透明人間
ハーバート・ジョージ・ウエルズ
海野十三訳
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怪物!
そうだ、怪物にちがいない。
怪物でなくて、なんだろう? 科学が発達した、いまの世の中に、東洋の忍術使いじゃあるまいし、姿がみえない人間がいるなんて、これは、たしかに変だ。奇怪だ!
しかし、それは、ほんとうの話だった。怪物ははじめに、ものさびしい田舎にあらわれた。それからまもなく、あちこちの町にも出没するようになったのである。たいへんな騒ぎになったことは、いうまでもない。
その怪物の姿は、まるっきり見えないのである。すきとおっていて、ガラス、いや空気のように透明なのだ。諸君は、そんなことがあるもんか──と、いうだろう。だが、待ちたまえ!
怪物が、はじめて田舎のその村にやってきたのは、たしか二月もおわりに近い、ある寒い朝のことだった。身をきるような風がふいて、朝から粉雪がちらちら舞っていた。こんな寒い日は、土地のものだって外を出あるいたりはしない。
その男は、丘をこえて、ブランブルハースト駅から歩いてきたとみえ、あつい手袋をはめた手に、黒いちいさな皮かばんをさげていた。からだじゅうを、オーバーとえりまきでしっかり包んで、ぼうしのつばをぐっとまぶかにおろし、空気にふれているところといったら、寒さで赤くなっている鼻さきだけであった。なんともいいようのない、ぞっとするようなふんいきを、あたりにただよわせながら、黒馬旅館のドアをおしひらいてはいってきたのである。
「こう寒くちゃあやりきれない。火だ! さっそくへやに、火をおこしてもらいたいな」
酒場へ、ずかずかとはいってくるなり、ぶるるんと、からだをゆさぶって雪をはらいおとし、黒馬旅館の女あるじに向かって、そう言った。
いまどき、めずらしい客である。こんな冬の季節に、しかもこんなへんぴな土地に、旅の商人だってめったにきたことはないのだ。おかみさんは、びっくりもし、なげだされた二枚の金貨をみると、すっかりよろこんでしまった。
「とうぶん、とめてもらうから」
客をへやに案内すると、暖炉に火をもやしてたきぎをくべ、台所でお手伝いにてつだわせて、おかみさんはせっせと食事のしたくをした。
スープ皿、コップなどを客室にはこんで、食卓のよういをととのえた。暖炉の火はさかんにもえて、ぱちぱちと音をたてている。
ところが、火にあたっている客はこちらに背をむけたまま、ぼうしもオーバーもぬごうとはしないで、つっ立っている。中庭にふりつもる雪をみつめながら、なにか考えているようだった。オーバーの雪がとけて、しずくが床のじゅうたんの上にしたたり落ちていた。
「もし、あのう、おぼうしとオーバーを、おぬぎになりましたら? 台所でかわかしてまいりますわ」
と、おかみさんが声をかけた。
「いいんだ」
ふりむきもしないで、客が、ぶっきらぼうに言った。おかみさんはあわてて、残りの皿をとりに台所へもどった。
料理をはこんで、もういちど客室にきてみると、客はまだ、さっきとおなじ姿勢で窓のほうをむいていた。
「お食事のよういができました」
「ありがとう」
へんじはしたが、うごこうともしなかった。おかみさんがでていくと、男は、さっと食卓に近づいた。そして、スープをせっかちにすすり、パンやベーコンをがつがつと食べはじめた。
つぎに、おかみさんがハム・エッグを皿にのせて、軽くドアをたたいて客室にはいっていくと、とたんに、男はナプキンを食卓の下になげ、それをひろうようなかっこうをして、身をかがめて口におしあてた。
(おやっ?)
と、おかみさんは思った。
ぼうしとオーバーはやっとぬいで、暖炉のまえのいすにおいてある。長ぐつは、炉のかこいの金具のうえにおいてあった。
「これはあたしが、かわかしてまいりましょう」
金具がさびちゃあこまる、とおもって、長ぐつを取りあげながら、おかみさんが言った。
「ぼうしは、いじらんでおいてくれ」
陰にこもったふくみ声で、客はぴしりと言った。おかみさんはおどろいて、客のほうを見た。客はかの女をにらんでいる。
おかみさんは、ぎくっとして、その場にたちすくんでしまった。なんという顔をしているのか……。男の口から下はナプキンにかくれて見えないが、青いめがねをかけたその顔は、頭から顔じゅうをほうたいでぐるぐる巻き、ほうたいの白い中から鼻だけが赤くのぞいていて、そのぶきみさは、全身の毛がそうけ立つほどだった。
「あっ」
と、あやうく声をたてるところだった。男は茶色のびろうどの服のえりを立てて、顔をうずめている。
「いいかい、そのぼうしにはさわらんでくれ!」
もういちど、男が、こんどははっきりと言った。
「もうしわけありません」
おかみさんはぼうしだけ残して、オーバーなどをかかえこむと、にげるように客室をとびだして台所にもどった。
ひとりきりになると、男は窓ぎわにいって、まだ昼間だというのに、カーテンをひいた。へやのなかが、きゅうに、うす暗くなった。
男は、じつによく食べた。
カーテンをひいて、へやがうす暗くなると、それで安心したのか、食卓につくと、まるで三日も四日もたべずにいたかのように、皿のなかの物をかたっぱしからたいらげていった。
黒馬旅館のおかみさんは、なんとも気もちのわるい客をとめたもんだと、考えこんでいたが、この男がまさか怪物であろうとは気がつかない。ぶっきらぼうで、ぶあいそうな客だとはおもうが、なにしろ先払いで宿料に二枚の金貨をわたしている。わるい気もちはしなかった。
(あの人はかわいそうな人なんだよ、きっと! ひどいけがをしてるらしいよ。どこで、どんなけがをしたか知らないが、かわいそうに……。だけど、ほうたいだらけのまっ白なあの顔には、ぞっとするわ。まるで化けものみたいだもの)
おかみさんは台所の暖炉の火で、客のオーバーや長ぐつをかわかしながら、そんなことを考えていた。
(ナプキンで口をかくしているところをみると、口のまわりに、大けがをしたんだよ。ぞっとしたりしては、気のどくだわ)
しばらくして、おかみさんが食事のあと片づけに客室にはいっていくと、客はパイプでたばこをくゆらしていた。顔の下半分にはマフラーをまきつけて、パイプを口にさしこむのに、マフラーをゆるめようとはしないで、口もとをかくすようにしてパイプを吸っていた。
暖炉の火が青めがねにうつって、赤々とゆらいでいるが、どんな目をしてこちらを見ているか、とおもうと、やはり、ぶきみさが先に感じられてくるのだった。
めずらしく、客のほうからしゃべった。
「ブランブルハースト駅に、荷物をおいてきたんだが、どうやったら取りよせられるね?」
「おや、それはおこまりでしょう。さあ、この雪では……それに、こんな田舎ですからね。たのむといって、すぐに、人手がいいあんばいにございませんわね」
男はほうたいだらけの頭で、うなずいていたが、
「こまるなあ。どうしても、きょうじゃあだめかね?」
と言った。
「きょうじゅうには、むりでございますよ」
「あすになるか? なんとか早く、とどけさせる方法はないものかな? 馬車ならいってこられそうなものだが……」
がっかりしたようすで、なおもつづけた。
おかみさんは、この雪ではとてもだめだろうと、客のようすを探るようにながめながら、説明した。
「それがむりなんですよ。このうら山には、とてもけわしい場所がありますんでね、馬車なんか通れやしませんよ。去年でしたか、馬車がひっくりかえりましてね、お客さんと馬車屋が死にました。とんだ災難で、まあ、こんな日には、おやめになったほうがようござんすね」
「なるほど、災難って、そういったもんかね」
男はそれいじょう、たってたのもうとは言わなかった。
「マッチをとってくれんか」
パイプをマフラーのあいだから口にさしこんで、おかみさんからマッチをうけ取った。そしておかみさんに背をむけると、窓ぎわにいって、カーテンのすきまから中庭の雪をながめたまま、ひとことも口をきこうとはしない。おかみさんは、はっとして、へやをでていった。
ふしぎな男は、夕がたまで、へやにとじこもっていた。
ふるびた時計が四時をうった。あたりはいつのまにか、うす暗くなっていた。
宿のおかみさんは、さっきから、もうなん度も時計をながめてはためらっていた。
(四時だわ、どうしてもあのお客さまのところにいって、お茶のご用をきいてこなくては………だけど、どうしたのかしら、わたしはどうもあのお客さまの前にゆくのが、気がすすまないんだけど……)
おかみさんは、また一、二分考えていたが、きゅうに勇気をふるい起こして、さっと立ちあがった。そのとき、いきおいよく戸をあけて、
「おお! おかみさん、えらく降りだしたじゃねえか。いやになるねえ、いつまでも寒くて、この大雪じゃ、わしのぼろ靴で歩くのはこたえまさあね」
と、大声でいいながら、戸口でぶるぶるっと雪をはらって、時計屋のテッディ・ヘンフリイが寒そうにはいってきた。
外では、まだ雪がやすみなく降りつづいている。
「ああ、テッディさん! まったく、こう寒くてはやりきれないわね」
おかみさんは、こう言いながら、時計屋が片手にぶらぶらとぶらさげている修理道具のはいったふくろを見た、とたん、いいことを思いついた。それは、
(テッディといっしょにあの客のところへゆく)
ということだった。そこで、
「テッディさん、いいところへきてくださったわ、ちょうど、お客部屋の時計を見てもらいたいと思っていたのよ。あのへやの時計ときたら、動くのは、ちゃんとまちがいなく動くし、時間だって、元気よく打つんだけど、針だけがいつも六時を指したきりなのよ。どうしたのかしら?」
「へんだねえ、ちょっくら、見てみましょう」
テッディは首をかしげながら言った。おかみさんは、かれをつれて、れいのふしぎな客の部屋のドアをかるくたたいた。
へんじはなかった。が、おかみさんはさっさとドアをひらいて、部屋へはいりこんだ。
「眠っておいでらしいわ」
おかみさんは、ひとり言のようにひくくつぶやいた。
男は、暖炉の前のひじかけいすに、ふかぶかと体をうずめて、ほうたいだらけの頭をかしげ、うとうとと、いねむりをしているらしかった。
灯のついていない部屋は暗かった。ただ赤々とさかんに燃えている暖炉の火が、あたりをぼんやりと照らしだしていた。
男は、うつぶせになったまま、身動きもしない。
「まあ、なんて暗いんだろう。灯をつけないから、なんにも見えやしない」
いままで、明るい台所にいたおかみさんには、なにもかもが、ぼんやりと見えた。
「もし、だんなさま」
声をかけて、ひと足、男のほうに近づいた。と、つぎの瞬間、
「あっ!」
おかみさんは、ぶっ倒れるかと思うほどおどろいてしまった。ひょいと見た男の顔が、なんと怪物そのままの不気味な顔をしているではないか!
暖炉の火をうつして、赤く光る色眼鏡、顔いちめんにぐるぐるまきにしたほうたい、そしてなによりおそろしく思えたのは、ぽっかりと深いあなのように開いている大きな口だった。まるで顔の下半分が、すっかり口にかわったのではないかと思うほどだった。
「う、うーん」
おかみさんのびっくりした声に目をさましたのか、男は、ゆらりと体を動かし、眠そうにいすから立ちあがった。
「あっ」
男は、目の前にたまげた顔で立ちすくんでいるおかみさんを見ると、あわてて、襟巻のはしで口のあたりをかくそうとあせった。
その間に、おかみさんは、やっとの思いで、気をとりなおし、
「だんなさま、時計屋が時計をなおしにまいりましたので、ちょっと……」
「時計をなおすのかい? いいだろう──」
男は、とりつくろったようすで、重々しくこたえた。
「では、テッディさん、ちょっと、待っててください。すぐランプをとってきますからね」
おかみさんは、逃げるようにへやからでてきた。時計屋も、怪しげな客の姿を見て、どぎもをぬかれ、部屋にはいらずに、おかみさんが引っかえしてくるのをじっと待っていた。
「お待ちどおさま!」
と言って、おかみさんは、ランプを片手にもち、時計屋をうながすような目をして、もういちど部屋にはいっていった。時計屋があとにつづいた。
男は、部屋のまん中につっ立っていた。時計屋は、おずおずと、
「おじゃまではございませんか? お客さま」
と言うと、男はちらりと色眼鏡をきらめかして、
「いや、かまわんとも」
と、ごうまんな態度でこたえた。時計屋は、なにやら、ぞっと背すじが冷たくなるような、いやな感じをうけた。できることなら、時計の修理などはほうりだして、この部屋からでていきたくなった。
と、男は、こんどはおかみさんにむかい、
「おかみさん! ぼくのほかにはだれも、この部屋にはいらせない約束だったね」
と、つめたい声で不満そうに言った。おかみさんは、たじたじと後ろにさがり、
「ですけど、時計だけは──」
なおしておかなくては、あなたがおこまりになるでしょうと、言うつもりだったが、おそろしさのために、そのあとの声がつづかなかった。
「むろん、時計は正確でなくてはいけないよ。だが、ぼくは、この部屋にいつでもひとりで静かにいたいのだ。だれもはいってこないように気をつけてもらいたいね」
ぶきみな男にどなりつけられると、時計屋は逃げだしたくなった。もじもじ、手足を動かした。それをみると、男は、すぐに、
「だけど、時計をなおしてくれるのに文句をいうつもりはないよ。けっこうだよ。なおしてもらおう。きみ、さっそく、やってくれたまえ」
時計屋のヘンフリイは、すくわれたように大いそぎで時計にとびつき、修理にかかった。
男は暖炉をうしろにして、両手を背中でくみあわせ、また、おかみさんにむかって、
「おかみさん、時計がなおってからでいいから、お茶をいれてくれたまえ」
おかみさんは、
「ただいま、すぐ持ってまいりますわ」
と、いうより早く、出ていこうとした。男は、
「おっと、待ってくれたまえ、ブランブルハースト駅にある、ぼくの荷物をとりよせるようにたのんでくれたかね」
「配達屋にたのんでおきましたから、あすの朝早くとどきます」
「あすの朝……こん夜のうちに、とってくるわけにはゆかないかね」
「ええ、だめでございますよ」
おかみさんは、むかっ腹をたてていた。と、みると男は、にわかにものやわらかいようすになり、
「じつはね、おかみさん。ぼくは科学者なんだよ。いままではこのひどい寒さがこたえて、気分がすぐれなかったうえに、疲れきっていたので、なにをやる元気もでなかったが、ここで休んでいるうちにやっと元気がでたんだよ。となると、もうじっとしていられないんだ。すぐにも実験にとりかかりたくてね……これがぼくの性分なんでね」
人のいいおかみさんは、これを聞くと、たちまち、この男を怪しんだり、いやがったりしたことを後悔して、
「さようでございましょうとも、で、駅にございますお荷物の中に、実験道具をおいれになっていらっしゃるのでございますか?」
「そうなんだ。全部はいっているんだ」
男は、おかみさんがじぶんを信用しはじめたと見て、また話しつづけた。
「ぼくがこの片田舎のアイピング村へやってきたのは、だれにもじゃまされないで、思うように研究をやりたいからなんだよ。実験をやってる最中にさまたげられると、たまらないからね。それに、ぼくは、ちょっとけがをしてね」
(やっぱりそうだったんだわ。この方は怪しい人じゃなかったのよ。お気のどくに……ずいぶんひどいけがをなさったらしいわ)
おかみさんは、心のなかでそう思った。男は、よわよわしい調子で、
「そのうえ、けがのために視力がすっかりよわってしまってね。ときどき痛みだすと、何時間も暗がりの中で、じっとしていなければならないんだ。痛みの起こったときのつらさときたら、まったくたえられないほどなんだよ。そんなときに、だれかに部屋にはいってこられると、とてもいやなんでね。だから、きみもよく心えていてもらって、ぼくの部屋へ他人をいれないでくれたまえ。しずかに休んでいたいんだからね」
「わかりました。よく気をつけますわ。そんなひどいおけがを、どうしてなさいましたの?」
おかみさんは同情のこもった声で、やさしくたずねた。すると男は、
「話はそれだけだ」
うってかわった冷たさで言い、おかみさんが二度と口をひらかないように横をむいた。
おかみさんがでてゆくと、男はヘンフリイが時計の修理をやっているのを、じっと見つめはじめた。
ヘンフリイは、さっきからだまりこんで、せっせと手を動かしている。
針をぬき、文字盤をはずし、なかの機械をひっぱりだした。
かれはねんいりに機械をしらべた。男がじっとながめているので、かれはなんとなく気味がわるくて、仕事をしている手が思うように動かなかった。
十五分ほどたつと、時計はすっかりなおったが、ヘンフリイは、いつまでもぐずぐずと機械をいじっている。時がたつにつれて恐ろしさがうすらいでくると、かれは、
(この奇妙な男の正体を見きわめてやれ!)
