明治卅三年十月十五日記事
正岡子規
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余が病体の衰へは一年一年とやうやうにはなはだしくこの頃は睡眠の時間と睡眠ならざる時間との区別さへ明瞭に判じ難きほどなり。睡さめて見れば眼明かにして寝覚の感じなく、眼を塞ぎて静かに臥せばうつらうつらとして妄想はそのままに夢となる。されば朝五時六時頃に眼さむるを常とすれど朝の疲労せる時間を起きて頭脳を使はんは少しにても静かにあらんに如かずと、七時八時頃までうつらうつらとして夢と妄想の間に臥し居るなり。今朝眼さめたるは五時頃なるべし。四隣なほ静かに、母は今起き出でたるけはひなり。何となく頭なやましきに再び眠るべくもあらねば雨戸を明けしむ。母来りて南側のガラス障子の外にある雨戸をあけ窓掛を片寄す。外面は霧厚くこめて上野の山も夢の如く、まだほの暗きさまなり。庭先の雞頭葉雞頭にさへ霧かかりて少し遠きは紅の薄く見えたる、珍しき大霧なり。余は西枕にて、ガラス戸にやや背を向けながら、今母が枕もとに置きし新聞を取りて臥しながら読む。朝眼さむるや否や一瞬時の猶予もなく新聞を取つて読むは毎朝の例なり。『日本』を取りて先づ一ページをざつと見流し直にひろげて二ページを読む。支那問題はいつ果つべくも見えず伊藤内閣も出来さうで出来ず埒のあかぬ事なり。五ページを見て三ページを見て四ページを見て復一ページに返り論説雑録文苑などこまかく見る。かくする間に『時事新報』、『大坂毎日新聞』など来る。新聞を読む間、一時間半より二時間半に至る。その間寸時も休む事なし。終りてガラス戸の方を向くに霧漸く薄らぎ、葉雞頭の濡れたる梢に朝日の照る、うつくしく心地よし。
いたく疲労を覚ゆるに再び眠りたく眼を塞ぎたるも例のうつらうつらとするばかりにて安眠を得ず。溲瓶を呼ぶ。『海南新聞』来る。中に知人の消息はなきやとひろげて見る。妹に繃帯取換を命ず。繃帯取換は毎日の仕事なり。未だ取りかからざる内に怪庵来る。枕元の襖をあけて敷居ごしに話す。余は右向きになり頭を擡げ右手の肱を蒲団の上につき居り。こは客に接する時、飯くふ時、筆を持つ時に取る所の態度なり。先日手紙にて頼み置きたる者出来居るか、と怪庵いふ。余、僕は字を書く事は誰にもことわつて居るのだからこの分だけ書く訳にゆかず、宜しく先方へさういふてくれ、と頼む。怪庵、小ぎれに書きたる木堂の書を出して示す。それより書の話に移る。怪庵、僕は外に望はない、書ばかりは少し書いて見たい、といふ。僕も時々大きな字をなぐりつけたけれど筆がないので買ひにやると一六先生用筆といふ二十銭の筆を買ふて来た、書いて見ると一六先生に似たやうなよつぽど変な字が出来るので呆れてしまふた、と話して笑ふ。一六はいやだ、と怪庵口をとがらしていふ。きのふ蘇山人に貰ひたる支那土産の小筆二本と香嚢とを出させて怪庵に示す。怪庵、筆にかぶせてある銅の筆套を抜き、指の尖にて筆の穂をいぢりながら、善く書けさうだな、といふ。それより、能書不択筆といふが昔の書家は多く筆を択びし事、不折が近来法帖気違となりし事、不折の鵞群帖の善き事、『ホトトギス』が発行期日をあやまる事、西洋の新聞雑誌が皆大金をかけて思ひきつた仕事をする事、雪嶺翁が校正の時に文章を非常に直すので活版屋が小言をいふ事、外に、嶺雲その他の消息など暫く話して、怪庵は帰る。
