病牀苦語
正岡子規
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○この頃は痛さで身動きも出来ず煩悶の余り精神も常に穏やかならんので、毎日二、三服の痲痺剤を飲んで、それでようよう暫時の痲痺的愉快を取って居るような次第である。考え事などは少しも出来ず、新聞をよんでも頭脳が乱れて来るという始末で、書くことは勿論しゃべることさえ順序が立たんのである。それでもだまって居るのは尚更苦しくて日の暮しようがないので、きょうは少ししゃべって見ようと思いついた。例の秩序なしであるから、そのつもりで読んで貰いたい。
○僕も昔は少し気取て居った方で、今のように意気地なしではなかった。一口にいうとやや悟って居る方だと自惚れて居た。ところが病気がだんだん劇しくなる。ただ身体が衰弱するというだけではないので、だんだんに痛みがつのって来る。背中から左の横腹や腰にかけて、あそこやここで更る更る痛んで来る事は地獄で鬼の責めを受けるように、二六時中少しの間断もない。さなくても骨ばかりの痩せた身体に終始痛みが加わるので、僅かの身動きさえならず、苦しいの苦しくないのと、そんなことをいうだけ野暮な位になって来た。始めは客のある時は客の前を憚かって僅に顔をしかめたり、僅に泣声を出す位な事であったが、後にはそれも我慢が出来なくなって来た。友達の前であろうが、知らぬ人の前であろうが、痛い時には、泣く、喚く、怒る、譫言をいう、人を怒りつける、大声あげてあんあんと泣く、したい放題のことをして最早遠慮も何もする余地がなくなって来た。サアこうなって見ると、我ながらあきれたもので、その醜体と来たらば、自分でも想像されるが、側の見る目には如何におかしいであろう。とにかく三十も越えて男一人前に髭まで生えて居るような奴が、声をあげて止度もなしにあんあんと泣く、その泣面と来たらば醜いとも可笑しいとも言いようがないのである。ここに到って昔の我を顧みて見ると、甚だ意気地のない次第、一方から言えば甚だ色気のない次第、コスメチックこそつけた事はないが、昔は髭をひねって一人えらそうに構えたこともある。のろけをいうほどの色話はないが、緑酒紅燈天晴天下一の色男のような心持になったこともある。しかしそれは何だ。色気と野心、我輩を支配して居った所の色気と野心、それは何であるか。ちょっとすれちがいに通って女に顔を見られた時にさえ満面に紅を潮して一人情に堪なかったほどのあどけない色気も、一年一年と薄らいで遂に消え去ってしもうた。昔は一箇の美人が枕頭に座して飯の給仕をしてくれても嬉しいだろうと思うたその美人が、今我が枕頭に座って居ったとすれば我はこれに酬いるに「馬鹿野郎」という肝癪の一言を以てその座を逐払うに止まるであろう。野心、気取り、虚飾、空威張、凡そこれらのものは色気と共に地を払ってしまった。昔自ら悟ったと思うて居たなどは甚だ愚の極であったということがわかった。今まで悟りと思うて居たことが、悟りでなかったということを知っただけがむしろ悟りに近づいた方かもしれん。そう思うて見ると悟りと気取りと感違えして居る人が世の中にも沢山ある。そいつらを皆病気に罹らせて自分のように朝晩地獄の責苦にかけてやったならば、いずれも皆尻尾を出して逃出す連中に相違ない。とにかく自分は余りの苦みに天地も忘れ人間も忘れ野心も色気も忘れてしもうて、もとの生れたままの裸体にかえりかけたのである。諸君は試みにこのような病人となったと思うてどういう心持がするか考えて見給え。