と、いう気になっていた。どうにかして、男と話すおりをつかみたいと思ったが、だめだった。
男は、口をきかないばかりか、身動きひとつしないで、じっとつっ立っていた。
眼鏡のレンズが、青白く光ってヘンフリイを見つめている。
ヘンフリイは、たまらなくいらいらしてきた。
(ちえっ、なんていやなやつだろう。ぞっとするよ。まるで化物とむきあってるような気もちだよ。人間なら人間らしく、きょうはひどく寒いねぐらいのことは、言ったらよさそうなもんだよ。ぶあいそうなやろうだ。が、こういつまでもだまってても、らちがあかねえや。ひとつこちらから先に、声をかけてやろう)
かれは決心して、男の顔を見あげ、
「この天気は──」
とたんに、するどい声がとんできた。
「さっさと仕事を片づけて、でていったらどうだ?」
男は、どなりたいのをやっとがまんしているらしく、ふるえる声で言った。ヘンフリイはまっさおになった。男は、かさねて、
「短針をじくにはめれば、すむんじゃないか。さっきから見ていると、やらないでもいいことばかりやってるみたいだぞ」
ヘンフリイは、ぎょっとした。男はなにもかも見すかしているのだ。
恐ろしさで体が、がたがたふるえてきた。大あわてで仕事をすませ、道具を片づけると、あたふたと部屋をでていった。
台所にくると、ヘンフリイは、いそがしそうに働いているおかみさんに、
「さようなら」
と、ふきげんなみじかいあいさつを残して、さっさと、雪がふる外へとびだした。
道にはすっかり雪がつもっていた。
「ちくしょうめっ! なにが科学者だい。学者ってものは、もうすこし上品なもんだよ。大きなつらをしやがって……あいつは悪魔かもしれねえぞ」
時計屋は、道々、思いつくかぎりの男のわる口をつぶやいた。それでも、やはりむしゃくしゃしていた。
時計屋がどんどん歩いて、グリーソン屋敷のかどまできたとき、のんきな顔で馬車を走らせてくるホールにばったりと出あった。
「よう! どうしたい、ヘンフリイ! 浮かねえ顔で、やけにいそいでるじゃねえか」
ホールがくったくのない声をはりあげた。
ホールは、怪しい男が泊まった黒馬旅館のあるじなのだ。かれはみるからに人の好いのんき者で、ホール夫人に気にいるように、てきぱき働くことなど、ぜったいにできない男だった。
ホールの仕事といえば、ときどき、シッダーブリッジ駅まで馬車を走らせ、荷物をはこんでくるのが、せいぜいだった。
いまも、駅からのかえり道で、いつもとおなじようにホールは途中で、さんざん世間話に油を売ってきたところである。
ヘンフリイは、ホールに声をかけられると、いんきな声で、
「ホール、おめえのとこには、へんな客がとまっているな」
「なんだって?」
お人よしのホールは、すぐに馬車をとめて、時計屋のほうへのりだしてきた。
「おめえ、知らねえのかい? あのみょうちきりんな顔の客のことを……」
ホールは首をふった。ヘンフリイは、
「おれもおどろいたぜ。おかみさんが客間の時計をなおしてくれっていうんで、いっしょに客間にはいったらさ、顔じゅうほうたいだらけの、色眼鏡をかけて、おっそろしく口の大きな、へんな顔の客がいるじゃねえか。おどろいたの、なんのって……おったまげたよ」
ホールはおどろいて、口をぽかんとあけてきいていた。それをみると、ヘンフリイはますます熱心に、客のようすをしゃべりたてた。
「あれはおめえ、よくねえやつかもしれねえぞ。じぶんでは科学者だなんて言ってるが……どうだか、わかったものじゃねえ。あいつは、変装してるのかもしれないぜ。どこかで悪事を働いて、それをかくすために、ああいうかっこうをして、なるべく人を近よせないでおくつもりかもしれないね」
「うちのやつは知ってるのかね?」
ホールが、心ぼそそうな声をだした。
「もちろんだよ。おかみさんもおかみさんだよ。なんだって、あんな男をとめる気になったんだろう? おれが宿屋のあるじなら、相手の顔をよくよくながめ、名まえをたしかめてから、泊めるか、泊めないか決めるね。女ってものは、よそものっていうと、とかく信用しがちなものさね。まして科学者なんていうと、なおさら信用するがね。部屋をかりて、名まえを言わねえような男は、ろくな人間じゃねえやね」
人がいいばかりで、頭の働きのにぶいホールは、ぼんやりと、
「そう言うもんかね」
「あたりまえだよ。しかし、おかみさんは、一週間のけい約をむすんでしまったんだ。いまさら、あいつがどんな悪者だったとしても、一週間のあいだは追いだすことはできないんだ。あすになると、あいつのいう実験道具とやらが、どっさりはこびこまれるらしいぜ。なんの実験をするつもりだかわからないがね」
「ふうん」
ホールは、心配そうに考えこんでしまった。ヘンフリイは、なおもくどくどと、
「用心したほうがいいぜ。おれのおばさんもね、ヘイスティングズでやはり宿屋をやっているがね。見なれぬ客がえらく大きなりっぱなかばんをさげてきたのをみて、すっかり信用してしまったのさ。ところがそのかばんは中がからっぼで、それに気づいたときは、たくさんの宿料をふみたおされて、逃げられたあとだったんだ。おめえたちも、怪しい客には、よくよく気をつけたほうがいいぜ」
「ありがとう、ヘンフリイ。こいつはどうも、うちのやつにちょっくら、言ってきかせなくてはなるまい。これから大いそぎで帰ろう」
すっかり不安になった黒馬旅館の主人ホールは、馬にひとむちあてると、いちもくさんに家へむかって走った。
いきおいこんだホールが家にとびこむと、
「おまえさん! いつまで外をうろうろしてたんだい? また油を売ってたね。そうでなくて、こんなにながく時間がかかるはずがないじゃないの!」
ホール夫人のがみがみとどなりつける声がとんできた。
「なに……それが、あの……その」
と、いままでの元気はどこへやら、ホールは叱られた猫のようにいくじなくちぢまって、しばらくたってから、やっとこさで、
「おまえ、新しいお客があったってね。いったいどんな方だい?」
と、おずおずしながら聞いた。
「だれに聞いたの? ヘンフリイがおしゃべりしたのね。どんな方って……りっぱな方よ。あなたになんか、あの方のことを話したってわかりゃしないわ。科学者なんですって」
それからあとは、いくらホールが聞いても、気のないへんじをしてごまかしてしまった。
(ちえっ、あいつ、おれにかくしだてをする気だな。いいよ。おれはじぶんの目で、そのへんな客ってやつを見てやるから──)
ホールは、おかみさんにいくら聞いても、それいじょうは話さないとわかると、だまって決心をした。
九時半になった。怪しい客も眠りこんだらしく、黒馬旅館は物音ひとつしなくなった。
「やつも眠ったらしいね。どれ、ひとつ、どんなやつだかしらべてこよう」
ホールは立ちあがり、足音をしのばせると、むこう見ずにも、客間にそろそろとしのびこんでいった。思ったとおり、客は、ふかぶかとベッドにもぐりこんで眠っていた。
ホールは、きょろきょろとあたりを見まわし、机のうえいっぱいに、むずかしそうなこまかい数字をかきこんだ紙が散らばっているのをみると、ばかにしたようすで、
「ふふうん!」
と、鼻のさきでせせら笑って、ひきあげた。
お人よしのホールは数字をかきこんだ紙を見ただけで、このへんな客が、おかみさんの言うとおり、学者なのだと思いこみ、すっかり安心してしまったのである。
一方、おかみさんは、主人にむかっては、きっぱりと強がりを言ったものの、内心はやはり、客のことが気になってしかたがなかった。
ベッドにはいってからも、夜っぴて大きなかぶらのようにまっ白な、ぶきみな顔に追いかけられる夢をみて、うなされつづけた。
「おはようございます。荷物を持ってあがりました」
馬車屋のフィアレンサイドが、つぎの朝はやく元気のいい声をひびかせて、馬車をひき、黒馬旅館にやってきた。
寝ぶそくらしく、はれぼったい目をしたおかみさんが、主人のホールといっしょにでてきた。
「ごくろうさま」
「きょうは、きのうの雪のために、道がひどいぬかるみになっていて、えらい難儀でしたよ」
フィアレンサイドが、二人の顔をみるなりこぼした。が、二人は、かれの言葉などまるで耳にはいらぬようすで、馬車につまれている、ふうがわりな荷物に見とれていた。
ふつうの人間の持物らしいのは、トランクだけだった。トランクは二個あった。そのほかの荷物ときたら、何ともいえずふうがわりなのだ。なにをつめてあるのか、中の物がこわれぬように麦わらをぎゅうぎゅう間につめこんだ籠が十二、三個。それにぶあつな本をおしこんだ箱が数えきれないほど、そのほかにもえたいのしれぬ荷物が山とつまれている。
ホールは馬車に近より、籠の中に手をつっこみ、詰物の麦わらをかきわけてさぐった。
中は、ガラスびんらしい。おかみさんは、客をよびにいった。
「荷物がきたんだって?」
男はうれしそうに、声をあげてとんできた。みるとおどろいたことに、男は、へや着のうえから、オーバーを着、帽子をかぶり、手ぶくろをはめ、ごていねいにえりまきまでしっかりと身につけていた。
フィアレンサイドもホールも、男の身じたくが、あんまりものものしいのに、あっけにとられて、ぼんやりとかれの顔を見ていた。男は、せきこんで、
「ずいぶん待たされたよ。さっそく運びこんでくれたまえ」
言いながら、待ちきれないように、荷馬車のうしろにまわり、籠のひとつに手をかけようとした。
そのとき、フィアレンサイドがつれてきていた犬が、とつぜん、かれの姿をみて、毛をさかだて、ものすごいうなり声をあげた。
男は、気にもせず、
「いいかい、どれもだいじなものだから、気をつけて運んでくれたまえよ」
と、いいつけ、玄関の石段をあがりかけた。とたんに、犬はひときわ高くうなり声をあげ、ぱっと男の手にかみついた。
「うわっ!」
男は、大声をあげた。びっくりしたホールとフィアレンサイドは、
「こらっ、こいつめ! なにをするのだっ」
と、あわててどなりつけ、フィアレンサイドは犬をぶちのめそうと、むちをふりまわした。
そのとき、男は、目にもとまらぬす早さで、ぱっと力まかせに犬をけとばした。
ふいをくらった犬は、よろよろとよろめいたが、こんどは、猛然とうなり声をあげ、もう一度男におそいかかったとみるや、その足に、がぶりっとかみついた。
びりびりと、ズボンがさける音がした。
「ひゃあっ!」
とびあがったフィアレンサイドが、
「こんちくしょうめ、こんちくしょうめ」
と、さけびながら、こんどこそ、したたか犬をたたきのめした。
きゃんきゃんと犬は悲鳴をあげ、車の輪のあいだに逃げこみ、小さくなった。
すべてが、あっという間のできごとだった。
気まずい空気がみんなのあいだに流れた。男は、かみさかれた手袋とズボンのすそを、しゃがみこんでしらべていたが、そのままくるりとむきをかえ、いちもくさんに旅館の中にかけこみ、足音もあらく、じぶんの部屋にはいってしまった。
フィアレンサイドは、やっと我にかえった顔つきで、
「でてこい! わるいやつだ。とんだいたずらをしくさって。お客さまのズボンをかみやぶったではねえか……」
そして車の輪のあいだから、おく病そうにこちらをうかがっている犬に、むちをふりまわしてみせた。
ホールは、まだ、ぼんやりとつっ立っていた。フィアレンサイドが浮かぬ顔で、
「ホール、あのお客さまにけがはなかっただろうかね?」
「ひどくかみつかれなさったようだったけど、おれ、ちょっと、部屋へいって、ようすをうかがってこよう」
ホールは、あたふたとかけだした。廊下までくると、これも浮かない顔で歩いてくるおかみさんにばったりとあった。
「フィアレンサイドの犬が、お客さまの手と足にかみついたんだ」
ホールはせきこんで、眉をしかめながら言った。が、おかみさんは、ちょっと、うなずいたきり、足もとめないですれちがってしまった。
客の部屋のドアは、ひらいたままだった。
「お客さま、おけがはありませんでしたか?」
ホールは、声をかけ、なにげなく部屋にはいろうとした。
窓のカーテンはすっかりおろされ、部屋の中はうす暗かった。その中に手首からさきのない腕が、にゅっとかれのほうにつきだされ、のっぺらぼうのまっ白な大きな顔が、うす青い三つの深い穴をあけて、空中に浮いていた。
あっと思うひまもなく、ホールは、なにものともしれぬ強い力に、どんと胸をつかれ、ひとおしに廊下につきだされてしまった。
「うわあっ!」
よろめきながら、ホールがさけぶと、その目のまえに、ドアがばたんと音をたててしまった。
ホールは、しばらく、ドアを見つめて、ぼんやり考えこんでいた。
「これは、いったい、どうしたってことなんだ。どこのどいつがおれの胸をついて、廊下にほうりだしやがったというのだ……」
さっぱりわけがわからない。
いっぽう、宿屋のまえは、ものめずらしげにあつまってきた村の人びとで、黒山の人だかりになっている。
フィアレンサイドは、その人たちを相手に、さっきのできごとを、くりかえしくりかえし話していた。
「おれがとめるひまもないほどのすばやさで、こいつは、がぶりとお客さまの足にかみついたんだ。へいぜいおとなしいやつだのに、どうしてあんならんぼうなことをやったのか、さっぱりわからねえ」
フィアレンサイドは頭をふりふり、いく度も言った。
「だけどさ、ふしぎじゃないかねえ。ただ立っているだけの人に、なんだってかみついたのかしら?」
話をきいていたおかみさんのひとりが、口をはさんだ。雑貨屋のハクスターがもっともらしいようすで、
「そうだよ、われわれがここに立っていても、こいつはかみつかないのにさ」
「だけど、もとはって言えば、フィアレンサイドがこんなろくでなしの犬をかっているのが、大さわぎをおこすもとなんだよ」
また、ほかのひとりがいった。
ひとりがだまれば、ひとりがしゃべり、旅館のまえはたいへんなさわぎだった。
このさわぎの中に、ホールは魂をなくした人間のように、ぼうっとしていた。
目ざとく見つけたおかみさんは、
「おまえさん、どうしたの? なにかあったのかい?」
「いいや、なんでもねえ」
ホールはうつろな目で、集まってきた人たちを見ていた。
おしゃべりに夢中になっていた村人たちは、その男がいつのまにか、その部屋から玄関にでてきていたのに、いっこうに気づかなかった。
「う、うう、わんわん!」
車のかげに小さくなっていたフィアレンサイドの犬が、きゅうにはげしくほえたてた。
「あっ!」
思わずふりかえった人びとは、玄関に不気味な人かげをみて、ぎょっと顔色をかえた。
そのとたん、
「馬車屋、なにをぐずぐずしているんだ! はやく荷物をはこべ!」
すご味のあるどなり声が、あたりをふるわせてひびいた。
フィアレンサイドが、びくっと飛びあがり、ホール夫人は棒立ちになった。
村人は、くものこをちらすように、後もみずにちっていった。
馬車屋は、しばらくためらっていたが、勇気をふるって男に近より、
「だんなさま。あいすみませんことで……おけがはありませんですか? なんとも、はや、申しわけありません」
ぺこぺことわびた。男は、じろりと馬車屋をにらみ、
「けがなんかせんよ。かすり傷ひとつしてないんだ。それより早く荷物をはこべ」
と、おうへいな態度で言った。
馬車屋とホールの手で、荷物は男の部屋にはこびこまれた。
男はすぐさま荷物をほどきにかかった。じれったそうに、間につめた麦わらをほうりだし、中のガラスびんをひとつずつ、だいじそうにとりだした。どのびんにも液体や粉末がつまっている。
男は、おびただしい数のガラスびんをとりだすと、こんどは試験管をとりだした。
つぎに、はかり、そのつぎは、えたいのしれぬ機械だった。
「やれやれ、これですっかりとりだしたぞ。ぶじに荷物がとどいてなによりだ。うすのろの馬車屋め、おれのだいじな荷物をだいなしにしないかと、はらはらしたよ」
男は、ほっとしたようにつぶやき、麦わらや空籠、空箱で、すっかり部屋が汚れてしまったのも、気かつかぬようだった。
「さあ、さっそく、とりかかろう」
男は、息をつくひまもなく、窓のちかくに機械をならべ、実験にとりかかった。
いつのまにやら、暖炉の火はきえ、底びえのする寒さがしんしんとせまっていた。
しかし、男は暖炉の火が消えたことなど、これっぽっちも気にしていなかった。
試験管をならべ、毒薬とかかれた茶色のびんをとりあげると、試験管の中に、たらたらと、三、四滴の液をたらしこんだ。
こんどは、それを火にかけ、また、ほかの薬品のふたをとった。
男は、ながい間、こうしてなにもかもわすれ、ただ実験にねっちゅうしていた。
時はすぎ、いつのまにか、昼がきていた。ドアをたたく、かるい音がひびいた。
男はすこしも気づかない。おかみさんが、昼の食事をはこんできたのだった。
ドアをたたく音は、しばらくつづいていた。男は、むちゅうで試験管をふっていた。
たまりかねたおかみさんは、とうとう、だまってはいってきた。
「まあ! これは……」
ひと足ふみこんだおかみさんは、たちまちしかめっ面になって、ふきげんな声をはりあげた。
部屋がだいなしになっている。わらくずがちらかり、古トランクがなげだされ、空籠がほうりだされてある。
おかみさんはいきなり、腹だちまぎれに、テーブルの上の麦わらを手荒くほうりだした。
がしゃんと、食事の皿をその上に、音をたててなげだした。
男は、はじめて、「おやっ?」と、いうように顔をあげた。
「お食事をもってまいりましたわ」
おかみさんは男をにらんで、つっけんどんに言った。
男はへんじもせず、うつむいたままで、テーブルの上においてある眼鏡を大いそぎでとりあげてかけると、やっと、ゆっくりとおかみさんのほうにむきなおった。
男の動作はすばやかった。しかしおかみさんは、その間に目玉がぬけ落ちて、ぽかりと二つの深い穴があいているような男の顔に気づいていた。が、なにくわぬ顔でつっ立っていた。男はいたけだかに、
「この部屋に用があったら、ノックをしてからはいってもらいたいね」
「ノックはいたしましたわ。なんどもなんども。でも、だんなさまが、お気づきにならなかったんですよ」
「それはしたかもしれんさ。しかしだね。この実験は一分もはやく完成させなくてはならんのだ。じゃまがはいるとひどくめいわくするんだ。ドアがあく音がするだけでも気がちってこまる。いちど言ったことは、かならず守ってもらいたいね」
おかみさんはぷんぷんして、
「わかりました。それでしたら、お部屋に鍵をおかけになったらいかがですか?」
「なるほど、そうだったな。では、これからは鍵をかけることにしよう」
男は、落ちつきはらってこたえた。おかみさんはなおさらいまいましそうに、
「よろしかったら、この麦わらを片づけましょうか? ひどくよごれて……」
男はぎろりとおかみさんをにらみ、きっぱりと、
「ふれんでもらいたいね。この麦わらであなたにひどくめいわくがかかるというのなら、その分だけ金をとってくれたまえ。えんりょなしに勘定書につけておいてくれればいいよ」
これを聞くと、いままでぷりぷり腹をたてていたおかみさんが、急にねこなで声で、
「それはおそれいります。どのくらいお掃除代をいただけましょうか?」
「一シリングでいいだろう?」
「けっこうですわ」
「では一シリングとつけておきなさい。勘定をするときにいっしょに払うから」
「ありがとうございます。ではどうぞ、お食事をなさってくださいませ」
おかみさんは礼をいい、テーブルかけをひろげて、食事のしたくをととのえ、逃げるように部屋をでていった。台所へもどりながら、
「なんておかしな人だろう。でも、掃除代が一シリングならわるくないわ」
と、つぶやいた。
黒馬旅館に平和はなくなってしまった。このいなかの旅館は、いつもひっそりと静かで、一番客のたてこむ夏の間でさえ、たいして変わったことがあるわけでなく、おだやかな毎日がくりかえされていた。
ところが、奇妙な男がやってきてからというものは、おかみさんも主人のホールもすっかり落ちつきをなくしてしまい、ともすれば暗い気もちにおそわれるのだった。
男の部屋からひきとってきたおかみさんは、くるくると忙しげに働きつづけていたが、心の中では、ずっと男のことを考えつづけていた。
客の部屋は、一日中ひっそりと静かだった。
夕方、とつぜん、れいの客の部屋から、ものすごい音がひびいてきた。
がちゃーん、がちゃがちゃがちゃ!
