蓮月焼
服部之総
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蓮月尼の陶器には、にせものが多い。にせものとほんものを見わけるのは、急須なり茶わんなりに書きこんである彼女の自作の歌の文字の味で、判断するのである。文字ばかりはどんなにたくみに真似ても、まねきれるものでないといわれるが、ことに蓮月尼の陶器のばあいのように、素焼の肌につまようじかなにかで書き流したあとのうつくしさは、たとえようのないニュアンスをもってにせものの追随をゆるさない。
にせものという言葉は、しかし、蓮月焼のばあいではあたっていないこともある。蓮月の筆致で書きつける蓮月焼は、今日でも、思いがけぬ地方でつくられている。先年も、山形県の温海温泉で、それを求めたことがある。安くて、それはそれなりに、筆のあともうるわしくたのしいのである。だが、最初からにせものつくりの意図をもって書かれたものは、どんなに上手に似せてあっても、よく見るうちにどことなく下品な陰がさしてきて、いやになるものだ。
蓮月尼は、幕末維新の京都に知られていたから、そのころの有名人をことごとく尊王派にせずにはおかぬ風潮が、いつか彼女を「尊王歌人」ということにしているらしいが、彼女について最もはやく書かれたものと思われる林長孺の紀文では「烈婦蓮月」となっていて、漢文を書きほぐしてみると、いまだその姓氏を詳にせず、京師の買人某の妻なり。姿儀うるわしく性聡慧。文墨を習い、和歌を能くし、また陶を善くす。家貧にして夫病み、自ら給するあたわず。烈婦べつに小店を開き、茶を煮て客に供し以て夫を養う。いくばくもなく夫死し、寡居みずから守る云々というもので、要するに、夫を養い後家をとおした烈婦だというにある。
彼女の父は太田垣伝右衛門光古と名乗る知恩院の寺侍で、一人むすめの彼女──名はせい──に、彦根の近藤某を婿にとって男女四児あったがみな早世してやがて婿も死んだ。思うに彦根の近藤家が商家であって、婿の某は養父の職は継がず、習いおぼえた商売でもしたのが、林長孺の「京都の買人某の妻なり」とあるゆえんかもしれぬ。
夫の没後出家して蓮月尼と号したのが、二十歳ごろのことだというから、文化八、九年のことになる。父光古は蓮月尼が四十になる天保初年まで生きている。和歌は千種有功に学び、陶器をつくって自作の歌を描き、いわゆる蓮月焼を世人から珍重されるようになるのは、父にわかれて、いよいよ独り者の身軽なきょうがいになってからのちのことである。
「都辺の陶工これを模造して利を得る者また少なからず──と『大日本人名辞書』は叙している──而して陶器は模しうれども筆跡は模すべからず、相ともに尼に謁して某の如何せば可ならんを問ふ。尼すなはち陶を作らしめて躬ら歌を題して与ふ。蓋し尼の製陶を模する者数十名、ために糊口を得るは尼の悦ぶところなり。また国々より上京する者詠歌を乞ふの繁なるを厭ひて、家居を定めず、遂に西加茂なる神光院の茶所に住へり、故に都人呼んで屋越の蓮月といへり。」
これで見ると、一目でにせものとわかるみすぼらしい似せ字の蓮月焼は、かえって時代が古く、にせものつくりの陶工たちが、蓮月焼と提携するまえの作品から成っていると思われる。蓮月没後のにせものは、一寸目では判じきれぬほど巧者に似せてあったり、さきにも述べた近頃の作品のように、流れを汲んでおのずからよろしいのもあるというふうである。
それにしても、にせものつくりたちと提携して、数十名にうつわをつくらせて、歌だけを自分で書きこんでゆく蓮月尼は、どんな契約でそれをつづけたかはわからないが、注文によらない大量生産的商品生産者であって、ただの手工業者でない。女流作家にしても、このわたしにしても、雑誌社の注文原稿を原稿紙にこつこつと書いてゆくありかたは、この民主主義的資本主義日本の昭代における立派な手工業者の範疇にぞくしているのだが、女流作家で風俗雑誌の経営者になったような人々は、天保年間の蓮月尼において立派な先輩を見出すわけである。
