透明人間
ハーバート・ジョージ・ウエルズ
海野十三訳



黒馬旅館くろうまりょかんきゃく


かげのような男


 怪物かいぶつ

 そうだ、怪物にちがいない。

 怪物かいぶつでなくて、なんだろう? 科学かがく発達はったつした、いまの世の中に、東洋とうよう忍術使にんじゅつつかいじゃあるまいし、姿すがたがみえない人間にんげんがいるなんて、これは、たしかにへんだ。奇怪きかいだ!

 しかし、それは、ほんとうの話だった。怪物かいぶつははじめに、ものさびしい田舎いなかにあらわれた。それからまもなく、あちこちの町にも出没しゅつぼつするようになったのである。たいへんなさわぎになったことは、いうまでもない。

 その怪物かいぶつ姿すがたは、まるっきりえないのである。すきとおっていて、ガラス、いや空気くうきのように透明とうめいなのだ。諸君しょくんは、そんなことがあるもんか──と、いうだろう。だが、待ちたまえ!

 怪物かいぶつが、はじめて田舎いなかのその村にやってきたのは、たしか二月もおわりに近い、あるさむい朝のことだった。をきるようなかぜがふいて、朝から粉雪こなゆきがちらちらっていた。こんな寒い日は、土地のものだって外を出あるいたりはしない。

 その男は、おかをこえて、ブランブルハーストえきからあるいてきたとみえ、あつい手袋てぶくろをはめた手に、黒いちいさなかわかばんをさげていた。からだじゅうを、オーバーとえりまきでしっかりつつんで、ぼうしのつばをぐっとまぶかにおろし、空気くうきにふれているところといったら、さむさで赤くなっているはなさきだけであった。なんともいいようのない、ぞっとするようなふんいきを、あたりにただよわせながら、黒馬旅館くろうまりょかんのドアをおしひらいてはいってきたのである。

「こうさむくちゃあやりきれない。火だ! さっそくへやに、火をおこしてもらいたいな」

 酒場さかばへ、ずかずかとはいってくるなり、ぶるるんと、からだをゆさぶってゆきをはらいおとし、黒馬旅館の女あるじに向かって、そう言った。

 いまどき、めずらしいきゃくである。こんな冬の季節きせつに、しかもこんなへんぴな土地に、たび商人しょうにんだってめったにきたことはないのだ。おかみさんは、びっくりもし、なげだされた二枚の金貨きんかをみると、すっかりよろこんでしまった。

「とうぶん、とめてもらうから」

 きゃくをへやに案内あんないすると、暖炉だんろに火をもやしてたきぎをくべ、台所だいどころでお手伝いにてつだわせて、おかみさんはせっせと食事しょくじのしたくをした。

 スープさら、コップなどを客室きゃくしつにはこんで、食卓しょくたくのよういをととのえた。暖炉だんろの火はさかんにもえて、ぱちぱちと音をたてている。

 ところが、火にあたっているきゃくはこちらにをむけたまま、ぼうしもオーバーもぬごうとはしないで、つっ立っている。中庭なかにわにふりつもる雪をみつめながら、なにか考えているようだった。オーバーの雪がとけて、しずくがゆかのじゅうたんの上にしたたり落ちていた。

「もし、あのう、おぼうしとオーバーを、おぬぎになりましたら? 台所だいどころでかわかしてまいりますわ」

と、おかみさんが声をかけた。

「いいんだ」

 ふりむきもしないで、客が、ぶっきらぼうに言った。おかみさんはあわてて、残りの皿をとりに台所へもどった。

 料理りょうりをはこんで、もういちど客室きゃくしつにきてみると、客はまだ、さっきとおなじ姿勢しせいまどのほうをむいていた。

「お食事しょくじのよういができました」

「ありがとう」

 へんじはしたが、うごこうともしなかった。おかみさんがでていくと、男は、さっと食卓しょくたくに近づいた。そして、スープをせっかちにすすり、パンやベーコンをがつがつと食べはじめた。

 つぎに、おかみさんがハム・エッグをさらにのせて、かるくドアをたたいて客室きゃくしつにはいっていくと、とたんに、男はナプキンを食卓しょくたくの下になげ、それをひろうようなかっこうをして、身をかがめて口におしあてた。

(おやっ?)

と、おかみさんは思った。

 ぼうしとオーバーはやっとぬいで、暖炉だんろのまえのいすにおいてある。長ぐつは、のかこいの金具かなぐのうえにおいてあった。

「これはあたしが、かわかしてまいりましょう」

 金具がさびちゃあこまる、とおもって、長ぐつを取りあげながら、おかみさんが言った。

「ぼうしは、いじらんでおいてくれ」

 いんにこもったふくみ声で、きゃくはぴしりと言った。おかみさんはおどろいて、客のほうを見た。客はかの女をにらんでいる。

 おかみさんは、ぎくっとして、その場にたちすくんでしまった。なんという顔をしているのか……。男の口から下はナプキンにかくれて見えないが、青いめがねをかけたその顔は、頭から顔じゅうをほうたいでぐるぐるき、ほうたいの白い中からはなだけが赤くのぞいていて、そのぶきみさは、全身ぜんしんの毛がそうけ立つほどだった。

「あっ」

と、あやうく声をたてるところだった。男は茶色のびろうどの服のえりを立てて、顔をうずめている。

「いいかい、そのぼうしにはさわらんでくれ!」

 もういちど、男が、こんどははっきりと言った。

「もうしわけありません」

 おかみさんはぼうしだけ残して、オーバーなどをかかえこむと、にげるように客室きゃくしつをとびだして台所だいどころにもどった。

 ひとりきりになると、男はまどぎわにいって、まだ昼間ひるまだというのに、カーテンをひいた。へやのなかが、きゅうに、うす暗くなった。


なにものだろう?


 男は、じつによく食べた。

 カーテンをひいて、へやがうす暗くなると、それで安心あんしんしたのか、食卓しょくたくにつくと、まるで三日も四日もたべずにいたかのように、さらのなかの物をかたっぱしからたいらげていった。

 黒馬旅館くろうまりょかんのおかみさんは、なんとも気もちのわるいきゃくをとめたもんだと、考えこんでいたが、この男がまさか怪物かいぶつであろうとは気がつかない。ぶっきらぼうで、ぶあいそうな客だとはおもうが、なにしろ先払さきばらいで宿料やどりょうに二枚の金貨きんかをわたしている。わるい気もちはしなかった。

(あの人はかわいそうな人なんだよ、きっと! ひどいけがをしてるらしいよ。どこで、どんなけがをしたからないが、かわいそうに……。だけど、ほうたいだらけのまっしろなあのかおには、ぞっとするわ。まるでけものみたいだもの)

 おかみさんは台所だいどころ暖炉だんろの火で、きゃくのオーバーや長ぐつをかわかしながら、そんなことを考えていた。

(ナプキンで口をかくしているところをみると、口のまわりに、大けがをしたんだよ。ぞっとしたりしては、気のどくだわ)

 しばらくして、おかみさんが食事しょくじのあと片づけに客室きゃくしつにはいっていくと、客はパイプでたばこをくゆらしていた。顔の下半分したはんぶんにはマフラーをまきつけて、パイプを口にさしこむのに、マフラーをゆるめようとはしないで、口もとをかくすようにしてパイプをっていた。

 暖炉だんろの火が青めがねにうつって、赤々あかあかとゆらいでいるが、どんな目をしてこちらを見ているか、とおもうと、やはり、ぶきみさが先に感じられてくるのだった。

 めずらしく、客のほうからしゃべった。

「ブランブルハーストえきに、荷物にもつをおいてきたんだが、どうやったら取りよせられるね?」

「おや、それはおこまりでしょう。さあ、このゆきでは……それに、こんな田舎いなかですからね。たのむといって、すぐに、人手がいいあんばいにございませんわね」

 男はほうたいだらけの頭で、うなずいていたが、

「こまるなあ。どうしても、きょうじゃあだめかね?」

と言った。

「きょうじゅうには、むりでございますよ」

「あすになるか? なんとか早く、とどけさせる方法はないものかな? 馬車ばしゃならいってこられそうなものだが……」

 がっかりしたようすで、なおもつづけた。

 おかみさんは、この雪ではとてもだめだろうと、客のようすをさぐるようにながめながら、説明せつめいした。

「それがむりなんですよ。このうら山には、とてもけわしい場所がありますんでね、馬車ばしゃなんか通れやしませんよ。去年きょねんでしたか、馬車ばしゃがひっくりかえりましてね、お客さんと馬車屋ばしゃやにました。とんだ災難さいなんで、まあ、こんな日には、おやめになったほうがようござんすね」

「なるほど、災難って、そういったもんかね」

 男はそれいじょう、たってたのもうとは言わなかった。

「マッチをとってくれんか」

 パイプをマフラーのあいだから口にさしこんで、おかみさんからマッチをうけ取った。そしておかみさんにをむけると、まどぎわにいって、カーテンのすきまから中庭なかにわゆきをながめたまま、ひとことも口をきこうとはしない。おかみさんは、はっとして、へやをでていった。

 ふしぎな男は、夕がたまで、へやにとじこもっていた。


怪物かいぶつかお


 ふるびた時計とけいが四時をうった。あたりはいつのまにか、うすぐらくなっていた。

 宿やどのおかみさんは、さっきから、もうなん度も時計とけいをながめてはためらっていた。

(四時だわ、どうしてもあのおきゃくさまのところにいって、お茶のご用をきいてこなくては………だけど、どうしたのかしら、わたしはどうもあのおきゃくさまの前にゆくのが、気がすすまないんだけど……)

 おかみさんは、また一、二分考えていたが、きゅうに勇気ゆうきをふるい起こして、さっと立ちあがった。そのとき、いきおいよく戸をあけて、

「おお! おかみさん、えらくりだしたじゃねえか。いやになるねえ、いつまでも寒くて、この大雪おおゆきじゃ、わしのぼろぐつで歩くのはこたえまさあね」

と、大声でいいながら、戸口とぐちでぶるぶるっと雪をはらって、時計屋とけいやのテッディ・ヘンフリイがさむそうにはいってきた。

 外では、まだゆきがやすみなくふりりつづいている。

「ああ、テッディさん! まったく、こうさむくてはやりきれないわね」

 おかみさんは、こう言いながら、時計屋とけいや片手かたてにぶらぶらとぶらさげている修理道具しゅうりどうぐのはいったふくろをた、とたん、いいことをおもいついた。それは、

(テッディといっしょにあのきゃくのところへゆく)

ということだった。そこで、

「テッディさん、いいところへきてくださったわ、ちょうど、お客部屋きゃくべや時計とけいを見てもらいたいと思っていたのよ。あのへやの時計とけいときたら、動くのは、ちゃんとまちがいなく動くし、時間じかんだって、元気げんきよく打つんだけど、はりだけがいつも六時を指したきりなのよ。どうしたのかしら?」

「へんだねえ、ちょっくら、見てみましょう」

 テッディはくびをかしげながら言った。おかみさんは、かれをつれて、れいのふしぎなきゃく部屋へやのドアをかるくたたいた。

 へんじはなかった。が、おかみさんはさっさとドアをひらいて、部屋へはいりこんだ。

ねむっておいでらしいわ」

 おかみさんは、ひとり言のようにひくくつぶやいた。

 男は、暖炉だんろの前のひじかけいすに、ふかぶかとからだをうずめて、ほうたいだらけの頭をかしげ、うとうとと、いねむりをしているらしかった。

 のついていない部屋へやくらかった。ただ赤々あかあかとさかんにえている暖炉だんろの火が、あたりをぼんやりと照らしだしていた。

 男は、うつぶせになったまま、身動みうごきもしない。

「まあ、なんてくらいんだろう。をつけないから、なんにも見えやしない」

 いままで、明るい台所だいどころにいたおかみさんには、なにもかもが、ぼんやりと見えた。

「もし、だんなさま」

 声をかけて、ひと足、男のほうに近づいた。と、つぎの瞬間しゅんかん

「あっ!」

 おかみさんは、ぶったおれるかと思うほどおどろいてしまった。ひょいと見た男の顔が、なんと怪物かいぶつそのままの不気味ぶきみな顔をしているではないか!

 暖炉だんろの火をうつして、赤く光る色眼鏡いろめがね、顔いちめんにぐるぐるまきにしたほうたい、そしてなによりおそろしく思えたのは、ぽっかりと深いあなのように開いている大きな口だった。まるで顔の下半分したはんぶんが、すっかり口にかわったのではないかと思うほどだった。

「う、うーん」

 おかみさんのびっくりした声に目をさましたのか、男は、ゆらりとからだを動かし、ねむそうにいすから立ちあがった。

「あっ」

 男は、目の前にたまげた顔で立ちすくんでいるおかみさんを見ると、あわてて、襟巻えりまきのはしで口のあたりをかくそうとあせった。

 その間に、おかみさんは、やっとの思いで、気をとりなおし、

「だんなさま、時計屋とけいやが時計をなおしにまいりましたので、ちょっと……」

「時計をなおすのかい? いいだろう──」

 男は、とりつくろったようすで、重々おもおもしくこたえた。

「では、テッディさん、ちょっと、待っててください。すぐランプをとってきますからね」

 おかみさんは、げるようにへやからでてきた。時計屋も、あやしげなきゃく姿すがたを見て、どぎもをぬかれ、部屋へやにはいらずに、おかみさんが引っかえしてくるのをじっとっていた。

「お待ちどおさま!」

と言って、おかみさんは、ランプを片手かたてにもち、時計屋とけいやをうながすような目をして、もういちど部屋にはいっていった。時計屋があとにつづいた。

 男は、部屋のまん中につっ立っていた。時計屋は、おずおずと、

「おじゃまではございませんか? おきゃくさま」

と言うと、男はちらりと色眼鏡いろめがねをきらめかして、

「いや、かまわんとも」

と、ごうまんな態度たいどでこたえた。時計屋とけいやは、なにやら、ぞっとすじがつめたくなるような、いやな感じをうけた。できることなら、時計の修理しゅうりなどはほうりだして、この部屋へやからでていきたくなった。

 と、男は、こんどはおかみさんにむかい、

「おかみさん! ぼくのほかにはだれも、この部屋へやにはいらせない約束やくそくだったね」

と、つめたい声で不満ふまんそうに言った。おかみさんは、たじたじとうしろにさがり、

「ですけど、時計とけいだけは──」

 なおしておかなくては、あなたがおこまりになるでしょうと、言うつもりだったが、おそろしさのために、そのあとの声がつづかなかった。

「むろん、時計とけい正確せいかくでなくてはいけないよ。だが、ぼくは、この部屋へやにいつでもひとりでしずかにいたいのだ。だれもはいってこないように気をつけてもらいたいね」

 ぶきみな男にどなりつけられると、時計屋とけいやげだしたくなった。もじもじ、手足を動かした。それをみると、男は、すぐに、

「だけど、時計とけいをなおしてくれるのに文句もんくをいうつもりはないよ。けっこうだよ。なおしてもらおう。きみ、さっそく、やってくれたまえ」

 時計屋とけいやのヘンフリイは、すくわれたように大いそぎで時計にとびつき、修理しゅうりにかかった。

 男は暖炉だんろをうしろにして、両手を背中せなかでくみあわせ、また、おかみさんにむかって、

「おかみさん、時計がなおってからでいいから、お茶をいれてくれたまえ」

 おかみさんは、

「ただいま、すぐ持ってまいりますわ」

と、いうより早く、出ていこうとした。男は、

「おっと、待ってくれたまえ、ブランブルハーストえきにある、ぼくの荷物にもつをとりよせるようにたのんでくれたかね」

配達屋はいたつやにたのんでおきましたから、あすの朝早くとどきます」

「あすの朝……こん夜のうちに、とってくるわけにはゆかないかね」

「ええ、だめでございますよ」

 おかみさんは、むかっぱらをたてていた。と、みると男は、にわかにものやわらかいようすになり、

「じつはね、おかみさん。ぼくは科学者かがくしゃなんだよ。いままではこのひどいさむさがこたえて、気分きぶんがすぐれなかったうえに、疲れきっていたので、なにをやる元気もでなかったが、ここでやすんでいるうちにやっと元気がでたんだよ。となると、もうじっとしていられないんだ。すぐにも実験じっけんにとりかかりたくてね……これがぼくの性分しょうぶんなんでね」

 人のいいおかみさんは、これを聞くと、たちまち、この男をあやしんだり、いやがったりしたことを後悔こうかいして、

「さようでございましょうとも、で、えきにございますお荷物にもつの中に、実験道具じっけんどうぐをおいれになっていらっしゃるのでございますか?」

「そうなんだ。全部ぜんぶはいっているんだ」

 男は、おかみさんがじぶんを信用しんようしはじめたと見て、また話しつづけた。

「ぼくがこの片田舎かたいなかのアイピング村へやってきたのは、だれにもじゃまされないで、思うように研究けんきゅうをやりたいからなんだよ。実験じっけんをやってる最中さいちゅうにさまたげられると、たまらないからね。それに、ぼくは、ちょっとけがをしてね」

(やっぱりそうだったんだわ。この方はあやしい人じゃなかったのよ。お気のどくに……ずいぶんひどいけがをなさったらしいわ)

 おかみさんは、心のなかでそう思った。男は、よわよわしい調子ちょうしで、

「そのうえ、けがのために視力しりょくがすっかりよわってしまってね。ときどきいたみだすと、何時間もくらがりの中で、じっとしていなければならないんだ。いたみの起こったときのつらさときたら、まったくたえられないほどなんだよ。そんなときに、だれかに部屋へやにはいってこられると、とてもいやなんでね。だから、きみもよく心えていてもらって、ぼくの部屋へ他人たにんをいれないでくれたまえ。しずかに休んでいたいんだからね」

「わかりました。よく気をつけますわ。そんなひどいおけがを、どうしてなさいましたの?」

 おかみさんは同情どうじょうのこもった声で、やさしくたずねた。すると男は、

「話はそれだけだ」

 うってかわったつめたさで言い、おかみさんが二度と口をひらかないように横をむいた。

 おかみさんがでてゆくと、男はヘンフリイが時計とけい修理しゅうりをやっているのを、じっと見つめはじめた。

 ヘンフリイは、さっきからだまりこんで、せっせと手を動かしている。

 はりをぬき、文字盤もじばんをはずし、なかの機械きかいをひっぱりだした。

 かれはねんいりに機械きかいをしらべた。男がじっとながめているので、かれはなんとなく気味きみがわるくて、仕事しごとをしている手が思うように動かなかった。

 十五分ほどたつと、時計とけいはすっかりなおったが、ヘンフリイは、いつまでもぐずぐずと機械きかいをいじっている。ときがたつにつれておそろしさがうすらいでくると、かれは、

(この奇妙きみょうな男の正体しょうたいを見きわめてやれ!)

と、いう気になっていた。どうにかして、男と話すおりをつかみたいと思ったが、だめだった。

 男は、口をきかないばかりか、身動みうごきひとつしないで、じっとつっ立っていた。

 眼鏡めがねのレンズが、青白く光ってヘンフリイを見つめている。

 ヘンフリイは、たまらなくいらいらしてきた。

(ちえっ、なんていやなやつだろう。ぞっとするよ。まるで化物ばけものとむきあってるような気もちだよ。人間にんげんなら人間らしく、きょうはひどくさむいねぐらいのことは、言ったらよさそうなもんだよ。ぶあいそうなやろうだ。が、こういつまでもだまってても、らちがあかねえや。ひとつこちらから先に、声をかけてやろう)

 かれは決心けっしんして、男の顔を見あげ、

「この天気は──」

 とたんに、するどい声がとんできた。

「さっさと仕事しごとを片づけて、でていったらどうだ?」

 男は、どなりたいのをやっとがまんしているらしく、ふるえる声で言った。ヘンフリイはまっさおになった。男は、かさねて、

短針たんしんをじくにはめれば、すむんじゃないか。さっきから見ていると、やらないでもいいことばかりやってるみたいだぞ」

 ヘンフリイは、ぎょっとした。男はなにもかも見すかしているのだ。

 おそろしさでからだが、がたがたふるえてきた。大あわてで仕事しごとをすませ、道具どうぐを片づけると、あたふたと部屋へやをでていった。

 台所だいどころにくると、ヘンフリイは、いそがしそうにはたらいているおかみさんに、

「さようなら」

と、ふきげんなみじかいあいさつをのこして、さっさと、ゆきがふる外へとびだした。

 道にはすっかり雪がつもっていた。

「ちくしょうめっ! なにが科学者だい。学者ってものは、もうすこし上品じょうひんなもんだよ。大きなつらをしやがって……あいつは悪魔あくまかもしれねえぞ」

 時計屋とけいやは、道々みちみち、思いつくかぎりの男のわる口をつぶやいた。それでも、やはりむしゃくしゃしていた。


気をつけたがいいぜ!


 時計屋とけいやがどんどん歩いて、グリーソン屋敷やしきのかどまできたとき、のんきな顔で馬車ばしゃを走らせてくるホールにばったりと出あった。

「よう! どうしたい、ヘンフリイ! 浮かねえ顔で、やけにいそいでるじゃねえか」

 ホールがくったくのない声をはりあげた。

 ホールは、あやしい男がまった黒馬旅館くろうまりょかんのあるじなのだ。かれはみるからに人の好いのんき者で、ホール夫人に気にいるように、てきぱきはたらくことなど、ぜったいにできない男だった。

 ホールの仕事しごとといえば、ときどき、シッダーブリッジえきまで馬車ばしゃを走らせ、荷物にもつをはこんでくるのが、せいぜいだった。

 いまも、えきからのかえり道で、いつもとおなじようにホールは途中とちゅうで、さんざん世間話せけんばなしあぶらを売ってきたところである。

 ヘンフリイは、ホールに声をかけられると、いんきな声で、

「ホール、おめえのとこには、へんなきゃくがとまっているな」

「なんだって?」

 お人よしのホールは、すぐに馬車ばしゃをとめて、時計屋とけいやのほうへのりだしてきた。

「おめえ、知らねえのかい? あのみょうちきりんな顔のきゃくのことを……」

 ホールはくびをふった。ヘンフリイは、

「おれもおどろいたぜ。おかみさんが客間きゃくま時計とけいをなおしてくれっていうんで、いっしょに客間にはいったらさ、顔じゅうほうたいだらけの、色眼鏡いろめがねをかけて、おっそろしく口の大きな、へんな顔の客がいるじゃねえか。おどろいたの、なんのって……おったまげたよ」

 ホールはおどろいて、口をぽかんとあけてきいていた。それをみると、ヘンフリイはますます熱心ねっしんに、客のようすをしゃべりたてた。

「あれはおめえ、よくねえやつかもしれねえぞ。じぶんでは科学者かがくしゃだなんて言ってるが……どうだか、わかったものじゃねえ。あいつは、変装へんそうしてるのかもしれないぜ。どこかで悪事あくじはたらいて、それをかくすために、ああいうかっこうをして、なるべく人を近よせないでおくつもりかもしれないね」

「うちのやつは知ってるのかね?」

 ホールが、心ぼそそうな声をだした。

「もちろんだよ。おかみさんもおかみさんだよ。なんだって、あんな男をとめる気になったんだろう? おれが宿屋やどやのあるじなら、相手の顔をよくよくながめ、名まえをたしかめてから、めるか、泊めないか決めるね。女ってものは、よそものっていうと、とかく信用しんようしがちなものさね。まして科学者かがくしゃなんていうと、なおさら信用しんようするがね。部屋へやをかりて、名まえを言わねえような男は、ろくな人間にんげんじゃねえやね」

 人がいいばかりで、頭のはたらきのにぶいホールは、ぼんやりと、

「そう言うもんかね」

「あたりまえだよ。しかし、おかみさんは、一週間しゅうかんのけいやくをむすんでしまったんだ。いまさら、あいつがどんな悪者わるものだったとしても、一週間のあいだは追いだすことはできないんだ。あすになると、あいつのいう実験道具じっけんどうぐとやらが、どっさりはこびこまれるらしいぜ。なんの実験じっけんをするつもりだかわからないがね」

「ふうん」

 ホールは、心配しんぱいそうに考えこんでしまった。ヘンフリイは、なおもくどくどと、

用心ようじんしたほうがいいぜ。おれのおばさんもね、ヘイスティングズでやはり宿屋やどやをやっているがね。見なれぬ客がえらく大きなりっぱなかばんをさげてきたのをみて、すっかり信用してしまったのさ。ところがそのかばんは中がからっぼで、それに気づいたときは、たくさんの宿料やどりょうをふみたおされて、げられたあとだったんだ。おめえたちも、あやしいきゃくには、よくよく気をつけたほうがいいぜ」

「ありがとう、ヘンフリイ。こいつはどうも、うちのやつにちょっくら、言ってきかせなくてはなるまい。これから大いそぎで帰ろう」

 すっかり不安になった黒馬旅館くろうまりょかん主人しゅじんホールは、馬にひとむちあてると、いちもくさんに家へむかって走った。

 いきおいこんだホールが家にとびこむと、

「おまえさん! いつまで外をうろうろしてたんだい? またあぶらを売ってたね。そうでなくて、こんなにながく時間がかかるはずがないじゃないの!」

 ホール夫人ふじんのがみがみとどなりつける声がとんできた。

「なに……それが、あの……その」

と、いままでの元気はどこへやら、ホールはしかられたねこのようにいくじなくちぢまって、しばらくたってから、やっとこさで、

「おまえ、新しいおきゃくがあったってね。いったいどんな方だい?」

と、おずおずしながら聞いた。

「だれに聞いたの? ヘンフリイがおしゃべりしたのね。どんな方って……りっぱな方よ。あなたになんか、あの方のことを話したってわかりゃしないわ。科学者かがくしゃなんですって」

