志士と経済
服部之総
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幕末に取材する大衆文芸は一部志士文芸(?)でもあるが、志士活動の基底にどんな社会経済が横たわっているのかはっきりしないものが多い。股旅物、三尺物の主人公が何で食っているかはいかにもはっきりしているが一歩すすんで、彼らの生活の物質的な地盤となっている社会経済──いわゆる旦那衆を構成する特定社会層の本質となると描かれていることがもう稀だ。筋の波瀾と離合のからくりが、いつかつくりばなしめいて感じられ、現実性と迫力を失ってしまう一半の原因は、そこらへんからくるのではあるまいか。
本来、志士なるものが大量的に登場するのは、安政以来のことで、万延・文久度のほうはいたる行動期となって、真木和泉『義挙三策』に見るように、みずから「義徒」と呼んだ。もとよりさまざまな出身で、一概にいえぬが、大量的支配的な現象として、無位無官「草莽」志士の地盤には、全国諸地方の新興産業商業の勢力が、脈々として息づいている。
この謂は、ことに初期の志士その人が多く文人学士で、時にひどい貧乏に耐えていた事態と、べつに背馳するわけでない。無産者運動の草分が小ブルジョア層から出たように究局は社会的な深い矛盾が、諸個人の思想と行動を乗せてゆくので、貧乏かくごで藩権にも幕権にもあえて屈しようとせぬ面魂が、そもそも物をいっているのである。
妻は病牀に臥し児は飢に号くと詠った梅田雲浜の貧乏は一通りのものではなかった。姪の矢部登美子に雲浜みずから述懐した話というのに、信子が嫁にきた時分(弘化元年雲浜三十四歳)、自分はこの京都にある藩校望楠軒で講主をしていたが、赤貧洗うがごとくで、妻帯なぞは思いもよらぬ。かたく断わったが、立斎先生(上原立斎)は娘をどうでも貰ってくれといって、他に許婚までしてあったのを破約して無理やり信子を押付けてしまった。むろん信子が才色兼備の女だとは、かねて知っていたものの、まだ二十歳に足らぬ女で、どうするだろうと危ぶんでおった。そのうちに長女竹子をあげる(弘化三年)、家はますます貧乏になる、たった二畳敷の浪宅に親子三人が、日に一食か二食で暮せるうちはまだしもよかったが、後にはそれさえ窮して、『大日本史』数葉を書写して門人の鳴尾(順造)に二朱で売ってやっと粥を炊いて凌いだこともあった。信子は辛がりもせず、事足らぬ住居なれども住まれけりわれを慰む君あればこそ、などと詠み、いじらしい心根であったと、暗然として亡妻をしのんだ。
雲浜が藩の忌諱にふれて素浪人になったのは嘉永五年でこの年長女竹子についで長男繁太郎が生れ、おまけに雲浜自身病気あがりで、どうにも凌ぎがつかぬところから、一時洛西高雄に引移ってかねて覚えのある医者の看板を出したが、内外情勢を見てじっとしておれず、江戸、水戸、郷里福井に遊説し、れいの臥床号飢の訣別詩を賦して十津川郷士の一隊を連れ大阪湾のプチャーチン乗艦に当ろうとした頃(安政元年)は、もう押しも押されもせぬ一派の首領だった。訣別詩が語るように以前にまさる窮乏状態で、福井遊説の旅費も、藩士中の同志数輩へあてて「大困窮進退是れ谷まり、一歩も動き候事も出来がたく候、毎々恐れ入り候事に候らへども」と手紙を書いている。
訣別詩といえば吉田松陰に、「報国精忠十八歳。毀レ家貧士二十金」というのがある。これは安政六年のはじめ、長藩主の参府を伏見に要して尊攘の機を掴もうといういわゆる要駕策決行のため、門人野村和作が、家禄を売って二十両を得、これを旅費として脱走するのにはなむけた詩である。この詩を贈る松陰にもとより金のあろうはずもない。時局不安の潮流は一見寒儒貧士によって代表され、富商富農層の動きなどおよそ認められそうもないのだが……。