ガラスびんや試験管がぶつかりあったらしい、はげしい音だった。
「たいへんだ!」
おかみさんはひと声さけぶと、手にしていた鍋をほうりだし、台所からよこっとびにとびだしていった。
どん、どんどん……。
はげしく客の部屋の戸をノックした。なんのこたえもない。
どーんと体ごとぶつかってみた。しかし、ドアは内がわから、しっかりと錠がかかっている。
こんどは、ドアにぴったりとくっつくと、じっときき耳をたてた。
部屋の中からは、男のわめく声が聞こえてきた。
「だめだ、また失敗だ。どうもうまくいかんぞ。三十万かな、いや、四十万かな、なにしろたいした数だ。おれはだまされたのかな? こんなことをやっていたら、一生かかってもできあがらないぞ、こまったなあ」
怒りと悲しみにしずんだ声だった。
それっきり、しばらく声はとぎれていたが、また、気をとりなおしたのか、
「やっぱりがまんしてつづけよう。ここで投げだしては、いままでの苦心も水の泡だ。それにしても、こんど、あいつに会ったら、ただではすまさんぞ」
おかみさんには、なんのことかわからなかったが、いかにも意味ありげな言葉だった。
おかみさんは、全身を耳にして、男の声を聞いていた。
そのとき、
「こんにちは、おかみさん。いっぱいのませておくんなせえ」
大声をあげて、入口の酒場に客がはいってきた。
「ああ、もうすこし聞いていれば、なんのことだかわかるかもしれないのに……」
おかみさんは舌うちをしながら、酒場にでていった。
部屋のさわぎはおさまったらしく、それっきり二度とさわぎはおこらなかった。ときどき、いすがきしむかすかな音と、びんがふれあうひびきが、かすかにきこえるだけだった。
いっぽう、馬車屋のフィアレンサイドは、黒馬旅館にきみょうな客の荷物を運んだ日の夜おそく、アイピング村のはずれのちいさなビヤホールで、一杯かたむけながら、いつまでもいきおいこんでしゃべりつづけていた。
あいては、時計屋のテッディ・ヘンフリイともうひとりの村の男だった。
「おれはこの年になるまで、あんな変なやろうは見たことがねえよ。おれの犬が、あいつの足をがぶりとやったとき、おれはたしかに見たんだよ。あの男の足はまっ黒なんだ」
「ほんとうかい? 人間の足がまっ黒だなんてことがあるものかなあ」
「おれの言うことをうたぐるのかい? おれはちゃんと見たんだぜ。ズボンのさけ目と手袋のやぶれたところから、はっきり黒ん坊のようにまっ黒な肌がみえたんだ。おめえなんか、どう思っていたかしらねえがね」
フィアレンサイドは、酔いのまわってきたビールのいきおいもあって、テーブルをたたきながら、がんとして言いはった。ヘンフリイはまだ半信半疑で、
「だとすると、おかしいじゃないか? あいつの鼻はちゃんと白いんだぞ」
「そうだよ。おめえの言うとおり、やつの鼻は白いんだ。だからさ、おれが考えるのに、たぶんあいつの体はあちこち色がちがうんだろう。白いところと黒いところがあってさ。まだらになってるだろうよ。だもんで、やつは恥ずかしがって、あんなにえり巻やオーバーをしっかり身につけて、かくしてるんだよ」
「まるでシマ馬みたいじゃないか。白と黒のまだらだなんて、はっはっは」
「はっはっはっはっ」
三人は声をあわせて笑いころげた。いつまでたっても、かれらの話はつきそうもなかった。
馬車屋のフィアレンサイドと時計屋のヘンフリイの口から、黒馬旅館にとまったきみょうな客のことは、たちまちのうちにアイピング村にひろまっていった。
うわさはうわさを生んで、村人たちはよるとさわると男の話でもちきりだった。
しかし、村人たちはかれの姿を見かけることは、ほとんどなかった。男はたいてい部屋にこもりきりで、いっしんに実験をつづけていたからだ。日曜日に、村の人たちがみんなそろってでかける教会へもこないし、日曜だからといって、ゆっくりやすむということもなかった。
ふるくからの習慣をまもって、平和に暮らしている村の人たちは、この男のやることが気まぐれで、ひどく変わっているように思えた。
「黒馬旅館では、よくあんな変わった客をとまらせておくねえ。どんな考えでいるんだろう」
村人は、ホールやおかみさんのホール夫人に聞こえぬところでは、よくこんなことをささやきあった。ホールは、こんなかげ口を耳にはさむと、
「おい、どうかして、あの客をことわるわけにはゆかないのかい?」
と、いやな顔をしながらホール夫人に言った。かれはその客がきらいだった。廊下でばったり顔をあわせるようなことがあっても、わざとよこをむいて、虫が好かないことをあからさまにしめしたりした。
おかみさんは、主人が客のことを言いだすと、できるだけひややかな態度をとり、いかにもりこうぶった口ぶりで、
「ただ虫がすかないからって、あんなに金ばなれのいいお客さんをことわる人があるものですか。夏になって絵かきさんたちが避暑にくるまでは、気むずかしくても、きちんきちんとお勘定を払ってくれるお客を、だいじにしなくてはね」
こういわれると、ホールはだまりこんでしまった。
ところが、金ばなれのいいはずの男も、四月にはいると、そろそろふところがさびしくなってきたようすだった。それまでは、たびたびおかみさんの顔をしかめさすようなことをしでかしても、そのたびに、さっさとよぶんのお金をはらって、ホール夫人に叱言をいわせるようなことはなかったが、四月になってからは、目にみえて金ばらいがわるくなってきた。
こうなると、さすがのおかみさんも、ときにはいやな顔を見せるようになってきた。
その日も、ホールとホール夫人がおそい昼食をとっていると、その部屋からいらいらと歩きまわる客の足音がひびき、そのうちにはげしい怒り声とともに、壁になにかをぶつけるけたたましい音がきこえてきた。
「おい、またはじまったじゃないか。いまにあの部屋はめちゃめちゃになって使いものにならなくなるぞ。おれがいったように、あんなえたいのしれないやつは、早く追いだしてしまったほうがよかったんだ」
ホールがおかみさんにむかって言った。
「うるさいねえ。なにかって言えば、つべこべとうるさいことばかり」
おかみさんは高びしゃに言った。しかし、ホールも負けてはいなかった。
「なんだい、あんなへんな客を泊めるくらいなら、いっそ化物でもとめたほうが気がきいてるよ。まだ夜もあけないうちから起きだして、いそがしそうに動きまわるかと思うと、昼すぎてやっとベッドをはなれて、ゆっくりたばこをすいながら、なん時間ものこのこと部屋を歩きまわっている。ときによると一日中なんにもしないで、暖炉のまえでいねむりばかりしているときもあるじゃないか。ことに、このごろのいらいらしてるようすときたら、ただじゃないよ。とんでもないことをしでかさないうちに、でていってもらったほうがいいぜ」
二人のあらそいはいつまでたってもおわりそうもなかった。ことに客の金ばらいがわるくなってからは、よけいにホールが、おかみさんにしつこくいや味をいいはじめた。
さわぎは黒馬旅館の中だけではなかった。このごろアイピング村では、日が暮れるがはやいか人びとは、しっかりと戸口の錠をかけ、いつまでも寝ないでいる子どもにむかって、
「いつまでも寝ないでいると、黒馬旅館のこわい男がやってくるぞ」
というのだった。村人たちは夕ぐれ時、頭から手の先まですっかりつつみこんだかっこうで、人通りの少ないうら道とか、木のしげりあった暗いじめじめした場所を散歩しているれいの男にでくわすと、子どもだけでなく大人でさえ、ひやっと背すじにつめたい水を浴びせかけられたような気分になった。
四月になった、とある日、とうとうたいへんな事件が持ちあがってしまった。
事件というのは、牧師館に気味のわるいどろぼうがはいったことなのだ。
夜あけもまぢかな、人の寝しずまったしずかな時間だった。
「おやっ?」
牧師の夫人は、そっとベッドに起きあがり、耳をすませた。じぶんのねむっている部屋のドアが一度あいて、またしまる音を聞いたような気がしたのである。
しかし部屋には、なんのかわりもない。気のまよいかなと、夫人がよこになりかけると、となりの部屋から、ぱたぱたと、はだしで歩く足音がはっきりときこえた。
「あなた」
夫人は、ふるえながら牧師をゆり起こした。
「どろぼうよ。ほら足音が……ね、階段をおりていったでしょう」
牧師は、夫人の言うとおりに、はっきり足音がしているのをきくと、さっとガウンをはおりスリッパをつっかけて部屋をでた。
下のへやから、ごとごとと机のひきだしをあける音がする。
「ほら」
つづいてでてきた夫人が、そっとひじをつついた。
「よし」
牧師は、大またに寝室へひっかえすと、やにわに、すみっこにおいてあった火かき棒をにぎりしめ、足音をしのばせて、音のするほうへとおりていった。
階段の中ほどまでおりたとき、
「くっしゃん!」
と、大きなくしゃみの音が、あたりのしずけさをやぶってひびいた。びくっと、牧師はたちどまった。それっきり音はやんだ。牧師は、またそろそろとおりていった。
「書斎だな」
牧師は、かたくくちびるをかみしめて、机をかきまわすひくい音のきこえている書斎へ、ひと足ずつ近づいていった。
書斎のドアは、ほんのすこしひらいている。まっさおな顔でついてきた夫人をうしろにかばいながら、牧師は、そっとのぞきこんだ。
「ちくしょうめ! どこへしまってやがるんだろう」
口ぎたなくののしる声といっしょに、ぼーっとマッチのもえる音がして、黄色なろうそくの光がゆらいだ。
「おお、ここだ! こんなところへかくしていたんだな」
どろぼうは喜びの声をあげ、金貨をちゃらちゃらとならした。
「うぬっ!」
牧師は、火かき棒をにぎりしめた。
どろぼうのやつは、とうとう牧師がだいじにためていた金貨を見つけたらしい。
「あれを盗まれてはたまるものか。わしがながい間かかって、やっと二ポンド十シリングためたんだぞ」
もう、ためらうひまはない。牧師は、
「このやろう!」
どなるといっしょに、ドアをけとばして、おどりこんだ。
「あっ!」
いると思ったどろぼうの姿は、どこにも見えない。どこへもぐったというのだろう。ただ机の上にともされたろうそくの灯が、ゆらゆらとゆれているばかりだった。
二人は、ぽかんと顔を見あわせた。
「たしかにここにいましたよ」
夫人が言った。牧師は机の下をのぞきこんだ。夫人はカーテンのかげをさがした。
そのとき、かすかに部屋の空気がゆれて、だれかが部屋をでてゆくけはいがした。
が、やはりだれもいないのだ。
「金貨はなくなっていますよ」
夫人がさけんだ。
「うん、ろうそくだってともっている。だれかがこの部屋にいたことはたしかだよ」
「こんなおかしなことって、あるものでしょうか?」
夫人は歯をがちがちいわせて、ふるえていた。
と、またもや、廊下で大きなくしゃみがきこえた。
「いるぞ」
牧師は、はじかれたように廊下にとびだした。あらあらしい足音は廊下をかけぬけ、台所のうら口のかんぬきを、らんぼうにひきあけているらしい。
牧師が台所にとびこんだしゅんかん、戸はあけられ、かすかな人のけはいが外へむかってかけだしたようだった。しかし、牧師の目には、やはりなにも見えなかった。
牧師と夫人は、まっさおな顔を見あわしたまま、いつまでもいつまでも、じっと立っていた。
姿のないどろぼうが牧師館におしいったといううわさは、その日のうちに、アイピング村じゅうにひろまっていった。
牧師館が姿のないどろぼうにひっかきまわされていたころ、黒馬旅館の女あるじホール夫人は、
「おまえさん、起きてくださいよ。ぐずぐずしていてはこまりますよ」
さかんに亭主のホールをたたき起こしていた。二人は、お手伝いのミリーよりも早く起きて、いつものように穴蔵にしこんだビールにサルサ根からとった液をまぜ、いちだんと味をよくしようというのだ。
おかみさんは、まだ寝ぼけまなこをこすっているホールをひったてて、穴蔵におりていったが、
「おや、サルサ根の液のはいったびんを持ってくるのをわすれたよ。ちょいとおまえさん、大いそぎでとってきておくれよ」
「よしきた」
ホールは気がるにひきうけ、じぶんの部屋からいいつかったびんをとりだし、穴蔵へゆく階段をかけおりようとした。
「おやっ! 玄関のとびらのかんぬきがはずれているぞ」
ホールはびんを片手に、ぽかんとドアの前につったって、ゆうべたしかに玄関のドアはしめたはずだ、と思った。
「そうだ。おれがろうそくをもって、うちのやつが家じゅうの戸じまりをしてまわったんだから、まちがいないな。それに、はて、あの客の部屋の戸もあいてたようだったぞ」
ホールはそのまま、おくへひっかえして、客部屋のドアをおしてみた。案のとおり、ドアは苦もなくひらいた。
客の姿はどこにもみえない。ベッドの中はもぬけのからで、ぬぎちらした服があたりにちらばっている。ホールは、おかみさんのところにかけおりていった。
「おいおい、ジャニイや、ヘンフリイが言ったとおり、あの客は大悪党らしいぜ」
おかみさんは、それをきくとかんしゃくをおこしてどなった。
「なにをねぼけたことを言ってるのさ。しっかりおしよ」
「ねぼけてなんかいねえよ。客は部屋にいねえし、玄関のかんぬきははずれているんだ。が、やつの服は部屋にほうりだしてあるんだが。とすると、はだかででかけたのかな?」
「おまえさん、それはほんとの話かい?」
「ほんとうとも……信じないなら、おまえ、じぶんの目でみてみな」
おかみさんは顔いろをかえ、とっとっと階段をのぼっていった。ホールはあとにつづいた。
穴蔵の階段をのぼって一階にでたときだった。大きなくしゃみが、近くできこえた。
おかみさんはホールのくしゃみだと思い、ホールはおかみさんのだと考えて、おたがいに気にとめなかった。
「あら、ほんとにいないわ。へんだねえ、どうしたってんだろう」
おかみさんは、さっさと部屋にはいりこんで、ベッドにさわりながらさけんだ。
そのとたん、すぐうしろで、くすんくすん鼻をすする音がした。おかみさんはすこしも気づかなかった。
「おまえさん、ちょっときてごらんよ。まだ夜あけ前だってのに、このベッドは起きてから一時間もたってるように、すっかりつめたくなってるんだよ」
「どれどれ」
ホールも、おくればせに近よってきた。
このときだった。世にもふしぎな、だれに言っても信じてもらえそうもないことが、とつぜんに起こりはじめた。
まずさいしょは、ふとんがくるくるとまかれ、ぱっとベッドの外にとびだした。つぎには柱にかかっていた帽子が、きりきりとちゅうに舞って、二、三回転したかと思うと、矢のようにおかみさんの顔めがけてぶつかってきた。
「ああっ!」
おかみさんが帽子をさけようと、右にむいたとたん、こんどは洗面台のスポンジがとんできた。つぎはズボン、そのつぎは服、恐怖に顔をひきつらして、かの女が部屋をうろうろと逃げまどうと、どこからともなく、からからとあざ笑うつめたい声がきこえてきた。
さいごに、いすがすうっと宙にうかんだ。とみるまに、おかみさんめがけて、すごいいきおいで飛んできた。
「たすけてっ!」
おかみさんは悲鳴をあげて、にげまどった。いすはおかみさんの背中にぴたっとくっついた。
「あれっ! たすけて、だれかきて!」
なきさけぶおかみさんを、いすはぐいぐいとおし、部屋の外につきだした。ホールは這うようにして、いっしょに外にころがりでた。
ばたんと、二人のうしろでドアがいきおいよくしまった。
二人が命からがら、台所まで逃げのびると、お手伝いのミリーがかけつけてきた。
やっとこさでじぶんの部屋におちついたとき、ホール夫人は、うわ言のように、
「ゆうれいだわ、きっとそうだ。そうでなければ、いすやズボンが、まるで生き物のようにとび歩くはずがないわ。ホール、すぐに玄関のかぎをかけてちょうだい。あの男が帰ってきても中へ入れないように、早く、早く」
「ジャニイ、気をしずめなさい。ほら、これをぐっとひと口のんでごらん。ずっと気分がしずまるから」
ホールがうろうろしながら、気つけ薬をおかみさんの口におしあてた。
「へんだ、へんだと思っていたんだけど……やっぱりあの男はわるい魔法をつかうんだわ。おっかさんの代からのだいじな家具に、悪霊をふきこんだんだわ。でなければ、いつもおっかさんが腰かけていた、あのなつかしいいすが、わたしに飛びかかってくるはずがないわ」
「さあ、ジャニイ、もうひと口飲みなよ。おまえはえらくこうふんしてるよ」
ホールが一心になだめた。
やがて夜がすっかり明けはなれ、明るい太陽の光がまばゆくかがやきはじめると、黒馬旅館には、鍛冶屋のウォッジャーズ、雑貨屋のハクスターがよび集められた。
しかし、だれひとり、この奇怪な話をきいて、これからどうすればいいか、はっきりと言える者はいなかった。
相談はおなじところをめぐって、いつまでたってもらちがあかない。
ついに、ウォッジャーズがホールにむかって、
「これはやはり、おまえが客人の部屋にいって、どういうわけでこんな奇怪なことが起こったのか、よくよくわけをきかしてもらってくるのが、いちばんいい方法じゃないかね」
と言いだした。これには、すぐにみんながさんせいして、お人よしのホールは、のこのこと客の部屋にでかけていった。
「お客さま、ちょっとうかがわせておもらい申してえだが──」
ホールがまのびした声をかけた、とたん、
「うるさい、でてゆけ!」
すさまじい声といっしょに、ホールは胸ぐらをどーんとつかれて、ばったりたおれた。
り、りりりーん! もうれつな勢いでベルがなった。
これで三度目だ。あの化けものの客部屋からである。
「なんどでもならすがいいわ。だれがいってやるもんか。あんな男は悪魔に食われて死んでしまえばいいんだ」
おかみさんは、長いすによこになったきり、にくにくしそうに言って、起きあがろうともしない。
あれっきり客の部屋にはよりつく人もない。おかみさんは朝食をもってゆかなかった。きっと客は、腹をすかせて弱りきっているのだろう。
昼ちかくになると、おかみさんはいいにおいをたてて、じゅうじゅうと肉をやきはじめた。
たまりかねた男は、台所の戸口にたって、
「おかみさんはいないかね? すぐに、へやへきてくれ」
はや口に言って、姿をけした。
「ふん、お呼びかね」
おかみさんはうしろ姿に毒づきながら、ちょっと考えて、勘定書をひょいと盆の上にのせ、客のへやにはいっていった。
「お勘定でございますか?」
盆をつきつけながら、おかみさんはすまして言った。
「なにを言ってるんだ。だれが勘定だといった。ぼくはまだ朝食もくってないんだぜ。なぜ、ぼくの食事の支度をしてくれないんだ。ベルをならしても知らんぷりだ。ぼくは仙人じゃないぞ。飯もくわずに生きていられるか」
「おやおや、お食事のさいそくでございますか? では、わたくしにもさいそくさせてくださいませ。お勘定をしていただきたいんです」
「三日まえに言っただろう。まだ金を送ってこないんだよ」