 それからあとは、いくらホールが聞いても、気のないへんじをしてごまかしてしまった。

(ちえっ、あいつ、おれにかくしだてをする気だな。いいよ。おれはじぶんの目で、そのへんなきゃくってやつを見てやるから──)

 ホールは、おかみさんにいくら聞いても、それいじょうは話さないとわかると、だまって決心けっしんをした。

 九時半になった。あやしいきゃくねむりこんだらしく、黒馬旅館くろうまりょかん物音ものおとひとつしなくなった。

「やつもねむったらしいね。どれ、ひとつ、どんなやつだかしらべてこよう」

 ホールは立ちあがり、足音あしおとをしのばせると、むこう見ずにも、客間きゃくまにそろそろとしのびこんでいった。思ったとおり、きゃくは、ふかぶかとベッドにもぐりこんでねむっていた。

 ホールは、きょろきょろとあたりを見まわし、つくえのうえいっぱいに、むずかしそうなこまかい数字すうじをかきこんだかみらばっているのをみると、ばかにしたようすで、

「ふふうん!」

と、はなのさきでせせら笑って、ひきあげた。

 お人よしのホールは数字すうじをかきこんだ紙を見ただけで、このへんなきゃくが、おかみさんの言うとおり、学者がくしゃなのだと思いこみ、すっかり安心してしまったのである。

 一方、おかみさんは、主人しゅじんにむかっては、きっぱりと強がりを言ったものの、内心ないしんはやはり、きゃくのことが気になってしかたがなかった。

 ベッドにはいってからも、夜っぴて大きなかぶらのようにまっ白な、ぶきみな顔に追いかけられるゆめをみて、うなされつづけた。


ちょっとした事件じけん


「おはようございます。荷物にもつを持ってあがりました」

 馬車屋ばしゃやのフィアレンサイドが、つぎの朝はやく元気のいい声をひびかせて、馬車ばしゃをひき、黒馬旅館くろうまりょかんにやってきた。

 ぶそくらしく、はれぼったい目をしたおかみさんが、主人しゅじんのホールといっしょにでてきた。

「ごくろうさま」

「きょうは、きのうのゆきのために、道がひどいぬかるみになっていて、えらい難儀なんぎでしたよ」

 フィアレンサイドが、二人の顔をみるなりこぼした。が、二人は、かれの言葉ことばなどまるで耳にはいらぬようすで、馬車ばしゃにつまれている、ふうがわりな荷物にもつに見とれていた。

 ふつうの人間にんげん持物もちものらしいのは、トランクだけだった。トランクは二個あった。そのほかの荷物にもつときたら、なんともいえずふうがわりなのだ。なにをつめてあるのか、中の物がこわれぬようにむぎわらをぎゅうぎゅうあいだにつめこんだかごが十二、三。それにぶあつな本をおしこんだはこが数えきれないほど、そのほかにもえたいのしれぬ荷物にもつが山とつまれている。

 ホールは馬車ばしゃに近より、かごの中に手をつっこみ、詰物つめものむぎわらをかきわけてさぐった。

 中は、ガラスびんらしい。おかみさんは、客をよびにいった。

荷物にもつがきたんだって?」

 男はうれしそうに、声をあげてとんできた。みるとおどろいたことに、男は、へやのうえから、オーバーを着、帽子ぼうしをかぶり、手ぶくろをはめ、ごていねいにえりまきまでしっかりと身につけていた。

 フィアレンサイドもホールも、男の身じたくが、あんまりものものしいのに、あっけにとられて、ぼんやりとかれの顔を見ていた。男は、せきこんで、

「ずいぶん待たされたよ。さっそくはこびこんでくれたまえ」

 言いながら、ちきれないように、荷馬車にばしゃのうしろにまわり、かごのひとつに手をかけようとした。

 そのとき、フィアレンサイドがつれてきていたいぬが、とつぜん、かれの姿すがたをみて、毛をさかだて、ものすごいうなり声をあげた。

 男は、気にもせず、

「いいかい、どれもだいじなものだから、気をつけて運んでくれたまえよ」

と、いいつけ、玄関げんかん石段いしだんをあがりかけた。とたんに、いぬはひときわ高くうなり声をあげ、ぱっと男の手にかみついた。

「うわっ!」

 男は、大声をあげた。びっくりしたホールとフィアレンサイドは、

「こらっ、こいつめ! なにをするのだっ」

と、あわててどなりつけ、フィアレンサイドはいぬをぶちのめそうと、むちをふりまわした。

 そのとき、男は、目にもとまらぬす早さで、ぱっと力まかせにいぬをけとばした。

 ふいをくらったいぬは、よろよろとよろめいたが、こんどは、猛然もうぜんとうなりごえをあげ、もう一度男におそいかかったとみるや、その足に、がぶりっとかみついた。

 びりびりと、ズボンがさける音がした。

「ひゃあっ!」

 とびあがったフィアレンサイドが、

「こんちくしょうめ、こんちくしょうめ」

と、さけびながら、こんどこそ、したたかいぬをたたきのめした。

 きゃんきゃんといぬ悲鳴ひめいをあげ、車ののあいだにげこみ、小さくなった。

 すべてが、あっという間のできごとだった。

 気まずい空気くうきがみんなのあいだにながれた。男は、かみさかれた手袋てぶくろとズボンのすそを、しゃがみこんでしらべていたが、そのままくるりとむきをかえ、いちもくさんに旅館りょかんの中にかけこみ、足音あしおともあらく、じぶんの部屋へやにはいってしまった。

 フィアレンサイドは、やっとわれにかえった顔つきで、

「でてこい! わるいやつだ。とんだいたずらをしくさって。おきゃくさまのズボンをかみやぶったではねえか……」

 そして車ののあいだから、おくびょうそうにこちらをうかがっている犬に、むちをふりまわしてみせた。

 ホールは、まだ、ぼんやりとつっ立っていた。フィアレンサイドがかぬ顔で、

「ホール、あのおきゃくさまにけがはなかっただろうかね?」

「ひどくかみつかれなさったようだったけど、おれ、ちょっと、部屋へやへいって、ようすをうかがってこよう」

 ホールは、あたふたとかけだした。廊下ろうかまでくると、これもかない顔で歩いてくるおかみさんにばったりとあった。

「フィアレンサイドのいぬが、おきゃくさまの手と足にかみついたんだ」

 ホールはせきこんで、まゆをしかめながら言った。が、おかみさんは、ちょっと、うなずいたきり、足もとめないですれちがってしまった。

 きゃく部屋へやのドアは、ひらいたままだった。

「お客さま、おけがはありませんでしたか?」

 ホールは、声をかけ、なにげなく部屋へやにはいろうとした。

 窓のカーテンはすっかりおろされ、部屋の中はうすぐらかった。その中に手首てくびからさきのないうでが、にゅっとかれのほうにつきだされ、のっぺらぼうのまっ白な大きな顔が、うす青い三つのふかあなをあけて、空中くうちゅういていた。

 あっと思うひまもなく、ホールは、なにものともしれぬつよい力に、どんとむねをつかれ、ひとおしに廊下ろうかにつきだされてしまった。

「うわあっ!」

 よろめきながら、ホールがさけぶと、その目のまえに、ドアがばたんと音をたててしまった。

 ホールは、しばらく、ドアを見つめて、ぼんやり考えこんでいた。

「これは、いったい、どうしたってことなんだ。どこのどいつがおれのむねをついて、廊下ろうかにほうりだしやがったというのだ……」

 さっぱりわけがわからない。

 いっぽう、宿屋やどやのまえは、ものめずらしげにあつまってきた村の人びとで、黒山くろやまの人だかりになっている。

 フィアレンサイドは、その人たちを相手あいてに、さっきのできごとを、くりかえしくりかえし話していた。

「おれがとめるひまもないほどのすばやさで、こいつは、がぶりとおきゃくさまの足にかみついたんだ。へいぜいおとなしいやつだのに、どうしてあんならんぼうなことをやったのか、さっぱりわからねえ」

 フィアレンサイドは頭をふりふり、いくたびも言った。

「だけどさ、ふしぎじゃないかねえ。ただ立っているだけの人に、なんだってかみついたのかしら?」

 話をきいていたおかみさんのひとりが、口をはさんだ。雑貨屋ざっかやのハクスターがもっともらしいようすで、

「そうだよ、われわれがここに立っていても、こいつはかみつかないのにさ」

「だけど、もとはって言えば、フィアレンサイドがこんなろくでなしのいぬをかっているのが、大さわぎをおこすもとなんだよ」

 また、ほかのひとりがいった。

 ひとりがだまれば、ひとりがしゃべり、旅館りょかんのまえはたいへんなさわぎだった。

 このさわぎの中に、ホールはたましいをなくした人間にんげんのように、ぼうっとしていた。

 目ざとく見つけたおかみさんは、

「おまえさん、どうしたの? なにかあったのかい?」

「いいや、なんでもねえ」

 ホールはうつろなで、あつまってきた人たちを見ていた。


その荷物にもつは?


 おしゃべりに夢中むちゅうになっていた村人たちは、その男がいつのまにか、その部屋へやから玄関げんかんにでてきていたのに、いっこうに気づかなかった。

「う、うう、わんわん!」

 車のかげに小さくなっていたフィアレンサイドの犬が、きゅうにはげしくほえたてた。

「あっ!」

 思わずふりかえった人びとは、玄関げんかん不気味ぶきみな人かげをみて、ぎょっと顔色かおいろをかえた。

 そのとたん、

馬車屋ばしゃや、なにをぐずぐずしているんだ! はやく荷物にもつをはこべ!」

 すごのあるどなり声が、あたりをふるわせてひびいた。

 フィアレンサイドが、びくっとびあがり、ホール夫人ふじん棒立ぼうだちになった。

 村人は、くものこをちらすように、後もみずにちっていった。

 馬車屋ばしゃやは、しばらくためらっていたが、勇気ゆうきをふるって男に近より、

「だんなさま。あいすみませんことで……おけがはありませんですか? なんとも、はや、申しわけありません」

 ぺこぺことわびた。男は、じろりと馬車屋ばしゃやをにらみ、

「けがなんかせんよ。かすりきずひとつしてないんだ。それより早く荷物にもつをはこべ」

と、おうへいな態度たいどで言った。

 馬車屋ばしゃやとホールの手で、荷物にもつは男の部屋へやにはこびこまれた。

 男はすぐさま荷物をほどきにかかった。じれったそうに、あいだにつめたむぎわらをほうりだし、中のガラスびんをひとつずつ、だいじそうにとりだした。どのびんにも液体えきたい粉末ふんまつがつまっている。

 男は、おびただしいかずのガラスびんをとりだすと、こんどは試験管しけんかんをとりだした。

 つぎに、はかり、そのつぎは、えたいのしれぬ機械きかいだった。

「やれやれ、これですっかりとりだしたぞ。ぶじに荷物にもつがとどいてなによりだ。うすのろの馬車屋ばしゃやめ、おれのだいじな荷物にもつをだいなしにしないかと、はらはらしたよ」

 男は、ほっとしたようにつぶやき、むぎわらや空籠あきかご空箱あきばこで、すっかり部屋へやよごれてしまったのも、気かつかぬようだった。

「さあ、さっそく、とりかかろう」

 男は、いきをつくひまもなく、まどのちかくに機械きかいをならべ、実験じっけんにとりかかった。

 いつのまにやら、暖炉だんろの火はきえ、そこびえのするさむさがしんしんとせまっていた。

 しかし、男は暖炉だんろの火が消えたことなど、これっぽっちも気にしていなかった。

 試験管しけんかんをならべ、毒薬どくやくとかかれた茶色ちゃいろのびんをとりあげると、試験管の中に、たらたらと、三、四てきえきをたらしこんだ。

 こんどは、それを火にかけ、また、ほかの薬品やくひんのふたをとった。

 男は、ながい間、こうしてなにもかもわすれ、ただ実験じっけんにねっちゅうしていた。

 時はすぎ、いつのまにか、ひるがきていた。ドアをたたく、かるい音がひびいた。

 男はすこしも気づかない。おかみさんが、昼の食事しょくじをはこんできたのだった。

 ドアをたたく音は、しばらくつづいていた。男は、むちゅうで試験管しけんかんをふっていた。

 たまりかねたおかみさんは、とうとう、だまってはいってきた。

「まあ! これは……」

 ひと足ふみこんだおかみさんは、たちまちしかめっつらになって、ふきげんな声をはりあげた。

 部屋へやがだいなしになっている。わらくずがちらかり、ふるトランクがなげだされ、空籠あきかごがほうりだされてある。

 おかみさんはいきなり、はらだちまぎれに、テーブルの上の麦わらを手荒くほうりだした。

 がしゃんと、食事しょくじそらをその上に、音をたててなげだした。

 男は、はじめて、「おやっ?」と、いうように顔をあげた。

「お食事しょくじをもってまいりましたわ」

 おかみさんは男をにらんで、つっけんどんに言った。

 男はへんじもせず、うつむいたままで、テーブルの上においてある眼鏡めがねを大いそぎでとりあげてかけると、やっと、ゆっくりとおかみさんのほうにむきなおった。

 男の動作どうさはすばやかった。しかしおかみさんは、その目玉めだまがぬけ落ちて、ぽかりと二つのふかい穴があいているような男の顔に気づいていた。が、なにくわぬ顔でつっ立っていた。男はいたけだかに、

「この部屋へやに用があったら、ノックをしてからはいってもらいたいね」

「ノックはいたしましたわ。なんどもなんども。でも、だんなさまが、お気づきにならなかったんですよ」

「それはしたかもしれんさ。しかしだね。この実験じっけんは一ぷんもはやく完成かんせいさせなくてはならんのだ。じゃまがはいるとひどくめいわくするんだ。ドアがあく音がするだけでも気がちってこまる。いちど言ったことは、かならずまもってもらいたいね」

 おかみさんはぷんぷんして、

「わかりました。それでしたら、お部屋へやかぎをおかけになったらいかがですか?」

「なるほど、そうだったな。では、これからは鍵をかけることにしよう」

 男は、落ちつきはらってこたえた。おかみさんはなおさらいまいましそうに、

「よろしかったら、このむぎわらを片づけましょうか? ひどくよごれて……」

 男はぎろりとおかみさんをにらみ、きっぱりと、

「ふれんでもらいたいね。この麦わらであなたにひどくめいわくがかかるというのなら、その分だけかねをとってくれたまえ。えんりょなしに勘定書かんじょうがきにつけておいてくれればいいよ」

 これをくと、いままでぷりぷり腹をたてていたおかみさんが、きゅうにねこなで声で、

「それはおそれいります。どのくらいお掃除代そうじだいをいただけましょうか?」

「一シリングでいいだろう?」

「けっこうですわ」

「では一シリングとつけておきなさい。勘定かんじょうをするときにいっしょにはらうから」

「ありがとうございます。ではどうぞ、お食事しょくじをなさってくださいませ」

 おかみさんはれいをいい、テーブルかけをひろげて、食事しょくじのしたくをととのえ、げるように部屋へやをでていった。台所だいどころへもどりながら、

「なんておかしな人だろう。でも、掃除代そうじだいが一シリングならわるくないわ」

と、つぶやいた。


うわさばなし


 黒馬旅館くろうまりょかん平和へいわはなくなってしまった。このいなかの旅館りょかんは、いつもひっそりとしずかで、一番いちばんきゃくのたてこむ夏の間でさえ、たいしてわったことがあるわけでなく、おだやかな毎日がくりかえされていた。

 ところが、奇妙きみょうな男がやってきてからというものは、おかみさんも主人しゅじんのホールもすっかりちつきをなくしてしまい、ともすればくらい気もちにおそわれるのだった。

 男の部屋へやからひきとってきたおかみさんは、くるくるといそがしげにはたらきつづけていたが、心の中では、ずっと男のことを考えつづけていた。

 きゃくの部屋は、一日中ひっそりと静かだった。

 夕方、とつぜん、れいの客の部屋から、ものすごい音がひびいてきた。

 がちゃーん、がちゃがちゃがちゃ!

 ガラスびんや試験管しけんかんがぶつかりあったらしい、はげしい音だった。

「たいへんだ!」

 おかみさんはひと声さけぶと、手にしていたなべをほうりだし、台所だいどころからよこっとびにとびだしていった。

 どん、どんどん……。

 はげしくきゃく部屋へやをノックした。なんのこたえもない。

 どーんとからだごとぶつかってみた。しかし、ドアはうちがわから、しっかりとじょうがかかっている。

 こんどは、ドアにぴったりとくっつくと、じっとききみみをたてた。

 部屋へやの中からは、男のわめく声が聞こえてきた。

「だめだ、また失敗しっぱいだ。どうもうまくいかんぞ。三十万かな、いや、四十万かな、なにしろたいしたかずだ。おれはだまされたのかな? こんなことをやっていたら、一生かかってもできあがらないぞ、こまったなあ」

 いかりとかなしみにしずんだ声だった。

 それっきり、しばらく声はとぎれていたが、また、気をとりなおしたのか、

「やっぱりがまんしてつづけよう。ここでげだしては、いままでの苦心くしんも水のあわだ。それにしても、こんど、あいつに会ったら、ただではすまさんぞ」

 おかみさんには、なんのことかわからなかったが、いかにも意味いみありげな言葉ことばだった。

 おかみさんは、全身ぜんしんみみにして、男の声を聞いていた。

 そのとき、

「こんにちは、おかみさん。いっぱいのませておくんなせえ」

 大声おおごえをあげて、入口いりぐち酒場さかばきゃくがはいってきた。

「ああ、もうすこし聞いていれば、なんのことだかわかるかもしれないのに……」

 おかみさんはしたうちをしながら、酒場さかばにでていった。

 部屋へやのさわぎはおさまったらしく、それっきり二度とさわぎはおこらなかった。ときどき、いすがきしむかすかな音と、びんがふれあうひびきが、かすかにきこえるだけだった。

 いっぽう、馬車屋ばしゃやのフィアレンサイドは、黒馬旅館くろうまりょかんにきみょうなきゃく荷物にもつはこんだ日の夜おそく、アイピング村のはずれのちいさなビヤホールで、一ぱいかたむけながら、いつまでもいきおいこんでしゃべりつづけていた。

 あいては、時計屋のテッディ・ヘンフリイともうひとりの村の男だった。

「おれはこの年になるまで、あんなへんなやろうは見たことがねえよ。おれのいぬが、あいつの足をがぶりとやったとき、おれはたしかに見たんだよ。あの男の足はまっ黒なんだ」

「ほんとうかい? 人間にんげんの足がまっくろだなんてことがあるものかなあ」

「おれの言うことをうたぐるのかい? おれはちゃんと見たんだぜ。ズボンのさけ目と手袋てぶくろのやぶれたところから、はっきりくろぼうのようにまっ黒なはだがみえたんだ。おめえなんか、どう思っていたかしらねえがね」

 フィアレンサイドは、いのまわってきたビールのいきおいもあって、テーブルをたたきながら、がんとして言いはった。ヘンフリイはまだ半信半疑はんしんはんぎで、

「だとすると、おかしいじゃないか? あいつのはなはちゃんと白いんだぞ」

「そうだよ。おめえの言うとおり、やつの鼻は白いんだ。だからさ、おれが考えるのに、たぶんあいつのからだはあちこち色がちがうんだろう。白いところと黒いところがあってさ。まだらになってるだろうよ。だもんで、やつはずかしがって、あんなにえりまきやオーバーをしっかり身につけて、かくしてるんだよ」

「まるでシマうまみたいじゃないか。白と黒のまだらだなんて、はっはっは」

「はっはっはっはっ」

 三人は声をあわせてわらいころげた。いつまでたっても、かれらのはなしはつきそうもなかった。


ゆうぐれになると


 馬車屋ばしゃやのフィアレンサイドと時計屋とけいやのヘンフリイの口から、黒馬旅館くろうまりょかんにとまったきみょうなきゃくのことは、たちまちのうちにアイピング村にひろまっていった。

 うわさはうわさを生んで、村人たちはよるとさわると男の話でもちきりだった。

 しかし、村人たちはかれの姿すがたを見かけることは、ほとんどなかった。男はたいてい部屋へやにこもりきりで、いっしんに実験じっけんをつづけていたからだ。日曜日にちようびに、村の人たちがみんなそろってでかける教会きょうかいへもこないし、日曜だからといって、ゆっくりやすむということもなかった。

 ふるくからの習慣しゅうかんをまもって、平和にらしている村の人たちは、この男のやることが気まぐれで、ひどく変わっているように思えた。

黒馬旅館くろうまりょかんでは、よくあんなわったきゃくをとまらせておくねえ。どんな考えでいるんだろう」

 村人は、ホールやおかみさんのホール夫人に聞こえぬところでは、よくこんなことをささやきあった。ホールは、こんなかげ口を耳にはさむと、

「おい、どうかして、あのきゃくをことわるわけにはゆかないのかい?」

と、いやな顔をしながらホール夫人に言った。かれはそのきゃくがきらいだった。廊下ろうかでばったり顔をあわせるようなことがあっても、わざとよこをむいて、むしかないことをあからさまにしめしたりした。

 おかみさんは、主人しゅじんきゃくのことを言いだすと、できるだけひややかな態度たいどをとり、いかにもりこうぶった口ぶりで、

「ただむしがすかないからって、あんなにかねばなれのいいおきゃくさんをことわる人があるものですか。夏になって絵かきさんたちが避暑ひしょにくるまでは、気むずかしくても、きちんきちんとお勘定かんじょうはらってくれるお客を、だいじにしなくてはね」

 こういわれると、ホールはだまりこんでしまった。

 ところが、かねばなれのいいはずの男も、四月にはいると、そろそろふところがさびしくなってきたようすだった。それまでは、たびたびおかみさんの顔をしかめさすようなことをしでかしても、そのたびに、さっさとよぶんのお金をはらって、ホール夫人に叱言こごとをいわせるようなことはなかったが、四月になってからは、目にみえて金ばらいがわるくなってきた。

 こうなると、さすがのおかみさんも、ときにはいやな顔を見せるようになってきた。

 その日も、ホールとホール夫人ふじんがおそい昼食ちゅうしょくをとっていると、その部屋へやからいらいらと歩きまわるきゃく足音あしおとがひびき、そのうちにはげしいいかこえとともに、かべになにかをぶつけるけたたましい音がきこえてきた。

「おい、またはじまったじゃないか。いまにあの部屋へやはめちゃめちゃになって使いものにならなくなるぞ。おれがいったように、あんなえたいのしれないやつは、早く追いだしてしまったほうがよかったんだ」

 ホールがおかみさんにむかって言った。

「うるさいねえ。なにかって言えば、つべこべとうるさいことばかり」

 おかみさんは高びしゃに言った。しかし、ホールも負けてはいなかった。

「なんだい、あんなへんなきゃくめるくらいなら、いっそ化物ばけものでもとめたほうが気がきいてるよ。まだ夜もあけないうちから起きだして、いそがしそうに動きまわるかと思うと、ひるすぎてやっとベッドをはなれて、ゆっくりたばこをすいながら、なん時間ものこのこと部屋を歩きまわっている。ときによると一日中にちじゅうなんにもしないで、暖炉だんろのまえでいねむりばかりしているときもあるじゃないか。ことに、このごろのいらいらしてるようすときたら、ただじゃないよ。とんでもないことをしでかさないうちに、でていってもらったほうがいいぜ」

 二人のあらそいはいつまでたってもおわりそうもなかった。ことにきゃくかねばらいがわるくなってからは、よけいにホールが、おかみさんにしつこくいやをいいはじめた。

 さわぎは黒馬旅館くろうまりょかんの中だけではなかった。このごろアイピング村では、日が暮れるがはやいか人びとは、しっかりと戸口とぐちじょうをかけ、いつまでもないでいる子どもにむかって、

「いつまでも寝ないでいると、黒馬旅館くろうまりょかんのこわい男がやってくるぞ」

というのだった。村人むらびとたちは夕ぐれ時、頭から手の先まですっかりつつみこんだかっこうで、人通ひとどおりの少ないうら道とか、木のしげりあったくらいじめじめした場所を散歩さんぽしているれいの男にでくわすと、子どもだけでなく大人おとなでさえ、ひやっとすじにつめたい水をびせかけられたような気分きぶんになった。


あやしいきゃく正体しょうたい


牧師ぼくしの家の怪盗かいとう


 四月になった、とある日、とうとうたいへんな事件じけんが持ちあがってしまった。

 事件じけんというのは、牧師館ぼくしかん気味きみのわるいどろぼうがはいったことなのだ。

 夜あけもまぢかな、人のしずまったしずかな時間じかんだった。

「おやっ?」

 牧師ぼくし夫人ふじんは、そっとベッドに起きあがり、耳をすませた。じぶんのねむっている部屋へやのドアが一度あいて、またしまる音を聞いたような気がしたのである。

 しかし部屋へやには、なんのかわりもない。気のまよいかなと、夫人ふじんがよこになりかけると、となりの部屋へやから、ぱたぱたと、はだしで歩く足音あしおとがはっきりときこえた。