事実また志士の一半は藩士なかんずく軽士層から供給された。松陰門下には野村和作だけでなく貧乏な軽士が多くいた。藩医の家柄の久坂玄瑞などはわりにいい方だが、文久二年三月、同志とともに脱藩してでも伏見挙兵に加わろうと準備最中の日記に、「金の一条には大困窮、英雄もこれには閉口なり呵々々」と書いて、その翌日、『リセランド窮理書』二巻と『グール小児書』二巻を抵当に知合の医者から五両借りた。一定俸禄に衣食する貧乏軽士に開港後の物価騰貴がことさらこたえて、ために攘夷論が流行したという説は、『徳川慶喜公伝』で渋沢栄一説くところであり、総じて経済過程に留意する近来の維新史家たちに卓見として同意を表する向もあるがあんまりそれでは穿ち過ぎて、経済ことに消費経済と志士の生命がけの政治とが薄っぺらな紙一枚の同似性となり、矛盾ぬきの政治観となり、どうかと思われる。
もっとも、そうした「志士」もいるにはいた。いつか田中貢太郎氏の小説で一役ふられているのを読んだようにも覚えているが、元治元年の秋鎌倉で英国士官バルドウィン少佐、バード中尉の両名を殺した清水清次、間宮一の一件が当時のスイス領事ロバート・リンダウの手記となっているのを読むと、「シミズ・セイイチ」(二十五歳)は親譲りの青森浪人で仙台の裏長屋に父親が窮死して後方々に仕官の伝手を求めたが、外国貿易以来諸物価騰貴し、支出は嵩み、殿様の借銭は殖えるばかりという情態ゆえ、とうてい新規御召抱は駄目だろうと相手にされない。攘夷戦争をおっ始めた長崎ならきっと仕官もできるだろうと、はるばる出かけてみれば馬関戦争に一敗したところで、仕官どころのさたでない。江戸に引返して人夫稼ぎで暮していると、一日江戸の商家から横浜まで荷物を運んで、夷人跳梁の有様をつぶさに見た。その後同じようなルンペン浪士と知り合って、夷人斬りの計画を立て資金百五十両を強盗して、決行したとある。
清水清次に関する記録は、他にもいろいろあって、水戸浪人に繰られたとするのもあるが、元治ももう秋の終りで、筑波も破れ長州も逼そくし、あらゆる点から見てバルドウィン殺しの背後に当年尊攘正統派の政治的な息がかかっていたろうとは考えられない。むしろリンダウ手記そのままの見方に、はるかに多くの妥当性が認められる。
ところで、安政三、四年以後の雲浜は、もう何らの「寒儒」でもない。大獄の第一犠牲として彼が捕縛された時の住宅は、烏丸御池にあったが、近所に劉石舟という詩人が住んでいて、その孫の話に、当時雲浜の収入はよほどあるものと見え、暮し向き裕かで、訪客絶えず、槍長刀大鳥毛の供触れをした客すら見受ける。客には常に酒肴を供し、時に舞妓を召んで大騒ぎもし、日常生活はむしろ贅沢だったとある。先妻信子のいじらしさを、秘かに姪の前でもらしたのもこの頃であったろう。
近所では長州から金が来るのだと噂をし、かかわり合いになるのを怖れて小心な劉石舟は旅に出たほどだが、雲浜が名うての貧乏を一躍放棄できたのは、けっして噂のごとく何らか秘密な、陰謀政治的な収入によるものではなかった。それどころかなかんずく公正な、産業利潤にそれは源泉した。門人行方千三郎は安政四年の雲浜を叙して「時に梅田は昔日の貧儒にあらず、大和と長州との物産を交易し、経済の途を開き、大いに為す所あらんと欲し、門戸を張って天下の有志を待てり」と書いているが、安政三年の秋以来、雲浜が国事奔走にあわせて諸地方新興産業のための内地市場開拓──内地貿易のあっせんに尽したことは、京阪地方と長州、大和と長州、大和と北陸筋まで、諸方面にわたった。しかもそれは、けっして偶然でなかった。