○自分の病気について今一つ他人の多くは誤解して居る事がある。それは死という問題である。死ということを嫌うがため自分が煩悶して居るんだと思うて居る人が多い。しかし今日になっては死を嫌うがために煩悶することは極めて少ないので、むしろ苦痛の甚しいために早く死ねばよいと思う方が多くなって来た。これは経験のない人に話したところがわからん事であるからいうにも及ばぬが、しかし時々この誤解をしられるために甚だ肝癪に障ることがある。宗教家らしい人は自分のために心配してくれていろいろの方法を教えてくれる人があるが、いずれも精神安慰法ともいうべきもので、一口にいえば死を恐れしめない方法である。その好意は謝するに余りあるけれども、見当が違った注意であるから何にもならぬ。今日の我輩は死を恐れて煩悶して居るのでない。それよりも自分に注意を与えるその宗教家などの様子を見ると、かえって何だか不安心なような顔付が見えて居て、あべこべに此方から安心立命の法を教えてでもやりたいと思うのがある。これらは皆死を恐れて居るのである。しかしかくいえばとて自分は全く死を恐れなくなったというわけではない。少し苦痛があるとどうか早く死にたいと思うけれど、その苦痛が少し減じると最早死にたくも何にもない。大概覚悟はして居るけれど、それでも平和な時間が少し余計つづいた時に、ふと死ということを思い出すと、常人と同じように厭な心持になる。人間は実に現金なものであるということを今更に知ることが出来る。
○去年の春であったか、非無という年の若い真宗坊さんが来て談しているうちに、話頭はふと宗教の上に落ちて「君に宗教はいらないでしょう」と坊さんが言い出した。そこで「宗教がいるかいらないかそういう事は知らぬけれど、僕は小供のうちから宗教嫌いで、二十歳前後の頃は、宗教という言葉を聞いても癪に障るほどであった。それは固より宗教を理窟詰にしようという考えであったから、唯物論に傾いていた僕には何だか善くもわからぬ癖に、耶蘇教でも仏教でもただ頭から嫌いで仕方がなかった。それが近年に至って文学上の趣味を楽むようになってから、智識的な事には少しあきが来て、感情に走った結果、宗教上の信仰という事に味いが出て来て、耶蘇教でも仏教でも信仰のある所には愉快な感じが起るようになった。しかしそれは文学上の美感が単に感情の上に立って居って決して理窟を入れないという所から、信仰というものも少し方角は違うがやはりそんなのであるまいかと、推し及ぼしただけの話しであって、今にまだ耶蘇教とか仏教とかの信者になる事は出来ない。それならば哲学上の意見があるかと言うと、そういうむつかしい事は僕にはわからぬ。昔しの哲学者の言うた事などを聞きかじって見ても少しもわからぬ。僕らから見ると哲学者どもの色々言って居る事は、言って居る当人にも本統に分からないのでないかと思う。それで僕はこんなむつかしい事は知らぬが、この宇宙間には原因結果の関係という必然の真理があって、宇宙のものすべて固よりわれわれ人間までも、この真理に支配せられているように思うだけのことである。それも理窟詰に押詰められたならば、固よりその極端に至って答えに窮する事はきまっているが、僕はただそういう事が一番自分にわかりやすいので勝手に信じて居るまでの事である。しかし宗教などで言うように、この世で善をすれば次の世で善報を受けるなどという因果説ではない。勿論今日の人間社会で善には善報ありというような事は全く嘘ではないので、それも因果の一部には相違ないけれども、宇宙に行われて居る因果の道理は単に倫理の上を支配するような簡単なるものではないので、一方には倫理上から或人に幸を与えるような因果の筋道になって居っても、また他の方からは同じ人に不幸を与えるような因果の筋道に成って居る事もあろう。まあそういうような理窟であるから従って僕は人間の意志の自由ということを許さない。右へ行くも左りへ行くも手を動かすも足を動かすも皆な意志の自由である如く思うているけれど、それも意志の自由ではなくて、やはり或る原因から右に行かねばならぬように、または左りに行かねばならぬように、または手足を動かさねばならぬという必然の結果を生じたのである。