日光はガラス戸ごしに寐牀の際まで一間ほどさしこみて、午時は近づきたり。心地よくしかも疲れを覚ゆ。再び枕に臥して飯を待つ。朝餉くはぬ例なれば昼飯待たるるなり。やがて母は、歯磨粉、楊枝、温湯入れしコツプ、小きブリキの金盥など持ち来りて枕元に置く。少しうがひして金盥に吐く。大きなブリキの金盥に温湯を入れ来る。これにてかたばかり顔を洗ふ。寐て居て顔は洗へぬものなり。
あるいは枕に就きあるいは頬杖つきて待つ。午過ぐる頃やうやうに母、飯を運び来る。膳の代りにしたる長方形の木地の盆を蒲団の上に置く。御馳走は、あたたかきやはらかき飯、堅魚の刺肉、薩摩芋の味噌汁の三種なり。皆好物なるが上に配合殊に善ければうまき事おびただし。飯二碗半、汁二椀、刺肉喰ひ尽す。ブランデー一口を飲む。母は給仕しながら、そこに坐りて膠嚢にクレオソート液を入れ居り。食了りて、クレオソート三嚢を呑む。漬物と茶は用ゐぬ例なり。自ら梨二個を剥いで喰ふ。終に心を噛み皮を吸ふ。
食後、硯箱、原稿紙、手入すべき投書など寝床近く寄せしめ置きたれど、喰ひ労れに労れたれば筆を取る元気もなくてまた枕に就く。
暫くして妹は箱の上に薬、膿盤などを載せ、張子の浅き籠に繃帯木綿、油紙、綿などを一しよに載せ持ち来る。母はガラス戸に窓掛を掩ひ、襖を尽くしめきりて去る。これより繃帯に取りかかるなり。余は右向きに臥し帯を解き繃帯の紐を解きて用意す。繃帯は背より腹に巻きたる者一つ、臀を掩ひて足に繋ぎたる者一つ、都合二つあり。妹は余の後にありて、先づ臀のを解き膿を拭ふ。臀部殊に痛み烈しく、綿をもてやはらかに拭ふすら殆ど堪へ難し。もし少しにても強くあたる時は覚えず死声を出して叫ぶなり。次に背部の繃帯を解き膿を拭ふ。ここは平常は痛み少く、膿を拭はるるはむしろ善き心持なり。(左の横腹に手を触れ難き痛み所あり)膿の分量も平日に異ならずとぞ。されど平日の分量といふがどれほどの者か余は知らず。その外痛み所の模様など一切自分には分らぬなり。三年ほど前に、ある時余は鏡に写して背中の有様を窺はんと思ひ妹にいふに妹頻りに止めて聴かず、余は強ひて鏡を持ち来らしめ写し見るに、発泡の跡、膿口など白く赤くして、すさまじさいはんやうもなく、二目とは見られぬ様に、顔色をかへて驚きしかば、妹は傍より、「かさね」のやうだ、とひやかし、余は痛くその無礼を怒りたる事あり。これに懲りてその後は鏡に照したる事もなけれど、三年の間には幾多の変遷を経たれば定めて荒れまさりたらんを、贔屓目は妙なものにて、今頃は奇麗な背に奇麗な膿の流れ居るが如く思ふこそはかなき限りなれ。
膿を拭ひ終れば、油薬を塗り、脱脂綿を掩ひ、その上に油紙を掩ひ、またその上にただの綿を掩ひ、その上をまた清潔なる木綿の繃帯にて掩ひ、それにて事済むなり。この際浣腸するを例とす。今日は浣腸せず。便通善し。毎日のこの日課に要する時間は凡そ四、五十分間なるべし。この頃の如く痛み少き時は繃帯取換は少しも苦にならずしてむしろ急がるるほどなり。そは、繃帯取換後は非常に愉快にして、時として一、二時間の安眠を得る事あるに因る。
妹は不潔物を抱へて去り、母は金盥を持ち来り、窓掛をあけなどす。余は起き直らんとして、畳の上にありし香嚢の房の先のビードロを肘に敷きて、一つ割る。桃色のシヤボンにて手を洗ふ。