雲浜が物産貿易の方面へいよいよ乗出したのは、安政三年秋からだったが、それ以前の貧儒時代から、彼には幾人かの地方産商業家の門弟知友があった。たとえば洛外川島村の門弟山口薫次郎は郷士で豪農でまた商人であり、大津時代には豪商鍵屋五兵衛が門人になっており、大和五条の木綿問屋下辻又七とも盟友、備中連島の名家で豪農で豪商だった三宅定太郎とは安政三年春以来兄弟盃の間柄、等々といったふう。こうした関係が何も雲浜固有の持味や性癖に基づくものでなく、かえって一つの時代的、必然的な土台から生起していることは、当年思想家のすべてについて多かれ少なかれ同様のことが見出され、京都の雲浜、大和五条の森田節斎、讃岐琴平の日柳燕石(これは思想家で博徒の親分だった)、江戸の大橋訥庵らいくらでも挙げられる。また、当時批判的諸思想が、国学派といわず、王道派といわず、最も自然で最も深い河床を諸地方の富農=商層の間に見出していった事実は、先駆的諸思想そのものがそもそも支配的には町人自身を土台として発生した事実にあわせて、徳川末期以降の思想史が示すところでもあり、幕末のほうはいたる行動期が実証している。藤村の『夜明け前』はこの見地からみて深い興味があり、文学的なだけでなく文献的な価値さえもつと思われる。
それはさておき、雲浜の偉大な功績は、諸思想とその社会的土台のこのような自然発生的な関係に、はじめて政治的表現を与え、広汎な組織をつくり出したことである。彼がつくりあげた組織はたんに思想的政治的グループでなく、安政三年以後はさらに土台的な、生産経済の領域に及んだのである。その創意が自らいうごとく雲浜自身に出たか──安政五年三月二十二日付、長藩家老浦靭負家来赤根忠右衛門宛の雲浜書翰に、「然るに此度御物産の起りは、下拙一人の胸中より出づる事にて、御世話方の者残らず下拙の親類門人の者にて候へば、何事も皆今日は下拙に相談の上にて事を取計ひ居る事に候云々」──それとも門生知己産商業家の発案に成ったか、どちらでもいい。いずれにせよ産物交易は、雲浜が長藩当路へ説きつけた論理に従うと、「他日御国(長州)天朝を御守護され候基本と相成るべき」もので、他日の政治的行動の端緒であり、京摂と長州が気脈を通じるための機関であり、物的根底たるべきものであるとした。
このプランを抱いて安政三年冬大阪から海路長州に入るときの旅費三十両は備中の三宅定太郎が出した。長藩当路も承諾したから、翌春萩から博多へ渡って薩藩亡命北条右門だの、平野国臣だの同志と逢い、帰京後京都の山口薫次郎、小泉仁左衛門、松坂屋清兵衛、大和の豪家村島長兵衛父子、その分家で雲浜の後妻千代の実家村島内蔵進、医者の乾十郎、木綿問屋の下辻又七、肥後の松田重助、前記備中の三宅定太郎その他と協議してことを運び、一方長州藩は京都藩邸留守居宍戸九郎兵衛を物産取組内用掛に任じ、大阪に販売所を設け長州から蝋、半紙、塩、干魚、米を山城丹波大和諸州へ、京阪および大和から呉服類、小間物、菜種などを長州方面へ、相互に販路を開拓することとなって、雲浜処刑後も継続した。
安政四年十月四日付、雲浜から大和五条下辻又七への手紙でみると、さらに郷藩若州の産物方へ連絡をとって、大和方面の菜種や木綿の新市場を北陸一帯から蝦夷方面まで拡げる計画を企てている。『天誅組の研究』の著者は「幕末の五条と勤王志士」の章中この手紙を採録して、「右の如き一束は果して菜種書付等の文字をそのまま解すべきや、はた当時志士等の符号の類なりしや解する能はざるものなり」と記しているが、凝って思案に余ったのだろう。松陰なども雲浜のこの方面の仕事の意義はついに了解しなかったと見えて、貧儒時代の雲浜については、「京師人梅田源二郎……是は清献遺言にて固めたる男。