そういう次第であるから、もし人間の智恵が宇宙にある悉くの現象を一々に極め尽す事の出来るものであったならば、未来の事でも判然とわかってしまう訳である。しかしとてもそういう事は出来る事でなくて、ただ僅かによく未来を想察する事が世の中に立ってエライと言われて居るのだ。しかしそのエライという人も必然の結果で豪らい人に成ったとすれば、ちょうど人間世界にエライ人とエラクナイ人とあるのは、植物に高い木と低い木とがあり、動物に美しい鳥と醜い鳥とがあるのと同じことになってしまう。どうしても僕は小供の時分から今に至るまで唯物説の傾向を脱せぬと見える」と僕は答えた。そうすると坊さんが言うには「今のお話しのうちの意志の自由を打消すという事は吾々の宗旨で平生いう所の他力信心に似て居る」というた。
○おとどしの春黙語氏の世話で或人の庭に捨ててあった大鳥籠をかりて来た。この鳥籠というのは動物園などにあるような土地へ据えるもので、直径が五尺ばかり高さが一丈ばかり、それは金網にかこまれて亜鉛の屋根のついた、円錐形のものである。それを病室のガラス障子の外に据えて数羽の小鳥を入れて見た。その鳥はキンパラという鳥の雄一羽、ジャガタラ雀という鳥の雌一羽、それと鶸の雄一羽とである。前の二匹の鳥は勿論渡り鳥であるが、異種類でありながら、非常に鳥の中が可い。両方で頻りに接吻して居る。ジャガタラ雀がじっとして居ると、キンパラはその頭をかいてやる。よくよく見て居ると、その二羽は全く夫婦となりすまして居る。その後友達がキンカ鳥の番いと、キンパラの雄とを持って来て入れてくれたので籠の中が少し賑やかになった。始めこの鳥籠を据える時に予は庭にあった李の木の五尺ばかりなのを生木のままで籠の中に植えさした。それは一つはとまり木にもなるしまた来年の春花がさいた時に、その花の中を鳥の飛ぶのが、如何にも綺麗であろうと思うたのであるが、小鳥どもはその木の葉を一枚一枚むしって、十日もたたぬうちに、木は葉一枚持たぬ坊主になってしもうたので、予の希望は全くはずれたということを知った。これでは木の枯れることはいうまでもない。この年の秋の頃に鶸の雌が一羽来て頻りに籠のぐるりを飛んで居たのがあったので、それをつかまえて大鳥籠に入れてやった。その後キンカ鳥の雄が死んだので、あとから入れたキンパラの雄でもあろうか、それがキンカ鳥の雌即ち昨今後家になった奴をからかって、到頭夫婦になってしもうた。その後鶸の雌は余り大食するというので憎まれて無慈悲なる妹のためにその籠の中の共同国から追放せられた。またその後ジャガタラ雀が死んだので、亭主になりすまして居った前のキンパラは遂にキンカ鳥の雌に款を通じようとするので、後のキンパラと絶えず争いをして居った。一年間のこの鳥籠の歴史はほぼこういう風の盛衰であったが、その後別に飼うて居った三、四羽のカナリヤをこの籠の中へ入れたので、忽ち病室の外が賑うて来た。大抵な鳥はこの追いこみ籠に入れると、今までよく鳴いて居たものも全く鳴かなくなるのが普通であるが、カナリヤに限っては、この中へ入れても少しも変らずに盛んに鳴き立てて居る。天気のよい時でも、天気のわるい時でも、チャッチャッチャッと朝から鳴き立てて憂いを知らぬ愉快な鳥であると思うて居たが、ことしの春自分の病が段々に勢をまして、遂に精神の煩悶を来すようになって来て、今まで愉快であったカナリヤの声が遽にうるさくなって、それがために朝々寐起きの労れたる頭脳を攪乱せられるようになった。もし出来るなら、この鳥籠を鳥と共に踏みしゃいでしもうて、ガラス窓の光りをましたくなって来た。ところがカナリヤの夫婦は幸いに引取手があって碧梧桐のうちの床の間に置かれて稗よハコベよと内の人に大事がられて居る。残った二、三羽の小鳥は一番いのチャボにかえられて、真白なチャボは黄なカナリヤにかわって、彼の籠を占領して居る。