「あたしは二日まえに、ちゃんと申したはずですわ。これいじょうお金を送ってくるのなんか待っていられないんです。あなたさまは朝の食事がほんのすこしおくれたからって、がみがみとお叱りになりますが、あたしどもはもう、五日もお勘定をまっておりますよ」
「な、なにを言うんだ。人をぺこぺこの空きっ腹にさせておいて……け、けしからん。じつにけしからん」
「けしからんのは、そちらですよ。食事のさいそくをなさるくらいなら、さっさとお勘定をはらってからにしていただきたいですね。わたしのほうが、よっぽどさいそくしたいですよ」
この言葉は、さすがに男の心にぐさりとつきささったらしい。男はにわかにおとなしくなり、
「まあ、そう腹をたてないでくれたまえ。じつは、ないと思った金が、おもいがけなくポケットの中にすこしばかり残っていたんだ」
「ええっ!」
とたんにおかみさんの頭に、さっき村の人がかけこんで話したばかりの牧師館のどろぼうのことが、さっと頭にひらめいた。なんとなく思いあたるものがあった。
そこで、ずばりとたずねた。
「お金があったんですって? いったい、どこで手にお入れになったのかしら……」
みるみる男のようすがおちつきを失い、はげしい怒りにぶるぶるふるえ、じだんだをふんでどなった。
「なにをぬかす。失礼なやつめ!」
おかみさんはすこしもひるまず、
「ちっとも失礼じゃございませんわ。お勘定をいただくにしろ、朝の食事を用意しますにしろ、そのまえにぜひともはっきりうかがっておきたいことがございます。お客さまは、いったいどうやって、いすに魔法をかけてあやつり、いつのまに部屋からぬけだし、また、いつお帰りになったのですか? なんのことわりもなく、空気のように、かって気ままに出入りなさってはめいわくでございますよ。それに──」
男は、
「うるさい、やめろ、やめろ!」
ものすごいけんまくでどなりちらし、足をふみならした。
「ようし、きさまたちがそんな料けんなら考えがあるぞ。おれがどんな人間か、おまえらにわかるはずはないんだ。が、知りたければ知らせてやろう。見ておくがいい!」
怒りくるった男は、ついにじぶんから正体をあらわしたのだった。
「見よ!」
男は手袋をはめた手をふりまわし、
「おれがどんな人間か知りたければしらせてやろう。よく見ておけ!」
そのすさまじさに、おかみさんはちぢみあがってしまった。
男は、ぱっと手をひろげると、つるりとひとなで顔をなでおろした。
すると、顔のまん中に、ぽかりと穴があいた。
「さあ」
男は手ににぎったものを、おかみさんの手のなかにおしつけた。
みるまに変わってしまった男の顔に、どぎもをぬかれてしまったおかみさんは、男のわたすものを、ひょいとうけとった。
が、ひと目みるなり、かなきり声をあげてほうりだしてしまった。
鼻だ! たったいままで男の顔にくっついていた鼻なのである。
ピンク色に光った鼻は、ごろごろと床をころがっていった。
「だれかきて!」
おかみさんの必死のさけびに、ホールや酒場にいた男の連中がどやどやとかけつけてきた。
男は、その連中のまえで、ゆうゆうと眼鏡をはずし、帽子をとった。
かけつけた連中は、立ちすくんで息をのみ、男のやることをながめているばかりだった。
こんどは、ほうたいをぐるぐるほどきはじめた。
人びとは、ほうたいの下から、どんなおそろしい顔があらわれるのか、と考えただけでも、おそろしさにぞっとして、じっとしていられなくなった。うき足だったひとりが、
「こいつあたいへんだ!」
大声をあげると、わっとばかり、ひとりのこらず逃げだしてしまった。
ホール夫人だけは、足がすくんで、その場にとりのこされていた。
男の顔から、ほうたいがつぎつぎととられてゆくにつれて、どうしたというのだろう?──
そのあとには、なにもなくなってしまったのである。考えていたような恐ろしい顔も、みにくい顔もあらわれてはこずに、男の顔はかき消え、首なしの怪人がそこにつっ立っていた。
首なしの化けものは、そのまま、玄関にかけだしていった。
入口の酒場により集まって、がやがやとさわいでいた村の連中に、ホール、それからお手伝いのミリーがけたたましい悲鳴をあげて、玄関のとびらをおしあけて、こぼれ落ちるようにわっと外へとびだした。
それからあとのさわぎは、お話するまでもなかった。
人びとは遠まきに黒馬旅館をとりかこんで、
「頭がねえそうだよ。ほんとにねえんだ。帽子をとって、ほうたいをはずしたら、その下にあるはずの頭がなかったってんだ」
「ばかを言え。そんなことがあるはずがねえよ」
「ほんとだってば、おや、巡査のジャッファーズがきたよ。化けものをつかまえにきたんだ」
旅館をとりかこんでいた人びとは、わっと巡査をとりかこんで、おもい思いにしゃべりたてた。巡査は、いばって、
「頭があろうがなかろうが、わしはやつをつかまえなければならん」
「そうです、そうです。お巡りさん、さあ、つかめえてくだせえ」
ホールは、まっすぐに玄関にすすみ、入口のドアをいきおいよくあけた。
ジャッファーズは、えらい元気でとびこんでいった。
旅館のうす暗い台所のすみに、首のない人間が、片手にかじりかけのパン、片手にチーズの大きな切れをもってたっている。
「あれですっ!」
ホールがさけんだ。
「なんだ、きさまたち! なにしにはいってきやがった」
首なしの化物の、首のあたりと思われるあたりから、怒った声がきこえてきた。
「ほほう、ずいぶん変わったやつだな。しかし首があろうがなかろうが、わしは逮捕状をもってきてるんだから、からだだけでもつかまえていくぞ」
巡査は、ぱっと男めがけてとびかかった。男はさっとうしろにとびさがり、パンとチーズを巡査めがけてなげつけた。
「こんちくしょう! てむかう気か……」
巡査はまっかになって怒った。ホールはせいいっぱい気をきかせて机の上のナイフをとり、ちょうど応援にかけつけた鍛冶屋のウォッジャーズにわたした。
男はさわぎが大きくなったので、かんかんに腹をたてたらしく、いきなり巡査の顔をいやと言うほどなぐりつけた。
「あっ!」
ふいをうたれた巡査は、一瞬たじろいだが、猛然と男にくみついていった。
けとばす、つきとばす、すごい格闘がはじまった。
巡査は、苦心のすえに相手の首をしめあげた。もちろん、見えない首をしめあげるのだから、ずいぶんおかしなものだったが、巡査は一生けんめいだった。
男は苦しがって、巡査のむこうずねをけとばした。
「足をつかまえてくれ!」
巡査は、痛さをこらえてさけんだ。ホールが足をおさえにきたが、まごまごするうちに、あばら骨のあたりを音がするくらいけとばされて、胸をおさえてしゃがみこんでしまった。
男はふいに、
「うむ!」
とさけぶと、ばか力をだして巡査をなげとばし、あべこべに巡査を下にくみしいてしまった。
「こいつはいけねえ」
巡査のはた色が悪いとみたウォッジャーズは、おく病風にふかれて、戸口のほうへ逃げだした。そこへ、
「おーい、たすけにきたぞ!」
と、ハクスターと馬車屋がかけこんできた。
巡査とウォッジャーズが、ほっとしたとたん、戸棚から、がらがらとガラスびんが三つ四つころがりおち、鼻をつくいやなにおいが部屋いっぱいにひろがった。
「こうさんするよ」
なにを思ったのか、巡査をおさえつけていた手をはなして、首なし男は立ちあがった。
みれば、頭ばかりか、右手も左手もなくなっている。手袋がぬげてしまったからだ。
巡査は、すばやく起きなおり、威厳をつくろいながら、男に手錠をはめようとして、なさけない声を出した。
「こいつはいかん、どこへ手錠をはめればいいんだ、見当がつかんぞ」
みんなは、ぎくっとして顔を見あわせた。
「ああっ! やつは靴をぬいだぞ、靴下もぬいだ。あれっ! 足がない」
ホールが、とんきょうな声をあげた。
怪しい男は、うずくまって靴下をぬいだと思うと、こんどは上着をぬぎ、チョッキのボタンをはずしはじめた。
それは世にもふしぎな光景だった。
服だけが宙に浮かび、そして、まるで生命のあるもののように動いて、一枚一枚ぬぎすてられていくのだ。
人びとはあっけにとられて手も足もでず、ぼんやりとながめるばかりだった。
男は、さっさとボタンをはずし、チョッキをぽいとぬぎすてた。シャツだけになった。
そのとき、巡査があわてて大声でさけんだ。
「やめさせろ! 服をみんなぬがさせると、たいへんなことになるぞ! すっかり見えなくなって、つかまえられなくなるんだ」
「そうだ、そうだ、いまのうちにつかまえてしまえ!」
しかし、すでに男は、手ばやくなにもかもぬぎすてていたので、いまとなっては、あちこち動きまわっている白いシャツだけが、怪しい男のありかをしめしているだけになった。
シャツの袖がひるがえると、ホールの顔にものすごいげんこつがとんできた。
巡査がシャツめがけてとびついていく。ヘンフリイはうしろからせまっていったが、したたか耳たぶのあたりをなぐりつけられて、悲鳴をあげた。
そのうち、シャツがくねくねと気味わるく動き、人間がぬぎすてるようにまるまったと思うと、ぽんと窓ぎわになげすてられて、怪しい男は完全にその姿を消してしまった。
かれをつかまえる手がかりは、なんにもなくなったのである。
「気をつけろ、ドアをしめろ。外へださないようにして、なんでもいいから、手にさわったものはみんなつかまえて、なぐりつけろ!」
「ほら、いた!」
「いや、こっちだ!」
だれもかれもむやみに空間をなぐりつけるばかりで、なんのたしにもならなかった。
「おい、おれをなぐるとはけしからんぞ!」
「おまえをなぐったんじゃないんだよ。あいつはふわふわ浮いてたんでなぐりつけたんだが、やつめ、うまくかわしやがったらしいな。そのはずみでおまえさんをかすったんだ」
人びとは、むやみにさわぎ、へとへとにつかれてきた。
そのとき、巡査はかれとハクスターの間に動く、いようなけはいを感じた。
「やつだ!」
かれは、見当をつけてとびついた。手ごたえがあり、男のがっちりとした体をつかまえたとたんに、首をぐいとしめあげられた。
「つかまえたぞ!」
巡査は、首をしめられて紫色になりながら、一生けんめいにさけんだ。
男は、ひどい力で巡査をしめつけながら、しだいに玄関のほうにでてきた。それにつれて人びとも右に左によろめきながら外へおしだされていった。
男と巡査がもつれるように玄関のふみ段まできたとき、巡査はもう息もたえだえになっていた。
「えーい!」
男は、かけ声といっしょに、巡査をぶるんとふりまわして、地面になげとばした。巡査は、ひと声うめき声をあげると、その場にばったりと倒れたまま、動かなくなってしまった。
「わあっ、化けものがきたぞ! 巡査がたおされた! やられないうちに逃げろ!」
村びとは後もみずに、つきあたったりつまずいたりしながら、右へ左へ、くもの子をちらすように逃げていった。
人っこひとりいなくなった道に、巡査のジャッファーズだけが、気をうしなってよこたわっていた。
アイピング村から二キロほどへだたったところにある丘の中腹に、ひとりのこじきがすわっていた。
名をトーマス・マーヴェルという男で、お人よしですこしばかり頭の働きがにぶく、ぶくぶくふとったしまりのない顔をして、頭にはおそろしく時代がかったシルクハットをちょこんとのっけていた。
かれはさっきから目のまえの草のうえに、二足の長靴をきちんとならべて、つくづくと見いっていた。
片方はいままではいていた長靴で、片方はさっきもらったばかりの長靴だ。
いままでの分は、足にぴったりとしてはき心地はよかったが、ひどい古靴で、雨がふると、じくじくと水がしみこんできた。
もらったばかりのほうは、古くてもなかなかりっぱな品だったが、かれの足にはすこし大きすぎた。
「どっちをはいたらいいのかな? 水のしみこむのはいやだし、だぶだぶのやつをはくのもいやだし」
トーマスは、さんさんとかがやく太陽の下で、いつまでも、どちらをはくか迷いつづけて、ぼんやりと靴をみながらすわっていた。
「どちらも長靴だが、古ぼけてるな」
トーマスのうしろでふいに人の声がした。トーマスは、ふりかえりもせずに、
「そうなんですよ。どっちもいただきものですがね。いままでのやつは水がはいるんです。あっしは、いつも靴はこのへんでいただいておるんですよ。このあたりの人たちは、おうようで情ぶかいですよ」
「ばかを言え、このへんのやつらはみんないやなやつらばかりだ!」
「そうですかね。だが、わたしはそう思いませんね。この靴だっていただきましたしね」
トーマスは、こう言ってふりかえった。
ところが、どうしたわけだろう。いまのいままでしゃべっていた男が、どこにも見あたらないのだ。
「だんな、いったいどこにいらっしゃるんで?」
かれは、きょろきょろと見まわした。
風で木の枝がゆれているばかりで、だれひとりいない。
「おやおや、おや? おれはよっぱらったのかな? それとも……」
「こわがらなくてもいいよ。おれはちゃんといるんだから」
「ひゃあ! だんな、どこにいらっしゃるんですか、こわがるなって言われたって、こわくなりますよ」
「こわがらなくてもいいと言ってるじゃないか、おちつけよ。おまえにおれの姿がみえなくても、いることは、ちゃんとここにいるんだから」
トーマスは、あわてて丘の上をぐるぐる見まわした。どこを見ても人っこひとりいなかった。生きているものは、あたりのこずえを飛びまわっている小鳥だけだ。
「助けてくれ! おれはどうかしてしまったよ。空から声がふってくるなんて、ただごとじゃねえや」
「おちつけ、おれは化けものじゃないよ。それに、おまえが気がちがったんでもない。おれのいうことを信用しろ。でないと、石をぶつけるぞ」
「だって、だんな、どこにおいでなんです?」
トーマスの声がおわるかおわらないかに、小石がひょいと地面から舞いあがったと思うと、びゅっと風をきってかれの肩をめがけてとんできた。
「ひゃあ!」
トーマスがわめいて逃げだそうとしたとたん、目に見えないなにかに、どすんと力いっぱいおしとばされて、ひっくりかえってしまった。
「さあ、これでもおれのいうことを信じないか?」
トーマスは、やっとこさで起きあがると、草の上にすわりこんで、ふてくされてこたえた。
「どうでもしろ、おれにはなんのことやら、さっぱりわからねえや。ひとりでにとんでくる石だの、空中からふってくる声だの……気味のわるいことはやめにしてもらいたいね」
すると、空中の声はやさしくなり、トーマスをなだめるように、
「おれの姿がおまえに見えないからって、おれは怪しい人間ではないんだ。ただわけがあっておれの姿は空気とおなじで、すきとおっていてだれにも見えないんだ」
「えっ、おれのことをからかわないでくだせえよ。いくらおれがこじきだからって、ばかにしてもらいますまい。すきとおって姿のない人間なんて、いるわけがありませんよ」
「ところがいるんだよ。いま、おれの体にさわらせてやるからな」
あっけにとられているトーマスの手が、だれかの手につよくにぎられた。
トーマスは、おずおずしながら手さぐりであたりをなでまわすと、なるほど、たくましい男の体が、はっきりと手ざわりでさぐれた。
「こいつはおもしれえや、だんなはほんとにいたんですね。だが体がすきとおってしまったなんて、ずいぶんふしぎですねえ。だんなの腹の中には、なにもはいってないんですか? パンだのチーズだの食べれば、腹の中に見えるでしょう」
「それはそうだよ、消化してしまうまでは見えてるよ」
「なるほど、しかし、どうしてそんなふしぎな体になりなさったのですかね?」
「それにはながい話があるんだ。しかし、そんなことをおまえに話してきかせたって、わかりはしないよ。それよりおれがこうしておまえのあとをつけてきたのは、話したいことがあるからなんだよ」
「おれにたのみたいことですって……いったい、それはなんですね?」
トーマスは、目をくりくりさせてきいた。
「じつは、おれははだかなので、いろいろのことでこまりきっているんだ。大いそぎで着る物を手にいれてもらいたいんだよ。それから寝る所とな──ほかにもいろいろやってもらいたいことはあるが、とりあえずそれだけを、おまえの力でぜひなんとかしてくれ」
「着る物を手にいれろとおっしゃるんですか、なんだか、あっしは頭がぐらぐらしてきたようだ。すこし落ちついて、ゆっくりと考えさせてくだせえ。だれひとりいない丘からいきなり声がして、なんにも見えねえのに、さぐればたしかにだんながいらっしゃる。体がすきとおっているんだそうだが……そしてこんどは着物とねる所を手にいれろとおっしゃる。あっしは、すっかりめんくらってしまいましたよ」
「いまさら、ぐずぐず言うな。透明人間のわしが、おまえをえらんだんだ。おれのために働いてくれ。そうすればお礼はたっぷりやるよ。わかったな」
そして透明人間は、大きなくしゃみをした。
「そのかおり、おまえがおれをうらぎってみろ、どんなことになるか、おもい知らせてやるからな」
男は、言いおわってぽんとトーマスの肩をたたいた。トーマスは、きゃっと恐怖のさけび声をあげ、
「と、とんでもねえ。うらぎったりするものですか……心配しねえでも大丈夫ですよ。あっしにできることなら、なんでもいたしますよ──なんなりと言いつけてくだせえ」
トーマスは、気のどくなほど、はげしくふるえながら言った。
その日は復活祭だった。
アイピング村では、朝はやくから村じゅうの年よりも若いものも晴着を着かざって、うきうきしていた。
黒馬旅館では、亭主のホールと雑貨屋のハクスターは、とりとめのないばか話をだらだらとつづけていた。そこへ、あらあらしくドアをおして、ひとりの男がはいってきた。
古びたシルクハットを頭にのせた、ずんぐりとした小がらの男で、ひどく、しんけんな顔つきで、わきめもふらず酒場にはいってくると、つかつかととおりぬけて、おくの客部屋のほうへ歩いていった。浮浪者のトーマスだ。
そのすばやさときたら、はっと気づいたときには、もう男はおくの客部屋のドアをあけていた。
「おっと、お客さん、お客さん、そこはいまではお客さん用に使っていないんですよ。もどってきてくだせえ」
ホールが、まのびのした調子でどなった。
男はへんじもしなかったが、まもなく、むっつりした顔でもどってくると、酒場にきて、ききとれないほどひくい声で、酒を注文して飲みはじめた。
「おい、かわったやつじゃねえか。気をつけたほうがいいぜ」
ハクスターがホールにささやいた。
男は、ぐいぐいと流しこむようにたてつづけていく杯ものみ、口のはたをてのひらでぬぐうと立ちあがって、中庭にぶらりとでていった。
たばこに火をつけ、ぶらぶらと庭を歩きまわっている。いかにも、ものうそうだった。
が、ハクスターは、男がときどき、ちらりと客部屋の窓にするどい視線を送っているのを見のがさなかった。
どさり!