好二人物之鑑一、好二切直之言一亦事情にも通じたる所有り。但酒徒也」(安政二年二月、野山獄中より久保清太郎への書翰)と推薦しているが、後になるとすっかり評価が変って、当の雲浜と連座投獄された最後の江戸獄中から書いた『留魂録』のなかでは、梅田が先年、先に記した産物交易問題のため長州へ下った節、これと何か不穏のことを密議したろうという当局の訊問に言及して、「夫梅田は素より奸猾なれば余与に志を語ることを欲せざる所なり何の密議をかなさんや」と記している。
結局雲浜のほうが、松陰よりは、当年の政治家としてはるか上にいたこととなろう。両人の死後、万延、文久の行動期を迎えて、松門遺弟は全力を挙げ活躍するが──『リセランド窮理書』を資金五両に替えて不如意を嘆じた玄瑞などもやがて脱藩の要もなく藩論を握り、祇園町に美声と智謀を謳われる身分となるのは、一面前出宍戸九郎兵衛、周布政之助、桂小五郎といった一連の近代的政策力をもつ建設派新官僚の支持によるが、他面──むしろ決定的に──全国「草莽義徒」の組織された圧力を代表することができたからである。ところで、すでに見たごとく雲浜こそ、圧力の最も根底的な組織者だった。雲浜の時代はまだ「討幕」を、現前の綱領としては出さなかったのに、彼が組織したこの圧力はすぐさまそれをあえてするまで、矗々として生長した。
戊午大獄の大弾圧も、雲浜が組織した社会的勢力の礎石部分には、手も触れなかった。後年の「大」西郷が心萎えて月照を抱いて入水するほど、しかく絶望的な大反動期だったが、この入水に立会った朗らかな志士平野国臣は、月照遺品を携えて京都に潜行するや、とたんに、この基礎的組織網の一端をたぐって、するすると安全な地下殿堂にもぐりこんだ。洛西の山口薫次郎から旅費を貰い、評判の惣髪を奴びんに剃り落して商人に化け、備中連島の三宅定太郎を頼って、さしづめ別宅の鉄物店に番頭と称して居ることになったがその後一年ばかり、本人手記によると、「商賈に変じ、陶朱公たらんと欲し、屡々利貨を失ふ」。雲浜にくらべるとはるかに単純な、純情家だったから、案外本気で陶朱公たらんと欲したらしい。主観はどうでも、結果として国臣も雲浜同様、諸地方産商業家をより広い組織とより激しい政治戦線に、やがて駆り立てることとなった。
備中連島は旗本山崎家の知行所五千石の一部で、三宅定太郎はこの地方きっての旧家、児島高徳の後裔と称し、六十余町歩の田地を持ち、山崎家の民政顧問格におり、これら地主的資格の他面では、同時にさまざまの産商業を経営して新興資本家としての性質を具えた。雲浜の長州貿易にも参画して三宅はこの地方の綿を長州に輸出し、数多の取引を重ねたがこれは失敗に帰した。そこで国臣が雲浜張りで立案した新規のプランは、長州竹崎の白石兄弟と三宅を結びつけて、改めて薩長備中三国の間に特殊な貿易網をつくりあげることだった。
竹崎(今下関市内)の白石家は大庄屋を勤める旧家で豪商だが、一万石の支藩清末領に属したから宗藩政庁を相手とする雲浜貿易とは直接関係がなかった。むしろ彼は薩藩当局が藩内諸物産の販路を、広く下関を中心として拡張するというのを知ってこれを結ぶつもりで、種々画策していた。かねて筑前亡命中の薩藩士北条右門一派と知合ったのもそのあたりからで、西郷・月照一行が亡命の途次白石家へ潜んで以来ようやく全国志士の間に知られた。当主正一郎、弟廉作、相助けて家業に従い、文事を解し志操気概に富んだ点は、既記三宅定太郎、下辻又七、山口薫次郎その他当年の、志士派産商業家一般に通ずる性格である。西郷とは入水亡命の一年前、北条右門の紹介で初めて対面したが、西郷はそのとき手紙を薩藩政庁に勤めている妹婿へ送って白石希望の新貿易案の助成方を頼んでいる。右門によって志士生活に入り、月照入水に立会って一躍名を成した平野国臣も、このあたりの事情に通じ白石一家とは信交の間柄である。安政四年正月、長州貿易交渉を終えた足で筑前に右門一派を訪うた時の雲浜の動静が、もっとわかっていると面白いのだが。
