女房さんはあたふたした。けれど目ではない。右の目の上に傷を負うたのである。冷吉はその方の目を閉つて傷を押へて見ると、どうもない筈の左の目が眞つ暗で何にも見えないから變であつた。
やがて冷吉は忌々しく目の上の傷に醫者の手當を受けて、その足で警察へ行つた。外には人がどや〴〵たかつた。
「けれどもあんたも何とか惡口かなんか言つたんでせう? 何かなければ、あんたの言ふやうな、たゞそれだけの事でさういふ非度い事をする譯はないぢやないか。」と、巡査は冷吉の陳述を信じないやうな受け附け方をして、とにかくこちらで加害者を探し出して取調べるからと、何でもない事件のやうに言ふのであつた。それからのろ〳〵原籍や何かを聞かれてゐると、そこへ、「どいて下さい。一寸どいて下さい。」と言ひつゝ、入口に覗いてゐる人を押し別けて、息を切らした宿屋の主婦さんが、周章てふためいてやつて來た。
「あなたどうなさりましたのです? だれがしたんでございます? どこでゞございます?」
と、主婦さんは愕いておろ〳〵してゐるのであつた。
翌る朝早く、他の巡査が宿へ出かけて來て再び事情を糾した。加害者は昨夜直ぐ捕まつて一晩拘留されてゐたが、今朝假に許されて歸つたと、巡査は主婦さんにさう言つた。
「どうしてもあなたが先に下駄を投げ附けたんだと主張して曲げないのですが、確にさうではないんですね? かうなればすべて有の儘に言つて下さらんと、もし後でさうだとなるとあなたの不得策ですから。」と、餘計な念を押して行つた。
冷吉は何だか警察が間拔け切つてゐるやうにじれつたくて、もうどつちが何うだつていゝんだといふ氣になつた。たとへ相手が罪に落されたところでこの傷が元に返る譯でもない。それよりも、こんな拙らない傷我をしたのが、どうせ後には母たちに知れずにはゐないのだといふ事が何よりも心を痛めた。この傷は直つても跡が附くに極つてゐる。家へ歸らなければならぬ日が來てもまだ直らないとなれば、かうして繃帶を當てたり何かしたまゝで歸つて行くのかと考へると情ない。歸つて祖父や母たちに何と言へばいゝだらう。主婦さんが、あゝは言つても、やつぱり内證で母の方へ知らせを出しはしまいかと疑られて落ち附かない。
冷吉は見えぬ左の目がどうなるのかといふ大事な事よりも、かういふ心配ばかりに捕はれて、恰も母たちの見る目から隱れてゐるやうな心持をして、不愉快に蒲團に這入つたまゝ、傷の上を冷し〳〵してゐた。
つく〴〵考へ返すと、やつ張り相手の奴が恨めしくてならない。主婦さんは昨夜直に本宅へ電報を打つて、こゝの主人に急いで駈けつけて來るやうに言つてあるから、もう來る途中だらう。さうすれば今にあの船頭を暗いところへ入れてやるのだと言ひつゝ、大事な預りものを壞して言ひ譯がないやうに、いつまでもおど〳〵心配して、側に附いて看護してゐたが、午後になつてから、やつぱり氣がゝりだから、どうでも──町へ行つて、念のために、一應專門の眼科醫に診て貰ふ事にしようと言つて伴れて出た。
行きがけに、係りの醫者のところへ車を下して、その事を話して置くと、醫者は傷や目に風が當つてはいけないからと言つて、繃帶をして、兩方の目を閉いで了つた。冷吉はそのまゝ汽車に乘せられた。この醫者は、左の目の方も唯打撲のために眼球に充血してゐるだけだと事もなげに言つたのだつたけれど、後から考へると、何にも分らないへぼ醫者だつたのである。
冷吉は病院へ着くまでの間、いかに悔んでも仕方がないと思つて、つとめて他の事ばかり考へようとしたけれど、すべてが、母の言ふことを聞かないで出て來た罰だと思ふと、何だか自分の平生の我儘な事なぞが心に責められて、もう例の鳥の女の事なぞを考へたりする事は出來なかつた。
病院で診察された結果では、どうしてもその儘この病院に入院するより外はなかつた。左の目は眼球の黄褐色をした部分の内部が壞れて、後へ脱落してゐるらしいといふ診斷で、事によると目の球をすつかり抉り出さなければならないかも知れないと言はれたのである。やつぱり兩眼とも繃帶で鎖された。
「まあ、何と言つてお宅さまへ言ひ譯をすればいゝでせう。」と、こゝへ來るまでは、たゞ傷の跡が殘る殘らないといふやうな事ばかり心配してゐた主婦さんは、今更のやうにかう言つてわく〳〵したが、出來た事は最早仕方がない。こんなところにかうしてぐづ〴〵してゐたつて片附かないからと冷吉に言はれて、主婦さんはまご〳〵しながら、受附へ行つて入院の手續をした後、
「あなたしつかりしてゐて下さいましよ。私は一寸急いで郵便局まで行つてまゐりますから。もうお宅へ默つてはゐられません。」と、冷吉を看護婦に託して、急いで出て行つた。かうなつては家へ隱してゐる譯にも行くまい。冷吉は母たちの愕き惑ふさまを目に見つゝ、看護婦に手を引かれて病室へ伴れられて行つた。
看護婦は院長から注意されて、搖れ壞れるものを引いて行くやうに、そろり〳〵默つて導いたが、
「さ、こゝから梯子段でございますよ。」と、やがてかう言つて、梯子段の手擦りに片方の手をかけさせた。冷吉は、もしかかうして、これなり取り返しの附かない盲目になつて了ひでもしたら、どうなる自分だらうかと、暗い悲哀に沈みながら、鼻緒の緩んだ上草履の足場を探り〳〵して階段を上つた。人が附いてゐても、何かの角に撲つつかりでもしさうな、上から何か落ちかゝつて來でもするやうな、不安な心持が離れなかつた。
二階へ上ると、看護婦は取り附きの室らしい硝子戸を開けて、少しの間こゝで待つてゐて下さい、あちらの室を拵へますからと、假りに中へ這入らせた。
そこは疊敷になつてゐた。冷吉は周圍を探るやうにして、這入つたばかりのところに坐つて、看護婦が他の事を考へたやうにのそり〳〵下りて行くスリツパーの足音を、何だか人が便りないやうな心持に聞き入りつゝ、悄んぼりと膝を合はせて待つてゐた。翌る日シヤツを取り代へる時に、附添うてゐるものゝ目についたので知つたのだけれど、シヤツの片方の袖口にべた〴〵附いてゐると言つた血は、この時にはまだ生々しくにじんでゐたのだつたかも解らない。
何だか壁の剥げた、疂の汚れさゝくれた室に入れられてゐるやうな氣がするけれど、目を掩はれてゐるのだから、元より實際を知り得る譯もない。どんな町へ下りて、どういふ場所のどんな病院へ來てゐるのか、それさへも知らないのであつた。
今こゝで繃帶が除けられたとしても、左の目には何の視力もないのである。さつき暗室に入れられて、目の前にランプが附いた時だつて、たゞ火の中心らしい部分が、日光のさした濁水の中で目を開けたやうに、茫つと漲つた明りに見えたゞけである。右の方の目は輕い打撲の爲に充血してゐるだけで、別に大した事はないのださうだけれど、當てたガーゼのために閉ぢられて、絆創膏で止めてあるので開ける事が出來ない。院長がそれを除して、凸面のレンズでランプの光線を注ぎながら、柄の附いた正方形の金屬板の穴から覗いて目の中を調べる際に、冷吉は僅に、院長の、髮を短く毬栗にした、薄黒い顏の色と、カーキー色の上つ被りと、穴倉のやうなその室のまはりの壁の黒いのは、さうした色の布で以つて天井際から蔽はれてゐるのだといふ事を見たゞけで、直ぐに再び繃帶に眼を閉ぢられた。
地方の都會の私設の眼科病院だから、そんなに大きな立派な病院だとも思はれない。冷吉が今坐つてゐる附近の部屋には、だれ一人、人の這入つてゐるらしい氣色もない。直ぐ外の往來を、がた〴〵の乘合馬車らしいものが亂暴に駈け拔けた後は、あたりは谷底かなぞのやうな寂寞に返つて、どこか梯子段の壁にでもかゝつてゐるらしい柱時計が、年老いたやうにかつちり〳〵刻むのが淋しく聞えるだけである。最早日影も薄暗く蔭つた時刻のやうに思はれる。どことなく、夕方の蔭が見る〳〵仄黒く襲うて來るやうな心持がする。冷吉はいつまでかうして待てばいゝのだらうと考へた。
と、間もなくとこ〳〵と階段を上つて來る足音がして來たので、さつきの看護婦だらうかと待ち設けたが、さうではないらしく、冷吉のゐる前を通つて他の方へ行つて了つた。
冷吉は繃帶の下の傷のちき〳〵疼くのが段々に烈しくなつて來るやうな心持がして、憊れ沈んだ氣分は腐れるやうにいら〳〵した。もうどんなところでもいゝから、一刻も早く蒲團の上に倒れたくなつた。
冷吉は看護婦が來るまで少らくでもこゝに横になつてゐようかと思ふのを、怺へ〳〵するやうにして、各の一秒がじれつたく底淋しく待ち飽ぐまれた。考へて見ると拙らない目に會つたものである。何だか自分が求めて得た罰でゞもあるやうに忌々しい。冷吉は自分が町を出て來る際に、町筋のものたちが、草履をぱたつかせて門口へ出て來たりして、口々にひそ〳〵何か言ひながら自分を見送つた事なぞが目に浮んだ。子供等は目を被うた自分の前後をぞろ〳〵車に附いて來た。自分は引合はないいゝ見せ物になつた。町のものたちは、それでもう濟んだ事のやうに何にも忘れて了つてゐるのだ。自分ばかりは、これからこの病院でいつまでどんな日夜を見るのだらう。──