繃帯後のくたびれにてまた枕に就く。今日は暖かなればこの室の掃除をなさんは如何、と母問ふ。余同意す。母は坐敷に寐床を設けて、余に、移れ、といふ。距離僅に一間ばかりなれど千里を行くの思ひして、容易には思ひ立たれず。やがて思ひ立つて身を起し辛うじて四つ這ひになる。されど左の足は痛みて動かず。左の膝子節の下に「足の蒲団」といふ一尺ばかりの小蒲団を敷きてそのまま一分刻みにずり行く。敷居の難所を越えて、一間の道中恙なく、坐敷の寐床に著く。蒲団の上に這ひ上りて、今度は足を障子に向けて北枕に寐ぬ。珍しき運動に腹俄に減りたる心地して嬉し。母は掃除せんと箒持ちしまま病室の端に彳みて、外をながめながら、上野の運動会の声が聞えるよ、と独り言をいふ。
硯、紙など復枕元に運ばせたれど一間半の旅行に労れて筆を取る勇気も出ねばしばし枕に就く。溲瓶を呼ぶ。足の尖つめたければ湯婆に湯を入れしむ。この頃余の著物はフランネルのシヤツ一枚、フランネルの単衣一枚にて夜も昼も同じ事なり、ただ肩をもたげて仕事などする時はこの上に綿入袢纏一枚を加ふ。今日は暖かなるままに足の上に白毛布一枚を掩ひて着蒲団を用ゐざりしほどに足冷えたれば湯婆を呼びしなり。湯婆を用ゐるは一ヶ月も前よりの事なれば今更珍しきにはあらず。
ややありて頭を擡げ筆を取る。『ホトトギス』募集の週間日記の手入に掛る。前日の仕残りなり。日記は長くて面白きあり短くて面白きあり。あれこれと清書して今度は最長の日記を取りて少しづつ書直す。これは河内の田舎にありて毎日二里の道を小学校へ通ふといふ人の日記なり。何の珍しき事もなけれど朝から夜までの普通の出来事を丁寧に書き現したるためにその人の境遇の詳細に知らるるが面白きなり。殊に小学校の先生といふがなほ面白く感ぜらる。近来小学教員の不足といふ事が新聞に見ゆる度に余は田舎の貧乏村の小学校の先生になりて見たしと思ひ居りし際なれば深く感ぜしならん。ただ惜むべきは学校における授業上の記事少き事なり。土曜日の清書の段の如く他もありたし。この文長ければ学校外の記事をなるべく簡略にせんとて二、三日分を直しかけたれど寐て書く事故少しも捗取らず、右手しびれて堪へ難ければ手を伸ばして左手にて肘を揉む。やがて右手を頬杖に突きて暫く休む。
紅茶を命ず。煎餅二、三枚をかぢり、紅茶をコツプに半杯づつ二杯飲む。昼飯と夕飯との間に、菓物を喰ふかあるいは茶を啜り菓子を喰ふかするは常の事なり。
惘然と休み居る内、ふと今日は十月十五日にして『ホトトギス』募集の一日記事を書くべき日なる事を思ひ出づ。今朝寐覚にはちよつと思ひ出したるがその後今まで全く忘れ居しなり。余も何か書かんと思ひ居し故今日は何事かありしと考ふるに何も書くべき事なし。実に平凡極る日なり。来客も非常に少く、その他家内にも何一つ事も起らぬと見ゆ。猫が鳥籠を襲ふほどの騒ぎは毎日ある事なれどそれも今日はなし。障子に日のかげりたるに最早四時を過ぎたればこの後また人を驚かすほどの新事件起るべくもあらず。何か面白き事はなきかと頬杖のまま正面を見れば正面は一間の床の間にして例の如き飾りつけなり。
この例の如き飾りつけといふは、先づ真中に、極めてきたなき紙表装の墨竹の大幅を掛けあり。この絵の竹は葉少く竿多く、最太い竿は幅五、六寸もあり、蔵沢といふ余と同郷の古人の筆なり。墨色濡ふが如く趣向も善きにや浅井下村中村など諸先生にほめられ、湖村は一ヶ月に幾度来ても来る度にほめて行く。余が家この外に蔵幅なければ三年経ても五年経ても床の間の正面はいつもこの古びたる竹なり。
竹の下、正面に優美な黒塗の春日卓あり。その上に昨日の俳句会の会稿らしき者載せあり。竹と会稿とは共にきたなき処調和すべけれど、卓は竹とも会稿とも調和せず。