しかるに残酷なる病の神は、それさえも憎むと見えて、朝々一番鶏二番鶏とうたい出す彼の声は、夜もねられずに病牀に煩悶して居る予の頭をいよいよ攪乱するので、遂に四、五人の人夫の手をかけて、彼の鳥籠は病室の外から遠ざけられ、向うの庭の隅に移されてしもうた。朝々の時を告ぐる声は今でもきこえぬではないが、少し距離が遠くなったので、一丁先を往来する汽車の響きほどは頭を悩ましめることが少くなった。二年間の鳥籠の歴史は先ずこんなものであるが、意外な事には前にこの鳥籠を借る事について周旋してもろうた黙語氏はその後すぐ西洋へ往たのであったが、最早二、三ヶ月の中に帰って来られるそうな。あるいは面会が出来るであろうと楽しんで居る。黙語氏が一昨年出立の前に秋草の水画の額を一面餞別に持て来てこまごまと別れを叙した時には、自分は再度黙語氏に逢う事が出来るとは夢にも思わなかったのである。
○去年の夏以来病勢が頓と進んで来て、家内の者は一刻も自分の側を離れる事が出来ぬようになった。殊にこの頃では伊藤、河東、高浜その他の諸子を煩わして一日替りに看病に来てもらうような始末になったので、病人の苦しいことは今更いうまでもないが、看病人の苦しさは一通りでないということを想像すればするほど気の毒で堪らなくなる。勿論看病のしかたは自分の気にくわぬので、口論もしたり喧嘩もしたり、それがために自分は病床に煩悶して生きても死んでも居られんというような場合が少くはないが、それは看病の巧拙のことで、いずれにした所で家族の者の苦しさは察するに余りがあるのである。それだからというて別に彼らを慰めてやる方法もないので困って居た所が、この正月に碧梧桐が近所へ転居して来たので、その妻君や姉君が時々見舞われるのは、内の女どもにとりてはこの上もない慰みになるようになった。殊に三月の末であったか、碧梧桐一家の人が赤羽へ土筆取りに行くので、妹も一所に行くことになった時には予まで嬉しい心持がした。この一行は根岸を出て田端から汽車に乗って、飛鳥山の桜を一見し、(妹は初めて飛鳥山を見たのである)それからあるいて赤羽まで往て、かねて碧梧桐が案内知りたる汽車道に出でて土筆狩を始めたそうな。自分らの郷里では春になると男とも女とも言わず郊外へ出て土筆を取ることを非常の楽しみとして居る習慣がある。この土筆は勿論煮てくうのであるから、東京辺の嫁菜摘みも同じような趣きではあるが、実際はそれにもまして、土筆を摘むという事その事が非常に愉快を感ずることになって居る。それで人々が争うて土筆を取りに出掛けるので郊外一、二里の所には土筆は余り沢山みつからない。ところが東京の近辺ではこれを採るものが極めて少ないためでもあるか、赤羽の土手には十間ほどの間にとても採り尽せないほどの土筆が林立して居ったそうな。妹が帰ったのはまだ日の高いうちであったが、大きな布呂敷に溢れるほどの土筆は、わが目の前に出し広げられた。彼はその土筆の袴をむきながら頻りに一人で何事かしゃべって居る。かような獲物はとてもわが郷里などでは得られる者ではないので、その分量の多きことにおいて、その茎の長きことにおいて、彼は頻りに誇って居る。この短い土筆は、始めのうち取ったので秉さんに笑われたのである、この長い土筆は帰りがけに急いで取ったので、まだそこにはいくらでも残って居た、この土筆は少し延び過ぎて居る、土筆取りには籠を持って行くがよい、残った土筆は誰か取りに行けばよい、こんなに節の長い土筆なら、袴を取るというても誠に世話がない、などとかつ袴をむぎかつ独りごちながら、何となく愉快そうな調子で居る彼を見ると、平生の不愛嬌には似もつかぬ如何にも嬉しそうに見えるので、それを病床から見て居る予は更に嬉しく感じた。
家を出でて土筆摘むのも何年目
病床を三里離れて土筆取