下から誰だかばた〴〵と急いで上つて來る。
冷吉は蒲團の上に寢せられると直ぐから目を閉て、ずつと、昏睡したやうに憊れた眠りに落ちた。ふいと、寢飽きたやうな不愉快な心持に目がさめると、からだ中がじつとり汗になつてゐる。少らく自分の挫けた氣持を見探りつゝ、蒲團の襟を脱ぎ返さうとすると、さつきからじつと枕元に坐つてゐたらしく、直ぐにそれに手を貸してくれるのを、やつぱり主婦さんだと思つて、
「もうすつかり夜ですか?」と聞くと、
「冷さん目がさめたかい。」と、それは自分の母であつた。
「もうさつきから來てゐます。御覽な冷吉、お前が私の言ふ事を聞いておくれでないからこんな事になつて了つたんだよ。みんなお前さんが自分で招いた事だ。私はお祖父さんに何と言つて叱られて出て來たと思つておくれかい。それもお祖父さんも私も、まさかこんな非度い怪我だらうとは思はないでの話だよ。」
母は見る〳〵やるせない涙を浮べたやうにかう言つて、叱り出すのであつた。そんな事を言つて自分を責めたつて、あゝした亂暴なものに出會はすのを知つてゐて出て來たのではないから仕方がない。そんな事を言はれる位ならもつと隱してゐればよかつた。
冷吉は口の聞きやうがないので、
「そしてお主婦さんはどうしたの?」と他の事を言つたが、母は返事をしずにたゞ涙を啜つた。
「冷さん、これでもうお前さんの我儘には懲りて下さいよ。何でもない事からたうと大事な片目を潰して了つたぢやありませんか。それがお祖父さんに對してはみんな私の罪になつて了ふのだもの。ちつとは私の心持にもなつて見ておくれよ。」
かう言ひつゝ母は言葉を途切つて、悲しく考へ入つてゐるらしかつたが、やがて氣を換へたやうに、
「けれど言はゞやつ張り私が惡かつた。本當はお前さんがどんなに言つたつて、私が飽くまで出さないで置けば言ふ事はなかつたんだけれど、ほんとに何といふ災難に會つたものだらうね。かうして生れもつかぬ片輪になつて了つて……」と、溜息をしつゝ、いつしか自分で自分を責め悔いるやうに言ふのであつた。
冷吉は何だか自分よりも母が氣の毒なやうな氣になつて、知らず〳〵繃帶の下に涙ぐまれた。一人の母の口から、自分が片輪になつたと言はれるのを聞く、その片輪といふ言葉も、自分と母とのために悲しく心に浸み入つた。冷吉は動く事の出來ぬものゝやうに、じつと横臥した儘默つてゐた。
やがて母は、
「冷さん、冷えるといけないからもう蒲團をお着なさい。」と一枚だけ着せかけたが、
「それからお前、何か食べなければお腹がすいたでせう?──だつてお夕飯が來ても一口も食べなかつたと言ふぢやないの?──あそこにミルクが買つて來てあるやうだから、あれでも溶いて上げようか。ね。」
かう言ひつゝ蒲團の肩先を押へた。
そこへ徐と戸を開けて、主婦さんがどこからか歸つて來た。
「やつぱり私が出しました使のものが歸つてまゐりましたのでございました。丁度あなたと同じ汽車で着きましたのでございませうけれど。」と、主婦さんは病人に遠慮するやうに小さい聲で話した。
「とにかく先刻申しました容體書を一應警察の方へ出して置いて、それから宅へ𢌞つて歸りましたのださうですが、やども私たちがこちらへ出てまゐりますのと擦れ違ひに着きましたさうで、早速先方へ押しかけて行つて、手ひどく切り込んだ容子でございます。使のものがまゐりました時分には、何でも向うの仲間らしいものが三四人手前共の方へまゐりまして、しきりに何か頼んでゐたやうだつたさうでございますが、私はどうせ、罪が遁れられないものと見て示談にでもしようといふ積りで運動してるのではないかと思ひますが、けれどあなた、そんな蟲のいゝ話がございますものですかねえ。本當にそれこそはどんな目に會はせてやつたつて足りるのぢやございませんのですから。──それにあの男の平生の所業から申しましても、警察があゝした手ぬるい處置をしてゐられる筈のものでもないのでございますがねえ。一體警察ではどうしようといふのでございませう?」
「でももう何と言つたつて取りかへせない事なんですから、そつちの方はどうでもようございます。みんなこの子が平生我儘をする罰なんですから。」
母はかうなつた段にいくら零しても仕方がない事だといふやうに、投げやるやうにかう言つた。
「ですけど、何と思つて見ましてもいま〳〵しいぢやございませんか。──いゝえ、どういたしまして、あなた。奧さまの御心をお察し申しませば私なぞはどんな目をいたしましても申譯は立ちませんのでございます。──おや、お目ざめで入らつしやいますか。」
主婦さんは例の冷し藥の土鍋に藥を注けるらしく、
「もうさつきなさらなけやならなかつたのでございますけど、餘りよくお寢つていらつしやいましたものですから。──それからこのお藥をもう一度召し上るのでございますが。」
「おや、これは罐がちやんと口が切つてあるんですね。それではその後で、もつとお湯を熱くして戴きませうか。」
「ですけどミルクよりか奧さま、ざうさはございませんから一寸お粥を何いたしませう。その積りでお米もそこに少しだけ買つて來てございますのですよ。つひその廊下に水も出るやうになつてゐるのでございますから。」
二人でこんな事を言つてゐる。
暫くして、
「これはハミガキに楊子に、これは片栗ですか?」と母がいふ。
「私はつひ浮つかりして、お砂糖を買ふのを忘れました。」
「まあまあなた、お大抵ぢやございませんでしたねえ。何から何まですつかりかうして置いて下すつて、本當にお蔭さまでございます。」
「何ですか、まだいろ〳〵足りないものがございますが、今日明日だけ無くても我慢が出來ますものは、そのうち宅からすつかり持つてまゐりますでございます。」
冷吉は、かう言つたやうな、二人のひそ〳〵した片隅の話を聞きつゝ、蒲團を被つてゐたが、何だか左の目が、ひゞれが入つたやうにびり〴〵するのが、この先どんな事になるのかと物暗く案じられ出した。
「冷吉一寸起きて目のあれをおしよ。」と母は言つた。主婦さんは側へ來て繃帶を解くのに手を添へた。母は默つて傷がどんなに被はれてゐるかを見探つてゐるらしかつた。
冷吉は、右の目は閉してあるまゝで、左の目だけ開けて起き直つてゐるのだけれど、もとより、例の水の底のやうに茫つとした灯がもや〳〵する外には何にも見えないのであつた。
「これは電燈ですか?」と言ひつゝ、下された土鍋の上に顏を屈めて、藥に浸したガーゼを箸で摘んで目に當て〳〵した。
時計が外の廊下の方で二時を打つ。
「もうそんなになりますかね。お主婦さん、あなたはいゝ加減で御寢なる仕度をして下さいな。あとは私が見ますから。」と、母は紙を出して、冷吉が零した水の滴りを拭いた。
主婦さんは何をか提げて外へ出るらしかつたが、
「おや、お星さまが流れました。」と、獨り言のやうに小聲にかう言ひつゝ、そつと戸を閉ぢて、足音を盜むやうに廊下を向うへ出て行つた。
「冷吉お前こちらの目は全で見えないの?」と、母は氣の毒がる主婦さんの一寸ゐなくなるのを待つてゐたやうに、恨めしさうにかう聞いた。
二時と言へば眞夜中である。死のやうにしんとした外には、木立にざわ〴〵とまばらな風が渡つた。
「となりの部屋にはだれかゐるの?」と冷吉は目を冷しつゝ聞く。
「何故?」
「何かがさごそ言はせてるやうだから。」
「──さうね。だれかゐるらしいね。こちらでどさくさ出たり這入つたりするから目がさめたのだらう。小さい聲をなさい。──もうそれでいゝの?」
九時からの診察のベルが鳴つたので、冷吉はやがて母に伴れられて、そろり〳〵病室を出た。このやうにして自分の母が來て附いてゐるために、昨日來た時とは違つて、何だかもう長くかうして居着いてゐる、當り前のところにでも生活してゐるやうな或物が感じられた。
下には大分ごた〴〵外來の患者が來てゐるやうで、女たちが濁つた訛りでひそ〳〵話してゐたりするのが聞えた。
ベンチにかけて待つてゐると、四つ五つの男の子のやうに思はれるのが、冷吉の直き側へ來て、ベンチへ上つたり下りたりして、目まぐろしくて堪らない。伴れて來てゐる下女らしいものが、人前の體裁だけに一寸〳〵甘つたるく叱るだけだから、やつぱりがさごそ動き𢌞つて、何かの木切れでそこらをぎい〳〵かなぐつたりする。
診察室からは昨日の看護婦が、淋しい女のやうな聲をして、次々に患者の名を呼んだ。藥でも注されたらしく、物に怯えたやうに、逆せるばかりに泣き立てる赤ん坊をすかしながら、外の方へ出て行くものもあつた。
「これは五錢銅かね、もし。ひゝゝどうもすみましねえ。さつぱり見えねいでございまして。」
と、受附の方で年寄りらしいものが頓狂な聲をして金を拂つてゐる。すべての容子が、どうしても、薄汚い、剥げ古りたやうな小さい病院のやうに思はれた。
冷吉は間もなく昨日の暗室に入れられて診察された。