重い物が窓からおちる音がした。男は身をかがめて、落ちてきたテーブルクロスに包んだ大きな包みと、三冊のノートを、小わきにかかえこむとみると、うさぎのようなすばやさで木戸から大通りへ走りでた。
「どろぼう!」
さっととびあがったハクスターは、いちもくさんにかれのあとを追った。
「どろぼうだっ! つかまえてくれ!」
ホールも、ハクスターのあとを追ってかけだした。
外には、あかるい日の光がさんさんとふりこぼれ、着かざった人びとがのどかにゆききしていた。
シルクハットをかぶり、大きな包みをかかえたおかしな人かげは、風のように街路をかけぬけ、街かどをまがって丘へむかって走っていった。
「どろぼうだ! つかまえてくれ」
ホールとハクスターは声をかぎりにわめいた。しかし、往来の人びとは、あっけにとられて、ただ見送っているばかりだった。
とある街かどまできたとき、やっとこさで男に追いついた。
「こんちくしょうめっ! もう逃がさんぞ、つかまえたぞ!」
おどりかかったと思ったそのとき、ハクスターは、目に見えないなにものかに、むこうずねを力いっぱいけとばされた。
「わっ!」
ふいをうたれたハクスターはもんどりうって道にたおれ、それっきり気を失ってしまった。
つづいて同じようにおどりかかっていったホールも、ものの見事に投げとばされ、腰の骨をしたたかうって起きあがれなくなった。
シルクハットの男は、そのまま、すごいいきおいで丘のほうへ姿を消していった。
夕ぐれがせまってきた。
シルクハットをかぶったれいの男が、ぶなの並木をぬうようにして、ブランブルハースト街道をいそぎ足で歩いていた。
テーブルクロスの包みとノートは、やはりだいじそうに小わきにかかえている。
いつのまにか、トーマスの足どりがしだいにおそくなり、のろのろと悲しげな顔つきで考えこみながら歩いていると、空中からせかせかした声がひびいてきた。
「おい、さっさと歩け。なにを考えてるんだ。また、さっきのようにおれをまいて逃げようというのかい? こんど逃げてみろ、ただではおかないからな」
「逃げようなんて、そんなことは考えてませんよ。あっ、そんなに肩をつっつかねえでくだせえ。おいら、いまに傷だらけになってしまいますぜ」
トーマスは、しおしおとこたえた。空中の声はなおも意地わるく、
「いいか、こんど逃げようとしたら、殺してやるからな」
「とんでもねえ。おいら、あんたをまいて逃げようなどとは、これっぽっちだって考えていませんよ。ただ、どこでまがったらいいかわからなくて、あのまがり角へはいりこんじまったんですよ。あっしはこのへんの道はちっとも知らねえんです。そんなおそろしいことを言わねえでくだせえ」
浮浪者のトーマスは、いまにも泣きだしそうだった。目にみえて元気を失い、あきらめきったようすで、とぼとぼと歩きつづけた。
空中の声は、もちろん言わずとしれた透明人間である。
かれは黒馬旅館でうばってきた衣類と、研究ノートの包みをトーマスにもたせ、どこへゆこうとしているのか、しきりに先をいそいでいた。
「なあ、トーマス、アイピング村のばか者どもが、考えなしの大さわぎをおっぱじめやがったおかげで、おれの姿が透明で着物を身につけさえしなければ、だれにも姿をみられなくなるってことを、みんなに知られてしまったんだ。いまいましいじゃないか。そこで問題はこれから先どうするかってことだ。どうせ、やつらはおれを追いまわすにきまってるだろうし……なにかいい考えはないか」
「だんな、あっしにいい考えなんてあるはずがないですよ」
しばらく二人は、だまって道をいそいだ。しだいに夕やみがあたりをつつんで、遠くの家の灯がちらほらと見えてきた。
トーマスは疲れきっていた。小わきにかかえた包みが、しだいに下にずり落ちていった。
「おい、ぼやぼやするな。しっかりと荷物をかかえて歩け。そのノートはだいじなんだ。なくすんじゃないぞ、しっかり持ってろ!」
いきなりするどい声がして、トーマスの肩をぐいと透明人間がついた。トーマスはあわてて、ずるずると包みをひきあげ、しっかりとかかえなおしてから、泣き声をあげ、
「だんな、だんなはあっしをなんに使おうとおっしゃるんで……はじめは旅館からだんなの荷物をもちだす手伝いをしてくれとおっしゃった。それがすむと、あっしの役目はおわったはずなのに、やはりあっしをはなしてはくださらねえで、こうして荷物をかかえてだんなのいくほうへつれてゆきなさる。いったい、どういうお気もちなんでごぜえますか?」
「つべこべいうな、おまえみたいなやつでもおれにはいり用なんだ。それに、いまにわしが仕事をやりはじめれば、どうしてもおまえの手伝いがいるようになるのだ」
「なにをおやりなさるのかしらねえが、あっしはとても、だんなの役には立ちましねえ。だいいち、じまんではねえが、力はないし、そのうえ、心臓もよわいんです。せいぜい、さっきぐらいのことしかやれねえですよ。度胸はねえし、びくびくしながら手伝ったところで、あんまり役にもたたねえでしょう」
「力がないのはこまるな、見かけだおしなのか……まあいいさ、それに、なにもびくびくすることはないんだ。おれはだいそれたことをたくらんでいるわけじゃないし、おれがいつもくっついててやるから、おれのいうとおりにやればいいんだ」
トーマスは首をすくめ、ちょっと考えていたが、思いきって、
「だんながいくらこわがらなくてもいいとおっしゃっても、あっしはうす気味わるくて死にてえくらいでさあ。いってえ、どんなことをあっしにしろとおっしゃるんで……あっしだって、いやならいやとおことわりできる権利があるんですがね」
「だまれ! だまれ、だまれ。だまっておれのいいつけどおりにしていればいいんだ。おまえは利口な人間じゃないし、あまり役に立ちそうもないが、おれのいいつけどおりにやりさえすれば、おれはいつもおまえを守っていてやろう」
透明人間は、強い力でぐっとトーマスの手首をつかんで、しかりとばした。
「わかってますよ。どうせ、あなたがあっしをはなしてくれないぐらいのことは、知ってまさあね」
トーマスは、シルクハットをかぶった頭をたれ、しずみきって歩いていった。
村をすぎていったじぶんには、あたりはとっぷりと日がくれ、美しい星がきらきらと空にかがやきはじめていた。
よく朝の十時ごろ、トーマスはポート・ストウ村にたどりついた。
旅のほこりをあび、つかれた顔をして村はずれの宿屋のまえのベンチにすわりこんでいた。
ベンチの上にはれいのノートが三冊、革ひもでしばっておいてある。テーブルクロスの包みのほうは、とちゅうで透明人間の気がかわり、ブランブルハーストをでたところの松林ですててしまったのである。
トーマスのようすはひどくへんだった。せかせかとあたりを見まわし、なんども、なんどもポケットに手をつっこんでは、しきりになにかをさがしているようすだった。
一時間あまりもトーマスはベンチにすわって、こんな奇妙なことをくりかえしてやっていた。
「やあ、いいお天気じゃありませんか」
ほがらかな声がひびいて、船員ふうの気さくそうな男が、新聞を片手にトーマスに近づき、ベンチに腰かけた。
「そうですね」
トーマスはぎくっとしてふりかえり、気ののらないようすでこたえた。しかし、男はトーマスのようすに気をわるくするでもなく、ひどくあいそうよく、
「暑くもなし寒くもなし、じつに気もちのいい朝だ。あなたは、どちらからおいでなさったね」
「遠くからですよ」
「ははあ、おやっ、そこにおいていなさるのは本ですかい?」
本と聞かれてトーマスは、はっとして大あわてにノートをひざの上にのせた。そのひょうしにかれのポケットで、ちゃらちゃらと金貨の音がした。
男は、目をまるくして、しげしげとトーマスを見つめた。ほこりで汚れきったトーマスの服装に、金貨の音はどう考えても似つかわしくなかったからだ。しかし、その船員は、すぐに前とおなじあけっぴろげな態度になって、
「おれは、本なんてものはなん年間も読んだことがねえが、ずいぶんめずらしいことを書いたのがあるそうだね。その本にもかわったことが書いてあるかね」
「そりゃあそうでさ」
トーマスは、気がかりらしく、ちらっと相手の顔を見て、つづいてあたりを見まわした。
「しかし、けさの新聞には、本にまけないほどめずらしいことがのってるぜ」
「そうですかね」
「なんだ、おめえ、まだ新聞を読んでいないのかい? 姿の見えねえ人間ってのが、あらわれたそうで、でかでかと書きまくってあるよ」
とたんにトーマスは、おちつかなくなってしまった。口をもぐもぐと動かし、むやみにほっぺたをひっかいてから、きこえないほどのほそい声で、
「透明人間ですって、いったいどこにそいつがあらわれたんですね。オーストラリアか、アメリカですかい?」
「ばかを言いたまえ、そんな遠くの話ではないんだ。この土地にあらわれたんだ」
「えっ!」
トーマスは、ぐるぐるっと心配そうにあたりを見まわした。
「はっはっは、この辺といってもこのベンチのまわりじゃねえよ。この近くの村にだよ」
「ああ、そうですか、で、その透明人間はなにをしようってんですかね?」
「あばれたいだけあばれたってことだ。なにしろ体が見えねえんだから、どんなことだってやれるさ。だれもつかまえることも、とめることもできないからね。昔、おとぎ話にあったのが、ほんとのことになったんだね」
「そうですか、あっしはこの四日間、新聞ってやつを見たことがねえんでしてね」
「透明人間がはじめて暴れだしたのは、アイピング村がはじまりだそうだ」
「それで……」
「その人間はどういう男なのか、アイピング村にくるまではどこに住んでいたのか、どんなことをしていたのか、さっぱりわかっていないそうだ。ほら、この新聞をみてみたまえ、アイピング村の怪事件って書いてあるだろう」
「なるほど、それではやはり、ほんとうの話なんですね。信じられねえようだが……」
「そいつは、はじめ黒馬旅館にとまっていたんだそうだ。頭にほうたいをまいて服をきこんでいたから、だれひとり透明人間だなんて気づかなかったそうだ」
トーマスは、そっとあたりを見まわしてからうなずいた。
「だが、ついに化けの皮のはがれるときがきたんだ。アイピング村の連中は、そいつが透明人間とわかったので、大格闘をやってつかまえようとしたが、なにしろ相手の姿はみえないんだ。いたずらにさわぎまわるばかりで、とうとう逃げられたということだ。」
「へえ、ふしぎな話ですな。で、アイピング村であばれてから、透明人間はどこへいったのでしょうね」
「さあ、たしかなことではないらしいが、ポート・ストウ方面へむかったようすだって書いてあるぜ。おれたちのいるこの村へ、透明人間なんていうおかしなやつにやってこられるのは、ありかたくないね」
「まったくですよ。なにしろ姿がみえないんですからね」
トーマスは船員の話をききながらも、まわりの物音に気をくばっていた。かすかな風の動きでも、ききのがさないようにしていた。
そして、あたりにかれの主人の透明人間の姿がなさそうだと見きわめをつけると、
「あっしはぐうぜんなことから、あなたのいまおっしゃった透明人間を知っているんですよ」
「えっ? おまえが知ってるというのかい?」
「へえ、そうなんですよ。わしがやっと知りあったときのことを聞いてくだせえ。が、びっくらしねえでくだせえよ。たいへんかわったことなんだから」
「そりゃあそうだろうよ。いいよ、びっくりしねえから話してきかせなよ」
「あっしは、透明人間のようにおそろしいやつに、いままで会った……」
言いかけてトーマスはふいに、
「いててて、おおいてえ!」
苦しそうにさけび、片手で耳をおさえ、片手で本をつかんで、体をまげておかしな腰つきでベンチから立ちあがった。
透明人間は、いつのまにか、トーマスのところに帰ってきていたのだ。
トーマスが、見しらぬ船員にかれのことをしゃべりそうになると、ぐいぐいとトーマスの耳をつまみあげた。
トーマスは、透明人間が帰ってきていたと知ると、おそろしさでふるえあがってしまった。
もう、かれのことを船員にしゃべるどころではない。透明人間に耳をひっぱられ、ずるずるとくっついていくだけだった。
しかし、そんなこととは夢にも知らない船員は、びっくりしてトーマスをのぞきこみ、
「おいおい、どうかしたのかい? どこが痛いのだ?」
と心配そうにたずねた。トーマスはじりじりとベンチから遠ざかってゆきながら、
「歯が痛いんだよ。急にいたみだしたんで、おおいてえ、いてえ」
しかし、トーマスのようすはどこか変だった。歯が痛いと言いながら、片手で耳をおさえて、片手でノートをしっかりとつかんでいる。船員は、うさんくさそうにトーマスをじろじろと見て、
「おい、どうしたんだい? 透明人間のことを話すと言ったじゃないか?」
「うそでさ。いっぱいかついだだけですよ」
トーマスが苦しそうにこたえると、船員はむかっ腹をたてたらしく、
「新聞にだってのっているんだ。透明人間はたしかにいるんだ。なんだ、透明人間を知ってるなんて言って、人をかつぐ気だったのか? しかし、きさまがやつのことをしらなくても、透明人間はいるんだぞ」
「新聞だって、でたらめを書くこともありますよ。あっしは、このうそをつきはじめたやつを知ってるんですよ。やつの口から透明人間なんていうでたらめが話されて、ほうぼうへひろまっていったんですよ」
船員は、半信半疑でトーマスの顔をじっと見つめた。
「だが、新聞にのっているし……りっぱな人たちが証人になってるしな」
「うそですよ。うそですよ。だれがなんと言ったってうそにきまってますよ。ばかばかしい、透明人間なんてものが、いまの世の中にいるはずがないじゃありませんか」
トーマスは必死になって、がんこに言いはった。船員はおもしろくない顔をして、
「それほどはっきりうそとわかっているなら、なんだってはじめにうそだと言わねえんだ」
「なにっ!」
二人は、ぐっとにらみあった。いまにもどちらからか、げんこのつぶてが飛んできそうなあんばいだった。
「トーマス、ぐずぐずするな、おれといっしょにくるんだ」
とつぜん、空中から声がした。
トーマスは、はっとしたようで、そのまま、おかしな腰つきでひょこひょこ歩きだした。
「逃げるのか」
船員がうしろからどなった。
「逃げるもんか」
トーマスはくるりとむきなおろうとしたが、あべこべにつきとばされるように、前へとんとんとつんのめった。
そして、それっきり後もみずに船員から遠ざかっていった。
だれかと言いあらそいでもしているようなつぶやきが、いつまでも聞こえていた。
船員は、大またをひろげ腰に両手をあてがって、遠ざかっていく相手をにらみつけ、
「あいつは新聞が読めねえんだよ。なにがうそだい。目を大きくあけて新聞をみろ、ちゃんとくわしく書いてあるから、まぬけめ!」
声のつづくかぎり、どなりまくっていた。
このことがあって二日ほどたったとき、またまた船員は、世にもふしぎなできごとにであった。
船員は、じぶんの部屋でゆっくりとコーヒーをすすっていた。
たっぷり砂糖をほうりこんだ、濃いコーヒーをうまそうに飲みながら、かたわらの新聞をながめていると、
「おおい、あにき、あにきいるかい」
と、われるように戸をたたく者がいる。
「だれだい? しずかにしろ、戸がこわれるじゃないか。戸をたたくのをやめて入ってこい」
ころがりこんできたのは、かれのなかまのわかい船のりだった。
「なんだい、ひどくあわてて……どんな大事件が起こったっていうのかい? えっ、おまえ、透明人間にでもぶつかったというのかね?」
船員はなかまの顔を、にやにや笑って見ながら声をかけた。
「いいや、透明人間じゃない。だが、おなじようにへんなふしぎなことなんだ」
「ふしぎなこと? まあいいから落ちつきなよ。コーヒーをごちそうするから、ゆっくり話したらどうだい」
やがて、熱いコーヒーがはこぼれ、わかい船のりはひと息つくと、まだこうふんのさめないようすで話しだした。
「おどろいたの、なんのって、きょうのようにおどろいたことは、いままで一度だってありはしねえよ、あにきだってその場にいあわせたら、きっと目の玉がひっくりかえるほどおどろくにちがいないよ」