床の間の右の隅には西洋料理を運ぶ箱の如き上の方のやや細き箱あり。こは抹茶の器を入れたるままある人の貸しくれたるなり。西洋料理の箱に似たるが変なり。余は抹茶を飲まねど左千夫は毎日十服以上を飲むほどの人なれば同氏来るごとにこの箱をあてがひ置く次第なり。その箱の前に秀真の鋳たる青銅の花瓶の足三つ附きたるありて小き黄菊の蕾を活けあり。すぐその横に、蝋石の俗なる小花瓶に赤菊二枝ばかり挿す。総てこの辺の不調和なる事言語道断なり。
床の間の左の隅の小暗き処には、足のつきたる浅き箱ありて、緑色の美しき剥製の小鳥が一尺ばかりの小枝の上にとまつて居るのが明かに見ゆる外は善く見えず。見えざれど余は固よりこれを知る。この箱に小鳥と共に載せあるは余が今春病床にありて自ら土をこねて造りし三個の宝物なり。第一は四寸ばかりの高さの首なるがこは自分の顔を鏡に写しながら二日を費して捏ねあげし者なれど少しも似ずと人はいふ。第二は右の首の台にもと思ひ五寸ばかりの高さにて円テーブルの如き者を造りそのテーブルの下の台に多くの花と葉を浮彫の如く彫りあり、花は六弁にして何の花ともつかず、葉は牡丹に似たり、こはラムプの下にて一夜に捏ねたる者なりと誇りかにいへば円テーブルはをかしとて人は笑ふ。とにかくに首台には危ければ首は常におろし置くなり。第三は煎茶の湯ざましの一端に蜻蛉をとまらせその尻を曲げて持つ処にしたるなり。蜻蛉の考へつきは面白しなど俗受善きだけ俗な者なり。右の首を焼いてくれずやとかつて秀真に頼みしに、がらんどにしてなければ焼けずといふ。陶器を焼くといふ某女来りし時また頼みしが、焼かぬ方よろしからんとこれもいふ。因つて首は終に焼かぬ事にきめて今に鼠色なり。
これらを載せたる箱の前に五、六寸ほどの真黒なる鳥のやや太き枝にとまりたるあり。これは時鳥なり。ある人鷹狩に行きて鷹に取らせたる時鳥を余のために特に剥製にして贈られしなり。土の首はこの時鳥のために半ば隠れ居るやうなる位置に置かる。
ついでに庭のけしきを見んと、母を呼びて障子を左右にあけしむ。同じ庭ながら病室の前に当る処は雞頭、葉雞頭など今にぎやかに見ゆれど、こちらの方は見るべき花もなきに殊に日もかげりたれば寒さ身にしみて小淋しき様なり。萩は已に刈られ花もなき菊の一本二本ねぢくれたるが杖に扶けられて僅に腰をあげあり。薔薇、朝鮮薔薇は葉大方落ちて返り咲の一輪二輪かすかにほのめく。その後にある一間ばかりの丈の赤松の根元に二枚の板をもたせ置けるあり。こは前日の野分に倒れたるを母などが引き起して仮初の板を置きそれで支へるつもりなり。松に並びて垣根にある桜桃、梅、柿、柘榴などの苗木、殺風景いはん方なし。
鉄網の大鳥籠はここよりは病室にて見ると反対の側を半ば見るなり。鉄網を隔てて雞頭の赤や黄が二、三本見ゆ。鉄網と雞頭、如何に俗なる事ぞ。されどこの内に面白き処もあるなり。
平和なる天気は静かに暮れて少しの風もなけれど感冒を恐れて障子をたてしむ。なほぼんやりと頬杖のままなり。頭脳ややのぼせたる気味なれば、硯箱の中に筆と共に入れられたる験温器を取り出して左の脇に挟む。胴も腕も痩せたれば脇の下うつろとなりて、験温器ゆるく、ややもすれば辷り落ちたるを知らざる事あり。
母、夕飯を運び来る。験温器を検するに卅七度五分なり。膳の上を見わたすに、粥と汁と芋と鮭の酪乾少しと。温き飯の外は粥を喰ふが例なり。汁は「すまし」にて椎茸と蕪菜の上に卵を一つ落しあり。菜は好きなれどこの種の卵は好まず。今夕の飯御馳走不足にて不平の気味なり。母は今来たる雑誌の封を破つて、傍にある『ホトトギス』募集句の山なせる上に置きながら、今度の『明星』は表紙の色が変つた、といふ。余は横目にてちよつと見る、茶色なり。汁をかへよ、といはれて、喰ふて見れば喰へぬほどにもあらねば、かへて喰ふ。芋は、といはれてこれも二皿喰ふ。子芋の煮たてはうまきものなり。粥二碗、汁二椀、芋二皿、鮭の乾肉尽く喰ひつくして膳の上復一物なし。クレオソート三袋。自ら梨一個を剥いで喰ふ。心を噛み皮を吸ふ。