「ね、そら、びり〴〵動くだらう? そ、肉眼でも見える。」と、院長は助手の醫員に、例の四角な金屬板の穴から覗かせた。母もいつしか側へ來て立つてゐた。
「どうも少し込み入つた症候ですから、」と、院長は何かを警戒させるやうにかう言ひつゝ、右の方のガーゼを除つた。
「まあ隨分ひどい事をしたものでございますねえ。」と、母は初めて傷を見て痛々しさうに沈んだ口を開いた。
「もうはつきり見えますか? こちら。これを見て下さい。──曇つてゐる。──でも最うこちらは大丈夫です。神經が疲れてるから少しもや〳〵するのでせう。もう何でもありません。──これはどうしても少しは跡が附くなあ。痛いですか?」と、院長は傷口の附近を指で押へて見た。
それから診察室へ歸ると、兩方の目へ注し藥をされて、目の内側の角をどちらとも人差指で押へさせられつゝ、ソーフアに倚けて、さうしたまゝ少らくじつとしてゐなければならなかつた。そこを押へてゐる譯は、後に看護婦から聞いて解つたのだけれど、その下のところが涙の出る口になつてゐるのださうで、さうして口を塞いでゐないと、涙が流れて藥を外へ出して了ふからださうであつた。藥は烟に噎せた時のやうにちき〳〵と目に浸みた。
さうしてゐる内に、女らしい氣色の一人が、冷吉の左側の空いてるところへ來て、徐つと腰をかけた。冷吉は袂の先を敷かれて氣になるやうな心持がしたので、肘を上げて徐かに引つ張ると、「おや御免下さい。」と、落ついた品位のある言葉で小さく女は挨拶した。十八九の女のやうに思はれる。さう言つて、立つて坐り直す着物の徴かに擦れる音も、いゝ着物を着てゐる女のやうであつた。
患者は代る〴〵這入つては出た。五分ばかりも立つたと思ふ頃、冷吉はもう一度左の目に藥を注された。
「もうこちらは押へてゐなくてもいゝです。」と言はれたので手を下したが、何だか目を開けて周圍の容子が見たくなつたので、傷がたくれるやうに痛いのを我慢して、僅かに小さく開いて室内を見𢌞した。
と、院長の前には頭に手拭を被つた、在方の女房さんのやうなのが椅子にかゝつてゐた。院長は汚點だらけの上つ被りを着て、口の聞きやうからが、いら〳〵した、物に構はないやうな、氣の置けない醫者であつた。小さい藥壜のごた〴〵並んだテイブルの向ひ側には、學校を出たばかりのやうな、さつきの醫員が、白い上つぱりに時計の鎖を覗かせてペンを走らせてゐた。院長の傍に立つて脱脂綿を裂つて渡してゐる看護婦は、聲で想像したやうに、痩せしなびた淋しさうな女で、白い上着の袖口を赤いリボンを裂つたやうなもので結んでゐるのが目立つてゐた。
冷吉と向ひ合つた方の、汚れた白木綿のカーテンの下にも、四五人の患者がソーフアにかけて、同じやうに目を押へてゐた。大方は手織縞の古けた着物を着た、在方の男のやうなのばかりで、帶をだらしなく結んで、窮窟さうな恰好に上前を捩ぢれさせてゐるものもあつた。
冷吉は傷が釣られるやうに障るので、目を閉つては開けて、すべての容子を納得するために、そろり〳〵順々にあたりを見た。鴨居の壁には、月球の圖を見たやうなものを血のやうな色で摺り出した掛圖がずつと並べて掛けてある。それは何か目に關した標本圖だらうと思はれた。
再び院長の方を見ると、後の、向うへ出這入りする襖の引手が取れて穴があいて、裾のあたりの破れ目へ違つた紙がべつたり貼つてあるのが目についた。室内のすべての光景は、何だか自分が平生贅澤ばかりしてゐるのを戒められるやうな、質素な感じを與へるのであつた。そこには一寸も尊大や厭味の或物がないために、冷吉には、少し開けてゐればすぐ疲れて曇つて來る、小暗い心持のする目に取つて、何となくすべての人が親しいやうな家庭的な心持がした。
冷吉はもう久しくかうして毎日來てゐる續きのやうな氣がした。となりにゐる婦人はこの時二囘目の藥をさゝれるやうであつた。
「そんなに非度く浸み附きますか?」と院長が聞く。
「はい。少うし。」と、女は氣のやさしい、しつとりした婦人のやうに靜に答へた。冷吉はどんな女か見たいやうな氣がするけれど、押へてゐる方の目の側に腰をかけてゐるのだから、顏をそちらへ𢌞して見る譯にも行かなかつた。
「冷さん、私は一寸上へ行つて來るからね。」と、母がどこからか側へ來てかう言つた。冷吉は女の事はそれで忘れて他の事を考へた。
やがてまた、再び何ものも見えぬやうに繃帶をかけられて了つた。さうして上へ上つて暗い眠りに落ちた。
主婦さんは、まだいろ〳〵足りなかつたものを買つて來といてくれて、正午前に家へ歸つて行つた。
冷吉はかうして日に二囘の診察の際の外は、晝と夜との別もなく掩はれた目に、何の色も形も見る事が出來なかつた。病室で罨法をするのに繃帶を解きはするけれど、その時分には見える方の目はやつぱりガーゼに閉ぢられた儘である。それに診察に下る以外には、少しでも動く事を禁じられてゐるので、終日蒲團の上にそつとしてゐなければならなかつた。
冷吉は氣の疲れといふものか、じつとしてゐるとすぐに寢入つて、いくらでも寢られた。
「だつてあんまり寢てばかりゐてもいけないよ。これをお上りな。」と母は氣にして時々目をさまさせて、ウエイフアーや何かをくれたり、話をしかけたりして氣を紛らせた。
或時母は、
「冷さんこゝにもく〳〵あつたかい日向があるから出てお坐りなさい。」と言つて、徐かに蒲團から出させた。外の往來に面した方に硝子窓が二つあつて、黒い色のカーテンがかゝつてゐるのださうであつた。
右手の方の窓を開けて跨ぐと、外の小さいバルコニーに出られるのだといふ。母はそこのカーテンを披つて、疊の上に日向を作つて冷吉を坐らせて、自分もそこから外を見やるやうであつた。
「このあたりはずつと小さい家ばかり續いてるのよ。後はすぐ畠。麥だらう、大分青くなつて。──丁度天滿町見たいなところ。」
母は獨り言のやうにかう言つて、あちらの市のはづれの片側町に比較した。母はこの度の出來事についてはもう何にも零したりするやうな事はなかつた。
「ずつと遠くまで見えますか?」と冷吉は言つた。
「あゝ隨分先迄見えるよ。向うに火の見の柱があるのが今氣がついた。玩具のやうに小さく見えるわ。──一たい海の方はどつちだらうね。」
「この方角だろ。」
「嘘。どうして?」
「でもさういふ氣がするもの。」
「違ふよ。」
母は見えない目を劬はるやうに淋しく笑つた。
冷吉は何でもして見たい小さい子供のやうに、坐つたまゝ探り〳〵に硝子窓を開けた。閉ぢて坐つてゐる日向はあたゝかいけれど、外は膚にほろゝ冷い風がすう〳〵する日であつた。何だか、下の灰色な古い町筋を、黄色い塵埃が、泥のついた鉋屑なぞを卷いて、發作的に低く立つてゐるやうに想像された。
「もうお閉めなさい。火鉢の灰が飛ぶから。」と母は制した。母は盆を膝に載せて、夕方の菜の何をか小さいナイフで切つた。一等の賄だといふけれど、粗末で味が惡くて食べられないので、母はそこらへ仕附けない買物に出ては三度〳〵の菜を拵へて、病院で出すのは大抵その儘で下げた。飯も冷くなつてゐたり硬かつたりするので、冷吉のにはたんびに粥を作つた。
冷吉はかうしてゐてもやがて飽きて、また蒲團の中に這入つて夕方まで寢た。そんなにしては夜中になると不圖目がさめて、それぎりどうしても寢附かれないやうな事があつた。
冷吉はそんな時に、何時とも分らない夜ふけの中に、いろんな事をまんじりと考へて、仕まひに淋しくなると寢入つてゐる母を呼んだ。母は床に這入つてもちやんと目を開けてゞもゐるやうに、呼ぶと直ぐに目をさまして枕許の蝋燭に灯をともして用事を聞くのである。冷吉はかうして母と二人でひそ〳〵と何くれの話に入る事もあつた。
それでも、療治を受けた後なぞはしばらく徐かに寢る方がいゝと院長は言ひ附けた。
四日目の午後宿屋の亭主が來て、加害者の處置について母と相談した。冷吉には最うさういふ事は、履かれない古下駄をでも見るやうに、どうでもいゝやうな氣がした。丁度午後の診察の時間だつたので、冷吉は下へ伴れられて行つた。母は再び上つて話をした。
冷吉は診察室へ下りて來るのが一ん日の何よりの變化であつた。午後には、學校から歸つてから出かけて來るらしい、二三人の子供等がゐて、病院に來馴れたやうに方々を飛び𢌞つた。外の室のベンチに待つてゐる間に、足下の疊の上で、小さい聲で數を取りつゝ手毬をつく女の子もゐた。これ等の子供等は大抵一寸したトラホームにかゝつてゐるだけで、病氣とも何とも思つてはゐないのだから、平氣で跳ね𢌞るのだと側にゐた老人が言つた。その人はトラホーメー、トラホーメーと言ふから冷吉は可笑しかつた。
もう右の目ははつきり物が見えるやうになつた。外部の傷も癒着しかけたから、四五日もしたら片方だけは繃帶が取れるさうであつた。
「こちらはどうもまだしつかり見當が附かないのですがね。とにかく容易な症状ではないのですから。」と、院長は仕まひは愼重にかう言つた。