それから更に嬉しかったことは、その次の日曜日にまた碧梧桐が家族と共に向島の花見に行くというので、母が共に行かれたことである。花盛りの休日、向島の雑鬧は思いやられるので、母の上は考えて見ると心配にならんでもなかったが、夕刻には恙なく帰られたので、予は嬉しくて堪らなかった。
内の者の遊山も二年越しに出来たので、予に取っても病苦の中のせめてもの慰みであった。彼らの楽みは即ち予の楽みである。
○二、三年前に不折が使い古しの絵具を貰って、寝て居りながら枕元にある活花盆栽などの写生ということを始めてから、この写生が面白くて堪らないようになった。勿論寝て居ての仕事であるから一寸以上の線を思うように引くことさえ出来ぬので、その拙なさ加減は言うまでもないが、ただ絵具をなすりつけていろいろな色を出して見ることが非常に愉快なので、何か枕元に置けるような、小さな色の美しい材料があればよいがと思うて、そればかり探して居った。ところが去年以来は苦痛が劇しくその上に身体が自由に動かんので殆ど絵をかくことも出来ずよき材料があった時などは非常に不愉快を感じて居た。近頃になっては身体の動きのとれない事は段々甚しくなるが、やや局部の疼痛を感ずることが少くなったので、復た例の写生をして見ようかと思いついてふとそこにあった蔓草の花(この花の本名は知らぬが予の郷里では子供などがタテタテコンポと呼ぶ花である)を書いて見た。それは例の如く板の上に紙を張りつけて置いてモデルの花はその板と共に手に持って居るので、その苦しいことはいうまでもないが、痲痺剤を飲んで痛みが減じて居る時に殆ど仰向になって辛うじて書いて見たのである。二、三年前でさえ線がゆがんだり形が曲ったりとても自由には書けなかったものが、今となっては一層甚しいので、絵具を十分に調和するひまさえなく、少しの間に息せき息せき書いてしもうたのであるから、その拙ないことはいうまでもない。けれども出来上って見ると巧拙にかかわらず何だか嬉しいので、翌日もまた痲痺剤の力をかりてそれに二、三輪の山吹と二輪の椿とを并べて書き添え、一枚の紙をとうとう書き塞げてしもうた。そうして
という一首の歌を書きその横に年月を書き、それで出来上った。このタテタテの花というのは紫色の小さな袋のような花で、その中にある蕊を取ってそれを掌の上に並べ置き、手の脈所のところをトントンと叩くとその小さな蕊が縦に立って掌にひっついて居るのが面白いので、子供の中にこの花を見つけるといつでもこういう遊びをして居たのである。その聯想があるので、この花は昔床しい感じがして予を喜ばしめた。その後碧梧桐が郊外から背の低い菜種の花を引き抜いて来て、その外にいろいろの花なども摘みそえて来た事があった。それでその菜の花を鉢植にして、下草にげんげんを植えて、それも写生して見たが、今度は一層骨折ってこまかく書いて見たので、かえって俗になってしもうた。それから後にまた或夜非常に煩悶してしかたのなかった時にふと思いついて枕元にあったオダマキの花の一枝が一輪ざしに挿してあったのを、今度は墨で輪廓を取って見た。それも苦しいのでその夜はそれを擲ってしもうたが、翌日になって見ると一枝の花を裏と表と両面から書いてあったのがちょっと面白かったので、それに改めてゾンザイな彩色を加えまた別にげんげんの花を二輪と、チンノレイヤという花とを書き添えた。このチンノレイヤという花は紫のようで少し赤みがあって、光沢があって、どうしてもその色をまねることが出来なかった。この一枚もかくの如くしてまた書き塞げてしもうたので、例の通り賛を加えた。その歌は、おだまきの花には
という歌、これは一昨年の春東宮の御慶事があった時に予が鉢植のおだまきを写生して碧梧桐に送り、そのまさに妻を迎えんとするを賀した事があるのを思い出したのである。別にこの花に意味はなかったのであるが、おだまきという名は何とやら恋にちなみのあるような心持がする。それからげんげんの賛は