「あなた」

 夫人ふじんは、ふるえながら牧師ぼくしをゆり起こした。

「どろぼうよ。ほら足音あしおとが……ね、階段をおりていったでしょう」

 牧師ぼくしは、夫人ふじんの言うとおりに、はっきり足音がしているのをきくと、さっとガウンをはおりスリッパをつっかけて部屋へやをでた。

 下のへやから、ごとごととつくえのひきだしをあける音がする。

「ほら」

 つづいてでてきた夫人ふじんが、そっとひじをつついた。

「よし」

 牧師ぼくしは、大またに寝室しんしつへひっかえすと、やにわに、すみっこにおいてあったかきぼうをにぎりしめ、足音をしのばせて、音のするほうへとおりていった。

 階段かいだんなかほどまでおりたとき、

「くっしゃん!」

と、大きなくしゃみの音が、あたりのしずけさをやぶってひびいた。びくっと、牧師ぼくしはたちどまった。それっきり音はやんだ。牧師ぼくしは、またそろそろとおりていった。

書斎しょさいだな」

 牧師ぼくしは、かたくくちびるをかみしめて、つくえをかきまわすひくい音のきこえている書斎へ、ひと足ずつ近づいていった。

 書斎しょさいのドアは、ほんのすこしひらいている。まっさおな顔でついてきた夫人ふじんをうしろにかばいながら、牧師ぼくしは、そっとのぞきこんだ。

「ちくしょうめ! どこへしまってやがるんだろう」

 口ぎたなくののしる声といっしょに、ぼーっとマッチのもえる音がして、黄色きいろなろうそくの光がゆらいだ。

「おお、ここだ! こんなところへかくしていたんだな」

 どろぼうはよろこびの声をあげ、金貨きんかをちゃらちゃらとならした。

「うぬっ!」

 牧師ぼくしは、かきぼうをにぎりしめた。

 どろぼうのやつは、とうとう牧師ぼくしがだいじにためていた金貨きんかを見つけたらしい。

「あれをぬすまれてはたまるものか。わしがながい間かかって、やっと二ポンド十シリングためたんだぞ」

 もう、ためらうひまはない。牧師ぼくしは、

「このやろう!」

 どなるといっしょに、ドアをけとばして、おどりこんだ。

「あっ!」

 いると思ったどろぼうの姿すがたは、どこにも見えない。どこへもぐったというのだろう。ただつくえの上にともされたろうそくのが、ゆらゆらとゆれているばかりだった。

 二人は、ぽかんと顔を見あわせた。

「たしかにここにいましたよ」

 夫人ふじんが言った。牧師ぼくしつくえの下をのぞきこんだ。夫人はカーテンのかげをさがした。

 そのとき、かすかに部屋へや空気くうきがゆれて、だれかが部屋へやをでてゆくけはいがした。

 が、やはりだれもいないのだ。

金貨きんかはなくなっていますよ」

 夫人ふじんがさけんだ。

「うん、ろうそくだってともっている。だれかがこの部屋にいたことはたしかだよ」

「こんなおかしなことって、あるものでしょうか?」

 夫人はをがちがちいわせて、ふるえていた。

 と、またもや、廊下ろうかで大きなくしゃみがきこえた。

「いるぞ」

 牧師ぼくしは、はじかれたように廊下ろうかにとびだした。あらあらしい足音あしおと廊下ろうかをかけぬけ、台所だいどころのうら口のかんぬきを、らんぼうにひきあけているらしい。

 牧師が台所だいどころにとびこんだしゅんかん、戸はあけられ、かすかな人のけはいが外へむかってかけだしたようだった。しかし、牧師の目には、やはりなにも見えなかった。

 牧師ぼくし夫人ふじんは、まっさおな顔を見あわしたまま、いつまでもいつまでも、じっと立っていた。

 姿すがたのないどろぼうが牧師館ぼくしかんにおしいったといううわさは、その日のうちに、アイピング村じゅうにひろまっていった。


家具かぐがおどる


 牧師館ぼくしかん姿すがたのないどろぼうにひっかきまわされていたころ、黒馬旅館くろうまりょかんの女あるじホール夫人ふじんは、

「おまえさん、起きてくださいよ。ぐずぐずしていてはこまりますよ」

 さかんに亭主ていしゅのホールをたたき起こしていた。二人は、お手伝いのミリーよりも早く起きて、いつものように穴蔵あなぐらにしこんだビールにサルサこんからとったえきをまぜ、いちだんとあじをよくしようというのだ。

 おかみさんは、まだ寝ぼけまなこをこすっているホールをひったてて、穴蔵あなぐらにおりていったが、

「おや、サルサこんえきのはいったびんを持ってくるのをわすれたよ。ちょいとおまえさん、大いそぎでとってきておくれよ」

「よしきた」

 ホールは気がるにひきうけ、じぶんの部屋へやからいいつかったびんをとりだし、穴蔵あなぐらへゆく階段かいだんをかけおりようとした。

「おやっ! 玄関げんかんのとびらのかんぬきがはずれているぞ」

 ホールはびんを片手かたてに、ぽかんとドアの前につったって、ゆうべたしかに玄関げんかんのドアはしめたはずだ、と思った。

「そうだ。おれがろうそくをもって、うちのやつが家じゅうの戸じまりをしてまわったんだから、まちがいないな。それに、はて、あのきゃく部屋へやもあいてたようだったぞ」

 ホールはそのまま、おくへひっかえして、客部屋のドアをおしてみた。あんのとおり、ドアはもなくひらいた。

 きゃく姿すがたはどこにもみえない。ベッドの中はもぬけのからで、ぬぎちらしたふくがあたりにちらばっている。ホールは、おかみさんのところにかけおりていった。

「おいおい、ジャニイや、ヘンフリイが言ったとおり、あの客は大悪党だいあくとうらしいぜ」

 おかみさんは、それをきくとかんしゃくをおこしてどなった。

「なにをねぼけたことを言ってるのさ。しっかりおしよ」

「ねぼけてなんかいねえよ。きゃく部屋へやにいねえし、玄関げんかんのかんぬきははずれているんだ。が、やつのふく部屋へやにほうりだしてあるんだが。とすると、はだかででかけたのかな?」

「おまえさん、それはほんとの話かい?」

「ほんとうとも……しんじないなら、おまえ、じぶんの目でみてみな」

 おかみさんは顔いろをかえ、とっとっと階段かいだんをのぼっていった。ホールはあとにつづいた。

 穴蔵あなぐら階段かいだんをのぼって一階にでたときだった。大きなくしゃみが、近くできこえた。

 おかみさんはホールのくしゃみだと思い、ホールはおかみさんのだと考えて、おたがいに気にとめなかった。

「あら、ほんとにいないわ。へんだねえ、どうしたってんだろう」

 おかみさんは、さっさと部屋へやにはいりこんで、ベッドにさわりながらさけんだ。

 そのとたん、すぐうしろで、くすんくすんはなをすする音がした。おかみさんはすこしも気づかなかった。

「おまえさん、ちょっときてごらんよ。まだ夜あけ前だってのに、このベッドは起きてから一時間もたってるように、すっかりつめたくなってるんだよ」

「どれどれ」

 ホールも、おくればせに近よってきた。

 このときだった。世にもふしぎな、だれに言ってもしんじてもらえそうもないことが、とつぜんに起こりはじめた。

 まずさいしょは、ふとんがくるくるとまかれ、ぱっとベッドの外にとびだした。つぎにははしらにかかっていた帽子ぼうしが、きりきりとちゅうにって、二、三回転かいてんしたかと思うと、矢のようにおかみさんの顔めがけてぶつかってきた。

「ああっ!」

 おかみさんが帽子ぼうしをさけようと、右にむいたとたん、こんどは洗面台せんめんだいのスポンジがとんできた。つぎはズボン、そのつぎはふく恐怖きょうふに顔をひきつらして、かの女が部屋へやをうろうろとげまどうと、どこからともなく、からからとあざわらうつめたい声がきこえてきた。

 さいごに、いすがすうっとちゅうにうかんだ。とみるまに、おかみさんめがけて、すごいいきおいで飛んできた。

「たすけてっ!」

 おかみさんは悲鳴ひめいをあげて、にげまどった。いすはおかみさんの背中せなかにぴたっとくっついた。

「あれっ! たすけて、だれかきて!」

 なきさけぶおかみさんを、いすはぐいぐいとおし、部屋へやの外につきだした。ホールはうようにして、いっしょに外にころがりでた。

 ばたんと、二人のうしろでドアがいきおいよくしまった。

 二人がいのちからがら、台所だいどころまでげのびると、お手伝いのミリーがかけつけてきた。

 やっとこさでじぶんの部屋へやにおちついたとき、ホール夫人ふじんは、うわ言のように、

「ゆうれいだわ、きっとそうだ。そうでなければ、いすやズボンが、まるで生き物のようにとび歩くはずがないわ。ホール、すぐに玄関げんかんのかぎをかけてちょうだい。あの男が帰ってきても中へ入れないように、早く、早く」

「ジャニイ、気をしずめなさい。ほら、これをぐっとひと口のんでごらん。ずっと気分きぶんがしずまるから」

 ホールがうろうろしながら、気つけぐすりをおかみさんの口におしあてた。

「へんだ、へんだと思っていたんだけど……やっぱりあの男はわるい魔法まほうをつかうんだわ。おっかさんのだいからのだいじな家具かぐに、悪霊あくりょうをふきこんだんだわ。でなければ、いつもおっかさんがこしかけていた、あのなつかしいいすが、わたしに飛びかかってくるはずがないわ」

「さあ、ジャニイ、もうひと口飲みなよ。おまえはえらくこうふんしてるよ」

 ホールが一しんになだめた。

 やがて夜がすっかり明けはなれ、明るい太陽たいようの光がまばゆくかがやきはじめると、黒馬旅館くろうまりょかんには、鍛冶屋かじやのウォッジャーズ、雑貨屋ざっかやのハクスターがよび集められた。

 しかし、だれひとり、この奇怪きかいな話をきいて、これからどうすればいいか、はっきりと言える者はいなかった。

 相談そうだんはおなじところをめぐって、いつまでたってもらちがあかない。

 ついに、ウォッジャーズがホールにむかって、

「これはやはり、おまえが客人きゃくじん部屋へやにいって、どういうわけでこんな奇怪きかいなことが起こったのか、よくよくわけをきかしてもらってくるのが、いちばんいい方法ほうほうじゃないかね」

と言いだした。これには、すぐにみんながさんせいして、お人よしのホールは、のこのこときゃく部屋へやにでかけていった。

「お客さま、ちょっとうかがわせておもらいもうしてえだが──」

 ホールがまのびした声をかけた、とたん、

「うるさい、でてゆけ!」

 すさまじい声といっしょに、ホールはむねぐらをどーんとつかれて、ばったりたおれた。


魔術師まじゅつしか?


 り、りりりーん! もうれつないきおいでベルがなった。

 これで三度目どめだ。あの化けものの客部屋きゃくべやからである。

「なんどでもならすがいいわ。だれがいってやるもんか。あんな男は悪魔あくまに食われて死んでしまえばいいんだ」

 おかみさんは、長いすによこになったきり、にくにくしそうに言って、起きあがろうともしない。

 あれっきりきゃく部屋へやにはよりつく人もない。おかみさんは朝食ちょうしょくをもってゆかなかった。きっと客は、はらをすかせてよわりきっているのだろう。

 ひるちかくになると、おかみさんはいいにおいをたてて、じゅうじゅうとにくをやきはじめた。

 たまりかねた男は、台所だいどころ戸口とぐちにたって、

「おかみさんはいないかね? すぐに、へやへきてくれ」

 はや口に言って、姿すがたをけした。

「ふん、お呼びかね」

 おかみさんはうしろ姿すがたどくづきながら、ちょっと考えて、勘定書かんじょうがきをひょいとぼんの上にのせ、きゃくのへやにはいっていった。

「お勘定かんじょうでございますか?」

 ぼんをつきつけながら、おかみさんはすまして言った。

「なにを言ってるんだ。だれが勘定だといった。ぼくはまだ朝食もくってないんだぜ。なぜ、ぼくの食事しょくじ支度したくをしてくれないんだ。ベルをならしても知らんぷりだ。ぼくは仙人せんにんじゃないぞ。めしもくわずに生きていられるか」

「おやおや、お食事しょくじのさいそくでございますか? では、わたくしにもさいそくさせてくださいませ。お勘定かんじょうをしていただきたいんです」

「三日まえに言っただろう。まだかねを送ってこないんだよ」

「あたしは二日まえに、ちゃんともうしたはずですわ。これいじょうお金を送ってくるのなんかっていられないんです。あなたさまは朝の食事がほんのすこしおくれたからって、がみがみとおしかりになりますが、あたしどもはもう、五日もお勘定かんじょうをまっておりますよ」

「な、なにを言うんだ。人をぺこぺこのきっぱらにさせておいて……け、けしからん。じつにけしからん」

「けしからんのは、そちらですよ。食事のさいそくをなさるくらいなら、さっさとお勘定かんじょうをはらってからにしていただきたいですね。わたしのほうが、よっぽどさいそくしたいですよ」

 この言葉ことばは、さすがに男の心にぐさりとつきささったらしい。男はにわかにおとなしくなり、

「まあ、そう腹をたてないでくれたまえ。じつは、ないと思った金が、おもいがけなくポケットの中にすこしばかり残っていたんだ」

「ええっ!」

 とたんにおかみさんの頭に、さっき村の人がかけこんで話したばかりの牧師館ぼくしかんのどろぼうのことが、さっと頭にひらめいた。なんとなく思いあたるものがあった。

 そこで、ずばりとたずねた。

「お金があったんですって? いったい、どこで手にお入れになったのかしら……」

 みるみる男のようすがおちつきをうしない、はげしいいかりにぶるぶるふるえ、じだんだをふんでどなった。

「なにをぬかす。失礼しつれいなやつめ!」

 おかみさんはすこしもひるまず、

「ちっとも失礼じゃございませんわ。お勘定かんじょうをいただくにしろ、朝の食事しょくじ用意よういしますにしろ、そのまえにぜひともはっきりうかがっておきたいことがございます。おきゃくさまは、いったいどうやって、いすに魔法まほうをかけてあやつり、いつのまに部屋へやからぬけだし、また、いつおかえりになったのですか? なんのことわりもなく、空気くうきのように、かって気ままに出入りなさってはめいわくでございますよ。それに──」

 男は、

「うるさい、やめろ、やめろ!」

 ものすごいけんまくでどなりちらし、足をふみならした。

「ようし、きさまたちがそんなりょうけんなら考えがあるぞ。おれがどんな人間にんげんか、おまえらにわかるはずはないんだ。が、知りたければ知らせてやろう。見ておくがいい!」


恐怖きょうふ一瞬いっしゅん


 いかりくるった男は、ついにじぶんから正体しょうたいをあらわしたのだった。

「見よ!」

 男は手袋てぶくろをはめた手をふりまわし、

「おれがどんな人間にんげんか知りたければしらせてやろう。よく見ておけ!」

 そのすさまじさに、おかみさんはちぢみあがってしまった。

 男は、ぱっと手をひろげると、つるりとひとなでかおをなでおろした。

 すると、顔のまん中に、ぽかりとあながあいた。

「さあ」

 男は手ににぎったものを、おかみさんの手のなかにおしつけた。

 みるまに変わってしまった男の顔に、どぎもをぬかれてしまったおかみさんは、男のわたすものを、ひょいとうけとった。

 が、ひと目みるなり、かなきり声をあげてほうりだしてしまった。

 はなだ! たったいままで男の顔にくっついていた鼻なのである。

 ピンク色に光った鼻は、ごろごろとゆかをころがっていった。

「だれかきて!」

 おかみさんの必死ひっしのさけびに、ホールや酒場さかばにいた男の連中れんちゅうがどやどやとかけつけてきた。

 男は、その連中のまえで、ゆうゆうと眼鏡めがねをはずし、帽子ぼうしをとった。

 かけつけた連中は、立ちすくんでいきをのみ、男のやることをながめているばかりだった。

 こんどは、ほうたいをぐるぐるほどきはじめた。

 人びとは、ほうたいの下から、どんなおそろしい顔があらわれるのか、と考えただけでも、おそろしさにぞっとして、じっとしていられなくなった。うき足だったひとりが、

「こいつあたいへんだ!」

 大声をあげると、わっとばかり、ひとりのこらずげだしてしまった。

 ホール夫人だけは、足がすくんで、その場にとりのこされていた。

 男の顔から、ほうたいがつぎつぎととられてゆくにつれて、どうしたというのだろう?──

 そのあとには、なにもなくなってしまったのである。考えていたような恐ろしい顔も、みにくい顔もあらわれてはこずに、男の顔はかき消え、くびなしの怪人かいじんがそこにつっ立っていた。

 首なしのけものは、そのまま、玄関げんかんにかけだしていった。

 入口の酒場さかばにより集まって、がやがやとさわいでいた村の連中に、ホール、それからお手伝てつだいのミリーがけたたましい悲鳴ひめいをあげて、玄関げんかんのとびらをおしあけて、こぼれちるようにわっと外へとびだした。

 それからあとのさわぎは、お話するまでもなかった。

 人びとはとおまきに黒馬旅館くろうまりょかんをとりかこんで、

「頭がねえそうだよ。ほんとにねえんだ。帽子ぼうしをとって、ほうたいをはずしたら、その下にあるはずの頭がなかったってんだ」

「ばかを言え。そんなことがあるはずがねえよ」

「ほんとだってば、おや、巡査じゅんさのジャッファーズがきたよ。けものをつかまえにきたんだ」

 旅館りょかんをとりかこんでいた人びとは、わっと巡査をとりかこんで、おもい思いにしゃべりたてた。巡査じゅんさは、いばって、

「頭があろうがなかろうが、わしはやつをつかまえなければならん」

「そうです、そうです。おまわりさん、さあ、つかめえてくだせえ」

 ホールは、まっすぐに玄関げんかんにすすみ、入口のドアをいきおいよくあけた。

 ジャッファーズは、えらい元気でとびこんでいった。

 旅館りょかんのうすくら台所だいどころのすみに、首のない人間にんげんが、片手にかじりかけのパン、片手にチーズの大きな切れをもってたっている。

「あれですっ!」

 ホールがさけんだ。

「なんだ、きさまたち! なにしにはいってきやがった」

 くびなしの化物ばけものの、くびのあたりと思われるあたりから、おこった声がきこえてきた。

「ほほう、ずいぶん変わったやつだな。しかし首があろうがなかろうが、わしは逮捕状たいほじょうをもってきてるんだから、からだだけでもつかまえていくぞ」

 巡査じゅんさは、ぱっと男めがけてとびかかった。男はさっとうしろにとびさがり、パンとチーズを巡査じゅんさめがけてなげつけた。

「こんちくしょう! てむかう気か……」

 巡査じゅんさはまっかになっておこった。ホールはせいいっぱい気をきかせてつくえの上のナイフをとり、ちょうど応援おうえんにかけつけた鍛冶屋かじやのウォッジャーズにわたした。

 男はさわぎが大きくなったので、かんかんにはらをたてたらしく、いきなり巡査の顔をいやと言うほどなぐりつけた。

「あっ!」

 ふいをうたれた巡査じゅんさは、一瞬いっしゅんたじろいだが、猛然もうぜんと男にくみついていった。

 けとばす、つきとばす、すごい格闘かくとうがはじまった。

 巡査じゅんさは、苦心くしんのすえに相手のくびをしめあげた。もちろん、見えない首をしめあげるのだから、ずいぶんおかしなものだったが、巡査は一生けんめいだった。

 男は苦しがって、巡査のむこうずねをけとばした。

「足をつかまえてくれ!」

 巡査じゅんさは、いたさをこらえてさけんだ。ホールが足をおさえにきたが、まごまごするうちに、あばらほねのあたりを音がするくらいけとばされて、むねをおさえてしゃがみこんでしまった。

 男はふいに、

「うむ!」

とさけぶと、ばか力をだして巡査じゅんさをなげとばし、あべこべに巡査を下にくみしいてしまった。

「こいつはいけねえ」

 巡査じゅんさのはた色が悪いとみたウォッジャーズは、おく病風びょうかぜにふかれて、戸口とぐちのほうへげだした。そこへ、

「おーい、たすけにきたぞ!」

と、ハクスターと馬車屋ばしゃやがかけこんできた。

 巡査じゅんさとウォッジャーズが、ほっとしたとたん、戸棚とだなから、がらがらとガラスびんが三つ四つころがりおち、はなをつくいやなにおいが部屋いっぱいにひろがった。


くびのない男


「こうさんするよ」

 なにを思ったのか、巡査じゅんさをおさえつけていた手をはなして、くびなし男は立ちあがった。

 みれば、頭ばかりか、右手も左手もなくなっている。手袋てぶくろがぬげてしまったからだ。

 巡査じゅんさは、すばやく起きなおり、威厳いげんをつくろいながら、男に手錠てじょうをはめようとして、なさけない声を出した。

「こいつはいかん、どこへ手錠てじょうをはめればいいんだ、見当けんとうがつかんぞ」

 みんなは、ぎくっとして顔を見あわせた。

「ああっ! やつはくつをぬいだぞ、靴下くつしたもぬいだ。あれっ! 足がない」

 ホールが、とんきょうな声をあげた。

 怪しい男は、うずくまって靴下くつしたをぬいだと思うと、こんどは上着うわぎをぬぎ、チョッキのボタンをはずしはじめた。

 それはにもふしぎな光景こうけいだった。

 ふくだけがちゅうに浮かび、そして、まるで生命せいめいのあるもののように動いて、一枚一枚ぬぎすてられていくのだ。

 人びとはあっけにとられて手も足もでず、ぼんやりとながめるばかりだった。

 男は、さっさとボタンをはずし、チョッキをぽいとぬぎすてた。シャツだけになった。

 そのとき、巡査じゅんさがあわてて大声でさけんだ。

「やめさせろ! 服をみんなぬがさせると、たいへんなことになるぞ! すっかり見えなくなって、つかまえられなくなるんだ」

「そうだ、そうだ、いまのうちにつかまえてしまえ!」

 しかし、すでに男は、手ばやくなにもかもぬぎすてていたので、いまとなっては、あちこち動きまわっている白いシャツだけが、あやしい男のありかをしめしているだけになった。

 シャツのそでがひるがえると、ホールの顔にものすごいげんこつがとんできた。

 巡査じゅんさがシャツめがけてとびついていく。ヘンフリイはうしろからせまっていったが、したたか耳たぶのあたりをなぐりつけられて、悲鳴ひめいをあげた。

 そのうち、シャツがくねくねと気味きみわるく動き、人間にんげんがぬぎすてるようにまるまったと思うと、ぽんとまどぎわになげすてられて、あやしい男は完全かんぜんにその姿すがたしてしまった。

 かれをつかまえる手がかりは、なんにもなくなったのである。

「気をつけろ、ドアをしめろ。外へださないようにして、なんでもいいから、手にさわったものはみんなつかまえて、なぐりつけろ!」

「ほら、いた!」

「いや、こっちだ!」

 だれもかれもむやみに空間くうかんをなぐりつけるばかりで、なんのたしにもならなかった。

「おい、おれをなぐるとはけしからんぞ!」

「おまえをなぐったんじゃないんだよ。あいつはふわふわ浮いてたんでなぐりつけたんだが、やつめ、うまくかわしやがったらしいな。そのはずみでおまえさんをかすったんだ」

 人びとは、むやみにさわぎ、へとへとにつかれてきた。

 そのとき、巡査じゅんさはかれとハクスターの間に動く、いようなけはいをかんじた。

「やつだ!」

 かれは、見当をつけてとびついた。手ごたえがあり、男のがっちりとしたからだをつかまえたとたんに、くびをぐいとしめあげられた。

「つかまえたぞ!」

 巡査じゅんさは、くびをしめられて紫色むらさきいろになりながら、一生けんめいにさけんだ。

 男は、ひどい力で巡査をしめつけながら、しだいに玄関げんかんのほうにでてきた。それにつれて人びとも右に左によろめきながら外へおしだされていった。

 男と巡査がもつれるように玄関げんかんのふみだんまできたとき、巡査はもういきもたえだえになっていた。

「えーい!」

 男は、かけ声といっしょに、巡査じゅんさをぶるんとふりまわして、地面になげとばした。巡査は、ひと声うめき声をあげると、その場にばったりとたおれたまま、動かなくなってしまった。

「わあっ、けものがきたぞ! 巡査じゅんさがたおされた! やられないうちにげろ!」

 村びとは後もみずに、つきあたったりつまずいたりしながら、右へ左へ、くもの子をちらすようにげていった。

 人っこひとりいなくなった道に、巡査じゅんさのジャッファーズだけが、気をうしなってよこたわっていた。


逃走とうそう


 アイピング村から二キロほどへだたったところにあるおか中腹ちゅうふくに、ひとりのこじきがすわっていた。

 名をトーマス・マーヴェルという男で、お人よしですこしばかり頭のはたらきがにぶく、ぶくぶくふとったしまりのない顔をして、頭にはおそろしく時代がかったシルクハットをちょこんとのっけていた。