冷吉は、例のやうに目の角を押へてゐる間、ちよい〳〵右の方を開けてあたりを見た。中には師範學校の女子部かなぞの生徒を見るやうな、粗末な、田舍〳〵した女學生の患者が、診察が濟んでから、歸る時間を書いたらしい帳面へ院長の印を捺して貰ふのもあつた。不自由に慣れたやうな、氣の毒な氣のする女であつた。
冷吉は入院患者の一人に、とき〴〵並んで坐つてゐる間に、いつとはなく口を聞き合ふやうになつたのがゐた。その男が丁度這入つて來て、向ひに坐りかけたが、冷吉を見ると側へ來てかけて、
「一寸、何があるか當てゝ御覽なさいな。」と握り手を出した。この男は釘に撲つ附かつて目を突いたのだと言つた。來年が檢査だといふのに、全で子供〳〵した、人のいゝ田舍の百姓であつた。手の中に持つてゐたのは、鉛で拵へた、押へれば潰れさうな小さい玩具の時計であつた。今外に小さい藥師さんの縁日があるのへ出かけて、一錢で吹矢を吹いてこれを當てたのだと言つた。懷には青い色の、安つぽさうな紙入れを買つて持つてゐた。
「は、籾殼を中に入れて膨らしてやがる。ひゝゝ。」と、小さい聲で言つて獨りで喜んでゐた。時計をくれようといふから、冷吉は馬鹿げてゐるやうな氣がしたけれど仕方なしに貰つた。この男はこの病院の事を何でも話して聞かせた。
「受附の隱居を調弄つて見て御覽。面白いから。」といふやうな事も言つた。少し足りない人間のやうでもあつたが、冷吉は何だか惡氣のない、快活なところが好きであつた。袂から紙を出してわざ〳〵紙縒を拵へて、それを長くつないだのを看護婦の背中へくつ附けて、知らぬ顏をしてゐたりなぞして人を笑はせた。
入院患者は階下に男が五人ゐるのださうである。一つの部屋に固まつてゐるのだと言つた。
「女の方の部屋にはあの人がたつた一人です。」と、その男が指したのを見ると、それは下女のやうに髮を汚くして、赤い小帶をくる〳〵卷にした、薄汚い女であつた。
この間となりに腰をかけた、綺麗な人らしい氣のした女は、あれきり一度も見かけない。或は見たかもしれないけれど、少くともその人だと思ふやうな女は一人も見當らなかつた。一人、前垂れがけの、商家の手代らしい男で、兩眼とも繃帶をされてゐるのに、手も引いて貰はずに、壁をたどり〳〵して、馴れ切つたやうにさつさと一人で病室の方へ歸つて行くのがあつた。あれは黴毒で兩眼が潰れたのだと例の男が話した。
その午後、冷吉が蒲團の上に坐つて罨法をしてゐると、齒のとれた受附の大木さんが上つて來て、
「かういふものださうですが、何とか言つてるのが私にはよく解らないのでございますが、とにかく、一寸會つて戴きたいと申しますです。それから、これはほんのお印ばかりだと申しまして、」と例の、口をあつぷ〳〵させて取次をした。
「誰でせうね。かういふ人は私の方ではどうも心當りがないのですが。──あゝ、ではあの船頭か何かのやうな容子の男ぢやありませんか?」と母は聞いた。
「さうでございますね。さうお言ひですとやつぱり、かう、さう言つたやうな、はい。」
「ではね、御面倒さまですが、あの、かういふ心づかひなぞをされてはこちらで迷惑しますからつて、しづかにさう言つて、これを返して下さいませんか。そして、一切の事は綱浦館の方で、──綱浦館──その方で取計つてくれるやうにしてあるのだから、言ふ事があるならそちらへ行くやうにね。私の方では一さいあなたがたにはお會ひ申しませんからつて、恐れ入りますが、さう言つて歸して了つて下さいまし。多分さういへば通じるところからまゐつたのでせうから。」
「へい、〳〵。」と大木さんは下りて行つた。例の加害者が出て來たものらしい。
「あいつが一人で來たんだらうか?」
「どうだか。」
「ことわりを言ひに來たのかも知れないね。」
「さうかもしれない。」
「何を持つて來たの?」
「何だつたかろくに見もしなかつた。」と、母は、考へたくもない忌々しい事を考へさせられるやうに、不愉快さうに言つた。
「もうお前、あの事はどうでもいゝからつて綱浦館の主人にもさう言つて置いたんだし、うるさいから放つて置くのさ。」
「あそこの亭主が許しとくだらうか?」
「そんな事はどうでもいゝよ。」
冷吉は、あの夜、生れてはじめて警察の一室に這入つた事なぞを、最早疾つくに隔つた昔の事のやうに思ひ出しながら目を冷した。
やがてまた大木さんが引き返して來て、
「たゞ今のはたうとその儘歸つて行きましてございます。一寸でいゝから一と言御挨拶がして歸りたいつて、少らく突つ立つた儘ぐづ〴〵して居りましたつけが。」
「さうですか。どうもお厄介さまでした。──ちよいとお待ちなさい。つまらない物ですけれど。」と、母はもうそんな事を忘れて了つたやうに言ひつゝ、大木さんに何か手の平へ入れてやるやうであつた。
「へい〳〵これはどうも、へい、もう澤山でございます。たび〳〵どうも。」と大木さんはあつぷ〳〵した口で禮を言つた。
冷吉は終日じつと同じ蒲團の上で寢てばかりゐるのにもいゝ加減に飽きた。
「もうこんなところにゐるのは厭になつた。いつそ家へ歸つて了ふといゝね。」と冷吉は壁の方へ寢返りをしつゝ言つた。
「だつて仕方がないぢやないか。そんなに譯もなく歸つて行けるものならお母さんだつてかういふ處にゐたくはないけども。」
「まだ中々夜にはならないだらうね。」
「あんな事をいふ。まだ午後の診察も來ないのに。──あら、また切つたね。お止しよ冷吉。子供のやうに何です。」
「だつて切りもしないのに。」
「見たよ、ちやんと。」
冷吉はする事がないから、時々手を延べて探つては、蒲團の綴糸をぷつり〳〵切つた。母はさつきから、お祖父さんへ出す手紙を書いてゐる。
冷吉は最う綴糸も切れないので、少し逆せた唇の皮をぷき〳〵毮りつゝ、家の朝夕の有樣を考へて見たりした。自分たちがゐないから、弟がいゝ氣になつて子供等を集めて來て、自分の机のまはりなぞを掻き𢌞してゐるだらうと思ふ。祖父は弟のする事は何をしても叱らないで、自分ばかりを仇敵のやうにがみ〴〵いふのである。
さう思ふと弟をこゝから撲つてやりたいやうな氣もするけれど、夜になつて祖父が早くから寢て了つたあとは、お由とたつた二人になつて了ふ一と間で、お由が晝の内の小使を、下手な假名で例の横綴の帖へ、考へ出してはぐづり〴〵いつまでも附けてゐる側に、寢むさうな目を擦りながら、足を投げ出して、さびしさうに洋燈の灯を見てゐるさまを考へると、弟のために早く母と二人で歸つてやりたいやうに可哀相な氣もして來る。
冷吉とこの弟との間には、男の子ばかりがまだ二人もゐたのであつたけれど、いづれも小さい内に亡くなつて了つた。次の分なぞは顏もよく記憶してゐない位である。下から二番目の弟は、三年前までは生きてゐたのだから、考へればまだゐるやうに目に浮ぶ。冷吉は、その、病身でぐづ〴〵してばかりゐた、物蔭のやうな弟の事をも考へた。
やがてそれにも飽きて、母が昨日拵へてくれたくけ枕が、丁度八百屋に蕎麥糟がこれだけしかなくて、袋の割に中が少くてぐにや〴〵してゐるのを、頭を上げて片方へ寄せて、餘つた布の端を握つて、暗く被うた目の上に、瞼を通す晝の光りがもや〳〵と黒く影り〳〵するのを見守つてゐたが、ふと窓のすぐ外を何か小鳥がちゝゝと鳴いて過ぎたらしいのに注意が引かれた。ちゝとまた鳴いた。冷吉は自分の耳を半ば疑ひつゝ、
「鳥ですか今のは?」と突然母に聞いた。
「さうかい?」と、母は氣附かなかつたらしく、やつぱり手紙を書き續けるやうであつた。
「もう飛んでつた。鳥だらう?」と冷吉は、母の後の片隅に、用事もなく手先を弄つて坐つてゐるらしい傭ひ女に向つて聞いた。これは母が、晝の内使ひ歩きなぞに出すために、賄の婆さんに世話をして貰つて、近所から傭つて貰つた女の子である。口の聞き方を知らないのが恥かしくてか、母が用事を言附ける時に、
「へ、ゝ。」といふだけで、あとは所つ中默り込んでばかりゐる。どんな女だかまだ見もしないが、どうせこのあたりの汚い家の子で、行儀も何も知らない、下司な子らしかつた。この女が疊を歩くと、ざら〴〵と鱶の皮の干したので擦るやうな音がするのが耳につく。けれど、默つて極り惡さうにじつとしてゐるらしいからいぢらしいやうな氣もした。
「ね。おい。」と冷吉が言つたので、女は徐つと立つて窓のところへ來て、カーテンを開けて外を見るらしかつた。
「えゝ、そこにゐますよ。」と、母が手紙を書く耳障りになるのを憚つたやうに小さい聲でいふ。
「どこに?」
「ぢきそこに置いてあるのでございます。」
「そこに寫つてる影は鳥籠かい、あれは。」と、母はざわ〴〵と手紙を卷きつゝ言ふ。
「さつきから何だらうと思つてゐた。お隣の方が飼つていらつしやるのかい?」
「へい。」と女は言つた。