「おれがおどろくか、おどろかないか、そんなことはいいけど、その話というのはどんなことなんだい? おまえはかんじんのことはちっとも話してねえぜ」
「うん、それだよ。おれが朝はやくセント・マイクル小路を歩いていたんだ。まだ時間が早かったので、街はしいんとしていて、通っている人は、おれのずっと先を歩いている年よりきりで、ほかに人かげは前にも後にも見えなかった。おれはこんど乗っていく船や、ゆく先の港のことを考えて歩いていた。その時、どういうきっかけだったかわからないが、ひょいとよこの壁に目をやった」
「うん、それで……」
「そのとたんに、おどろいたねえ。ひとにぎりの金貨が、壁にそって空中をふわふわととんでいるんだ。それを見たときのびっくりしたこと……おれは思わずなんども目をこすったよ。が、なん度見なおしても、ほんものの金貨だ。かなりの早さで飛んでいくんだ。じっと見つめているうちに、すこしおどろきがおさまると、欲がむらむらっと起こったんだ」
「その金貨を、じぶんのものにしようとしたのかい?」
船のりはいつのまにか、わかいなかまのふしぎな話にひきずりこまれて、熱心にきいていた。
「おはずかしいが、そうなんだ。あたりに人はいない、金貨は持主がいるようではなし、ちょうど手のとどくところをとんでいるんだ。おれは、一枚や二枚ちょうだいしたって、たいして悪くはあるまいと考えたので、ひょいと手をのばして、その金貨をつかもうとした」
「うまくつかめたのか?」
「いいや、手をのばしたとたん、いきなり強い力でなぐり倒されて、その場にばったりとたおれてしまった。ひどく腰をうってのびてしまったが、かろうじて痛みをこらえて立ちあがったときには、金貨はちょうちょうが舞うように、ふわふわとマイクル小路のかどを消えていったんだ」
「おまえ、夢でも見ていたのじゃないか? ゆうべ、ぐっすり眠ったのかい?」
船のりが疑ぐりぶかい調子でいうと、わかいなかまは、不平そうにほおをふくらし、
「いやになるなあ、あにきまでがそんなことを言うのですかい? おれの腰は、その時すごい力でなぐり倒されて、いやっというほど地面にうちつけたので、いまでもずきんずきん痛んでますよ。おれだってさっきまで、金貨が空中をふわふわ飛ぶなんてことがあるとは思ってませんでしたよ。だけど、はっきりじぶんの目でみたんです。これよりたしかなことはありませんよ。おれは金貨がマイクル小路のかどに消えてゆくまで、じっと見ていて、その足であにきのところへかけつけてきたんだよ」
「そうか、では、まんざらうそでもなさそうだし、おまえが寝ぼけていたわけでもないんだね。とすると、ずいぶんふしぎな気味のわるい話じゃないか」
「そうなんだよ。おれも金貨が見えてる間は無我むちゅうだったが、金貨が消えてしまったとたん、ぞっとしたね。がたがたとふるえてきて、どうしてもとまらねえんだ。このごろは変なことばかり続くじゃないか。透明人間だなんて恐ろしいやつのことを、新聞がでかでか書きたてたと思うと、金貨が空中をとびまわる。おれはなんとなくおそろしくてしかたがないよ」
船のりは、その時、なぜともなく宿屋の前で会ったシルクハットをかぶったみょうな男のことと、そのとき空中からきこえた声のことをふっと思いだした。
(おれも頭がどうかしているのかな。あのときふいに空中から声がきこえてきたような気がしたが……そら耳だと思っていたが、もしかすると、ほんとに空中からきこえたのかもしれないぞ。金貨が空中を飛ぶなら、空中から声がきこえてもふしぎではないかもしれん)
ひとりで考えこんでしまった。わかいなかまもだまりこんで、やけにたばこばかりすっていた。
金貨が空中を飛ぶということは、事実だったらしい。
その証拠にポート・ストウ村では、一日じゅう、ほうぼうの物かげやへいのそばを、金貨がふわふわと飛んでいた。
そのようすを見たという人はいく人もあった。
「ええ、そうですよ。人もいなければ動物もいません。ただ金貨だけがふわふわとかなりの速さで飛んでるんですよ。わたしが近づいたとたんに、どこへともなく消えてしまったんです」
かれらは口をそろえて言った。
「そしておどろくじゃありませんか。その金貨は、どうも、ほうぼうの金庫やぜに箱からとびだしてきたものらしいんですよ。村の銀行の金庫からも、ちょうど片手でつかめるほどの金貨と、紙できちんと巻いた貨幣とが、ふいに空中に舞いあがり、おどろく行員をしり目に、ふわふわと飛んで銀行をでてゆき、表通りにとびだすと、そのまま見えなくなってしまったそうだ」
ふしぎなことのあったのは、銀行だけではなかった。
食料品をうっているこじんまりした店では、客につり銭をわたすために主人が銭箱のふたをあけた。そのとたん、主人はすぐ身近に人のけはいがせまるような感じをうけた。
「おやっ?」
主人は、あたりを見まわしたが、もちろん、店さきでまだ卵を熱心に見くらべている客よりほかに、だれもいなかった。
主人が銭箱からつり銭をつまみだそうとすると、さっと銭箱の中のひとつかみの金貨が空中へ舞いあがった。
「きゃっ!」
主人は悲鳴をあげて、舞いあがった金貨のゆくえを見まもるばかりだった。主人の悲鳴におどろいた客も、空中をとびながら店をでて大通りへ金貨が逃げていくのを見ると、すっかりたまげて、つり銭もうけとらず、いちもくさんにわが家へ逃げていった。
ポート・ストウ村は、ひっくりかえるようなさわぎになってしまった。
ほうぼうの店や宿屋から、手につかめるほどずつの金貨が空中をとんで消えていった。
あちらの通りや、こちらの街かどで、人びとは金貨の飛んでいるのを見かけたが、人が近づくとふしぎなことに、金貨はさっと身をひるがえすようにかき消えてしまった。
こうして、ほうぼうの金庫や銭箱から舞いあがってきた金貨のゆくえを知ったら、村の人たちは、いまよりもっとおどろいたにちがいない。
金貨は人目をさけて、街の通りを飛びつづけて村はずれまでやってくると、そこの小さな宿屋のまえで、おどおどとあたりを見まわして心配そうに立っている、古びたシルクハットをかぶった男のポケットに、吸いこまれるようにはいっていった。
バードック町は、うしろになだらかな丘がある。丘のふもとのバスの停留所のすぐ前の酒場『銀ねこ』では、さっきからまるまるとふとったおやじが、むちゆうになって、ひとりの客をあいてに、さかんに、競馬の話をまくしたてていた。
あいての男は、おやじとはまるっきりはんたいの、やせてひょろひょろした顔いろのわるい男で、商売は馬車屋だ。
おやじの言葉に、ときどきあいづちをうちながら、ビスケットにチーズで、ちびちびと酒を飲んでいた。
「なんだい? 表のほうがだいぶさわがしいようじゃないか」
とめどのないおやじの話をうちきるように馬車屋が言って、立ちあがると、うす汚ないカーテンのすきまから、丘のほうをのぞいてみた。
「おい、なんだか、おおぜいの人が駈けていくぜ」
「どれどれ、ほんとうだ。火事かもしれねえな」
酒場のおやじが気のない調子で言ったとたん、ばたばたと足音が近づき、ドアをさっとひらいて、あの浮浪者のトーマスがとびこんできた。
髪をふりみだし、息をはずませて、上着のえりもはだけてしまっている。れいの古びたシルクハットは、とっくにどこかへすっとんだらしく、頭へのっかっていなかった。
飛びこんでくるなり、トーマスは恐怖におののきながら、大声でさけんだ。
「やつが追ってくるんだ。あっしのあとを追って……助けてくだせえ。透明人間に追われているんです」
「透明人間がくるって……そいつはたいへんだ。おいっ! ドアを閉めろ、ドアを閉めろ!」
酒場じゅうの者が色を失ってさわぎたてた。ちょうどきあわせていた警官は、さすがにほかの者たちよりは落ちついており、すぐに表のドアをしっかりとしめてやった。
おやじも台所のほうへすっ飛んでいくと、うら口のドアを力いっぱい、ひっぱってしめた。
「さあ、もう大丈夫だよ」
警官が言ったが、トーマスは泣きださんばかりの声をふりしぼって、
「あっしをかくしてくだせえ。どこかおくのほうの鍵のかかる部屋にかくしてもらいてえんです。やつがあっしを追っかけてくるんです。あいつはどんなところへでもはいってきますよ。あっしのことを殺そうと思っているんです」
「どんなやつかしらないが、ここまでくれば大丈夫だよ。ドアはしめたし、そちらに警官もいらっしゃるんだ」
すみっこで、ひとりで酒をのんでいた、黒いひげをはやしたアメリカなまりの男が言った。
と、そのとき、ドアがはげしくたたかれた。
「透明人間だ! はやくどこかへかくしてくだせえ。こんどみつかれば、きっと殺されてしまうんだ。おお、神さま!」
「この中へはいったらいいだろう」
おやじが、カウンターのはね板をあげた。トーマスはあわててとびこんだ。
その間じゅう、ドアをたたく音はひっきりなしにつづいた。
「だれだ?」
警官がどなりながらドアに近づいた。トーマスは、それをみると泣き声をふりしぼって、
「戸をあけねえでくだせえ。たのむからあけねえでくだせえ」
黒ひげの男が、
「外で戸をたたいているのが、透明人間だというのか。どんなやつか、見たいものだな」
その言葉がおわるかおわらないうちに、すさまじい音をたてて、表通りのほうの窓ガラスがわれた。
「きゃっ!」
トーマスがふるえあがって絶叫した。
「さあ、こちらへ来い」
おやじは気をきかせてトーマスをおくまった部屋にかくし、鍵をかけてやってから、もとのところへもどってきた。
外では、かけまわるたくさんの人の足音とさけび声がいりみだれて、たいへんなさわぎだった。
警官はドアに近より鍵穴から外をのぞき見しながら、
「ほんとに透明人間らしいな。警棒をもってくればよかった」
黒ひげの男も警官のあとにつづき、
「ねえ、かまわないから、かんぬきをぬいてドアをおあけなさい。やつがはいってきたら、ぼくがこいつに物を言わせましょう」
そして、手にしたピストルを警官の目のまえに、にゅっとつきだしてみせた。
ピストルをみると警官は、あわてて手をふり、
「とんでもない、そいつはこまるよ、きみ。そんなものをふりまわして、相手が運わるく死んでみたまえ、殺人罪になってしまうよ」
「へっへっへ、そんなことは心えていますよ。やつを殺してしまうようなへまはやりませんよ。足をねらいますよ。おれは足をねらう名人なんだよ。さあ、かんぬきをはずしなさい」
カーテンのすきまから外のようすをうかがっていたおやじは、あわててうしろをふりかえり、
「わたしをうたんでくださいよ」
と、どなった。
「さあ、こい!」
黒ひげの男は身がまえ、さっとピストルを背にかくした。
警官は、ちょっと思案していたが、いきなりかんぬきを、さっとひきぬいた。
しかし、ドアはしまったままで、人がはいってくるけはいはさらにない。
二分たち、三分たった。やはり、なんのかわったこともなかった。
三人が息をころしてドアを見つめていると、奥の部屋から、ひょいとトーマスが頭をだし、
「家じゅうのドアは、みんなしめてありますかい? 透明人間のやつは、きっとぐるっとまわって、開いてるドアをさがしてみますぜ。悪魔のように、ぬけめのねえやつですからね」
「そいつはたいへんだ。うち口のドアはあけたまんまだ。ちょっとわたしはいってくる。こちらはおまえさんたちにたのみますぜ」
ふとったおやじは、ころがるようにかけだした。トーマスは顔をひっこめ、ばたんとドアをしめ、鍵をしっかりとかけた。
やがて、かけもどってきたおやじは、手に大きな肉切包丁をぶらさげ、心配そうに、
「庭の木戸も通用口のドアも、みんなしめるのをわすれていたんだ。そのうえ、庭の木戸はあけっぱなしになっていたんだが……」
「透明人間が、そこからはいりこんだんじゃないか?」
気の早い馬車屋が、おやじが話しおわらないうちに、こわそうにさけんだ。
「調理場にお手伝いが二人いたが、だれもはいってきたけはいはなかったそうだ」
「しかし、ゆだんはならないぞ!」
警官はあたりを、ぐるぐると見まわしながらいった。黒ひげの男は、ぐっとピストルをにぎりなおして、調理場のほうをにらんだ。
そのとき、ぎ、ぎぎいっーと、おくの部屋のドアが、はげしくきしむ音がしたと思うと、あっと思うまもなく、ぱっと大きくあけはなされた。
トーマスのかなきり声がひびいた。それはちょうど蛇にみこまれた小鳥の、悲しいさけび声に似ていた。
「それっ!」
三人はカウンターをとびこえて、かけつけた。黒ひげの男のピストルがなった。
と、同時に、おくの部屋の鏡が音をたててくだけ落ちた。
「助けてくれ! だれかきてくれ!」
トーマスは、目に見えぬ人にひきずられながら、じたばたともがいている。
三人は顔を見あわせてためらった。敵の姿は、ぜんぜん見えないのだ。どうやってトーマスをかれの手からうばい返して助けてやればいいのか、さっぱりわからなかった。
そのひまにトーマスは、ずるずるとひきずられて、おくの部屋から調理場へひきずりこまれていった。棚からフライパンや鍋が、けたたましい音をたててころがり落ちた。
「どけろ! どけろ!」
警官はおやじをおしのけ、トーマスの首すじをおさえている手があると思われるあたりに、ぎゅっとしがみついた。
「ええい! じゃまするな」
恐りにもえた声がして、警官はものの見事に、その場になぐりたおされた。
トーマスは必死になって、ドアのとっ手にしがみついたが、なんのかいもなく、みるまにひきずられていった。後からとびこんできた馬車屋とおやじは、めちゃくちゃに手足をふりまわしているうちに、とうとう、透明人間の体のどこかをつかまえた。
「つかまえたぞ! みんなこい! ここにやつがいるぞ!」
「いたぞ! 透明人間がいたぞ」
二人は、つかまえたが最後、どんなことがあってもはなすものかと、むしゃぶりついてあばれまわっている。
さすがの透明人間も、トーマスをつかまえていて、二人を相手では、戦えるわけがない。
「ちくしょうめ!」
いまいましげに舌うちして、トーマスをはなした。二人がむやみにあばれて、げんこつをぶんぶんふりまわすので、透明人間もいささかもてあましてきたらしい。
「うん、なんだって、じゃまをしやがるんだ。おまえらの知ったことじゃないんだ」
透明人間と二人は、はげしく取っ組みあってあばれた。
そのうち、やっと起きあがった警官も加勢にかけつけ、両うでを水車のようにふりまわして、目に見えぬ敵におどりかかっていった。
トーマスは、あばれまわっている人たちの足もとを這いまわりながら、必死で逃げだす道をさがしている。
調理場での大乱闘が二十分もつづいたころ、
「おや、おかしいぞ。やつはどこへいっちまったんだ。外へ逃げたのか?」
黒ひげの男が、ふいに、きょろきょろとあたりを見まわしてさけんだ。
「中庭へ逃げたんだ。敵は中庭だ」
警官がまっさきにたって、中庭にとびだそうとした一瞬……。
ぴゅうっ──と風をきって屋根がわらが、かれの頭をかすめて飛んできた。
調理台の皿小鉢が音をたてて、みじんにくだけ散る。
「ようし、おれがひきうけた」
黒ひげの男は、ひと声たかくさけんで、警官の肩ごしにピストルをつきだし、つづけざまに五発、透明人間のいるらしい方向にむけてぶっぱなした。弾はうなりを生じて飛んでいった。ピストルの音がしずまると、庭はしいんとしずまりかえった。
かわったことは、なにも起こらなかった。
「五発うったぞ。こいつが一番ききめがあったろう。もう、だいじょうぶだ。透明人間の死がいを探そうじゃないか」
その日の夕方、ケンプ博士は、こじんまりしたかれの書斎で、書きものをしていた。
博士の家は町をみおろす、丘のうえに建っている。そこからは、丘のふもとの『銀ねこ』酒場や、バスの停留所が、ひと目でみることができた。おだやかな静かな町で、これといって騒がしい事件がおこらない平和な町であった。
博士のへやの書だなには、ぎっしりと本がつまっている。自然科学、薬理学の本がおもで、窓ぎわの机には、けんび鏡、スライド、培養えき、くすりのびんなどが、いちめんにならべてあった。
とつぜん、ピストルの音がした。ピストルの音は一発だけではなかった。つづけざまに、五発の銃声が夕空にこだまして、街の静寂をやぶった。
博士は気がかりになってきた。
この平和な街にピストルの音がひびくのは、きっとなにか起こったにちがいない。
「なんだろう?」