 かれはさっきから目のまえの草のうえに、二あし長靴ながぐつをきちんとならべて、つくづくと見いっていた。

 片方かたほうはいままではいていた長靴ながぐつで、片方はさっきもらったばかりの長靴だ。

 いままでの分は、足にぴったりとしてはき心地ごこちはよかったが、ひどい古靴ふるぐつで、雨がふると、じくじくと水がしみこんできた。

 もらったばかりのほうは、古くてもなかなかりっぱなしなだったが、かれの足にはすこし大きすぎた。

「どっちをはいたらいいのかな? 水のしみこむのはいやだし、だぶだぶのやつをはくのもいやだし」

 トーマスは、さんさんとかがやく太陽たいようの下で、いつまでも、どちらをはくかまよいつづけて、ぼんやりとくつをみながらすわっていた。

「どちらも長靴ながぐつだが、ふるぼけてるな」

 トーマスのうしろでふいに人の声がした。トーマスは、ふりかえりもせずに、

「そうなんですよ。どっちもいただきものですがね。いままでのやつは水がはいるんです。あっしは、いつも靴はこのへんでいただいておるんですよ。このあたりの人たちは、おうようでなさけぶかいですよ」

「ばかを言え、このへんのやつらはみんないやなやつらばかりだ!」

「そうですかね。だが、わたしはそう思いませんね。この靴だっていただきましたしね」

 トーマスは、こう言ってふりかえった。

 ところが、どうしたわけだろう。いまのいままでしゃべっていた男が、どこにも見あたらないのだ。

「だんな、いったいどこにいらっしゃるんで?」

 かれは、きょろきょろと見まわした。

 風で木のえだがゆれているばかりで、だれひとりいない。

「おやおや、おや? おれはよっぱらったのかな? それとも……」

「こわがらなくてもいいよ。おれはちゃんといるんだから」

「ひゃあ! だんな、どこにいらっしゃるんですか、こわがるなって言われたって、こわくなりますよ」

「こわがらなくてもいいと言ってるじゃないか、おちつけよ。おまえにおれの姿すがたがみえなくても、いることは、ちゃんとここにいるんだから」

 トーマスは、あわてておかの上をぐるぐる見まわした。どこを見ても人っこひとりいなかった。生きているものは、あたりのこずえを飛びまわっている小鳥ことりだけだ。

「助けてくれ! おれはどうかしてしまったよ。空から声がふってくるなんて、ただごとじゃねえや」

「おちつけ、おれはけものじゃないよ。それに、おまえが気がちがったんでもない。おれのいうことを信用しんようしろ。でないと、石をぶつけるぞ」

「だって、だんな、どこにおいでなんです?」

 トーマスの声がおわるかおわらないかに、小石がひょいと地面からいあがったと思うと、びゅっと風をきってかれの肩をめがけてとんできた。

「ひゃあ!」

 トーマスがわめいてげだそうとしたとたん、目に見えないなにかに、どすんと力いっぱいおしとばされて、ひっくりかえってしまった。

「さあ、これでもおれのいうことをしんじないか?」

 トーマスは、やっとこさで起きあがると、草の上にすわりこんで、ふてくされてこたえた。

「どうでもしろ、おれにはなんのことやら、さっぱりわからねえや。ひとりでにとんでくる石だの、空中くうちゅうからふってくる声だの……気味きみのわるいことはやめにしてもらいたいね」

 すると、空中の声はやさしくなり、トーマスをなだめるように、

「おれの姿すがたがおまえに見えないからって、おれはあやしい人間にんげんではないんだ。ただわけがあっておれの姿は空気くうきとおなじで、すきとおっていてだれにも見えないんだ」

「えっ、おれのことをからかわないでくだせえよ。いくらおれがこじきだからって、ばかにしてもらいますまい。すきとおって姿のない人間なんて、いるわけがありませんよ」

「ところがいるんだよ。いま、おれのからだにさわらせてやるからな」

 あっけにとられているトーマスの手が、だれかの手につよくにぎられた。

 トーマスは、おずおずしながら手さぐりであたりをなでまわすと、なるほど、たくましい男のからだが、はっきりと手ざわりでさぐれた。

「こいつはおもしれえや、だんなはほんとにいたんですね。だがからだがすきとおってしまったなんて、ずいぶんふしぎですねえ。だんなの腹の中には、なにもはいってないんですか? パンだのチーズだの食べれば、腹の中に見えるでしょう」

「それはそうだよ、消化しょうかしてしまうまでは見えてるよ」

「なるほど、しかし、どうしてそんなふしぎな体になりなさったのですかね?」

「それにはながいはなしがあるんだ。しかし、そんなことをおまえに話してきかせたって、わかりはしないよ。それよりおれがこうしておまえのあとをつけてきたのは、話したいことがあるからなんだよ」

「おれにたのみたいことですって……いったい、それはなんですね?」

 トーマスは、目をくりくりさせてきいた。

「じつは、おれははだかなので、いろいろのことでこまりきっているんだ。大いそぎで着る物を手にいれてもらいたいんだよ。それからところとな──ほかにもいろいろやってもらいたいことはあるが、とりあえずそれだけを、おまえの力でぜひなんとかしてくれ」

「着る物を手にいれろとおっしゃるんですか、なんだか、あっしは頭がぐらぐらしてきたようだ。すこし落ちついて、ゆっくりと考えさせてくだせえ。だれひとりいないおかからいきなり声がして、なんにも見えねえのに、さぐればたしかにだんながいらっしゃる。からだがすきとおっているんだそうだが……そしてこんどは着物きものとねる所を手にいれろとおっしゃる。あっしは、すっかりめんくらってしまいましたよ」

「いまさら、ぐずぐず言うな。透明人間とうめいにんげんのわしが、おまえをえらんだんだ。おれのためにはたらいてくれ。そうすればおれいはたっぷりやるよ。わかったな」

 そして透明人間とうめいにんげんは、大きなくしゃみをした。

「そのかおり、おまえがおれをうらぎってみろ、どんなことになるか、おもい知らせてやるからな」

 男は、言いおわってぽんとトーマスのかたをたたいた。トーマスは、きゃっと恐怖きょうふのさけびごえをあげ、

「と、とんでもねえ。うらぎったりするものですか……心配しんぱいしねえでも大丈夫だいじょうぶですよ。あっしにできることなら、なんでもいたしますよ──なんなりと言いつけてくだせえ」

 トーマスは、気のどくなほど、はげしくふるえながら言った。


いか透明人間とうめいにんげん


酒場さかばの中


 その日は復活祭ふっかつさいだった。

 アイピング村では、朝はやくから村じゅうの年よりも若いものも晴着はれぎかざって、うきうきしていた。

 黒馬旅館くろうまりょかんでは、亭主ていしゅのホールと雑貨屋ざっかやのハクスターは、とりとめのないばか話をだらだらとつづけていた。そこへ、あらあらしくドアをおして、ひとりの男がはいってきた。

 ふるびたシルクハットを頭にのせた、ずんぐりとした小がらの男で、ひどく、しんけんな顔つきで、わきめもふらず酒場さかばにはいってくると、つかつかととおりぬけて、おくの客部屋きゃくべやのほうへ歩いていった。浮浪者ふろうしゃのトーマスだ。

 そのすばやさときたら、はっと気づいたときには、もう男はおくの客部屋きゃくべやのドアをあけていた。

「おっと、おきゃくさん、お客さん、そこはいまではお客さん用に使っていないんですよ。もどってきてくだせえ」

 ホールが、まのびのした調子ちょうしでどなった。

 男はへんじもしなかったが、まもなく、むっつりした顔でもどってくると、酒場さかばにきて、ききとれないほどひくい声で、酒を注文ちゅうもんして飲みはじめた。

「おい、かわったやつじゃねえか。気をつけたほうがいいぜ」

 ハクスターがホールにささやいた。

 男は、ぐいぐいとながしこむようにたてつづけていくはいものみ、口のはたをてのひらでぬぐうと立ちあがって、中庭なかにわにぶらりとでていった。

 たばこに火をつけ、ぶらぶらとにわを歩きまわっている。いかにも、ものうそうだった。

 が、ハクスターは、男がときどき、ちらりと客部屋きゃくべやまどにするどい視線しせんを送っているのを見のがさなかった。

 どさり!

 重い物がまどからおちる音がした。男は身をかがめて、落ちてきたテーブルクロスにつつんだ大きな包みと、三さつのノートを、小わきにかかえこむとみると、うさぎのようなすばやさで木戸きどから大通おおどおりへ走りでた。

「どろぼう!」

 さっととびあがったハクスターは、いちもくさんにかれのあとを追った。

「どろぼうだっ! つかまえてくれ!」

 ホールも、ハクスターのあとを追ってかけだした。

 外には、あかるい日の光がさんさんとふりこぼれ、着かざった人びとがのどかにゆききしていた。

 シルクハットをかぶり、大きなつつみをかかえたおかしな人かげは、風のように街路がいろをかけぬけ、まちかどをまがっておかへむかって走っていった。

「どろぼうだ! つかまえてくれ」

 ホールとハクスターは声をかぎりにわめいた。しかし、往来おうらいの人びとは、あっけにとられて、ただ見送っているばかりだった。

 とあるまちかどまできたとき、やっとこさで男に追いついた。

「こんちくしょうめっ! もうがさんぞ、つかまえたぞ!」

 おどりかかったと思ったそのとき、ハクスターは、目に見えないなにものかに、むこうずねをちからいっぱいけとばされた。

「わっ!」

 ふいをうたれたハクスターはもんどりうって道にたおれ、それっきり気を失ってしまった。

 つづいて同じようにおどりかかっていったホールも、ものの見事みごとげとばされ、こしほねをしたたかうって起きあがれなくなった。

 シルクハットの男は、そのまま、すごいいきおいでおかのほうへ姿すがたを消していった。


正体しょうたいれると


 夕ぐれがせまってきた。

 シルクハットをかぶったれいの男が、ぶなの並木なみきをぬうようにして、ブランブルハースト街道かいどうをいそぎ足で歩いていた。

 テーブルクロスのつつみとノートは、やはりだいじそうに小わきにかかえている。

 いつのまにか、トーマスの足どりがしだいにおそくなり、のろのろと悲しげな顔つきで考えこみながら歩いていると、空中くうちゅうからせかせかした声がひびいてきた。

「おい、さっさと歩け。なにを考えてるんだ。また、さっきのようにおれをまいてげようというのかい? こんどげてみろ、ただではおかないからな」

げようなんて、そんなことは考えてませんよ。あっ、そんなにかたをつっつかねえでくだせえ。おいら、いまにきずだらけになってしまいますぜ」

 トーマスは、しおしおとこたえた。空中くうちゅうの声はなおも意地いじわるく、

「いいか、こんどげようとしたら、ころしてやるからな」

「とんでもねえ。おいら、あんたをまいてげようなどとは、これっぽっちだって考えていませんよ。ただ、どこでまがったらいいかわからなくて、あのまがり角へはいりこんじまったんですよ。あっしはこのへんの道はちっとも知らねえんです。そんなおそろしいことを言わねえでくだせえ」

 浮浪者ふろうしゃのトーマスは、いまにもきだしそうだった。目にみえて元気をうしない、あきらめきったようすで、とぼとぼと歩きつづけた。

 空中くうちゅうの声は、もちろん言わずとしれた透明人間とうめいにんげんである。

 かれは黒馬旅館くろうまりょかんでうばってきた衣類いるいと、研究けんきゅうノートのつつみをトーマスにもたせ、どこへゆこうとしているのか、しきりに先をいそいでいた。

「なあ、トーマス、アイピング村のばか者どもが、考えなしの大さわぎをおっぱじめやがったおかげで、おれの姿すがた透明とうめい着物きものを身につけさえしなければ、だれにも姿をみられなくなるってことを、みんなに知られてしまったんだ。いまいましいじゃないか。そこで問題もんだいはこれから先どうするかってことだ。どうせ、やつらはおれを追いまわすにきまってるだろうし……なにかいい考えはないか」

「だんな、あっしにいい考えなんてあるはずがないですよ」

 しばらく二人は、だまって道をいそいだ。しだいに夕やみがあたりをつつんで、遠くの家のがちらほらと見えてきた。

 トーマスはつかれきっていた。小わきにかかえたつつみが、しだいに下にずり落ちていった。

「おい、ぼやぼやするな。しっかりと荷物にもつをかかえてあるけ。そのノートはだいじなんだ。なくすんじゃないぞ、しっかり持ってろ!」

 いきなりするどい声がして、トーマスのかたをぐいと透明人間とうめいにんげんがついた。トーマスはあわてて、ずるずるとつつみをひきあげ、しっかりとかかえなおしてから、泣き声をあげ、

「だんな、だんなはあっしをなんに使おうとおっしゃるんで……はじめは旅館りょかんからだんなの荷物にもつをもちだす手伝いをしてくれとおっしゃった。それがすむと、あっしの役目やくめはおわったはずなのに、やはりあっしをはなしてはくださらねえで、こうして荷物をかかえてだんなのいくほうへつれてゆきなさる。いったい、どういうお気もちなんでごぜえますか?」

「つべこべいうな、おまえみたいなやつでもおれにはいり用なんだ。それに、いまにわしが仕事しごとをやりはじめれば、どうしてもおまえの手伝いがいるようになるのだ」

「なにをおやりなさるのかしらねえが、あっしはとても、だんなの役には立ちましねえ。だいいち、じまんではねえが、力はないし、そのうえ、心臓しんぞうもよわいんです。せいぜい、さっきぐらいのことしかやれねえですよ。度胸どきょうはねえし、びくびくしながら手伝ったところで、あんまり役にもたたねえでしょう」

「力がないのはこまるな、見かけだおしなのか……まあいいさ、それに、なにもびくびくすることはないんだ。おれはだいそれたことをたくらんでいるわけじゃないし、おれがいつもくっついててやるから、おれのいうとおりにやればいいんだ」

 トーマスはくびをすくめ、ちょっと考えていたが、思いきって、

「だんながいくらこわがらなくてもいいとおっしゃっても、あっしはうす気味きみわるくて死にてえくらいでさあ。いってえ、どんなことをあっしにしろとおっしゃるんで……あっしだって、いやならいやとおことわりできる権利けんりがあるんですがね」

「だまれ! だまれ、だまれ。だまっておれのいいつけどおりにしていればいいんだ。おまえは利口りこう人間にんげんじゃないし、あまり役に立ちそうもないが、おれのいいつけどおりにやりさえすれば、おれはいつもおまえをまもっていてやろう」

 透明人間とうめいにんげんは、強い力でぐっとトーマスの手首をつかんで、しかりとばした。

「わかってますよ。どうせ、あなたがあっしをはなしてくれないぐらいのことは、知ってまさあね」

 トーマスは、シルクハットをかぶった頭をたれ、しずみきって歩いていった。

 村をすぎていったじぶんには、あたりはとっぷりと日がくれ、美しいほしがきらきらと空にかがやきはじめていた。


ポート・ストウ村で


 よく朝の十時ごろ、トーマスはポート・ストウ村にたどりついた。

 たびのほこりをあび、つかれた顔をして村はずれの宿屋やどやのまえのベンチにすわりこんでいた。

 ベンチの上にはれいのノートが三さつかわひもでしばっておいてある。テーブルクロスのつつみのほうは、とちゅうで透明人間とうめいにんげんの気がかわり、ブランブルハーストをでたところの松林まつばやしですててしまったのである。

 トーマスのようすはひどくへんだった。せかせかとあたりを見まわし、なんども、なんどもポケットに手をつっこんでは、しきりになにかをさがしているようすだった。

 一時間じかんあまりもトーマスはベンチにすわって、こんな奇妙きみょうなことをくりかえしてやっていた。

「やあ、いいお天気じゃありませんか」

 ほがらかな声がひびいて、船員せんいんふうの気さくそうな男が、新聞しんぶん片手かたてにトーマスに近づき、ベンチに腰かけた。

「そうですね」

 トーマスはぎくっとしてふりかえり、気ののらないようすでこたえた。しかし、男はトーマスのようすに気をわるくするでもなく、ひどくあいそうよく、

あつくもなしさむくもなし、じつに気もちのいい朝だ。あなたは、どちらからおいでなさったね」

「遠くからですよ」

「ははあ、おやっ、そこにおいていなさるのは本ですかい?」

 本と聞かれてトーマスは、はっとして大あわてにノートをひざの上にのせた。そのひょうしにかれのポケットで、ちゃらちゃらと金貨きんかの音がした。

 男は、目をまるくして、しげしげとトーマスを見つめた。ほこりでよごれきったトーマスの服装ふくそうに、金貨の音はどう考えてもつかわしくなかったからだ。しかし、その船員せんいんは、すぐに前とおなじあけっぴろげな態度たいどになって、

「おれは、本なんてものはなん年間ねんかんも読んだことがねえが、ずいぶんめずらしいことを書いたのがあるそうだね。その本にもかわったことが書いてあるかね」

「そりゃあそうでさ」

 トーマスは、気がかりらしく、ちらっと相手あいての顔を見て、つづいてあたりを見まわした。

「しかし、けさの新聞しんぶんには、本にまけないほどめずらしいことがのってるぜ」

「そうですかね」

「なんだ、おめえ、まだ新聞を読んでいないのかい? 姿すがたの見えねえ人間ってのが、あらわれたそうで、でかでかと書きまくってあるよ」

 とたんにトーマスは、おちつかなくなってしまった。口をもぐもぐと動かし、むやみにほっぺたをひっかいてから、きこえないほどのほそい声で、

透明人間とうめいにんげんですって、いったいどこにそいつがあらわれたんですね。オーストラリアか、アメリカですかい?」

「ばかを言いたまえ、そんな遠くの話ではないんだ。この土地にあらわれたんだ」

「えっ!」

 トーマスは、ぐるぐるっと心配しんぱいそうにあたりを見まわした。

「はっはっは、このへんといってもこのベンチのまわりじゃねえよ。この近くの村にだよ」

「ああ、そうですか、で、その透明人間とうめいにんげんはなにをしようってんですかね?」

「あばれたいだけあばれたってことだ。なにしろからだが見えねえんだから、どんなことだってやれるさ。だれもつかまえることも、とめることもできないからね。むかし、おとぎ話にあったのが、ほんとのことになったんだね」

「そうですか、あっしはこの四日間、新聞ってやつを見たことがねえんでしてね」

透明人間とうめいにんげんがはじめてあばれだしたのは、アイピング村がはじまりだそうだ」

「それで……」

「その人間はどういう男なのか、アイピング村にくるまではどこにんでいたのか、どんなことをしていたのか、さっぱりわかっていないそうだ。ほら、この新聞をみてみたまえ、アイピング村の怪事件かいじけんって書いてあるだろう」

「なるほど、それではやはり、ほんとうの話なんですね。信じられねえようだが……」

「そいつは、はじめ黒馬旅館くろうまりょかんにとまっていたんだそうだ。頭にほうたいをまいてふくをきこんでいたから、だれひとり透明人間とうめいにんげんだなんて気づかなかったそうだ」

 トーマスは、そっとあたりを見まわしてからうなずいた。

「だが、ついにけのかわのはがれるときがきたんだ。アイピング村の連中れんちゅうは、そいつが透明人間とうめいにんげんとわかったので、大格闘だいかくとうをやってつかまえようとしたが、なにしろ相手あいて姿すがたはみえないんだ。いたずらにさわぎまわるばかりで、とうとうげられたということだ。」

「へえ、ふしぎな話ですな。で、アイピング村であばれてから、透明人間とうめいにんげんはどこへいったのでしょうね」

「さあ、たしかなことではないらしいが、ポート・ストウ方面ほうめんへむかったようすだって書いてあるぜ。おれたちのいるこの村へ、透明人間とうめいにんげんなんていうおかしなやつにやってこられるのは、ありかたくないね」

「まったくですよ。なにしろ姿すがたがみえないんですからね」

 トーマスは船員せんいんの話をききながらも、まわりの物音ものおとに気をくばっていた。かすかな風の動きでも、ききのがさないようにしていた。


じつは、その……


 そして、あたりにかれの主人しゅじん透明人間とうめいにんげんの姿がなさそうだと見きわめをつけると、

「あっしはぐうぜんなことから、あなたのいまおっしゃった透明人間とうめいにんげんを知っているんですよ」

「えっ? おまえが知ってるというのかい?」

「へえ、そうなんですよ。わしがやっと知りあったときのことを聞いてくだせえ。が、びっくらしねえでくだせえよ。たいへんかわったことなんだから」

「そりゃあそうだろうよ。いいよ、びっくりしねえから話してきかせなよ」

「あっしは、透明人間のようにおそろしいやつに、いままでった……」

 言いかけてトーマスはふいに、

「いててて、おおいてえ!」

 苦しそうにさけび、片手で耳をおさえ、片手で本をつかんで、からだをまげておかしなこしつきでベンチから立ちあがった。

 透明人間とうめいにんげんは、いつのまにか、トーマスのところに帰ってきていたのだ。

 トーマスが、見しらぬ船員にかれのことをしゃべりそうになると、ぐいぐいとトーマスの耳をつまみあげた。

 トーマスは、透明人間がかえってきていたと知ると、おそろしさでふるえあがってしまった。

 もう、かれのことを船員せんいんにしゃべるどころではない。透明人間に耳をひっぱられ、ずるずるとくっついていくだけだった。

 しかし、そんなこととはゆめにも知らない船員せんいんは、びっくりしてトーマスをのぞきこみ、

「おいおい、どうかしたのかい? どこがいたいのだ?」

心配しんぱいそうにたずねた。トーマスはじりじりとベンチからとおざかってゆきながら、

いたいんだよ。急にいたみだしたんで、おおいてえ、いてえ」

 しかし、トーマスのようすはどこかへんだった。歯が痛いと言いながら、片手かたてで耳をおさえて、片手かたてでノートをしっかりとつかんでいる。船員は、うさんくさそうにトーマスをじろじろと見て、

「おい、どうしたんだい? 透明人間とうめいにんげんのことを話すと言ったじゃないか?」

「うそでさ。いっぱいかついだだけですよ」

 トーマスがくるしそうにこたえると、船員せんいんはむかっぱらをたてたらしく、

「新聞にだってのっているんだ。透明人間はたしかにいるんだ。なんだ、透明人間を知ってるなんて言って、人をかつぐ気だったのか? しかし、きさまがやつのことをしらなくても、透明人間はいるんだぞ」

新聞しんぶんだって、でたらめを書くこともありますよ。あっしは、このうそをつきはじめたやつを知ってるんですよ。やつの口から透明人間とうめいにんげんなんていうでたらめが話されて、ほうぼうへひろまっていったんですよ」

 船員は、半信半疑はんしんはんぎでトーマスの顔をじっと見つめた。

「だが、新聞にのっているし……りっぱな人たちが証人しょうにんになってるしな」

「うそですよ。うそですよ。だれがなんと言ったってうそにきまってますよ。ばかばかしい、透明人間とうめいにんげんなんてものが、いまの世の中にいるはずがないじゃありませんか」

 トーマスは必死ひっしになって、がんこに言いはった。船員はおもしろくない顔をして、

「それほどはっきりうそとわかっているなら、なんだってはじめにうそだと言わねえんだ」

「なにっ!」

 二人は、ぐっとにらみあった。いまにもどちらからか、げんこのつぶてが飛んできそうなあんばいだった。

「トーマス、ぐずぐずするな、おれといっしょにくるんだ」

 とつぜん、空中くうちゅうから声がした。

 トーマスは、はっとしたようで、そのまま、おかしなこしつきでひょこひょこ歩きだした。

げるのか」

 船員がうしろからどなった。

「逃げるもんか」

 トーマスはくるりとむきなおろうとしたが、あべこべにつきとばされるように、前へとんとんとつんのめった。

 そして、それっきりあともみずに船員せんいんから遠ざかっていった。

 だれかと言いあらそいでもしているようなつぶやきが、いつまでも聞こえていた。

 船員は、大またをひろげこしに両手をあてがって、遠ざかっていく相手をにらみつけ、

「あいつは新聞しんぶんが読めねえんだよ。なにがうそだい。目を大きくあけて新聞をみろ、ちゃんとくわしく書いてあるから、まぬけめ!」

 声のつづくかぎり、どなりまくっていた。


空中くうちゅう金貨きんか


 このことがあって二日ほどたったとき、またまた船員せんいんは、世にもふしぎなできごとにであった。

 船員は、じぶんの部屋じぶんでゆっくりとコーヒーをすすっていた。

 たっぷり砂糖さとうをほうりこんだ、いコーヒーをうまそうに飲みながら、かたわらの新聞をながめていると、

「おおい、あにき、あにきいるかい」

と、われるように戸をたたく者がいる。

「だれだい? しずかにしろ、戸がこわれるじゃないか。戸をたたくのをやめて入ってこい」

 ころがりこんできたのは、かれのなかまのわかいふなのりだった。

「なんだい、ひどくあわてて……どんな大事件だいじけんが起こったっていうのかい? えっ、おまえ、透明人間とうめいにんげんにでもぶつかったというのかね?」

 船員はなかまの顔を、にやにや笑って見ながら声をかけた。

「いいや、透明人間じゃない。だが、おなじようにへんなふしぎなことなんだ」

「ふしぎなこと? まあいいから落ちつきなよ。コーヒーをごちそうするから、ゆっくり話したらどうだい」

 やがて、あついコーヒーがはこぼれ、わかいふなのりはひといきつくと、まだこうふんのさめないようすで話しだした。

「おどろいたの、なんのって、きょうのようにおどろいたことは、いままで一度だってありはしねえよ、あにきだってその場にいあわせたら、きっと目の玉がひっくりかえるほどおどろくにちがいないよ」