母も冷吉も今までそれには氣が附かなかつたけれど、それはいつも向うの方の窓の釘に懸けてあつたからなので、もう前からゐるのださうであつた。この小女は、前にも一度、入院してる人に傭はれて來た事があるので、それを知つてゐるのであつた。今日はぶりき屋が來て、いつも鳥籠をかけて置く板壁のそばの、雨樋を直してゐるので、こちらへ置かれたのだらうと話した。
さういへば成程先つきから向うの方でぶりきを叩いてゐる音が、外のどこかでのやうに聞えてゐた。鳥はこちらへ置いては、前にもどこからか黒猫が來て籠を引つくり返した事があつたから險呑だと、女は默り込んでばかりゐる癖に何でもよく知つてゐた。冷吉は隣にどういふ人がゐるのかといふ事さへ知らない位であつた。
母と小女とはその鳥を飼つてる人の噂をする。
「さうね。どこかのお孃さんのやうね。」と母は何をかしつゝさう言つた。女は、
「へい。」と言つてるだけである。
「大變にお靜な方。終ん日ゐなさるのかゐなさらないのか分らないくらゐよ。ちよい〳〵そこいらを往き來してる人は、あれはお家から附いて來てる女中さんかい?」
「どうでございますか。さうでございませう。」
母はそれきりで話を切つた。一體、要らない餘計な事は聞きほじつたりなにかしない性質だから、それより深入つて聞きもしなかつた。さうして鳥がかうした病室に飼はれてゐるといふ事にも格別興味も持たぬらしく、やつぱり手紙でも書き續けてゐるらしかつた。
冷吉はどんな鳥がゐるのだらうかと獨で考へた。さうして婦人といへばどんな婦人がゐて、その鳥に餌をやつたりしてゐるのだらうかと思ふ。併し女だといふから、何だか自分で變なやうに氣が引けて、どんな人かと言ふそれだけの事を聞くのが極りが惡い。冷吉はこゝへ來た翌る日、はじめて朝の診察に下りた時に、自分の隣に腰をかけた、なつかしい物の言ひ方をした女の事を考へ出した。
あの人が隣にゐるのならいゝのにと、何といふ譯もなくさう思ふ。あの婦人だつたらいゝのに。けれどもあの人は最うあれきりこの間から診察を受けに來たのを見ない。だから隣のはあの人ではないかも知れぬけれど、どんな人だといふ事が解らない限りは、やつ張りあの婦人だと思つてゐる方が物なつかしい。さうして鳥を飼つてゐる。目がどう惡くて入院してゐるのだらう。何となくたゞ仄かに暗い目を久しく病んで、悲しいといふ程でもなく物悲しい、沈んだ日夜を見守る女なのだつたら、あの時分に聲なぞで想像した容子に似合はしい。──
冷吉はこんな事を考へ辿りつゝ、ふいと、さういふ女のあそこで飼つてゐる鳥は、例の悲しい戀の印のやうな赤い鳥でなければならぬと考へ合はせた。また實際がその通りであるかも解らない。かう思ひつゝ冷吉は、この病院へ來て以來しばらく忘れてゐた、例の鳥の女の事を考へた。
「おい。」と冷吉は言つて、小女に聞かうとした。
「へい?」と女は返事をする。さうではないだらうか。何だか、聞いて見てそれが赤い鳥でなかつたらせいがない。──冷吉はそれなり默つて了つた。
やがて、
「冷さん、〳〵。」と母がいふので、冷吉は我に返つて、またあの鳥を遁して出て行くシーンを考へ入つてゐた事に氣がついた。
「もうぢきに診察の時間ですよ。目をさましてゐなさいよ。」と母はいふ。寢てゐはしないのだから大丈夫である。
「ではお前、あとで冷吉を下へつれて行つたら、その序にこの手紙を出して來ておくれな。何、今でなくてもいゝのだから。」と、母は女に言つてゐる。
「さうしたら、もう今日は家へ歸つてもいゝよ。買物はさつきのですつかり濟んだのだしね。」
といふ。
もうバルコニーの鳥は鳴かなかつた。冷吉はやがてこの小女に手を引かれて、例の通りそろり〳〵梯子段を下りる時に、
「あの鳥ね、おい。」と遂に女に鳥の事を話しかけた。
その晩家の祖父から母へ手紙が來た。
「どうなりとして、一寸私に歸つて來いと書いてあるのだけれどね。」と母は言つた。
「詳しく書いて送つた積りでも手紙では事情が盡せないから、いろ〳〵に心配して入らつしやるのだらうよ。一寸歸つて容子を話して來れば私も安心して出てゐられるのだけども。」
「でも、さつきも手紙を出したぢやありませんか。」
「それにお前、私もかうして來の身着の儘みたやうなものだから、どうしても一寸歸つて、あれこれ持つて來たいものもあるし、出るなら出てゐるやうに、家を何して置く手順もあるのだからね。今日で六日になるかね私が來てから。」
「どうだか。」
「浮つかりしてゐたけど、もうかれこれ月末になつて來たよ。」と、家の何かの事が氣になるらしい。
「ぢや歸つて來ればいゝぢやありませんか。」
「だつて歸つて行くと言つたつて、あとがどうにもならないのだから、その間由やにでも來てゐてもらはなければ。」と、困つたやうにいふ。
冷吉は一ん日二日獨でゐたつて構ふものかと思ふ。毎日何の變化もなくじつとかうしてゐるだけだから、附いてゐる母がゐなくなるといふ事それ自身さへ、一つの變化になるやうな氣もするのであつた。どうなりといゝやうにするがいゝ。それよりもこちらは、となりの女があの婦人でないのだから、考へると何だかつまらなくなつて了つた。今日小女に何でもない事を聞くのではなかつた。晝間の鳥が赤い鳥だつたらあの婦人だらうけれど、何鳥か知らないが赤くはないといふからあの人ではない。それにもう、この間からあれきり毎日ゐないやうだし、どうしてもあの人とは考へられない。
「あら、赤い鳥といふものがゐるでございませうか。私は見た事がございません。」だ。馬鹿な女である。自分は目を掩うてゐるのだからまだいゝけれど、目が見えたら、どんな汚い小女だか。──
冷吉は獨でこんな事を考へた。
翌る朝、母はどうでも一寸歸つて來る事に極めた。
「一寸の間だからね、冷さん。夜の列車でまた直ぐ來るのだから。」と母は濟まなささうに言つた。そんなに言はんでもこちらは何でもない。
留守の間の事は小女ではしやうがないから、看護婦が出來るだけ世話をすると言つて引き受けてくれたさうである。九時の診察が濟むと、母は仕度をして出かけた。看護婦はそのとき上つて來て、
「あの奧さま、食麺麭はどこにもないのださうでございますが。」と、廊下で母と何か言つてゐた。母はその儘下りて行つた。看護婦は跡を引き受けてよくするから心配はないといふ事を示すためのやうに、入れちがひに室へ這入つて來て物を言ひかけた。冷吉は寢た風をしてゐた。
「お寢みだ。」と、例の淋しさうな聲で小さくさう言ひつゝ、徐つと出て行つた。早く下へ行つて診察室に歸らなければ、看護婦は一人しかゐないのにと冷吉は思つた。
一度罨法をしてから、うと〳〵してゐたと思ふ内に、もう午になつた。看護婦が三度目に來て食事を運んで給仕に附いた。
「お淋しいでせう、急に。早く傷の方の繃帶が取れますとちつとはお氣が紛れるでせうがね。おや、あなたは肉はおきらひでございますの? どういたしませう。それでは召し上る物がございませんわね。」と言ふ。こんな雪駄の皮のやうなのが食へるものか。箸で突つゝいて見たつて分る。默つて給仕をしてゐればいゝのだ。厭な女でもないけれど、母にまた金でもひねつてもらつたものだから、家の者の言ふやうな口を聞くのだと思ふと面白くもない。
冷吉は午後はもう寢られなかつた。母がゐる前では、何だか女の事なぞを考へる譯にも行かないから忘れてゐたけれど、母がゐなくなつたので、考へる事がないとやつ張り女の事を考へる。
と、昨日の鳥がまたちつちと啼いた。外は黄色い濃い日が當つてゐるやうな、あたゝかい日であつた。鳥はやつぱり今日もあそこに置いてあるのと見える。もう駄目だ。あんな赤くない鳥が何になる。さうしてあの婦人より外の女が隣にゐたつても何にもならない。どうせろくな女ではないに極つてゐる。やつぱり薄汚い田舍の女なのだらう。──
冷吉はかうしてまた今まで考へた續きを考へた。なぜ自分には戀をする女がないのだらう。女がゐて、戀ひても會はれないで、かうして暗く寢てゐるのだつたらいゝのにと思つて見る。けれども、いくら考へても自分には女がないのだから駄目である。
何だか獨で飽き〳〵した。やつぱり母がゐなくてはいけないと思ふ。
看護婦が目を冷すのを世話をしに來た。それから二度目の診察の時間が來た。
ベンチに待つてゐると、例の子供等が今日もわい〳〵言つてゐる。自分の側へかけて、獨でこそ〳〵何かしてゐるものがゐたので、冷吉は退屈まぎれに話しかけて見たが、返事もしずに向うへ行つて了ふ。それが、何だか自分を相手にしてくれるものもないやうに物足りない。例の目を押へてゐても、今日もまたどこかへ出かけてまだ歸らないのか、玩具の時計をくれた百姓の男もゐなかつた。あの時計はどこへどうなつたか知らと思ふ。
冷吉は氣の拔けたやうな中に再び看護婦に手を引かれて二階へ歸つた。それからまた飽き〳〵する長い時間が暗く續いて夕飯になつた。