少し休みて日記の手入にかかる。妹、五分心の置ラムプを点じ来る。ややありて発熱の気味あり。筆を投じて仰ぎ臥す。験温器を挟み見るに卅八度一分に上る。此の如きは余にありては高き熱にあらねどこの頃の衰弱はこれほどの熱にも苦められて二、三時間は、うめきつ、もがきつするなり。さりながら卅九度以上の熱にても苦痛にはさほどの差違なし。畢竟苦痛は熱の高低に因るよりも体の強弱に因る事多きか。元気よき時は卅九度の熱ありながら筆を取りて原稿を書く事すらあり。
ふと思ひ出でて仰臥のまま『明星』を取りて見る。一枚一枚あけては表題を見、挿画を見る。ゲーテの死顔の画ある処に到りてしばし注目して見る。画ときの短き文を読む。また一枚一枚あけ行くに蛇口仏心と題して余に関せる一文あり。読む。前号に余が受けたる嘲罵は全く取り消されたり。此度の事は誤報臆測等より出でたる間違ひなれども全体余は世人より嘲罵を受くる値打ありと自ら思ふ。また一枚一枚あけて、あけ終る。
徒に静臥しあらんはかへつて苦しければ、談話して苦痛を紛らさんと、母を呼ぶ。この時妹は銭湯にでも行きたるらし。母は長火鉢の間の襖をあけて入り来り、ラムプの向ふに坐す。先づ、翌の晩の御馳走は何にしよう、と余はいふ。これは左千夫、碧梧桐、虚子、麓の四人を明日の夕刻来てくれと招き置きたる者にて、その用事は、頃日余が企てたる興津へ転居の事今まで遷延して決せざりしを、諸氏と相談の上最後の決定をなさんとするなり。余は前議を取り消して今度は転居中止の議を提出せん心組なり。御馳走てて別に仕様もない、と母の返答。御馳走といふは例の通り何か一つ珍しい者がほしいだけの事なり、この前のやうなおりん饅はいけないが何か菓子でもあるまいか、茶人が多いからわざと西洋菓子にでもしようか、といへば、西洋菓子とは青木堂へ行くのか、それならば今夜行かん明日はとても行く隙なし、と母いふ。今夜てて今から行けるものでない、それなら岡野に何か珍しい菓子はあるまいか、といへば、餅菓子の上等はどうか、といふ。餅菓子の上等、それは余りに平凡なり、と余は笑ふ。それはそれとして膳の上は肴一皿、初茸汁、したし物と定む。したし物にキヤベツはあるまいか、いつかのやうにゆでたやつを牛の油で煮ると非常にうまいが、といへば、母は、牛の油で煮たりしたのでは岡さんが得おたべまい、といふ。得くはぬ処が妙さ、と余いふ。この頃八百徳でキヤベツを見ないからないであらう、といふ話に、なければ何でも善い、といふ事にてこの相談をはる。先ほどより余は左向に寐て、母に背を向けながら話し居たるが相談すみて母は立ちて行く。
また独になりて、今日の日記の事思ひ出す。これ位波瀾なき平和なる日は一ヶ月に二日とはなきに丁度それが日記の日に当りたるは不運なり。しかし余はかつて人に見するにはあらで自分の一日の生活を極めて詳細に書きて見たしと思ひし事あり、その後、志を果さざりしが今この機を利用して今日の記事を書かんには平和なる日こそかへつて自分の境涯を現すに適すべけれ。これを雑誌に載せんは余りに人を馬鹿にしたる事なれどこれを以て消息に代へんには妨げなかるべきか。従来地方の親戚知人より容態を問はるる事しばしばなれど一々詳細の返事もせざるため種々の誤解を来し、あるいは実際の病状よりは重く見て特に虚子抔に手紙を贈りて安否を問はるる事あり、あるいは実際よりは極めて軽く見て、安坐は勿論、多少の歩行位は出来る者として漫遊を促し来り、俳稿その他の添削を頼み来る事あり。これらの誤解を正さんには容体的記事もまた必要なるべきか、などさまざまに思ひ煩ふ。溲瓶を呼ぶ。
