徒歩旅行を読む
正岡子規
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紀行文をどう書いたら善いかという事は紀行の目的によって違う。しかし大概な紀行は純粋の美文的に書くものでなくてもやはり出来るだけ面白く書こうとする即美文的に書こうとする、故に先ず面白く書くという事はその紀行全部の目的でなくても少くも目的の五分は必ずこれであると極めて置いて、さてその外の五分は人によって種々雑多に書かれて居る事である。一、二の例をいうて見ると、山水の景勝を書くのを目的としたものや、地理地形を書くことを目的としたものや、風俗習慣を書くことを目的としたものや、あるいはその地の政治経済教育の有様より物産に至るまで細かに記する事を目的としたもの、あるいは個人的に旅行の里程、車馬の賃、宿泊料などの事を一々に記したもの、あるいは記事の方は極めて簡略に書いて、ただ文章を飾る事を務めたもの、などいろいろある。しかるに楽天の徒歩旅行というのはあるいは政治経済の事より教育の事、工業の事を記し、あるいは旅行里程宿泊料等個人的のものをも記し、あるいは衣服飲食などを論じて菓子の品評さえする事もある。その目的は実に複雑であって、そうして一日の記事を凡そ新聞の一欄位に書きつめてしまわねばならぬので、普通の者ならばとてもこの目的を達する事は困難であるべきのを楽天は平気で遣ってのけて居る。よし辛うじてこの目的を達したところで最早その上に面白く書くという余地はないはずであるが、楽天の紀行は毎日必ず面白い処が一、二個処は存じて居る。これが始めに徒歩旅行を見た時に余が驚嘆して措かなかった所以である。つまり徒歩旅行は必要と面白味とを兼ね備えたもので、新聞記者の紀行としては理想の極点に達したというても善い位であると思う。
去年この紀行が『二六新報』に出た時は炎天の候であって、余は病牀にあって病気と暑さとの夾み撃ちに遇うてただ煩悶を極めて居る時であったが、毎日この紀行を読む事は楽しみの一つであった。あるいは山を踰え谿に沿いあるいは吹き通しの涼しき酒亭に御馳走を食べたなどと書いてあるのを見ると、いくらか自分も暑さを忘れると同時にまたその羨ましさはいうまでもない。殊にこの紀行を見ると毎日西瓜何銭という記事があるのを見てこの記者の西瓜好きなるに驚いたというよりもむしろ西瓜好きなる余自身は三尺の垂涎を禁ずる事が出来なかった。毎日西瓜の切売を食うような楽みは行脚的旅行の一大利得である。
夏時の旅行は余もしばしばやった事があるが、旅行しながら毎日文章を書いて新聞社に送るという事はよほど苦しい事である。一日の炎天を草鞋の埃りにまぶれながら歩いてようよう宿屋に着いた時はただ労れに労れて何も仕事などの出来る者ではない。風呂に入って汗を流し座敷に帰って足を延べた時は生き返ったようであるが、同時に草臥れが出てしもうて最早筆を採る勇気はない。其処でその夜は寐てしもうて翌朝になって文章を書いて新聞社に送って置く。そうして宿屋を出る時は最早九時にも十時にもなって居る事があって詰り朝の涼い間をかえって宿屋で費し暑い盛りを歩かねばならぬような事になる。それは恐らく実験のない人には気の附かぬ事である。
余は行脚的旅行は多少の経験があるが、しかしこの紀行にあるように各地で歓迎などを受ける旅行はまだした事がない。毎日毎日歓迎を受けるのは楽しい者であるか苦しい者であるか余にはわからぬが時としてはうるさい事もあるであろう。けれども一日の旅行を終りて草臥れ直しの晩酌に美酒佳肴山の如く、あるいは赤襟赤裾の人さえも交りてもてなされるのは満更悪い事もあるまい。しかしこの記者の目的は美人に非ず、酒に非ず、談話に非ず、ただ一意大食にある事は甚だ余の賛成を表する所である。
この紀行が『二六新報』に出た時には三種の紀行が同時に同新報の上に載せられた。その内で世間の評判を聞くと血達磨の九州旅行が最も受けが善くて、この徒歩旅行は最も受けが悪いようであった。しかしそんな評は固より当てにならぬ。むしろ排斥せられたのがこの紀行の旨い所以ではあるまいか。血達磨の紀行には時として人を驚かすような奇語奇文奇行がないではないが、惜しい事には文字に不穏当な処が多い。殊にその豪傑志士を気取る処は俗受けのする処であってその実その紀行の大欠点である。某の東北徒歩旅行は始めよりこの徒歩旅行と両々相対して載せられた者であったが、その文章は全く幼稚で別に評するほどのものではなかった。独り楽天の文は既に老熟の境に達して居てことさらに人を驚かすような新文字もないけれどそれでありながらまた人を倦まさないように処々に多少諧謔を弄して山を作って居る。実に軽妙の筆、老錬の文というべきである。固より他の紀行と同日に論ずべきものでないのみならず、凡そこれほどの紀行はちょっとこの頃見た事がないように思う。ただ傍人より見れば新聞取次店または地方歓迎者の名前を一々列記したるだけはややうるさい感があるが、それはこの紀行の目的の一部であるから固より記者を責むべきものではない。むしろかかる紀行の中へかかる世俗的な目的をも加えしかも充分に成功したる楽天の手腕には驚かざるを得ない。
底本:「飯待つ間」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年3月18日第1刷発行
2001(平成13)年11月7日第10刷発行
底本の親本:「子規全集 第十二巻」講談社
1975(昭和50)年10月刊
初出:「徒歩旅行」俳書堂
1902(明治35)年7月9日刊
※底本では、表題の下に「子規子」と記載されています。
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年5月19日作成
2011年5月12日修正
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