飯をすましてから、そのまゝじつと坐つてゐると、もう段々に暗くなつて行くやうな氣がする。少くとも日は疾くに蔭つて了つたらしく、部屋の内が、晝間のやうでなく、冷んやりしたやうに感ぜられた。外をちびた下駄を引き摺つたやうな足音が通つた。今度は荷車らしいものが通つた。そのあとは何の物音もなく、はじめてこゝへ來た夕方に感じたやうに、一人暗く見捨てられてゐるやうに小淋しい。
「あら、さうですか。」と、となりの部屋で何か面白さうに低い聲で言つて、年の入つたやうな女が笑つた。何だか自分ばかりが淋しいやうで忌々しい。
ふいと、晝間小女が來た時に、あんなににべもなく追ひ歸したのが冷酷な事をしたやうに考へ返された。がさごそいふから誰かと聞くと、私でございます。午まへにまゐりましたが、看護婦さんが今日はいゝからといふ故、その儘歸りましたのですけれど、と言ふのをろくに聞きもしない儘、もういゝから行けと面倒臭さうに言つたので、小女は叱られでもしたやうに、默つて悄々したやうに出て行つた。物を考へてゐるのにこんな薄汚いものがゐては厭だから追ひ歸したのだけれど、貧乏人の女だから、そんなに厭さうにされたら情なかつたらうと思ふ。
冷吉はこんな事を考へたりしつゝ、物淋しく坐つてゐた。今日は晝間だいぶ寢たから、今から直ぐには寢られさうもない。
やがて冷吉は何をするためともなく立ち上つて、壁に傳はつて出口の戸のところへ來て、開け閉ての引手を撫でたりして見たが、これまで獨で出這入りした事がないのだから、探り〳〵、外の廊下まで出て見る事も、一つの變化を與へるやうな氣がして、そのまゝ外へ出て、手擦りを探つて彳んだが、出て見ればやつぱり物淋しい外に、何にも變つた心持はしない。だれも話をする相手がないからだらうかと思つて見る。
すると、下の方で四五人のものがどたばた爪先で廊下を走り𢌞つて、何か默つてふざけ合つてゐるやうな容子に見える。くす〳〵と聲を殺したやうに笑ふのは例の百姓の男であつた。何をしてゐるのだらうと思ふと、目の掩ひを除けて、下へ下りて見たいやうな氣もした。
さう思ひ〳〵冷吉は、何をするすべもないので、手擦りに沿うて一と足づゝ階段の方へにじつて行つた。隣の部屋を通り越すと直に梯子段の下り口である。
と、ふと隣の戸が開いて、誰かゞ外へ出て來た。
「どこへ行らつしやいますの?」といふ。
「私ですか。」と間を置いて、冷吉はさうらしいから聞いた。
「行らつしやいますなら手を引いてお上げ申しませう。今日はお母さまがお歸りでお一人ださうでございますね。」と、となりの附添の婆さんは何でも知つてゐるやうに言つた。
「いゝえ、いゝんです。こゝにかうしてゐるだけですから。」と冷吉は言つた。知らない人間だからそれ以上にいふ事もない。
「お一人ではお淋しうございますわねえ。」と、人のいゝ婆さんのやうにしんみり言ひつゝ下りて行く。この近所の田舍の婆さんでもないらしい。
下ではまだがさごそとだれかゞ遁げ𢌞つてゐるやうである。冷吉はそれに交りたいやうな、誘ひ出されるやうな氣になつて、少しづゝ階段まで近寄つて行つた。
すると、下の方で、
「あら、いけない〳〵、そんなところに隱れてるんだもの。」と、汗ばんだ聲をして、不平らしく一人が言つた。
「ふゝゝ。」と田舍の女のやうに笑ひつゝ、だれか知らこそ〳〵と梯子段を下りた。
「ま、およしなさい。痛いわよ、お前さん。」
「いけない。今度はお前さんが目を隱すんだ。」
「さうだ、罰だもの。私もさつきから、どうもこの人が捉らないから變だと思つたんだ。」と時計の百姓が言ふ。みんなでどたばたとあちらへ行つた。三等室に固まつてゐる連中が、小暗い夕方の廊下で目隱しの鬼ごつこをしてゐるのだと見えた。大抵のものが半分は目に繃帶をされてゐる癖に、あんな事をしてふざけてゐる。さつきの女は、この間から見る、下女のやうな女の患者らしかつた。貧乏な、心淋しい女のやうだのにと思ふと、あゝしてこの仲間に交つてゐるといふ事が、餘計に物哀れなやうな氣がする。
冷吉はその儘しばらくそこに彳んだ。
もうすつかり夜である。
冷吉は蒲團に這入つた儘、取りとめもなく物を考へた。
看護婦が罨法をさせて下りて行つた後は、もう次の十一時の罨法の時間が來るまでは、またかうしてたつた一人、暗く夜に埋もれてゐなければならないのであつた。母はいつ時分歸つて來るのだらう。何だか最早何日も母に行つて了はれた續きで、さうしていくら待つても容易に二度とこゝへ歸つて來てくれないのであるかのやうに物さびしい。寢るにも寢られなくて仕方がないから、いろんな妄想ばかり辿つた末に、自分の目は遂にどうなるのだらうといふやうな事に思ひ移る。
いつそ兩方の目が少しも見えない、盲目になつて了へばいゝやうな氣がする。さうなれば何んなに物悲しい自分になるだらうと思ふのである。さうして自分は、あのマグダーレンに似たグレツチエンのやうな或少女にかしづかれると假定する。いつまでたつても目は見えない。自分が戀してゐる、そして自分を戀してゐるその女の顏を、いつまでも見る事は出來ぬ。自分は日の落ちた夕方のバルコニーに立つて、しめ〴〵と暗い悲しい事を考へ續ける。
「もう鳥を寢せませう。また日が出るまで暗く寢せませう。」と、自分の女は淋しくかう言つて、そこの柱に懸つた籠を下す。鳥は死んだやうに音もたてずに、小さく籠の薄暗がりに縮こまつてゐる。たゞ赤い鳥と聞いてゐるだけで、いつまでたつても自分はその赤い姿を見る事は出來ぬ。自分はその鳥の色の赤いといふ事を心元なく疑ふやうに、いつもはじめて聞くやうに女に聞くのが癖である。私の着てゐる着物のやうに薄い赤い色、と、やつぱりいつもはじめてのやうに女は答へる。
だから女は自分がもう取り返す事の出來ない、目の見えた日の事を戀ひ返す心持に似た、薄い仄かな赤い絹を、悲しく纏うてゐるのでなければならぬ。
「私の着てゐる色のやうに、」と、この夕方も同じ事を答へつゝ鳥籠を下に置いたが、それなりそこに坐つて了つたやうに、じつと何をか考へ入つてゐる。
「どうしたの?」と自分は暗く聞く。女は何を考へ出したのか、しく〳〵泣いてゐる。グレツチエンが悲しい暗い妻となつての後のやうに泣いてゐる。なぜ泣くのか、何を考へたのかと自分は聞く。女は何も言はずにたゞしく〳〵と泣く。自分も何とも知らず悲しくなつて泣く。
と、女は背中に漂ひかゝる髮を搖がせて伏し沈むに、自分の暗い涙はほろ〳〵落ちてその亂れた髮にかゝる。
「悲しいわが戀。悲しい暗い人。」と言ひつゝ女は泣く。──
冷吉はさういふ女が得たい。さうして悲しく戀したい。戀して悲しい自分が見たい。それには自分はこの先々、小さいバルコニーの附いた家にゐなければならぬ。そのバルコニーに出て考へ沈んでゐると、下を、赤い鳥の籠を提げた小女が通る。女は目の見えぬ自分を見て戀ひる。さうしていつも自分がそこに出て物を考へる時刻に、女は鳥を持つて通りつゝ自分を見る。自分は赤い鳥の女と聞いてその女を戀ひる。──
冷吉はかうしてまた女の事を考へ續けるのであつた。しまひにはいつもの通りにもどかしくなる。頭が熱したやうに茫うとなつて、熱が浮いたやうに體がもや〳〵する。もう忘れなければならぬ。忘れなければ物苦しい。
冷吉は寢飽きたやうに倦怠く蒲團を剥つた。何だか外の冷いやうな中に出て、かうした氣分を忘れ紛らしたい。
冷吉は堪へられぬやうにそつと立つて、右の方のカーテンを引いた。さうして、掛金を探つて硝子戸を兩方に開いた。外は暗いのだらうか。何だか自分の頭のせゐか、夜といへどあたゝかい。
冷吉は室を出てバルコニーに立つて見たくなつて、しづかに足場を探つて出た。
星のある夜か、暗い夜か、もとより冷吉の知り得る譯もなかつた。たゞ三月の末の或夜の中に立つ自分と思ふだけである。外には膚に觸れる風もない。冷吉は、何をか求め待つために出て來でもしたやうな心持になつて、やつぱりまた女と赤い鳥とを思つた。さうしてしまひに、せめて赤い鳥を飼ひたいと考へた。何といふ鳥なのか、あの小説には名が書いてなかつたけれど、探せばどこかにゐない事はないだらう。どうもさう小さい鳥ではないやうに思はれる。カナリヤなぞよりももつと大きくなければ具合が惡い。けれども鳩のやうに大きくてはいけない。もつと小さい鳥でないと似合はない。第一何といふ鳥なのだらうと考へつゝ、手擦りに傳はつて、前の方へ行けるだけ出ようとしかけると、
「あなたそこは危うございますからお止しなさいまし。」と、不意に隣の窓からだらう、すぐ後からさう言つて止めるものがあつた。冷吉は自分の耳を疑ひつゝ彳んだ。それは疾くからもうこの病院へは來ない筈の、例の赤い鳥に結びつけて考へた、あの女の聲であつた。
「そこの手擦りが腐つてぶら〴〵になつてゐるのですから。」と約ましくいふ。全くその女である。もうさつき、冷吉の來る前からこゝに出てゐたものらしい。直き側に立つてゐる氣色である。冷吉は何だか自分の空想の續きではないかと考へた。
「こゝに椅子がありますからおかけなさいまし。──靜ないゝ晩ですこと。」女の言葉は私語くやうに低いけれど、自分に附いてゐてくれる女でゞもあるやうにしめやかに言ふのであつた。