博士は南がわの窓をおしひらいて街を見おろした。
いつもとかわらぬしずかな景色だったが、しばらく耳をすませていると、ちょうど、『銀ねこ』酒場のあたりで、がやがやとさわぐただならない人声が、風にのってきこえてきた。
「酒場のあたりだな」
博士はつぶやいて、なおもじっと、夕方の街を見おろしていた。
夕空はしだいにくら闇のいろにつつまれ、ほそい新月が夢のような姿をみせ、星もふたつみっつ数をましていった。
港にとまっている汽船に、あかりがつき、きらきらと宝石のようにきらめいているのが、とりわけ美しく思われた。
博士は、いつかピストルの音のしたことなどわすれてしまっていた。
さわぐ声もきこえなくなっていた。
博士は窓をしめ、もう一度、机のまえにすわった。一時間ほどたったとき、玄関のベルがはげしくなった。応対にでていくお手伝いの足音がした。
しかし、それっきり、なんの音さたもなかった。
「おかしいな? だれか訪ねてきたのではなかったのかな?」
博士は、ふと気になった。大いそぎでお手伝いをよび、
「いまのベルは、郵便配達だったのかね?」
「いいえ、だんなさま。それがおかしいのでございますよ。ベルはたしかになりましたのに、玄関にはだれもいないのです。おおかた、子どものいたずらでございましょう」
「子どものいたずらか」
お手伝いがひきとっていくと、博士はスタンドを手もとにひきよせ、一生けんめいに書き物をはじめた。
部屋の中はしずかで、時をきざむ時計の音だけがきこえている。夜の二時になった。
博士は書きかけの書類から頭をあげると、
「もう二時か、そろそろ眠くなってきたな、疲れもしたし、こん夜はこれでおしまいにしよう」
大きくのびをして、灯をけすと、階下の寝室へおりていった。
博士はひどく疲れていた。頭がおもい。
こんな時、博士はいつも愛用のウィスキーを少し飲んで、ぐっすり眠ることにしていた。
「こん夜もすこし飲んで眠ろう」
博士はひとり言をいって、上着とチョッキをぬいだままの姿で台所におりていった。
ウィスキーのびんをさげて、ひっかえしてきたとき、階段の下にしかれているマットに、ひと所、黒いしみができているのが目についた。
「だれだろう? こんなところにしみをつけて……」
博士はぶつぶつ言いながら、ひょいと身をかがめて、そのしみをながめた。しみは、ちょうどかわきかけた血のように見えた。
「おかしいな、血かな?」
博士は指さきで、そっとさわった。思ったとおりだった。
「だれがこんなところに血をおとしたのかな?」
にわかに胸さわぎがして、暗い予感がしてきた。
博士は、考えながら寝室にやってきた。
と、そこでもまたかれは、おそろしいことに出会ってしまった。
なにげなく手をかけようとしたドアのハンドルが、血でまっかにそまっているのだ。
これはただごとではない。
博士の全身の血が、さっとひいていくようだった。かれの頭には、その時、夕方書斎できいたピストルの音が、ありありと浮かんでいた。
おそろしいことが起こりつつあるのではなかろうか?
博士はきっとした表情になり、ゆだんなくあたりを見ながら、しずかに部屋にはいっていった。
しかし博士が考えたように、警官のピストルで傷ついたギャングはいなかった。
ギャングはもちろん、ねこの子一ぴきすら部屋にはみえない。
ただ、ベッドの上のふとんが乱暴にめくられ、血でよごされ、そのうえ、シーツがびりびりにひきさかれていた。
ギャングは、警官に追われて、この家に逃げこみ、ついさっきまでこの寝室にしのびこんでいたにちがいない。
「そうだ。きっとそうにちがいない。なによりの証拠に、ベッドにいままで人が腰かけていたらしいくぼみができているじゃないか」
博士は血ですっかりよごれたベッドのまわりを、念いりにしらべた。
「いつのまにしのびこんだのかな?」
博士がふしぎそうにつぶやいた、そのとき、
「やあ、しばらくだったじゃないか、ケンプ!」
いかにもなつかしそうによびかける声が、耳のはたでひびいた。
「あっ!」
ふいをうたれてかれは、けげんそうに部屋じゅうをぐるぐる見まわした。
どこにも声の主の姿はない。
「だれだね?」
博士の声はうわずっていた。しかし、こんどは返事がなかった。
ただ部屋をよこぎって歩く足音がして、洗面所のカーテンが、生き物のように動き、するするとひらいたと思うと、すぐにもとのようにしまった。
博士は声をのみ、ぶきみに動くカーテンをみつめて棒立ちになっていた。
それから五分もたったであろうか……。
博士には、ながい時間がたったようにも思われた。
もう一度カーテンがゆれ動き、なかから、ぼんやりと、血のにじんだほうたいでぐるぐる巻きにした頭があらわれてきた。
頭だけだ。空中にぼんやり浮かびあがったほうたいまきの頭は、目もなければ鼻もない。いや頭ぜんたいがないのだ。ほうたいだけが、しっかりとまきつけられている。
もちろん手も足もありはしない。
たいていの者なら、ひと目みただけで気絶してしまうところだ。
が、気丈な博士はまっさおになりながら、じっとそのふしぎなものを見つめていた。
「ケンプ!」
ふしぎなものは博士をよんだ。
「え?」
「おどろいてるな。ぼくはグリッフィンなんだよ。ほら大学で同級だったグリッフィンだよ。おぼえてるだろう」
「グリッフィンだって……なにをばかなことを……この化けものめ!」
博士はいきなり、ほうたいのほうへ手をのばした。と、どうだろう……。
人の体にふれたではないか!
ぎょっとして手をひっこめ、まじまじと空中にうかぶおかしなものをみた。
「おちついてくれよ、ケンプ。おれはまちがいなくグリッフィンなんだ。ただおれはふとしたことで体がすきとおってしまい、人の目に見えなくなってしまったんだ。世間のやつらが透明人間だとさわいでいるだろう」
透明人間は目に見えぬ手で、しっかりと博士の手をにぎりしめて、いっしんに話した。
しかし、博士は、その手をふりほどき、めちゃめちゃに手をふりまわして、透明人間にぶつかってきた。
「しずかにしろ! ケンプ、話せばわかることなんだ、話をきいてくれ」
「なにを、このやろう、このばけものめ。話もなにもあるものか、ふんづかまえてやるぞ」
「だまれ、おれがおまえなんかにつかまるものか……」
透明人間は、むかっ腹をたてたらしく、とうとう、博士の足をえいっとすくい、ベッドの上にほうりだし、大声をあげて助けをよびそうにしている口の中へ、シーツのはしをぐっとねじこんだ。博士は、こうなっては手足をばたばたさせて、もがくばかりだった。
「しずかにしてくれたまえよ、ケンプ。きみをおどしたり、きみに害をくわえるつもりできたんではないんだ。ぼくはいまこまっているんだ。きみの助けがほしくてやってきたんだよ」
博士は、このうえ手むかってもむだだと考えたのか、おとなしくなった。透明人間は、口におしこんだシーツをとりのぞき、
「ねえ、きみ、どうかぼくの言うことを信じてくれたまえ。ぼくは大学にいたときと同じグリッフィンなんだ。ただ、あることで姿が見えなくなったが、人さまの目に見えないだけで、ぼく自身は、なんにも変わったことはないんだ。心も体も昔のままのグリッフィンなんだよ」
博士は物わかりのいい人だったし、頭の慟きのするどい人だったので、姿の見えないほうたいの化ものの言葉に真実のあることを見ぬき、
「ずいぶんきばつな話だが、話をきけばあるいはわかるかもしれん。話してみたまえ。それにきみの言うように、わしの目には、きみの姿は見えないが、たしかに体はあるらしいな。わしの手がたしかにさわったし、きみの腕がわしをなげとばしたからな」
「そうなんだ、そうなんだ。たしかにぼくは頭もある手足もあるんだ……。おそろしい化けものなんぞじゃないんだ。ただ研究の結果でこんなことになってしまったんだ」
「研究の結果だって? 研究の結果できみが透明人間になったというのかい?」
「そうだよ」
「信じられないね。だいいち、透明人間がグリッフィンだと言ったところで、たしかにかれだという証拠はないわけだ。顔をみることもできんし……もっとも声はグリッフィンらしいが」
「きみ、まだそんなことを言うのかい……ぼくはまちがいなくグリッフィンだよ。ゆっくり話せば疑いははれるよ。信じてくれたまえ、ケンプ!」
「では、話してみたまえ」
「話そう、が、そのまえにすまないがウィスキーと食事と着る物がほしいんだよ。じつはけがをしているので、傷はいたむし疲れきっているんだよ」
「食べ物に着物だって……すこし待ちたまえ、なにかあるだろう。が、家のものをさわがしたくないから、まにあわせだよ」
博士は、落ちつきをとりもどしていた。科学者らしく、ちみつに頭を働かし、このふしぎな透明人間の秘密をできるかぎり探りだしてやろうと考えていた。
「なんでもけっこうだよ。死ぬほどつかれているんだ。なにか食べてゆっくりと眠りたいだけなんだ」
博士は衣裳戸棚から、古くなったガウンをとりだして、
「これでまにあうかね?」
「けっこうだよ。それにズボン下とくつした、そしてスリッパがあれば申し分ないが……」
空中の声がへんじをするといっしょに、博士の手からガウンがとりあげられ、空中でばたばたとゆれていたが、そのうち、透明人間が着こんだらしく、しゃんと立ってボタンがひとつずつかけられていった。
「やれやれ、これで身じたくがととのったよ。あとはウィスキーに食べ物があればいいんだ。裸で腹をすかせているのは、まったくつらいよ。まだ夜になると裸ではこおりつきそうに寒いし、腹がすいてたおれそうになるし、まったくつらかったよ」
透明人間は、服をきてしまうと、ゆっくりといすに腰をおろした。
「ねえ、ケンプ。早くウィスキーを飲ませてくれないか」
透明人間は、せかせかとさいそくした。
「いま持ってくるよ。だが、こんなきちがいじみたことにであうのは、生まれてはじめてだよ。ぼくは催眠術にかかっているのかな?」
「ばかなことを言いたまえ、ぼくは催眠術なんぞやらないよ」
博士は、足音をしのばせて台所におりてゆくと、冷えたカツレツとパンを手にしてもどってきた。
「ウィスキーはここにある。さあ食べたまえ」
博士はサイドテーブルにそれらをならべると、ほうたいとナイト・ガウンの化けものに声をかけた。ウィスキーをグラスについでやると、ナイト・ガウンの袖が動いて、すっとグラスを持ちあげた。グラスを持ちあげたというより、グラスがひとりで空中に浮かびあがっていったような感じだった。
口のあたりと思われるところでグラスがかたむくと、みるまにウィスキーは飲みほされた。
「ああ、うまい」
つぎに、カツレツが空中に舞いあがった。つづいてパンも……。
「なるほど、見えないよ。で、傷をしているといったが、どこを傷つけられたんだね」
「傷はたいしたことはないんだ」
透明人間はがつがつと口いっぱいにほおばって、むさぼるように食べながら言った。
見るまにウィスキーも食べものも、へっていった。
「ああ、うまい、それにしてもぼくがほうたいをさがしてまよいこんだのが、きみの家だったとはふしぎだな。ぼくは運がよかったよ。こん夜は泊めてもらいたいね。ひさしぶりにゆっくり眠りたいんだ。ベッドを血でよごしてすまなかったね。体は透明になっていても、血だけはかたまると見えてくるんだよ……。そのためにさっきも、あやうくつかまるところを、きみの所ににげこんでたすかったんだ」
「また、どうしてピストルでうちあいなんかやったんだね」
「ばかなやつが、ぼくの金を盗もうとしたんだ。そいつはぼくがなかまにしようと思ってた男だのに……」
「そいつも透明なのかい?」
「いいや、かれはふつうの人間だよ。あいつはぼくを恐れてびくびくしていたくせに、ぼくをうらぎろうとしたんだ。あいつめ、こんど会ったらぶち殺してやる。ちくしょうめ!」
透明人間は、はげしく体をふるわして怒りだした。ナイト・ガウンがそれにつれてぶるぶるとふるえた。
博士は、グリッフィンが大学生のころから、ひどくおこりっぽい感情のはげしい男だったのを思いだして、一生けんめいになだめた。透明人間は、ようやく怒りをしずめ、
「ぼくは武器をつかったりなんかしなかったんだ。それだのに、やつらはおれにむかって、つづけざまにピストルをうつんだ。たいていのやつらはぼくをこわがって、ぼくを追っぱらおうとして乱暴するんだよ」
「なるほど、が、きみがそんな体になったいきさつを、話してきかせてほしいな」
「それはゆっくり話すよ。そのまえに、たばこがほしいんだが」
博士はいわれるままに、たばこを透明人間にあたえた。ところが、見るからに奇怪なことが起こった。それは透明人間が、うまそうにたばこを吸いはじめると、たばこの煙が流れるにしたがって、口からのど、そして鼻と、そのかたちがぼんやりとうきあがってきたのだ。
「ありがたい。きみのおかげで、寒さからも空腹からものがれることができたよ。そのうえ、おちついてたばこをすうことまでできたんだ。まったく感謝するよ。しかし、ケンプ、きみは学生時代と、ちっとも変わっていないな。きみのようにどんなときでも落ちつきはらって、てきぱきと物ごとをかたづけてゆける人間こそたよりになるんだ。これからどうか、ぼくをたすけてくれたまえ」
透明人間が言った。博士は、じぶんもちびちびとウィスキーをのみながら、
「いったいきみはぼくに、なにをやれというのだね。ぼくは人をたすけるどころか、ぼく自身どうしたらいいかと思いまよっているんだよ」
と、博士はくらい表情でこたえた。そのうち透明人間は、にわかにうめき声をあげ、体をえびのようにまげ、頭をかかえこんだ。
熱がでてきて、傷がいたみはじめたのだ。
「きみ、この部屋で朝までゆっくり眠りたまえ。そうすればきっと、あすの朝は気分もさわやかになるだろうから……」
博士は親切にすすめた。ところが透明人間は、苦しそうにうなり声をたてながら、どうしても眠ろうとしなかった。
「きみ、えんりょしないで眠りたまえ。そうすれば気分もよくなるし……」
透明人間は、なにを思ったのか、しばらくだまって博士をじっと見つめていたが、
「ぼくは、心をゆるした人間につかまるのはいやだね」
と言った。博士はぎくりとした。
なにもかも見すかしたような透明人間のことばは、博士の心をぐさりと突きさした。
「ぼくがきみを警官の手にわたすなんて、そんなばかなことがあるものか……ぼくを信じてゆっくりとやすみたまえ」
しかし、透明人間はどこまでも用心ぶかかった。部屋のなかをねんいりに見わたしてから、ふたつの窓をしらべ、そしてドアの鍵をあらため、警官がまんいちかれをおそうことがあっても、逃げだす道があることをたしかめてから、やっと、よこになった。
「おやすみ」
博士が透明人間に言って、ドアをしめようとすると、急にナイト・ガウンがすーっと近づいてきて、
「だいじょうぶだろうね、ケンプ。ぼくをゆっくりねむらしてくれるね。警官にわたしはしないだろうね」
博士は顔いろをかえ、
「わすれたのかい。たったいま、やくそくしたじゃないか。よけいな心配をしないで、ぐっすりやすみたまえ」
ドアをしめると、すぐに中から鍵をかける音がした。
博士は、
「やれやれ、とうとうじぶんの寝室から追いだされてしまった。まるっきり、夢をみているのか、気がちがっているのか……わけがわからない」
なんども頭をふりながら、廊下をゆっくりと歩いて書斎にはいった。
博士は、ぐったりといすに身をなげだして、もの思いにしずんでいたが、
「そうだ、新聞を見れば、なにか手がかりがつかめるかもしれんぞ」
ぽつりとひとり言をもらし、いくとおりもの新聞をかきあつめ、机の上にひろげて、むさぼるように読みはじめた。
どの新聞も、アイピング村でのさわぎが、大げさに書きたてられている。
「ふうん、村人をなぐりたおしてあばれまわったというのか……なんて乱暴なことをするのだ。えっ、なに、巡査はなぐられて気ぜつしたっていうのか。そして宿屋の女主人はおそろしさのために、寝こんでしまったのか。なんというおそろしいことをやる男だ」
博士は、ぼんやりと前方を見つめて、考えこんでいたが、ぽとりと新聞を手から落としてしまった。いくら考えても、この奇怪な事件ははっきりしない。
博士は、長いすによりかかって眠ろうとしたが、目がさえて、寝つかれそうもなかった。