という歌、これは蕨真がげんげんの花を知らなかったので先日来た時に説明してやった事があるのである。もっとも十年ほど前に予が房総を旅行した時に見分した所でも上総をあるく間は少しもげんげんを見た事がなかったので、この辺には全くないのかと思うたら、房州にはいってからげんげんを見た事を記憶して居る。上総にもげんげんはないではないが、余り多くないという話である。次にチンノレイヤの賛は
という歌、四、五年前にある爺が売りに来て小桜草という花とこの花と二種の鉢植を買って、その時
という句を作ったので今に覚えとるが、綺麗方のこの花はその年きりで枯れてしもうて、ただ小桜草という花ばかりは雪霜にもめげず年々花が咲いて今にその株が残って居る。しかるに思いがけもなく抹茶趣味の左千夫からこの舶来の花を貰うて、再び昔のように小桜草と併べて置かれてあるのが満足であった。
○病牀におけるこの頃の問題はどうして日を送るかという事である。からだの痛みが激しくて少しも止まらぬような時はとにかくその苦しみに紛れて日がたって行くけれど、病に少しでも閑があるという事になるとその時間のつぶしように困ってしまう。ただ静にして居ったばかりでは単に無聊に苦しむというよりも、むしろ厭やな事などを考え出して終日不愉快な事を醸すようになる。それが困るので甚だ我儘な遣り方ではあるが、左千夫、碧梧桐、虚子、鼠骨などいう人を急がしい中から煩わして一日代りに介抱に来てもらう事にした。介抱というても精神を慰めてもらうのであるから、先ずいろいろの話をしてその日を送って行く、その話というのも度々顔を合すようになっては珍らしい事も尽きてしまうので、碧虚両氏と会した時などは『唐詩選』を出して来て詩の評をするような事もあるが、自分や人の俳句を挙げて互に議論するような場合は尚更に多くなる。それがために今まででも互に知り合うていた俳句の標準などもいよいよ精しくわかって来るので、その標準の一致して居る点、一致せん点などについて今更のように新に発明するところがある時もある。それについてつくづくと考えて見るにわれわれの俳句の標準は年月を経るに従っていよいよ一致する点もあるが、またいよいよ遠ざかって行く点もある。むしろその一致して行く処は今日までにほぼ一致してしもうて、今日以後はだんだんに遠ざかって行く方の傾向が多いのではあるまいかと思われる。それは俳句には限らぬが、総ての技芸について見ても、始めの稚い時は同一の団体に属して居るものはほぼ同一の径路をたどって行く。例ば書方を学ぶにしても同じ先生の弟子は十人が十人全く同じような字を書いて居るが、だんだん年をとって経験を積み一個の見識が出来るに従って自ら各の持前の特色が現われて来て、ようように字風が違って来ると同じ事に俳句でも或点まで一致した後は他人の真似をするという事よりも自己の特色を発揮するという事が主になって従てその句風が違って来るに違いない。古来の歴史を見てもどうしてもそうなるべきはずであると考える。芭蕉の弟子に芭蕉のような人がなく、其角の弟子に其角のような人が出ないばかりでなく、殆ど凡ての俳人は殆ど皆独り独りに違って居る。それが必然であるのみならず、その違って居る処が今日のわれわれから見ても面白いと思うのである。現にこの頃の『ホトトギス』で遣って居るように三、四人の選者で同じ句を選んで見たところで、決して同じ句を選ぶものはない。そのような事を度々繰りかえして見たところで、それがためにだんだん三、四人の選者の標準が近くなって来るというような傾向も見えぬ。この現象は三年たっても五年たっても少しも変る事はあるまいと思う。また変らせる必要もないと思う。