「おれがおどろくか、おどろかないか、そんなことはいいけど、その話というのはどんなことなんだい? おまえはかんじんのことはちっとも話してねえぜ」

「うん、それだよ。おれが朝はやくセント・マイクル小路こうじを歩いていたんだ。まだ時間が早かったので、まちはしいんとしていて、通っている人は、おれのずっと先を歩いている年よりきりで、ほかに人かげは前にもあとにも見えなかった。おれはこんど乗っていく船や、ゆく先のみなとのことをかんがえて歩いていた。その時、どういうきっかけだったかわからないが、ひょいとよこのかべに目をやった」

「うん、それで……」

「そのとたんに、おどろいたねえ。ひとにぎりの金貨きんかが、かべにそって空中くうちゅうをふわふわととんでいるんだ。それを見たときのびっくりしたこと……おれは思わずなんども目をこすったよ。が、なん度見なおしても、ほんものの金貨だ。かなりの早さでんでいくんだ。じっと見つめているうちに、すこしおどろきがおさまると、よくがむらむらっと起こったんだ」

「その金貨きんかを、じぶんのものにしようとしたのかい?」

 ふなのりはいつのまにか、わかいなかまのふしぎな話にひきずりこまれて、熱心ねっしんにきいていた。

「おはずかしいが、そうなんだ。あたりに人はいない、金貨きんか持主もちぬしがいるようではなし、ちょうど手のとどくところをとんでいるんだ。おれは、一枚や二枚ちょうだいしたって、たいして悪くはあるまいと考えたので、ひょいと手をのばして、その金貨きんかをつかもうとした」

「うまくつかめたのか?」

「いいや、手をのばしたとたん、いきなり強い力でなぐりたおされて、その場にばったりとたおれてしまった。ひどくこしをうってのびてしまったが、かろうじていたみをこらえて立ちあがったときには、金貨きんかはちょうちょうがうように、ふわふわとマイクル小路こうじのかどを消えていったんだ」

「おまえ、ゆめでも見ていたのじゃないか? ゆうべ、ぐっすりねむったのかい?」

 ふなのりがうたぐりぶかい調子ちょうしでいうと、わかいなかまは、不平ふへいそうにほおをふくらし、

「いやになるなあ、あにきまでがそんなことを言うのですかい? おれのこしは、その時すごい力でなぐりたおされて、いやっというほど地面にうちつけたので、いまでもずきんずきんいたんでますよ。おれだってさっきまで、金貨きんか空中くうちゅうをふわふわぶなんてことがあるとは思ってませんでしたよ。だけど、はっきりじぶんの目でみたんです。これよりたしかなことはありませんよ。おれは金貨きんかがマイクル小路こうじのかどにえてゆくまで、じっと見ていて、その足であにきのところへかけつけてきたんだよ」

「そうか、では、まんざらうそでもなさそうだし、おまえがぼけていたわけでもないんだね。とすると、ずいぶんふしぎな気味きみのわるい話じゃないか」

「そうなんだよ。おれも金貨きんかが見えてる間は無我むがむちゅうだったが、金貨が消えてしまったとたん、ぞっとしたね。がたがたとふるえてきて、どうしてもとまらねえんだ。このごろはへんなことばかりつづくじゃないか。透明人間とうめいにんげんだなんておそろしいやつのことを、新聞がでかでか書きたてたと思うと、金貨が空中くうちゅうをとびまわる。おれはなんとなくおそろしくてしかたがないよ」

 ふなのりは、その時、なぜともなく宿屋やどやの前で会ったシルクハットをかぶったみょうな男のことと、そのとき空中くうちゅうからきこえた声のことをふっと思いだした。

(おれも頭がどうかしているのかな。あのときふいに空中くうちゅうから声がきこえてきたような気がしたが……そら耳だと思っていたが、もしかすると、ほんとに空中からきこえたのかもしれないぞ。金貨が空中をぶなら、空中から声がきこえてもふしぎではないかもしれん)

 ひとりで考えこんでしまった。わかいなかまもだまりこんで、やけにたばこばかりすっていた。

 金貨きんか空中くうちゅうぶということは、事実じじつだったらしい。

 その証拠しょうこにポート・ストウ村では、一日じゅう、ほうぼうの物かげやへいのそばを、金貨きんかがふわふわと飛んでいた。

 そのようすを見たという人はいく人もあった。

「ええ、そうですよ。人もいなければ動物もいません。ただ金貨きんかだけがふわふわとかなりのはやさでんでるんですよ。わたしが近づいたとたんに、どこへともなく消えてしまったんです」

 かれらは口をそろえて言った。

「そしておどろくじゃありませんか。その金貨きんかは、どうも、ほうぼうの金庫やぜにばこからとびだしてきたものらしいんですよ。村の銀行ぎんこう金庫きんこからも、ちょうど片手かたてでつかめるほどの金貨きんかと、紙できちんといた貨幣かへいとが、ふいに空中くうちゅういあがり、おどろく行員こういんをしりに、ふわふわとんで銀行ぎんこうをでてゆき、表通おもてどおりにとびだすと、そのまま見えなくなってしまったそうだ」

 ふしぎなことのあったのは、銀行ぎんこうだけではなかった。

 食料品しょくりょうひんをうっているこじんまりした店では、きゃくにつりせんをわたすために主人しゅじん銭箱ぜにばこのふたをあけた。そのとたん、主人しゅじんはすぐ身近みぢかに人のけはいがせまるような感じをうけた。

「おやっ?」

 主人しゅじんは、あたりを見まわしたが、もちろん、店さきでまだたまご熱心ねっしんに見くらべている客よりほかに、だれもいなかった。

 主人しゅじん銭箱ぜにばこからつりせんをつまみだそうとすると、さっと銭箱の中のひとつかみの金貨が空中へいあがった。

「きゃっ!」

 主人しゅじん悲鳴ひめいをあげて、いあがった金貨のゆくえを見まもるばかりだった。主人の悲鳴におどろいた客も、空中くうちゅうをとびながら店をでて大通りへ金貨が逃げていくのを見ると、すっかりたまげて、つり銭もうけとらず、いちもくさんにわが家へ逃げていった。

 ポート・ストウ村は、ひっくりかえるようなさわぎになってしまった。

 ほうぼうの店や宿屋やどやから、手につかめるほどずつの金貨きんか空中くうちゅうをとんでえていった。

 あちらの通りや、こちらのまちかどで、人びとは金貨きんかんでいるのを見かけたが、人が近づくとふしぎなことに、金貨はさっと身をひるがえすようにかき消えてしまった。

 こうして、ほうぼうの金庫きんこ銭箱ぜひばこからいあがってきた金貨のゆくえを知ったら、村の人たちは、いまよりもっとおどろいたにちがいない。

 金貨きんかは人目をさけて、まちの通りを飛びつづけて村はずれまでやってくると、そこの小さな宿屋やどやのまえで、おどおどとあたりを見まわして心配しんぱいそうに立っている、ふるびたシルクハットをかぶった男のポケットに、吸いこまれるようにはいっていった。


たすけてくれ!


 バードック町は、うしろになだらかな丘がある。丘のふもとのバスの停留所ていりゅうじょのすぐ前の酒場さかばぎんねこ』では、さっきからまるまるとふとったおやじが、むちゆうになって、ひとりのきゃくをあいてに、さかんに、競馬けいばの話をまくしたてていた。

 あいての男は、おやじとはまるっきりはんたいの、やせてひょろひょろした顔いろのわるい男で、商売しょうばい馬車屋ばしゃやだ。

 おやじの言葉ことばに、ときどきあいづちをうちながら、ビスケットにチーズで、ちびちびとさけを飲んでいた。

「なんだい? おもてのほうがだいぶさわがしいようじゃないか」

 とめどのないおやじの話をうちきるように馬車屋が言って、立ちあがると、うすぎたないカーテンのすきまから、おかのほうをのぞいてみた。

「おい、なんだか、おおぜいの人がけていくぜ」

「どれどれ、ほんとうだ。火事かもしれねえな」

 酒場さかばのおやじが気のない調子ちょうしで言ったとたん、ばたばたと足音が近づき、ドアをさっとひらいて、あの浮浪者ふろうしゃのトーマスがとびこんできた。

 かみをふりみだし、いきをはずませて、上着うわぎのえりもはだけてしまっている。れいのふるびたシルクハットは、とっくにどこかへすっとんだらしく、頭へのっかっていなかった。

 びこんでくるなり、トーマスは恐怖きょうふにおののきながら、大声でさけんだ。

「やつが追ってくるんだ。あっしのあとを追って……助けてくだせえ。透明人間とうめいにんげんに追われているんです」

透明人間とうめいにんげんがくるって……そいつはたいへんだ。おいっ! ドアをめろ、ドアを閉めろ!」

 酒場さかばじゅうのものが色をうしなってさわぎたてた。ちょうどきあわせていた警官けいかんは、さすがにほかの者たちよりは落ちついており、すぐにおもてのドアをしっかりとしめてやった。

 おやじも台所のほうへすっんでいくと、うら口のドアを力いっぱい、ひっぱってしめた。

「さあ、もう大丈夫だいじょうぶだよ」

 警官けいかんが言ったが、トーマスはきださんばかりの声をふりしぼって、

「あっしをかくしてくだせえ。どこかおくのほうのかぎのかかる部屋へやにかくしてもらいてえんです。やつがあっしを追っかけてくるんです。あいつはどんなところへでもはいってきますよ。あっしのことをころそうと思っているんです」

「どんなやつかしらないが、ここまでくれば大丈夫だいじょうぶだよ。ドアはしめたし、そちらに警官けいかんもいらっしゃるんだ」

 すみっこで、ひとりでさけをのんでいた、黒いひげをはやしたアメリカなまりの男が言った。

 と、そのとき、ドアがはげしくたたかれた。

透明人間とうめいにんげんだ! はやくどこかへかくしてくだせえ。こんどみつかれば、きっところされてしまうんだ。おお、神さま!」

「この中へはいったらいいだろう」

 おやじが、カウンターのはね板をあげた。トーマスはあわててとびこんだ。

 その間じゅう、ドアをたたく音はひっきりなしにつづいた。

「だれだ?」

 警官けいかんがどなりながらドアに近づいた。トーマスは、それをみると泣き声をふりしぼって、

「戸をあけねえでくだせえ。たのむからあけねえでくだせえ」

 黒ひげの男が、

「外で戸をたたいているのが、透明人間とうめいにんげんだというのか。どんなやつか、見たいものだな」

 その言葉ことばがおわるかおわらないうちに、すさまじい音をたてて、表通りのほうの窓ガラスがわれた。

「きゃっ!」

 トーマスがふるえあがって絶叫ぜっきょうした。

「さあ、こちらへい」

 おやじは気をきかせてトーマスをおくまった部屋へやにかくし、かぎをかけてやってから、もとのところへもどってきた。

 外では、かけまわるたくさんの人の足音とさけび声がいりみだれて、たいへんなさわぎだった。

 警官けいかんはドアに近より鍵穴かぎあなから外をのぞき見しながら、

「ほんとに透明人間とうめいにんげんらしいな。警棒けいぼうをもってくればよかった」

 黒ひげの男も警官のあとにつづき、

「ねえ、かまわないから、かんぬきをぬいてドアをおあけなさい。やつがはいってきたら、ぼくがこいつに物を言わせましょう」

 そして、手にしたピストルを警官けいかんの目のまえに、にゅっとつきだしてみせた。

 ピストルをみると警官けいかんは、あわてて手をふり、

「とんでもない、そいつはこまるよ、きみ。そんなものをふりまわして、相手が運わるく死んでみたまえ、殺人罪さつじんざいになってしまうよ」

「へっへっへ、そんなことは心えていますよ。やつをころしてしまうようなへまはやりませんよ。足をねらいますよ。おれは足をねらう名人めいじんなんだよ。さあ、かんぬきをはずしなさい」

 カーテンのすきまから外のようすをうかがっていたおやじは、あわててうしろをふりかえり、

「わたしをうたんでくださいよ」

と、どなった。

「さあ、こい!」

 黒ひげの男は身がまえ、さっとピストルをにかくした。

 警官けいかんは、ちょっと思案しあんしていたが、いきなりかんぬきを、さっとひきぬいた。

 しかし、ドアはしまったままで、人がはいってくるけはいはさらにない。

 二分たち、三分たった。やはり、なんのかわったこともなかった。

 三人がいきをころしてドアを見つめていると、おく部屋へやから、ひょいとトーマスが頭をだし、

いえじゅうのドアは、みんなしめてありますかい? 透明人間とうめいにんげんのやつは、きっとぐるっとまわって、ひらいてるドアをさがしてみますぜ。悪魔あくまのように、ぬけめのねえやつですからね」

「そいつはたいへんだ。うち口のドアはあけたまんまだ。ちょっとわたしはいってくる。こちらはおまえさんたちにたのみますぜ」

 ふとったおやじは、ころがるようにかけだした。トーマスは顔をひっこめ、ばたんとドアをしめ、かぎをしっかりとかけた。

 やがて、かけもどってきたおやじは、手に大きな肉切包丁にくきりぼうちょうをぶらさげ、心配しんぱいそうに、

にわ木戸きど通用口つうようぐちのドアも、みんなしめるのをわすれていたんだ。そのうえ、庭の木戸はあけっぱなしになっていたんだが……」

透明人間とうめいにんげんが、そこからはいりこんだんじゃないか?」

 気の早い馬車屋ばしゃやが、おやじが話しおわらないうちに、こわそうにさけんだ。

調理場ちょうりばにお手伝いが二人いたが、だれもはいってきたけはいはなかったそうだ」

「しかし、ゆだんはならないぞ!」

 警官けいかんはあたりを、ぐるぐると見まわしながらいった。黒ひげの男は、ぐっとピストルをにぎりなおして、調理場ちょうりばのほうをにらんだ。

 そのとき、ぎ、ぎぎいっーと、おくの部屋へやのドアが、はげしくきしむ音がしたと思うと、あっと思うまもなく、ぱっと大きくあけはなされた。


酒場さかば事件じけん


 トーマスのかなきり声がひびいた。それはちょうどへびにみこまれた小鳥の、かなしいさけび声に似ていた。

「それっ!」

 三人はカウンターをとびこえて、かけつけた。黒ひげの男のピストルがなった。

 と、同時に、おくの部屋へやかがみが音をたててくだけ落ちた。

「助けてくれ! だれかきてくれ!」

 トーマスは、目に見えぬ人にひきずられながら、じたばたともがいている。

 三人は顔を見あわせてためらった。てき姿すがたは、ぜんぜん見えないのだ。どうやってトーマスをかれの手からうばいかえして助けてやればいいのか、さっぱりわからなかった。

 そのひまにトーマスは、ずるずるとひきずられて、おくの部屋へやから調理場ちょうりばへひきずりこまれていった。たなからフライパンやなべが、けたたましい音をたててころがり落ちた。

「どけろ! どけろ!」

 警官けいかんはおやじをおしのけ、トーマスのくびすじをおさえている手があると思われるあたりに、ぎゅっとしがみついた。

「ええい! じゃまするな」

 いかりにもえた声がして、警官けいかんはものの見事みごとに、その場になぐりたおされた。

 トーマスは必死ひっしになって、ドアのとっ手にしがみついたが、なんのかいもなく、みるまにひきずられていった。あとからとびこんできた馬車屋ばしゃやとおやじは、めちゃくちゃに手足をふりまわしているうちに、とうとう、透明人間とうめいにんげんからだのどこかをつかまえた。

「つかまえたぞ! みんなこい! ここにやつがいるぞ!」

「いたぞ! 透明人間とうめいにんげんがいたぞ」

 二人は、つかまえたが最後さいご、どんなことがあってもはなすものかと、むしゃぶりついてあばれまわっている。

 さすがの透明人間とうめいにんげんも、トーマスをつかまえていて、二人を相手あいてでは、たたかえるわけがない。

「ちくしょうめ!」

 いまいましげにしたうちして、トーマスをはなした。二人がむやみにあばれて、げんこつをぶんぶんふりまわすので、透明人間とうめいにんげんもいささかもてあましてきたらしい。

「うん、なんだって、じゃまをしやがるんだ。おまえらの知ったことじゃないんだ」

 透明人間と二人は、はげしく取っ組みあってあばれた。

 そのうち、やっと起きあがった警官けいかん加勢かせいにかけつけ、りょううでを水車みずぐるまのようにふりまわして、目に見えぬてきにおどりかかっていった。

 トーマスは、あばれまわっている人たちの足もとをいまわりながら、必死ひっしで逃げだす道をさがしている。

 調理場ちょうりばでの大乱闘だいらんとうが二十分もつづいたころ、

「おや、おかしいぞ。やつはどこへいっちまったんだ。外へ逃げたのか?」

 黒ひげの男が、ふいに、きょろきょろとあたりを見まわしてさけんだ。

中庭なかにわへ逃げたんだ。てきは中庭だ」

 警官けいかんがまっさきにたって、中庭にとびだそうとした一しゅん……。

 ぴゅうっ──と風をきって屋根やねがわらが、かれの頭をかすめて飛んできた。

 調理台の皿小鉢さらこばちが音をたてて、みじんにくだける。

「ようし、おれがひきうけた」

 黒ひげの男は、ひと声たかくさけんで、警官のかたごしにピストルをつきだし、つづけざまに五発、透明人間のいるらしい方向ほうこうにむけてぶっぱなした。たまはうなりをしょうじてんでいった。ピストルの音がしずまると、にわはしいんとしずまりかえった。

 かわったことは、なにも起こらなかった。

「五発うったぞ。こいつが一番ききめがあったろう。もう、だいじょうぶだ。透明人間の死がいをさがそうじゃないか」


おそるべき発見はっけん


ケンプ博士はくし来客らいきゃく


 その日の夕方、ケンプ博士はくしは、こじんまりしたかれの書斎しょさいで、書きものをしていた。

 博士はくしの家は町をみおろす、おかのうえに建っている。そこからは、丘のふもとの『ぎんねこ』酒場さかばや、バスの停留所ていりゅうじょが、ひと目でみることができた。おだやかな静かな町で、これといって騒がしい事件がおこらない平和な町であった。

 博士はくしのへやのしょだなには、ぎっしりと本がつまっている。自然科学しぜんかがく薬理学やくりがくの本がおもで、まどぎわのつくえには、けんびきょう、スライド、培養ばいようえき、くすりのびんなどが、いちめんにならべてあった。

 とつぜん、ピストルの音がした。ピストルの音は一ぱつだけではなかった。つづけざまに、五発の銃声じゅうせい夕空ゆうぞらにこだまして、まち静寂せいじゃくをやぶった。

 博士はくしは気がかりになってきた。

 この平和なまちにピストルの音がひびくのは、きっとなにか起こったにちがいない。

「なんだろう?」

 博士はくしは南がわのまどをおしひらいてまちを見おろした。

 いつもとかわらぬしずかな景色けしきだったが、しばらく耳をすませていると、ちょうど、『ぎんねこ』酒場さかばのあたりで、がやがやとさわぐただならない人声ひとごえが、風にのってきこえてきた。

酒場さかばのあたりだな」

 博士はくしはつぶやいて、なおもじっと、夕方のまちを見おろしていた。

 夕空ゆうぞらはしだいにくらやみのいろにつつまれ、ほそい新月しんげつゆめのような姿すがたをみせ、ほしもふたつみっつ数をましていった。

 みなとにとまっている汽船きせんに、あかりがつき、きらきらと宝石ほうせきのようにきらめいているのが、とりわけ美しく思われた。

 博士はくしは、いつかピストルの音のしたことなどわすれてしまっていた。

 さわぐ声もきこえなくなっていた。

 博士はくしまどをしめ、もう一つくえのまえにすわった。一時間ほどたったとき、玄関げんかんのベルがはげしくなった。応対おうたいにでていくお手伝いの足音がした。

 しかし、それっきり、なんの音さたもなかった。

「おかしいな? だれかたずねてきたのではなかったのかな?」

 博士はくしは、ふと気になった。大いそぎでお手伝いをよび、

「いまのベルは、郵便配達ゆうびんはいたつだったのかね?」

「いいえ、だんなさま。それがおかしいのでございますよ。ベルはたしかになりましたのに、玄関げんかんにはだれもいないのです。おおかた、子どものいたずらでございましょう」

「子どものいたずらか」

 お手伝いがひきとっていくと、博士はくしはスタンドを手もとにひきよせ、一生けんめいに書き物をはじめた。

 部屋へやの中はしずかで、時をきざむ時計とけいの音だけがきこえている。夜の二時になった。

 博士はくしは書きかけの書類しょるいから頭をあげると、

「もう二時か、そろそろ眠くなってきたな、つかれもしたし、こん夜はこれでおしまいにしよう」

 大きくのびをして、あかりをけすと、階下かいか寝室しんしつへおりていった。

 博士はくしはひどくつかれていた。頭がおもい。

 こんな時、博士はくしはいつも愛用あいようのウィスキーを少し飲んで、ぐっすりねむることにしていた。

「こん夜もすこし飲んでねむろう」

 博士はくしはひとり言をいって、上着うわぎとチョッキをぬいだままの姿すがた台所だいどころにおりていった。

 ウィスキーのびんをさげて、ひっかえしてきたとき、階段かいだんの下にしかれているマットに、ひと所、黒いしみができているのが目についた。

「だれだろう? こんなところにしみをつけて……」

 博士はくしはぶつぶつ言いながら、ひょいと身をかがめて、そのしみをながめた。しみは、ちょうどかわきかけた血のように見えた。

「おかしいな、血かな?」

 博士はくしゆびさきで、そっとさわった。思ったとおりだった。

「だれがこんなところに血をおとしたのかな?」

 にわかにむなさわぎがして、くら予感よかんがしてきた。

 博士はくしは、考えながら寝室しんしつにやってきた。

 と、そこでもまたかれは、おそろしいことに出会であってしまった。

 なにげなく手をかけようとしたドアのハンドルが、血でまっかにそまっているのだ。

 これはただごとではない。

 博士はくし全身ぜんしんが、さっとひいていくようだった。かれの頭には、その時、夕方書斎しょさいできいたピストルの音が、ありありとかんでいた。

 おそろしいことが起こりつつあるのではなかろうか?

 博士はくしはきっとした表情ひょうじょうになり、ゆだんなくあたりを見ながら、しずかに部屋へやにはいっていった。

 しかし博士はくしが考えたように、警官けいかんのピストルできずついたギャングはいなかった。

 ギャングはもちろん、ねこの一ぴきすら部屋へやにはみえない。

 ただ、ベッドの上のふとんが乱暴らんぼうにめくられ、血でよごされ、そのうえ、シーツがびりびりにひきさかれていた。

 ギャングは、警官けいかんに追われて、この家に逃げこみ、ついさっきまでこの寝室しんしつにしのびこんでいたにちがいない。

「そうだ。きっとそうにちがいない。なによりの証拠しょうこに、ベッドにいままで人がこしかけていたらしいくぼみができているじゃないか」

 博士はくしですっかりよごれたベッドのまわりを、ねんいりにしらべた。

「いつのまにしのびこんだのかな?」

 博士はくしがふしぎそうにつぶやいた、そのとき、

「やあ、しばらくだったじゃないか、ケンプ!」

 いかにもなつかしそうによびかける声が、耳のはたでひびいた。

「あっ!」

 ふいをうたれてかれは、けげんそうに部屋へやじゅうをぐるぐる見まわした。

 どこにも声のぬし姿すがたはない。

「だれだね?」

 博士はくしの声はうわずっていた。しかし、こんどは返事へんじがなかった。

 ただ部屋へやをよこぎって歩く足音がして、洗面所せんめんじょのカーテンが、生き物のように動き、するするとひらいたと思うと、すぐにもとのようにしまった。

 博士はくしは声をのみ、ぶきみに動くカーテンをみつめて棒立ぼうだちになっていた。


きずついた透明人間とうめいにんげん


 それから五分もたったであろうか……。

 博士はくしには、ながい時間がたったようにも思われた。

 もう一度カーテンがゆれ動き、なかから、ぼんやりと、のにじんだほうたいでぐるぐる巻きにした頭があらわれてきた。

 頭だけだ。空中くうちゅうにぼんやりかびあがったほうたいまきの頭は、目もなければはなもない。いや頭ぜんたいがないのだ。ほうたいだけが、しっかりとまきつけられている。

 もちろん手も足もありはしない。

 たいていの者なら、ひと目みただけで気絶きぜつしてしまうところだ。

 が、気丈きじょうな博士はまっさおになりながら、じっとそのふしぎなものを見つめていた。

「ケンプ!」

 ふしぎなものは博士をよんだ。

「え?」

「おどろいてるな。ぼくはグリッフィンなんだよ。ほら大学だいがく同級どうきゅうだったグリッフィンだよ。おぼえてるだろう」

「グリッフィンだって……なにをばかなことを……このけものめ!」

 博士はくしはいきなり、ほうたいのほうへ手をのばした。と、どうだろう……。

 人のからだにふれたではないか!