「私は澤山です。あなたのがなくなりますから。」と冷吉は、もじ〳〵する心持を押へるやうにして辛つとさう言つた。
「もう私は充分かけてゐました。おかけなさいな。」と自分の考の中で思ふ女のやうにいふ。冷吉は何にも知らない、たゞの子供のやうにしてゐれば、女の側へ行つても何も變に取られる譯もないと考へつゝ、言はれるとほりにそちらへ行つて見た。
「もつとこちら。──ね。」
探ると籐の椅子の肩に手が觸つた。
「あなたは何にもお見えなさらないのですから御不自由ですわねえ。──お母さまはいつ歸つて入らつしやるのです?」と、女はもう先から心安い間のやうに口を聞く。
「いつですか。──明日でせう。」と冷吉は、極りが惡いやうな氣がして、目には見えぬ椅子の肘掛の、粗い編み目の間を指先でいぢくりながら、默つてかけてゐた。何か言ひ出したいやうにそは〳〵するけれど、何を言へばいゝのか分らない。
「お母さまがいらつしやらないと、淋しいでせう? あなたは始めからずつとさうして目を閉つたまゝでいらつしやるの?」
「えゝ。」と冷吉も小さくいふ。
「それでは皆んな、こゝに入らつしやる方のお顏も御存じないわね?」
「えゝ。」
「私は?」
「……」
「ほゝゝ御存じ?」
「いゝえ。」と言ひつゝ冷吉は、それよりもこの女の飼つてゐる鳥の事を聞いて見ようかと思つた。
女はそれきりで稍しばらく默して、目の前に廣がる夜のさまを、何を見るともない年わかい目に見入つてゐるものゝやうであつた。冷吉はその内に、いつしか極りの惡いのを忘れて、すぐ下の夜の、さびしい町筋を一人行く、下駄の音の過ぎるのを聞き追うてゐた。それはどこかのきちんとした下女か何かゞ、提灯を點けて買物に出て行くのだと冷吉は自分で考へた。
と、默つて立ち盡してゐた女は、氣をかへたやうに、
「あなた、こちらへ入らつしやいませんか。私のところでお話をしませう。ね、いゝでせう?」と、もう外に出てゐるにも飽きたやうに言ふ。
「入らつしやいな。」と女は先に立つた。どういふ人だとも知れない上に、はじめて口を聞いたゞけなのだけれど、冷吉はもう久しく交際つてゐでもするやうな氣になつて、言はれる儘に行く方を手探りした。
「待つて入らつしやい。椅子を引つ込めて置きますから。──こちらです。」と女は手を貸した。冷吉は入口を跨いで中へ這入る。
「ようございますか。」と女も這入つた。
「あなたのお部屋も電氣が點いてゐるのでせう?」と言ひつゝ冷吉は、勝手が解らないから、這入つたばかりのところに立つてゐた。
「そして鳥は?」
女は這入つた後のカーテンを引きながら、
「私の鳥?」と言ふ。
冷吉が自分の室に歸つて蒲團に這入つたのはもう遲かつた、間もなく看護婦が最後の罨法をさせに上つて來たから、最早下ではみんな寢てゐるのであつた。冷吉は、さつきからよく寢入つてゐた續きのやうな振をしてゐた。
それから本當に寢ようとしたけれど、何だかいつまでも寢つかれなくて、色んな事を考へた。
その内に下の入口に車が下りた。冷吉は別に何とも思はずに、他の事を考へつゝ、熱くろしい寢返りを打つたが、その車は母が終列車で歸つて來たのであつた。そろりと室の戸を開けて、何か母の手荷物らしいものを置いて出て行つたのは受附の大木さんらしかつた。冷吉は頭まで蒲團にもぐつて、じつとしてゐた。
「冷吉。──冷吉。もう出て口をお濯ぎなさい。何時だと思ふの?──どうかしたのかいお前。なぜ返事もしないで默つてゐるの?」
「……でも頭が痛くて氣分が惡いんだもの。」と、いゝ加減な事を言つて濁して置く。
「それではお前どうでも風を引いて熱でもあるのだらう? あんなに窓を開け放しにしたまゝで寢てゐるのだもの。きつとあれで風を引いたんだよ。」
母はこんな事を言つた。
冷吉は口を濯ぎに伴れて行かれるのに、となりの部屋の前を通るのが氣恥かしいやうな心持がした。何だか母だつて昨夜の事を氣附いてゐるのではないかと疑はれて、變に落ちつかない。
やがて朝飯代りの牛乳を飮んでゐる中に、もう今朝は診察のベルが鳴るのであつた。冷吉は間もなく母に伴れられて下へ下りて行つた。
女ももう來てゐはしないだらうか。さうして自分に話しかけはしないだらうかと思ふと、氣がどき〴〵する。それと同時に、物の話のやうに、昨夜の事が思ひ續けられた。じつとそれを考へ入ると、赤い〳〵花の咲きつゞいた甘い日向の中に漬つたやうな氣分になつて來る。何だか女の髮の匂ひがいつまでもふは〳〵と自分を包んでゐるやうである。やつぱり昨夜の續きに、あそこにゐるやうな氣がしてならない。
冷吉は看護婦に名を呼ばれて暗室に這入つたが、昨夜の事が、何か目に變つた徴候を來してはゐないだらうかと、急にそれが心配になつた。
さうしてるところへ、冷酷にこの不安を襲ふためのやうに、院長がついと這入つて來た。もうどうなるものかと思ふ。神經のせゐか、どうも目がもや〳〵するやうな氣がする。
「どうですか。」と言ひつゝ、院長は繃帶を解いて、看護婦が點したランプに左の瞼を開けた。冷吉は探られるのを隱れてゐるやうに、息を殺してじつとしてゐた。
「ふゝん。どうも相變らず……。併し餘程よくなりましたよ。もう、少し視力が出やせんかと思ふんだが。──この指を見て御覽なさい。見えますか?──見えない。ではこつちを見て御覽なさい、火の方を。──どうです、同じ茫うとしてると言ふにも、先頃よりは火の影が少し明るいやうでせう? さうぢやありませんか?」
「はじめよりか幾らか違ふやうですが、でも昨日と較べたら同じです。」
「もう一度こつちを向いて御覽。まだびり〴〵瞳が動くけれど、併しあなたのやうに幸運なのはありませんよ。どうも不思議だ。どうしてもこちらは失はねばなるまいと思つたのですがねえ。とにかく水晶體が──目の中の黄色い部分ですね──そいつが脱落してゐないのは確かです。──最初はそれが壞れてゐるに相違ないと見たのでしたが。──どうも不思議。ま、もう少しじつと經過を見ないと。──ほう。傷は大抵癒つ着いて了つた。さあ、明日あたりはこちらの目が開けられますかな。」と、診察を了へて院長は出た。冷吉は甘く調べを遁れたやうにほつとした。
それから例の椅子にかけてゐる間、ちよい〳〵盜むやうに右の目を開けて見た。女はまだ來てゐないやうである。いつでもしまひ際に人が少くなつた機を見て下りて來るのであらうか。それだから昨日まで、やつぱりこの病院にゐるといふ事を知らなかつたのかもしれない。冷吉は、女が今こゝにゐないといふ事は、自分に取つて都合がいゝやうにも思はれた。けれども、どんな女だか顏が見たいやうな氣がして、人が這入つて來る度に、さうではあるまいかと胸を轟かせては目を開けて見た。
と、母が向うに人の通り路を避けて立つて、こちらを見守つてゐた。
冷吉は診察がすむと、歸つて蒲團の中に這入つて、じつと寢ようとしたけれど、もや〳〵と昨夜の事が考へ返されて寢られない。となりで女はどうしてるだらうかと想像して見る。鳥は今日は鳴かない。もうあちらの窓へかけてあるのだらうか。
冷吉はそれから昨夜バルコニーへ出てからの女の言葉を一々考へ拾つた。一語も漏らさずみんな記憶してゐる。はじめて診察室で隣り合つてかけた時に自分に言つた言葉も、院長に言つたのも、みんな覺えてゐる。冷吉は順序立てゝはじめから一々繰り返して見た。さうして甘いやうな心持に少し疲れて來ると、やがてうと〳〵となつた。
ふと、はつきり目さめた意識に返ると、看護婦が來て母と話してゐた。冷吉はそれには耳を置かずして、自分の考へるべき事を追うてゐようとしたが、その内に隣といふ言葉が耳に這入つたので、二人の言つてゐる事に注意を欹てずにはゐられなかつた。
「それにあちらの方が疊も新らしうございますし、こちらの方角も見渡せますでございますから、直ぐにお移りなさいましよ。」
「さうですね。だけどまた御厄介をかけますから。」
「いゝえ、そんな事は何でもございませんわ。」
と、こんな事を言つてゐる。
看護婦が行つてから冷吉は母に聞いた。
「お母さん。部屋を換るの?」
「何、どうでもいゝよ。同じだもの。」
「どこへ移るの? 移れば。」
「何ね、となりが空いたがどうかつて、看護婦さんが言つてくれたんだけれどね。」
「となりが? いつ?」
「まあ、何です、愕いたやうに。」
「いつ空いたのだらう。」
「ふゝゝ急に小さな聲をするわ。つい今だろ。」
「それでは私が寢てゐた間にでせうか?」
「どうだか。」と、母は何の譯も知らないのだから、どうでもいゝ事だと言つたやうに言ふのである。
冷吉はそれきりで默つて了つた。なぜそんなに欺くやうに急に出て行つて了つたのだらうと、出し拔れでもしたやうな、あつけない心持を禁する事が出來ない。どうした譯なのだらう。昨夜あれだけ話したのに、そんなにもう翌る日になれば行つて了ふといふ容子は一つもなかつた。何だか狐につまゝれたやうな氣がする。たつた一日飼つてゐたばかりの鳥が、いつの間にか遁げて了つたやうなものである。