明治元年彼女は七十八歳だった勘定になる。西加茂神光院の茶所にずっと住っている。いまはそこで、蓮月尼の絵はがきを買うことが出来る。
明治八年といえば八十五歳になる。まだれいのやりかたで蓮月焼はつくっていたらしい。その八月十八日の『東京曙新聞』に、つぎのような記事がある。
「昨十七日の読売新聞に西京の蓮月尼の宅へ近頃泥坊の這入った事が書いてありますがこの尼さんの風流好きで歌が上手のうえに、手作の瀬戸細工に名の高い技は新聞にある通り、皆さん御承知の事でございますが、西京の人から本社へ知らせてきました所は少々事実が違っています。どちらがうそかほんとうかその段においては分りませんが、皆さん御見合せのために知らせのままにかき載せます。さてその泥坊が尼さんに金を借してくれよというに、少しも騒がず手箪笥の中から一包の金(百円包のよし)を取出し与えますと、泥坊はこれほどまでとは思いもよらず肝をつぶした様子なりしが、なおも大胆に今度は腹がすいたから茶漬の御馳走になりたいといい出したので、わたしはひとり暮しだから余分の御膳は焚きませんと、食い残りの御鉢をやるに、泥坊たちまち食い尽して、これでは少し足らない、なんぞ外に食いものがありませんかと不足をいうにぞ、昨日とか今日とか貰いし麦粉菓子を出しましたれば、泥坊は食い掛けながら気絶してどっさりその場に倒れたれば、尼さんはこれにびっくりしてうろつき廻り介抱するうち、近所の人も寄集りしに、泥坊は早死に切っておりました。この一件で麦粉菓子の由来を御上からお調べになりました所が、尼さんに金三百円借りている人よりの進物なることが分りました。泥坊もこわいけれども、毒殺はまた一層こわいではございませんか、あまり奇妙なことゆえ御知せ申すというてよこした」。
この記事の調子には、風流できこえている老蓮月尼を、単に金をためているという一事だけで、三面記事的にあばこうとする人情が見える。それはけっして、新聞記者にかぎるくせではなくて、読者としての日本人にいまでも消え去っていないものの見方でもある。文人は文人、金貸しは金貸しと、何でも一つの範疇に他人をおさめてしまわぬことにはおさまらぬ。そのくせ自分だけは、けっしてしかく割切れてはいないのである。小ブルジョアジーが分解して、大量のプロレタリアートとごく少数のブルジョアジーに自己を形成してゆく。万年雪がとけて流れるように、この分解の行程が、明治のはじめから今日まで、ある時は急に他の時は徐々に、とめどなく進行している。
足の底から分解しつつある自己にとってはなにやら無気味で苛だたしいリズムがきこえるだけで、親のかたきの金持ちの道への、はらだちだけがとめどなく湧く。そうした小ブルジョアかたぎの筆の先にのぼった蓮月尼は、泥坊以上のさいなんに逢ったというものである。
蓮月尼は、この記事が出てから四月ほどのち、明治八年十二月十日に、八十五で死んでいる。彼女のような経歴のもちぬしによくあるように、たぶん前の日まで、蓮月焼に歌を書きこんでいたのかも知れぬ。彼女の四十年間にわたる大量生産のおかげで、にせものでない蓮月焼の一つが、わたしの手もとにも存在する。瀬戸の手づくりのせん茶の急須で、茶わんはなく、急須一つある。蓋をのぞけば内側にうわぐすりがにぶく光っており、外側も蓋も素焼である。蓋の把手は葉を二枚つけた桃の実で、すべて陶工の作品であろうが、胴いちめんに巧みな配合で書かれている和歌と署名は、まぎれない蓮月尼じしんのものである。
とあって、これを書きこむときにのこったらしい指紋さえ、いくつか歴々とみえるのである。
底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
1973(昭和48)~1975(昭和50)年
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年7月18日作成
2011年4月4日修正
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