 ぎょっとして手をひっこめ、まじまじと空中くうちゅうにうかぶおかしなものをみた。

「おちついてくれよ、ケンプ。おれはまちがいなくグリッフィンなんだ。ただおれはふとしたことでからだがすきとおってしまい、人の目に見えなくなってしまったんだ。世間せけんのやつらが透明人間とうめいにんげんだとさわいでいるだろう」

 透明人間とうめいにんげんは目に見えぬ手で、しっかりと博士はくしの手をにぎりしめて、いっしんに話した。

 しかし、博士はくしは、その手をふりほどき、めちゃめちゃに手をふりまわして、透明人間にぶつかってきた。

「しずかにしろ! ケンプ、話せばわかることなんだ、話をきいてくれ」

「なにを、このやろう、このばけものめ。はなしもなにもあるものか、ふんづかまえてやるぞ」

「だまれ、おれがおまえなんかにつかまるものか……」

 透明人間とうめいにんげんは、むかっぱらをたてたらしく、とうとう、博士はくしの足をえいっとすくい、ベッドの上にほうりだし、大声をあげて助けをよびそうにしている口の中へ、シーツのはしをぐっとねじこんだ。博士はくしは、こうなっては手足をばたばたさせて、もがくばかりだった。

「しずかにしてくれたまえよ、ケンプ。きみをおどしたり、きみにがいをくわえるつもりできたんではないんだ。ぼくはいまこまっているんだ。きみの助けがほしくてやってきたんだよ」

 博士はくしは、このうえ手むかってもむだだと考えたのか、おとなしくなった。透明人間とうめいにんげんは、口におしこんだシーツをとりのぞき、

「ねえ、きみ、どうかぼくの言うことをしんじてくれたまえ。ぼくは大学だいがくにいたときと同じグリッフィンなんだ。ただ、あることで姿すがたが見えなくなったが、人さまの目に見えないだけで、ぼく自身じしんは、なんにもわったことはないんだ。こころからだむかしのままのグリッフィンなんだよ」

 博士はくしは物わかりのいい人だったし、頭の慟きのするどい人だったので、姿すがたの見えないほうたいのばけものの言葉ことば真実しんじつのあることを見ぬき、

「ずいぶんきばつな話だが、話をきけばあるいはわかるかもしれん。話してみたまえ。それにきみの言うように、わしの目には、きみの姿すがたは見えないが、たしかにからだはあるらしいな。わしの手がたしかにさわったし、きみのうでがわしをなげとばしたからな」

「そうなんだ、そうなんだ。たしかにぼくは頭もある手足もあるんだ……。おそろしいけものなんぞじゃないんだ。ただ研究けんきゅう結果けっかでこんなことになってしまったんだ」

研究けんきゅう結果けっかだって? 研究の結果できみが透明人間とうめいにんげんになったというのかい?」

「そうだよ」

しんじられないね。だいいち、透明人間とうめいにんげんがグリッフィンだと言ったところで、たしかにかれだという証拠しょうこはないわけだ。顔をみることもできんし……もっとも声はグリッフィンらしいが」

「きみ、まだそんなことを言うのかい……ぼくはまちがいなくグリッフィンだよ。ゆっくり話せばうたがいははれるよ。信じてくれたまえ、ケンプ!」

「では、話してみたまえ」

「話そう、が、そのまえにすまないがウィスキーと食事しょくじものがほしいんだよ。じつはけがをしているので、きずはいたむし疲れきっているんだよ」

もの着物きものだって……すこしちたまえ、なにかあるだろう。が、家のものをさわがしたくないから、まにあわせだよ」

 博士は、ちつきをとりもどしていた。科学者かがくしゃらしく、ちみつに頭を働かし、このふしぎな透明人間とうめいにんげん秘密ひみつをできるかぎりさぐりだしてやろうと考えていた。

「なんでもけっこうだよ。死ぬほどつかれているんだ。なにか食べてゆっくりとねむりたいだけなんだ」

 博士は衣裳戸棚いしょうとだなから、古くなったガウンをとりだして、

「これでまにあうかね?」

「けっこうだよ。それにズボン下とくつした、そしてスリッパがあれば申し分ないが……」

 空中くうちゅうの声がへんじをするといっしょに、博士はくしの手からガウンがとりあげられ、空中くうちゅうでばたばたとゆれていたが、そのうち、透明人間とうめいにんげんこんだらしく、しゃんと立ってボタンがひとつずつかけられていった。

「やれやれ、これで身じたくがととのったよ。あとはウィスキーに食べ物があればいいんだ。はだかはらをすかせているのは、まったくつらいよ。まだ夜になると裸ではこおりつきそうに寒いし、はらがすいてたおれそうになるし、まったくつらかったよ」

 透明人間とうめいにんげんは、ふくをきてしまうと、ゆっくりといすにこしをおろした。

「ねえ、ケンプ。早くウィスキーをませてくれないか」

 透明人間とうめいにんげんは、せかせかとさいそくした。

「いまってくるよ。だが、こんなきちがいじみたことにであうのは、生まれてはじめてだよ。ぼくは催眠術さいみんじゅつにかかっているのかな?」

「ばかなことを言いたまえ、ぼくは催眠術なんぞやらないよ」

 博士は、足音をしのばせて台所におりてゆくと、えたカツレツとパンを手にしてもどってきた。

「ウィスキーはここにある。さあ食べたまえ」

 博士はくしはサイドテーブルにそれらをならべると、ほうたいとナイト・ガウンのけものに声をかけた。ウィスキーをグラスについでやると、ナイト・ガウンのそでが動いて、すっとグラスを持ちあげた。グラスを持ちあげたというより、グラスがひとりで空中くうちゅうに浮かびあがっていったような感じだった。

 口のあたりと思われるところでグラスがかたむくと、みるまにウィスキーは飲みほされた。

「ああ、うまい」

 つぎに、カツレツが空中くうちゅういあがった。つづいてパンも……。

「なるほど、見えないよ。で、きずをしているといったが、どこを傷つけられたんだね」

きずはたいしたことはないんだ」

 透明人間とうめいにんげんはがつがつと口いっぱいにほおばって、むさぼるように食べながら言った。

 見るまにウィスキーも食べものも、へっていった。

「ああ、うまい、それにしてもぼくがほうたいをさがしてまよいこんだのが、きみの家だったとはふしぎだな。ぼくはうんがよかったよ。こん夜はめてもらいたいね。ひさしぶりにゆっくりねむりたいんだ。ベッドをでよごしてすまなかったね。からだ透明とうめいになっていても、血だけはかたまると見えてくるんだよ……。そのためにさっきも、あやうくつかまるところを、きみの所ににげこんでたすかったんだ」

「また、どうしてピストルでうちあいなんかやったんだね」

「ばかなやつが、ぼくのかねぬすもうとしたんだ。そいつはぼくがなかまにしようと思ってた男だのに……」

「そいつも透明とうめいなのかい?」

「いいや、かれはふつうの人間にんげんだよ。あいつはぼくをおそれてびくびくしていたくせに、ぼくをうらぎろうとしたんだ。あいつめ、こんどったらぶちころしてやる。ちくしょうめ!」

 透明人間とうめいにんげんは、はげしくからだをふるわしておこりだした。ナイト・ガウンがそれにつれてぶるぶるとふるえた。

 博士はくしは、グリッフィンが大学生のころから、ひどくおこりっぽい感情のはげしい男だったのを思いだして、一生けんめいになだめた。透明人間とうめいにんげんは、ようやくいかりをしずめ、

「ぼくは武器ぶきをつかったりなんかしなかったんだ。それだのに、やつらはおれにむかって、つづけざまにピストルをうつんだ。たいていのやつらはぼくをこわがって、ぼくをっぱらおうとして乱暴らんぼうするんだよ」

「なるほど、が、きみがそんなからだになったいきさつを、話してきかせてほしいな」

「それはゆっくり話すよ。そのまえに、たばこがほしいんだが」

 博士はくしはいわれるままに、たばこを透明人間とうめいにんげんにあたえた。ところが、見るからに奇怪きかいなことが起こった。それは透明人間が、うまそうにたばこをいはじめると、たばこのけむりが流れるにしたがって、くちからのど、そしてはなと、そのかたちがぼんやりとうきあがってきたのだ。

「ありがたい。きみのおかげで、さむさからも空腹くうふくからものがれることができたよ。そのうえ、おちついてたばこをすうことまでできたんだ。まったく感謝かんしゃするよ。しかし、ケンプ、きみは学生時代がくせいじだいと、ちっとも変わっていないな。きみのようにどんなときでも落ちつきはらって、てきぱきと物ごとをかたづけてゆける人間こそたよりになるんだ。これからどうか、ぼくをたすけてくれたまえ」

 透明人間とうめいにんげんが言った。博士は、じぶんもちびちびとウィスキーをのみながら、

「いったいきみはぼくに、なにをやれというのだね。ぼくは人をたすけるどころか、ぼく自身どうしたらいいかと思いまよっているんだよ」

と、博士はくしはくらい表情ひょうじょうでこたえた。そのうち透明人間とうめいにんげんは、にわかにうめき声をあげ、からだをえびのようにまげ、頭をかかえこんだ。

 ねつがでてきて、きずがいたみはじめたのだ。

「きみ、この部屋へやで朝までゆっくりねむりたまえ。そうすればきっと、あすの朝は気分きぶんもさわやかになるだろうから……」

 博士は親切しんせつにすすめた。ところが透明人間とうめいにんげんは、くるしそうにうなり声をたてながら、どうしてもねむろうとしなかった。

「きみ、えんりょしないで眠りたまえ。そうすれば気分もよくなるし……」

 透明人間は、なにを思ったのか、しばらくだまって博士をじっと見つめていたが、

「ぼくは、心をゆるした人間につかまるのはいやだね」

と言った。博士はくしはぎくりとした。

 なにもかも見すかしたような透明人間とうめいにんげんのことばは、博士はくしの心をぐさりときさした。


ともをどうしよう


「ぼくがきみを警官けいかんの手にわたすなんて、そんなばかなことがあるものか……ぼくをしんじてゆっくりとやすみたまえ」

 しかし、透明人間とうめいにんげんはどこまでも用心ようじんぶかかった。部屋へやのなかをねんいりに見わたしてから、ふたつのまどをしらべ、そしてドアのかぎをあらため、警官けいかんがまんいちかれをおそうことがあっても、逃げだす道があることをたしかめてから、やっと、よこになった。

「おやすみ」

 博士が透明人間とうめいにんげんに言って、ドアをしめようとすると、きゅうにナイト・ガウンがすーっとちかづいてきて、

「だいじょうぶだろうね、ケンプ。ぼくをゆっくりねむらしてくれるね。警官けいかんにわたしはしないだろうね」

 博士はくしは顔いろをかえ、

「わすれたのかい。たったいま、やくそくしたじゃないか。よけいな心配しんぱいをしないで、ぐっすりやすみたまえ」

 ドアをしめると、すぐに中からかぎをかける音がした。

 博士はくしは、

「やれやれ、とうとうじぶんの寝室しんしつから追いだされてしまった。まるっきり、ゆめをみているのか、気がちがっているのか……わけがわからない」

 なんども頭をふりながら、廊下ろうかをゆっくりと歩いて書斎しょさいにはいった。

 博士はくしは、ぐったりといすに身をなげだして、もの思いにしずんでいたが、

「そうだ、新聞しんぶんを見れば、なにか手がかりがつかめるかもしれんぞ」

 ぽつりとひとりごとをもらし、いくとおりもの新聞しんぶんをかきあつめ、つくえの上にひろげて、むさぼるように読みはじめた。

 どの新聞しんぶんも、アイピング村でのさわぎが、大げさに書きたてられている。

「ふうん、村人をなぐりたおしてあばれまわったというのか……なんて乱暴らんぼうなことをするのだ。えっ、なに、巡査じゅんさはなぐられてぜつしたっていうのか。そして宿屋やどや女主人おんなしゅじんはおそろしさのために、寝こんでしまったのか。なんというおそろしいことをやる男だ」

 博士はくしは、ぼんやりと前方ぜんぽうを見つめて、考えこんでいたが、ぽとりと新聞を手から落としてしまった。いくらかんがえても、この奇怪きかい事件じけんははっきりしない。

 博士はくしは、長いすによりかかってねむろうとしたが、目がさえて、つかれそうもなかった。

 やがて、まどから、しらじらと朝のひかりがながれこんできたが、博士はまだふいにびこんできたやっかいな透明人間とうめいにんげんを、どうしようかと思いなやんでいた。

「やれやれ、これでやつがきだしてくれば、また、ふくだけのけものと、しかつめらしい顔をして話し、なんにもないところへ、たべものがつぎつぎと消えていくのを見ていなくてはならないのか。どうかして、この災難さいなんからのがれるすべはないかな」

 へいぜいは頭のするどさをほこり、どんなことでもあざやかにかたづけてしまう博士はくしも、思ってもみなかった透明人間には、すっかり手をやいたらしかった。

 夜がすっかりあけはなたれると、お手伝いが朝の新聞をかかえてやってきた。

 博士は、お手伝いにむかい、

「いいか、朝食ちょうしょくを二人まえ用意よういして、ここまでもってきなさい。そしてわしがぶまで、二かいへかってにくることはならんよ。わかったな」

「はい」

 お手伝いは、博士が研究であたまをつかいすぎて、気が変になったのではないかと、心配しはじめた。

 博士はくしは、お手伝いがはこんできたあついコーヒーをすすると、いくらか気分きぶんがはっきりした。

 朝の新聞しんぶんをひろげ、透明人間とうめいにんげんのことが書かれているところを、ねんいりに読んだ。

「新聞には、透明人間は狂人きょうじんになったにちがいないと書いてあるぞ。じっさいやつは、気がくるっているにちがいない。なにをやりだすか、わかったもんじゃない。しかも空気くうきのように自由じゆうな身だ。悪事あくじをやりだせば、こんなおそろしいてきはない。そいつがおれのいえにまいこんできたんだ。それにやつは、むかしの友だちのグリッフィンだというのだから……」

 博士はつくえのまえに、どっかりとこしをおろすと、ながい間、頭をかかえて考えこんでいた。

「おお、どうしてそんなことができよう──ともだちのしんらいをうらぎるなんて……。だが……たとえ友だちであっても──」

 博士はくしは、思いまよったすえ、ひきだしから便びんせんをとりだすと、ペンを走らせだした。

 書いてはすて、書いてはすて、博士はなんども書きなおして、やっと一つう手紙てがみをかきあげると、ふうをして、宛名あてなをしたためた。

 それには肉太にくぶと博士はくしのいつもの字で、

『ポート・バードックしょ アダイ警部けいぶどの』──と書かれてあった。


ひかりいろ


 透明人間とうめいにんげんは起きあがるやいなや、あばれはじめた。けさはひどく、きげんがわるいらしい。

 いすをなげとばし、洗面所せんめんじょのコップをたたきわった。

 もの音で博士はくしが、あわててかけつけてきた。

「どうしたのだ? なにか気にいらないことでもあるのかい?」

「なに、頭のきずがすこしばかりいたみだしたので、気分きぶんがすぐれないんだ。いやな気もちがするんだ」

 博士はくしはだまって、ちらばっているガラスのかけらをひろいあつめ、

「きみのことが、すっかり新聞にのっているよ。世間せけん透明人間とうめいにんげんのうわさでもちきりらしい。ただ、ぼくの家にきみがしのびこんでいることは知らないがね」

「うるさいやつらだ! なぜぼくを、しずかにしておいてはくれないんだろう」

「それはむりだよ。世の中は、物わかりのいいやつばかりでできてやしないんだ。そいつらは、どこまでもきみをつかまえようとさわぐだろうね。そこで、これからどうするかね? むろん、ぼくはできるかぎりの手伝てつだいはするよ。だが、きみはいったい、どうしたいと思ってるのかね」

 透明人間とうめいにんげんは考えこんでいるらしく、ベッドのはしにすわりこんだまま、だまっている。

 ケンプ博士はくしは、しばらくしてから、さりげなく、

書斎しょさい朝食ちょうしょくのよういをさせてあるよ」

と、さそった。透明人間とうめいにんげんはすなおに立ちあがり、博士はくしのあとについて書斎しょさいにはいってきた。

 ゆうべとおなじように、ナイト・ガウンだけが、すーっと食卓しょくたくのまえにすわりこんで、手も口もなんにも見えないのに、どんどん食べはじめた。

 はじめて見たときほどおどろかなかったが、やはりへんな光景こうけいだった。

 食事しょくじがおわりかけたころ、ケンプ博士はくしは、

「これからさきのことを相談そうだんするまえに、なぜきみがそんなからだになったか、くわしく話してもらいたいね」

 透明人間とうめいにんげんは、ナプキンをとりあげ、ゆっくりと口のあたりと思われるところをふき、

「かんたんなことなんだ。きみだって説明せつめいをきけば、なーんだ、と思うよ。奇跡きせきがおこったのでも、なんでもないさ」

「きみには、かんたんかもしれないが、ほかの者にとっては、奇跡きせきとおなじくらいふしぎなことだよ」

「はっはっは」

 透明人間とうめいにんげんは、ケンプ博士はくしに会ってからはじめて、ゆかいそうにわらった。

「さて、それではなにから話そうかな。ぼくが、はじめ医学いがく勉強べんきょうしていたことは、きみも知っているとおりだ。そのあと、ふとしたことから医学を研究けんきゅうすることをよして、物理学ぶつりがくにうつったんだ。ことにひかり反射はんしゃとか屈折くっせつとかが、ぼくの興味きょうみをとらえてしまったんだ」

むかしからきみは、そういうことを研究けんきゅうするのがすきだったじゃないか」

「そうだよ。しかも、この研究けんきゅうは人があまりやっていないので、いくらでも研究することがのこされているのが、若いぼくには、たまらない魅力みりょくだったのだ。まだ二十二才のわかい科学者かがくしゃだったぼくには、これに一しょうをささげて、いつかは世間せけんのやつどもを、あっといわせるような研究けんきゅうをやりとげようと決心けっしんしたんだ」

 透明人間とうめいにんげんは、いつもの、いんきくさいをのろったような声とはまるでちがう、わかいりのある声で話しつづけた。

「それからのぼくの頭には、研究けんきゅうのことよりほかは、なにもなかったね。てもさめても考えるのは、研究けんきゅうのことばかり──六ヵ月ほどたったとき、はっと思いついたことがあったのだ」

「どんなことだ」

「きみも知っているとおり、物が見えるということは、光が物にあたったとき反射はんしゃするか、そのまま吸収きゅうしゅうされてしまうか、または光がおれまがる具合ぐあいによって、いろいろな色とか、形とかが、それぞれの姿すがたをもって目にみえるので──光のこの三つのはたらきがなかったら、われわれは物をみることができないわけだ」

「そうだ」

「たとえば、われわれが赤いぬのをみるとするね。赤くみえるのは、太陽たいよう光線こうせんのなかで赤い色のところだけをぬの反射はんしゃして、あとの色はみんないこんでしまうからなんだ。また光をぜんぶ反射はんしゃしてしまえば、白くきらきらとかがやいてみえるだろう。そしてふつうのうすいガラスが、光のすくないうす暗いところなどでは見にくいわけは、光をほとんど吸収きゅうしゅうしないし、はねかえすことも、おれまがる度合どあいもすくないからなんだ」

 透明人間とうめいにんげんはむちゅうで、しゃべりまくっている。ケンプ博士はくしはあきれ顔をして、じっと相手あいての声をきいていた。

「そのガラスをこなごなにして、水のなかに入れてみたまえ。たちまち見えなくなってしまうだろう。これは水とガラスは、光がおなじような具合ぐあいにおれまがるからなんだ。これから考えをすすめてゆけば、なにもガラスを水中すいちゅうに入れなくても、水の中に入れたとおなじように見えなくすることができるはずだろう」


ガラスと人間にんげん


「そうだ。しかし、人間にんげんはガラスとちがうからな!」

「そんなことはない。人間はガラスとおなじように透明とうめいだよ」

「そんなむちゃな話はないよ」

「むちゃな話ではないんだ。りっぱにすじみちのとおっている話だよ。人間だって血液けつえきの赤い色と毛髪もうはつの色などをとりのぞけば、からだじゅうが無色むしょく透明とうめいになってしまうんだ。ガラスとたいしてちがわないよ」

 ケンプ博士はくし透明人間とうめいにんげんのきばつな考えに、ただうなずくばかりだった。透明人間のことばはますますねつをおびてきた。

「ぼくがこれを考えついたのは、ロンドンを去ってチェジルストウにいたときだ。今から六年ほど前のことになるがね。その時のぼくの先生せんせいのオリバー教授きょうじゅというのは、じつに根性こんじょうのまがった男で、学者がくしゃのくせに学問がくもん実験じっけんに身を入れないで、世間せけんのひょうばんや名声めいせいばかりに気をとられているのだ。だから、ぼくはだれにも秘密ひみつで、研究けんきゅうをすすめていくことにしたのだ」

「だれの手もかりないで、きみひとりでかい?」

「そうだ。ぼくは研究けんきゅう完成かんせいしたそのとき、ぱっと世間せけん発表はっぴょうして、一夜で天下てんかに名をとどろかせてやろうと考えたんだ。研究はおもうとおりに進んだ。そのうち、思いもかけない大発見をしたのだ。これはぼくの手がらではないんだ。ぐうぜんなことで、おもいがけないたまものが、さずかったというわけだ」

「ずいぶん大げさなんだね。いったい、どんな大発見なんだい?」

「きみ、おどろいてはいけないよ。ぼくは無色むしょくにすることができるということを見つけたんだよ。無色むしょくにすることができれば、人間を透明とうめいにすることができる、というわけだ。人間のからだ血液けつえき透明とうめいにしてしまえば、体じゅうが透明になるわけだからな。そうなれば、ぼく自身じしん、透明になることはわけないというわけさ。もちろん、そのためにからだがいがあってはなんにもならないが、そのてん自信じしんがあったのだ」

「な、なんだって……なんということを考えだしたのだ。おそろしい人だね、きみは」

「おどろくのもむりはないよ。それを発見したぼく自身、しばらくの間は、ぼうぜんとしていたくらいだからね。ぼくはその夜のことを、いまでも、はっきりとおぼえているよ──。研究室けんきゅうしつにいるのはぼくひとりで、ひっそりとしずまりかえっていた。ぼくはじぶんのこの発見にすっかり興奮こうふんしてしまい、じっとしていられなくなった。まどをおしひらいて、夜空よぞらにしずかにまたたいている星をみあげ、いくどか、おれも透明とうめいになれるんだぞと、くりかえしてつぶやいた。それでいくらか落ちつきをとりもどしたんだよ」

「そうだろうね。その気もちは、ぼくにもわかるようだが……」

「ねえ、きみ、考えてみたまえ。すがたをして思いのままをやるのは、人間のむかしからのあこがれだったじゃないか。おとぎ話のなかの魔法使まほうつかいとおなじになれるんだ。こんなすてきなことがあるだろうか。それをぼくがやりとげたんだ」

 透明人間とうめいにんげんは、いきおいこんで話しつづけた。せきをきった水のように、とまることをしらぬようにさえ思われた。ケンプ博士はくしはしずんだようすで、かれの話に耳をかたむけていた。

「これで、ながい間、ばかな主任教授しゅにんきょうじゅに見はられながら、苦心くしんしたかいがあったと思ったね。田舎いなかの大学で頭のさえない学生をあいてに心にそまない授業じゅぎょうをして、毎日をみじめにすごしてきたぼくが、これはどの成功せいこうをしようとは、だれも考えなかったろう。しかし、この研究をかんぜんなものにするために、それからさらに三年の年月、むがむちゅうで研究けんきゅうをつづけたんだ。ところが三年たってみると、この研究けんきゅう完成かんせいさせるには、どうしてもかねがたりないということに気づいたんだ」

かねが……」

「そうだ」

 透明人間とうめいにんげんきすてるように言って、だまりこんでしまった。


研究けんきゅうおに


 ケンプ博士はくしもだまりこんで、じっとナイト・ガウンだけの人間にんげんを見つめていた。

 ながい間、なんの物音もしなかった。

 ふと、透明人間とうめいにんげんが口をひらいた。

「金がなければ、ぼくの研究けんきゅうをつづけることはできない。やむをえず、おやじのかねぬすんでしまったんだ……」

「おとうさんの金を盗んだって……きみが?」

「うん、ところがそのお金は、おやじのものではなかったんだ──。そして……おやじはそのために自殺じさつをしてしまったんだ」

 ケンプ博士は、くらい目つきで、透明人間とうめいにんげんをみつめた。

「ぼくのそのころ、チェジルストウの家をひきはらって、ロンドンのポートランドがいにもどっていた。部屋へやをかりてすんでいたんだ。おやじの金をぬすんで、いろいろな実験じっけんにいるものを買いととのえたので、ぼくの研究けんきゅうは気もちがいいほど具合よくすすんでいったんだ」

 ケンプ博士はうなずいた。そして心のなかで、

(なんというつめたい男だろう。やつは研究のおにになってしまったんだ。やつの心には、もうあたたかい人間のが通っていないのかもしれない。おそろしいことだ)

と考えていた。が、透明人間は博士はくしの心のなかのことなどは気にもかけず、

「おやじの葬式そうしきは風のつめたい、さむい寒い日だったよ。ぼくはおやじがさびしいおか中腹ちゅうふくにほうむられるのをみても、考えるのはただ研究けんきゅうのことばかりで、さびしいともかなしいとも思わなかったんだ。葬式そうしきをすませてじぶんの部屋へやにかえってきたときには、はじめて生きているかいがあると思ったよ。ぼくはむちゅうになって研究けんきゅうにとりかかった」

 透明人間とうめいにんげんは、ふと口をつむぐと、くらい顔ですわりこんでいる博士はくしに、

「きみ、つかれたのかい? 顔いろがさえないようだ」

「いや、なんでもない。さあ、つづけたまえ。それからどうなったんだ」

「そのときすでに研究けんきゅうは、九どおりできあがっていたんだ。その大体だいたいのことは、浮浪者ふろうしゃがもちげしたノートに、暗号あんごうをつかって書いてある。あいつめ、おれのノートを取りやがって……どんなことをしてもとりかえしてやるぞ。うらぎったやつには、思いしらせてやる!」