冷吉は、徒にその空籠を覗いて悔しいやうに、物惜しい、落ちつかぬ心持にいら〳〵した。それではもう來ないのだらうか。拙らない。何だか拙らない。
冷吉は物を失くしでもしたやうに、くるりと起きて蒲團の上に坐つた。
「どうかしたの?」と母が聞く。
「なぜ?」
「何か食べたいのかい? 退屈なのだろ。」
「そんな事ぢやないんた。」と冷吉は口の内で言つて、夢の跡を探るやうに、昨夜の二人の事を考へた。
午後、看護婦が、手紙が來たと言つて持つて來た時に、冷吉は、
「ね、村井さん。」と聞き出した。
「となりの人はもう今日歸るといふ事は前から極めてゐたの?」
「どうでございましたか。私は一向存じませんでしたけど、何だか急でしたわね。」
「そして婆やさんももうゐないの?」
「えゝ。患者の方が先に朝早く出てお出でなすつて、婆やさんは跡を片附けるので午まへまでごそ〴〵してゐましたが、」
「さうして鳥は?」
「ふゝゝ何だらうそんなに一々お前。」と母は言つた。
「鳥はどうでございますか。婆やさんが持つて歸りましたでせう。」
「駄目だな。」
「あなたは鳥がお好きですか?」
「だつてあんな鳥は拙らないつてこの間はさう言つたくせに。」と母がはたから言つた。冷吉はそれきり默つてゐた。何故、あの鳥が赤い鳥で、それを女はこゝを出る時に籠から放して行つて了はなかつたのだらうと思ふ。
冷吉はやがて失くしたものを探しでもするやうにバルコニーに出た。
「お前さん、危いよ、そんなところへ出て。」と、母は内から言つた。
冷吉は昨夜のはじめからを考へ返しつゝ彳んだ。さうして、あれはやつぱり自分の考の中の事ではなかつたらうかと疑つた。
外は日向のもく〳〵あたゝかい日であつたけれど、じつと、あの鳥のやうに遁げた女を考へて立つ冷吉には、何だか、かうした日向は、物悲しい心持を慂るやうに着物に浸みた。どこかに赤い鳥が、自分のかうした、置いて行かれたやうな心を憫むためにちゝ〳〵と鳴くのが、この日向に吸はれて自分に傳はつて來るのではないかと思はれる。
なぜ女は、これがはじめて會つた夜で、さうしてあすは芥子の花の落ちるやうにはかなく去つて了ふ夜だとは告げなかつたのだらう。行つて了つてどんな心に何を思つてゐるのだらう。冷吉は生れて女の息に觸れたのは昨夜がはじめてゞある。かういふ戀しい心を教へたあの女は、自分の得たはじめての女である。自分は暗い目に面ざしも知らなければ名も知らない。かうして不意に別れるのが約束とすれば、なぜ名前だけでも聞いて置かなかつたらうと思ふともどかしい。この心持は、マグダーレンの女を尋ねて日毎に町を彷徨ふ男のそれではあるまいか。
會ひたい。もう一度會ひたい。これぎりで最早二度と物をいふ事が出來ないのなら、何といふ、女は冷やかなものなのだらう。自分にこの戀しさを注いで置いて、それを心にはかけないのだらうか。女は自分よりも年上である。女に取つては自分はたゞあゝした一夜のために、氣まぐれに選ばれた一人なのではあるまいか。
けれども女の言つた事はいまでも耳に聞くやうである。その何してゐて話した言葉の今耳に浮く心持は、必ずもう一度會ふ、もう一度會ふ日が來ると、この女がどこかにゐて心に言つてゐるやうに感じられる。會はなければならない。どうしても會はなければならない。小雨のふる町の或窓に、赤い鳥の籠を取り入れる姿を見出すやうに、いつか再び會ふ日が來るのでなければならぬ。
「冷さん。」と母が呼ぶ。冷吉はどうしてもその日が來るのだと、もう定つてゐる事のやうに獨で考へつゝ、
「何です?」と母に返事をした。さうしてそれまで女はどこかで赤い鳥を飼つてゐるのだと考へたかつた。
冷吉はそれからは毎日、どこかで赤い鳥を飼つてゐてほしいその女の事を、話のやうに消えたその女の事ばかりを考へ續けた。さうして、何かその女に關して或事が見出されるやうな期待を持つて、戀しい晝と夜とに漬つてゐたけれど、十日もたつても、去つた女はそれぎり再び歸つては來なかつた。
その内に、もう疾くに片方の目は開けてゐられるやうになつた。兩方の目を掩はれてゐる間は、早く片方が開いたらどんなにさつぱりするだらうと、せか〳〵待たれたけれど、開いて見ればやつぱり一つでは人の目を借りてゐるやうで落付かない。物足りないのは同じである。
冷吉は、あれきり人がゐないで空いてゐる隣の部屋の日向の中に、何かといへば行つて這入つてゐたくなつた。獨であの女の事を考へ返す時には、やつぱりいつまでも二つの目を掩はれて、暗い日夜にゐる方が似合はしいやうな氣がした。暗い目で考へる方が、あゝした前後もない一と夜をいつまでも思ひ返すのにふさはしい。
女はどこにどうして何を考へてゐるであらう。どんな女でどうした人だとも知らずに、たゞ暗い中の影のやうに逢つた女。さうして翌る日にはもう去つてゐない。いつまでもどんな女だつたかを知る期もなく去つたのである。たとへもう一度どこかで會ふにしても、自分はいつまでも、それをその女と知り別けるすべもない。戀といふには餘りにあつけない。このやうなのを自分のした戀だといふには餘りに夢のやうである。やつぱりマグダーレンの女のやうに、自分の讀んだ物の中の話だと思ひたい。さうして女は赤い鳥を飼つてゐたのだといふ事にしたい。去つてもどこかでやつぱり赤い鳥を飼つてゐるのだといふことに。
一日〳〵とたつにつれて、實際冷吉には、すべてあの事がもう昔讀んだ話の中の事のやうになつて了つた。冷吉は窓から椅子を入れる女の影を、夕方鳥を逃がすために窓に近づくグレツチエンを見ると同じじに心に畫いた。目に見ぬ女故、どのやうに畫くとも差しつかへはなかつた。
冷吉はさうして活字の上で記憶してゐるやうに、女から聞き得たすべての言葉を考へ返しつゝ、下の病室の窓の根の、大きな椿の花のぽた〳〵と落ちてゐるのを拾つて上つては、バルコニーに出て、女のゐた部屋の窓のふちに並べた。窓は硝子が閉つて内から黒いカーテンが懸つてゐるのだから、並べた花は向うの黒い中にもあるやうに硝子に寫つた。自分の、片目を繃帶した、眉毛から瞼へかけて傷のついた、睫の長い痩せた顏もその上に寫つた。さうして、餘つた花をバルコニーの手擦りの下に固めて、あの女のことを考へつゝ、甘いやうな、もの悲しいやうな日向に向けてゐる脊中を、黄色い蝶々がふはり〳〵と飛んだ。
最早少しは外へ出歩いてもいゝのだつたけれど、知らぬ小汚い町筋へは出て見たくもない。このバルコニーがあれば澤山である。向うの家並の後からは、遠く青い麥の畠が續いてもや〳〵と陽炎ふ中に、菜の花が黄色く煙つてゐる。四月といへば晝も夜も、女を考へ入るのに似合つてゐた。
それは入院してから二十二日目の午後であつた。どうせ長い目なのだから、いつまでゐても區切がないゆゑ、母は、汽車へ乘る事を許されさへすれば、一日も早く家へ歸つて、あちらでゆつくり療治がしたいと院長に聞き〳〵して、この日出る事を許された。けれどもまだ危んで汽車は一と息に乘り通してはいけないといふ條件での上であつた。
もう荷物はすつかり下へおろされて車が來るのを待つてゐた。大木さんも看護婦も時計をくれた百姓も戸口に下り立つてゐた。冷吉は何だか、かうした段になると、こんなに急いでこの病院を去つて了ふのが惜しくもあつた。
冷吉はもう一度引き返して隣の部屋の中に這入つて、そこから窓を開けてバルコニーに立つた。手擦りの取れかゝつたバルコニーには、五六日前に母とこのあたりの夜店で買つて來たナスタシヤムの朱黄色の花が、まだ一つ、鉢に散り殘つてゐた。
「冷吉。〳〵。」と母が下で呼んでゐる。
「え?」と冷吉は上から言つた。
「どこ?」と母は下から出て、
「おや何です、またそんなところなぞへ上つて。一寸と下りて入らつしやい。」
「ね、お母さん。家へ歸つたら鳥を飼はうね。」
「そんな事はどうでもいゝから早くお下りよ。用事があるのだから。」
「さうして赤い鳥を。」と冷吉は心に言ひつゝ、いつまでも下りたくないバルコニーを、殘り惜しく去らなければならなかつた。自分はどうしても赤い鳥を買つて、それをあの女の紀念にしていつまでも逃がさずに飼つて置くのだ。それには何だか自分がもう目が暗くないのが拙らない。もう一度暗い目になりたい。暗い何にも見えぬ目をしてあの女を考へたい。さうしていつまでも赤い鳥を飼つてゐたい。──
冷吉はこのやうな事を考へつゝ、わざとぐづ〴〵して梯子段を下りた。
底本:「鈴木三重吉全集 第二巻」岩波書店
1938(昭和13)年5月15日第1刷発行
1982(昭和57)年2月8日第2刷発行
入力:林 幸雄
校正:木浦
2013年1月14日作成
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