○こういうように毎日集まって話をして居る内には自ら俳友仲間の評判なども常に出るので、それがために前々号に挙げた『俳諧評判記』のような者も出来た次第である。ただあの文章はいくらか書き様に善くない処があって徒らに人を罵詈したように聞こえたのは甚だ面白くなかった。しかし仲間同志の悪口をいうたという事については、予は何処までも責任を帯びておる。元来悪口をつく事は善くない事であるが、去りとて陰でばかり悪口をついておるのはなお善くないと思う。其処で悪口は悪口としてさらけ出して見たのは善いが、そうなるとまた弊害の出来る事もないではない。其処で匿名などでなく自分一個の意見を爰に現わして見ようならば先ず次の通りである。
碧梧桐の句はいつもいくらかずつ変化しておる。これは碧梧桐の碧梧桐たる所以で感心する外はないが、しかしその変化が善い事も悪い事もあるのはいうまでもない。ただその弊はいつも常理に闕げる事が多い処にあるように見える。即感情任せに句を作って少しも理窟を顧みないというような処が多い。今少し理窟的に研究して貰いたいと思う。
虚子の句は沢山も見んのでよくわからぬが、商売に身が入って句が下手になったなどという悪口はもとより一座の滑稽話しに過ぎないとしてもとにかく一方に注意すれば他の一方に不注意になるという事は人間に免れぬ事であるから、その点については虚子も一応自ら顧ねばならぬと思う。その後は特に俳句のために気焔を吐いて病牀でしばしばその俳句を評論する機会も多くなったが、さてその句はどうかというと、或鋳型の中に一定したという事はないために善いと思う事もあり悪いと思う事もあり、老成だと思う事もあり初心だと思う事もあり、しっかりとつかまえる事が出来んから、更に他日を待って詳論するであろう。
露月はよほどわかりかけていてまだ少しわからぬ処がある。真面目な雅致のある方の句はわかって居るが微細な点に意を注いだ句の味は少しわかりかねるようである。いわば元禄趣味はよくわかって居るが天明趣味の句はまだわからない処がある。天明趣味の句はよくわかって居るが明治趣味の句はまだわかって居らん処がある。それに気が附かないで独悟ったつもりになって後輩を軽蔑して居ると思わぬ不覚を取る事がないとも限らぬ。現にその選句を見ても時として極めて幼稚なる句あるいは時として月並調に近い句でさえも取ってある事がある。今少し進歩的研究的の精神が必要である。
青々の句はしっかりして居って或点で縦横自在であるが、時としてあまり自己の好む処に偏してへんてこな句を選みどうかすると極めて初心なる句を誤認して、極めて老成なる句となすような事がないでもない。これも真面目な強い方の句には誤りは少ないが軟かい方の句には誤りが多いかと思われる。露月とは趣を異にしているけれどやはり微細なる趣向における趣味を充分に会得しないように思われる。
格堂の句は旨い事は実に旨いものであるが、その句法が一本筋であるだけにいくらか変化に乏しい処がある。
このほか鳴雪、四方太、紅緑、等諸氏の句については近来見る処が少ないのでわざと評を省いて置く。
底本:「飯待つ間」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年3月18日第1刷発行
2001(平成13)年11月7日第10刷発行
底本の親本:「子規全集 第十二巻」講談社
1975(昭和50)年10月刊
初出:「ホトトギス 第五巻第七号」
1902(明治35)年4月20日
「ホトトギス 第五巻第八号」
1902(明治35)年5月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では、表題の下に「子規 口述」と記載されています。
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年9月6日作成
2011年5月16日修正
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