 透明人間とうめいにんげんはあの浮浪者ふろうしゃのことを思いだし、研究の話をするのもわすれて、さんざんにののしりはじめた。すると、博士はくしが、

研究けんきゅうのほうのことをきかせてくれたまえ。そしてどうなったんだい?」

「ついに待ちのぞんでいた日がきたんだ。その日の実験じっけんには白い羊毛ようもうを使ってみたんだ。実験じっけんはうまくいって、白い羊毛がじっといきをころしてみつめているぼくの目のまえで、けむりのように色がしだいにうすくなり、やがて、すーっとえていってしまったんだ。その光景こうけいは、なんともいいようのないくらい、ぶきみなものだったよ」

「それで……」

「白い羊毛ようもうがすっかりえて、ぼくの目に見えなくなったときには、まるでしんじられない気がしたよ。ぼくはそっと、羊毛ようもうをおいたあたりをさわってみた。すると、どうだ! やはり羊毛ようもうはまえとおなじ場所に、ちゃんとあるんだ。そのときのぼくの気もちといったら、うれしいような、気味きみのわるいような、へんな気もちだったよ」

 ケンプ博士はくしは口のなかで、そっとつぶやいた。

しんじられん話だが………うそではなさそうだ」

 そして透明人間とうめいにんげんに、ひとやすみしないかとい、ポケットからたばこをとりだした。

 透明人間は一本ぬきとると、火をつけて口にくわえた。と言っても、やはり空中くうちゅうにたばこがういているように見えるだけである。

「つぎの研究には、ねこをつかったんだ」

「生きてるねこをかい?」

「もちろんさ。そのねこは階下かいかにすむ、ひとりもの老婆ろうばのかわいがっているねこなんだ。ぼくはのいろをうすめるくすりやらそのほかの薬やらを、苦心くしんしてそのねこにのませたんだ。そしてくすりで、ねこをねむらせておいた。ねこがつぎに目をさましたときには、羊毛とおなじように、けむりのようにきえていたんだ」

「ねこが透明とうめいになってしまったって……?」

「そうだ。もっともすこし失敗しっぱいしたところもあって、うまくえうせてはしまわなかったがね。うまくいかなかったところは、ひとみとつめだ。ねこはくすりをのませると同時どうじに、ひもでしばってげださぬようにしておいたんだ。そのうちに気をとりもどして、起きあがったときには、からだはかんぜんにえ、ふたつのほそい目とつめだけが、部屋のなかにゆうれいのようにいていたんだ」

「ぶきみな話だ! それに、ねこがかわいそうじゃないか」

 ケンプ博士はくしは、とがめるように言った。

持主もちぬし老婆ろうばが、ねこをさがしにきて、『わたしのねこが、こちらにきているでしょう。たしかになき声がしていましたよ』と、がなりたて、部屋へやの中をじろじろとのぞきこんだが、ねこはクロロフォルムでねむらせてあったので、見つかるはずはない。うさんくさそうになんどもながめまわしてから、やっとひきあげていったよ。おかしかったねえ」

透明とうめいになってしまったねこは、その、どうしたんだね」

「さあ、どうしたかね。透明とうめいになると、ひどくあつかいにくくてね。つかまえようとしてもつかまえることができない。そして、にゃあにゃあ、なきつづけているので、とうとう、うるさくなって、まどをあけてそとへ追いだしてやったよ」

「すると透明とうめいねこは、いまでもどこかをさまよっているというわけだね」

きていればね。だが、おそらくんでいるだろう。目に見えないねこに、えさをやる人もいないだろうからね」

「そうか、かわいそうに……」

 博士はくしは、なんにもないところに、ねこのまるいひとみがふたつ、みどり色にひかり、かなしそうに食べ物をもとめてなく声だけがきこえる光景こうけいを、ありありと思いうかべて身ぶるいした。

「ぶきみなことだ!」


グリッフィン透明とうめいになる


 つぎに透明人間とうめいにんげんが話しだしたのは、いよいよかれ自身じしんからだが、どのようにして透明にかわっていったか、ということだった。

「一月のことだったよ。ゆきのふる前の日で、おそろしくさむい日だった。ながい研究けんきゅうのつかれがでたのか、気分きぶんはすぐれず、いつものように実験じっけんをつづける元気げんきもなかったんだ」

 透明人間とうめいにんげんはつかれたようすもなく、また話しはじめた。

「四年の間、あけてもくれても、ただ研究けんきゅう完成かんせいさせることだけを考えてくらしていたが、もともとわずかばかりしかなかった金は、ほとんど使いはたしてしまい、からだもくたくたにつかれきると、なにをするのもいやになってしまった。ぼんやりとおかにのぼって子どもたちがあそんでいるのをながめていたが、そのうち、ぼくのからだ透明とうめいになって人目につかなくなったら、こんなみじめな境遇きょうぐうからぬけだし、いろいろときばつな、ゆかいなことができるのではないかと、考えたんだ」

「それできみは、からだ透明とうめいにするおそろしい仕事にとりかかったのかね?」

「そうなんだ。ぼくは下宿げしゅくにかえると、さっそくくすり調合ちょうごうにかかったんだ。そこへ前からぼくのことをうさんくさい目でみていた下宿げしゅくのおやじが、文句もんくを言いにきたんだ。おやじは部屋じゅうをじろじろながめまわして、『あんたはいったいこの部屋へやで、どんな仕事をしているんですかね、へんなにおいがしたり、夜っぴてガス・エンジンがうなったり……おかげで下宿げしゅくじゅうの人間にんげんが、おちおちらすこともできないではありませんか。人には言えねえあやしげな研究けんきゅうでもやっているんじゃありませんか……とんだめいわくをかけられたら、たまったものじゃありませんからな』と、くどくどといつまでもいいつづけるので、ぼくはとうとうかんしゃくを起こして、『うるさい! でていけっ!』と、どなってやったんだ」

「らんぼうだね!」

「しかたがないさ。おやじは、ぼくにどなられると、かんかんになっておこりだした。ぼくはついにがまんしきれなくなって、おやじのえりくびをつかむと、ドアのそとへちからいっぱいなげだしてやったよ。これでぼくは、この下宿げしゅくからもでてゆかねばならないことになってしまったんだ」

 透明人間とうめいにんげんているナイト・ガウンが、はげしくぶるぶるとふるえた。そのときのことを思いだして、もういちどはらをたてているらしかった。

「こんなわからずやのおやじがいては、とてもじぶんの研究けんきゅうをこのままぶじにつづけることはできない、とわかったので、ぼくはすぐにつぎの手段しゅだんを考えだした。大いそぎで薬品やくひん調合ちょうごうにとりかかり、それができあがると、夕方ゆうがたから夜にかけて、ぼくはからだ透明とうめいにするそのくすりをのみつづけたんだ──」

 ケンプ博士はくしは、そのとき口をもぐもぐさせて、なにか言いかけたが、そのまま、透明人間とうめいにんげんの話をだまってききつづけた。

「夜ふけになったとき、くすりのために、ぼくはたまらないほど気もちがわるくなってしまった。いすにぼんやりとこしかけていると、だれかがドアを力いっぱいたたくんだ。ぼくは動く気がしないので、ながいあいだほうっておいたが、どうしてもノックをやめないんだ。たまりかねてドアをあけると、下宿のおやじが立っていて、なまいきな態度たいどで一枚の紙きれをさしだしたが、ひょいとぼくの顔をみると、目玉めだまがとびでるほどおどろいて、かみきれをその場にほうりだして、ころがるように逃げていったよ」

「どうしたというのだい? そのおやじは……」

「ぼくもかがみをみるまでは、わけがわからなかったんだ。が、おやじがげだしてから、鏡をみて、やっと、やつのふるえあがったわけがわかったよ。ぼくの顔がまっ白にかわっていたんだ。すきとおるほど白くね」

「白く?………」

「そうだ。予期よきしたようにね。それから夜あけまでのくるしみは、ぼくも予期しなかったことなんだ。皮膚ひふはもえるようにあつくなり、からだじゅうが、かっかっとほてって、その苦しさときたら、いまにも気絶きぜつして、それっきり死んでしまうかと、たびたび思ったほどだった。をくいしばってがまんしたが、うめき声はひとりでに高くなり、ついにぼくは気絶きぜつしてしまったんだ」

 ケンプ博士はくしは、おそろしさに身ぶるいしながら、心のなかで、

(やつのたましい悪魔あくまにみいられているにちがいない。でなければ、ふつうの人間にんげんに、そんなおそろしいことがたえきれるはずがないんだ)

と、思っていた。透明人間とうめいにんげんは、じぶんの話にすっかりむちゅうになって、博士はくしのことなどわすれてしまっているようだった。

「こんど気がついたときは夜あけだったよ。はげしいくるしみはやんでいたが、ひどいつかれでくたくたになっていた。明けがたの光がまどからさしこんだとき、ぼくはじぶんの手をみて、おどろきとよろこびといっしょになった、言いようのない声をあげたんだ。なぜって──両手がくもりガラスのような色になってたんだ。そして、じっと見つめているうちに、両手はどんどん透きとおって、夜がすっかり明けきったころには、まったく透明とうめいになってしまったんだ」

両手りょうてといっしょに、からだじゅうも透明とうめいになったのかい?」

「もちろんだ。一番さいごまで色が残っていたのはつめだったね。じぶんで決心けっしんしてやったことだが、こうして成功せいこうして全身ぜんしん透明とうめいになってしまうと、さすがのぼくも、たいへんなことをやったなと、心おだやかでなかった。もう一度ベッドにもぐりこんで、ひるちかくまでゆっくりねむって元気げんきをとりもどすと、研究けんきゅうに使った機械きかい道具どうぐを二度ともとにできないように、めちゃめちゃにしておき、ここからでていくじゅんびに取りかかった。」

「なぜ機械きかいをこわしたんだい?」

「ほかの者に、ぼくの研究をかぎつけられないためさ。そこへまた夜のあけるのをまちかねた下宿げしゅくのおやじが、くっきょう若者わかものを二人もつれて、『けものやろうめ、きょうこそは、なにがなんでも追いだしてやるからな。うでづくでも追っぱらう気なんだ』といきまきながら、ドアをおしやぶってはいってきた。ぼくは、入れちがいにそとへでていったよ。もちろん、やつらはすこしも気づかなかった。部屋へやのなかにぼくの姿すがたがみえないので大さわぎをしていたよ」

 そこで透明人間とうめいにんげんはおかしそうに、くっくっくっとふくみわらいをして、また話しだした。

「やつらがぼくの部屋へやをひっかきまわしてさわいでる間に、ぼくは、おやじの部屋へやにもぐりこんでようすを見ていたんだ。さわぎはだんだん大きくなって、下宿げしゅく人間にんげんはひとりのこらず、そのうえ出入でいりの商人しょうにんたちまでがぼくの部屋へやにはいりこんで、実験じっけん機械きかい薬品やくひんをいじりはじめたんだ」

「それで……」

「ぼくはそのようすを見ながら、ふと、『こいつらのように無学むがくなやつどもがさわいでいる間はよいが、そのうちに学問がくもんのあるやつがこれを見にきて、ぼくの研究けんきゅうをかぎつけるようなことになるかもしれない』と考えたんだ」

「だってきみは、機械きかいをこわしておいたんだろう?」

「そうだ。だが、それで安心はしていられないよ。そこで永久えいきゅうにぼくの研究けんきゅう秘密ひみつにしておく方法を考えだしたんだ」

「どんな方法だい? そんなことができるのかい……」

完全かんぜん方法ほうほうだよ。ぼくは、ぼくの部屋へやでさわいでいた連中れんちゅうがすっかりひきあげると、そっと、おやじの部屋から、ぼくの部屋にひきかえして、そのへんにある書類しょるいかみくずを山とつみあげ、マッチをすって、火をつけてやった。えあがるのをみて、その上にふとんやいすをつみかさね、さいごにゴムかんをひっぱって、ガスをふきださせたんだ。ガスはすぐにえあがり、たちまち、ふとんもいすもめらめらとをふきだした。ぼくは、そこまで見とどけると、そっと玄関げんかんから、まちへしのびでていったよ。いやな下宿げしゅくにおさらばしてね」

「それじゃあ、きみは、放火ほうきしてきたというのかい?」

「そうさ。それよりほかに、ぼくの研究けんきゅう永久えいきゅう秘密ひみつにしておける方法があるかね? ないだろう」

 博士はくしには、そのときの透明人間とうめいにんげんの声が、地獄じごくのそこからきこえてくる悪魔あくまの声のようにおもえた。


まちにでた透明人間とうめいにんげん


まちへふみだしてみて、ぼくははじめて透明とうめいになったことをゆかいに思ったよ。ぼくがうしろから、通行人つうこうにん帽子ぼうしをはじきとばしたり、かたをぽんとたたいたら、そいつはどんなにおどろいた顔をするだろうかと思うと、まったく考えただけで、ふきだすほどうきうきしてきたんだ。ぼくはまちをあちこちと気ままに歩いていった。ところが、夕方ゆうがたちかくなると、ぼくはすっかりよわってしまった。よくはれたあたたかい日だったが、一月になったばかりだもの、まっぱだかではたまったものではないよ。ぼくは歩きながら、がたがたふるえどおしだった」

「はっはっはっ、いくら透明人間とうめいにんげんになっても、人間はやはり人間だよ。まふゆにはだかでいられるものか」

 ケンプ博士はくしは、はじめて気味きみよさそうに笑い声をたてた。

わらいごとじゃないよ。日がかたむきかけてくるにつれて、さむさはいっそうひどくなった。ちょうどブルームズベリイ広場ひろばをぬけようとしていたときだ。ぼくは大きなくしゃみをひとつした。まわりにいた人たちが、いっせいにふしぎそうにあたりを見まわした。とたんに、近よってきた白いいぬが、ぼくをかぎつけたのか、わんわんとほえたててとびかかってきたんだ」

透明とうめいになっていても、犬にはわかったのだろうか?」

「犬にはわかるらしいね。かぎつけるんだ。いまいましい話だが、それからぼくはラッセル広場ひろばまで犬に追われて、力のかぎり走りつづけたよ。ラッセル広場には、まだ人だかりがしていた。犬からのがれてほっとしたのもつかのま、また、つぎの災難さいなんがふりかかってきたんだ」

「つぎの災難っていうのは、どんなことだったのだい?」

「こんどは子どもに見つけられたんだ。もちろんぼくの姿すがたを見つけるはずはない。ぼくはつかれはてていたので、ひとやすみしようと思って、博物館はくぶつかんのまっ白な階段かいだんをのぼっていったんだ。その近くで子どもたちが幾人いくにんも遊んでいたよ。そのひとりがふいに大声でさけんだんだ。

『あっ、みてごらん! おばけの足あとだよ。ほらほら、はだしの足あとが階段かいだんにつぎつぎとついてるよ。おかしいなあ──だあれものぼっていってないのに、足あとだけがくっついているよ』この声をきいた時には、ぼくはぎょっとして、どうしていいか、わからなくなってしまったね。進めば足あとがつくし、立ちどまっていれば、だれかがつかまえにあがってくるだろう。このときのぼくの気もちをさっしてくれたまえ」

「それで、どうした?」

「そのうち、子どもの声で、やじうまがぞろぞろと集まってきだした。こうなっては逃げるよりほかはない。足あとがつこうが、そんなことにかまっていられなくなって、ぼくは、すぐそばでまごまごしている若い男をつきとばすと、いちもくさんにかけだした。やじ馬たちはわけもわからず、ただ足あとをたよりにわいわいと追っかけてきたんだ」

「とんだ災難さいなんにあったものだな」

「まったくだ。なんどもまちかどをまがって、めくらめっぽうげていくうちに、足のうらのぬれていたのがかわいてきて、足あとがはっきりつかなくなってきた。しめたと思って、物かげにかくれ、足のどろをすっかりはらい落として、ゆっくりとやす場所ばしょをさがして歩きだしたんだ。追っかけてきたやつらは、うすくなって、ついに消えてしまった足あとをさがして、そのへんをうろうろしていたよ」

「やれやれ、透明とうめいになっても、いいことばかりじゃないね」

「それはそうだ。だが、もちろん、すてきなことだってあるからね。かけまわっているうちに体はぽかぽかあたたまってきたが、すっかり風邪かぜをひいたらしく、しきりにくしゃみがでるのには閉口へいこうしたよ。落ちついてみると、ぼくの下宿げしゅくのあるまちにきてたんだ」

 透明人間とうめいにんげんは、ケンプ博士はくしになにもかも話してしまうつもりらしく、いっしんに話しつづけている。博士は、なにか、落ちつかないようすだが、それでも、じっとかれの話をきいていた。

「そのうち往来おうらいの人たちが、きゅうに、なにかさけびながら、いっさんにかけだしていった。人数にんずうはつぎつぎにふえてゆき、やがて火事だとわかったときには、どうもぼくの下宿げしゅくのあたりと思われる方向ほうこうから、もくもくとまっ黒なけむりがすごいいきおいで、電話線でんわせんとかさなりあった家のむこうに見えてきたんだ。それをみて、ぼくは、ほっとしたね。これでぼくの秘密ひみつ安全あんぜんだ──そう考えると同時に、なにか新しい勇気ゆうきがわいてくるような気がしたんだ」

 透明人間とうめいにんげんは、一気にここまでしゃべってきたが、なにを思ったか、いすにふかぶかと身をしずめて、だまって考えこんだ。

 ケンプ博士はくしは、ちらりとまどのそとに、すばやい一べつをなげ、だまってすわっていた。


うらぎられた透明人間とうめいにんげん


透明人間とうめいにんげん秘密ひみつ


透明人間とうめいにんげんになるということは、はじめぼくが考えたほど、すばらしい、ゆかいなものではなかったんだ。さむいからといってふくをきれば、透明人間でいることができなくなる。透明人間でいようと思えば、寒くてもふくをきることができなくなるばかりか、もっとこまることが起こってきたんだ」

 しばらくだまっていた透明人間は、ゆっくりと話しだした。

「はだかでいるより、もっとこまることというと、どんなことだい?」

 ケンプ博士は、つかれてしまっていたので、気のりのしない調子ちょうしできいた。

「おそらく、きみには想像そうぞうもつかないことだろう。透明とうめいでいるために服をきないでいると、食べ物を口に入れることができないんだ。なぜって、考えてみたまえ……ぼくがはだかのままでパンをたべるとするね。パンはぼくの口にはいったときから、のどをとおり、にとどき消化しょうかしてしまうまで、人の目にさらされてしまうのだ。からだの中にはいった食べ物がそのまま空中くうちゅういてみえるなんて、考えただけでもぞっとすることだろう。ぼくはそんなことになるのはいやだ。が、そうすれば、ぼくはいくらはらがすいていても、パンひとかけ口にすることができなくなるんだ」

「なるほど、そこまではぼくも考えつかなかったよ。そうすると、透明とうめいになるのも考えものだね」

「もちろん、こまることもあればいいこともある。けれども新しい生活せいかつにふみだしたいじょうは、いやでもやりぬくほかはないんだ。いまとなってはをよせる家もなければ、たよりにする人もない。はたらいてかねをもうけ、その金で楽しくくらすなどということは、ゆめにも思えない身の上になってしまったんだ」

 透明人間とうめいにんげんの声は、しみじみとさびしそうだった。

 ケンプ博士はくしも、さすがにかれの変わった境遇きょうぐう同情どうじょうして、

「それできみは、それからどうしたんだい?」

「どうするといって、ぼくは道のまん中につっ立ったまま、どうしていいかわからなくなってしまったんだよ。ゆきははげしくりだし、寒さと空腹くうふくはたまらなくぼくをせめたてるんだ。ぼくはただ雪の中からのがれて、屋根やねの下でゆっくりとやすんで、はらいっぱい食べたいと、そればかり考えていたよ」

「そうだろうね。で、それから……」

「そのうえ、これこそ思いもかけなかったことだが、雪の中にじっとしていると、からだに雪がつもって、たちまち、ぼくの体のりんかくがぼーっと浮かびあがってくるんだ。これにはまったくへいこうしたね。ぼくは身をきるような北風きたかぜが、雪といっしょに吹きつけてくる道を、あてどもなくさまよいつづけたんだ」

「なぜどこかの家の物おきへでも、もぐりこんで、雪の中を歩きまわることからだけでもまぬがれなかったんだ。食べ物にありつくことはできなくても、さむさだけはいくらかしのぎやすいのではないか?」

「ぼくだって、それは考えたんだ。ところがロンドンじゅうの家という家は一軒いっけんのこらずドアをしめ、かぎをかけているので、いくらぼくが透明人間とうめいにんげんでも、もぐりこむすきさえなかったんだ。だがぼくはそのとき、ふいにすばらしいことを考えついたんだよ」

 透明人間は、そのときのことを思いだしたのか、いきいきとした声になって、

「デパートのなかにもぐりこめば、ぼくのほしい物はなんでも手にはいる。それにデパートならはいるにもでるにも、なんの苦労くろうもないし、どうして早くこのことに気がつかなかったかと思ったね。ぼくはすぐ、ぞろぞろとひっきりなしにきゃくが出入りしているデパートにもぐりこみ、閉店へいてんするのをまっていたんだ。やがて店がしまって店員てんいんたちがでていってしまった。店の品物しなものはすっかり片づけられ、はけされて、あれほどにぎわっていたデパートも、しーんとなってしまった。ぼくはうすぐらくなった店の中をわがものがおで歩きまわって、下着したぎやくつ下などの売場うりばから、ふかふかしてあたたかそうな下着やくつ下をとりだして身につけた」

「ほっとしたろう」

「きみの言うとおりだよ。服装ふくそうをすっかりととのえおわり、からだがあたたまってくると、こんどは地下室ちかしつ食堂しょくどうにおりていって、そこに残っていたにくやパンやチーズを、いやというほどつめこんだんだ。おまけにおいしい果物くだもの菓子かしまで食べられるのだから、まるで天国てんごくのようだったよ。からだもあたたまり、はらごしらえもできると、にわかにねむくなったんだ。さっそくふとんの売場うりばのふかふかした羽根はねぶとんの山の上によこになり、めずらしくのびのびとした気分でねむりに落ちていったのだ」

「まるでおとぎ話にでもでてきそうな話じゃないか……」

「ここまではよかったんだ。だが、朝になるとおもしろくないことがもちあがったんだ。目がさめたときには、すっかり夜があけ、明るい太陽たいようがさしこんでいて、出勤しゅっきんしてきた店員てんいんの話し声や掃除そうじをする音がきこえていた。あわててしまったぼくは羽根はねぶとんの山をすべりおりて、どこから逃げたらいいかと、あたりを見まわしたとたん、羽根ぶとんの山が音をたててくずれおちたんだ。あっと思ったぼくは、思わず横っとびにかけだすと、目ざとい店員てんいんのひとりが、大声で、『あっ、くびのない人間にんげんがいるぞ! あやしいやつだっ!』とさけんだんだ」

「そりゃあ、きみ、店員だって、さぞやびっくりしたろうさ」

 ケンプ博士はくしは、ものかげから走りだしたくびのない人間を見つけた店員てんいんたちのようすを思いうかべて、デパートじゅうがひっくりかえるさわぎになったろうと考えていた。

「ここでつかまってはたいへんだと思ったので、死にものぐるいで逃げまわったんだ。逃げるにつれて、きれいにかざられてあった花びんがぶつかりあってくずれ落ちる、電気スタンドがころがる、おもちゃの山がくずれる、さいごに食堂しょくどうをかけぬけて、ベッドの売場うりばから洋服ようふくダンスのならんでいるところへ逃げこんで、そのかげで、着ているものをすっかりぬぎすてて、もとの透明とうめい姿すがたになって、追手おってにつかまるのをまぬがれたんだ」

「やれやれ、苦労をするではないか……」

「こんなわけで、せっかく手にいれた服はすっかりぬぎすててしまったので、ぼくはもとのはだかで、ふたたび雪のふるまちへさまよいでなくてはならなくなってしまった。ぼくはデパートをそっとしのびでると、むやみにはらがたってたまらなかった。

 しかし腹をたててみても、どうにもなるものではなし、ぼくはまえと同じようにさむさとうえになやまされだしたのだ」

「けっきょく、うえをしのいで、たっぷりねむれたというだけだったのだね。それでもいいではないか……」

「ちっともよくないよ。ぼくが一番のぞんでいるのは、服を手にいれることなんだ。服を身につけ、帽子ぼうしをかぶり、マスクでもつければ、どうやら人前ひとまえをごまかして、らしていけるのではないかと思ったんだ。ぼくはついにロンドンのはずれのうすぎたない横町よこちょうにある古着屋ふるぎやにしのびこんで、ほしい物を手に入れ、できればおかねもついでに手にいれることにしたんだ」

「金も手に入れるというのか?」

「そうだ。この古着屋ふるぎやでも、いくども見つかりそうになって、ひやひやしたよ。おやじというのは、かわった男で、おそろしく耳がするどくて、ぼくのかすかな足音をききつけ、『どうもおかしい、だれかこの家にしのびこんでるにちがいない』と、ひとりごとをいうと、ピストルを片手かたて家中いえじゅうをぐるぐるまわりはじめたんだ。おかげでぼくは古着ふるぎの山を目のまえにみながら、どうすることもできなかったのだ」