それはともかく、国臣が立てたプランは、備中の三宅定太郎とこの白石を結びつけて、雲浜遺策をさらに九州まで拡大することで、それまでに白石の方では、すでに薩長貿易は緒についていたから、(薩摩からは藍玉煙草類を、長州からは米、大豆、綿、昆布類を輸出した)国臣自らまず白石を訪い、その足で筑前の北条一派と相談し、帰途さらに宗像郡大島の富豪佐藤大作とも謀って、すっかり計画が成り、早速連島から見本を兼ねた綿と糸を積んで国臣も乗込んで、第一船を竹崎に乗りつけたのが、安政六年三月初旬のことだった。
だが結局この企ても、その年が暮れる前に、いろいろの故障が続出して、挫折に終った。たとえばはじめ薩州物産の見本として山藍を、備中地方へもたらした時は、値は安い品はいいというので、地方染物屋は大乗気だったところ、いよいよ大量に現物を送りつけると、従前の藍問屋仲間が特権を失うところから領主権力と結托して大々的に妨害し、はては三宅の鉄物店の番頭宮崎司──と国臣は変名していた──の正体まで洗われそうになったので、この二代目雲浜は竹崎から回航した最後の貿易船に打ち乗って、連島を去った。その翌日、三宅は役所に召喚され、妄に浪人を滞在させ云々のかどをもって、閉門謹慎を申付けられ、これをもって、連島貿易の一件は、けりとなった。
それと前後して、白石の薩長貿易も、薩藩政変のため一頓座を来していたが、安政六年暮から改めて白石の店に腰を据えた国臣は、今度は郷国筑前の新興物産となっていた陶器類を、白石の手で馬関中心に売りさばき、その代り黒田家経営の精練所で使用する更紗や形木綿類の納入をする新計画に片棒かついで、万延元年二月中旬、白石の陶器販売店の支配人になる、というところまでことが運んだ。
桜田義挙が、そのとたんに、竹崎の国臣、白石のところへ持ちこまれたのである。
来月二十日前後を期して大老を斬ることはもっぱら水戸側がひきうける、薩藩側はその機会に京都に大挙出兵するという最初の江戸案が薩摩で修正されて、薩藩だけでなく筑前藩も協力して京都に出兵させようということになり、国臣に、筑前を動かす役が振られたのである。白石の家が幾度か連絡の場所となり密議の室となって、結局そうきまった。
三月早々薩藩士堀仲右衛門上書にあわせて宮崎司のペンネームで国臣から秘かに筑前藩主の手もとへ差出した建白書の草稿は、国臣の伝記者春山氏によって白石家文書のなかから発見されたものだが、甚深な興味がある。
まず、水戸家志士が井伊を討った上ただちに横浜の焼討をするという密策──これは江戸でできた水薩密約覚書中にある──の後半部すなわち横浜攘夷について、国臣はじめ西国志士は反対意見で、建白書はこの問題から起筆してある。横浜焼討は、大老暗殺が水戸の私怨でないゆえんを天下に表示するためだというが、「実は甚だ愚策にて一己清潔のため天下之大事を招候は必定」、内乱にあわせて対外戦端を開くことがあっては容易ならぬ仕儀となろう、という反対意見。
ついで、大老暗殺が実現すれば、天下の人心動揺して金銀融通もとまり、米価高騰するに相違ないから、密事を知らぬ諸国諸家が騒ぎ立てない今の内に、然るべき器量人を大阪へ差立てて、銀主から借りられるだけ借入れさせ、軍費の備をしておくこと肝要である旨。