先刻来慢性的嘔吐を催す事頻なり。こは殆ど平常の事なれど今夜はやや多量なり。晩飯を喰ひ過ぎたりと見ゆ。
妄想は一転して倫理教育の上に至る。中学以上の生徒に分りきつたる忠孝のお話など何の役にも立たぬ事なり。殊に不道徳なる先生の鹿爪らしき道徳談や、あるいは二、三十円の月給を頂戴してやうやうに中学校の教員となつて校長のお髯を払ふやうな先生が天下丸呑の立志論を述べ立つる抔片腹痛きにも限りあるものなり。今は知らねど余が中学や高等中学に通ふ頃の倫理の先生は必ず漢学者なりしもをかし。こは倫理学は西洋よりも支那が発達し居るといふ訳にや、または漢学者の道徳は西洋学者より高きといふ訳にや。このわけ校長に聞いて見たらば校長も返答に困るなるべし。学生の道徳を高くするは薫陶より外に良法なしと思ふ。されどもし倫理科の先生を置かざるべからずとせば校外に求めてもなるべく名望ある人を聘して講釈でも演説でもさすべし。生徒の軽蔑し居る先生がいくら口を酸くして倫理を説くとも学校内のいたづら者が一人にても減るまじ。今の東京の高等学校にては哲学的の倫理学を説くとか、そは不道徳先生の道徳談に勝ること万々なれど、これまた倫理哲学を教ふるがためにいたづら者の一人にても減るまじきは前同断なり。
妄想また妄想、終に漢字制限論に移る。文部省が尋常小学四年間に教ふべき者として漢字千二、三百を択びたるは一日一字を覚ゆるほどの割合になりて字数の上にてはほぼ適度を得たるべし。されどその字の択び方は当を得たりや否や疑問に属す。余は字引を繰つて普通なる字を片端より抜き出だすなどの方法を取らんよりも、小児の談話を筆記し、その中よりその一人その一家またはその一地方に固有なる語を省き、極めて普通なる者のみを択び、これを標準として教科書を作らば、教へらるる者には記憶しやすくして忘れ難きの利あるべし。たとへば三歳の児童の用語、四歳の児童の用語、乃至、五歳、六歳、七歳とその年齢に従ひて用語表を作らば教科書を作るの参考になるのみならず、児童心理の研究にも裨益する事論なし。はた詩人の眼より見ても興味少きにあらず。
ふと自分が仰のけに臥したる影の大きくなりて襖の上に写りたるを見るに、両膝を立てたる上に毛布を著せたれば、その影はのつぺりしたる山の如く、膝の処にてどんと絶壁をなして急に落ちたり。これをつくづく見る内に、近頃しばしば書く、文章の山の図を思ひ出す。しかも落語的尻きれ的の拙き文章を図に現す時、山の形が、今の膝の影に似たるによりて自分の影をますます面白からず思ふ。
妄想と、寝返りと、口の内にて演説のまねと、今朝来の経過を繰り返して考へ見る事と、二つの扁額、(為山の水絵、不折の油絵)を見つむる事と、これらの中にやうやう苦痛の三、四時間を過ぎて、熱次第にさめかかる。
余は勇気を鼓して右向に直り筆を取る。再び日記の手入にかかるほどに、熱全くさめて、頭脳明瞭に、筆の進むを覚えず。発熱後はいつも頭脳明瞭にして仕事の捗取非常に早ければ昨年頃までは徹夜して為したる仕事多かりしが、翌日苦しき故に今は徹夜する勇気なくなりたり。発熱後一、二時間の仕事にてもその夜は睡眠出来ずして翌日は一日頭悪く仕事も何も出来ぬが例なり。