 透明人間とうめいにんげんは、その男のことを思いだしたのか、きゅうにいらいらした口ぶりになって、

「いやな男だったよ。うたがいぶかくておくびょうで、しまいには家じゅうのドアにもまどにも、かぎをかけはじめたんだ。ぼくがどこからもげることができないようにしておいて、ピストルでちとろうとしたんだ。ぼくはそれを知ると、かっとなってしまった。こんなやつにたれてたまるものか、ぼくは階段かいだんをおりかけていたおやじのうしろにせまると、いきなり、古いすをふりあげて、やつの頭をちからまかせになぐりつけてやった」

「頭をなぐったって! なんてらんぼうなことをするんだ。古着屋ふるぎやはきみになぐられるようなことをなにもしていないよ……考えてみたまえ」

「らんぼうする気はなかったんだ。ただ、ぼくはその古着屋ふるぎやで服をきて、すがたをととのえなくては、こまるんだ。それだのにおやじは、ぼくをいまわして、ピストルでつつもりなんだから……。ぼくは追いつめられて、心ならずも乱暴らんぼうをはたらいたというわけなんだ。おやじは物もいわずに、その場にたおれたので、手もとにあった古着ふるぎでぐるぐるまきにしばりあげ、さるぐつわをかませた。そして、ぼくは手ばやく服を身につけ、だいどころにいって、たらふくパンとチーズをたべ、コーヒーをのんでから、帽子ぼうしをまぶかにかぶり、マスクをつけた。ちょっと見たぐらいでは、透明人間だと気づかれないように身じたくをととのえて、ゆうゆうとその古着屋をでてきた」

「で、きみはおやじをそのまま、ほうりっぱなしにしてかい?」

 博士はくしは顔いろをかえてさけんだ。透明人間とうめいにんげんはおちつきはらって、

「もちろんだよ。あとでやつは、さんざん苦心くしんして自由じゆうからだになっただろう。そうとうきつくしばってやったからな」

 博士はくしはしばらく思いなやんでいるようすで、青ざめた顔をうつむけて考えこんでいたが、

「それできみは、やっと人なみの生活せいかつができるようになったのだね」

と、ほそい声でいった。

「いや、人目の多いロンドンでは、やはりうまくいかなかったよ。食事をしようと思えば、どうしても透明とうめいなぼくの顔を給仕人きゅうじにんや、きゃくの目にさらさないかぎり、肉のひときれも口にいれられないんだ。透明人間なんて、ほんとうになさけないものだよ。人目をおそれて、いつもびくびくしながららさなくてはならないんだからね」

「で、アイピング村へは、どうしていったのだい?」

研究けんきゅうをつづけたくていったんだよ」

「研究をつづけるためにだって? だってきみの研究は完成かんせいして、のぞみどおり透明とうめいになったじゃないか……」

「しかし、きみ、考えてくれたまえ。からだ透明とうめいになったおかげで、ぼくはほかの人間にんげんが持つことのできない力をもつことができるようになった。だが、そのかわり、ぼくは何もかもうしなってしまったんだ。科学者かがくしゃとして名をあげてみても、ぼくの姿すがたがみえないのでは、どうにもしようがないだろう。あたたかい家庭かていをつくって楽しく暮らすことも、友だちとゆかいに話しあうことも、永久えいきゅうにできなくなったのだ。ぼくはたったひとりぽっちで暮らすほかはなくなったのだ。ただ、たったひとつののぞみは、もとのからだにかえることができるくすり発見はっけんしたいということなんだ。その研究けんきゅうのために、しずかなアイピング村へいったわけだよ」

「なるほど、そんなわけだったのか……」

 博士はくしは、ナイト・ガウンのけもののような透明人間とうめいにんげんをみつめた。そこに友人のグリッフィンがいる。かれはながい間、胸にたまっていた思いをケンプ博士はくしにうちあけて、ほっとしたのか、ゆったりといすに腰かけて、たばこに火をつけた。


悪魔あくま天使てんし


「ところで、きみはこれから、どうするつもりだい? なんのために、このバードック町にやってきたんだ?」

 はじめに下宿げしゅく放火ほうか、つぎに、古着屋ふるぎやでおそろしい殺人さつじんをやりかけている。よくもわずかの間に、とんでもないことを仕出しでかしたものだと、むかしの友人のかわりはてた異様いようなすがたをながめながら、ケンプ博士はくしがたずねた。

「うん。ぼくがここにきたのは、国外こくがいにのがれたかったからさ。はだかで暮らすのには、イギリスはまだ、さむすぎるよ。洋服ようふくをきればすぐ人にあやしまれて、追いまわされるし、ぼくは、もっとあたたかい地方へいってしまいたいと思って、この港町みなとまちへきたのだ」

「それで?」

「ここからは、フランス行きの便船びんせんがでる。フランスへわたり、汽車きしゃでスペインへいって、そこからアフリカのアルジェリアへいくつもりだ。アルジェリアなら、姿すがたをけしてはだかで暮らしても、いっこうさむくはないだろうからね」

「アフリカにいくのか?」

「そうだ。ぼくの秘密ひみつがしれてしまったからには、もう、どうしようもない……。ところが、それには、ぼくひとりではやれないのだ。ぼくが荷物にもつをもって歩くわけにはいかない。そうすると、このまえの金貨きんか空中くうちゅうをとぶようなさわぎになって、すぐ、大さわぎになってしまうんだ。そこで、あの浮浪者ふろうしゃをやとったんだが、だいじな研究けんきゅうノートとかねをもって、にげてしまった」

「浮浪者は警察けいさつにいるよ」

「えっ、あいつが……」

 透明人間とうめいにんげんが、すっくと立ちあがった。

 そのとき、玄関げんかんのベルがなった。

 ベルの音をききつけると、透明人間とうめいにんげんはケンプ博士はくしから二、三歩とびさって、

「あれは、なんだ?」

と、するどく言いはなった。

「なにも聞こえないが……」

「いや、二階へあがってくる足音だ」

「気のせいだよ」

 警官けいかんがきたことを、あいてにさとられまいとして、ケンプ博士はくしは、おだやかに言った。

「ちょっと見てくる」

 博士がとめようとしたが、透明人間とうめいにんげんはドアに近づいていった。

 すると、博士がドアを背にして、その前に立ちふさがった。

「なんだ、きみは! じゃまをするのか」

 入口に近づけまいとする博士はくしから、ぱっとびのいて、透明人間はがまえた。

「おれをだましたな!」

 その声は、いかりにふるえていた。

警官けいかんをよびやがって、よくも裏切うらぎったな……裏切り者め!」

 透明人間とうめいにんげんはガウンの前をひらくと、すばやく、下に着ているものをぎはじめた。

 この男を、この部屋へやから外に出してはならない。博士はドアをうしに開いて廊下ろうかにとびだし、バタンとめた。カギがない。透明人間が内側うちがわから開けようとして、博士がにぎる把手とってをひねった。その力は、ものすごく強かった。博士はドアを開けさせまいとして、奮闘ふんとうした。ドアのすきからガウンのうでがのびた。博士はのどをめつけられ、把手をはなした。博士はガウンの怪物かいぶつに突きとばされた。

 博士はくしからの手紙で、いそいでけつけた、バードックの警察署長けいさつしょちょうアダイ警部けいぶは、玄関げんかんからホールを通って階段かいだんをのぼりかけたところで、目に見えない怪物と戦っている博士を見て、立ちすくんでしまった。

「なんだ?」

 怪物かいぶつと戦う博士はくしは、倒されたり起きあがったりしながら、二階の廊下ろうかから階段かいだんのおどり場へのがれてきた。怪物のガウンが宙を飛んできて、博士におそいかかって倒した。目の前のできごとに、びっくりしている署長しょちょうを、ガウンのけものがなぐり倒した。

 起きあがろうとする署長しょちょうを、怪物かいぶつ階段かいだんから下にけり落として、動けなくしてしまった。階下かいかには応援おうえん警官けいかんが二人いた。二人はあわてて、ちゅうを飛ぶガウンを追いまわした。追いまわすうち、ガウンは一階のホールの天井てんじょうへパッといあがったかと思うと、落ちてきて、そのまま、へなへなっと動かなくなった。

 玄関げんかんのドアが、人影ひとかげもないのに開いて、バタンとまった。

 署長しょちょうは起きあがったが、顔をしかめて、また、へなへなとすわった。そこへ、透明人間とうめいにんげんとの格闘かくとうきずだからけの顔となった博士はくしが、ふらふらになって階段かいだんを降りてきて、くやしそうに言った。

「しくじった。にげてしまった」


大捜査陣だいそうさじん


 透明人間とうめいにんげんがあばれまわるのを見ただけでなく、したたかになぐられ、階段かいだんからけり落とされて動けなくなるほどの目にあいながら、アダイ署長しょちょうは、なおも信じられないという顔をしていた。

 そんな顔の署長しょちょうに、だらけのれあがった顔のケンプ博士はくしが、ぐずぐずしてはいられないと、せきこんで言った。

「あいつは気がくるっている。このまま逃がしておいたら、どんなひどいことをしでかすか、わかりませんよ。けさも、これまでにやってきたことを、得意とくいになって話すんですからね。あきれたもんです。署長! あの男はもう、かなりたくさんの人をきずつけています。これからもっとあばれまわって、町や村のひとたちを恐れさせてやるんだと話していました」

「かならず逮捕たいほしてみせます」

 署長しょちょうがこたえた。

大至急だいしきゅう警官けいかん非常召集ひじょうしょうしゅうをおこなって、この町から透明人間とうめいにんげんがにげだせないようにすることです」

「こころえています。さっそく召集して、道という道に見はりを立てて、あの怪物かいぶつがにげられないようにしましょう」

汽車きしゃふねに乗って、逃げられないように、えきみなとにも見はりをつけてほしいですな。あの男は、かけがえのない物と考えているノートを取りもどすまでは、この町をはなれないと思います。その浮浪者ふろうしゃのトーマスは、警察けいさつ保護ほごしてあるんでしょうな」

「ぬかりはありませんよ、博士はくし! そのノートのことも」

透明人間とうめいにんげんをつかまえるには、食物しょくもつをあたえないことです。ねむらせないことです。この二つのことを実行じっこうすることです」

「なるほど」

 署長しょちょうがうでぐみしてうなずいた。

「たべものは手のとどかないところにしまっておき、透明人間が家の中にはいれないように、町じゅうの家が、まどにカギをかけておくことです」

「さっそくしょへもどって、作戦を立てるとしましょう」

 署長は立ちあがって、博士といっしょに歩きながら話をきいた。

「やつは食物しょくもつをのみおろすと、消化しょうかするまでは体の中のものが見えるので、しばらくは、どこかにかくれてやすまねばならんのです。ここが、こちらのねらいです。それと、犬をですな……犬を、できるだけたくさん、かり集めることです」

「ほほオ、透明人間とうめいにんげんは犬には見えますかな」

「見えないことは、われわれ人間とおなじですが、犬はにおいでぎつけるんです。これは透明人間が、犬にかみつかれて弱ったと、じぶんで話してたことですから、まちがいありません」

名案めいあんですな。ハルステッド刑務所けいむしょ看守かんしゅたちが知ってる男に、警察犬けいさつけんっておる男がいるそうですから、さっそく手配てはいしましょう」

 こうしている間に、博士はくし屋敷やしきからにげだした透明人間が、なにをしでかすか知れないと思うと、ケンプ博士は気が気でなかった。

透明人間とうめいにんげんのもう一つの弱いところは、凶器きょうきを持ってあるけないことです。鉄棒てつぼうとかナイフとか、太いステッキのような物は、手ごろの武器ぶき……つまり凶器になりますが、あの男がこれらの物を手にして歩くと、鉄棒やナイフがちゅうを浮いてうごくことになるので、すぐ気づかれてしまいます。ですから、やつが凶器を持ってあるく心配しんぱいはありませんが、凶器につかわれそうな物は、どの家でも、かくしておくように知らせてもらいたいのです」

「ごもっともな意見いけんです。その方針ほうしんで、かならず逮捕たいほしてみせます」

 アダイ署長しょちょうはこたえた。

「もう一つ、だいじなことがあります」

「なんです?」

「ガラスの破片はへん道路どうろにまきちらすのです。透明人間とうめいにんげんは、はだかで、はだしで歩いていますから、これはきめがありますよ。すこし残酷ざんこくなやりかたですが、そんなことは言っておられませんので」

「スポーツマンシップにけるようですが、お考えどおり、ガラスの破片はへんをよういさせましょう。目に見えない怪物かいぶつに、あばれられては大変たいへんですからな」

「あの男は、むかしのグリッフィンとは人が変わってしまった。けだものになって、気がくるっているのです」

 博士はくしはアダイ署長しょちょうがよんだ辻馬車つじばしゃに乗って、署長といっしょにバードックの警察署けいさつしょにいそいだ。


石切場いしきりば殺人さつじん


 ケンプ博士はくしの家をとびだしてからの透明人間とうめいにんげんのゆくえは、どこに行ってしまったのか、さっぱりわからなかった。

 港町みなとまちポート・バードックの人びとは、その日の朝のうちは透明人間の話もうわさにすぎなかったものが、午後になると、ほんものの怪物かいぶつが町にあらわれたと知って、大さわぎになった。

 なにしろ人の目に、その姿かたちが見えないのである。道をあるいていて、いきなりなぐられてもふせぎようがない、というのだ。音もなく家に忍びこまれても、これまた、見えないのだから、どうしようもない。町の人は不安にかられていた。げんにその朝、道で遊んでいた子どもの一人が、いきなり何者ともしれないものに突きとばされて、ケガをしている。その場にいあわせた子どもたちは、友だちを突きとばしたものを、だれも見ていないのだ。

 透明人間とうめいにんげん危害きがいから町の人を守るには、怪物かいぶつとらえることである。そのための警察けいさつ手配てはい着々ちゃくちゃくとすすみ、おもったよりはやく、町のこれぞと思うところに、警官が動員どういんされていた。

 騎馬巡査きばじゅんさが町をねり歩いては、戸締とじまりをげんじゅうにするよう、家々によびかけた。小学校は午後三時には授業じゅぎょうをうち切って、児童じどう帰宅きたくさせた。町の人は、三人四人と組んで自警団じけいだんをつくり、鉄砲てっぽうやこんぼうをもって警戒けいかいにあたった。みなと船着場ふなつきば汽車きしゃ停車場ていしゃば、おもだった道の出入り口。バードックの町を中心にして三〇キロの半径はんけいの円にはいる地域ちいきの町や村が、透明人間の出没しゅつぼつにそなえたのである。

 透明人間とうめいにんげんにたいする注意書ちゅうきがきが、ケンプ博士はくしとアダイ署長しょちょうの名をそえて、町のいたるところにりだされた。食物しょくもつをとらせないこと、眠る場所をあたえないことなどが、書かれてあった。警戒けいかい万全ばんぜんであった。

 ところが、透明人間のゆくえは、どうなったのか。その日の朝、遊んでいる子どもを突きとばして、ケガをさせたのは、たしかに透明人間のしわざにちがいないが、それから先、どこへ行ったのか、音さたないのである。

 ポート・バードックの町のうしろは、高原こうげんになっている。その遠くまでつづく高原には森もある。透明人間とうめいにんげんはおそらく、その森で、ひと休みしているのではないかと、ケンプ博士はくし署長しょちょうも、そのように考えていた。

 ケンプ博士はくしは、透明人間とうめいにんげんはかならず町にもどってくると思っていた。食物しょくもつをもとめてのためか。それだけではない。博士に裏切うらぎられたことへ、仕返しかえしをするために、夜になったら、きっと、博士の家にあらわれるものと信じていた。

 夕方になった。透明人間のゆくえがわからないまま、遠くへにげられたのではないかと、みんないらいらしているところへ、町から一六キロはなれたところで起こった、殺人さつじんのニュースがとどいた。むろん、その事件じけんを調べたその土地の警察けいさつからである。奇妙きみょうな事件であった。

 そこはバードックきょう荘園しょうえんのある高原こうげんの静かな土地で、荘園ではたらく執事しつじが、じぶんの住居すまいに昼の食事にかえるとちゅう、ころされたのである。

 もうながいことバードック卿の荘園で執事をつとめるウィックスティード氏は、おだやかな人柄ひとがらで、ひとににくまれたり、けんかをしたりするような人でなかった。昼になると、荘園の木戸から一五〇メートルほどはなれたところにある住居すまいにもどって、食事をするのが日課にっかとなっており、草原そうげんをとぼとぼ横切る執事しつじを、その日も近所の女の子が見ていた。

「おじさーん」

 いつものように声をかけると、いつもならすぐ、にこにこした執事の笑顔えがおと、おどけた返事がかえってくるのに、おじさんはステッキをふりまわして、女の子には見向きもしないで、通りすぎたというのだ。

「おじさん、なにしてるの?」

 女の子は、太った執事しつじのあとを追った。おじさんは、おかしなことをしていた。見ると、一本のてつぼうが、執事があるく前に浮かんで、ふらふらとゆれているではないか。女の子は、びっくりした。世にもふしぎなちゅうに浮く鉄棒てつぼうを追って、おじさんはステッキでその鉄棒を、たたき落とそうとした。

 すーっと、鉄棒がにげた。

「このけものやろう!」

 口にしたこともないきたないことばを、おとなしい執事しつじが、めずらしくきすてた。つづいて、このやろう……このやろう、と夢中むちゅう鉄棒てつぼうにステッキで、なぐりかかっていった。

 ちゅうに浮いた鉄棒と執事しつじとのたたかいは、ブナ林をぬけて、なおもつづいた。おじさんはあせをかいて、へとへとになり、それでもあきらめずに、なんとかして鉄棒の化けものをたたき落として正体しょうたい見破みやぶろうと、追いつづけ、ついにその鉄棒を石切場いしきりばいらくさしげみのあいだに追いつめたのである。

 そこで執事しつじウィックスティード氏は、鉄棒の化けものの猛反撃もうはんげきをくった。ただ、残酷ざんこくとしか言いようのない、無残むざんころされようであった。頭はたたきられ、うではへし折られて、これがあの温厚おんこうな人の姿であるか、といきどおりを感じさせるほどに、ひどいものだった。

「あいつのやったことです。透明人間とうめいにんげんのしわざです」

 ケンプ博士はくしがニュースを聞いて、署長しょちょうにいった。

「かならず逮捕たいほしてみせます。この町にはいってきたら、こんどこそ逃がしはしない」

 アダイ署長しょちょう博士はくしと、これからの打合わせをした。

「ぼくは家に帰って、透明人間とうめいにんげんがあらわれるのを待つことにします」

 博士が警察署けいさつしょをでると、外には夕闇ゆうやみがせまり、夜になろうとしていた。街角まちかどには警備けいびのひとが立ち、三人四人と隊を組んだ見張りの者が、町の通りをあるきまわっていた。


透明人間とうめいにんげん最期さいご


 きんちょうのうちに一夜があけたが、なにごともなかった。町に透明人間とうめいにんげんがあらわれた話はなく、ケンプ博士はくし屋敷やしきにも、透明人間は近づいてこなかった。

 その朝もぶじに過ぎて、おそい昼の食事を博士がしていたときである。一つうの手紙がいこんできた。切手きってらないので、郵税ゆうぜい二ペンスの不足ふそくとなっている。透明人間からのものだ。消印けしんはヒントンディーンきょく。どこかで紙をぬすんで書いて、ポストに投げこんだものとみえる。

 ──よくも裏切うらぎって、おれを苦しめたな。こんどは、かならず、きさまをころしてやる!

 差出人さしだしにんの名は書いてないが、透明人間、すなわちグリッフィンからの手紙にちがいなかった。

 消印のヒントンディーン局のある町からここまで、一時間あれば、やってこられる道のりである。博士はくしは食事をやめて、まどぎわに寄って外を見た。それから家政婦かせいふにいいつけて、家じゅうの窓や戸のカギを調べさせた。どこにも手落ちはなく、透明人間がしのびこむすきは、どこにもない。そこへ警察署長けいさつしょちょうが、しんぱいしてやってきた。玄関げんかんのドアを開くのも、人ひとりがやっと通れるくらいの細目ほそめにして、署長を入れる用心ぶかさで、博士は署長を中にいれると、透明人間とうめいにんげんからの手紙をわたして見せた。

「あなたをねらって、ここへ……」

「かならずきますよ。もう、そのへんをうろついてるかも知れません」

 博士はくしがそう言ったとき、ガチャーンと、ガラスがくだける音が、二階のどこかでした。

「二階のまどだ!」

 ポケットにかくしておいた銀色の小型こがたピストルをにぎって、博士は二階にかけあがった。署長がそのあとにつづいた。書斎しょさいにかけこむと、庭にめんした三つの窓のうち二つが、めちゃくちゃにガラスをたたきられていて、ゆかいちめんに、ガラスの破片はへんがちらばっていた。

 ケンプ博士はくしは、まだやぶられていない三つ目のまどに目をはしらせると、ピストルをぶっぱなした。ガラスはたまちぬかれてひび割れ、三角状かくじょう破片はへんとなって内側へ落ちた。

「やつがいましたか」

 署長しょちょうが目を大きくしてきいた。

「いや、ここまではのぼってこられませんよ。ねんのために、ぶっぱなしたのです」

 ドスン……と階下かいか破目板はめいたをたたきやぶる音がした。つづいて、まどガラスがやぶられた。しかし、一階の窓には、のこらず鎧戸よろいどがつけてある。かんたんには侵入しんにゅうできないだろう。

警察犬けいさつけんをつれてきましょう。用意してあるんです。十分とかかりません」

 署長しょちょうはケンプ博士はくしからピストルをりて、外にでた。ところが、アダイ署長が芝生しばふの上を門に近づいて、中ほどにきたときである。目に見えない怪物かいぶつが、署長をおそった。

 はじめ、いきなりなぐり倒された。署長がピストルで応戦おうせんした。起きあがったが、けり倒されてピストルをうばわれ、手をあげて家のほうへ歩きだしたが、ピストルを取り返そうとして射ち倒されてしまった。ピストルは透明人間とうめいにんげんの手にわたったのである。二人の警官けいかんが、かけつけてきた。博士はくしは用心ぶかく二人をなかにいれた。そのときはもう、うらにまわった透明人間が、物置ものおきからさがしだした手斧ておので、ガンガン、台所だいどころのドアをたたきこわしてるところだった。

「あれは?」

透明人間とうめいにんげんだ。ピストルを持っている。残りのたまは二発……署長しょちょうたれた」

 おどろく警官けいかん説明せつめいして、博士はくしは火かきぼうを手にして、台所に向かった。それに二人の警官も火かき棒を持って、あとにつづいた。

 ガンガン………バリバリッと、がんじょうなドアはたたきやぶられ、見えない手が突きだしたピストルが、博士めがけて、二度、火をいた。博士と警官二人は広いホールに逃げて、ホールに入ってくる透明人間を包囲ほういするようにがまえ、火かき棒を前に突きだして敵を待った。

 そこへ、手斧ておのが頭上の高さに回転かいてんしながら、ホールに飛びこんできた。大乱闘だいらんとうとなった。

「ケンプ! きさまと勝負しょうぶだ」

 いかりにふるえる声がした。警官けいかんのひとりが、くるいまわる手斧を、火かき棒でたたき落とした。もう一人の警官は見えない足で、けたおされた。そのあいだにケンプ博士はくしは、まどから庭へとび降り、町に向かって走った。それに気がついた透明人間とうめいにんげんは、警官けいかんをなぐり倒すと、ちくしょう! とさけんで、ケンプ博士のあとを追った。別荘べっそうがつづく高台たかだいをかけ抜けると、町へ下るながい坂になっている。町へにげれば、追ってくる透明人間を、そこでとらえることができると博士は考えていた。はだしの足音が、すぐうしろに追っている。

 博士は走って走って、まっ青になって走った。砂利じゃりや石ころが、ごろごろしている道をえらんで走った。透明人間との間が少しはなれた。やっと、町の入口に走りついた。

「透明人間がきたぞーっ」

 さけびながら博士は、町の大通りを、鉄道馬車てつどうばしゃえきのほうへ走った。駅の前に広場がある。その広場には砂利の山があり、シャベルを持った工夫こうふがはたらいていた。

透明人間とうめいにんげんだ、にがすな」

 手に手に棒をにぎりしめた町の人が、わっと飛びだしてきて、博士のゆくての道をふさいだ。

裏切うらぎりやがったな!」

 透明人間がま近にきたな、と感じた瞬間しゅんかん、ケンプ博士は、したたかにあごに一げきをくらった。倒れたところを脾腹ひばらをけられ、つづいて胸を重いものがおさえつけ、のどをしめつけられた。

 工夫こうふの一人が、博士はくしの上になっている透明人間のせなかを、シャベルでなぐりつけた。手ごたえがあった。また、なぐった。すると、こんどは博士が上になり、警官けいかんもくわわって、透明人間の手や足をおさえつけた。姿すがたを見せない透明人間が、ぐったりとなった。博士のあいずで、みんな手をひいて立ちあがった。

「あっ?」

 群衆ぐんしゅうに囲まれた広場の、博士はくしの足もとの地上に、はじめはかすかに、それから少しずつ……半透明はんとうめいの人の形をした物が姿をあらわし、まもなく、若い男のはだかきずだらけのからだがよこたわっているのが、見えてきた。透明人間グリッフィンの最期さいごである。

(おわり)

底本:「透明人間」ポプラ社文庫、ポプラ社

   1982(昭和57)年7月第1

   1984(昭和59)年9月第5

入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)

校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)

2010年731日作成

2013年121日修正

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