第三に、兵糧としての米穀も同様、今の内に買付けて置くこと、それもごく内密に、商人の私買の形で、長府小倉あたりの米を買取らせ、二割か三割の手付金を売っておけば、よし不要になったところで米価は必定騰るのだから、俵当り十匁二十匁の徳になっても万々損にはならぬであろうこと。
この条の但書として、
「但し右御米御買入にても相成り候儀に候はば、幸かねて御国産陶器類、製練所御用のさらさ形木綿等、取揃方御用承り度く……その段すでに旧冬来工藤左門を以て内願仕り候下ノ関竹崎浦(清末家町人大年寄勤)白石正一郎と申す者へ、江戸一左右次第、急速御買米手付金渡させられ、その儀命ぜられ候はば、屹度閉密に相働き申すべき人物に御座候。同人は是れ迄薩州長州両国の御産物交易の御取次に携り候正直なる者に御座候。」
第四に、火薬類も存分に仕入れておかねばなるまい。薩州などは先代存命中から周防宮市の藤井又兵衛に命じて硝石十万斤を契約し、前後六万斤ばかり、鉛銅などで支払って引取ってある。右又兵衛儀は自分で硝石を持ってはおらず、備後福山の大町人片山某から買付けているのだが、この片山某の妻の兄にあたる備中連島三宅定太郎なる者は、同志之者にて去年来別して懇意の間柄ゆえ、この者の伝手をもって元方の片山に直談判させ、御国名を出さぬよう値段も格安に鉛硝石共買入させるよう致されたい。手後れになるとその国主から邪魔がはいらぬものでもないから、一左右次第御英断然るべき旨。
第五に大砲のこと──薩藩から新式大砲を買入れ、国産石炭をもって支払う。第六に下関渡海火急の場合白石正一郎へ用命のこと、第七明石防備のこと、以上七条。
いわば非常時経済建白書で、その要所要所が、国臣既往一年間「屡々利貨を失」った経済戦線と結びつけられている点妙味がある。しかもけっしてあだにはならなかった。右記第三にもある精練所御用一条につき、三月七日をもって白石は福岡に入り、滞在約十日、藩吏の歓待もうけ精練所も視察し、米買付その他非常時経済問題まで打合わせたかどうかは知らぬが、肝心の桜田義挙が予定を大狂わせに早めてすでに三月三日に決行済みになっていた事実を一同一向に知らなかったことだけはたしかである。義挙事済みの風聞は白石国臣同道で馬関へ引揚げた翌日の十八日になって達した。
桜田義挙に関する水薩密約にいう決行予定日「二十日前後」を有馬新七『義挙要録』記載にそのまま基づいて二月二十日と見、三月三日の決行をもって十日余り遅れたとする考証(渡辺盛衛『有馬新七先生伝』)もあるが、春山育次郎氏『平野国臣伝』のごとく三月二十日とする方が正しい。大老暗殺が予定より早められ薩筑両藩の京都派兵も抑止されたから、桜田義挙の結果もかえって反動跳梁の姿となり、大獄後の反動期が安政五年秋から桜田の変まで約一年半つづいたとすれば、桜田変後の反動期も文久二年春まで二年足らずつづいている。この二年間、志士にたいする幕府の追及はいよいよはげしく、反対派諸雄藩主もほとんど抑止して動かず、一見すべては平穏かと見えて、やがて地下では、桜田変前に数倍する──否、質的にすでに討幕運動にまで転化した一大活動が、展げられていった。しかもそれが、いよいよ圧倒的に「草莽」義徒の間からもり上り、文久二年とともに湧き起る澎湃たる行動期の一特色は、すでに地方産商業家の中から算盤を棄て資財を抛ってみずから諸戦野に出動する者が続々として認められた点にある。
文久二年正月の坂下門事件(それと関連せる輪王寺擁立挙兵策・一橋擁立挙兵策など)に連座・獄死した下野義徒の中心には、宇都宮の呉服商菊池教中、大橋訥庵兄弟がおり、翌文久三年には渋沢栄一が藍玉の売上金で武器を蒐め、一味とともに桃井儀八の沼田城乗取策に応ぜんとするなど、水戸はさておき、とかく関東不穏の有力な震源地は、織物業中心地帯と関連していた。