四隣ひつそりとして音なく、日記の手入次へ次へと移る。母は忽然襖をあけて、煎餅でもやらうか、といふ。これは平生夜仕事の時に何か食ふが例となり居ればかくいふなり。生憎今夜は嘔吐やや烈しかりしために腹具合悪く、食慾なけれど、無下にことわるも如何にて、煎餅より外に何もないか、といへば、今日貰ふたる日光羊羹ありといふ。食意地のきたなさに、それ貰はうか、と答ふ。母は羊羹を持ち来りて小刀にて切る。二切を食ふ。母も食ふ。時計十二時を打つ。
また筆を取る。終に秀真の鋳物日記に到る。これが今度の募集日記の第一等なり。面白く趣味ある材料の充実したる上に、書き方子供らしく真率にして技術家の無邪気なる処善くあらはれたり。書き直すに及ばず。二、三個処字を直して、それにて全く総ての日記の手入終る。嬉し嬉し。
母を呼んで、もう寐る、といふ。妹は湯の労れにて早く寐たりと覚ゆ。母は病室に敷きある蒲団の上に更に毛布を敷きなどす。余は再び病室の方に這ひ戻りて蒲団に上るや否や頭を枕の上に安めて、口の中にて、極楽、といふ。日記の手入すみたるが馬鹿に嬉しきなり。母は余が枕元に背の低き角行燈をともし置き、坐敷の方の硯箱、原稿など片づけて寐に就く。
羊羹のためにや口の中苦し。一時を聴く。
喀痰は一昼夜の分量、二個のコツプに六、七分目づつ位なり。朝殊に多し。血痕をまじへず。
睡眠の時は多く仰臥なり。仰臥も後には背の痛み堪へ難くなればその時は左向に寐ぬ。寐るには右向よりも左向を可とすれど、左向になりては頭を蒲団の上にすりつくるやうにして寐るのみにて、半ば体を起して仕事などする事出来ず。かつ左向は長く続かねば終には仰臥に返るなり。左の足は屈まりて伸びず。故に仰臥の時は左の膝は常に立て居るなり。沐浴せず。時々アルコールにて体を拭ふのみなれどそれも一ヶ月に一、二度位なるべし。但足先の垢はアルコールにて取れねば一ヶ月に一度位脚湯するなり。
斬髪は一ヶ月一度位、床屋を呼び来りて、自分は半ば身を起して居て刈らしむ。
食器抔は余の分と家人の分と別々に取り扱ふなり。来客の分はいふを待たず。
郵便は一日平均三、四通はあるべし。されど『日本』への投書などは家人の取扱に任して余は手も触れねばこの日も何通来りしや知らず。
この日位の熱は平常なり。この頃は筆取らぬ日さへ多ければこの日の如きは多くの仕事をしたる日なり。けだし平日よりは余の気分の善かりしを証するに足る。
底本:「飯待つ間」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年3月18日第1刷発行
2001(平成13)年11月7日第10刷発行
底本の親本:「子規全集 第十二巻」講談社
1975(昭和50)年10月刊
初出:「ホトトギス 第四巻第二号」
1900(明治33)年11月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本では、表題の下に「下谷 子規」と記載されています。
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年9月6日作成
2011年5月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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