文久三年八月の天誅組挙兵に参画して戦死または獄死したリストのうちからあまり知られていないが古東領左衛門。
この人は文久元年まで、いわゆる志士と交渉がない。淡路島三原郡津井村十二代世襲の庄屋で田畠四十町歩、山林七十余町歩、藩の「支配外」待遇。備中連島の三宅定太郎とよく似ている。そうした地主的存在の半面で、彼は大規模な土木企業家だった。安政二年の淡路津井港改築、同六年から文久元年にいたる同郡阿万村の大灌漑工事、津名郡岩屋の築港工事など、すべてその手になった。かねて近隣に志操気概を謳われていたが、文久元年清河・安積等九州遊説の別働隊、備前人藤本鉄石の遊説をもって深く志士と交わり、翌二年二月朔日付、京都の鉄石からの書翰に、
「……先日は貞助様(領左衛門舎弟)御入京御座候ところ御匇々にて残意少からず存じ奉り候。さて愚意聊か御咄し申し候ところ、御承知にて早速金百両御差し向け下され、慥に収手御芳情感佩奉り候。追々正義家の為に相用ひ申すべく喜び入り候。尊家の御事御国の御事、如何様にも御所置も之有べき事如何御座候や。僕等只々必死と存じ候迄、然も余処より御覧下され候より存外水火中に御座候御憐察下さるべく候云々。」
まだシンパというところだったが、三月下旬京見物に托して大阪へ出て、伏見挙兵計画の背後に参画してからは、もう単なるシンパではなかった。文久三年六月以降京都に寓居を構え、郷里の財産大部分を処分して金に代え、大和天誅組には伍長の資格で参加し、京情偵察のため京都へ潜入して捕えられ、同志とともに翌年七月、六角獄で刑死した。このとき刑死した同志のなかに、木綿問屋下辻又七らと雲浜貿易に参与した大和五条の医者乾十郎、井沢宜庵らも入っている。
連島の三宅定太郎も、池田屋事件前後には、六十余町歩の田産残るところわずか八町歩だったというが、その間のくわしい経緯は、いま詳にしない。
竹崎の白石兄弟は、弟廉作の方が、矢立をすてて生野挙兵の主部隊に参加して死んだ。生野挙兵は大和天誅組声援のためだったが、機を逸し戦略を誤ったためまず内部的に崩れ廉作の部隊は、人足を強制徴発せんとしたところから、農民と猟師の蜂起にあって、一隊十三名ことごとく死んだ。
幕末著名志士の言動は今日ほとんど漏れなく調べ尽されて数多の伝記に完成され、われわれにはおよそ読む仕事だけが残されている形である。だが一般に、志士行動の社会的経済的根底の問題まで突きこんだ伝記類はきわめてまれで、幕末を扱った社会史経済史の方面でも、当面の産商業の具体的性格を究明する仕事は、多く今後にかかっている状態である。「志士文芸」について述べた物足りなさは、文芸の部面だけのことでなく、歴史や経済史の部面でも、相当の程度でいえるのである。ところで経済の志士と政治の志士と、相容れぬものに思いこむ仕方は、幕末東方君子国時代、すでにもうはやらなかった。大倉喜八郎の祖父、越後北蒲原郡新発田町の豪商大倉定七の墓碑銘を、頼山陽が頼まれて、起筆して曰く、
「余嘗て謂ふ古の豪傑。皆善く産を治む。馬文淵の如し……」
底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
1973(昭和48)~1975(昭和50)年
初出:「歴史科学」
1934(昭和9)年10月号
※初出時の表題は「雲浜その他」です。
※「製練所」と「精練所」の混在は底本通りにしました。
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年7月18日作成
2011年4月4日修正
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