やがて、窓から、しらじらと朝のひかりが流れこんできたが、博士はまだふいに飛びこんできたやっかいな透明人間を、どうしようかと思いなやんでいた。
「やれやれ、これでやつが起きだしてくれば、また、服だけの化けものと、しかつめらしい顔をして話し、なんにもないところへ、たべものがつぎつぎと消えていくのを見ていなくてはならないのか。どうかして、この災難からのがれるすべはないかな」
へいぜいは頭のするどさをほこり、どんなことでもあざやかにかたづけてしまう博士も、思ってもみなかった透明人間には、すっかり手をやいたらしかった。
夜がすっかりあけはなたれると、お手伝いが朝の新聞をかかえてやってきた。
博士は、お手伝いにむかい、
「いいか、朝食を二人まえ用意して、ここまでもってきなさい。そしてわしが呼ぶまで、二階へかってにくることはならんよ。わかったな」
「はい」
お手伝いは、博士が研究であたまをつかいすぎて、気が変になったのではないかと、心配しはじめた。
博士は、お手伝いがはこんできた熱いコーヒーをすすると、いくらか気分がはっきりした。
朝の新聞をひろげ、透明人間のことが書かれているところを、ねんいりに読んだ。
「新聞には、透明人間は狂人になったにちがいないと書いてあるぞ。じっさいやつは、気がくるっているにちがいない。なにをやりだすか、わかったもんじゃない。しかも空気のように自由な身だ。悪事をやりだせば、こんなおそろしい敵はない。そいつがおれの家にまいこんできたんだ。それにやつは、昔の友だちのグリッフィンだというのだから……」
博士は机のまえに、どっかりと腰をおろすと、ながい間、頭をかかえて考えこんでいた。
「おお、どうしてそんなことができよう──友だちの信らいをうらぎるなんて……。だが……たとえ友だちであっても──」
博士は、思いまよったすえ、ひきだしから便せんをとりだすと、ペンを走らせだした。
書いてはすて、書いてはすて、博士はなんども書きなおして、やっと一通の手紙をかきあげると、封をして、宛名をしたためた。
それには肉太の博士のいつもの字で、
『ポート・バードック署 アダイ警部どの』──と書かれてあった。
透明人間は起きあがるやいなや、あばれはじめた。けさはひどく、きげんがわるいらしい。
いすをなげとばし、洗面所のコップをたたきわった。
もの音で博士が、あわててかけつけてきた。
「どうしたのだ? なにか気にいらないことでもあるのかい?」
「なに、頭の傷がすこしばかりいたみだしたので、気分がすぐれないんだ。いやな気もちがするんだ」
博士はだまって、ちらばっているガラスのかけらをひろいあつめ、
「きみのことが、すっかり新聞にのっているよ。世間は透明人間のうわさでもちきりらしい。ただ、ぼくの家にきみがしのびこんでいることは知らないがね」
「うるさいやつらだ! なぜぼくを、しずかにしておいてはくれないんだろう」
「それはむりだよ。世の中は、物わかりのいいやつばかりでできてやしないんだ。そいつらは、どこまでもきみをつかまえようとさわぐだろうね。そこで、これからどうするかね? むろん、ぼくはできるかぎりの手伝いはするよ。だが、きみはいったい、どうしたいと思ってるのかね」
透明人間は考えこんでいるらしく、ベッドのはしにすわりこんだまま、だまっている。
ケンプ博士は、しばらくしてから、さりげなく、
「書斎に朝食のよういをさせてあるよ」
と、さそった。透明人間はすなおに立ちあがり、博士のあとについて書斎にはいってきた。
ゆうべとおなじように、ナイト・ガウンだけが、すーっと食卓のまえにすわりこんで、手も口もなんにも見えないのに、どんどん食べはじめた。
はじめて見たときほどおどろかなかったが、やはりへんな光景だった。
食事がおわりかけたころ、ケンプ博士は、
「これから先のことを相談するまえに、なぜきみがそんな体になったか、くわしく話してもらいたいね」
透明人間は、ナプキンをとりあげ、ゆっくりと口のあたりと思われるところをふき、
「かんたんなことなんだ。きみだって説明をきけば、なーんだ、と思うよ。奇跡がおこったのでも、なんでもないさ」
「きみには、かんたんかもしれないが、ほかの者にとっては、奇跡とおなじくらいふしぎなことだよ」
「はっはっは」
透明人間は、ケンプ博士に会ってからはじめて、ゆかいそうに笑った。
「さて、それではなにから話そうかな。ぼくが、はじめ医学を勉強していたことは、きみも知っているとおりだ。その後、ふとしたことから医学を研究することをよして、物理学にうつったんだ。ことに光の反射とか屈折とかが、ぼくの興味をとらえてしまったんだ」
「昔からきみは、そういうことを研究するのがすきだったじゃないか」
「そうだよ。しかも、この研究は人があまりやっていないので、いくらでも研究することが残されているのが、若いぼくには、たまらない魅力だったのだ。まだ二十二才のわかい科学者だったぼくには、これに一生をささげて、いつかは世間のやつどもを、あっといわせるような研究をやりとげようと決心したんだ」
透明人間は、いつもの、いんきくさい世をのろったような声とはまるでちがう、わかい張りのある声で話しつづけた。
「それからのぼくの頭には、研究のことよりほかは、なにもなかったね。寝てもさめても考えるのは、研究のことばかり──六ヵ月ほどたったとき、はっと思いついたことがあったのだ」
「どんなことだ」
「きみも知っているとおり、物が見えるということは、光が物にあたったとき反射するか、そのまま吸収されてしまうか、または光がおれまがる具合によって、いろいろな色とか、形とかが、それぞれの姿をもって目にみえるので──光のこの三つの働きがなかったら、われわれは物をみることができないわけだ」
「そうだ」
「たとえば、われわれが赤い布をみるとするね。赤くみえるのは、太陽の光線のなかで赤い色のところだけを布が反射して、あとの色はみんな吸いこんでしまうからなんだ。また光をぜんぶ反射してしまえば、白くきらきらとかがやいてみえるだろう。そしてふつうのうすいガラスが、光のすくないうす暗いところなどでは見にくいわけは、光をほとんど吸収しないし、はねかえすことも、おれまがる度合もすくないからなんだ」
透明人間はむちゅうで、しゃべりまくっている。ケンプ博士はあきれ顔をして、じっと相手の声をきいていた。
「そのガラスをこなごなにして、水のなかに入れてみたまえ。たちまち見えなくなってしまうだろう。これは水とガラスは、光がおなじような具合におれまがるからなんだ。これから考えをすすめてゆけば、なにもガラスを水中に入れなくても、水の中に入れたとおなじように見えなくすることができるはずだろう」
「そうだ。しかし、人間はガラスとちがうからな!」
「そんなことはない。人間はガラスとおなじように透明だよ」
「そんなむちゃな話はないよ」
「むちゃな話ではないんだ。りっぱにすじみちのとおっている話だよ。人間だって血液の赤い色と毛髪の色などをとりのぞけば、体じゅうが無色で透明になってしまうんだ。ガラスとたいしてちがわないよ」
ケンプ博士は透明人間のきばつな考えに、ただうなずくばかりだった。透明人間のことばはますます熱をおびてきた。
「ぼくがこれを考えついたのは、ロンドンを去ってチェジルストウにいたときだ。今から六年ほど前のことになるがね。その時のぼくの先生のオリバー教授というのは、じつに根性のまがった男で、学者のくせに学問や実験に身を入れないで、世間のひょうばんや名声ばかりに気をとられているのだ。だから、ぼくはだれにも秘密で、研究をすすめていくことにしたのだ」
「だれの手もかりないで、きみひとりでかい?」
「そうだ。ぼくは研究が完成したそのとき、ぱっと世間に発表して、一夜で天下に名をとどろかせてやろうと考えたんだ。研究はおもうとおりに進んだ。そのうち、思いもかけない大発見をしたのだ。これはぼくの手がらではないんだ。ぐうぜんなことで、おもいがけないたまものが、さずかったというわけだ」
「ずいぶん大げさなんだね。いったい、どんな大発見なんだい?」
「きみ、おどろいてはいけないよ。ぼくは血を無色にすることができるということを見つけたんだよ。血を無色にすることができれば、人間を透明にすることができる、というわけだ。人間の体の血液を透明にしてしまえば、体じゅうが透明になるわけだからな。そうなれば、ぼく自身、透明になることはわけないというわけさ。もちろん、そのために体に害があってはなんにもならないが、その点は自信があったのだ」
「な、なんだって……なんということを考えだしたのだ。おそろしい人だね、きみは」
「おどろくのもむりはないよ。それを発見したぼく自身、しばらくの間は、ぼうぜんとしていたくらいだからね。ぼくはその夜のことを、いまでも、はっきりとおぼえているよ──。研究室にいるのはぼくひとりで、ひっそりとしずまりかえっていた。ぼくはじぶんのこの発見にすっかり興奮してしまい、じっとしていられなくなった。窓をおしひらいて、夜空にしずかにまたたいている星をみあげ、いくどか、おれも透明になれるんだぞと、くりかえしてつぶやいた。それでいくらか落ちつきをとりもどしたんだよ」
「そうだろうね。その気もちは、ぼくにもわかるようだが……」
「ねえ、きみ、考えてみたまえ。すがたを消して思いのままをやるのは、人間の昔からのあこがれだったじゃないか。おとぎ話のなかの魔法使いとおなじになれるんだ。こんなすてきなことがあるだろうか。それをぼくがやりとげたんだ」
透明人間は、いきおいこんで話しつづけた。せきをきった水のように、とまることをしらぬようにさえ思われた。ケンプ博士はしずんだようすで、かれの話に耳をかたむけていた。
「これで、ながい間、ばかな主任教授に見はられながら、苦心したかいがあったと思ったね。田舎の大学で頭のさえない学生をあいてに心にそまない授業をして、毎日をみじめにすごしてきたぼくが、これはどの成功をしようとは、だれも考えなかったろう。しかし、この研究をかんぜんなものにするために、それからさらに三年の年月、むがむちゅうで研究をつづけたんだ。ところが三年たってみると、この研究を完成させるには、どうしても金がたりないということに気づいたんだ」
「金が……」
「そうだ」
透明人間は吐きすてるように言って、だまりこんでしまった。
ケンプ博士もだまりこんで、じっとナイト・ガウンだけの人間を見つめていた。
ながい間、なんの物音もしなかった。
ふと、透明人間が口をひらいた。
「金がなければ、ぼくの研究をつづけることはできない。やむをえず、おやじの金を盗んでしまったんだ……」
「おとうさんの金を盗んだって……きみが?」
「うん、ところがそのお金は、おやじのものではなかったんだ──。そして……おやじはそのために自殺をしてしまったんだ」
ケンプ博士は、くらい目つきで、透明人間をみつめた。
「ぼくのそのころ、チェジルストウの家をひきはらって、ロンドンのポートランド街にもどっていた。部屋をかりてすんでいたんだ。おやじの金をぬすんで、いろいろな実験にいるものを買いととのえたので、ぼくの研究は気もちがいいほど具合よくすすんでいったんだ」
ケンプ博士はうなずいた。そして心のなかで、
(なんというつめたい男だろう。やつは研究の鬼になってしまったんだ。やつの心には、もうあたたかい人間の血が通っていないのかもしれない。おそろしいことだ)
と考えていた。が、透明人間は博士の心のなかのことなどは気にもかけず、
「おやじの葬式は風のつめたい、さむい寒い日だったよ。ぼくはおやじがさびしい丘の中腹にほうむられるのをみても、考えるのはただ研究のことばかりで、さびしいとも悲しいとも思わなかったんだ。葬式をすませてじぶんの部屋にかえってきたときには、はじめて生きているかいがあると思ったよ。ぼくはむちゅうになって研究にとりかかった」
透明人間は、ふと口をつむぐと、くらい顔ですわりこんでいる博士に、
「きみ、つかれたのかい? 顔いろがさえないようだ」
「いや、なんでもない。さあ、つづけたまえ。それからどうなったんだ」
「そのときすでに研究は、九分どおりできあがっていたんだ。その大体のことは、浮浪者がもち逃げしたノートに、暗号をつかって書いてある。あいつめ、おれのノートを取りやがって……どんなことをしてもとりかえしてやるぞ。うらぎったやつには、思いしらせてやる!」
透明人間はあの浮浪者のことを思いだし、研究の話をするのもわすれて、さんざんにののしりはじめた。すると、博士が、
「研究のほうのことをきかせてくれたまえ。そしてどうなったんだい?」
「ついに待ちのぞんでいた日がきたんだ。その日の実験には白い羊毛を使ってみたんだ。実験はうまくいって、白い羊毛がじっと息をころしてみつめているぼくの目のまえで、けむりのように色がしだいにうすくなり、やがて、すーっと消えていってしまったんだ。その光景は、なんともいいようのないくらい、ぶきみなものだったよ」
「それで……」
「白い羊毛がすっかり消えて、ぼくの目に見えなくなったときには、まるで信じられない気がしたよ。ぼくはそっと、羊毛をおいたあたりをさわってみた。すると、どうだ! やはり羊毛はまえとおなじ場所に、ちゃんとあるんだ。そのときのぼくの気もちといったら、うれしいような、気味のわるいような、変な気もちだったよ」
ケンプ博士は口のなかで、そっとつぶやいた。
「信じられん話だが………うそではなさそうだ」
そして透明人間に、ひとやすみしないかと言い、ポケットからたばこをとりだした。
透明人間は一本ぬきとると、火をつけて口にくわえた。と言っても、やはり空中にたばこがういているように見えるだけである。
「つぎの研究には、ねこをつかったんだ」
「生きてるねこをかい?」
「もちろんさ。そのねこは階下にすむ、ひとり者の老婆のかわいがっているねこなんだ。ぼくは血のいろをうすめる薬やらそのほかの薬やらを、苦心してそのねこにのませたんだ。そして薬で、ねこを眠らせておいた。ねこがつぎに目をさましたときには、羊毛とおなじように、けむりのようにきえていたんだ」
「ねこが透明になってしまったって……?」
「そうだ。もっともすこし失敗したところもあって、うまく消えうせてはしまわなかったがね。うまくいかなかったところは、ひとみと爪だ。ねこは薬をのませると同時に、ひもでしばって逃げださぬようにしておいたんだ。そのうちに気をとりもどして、起きあがったときには、からだはかんぜんに消え、ふたつのほそい目と爪だけが、部屋のなかにゆうれいのように浮いていたんだ」
「ぶきみな話だ! それに、ねこがかわいそうじゃないか」
ケンプ博士は、とがめるように言った。
「持主の老婆が、ねこを探しにきて、『わたしのねこが、こちらにきているでしょう。たしかになき声がしていましたよ』と、がなりたて、部屋の中をじろじろとのぞきこんだが、ねこはクロロフォルムでねむらせてあったので、見つかるはずはない。うさんくさそうになんどもながめまわしてから、やっとひきあげていったよ。おかしかったねえ」
「透明になってしまったねこは、その後、どうしたんだね」
「さあ、どうしたかね。透明になると、ひどくあつかいにくくてね。つかまえようとしてもつかまえることができない。そして、にゃあにゃあ、なきつづけているので、とうとう、うるさくなって、窓をあけてそとへ追いだしてやったよ」
「すると透明ねこは、いまでもどこかをさまよっているというわけだね」
「生きていればね。だが、おそらく死んでいるだろう。目に見えないねこに、えさをやる人もいないだろうからね」
「そうか、かわいそうに……」
博士は、なんにもないところに、ねこの丸いひとみがふたつ、みどり色にひかり、かなしそうに食べ物をもとめてなく声だけがきこえる光景を、ありありと思いうかべて身ぶるいした。
「ぶきみなことだ!」
つぎに透明人間が話しだしたのは、いよいよかれ自身の体が、どのようにして透明にかわっていったか、ということだった。
「一月のことだったよ。雪のふる前の日で、おそろしくさむい日だった。ながい研究のつかれがでたのか、気分はすぐれず、いつものように実験をつづける元気もなかったんだ」
透明人間はつかれたようすもなく、また話しはじめた。
「四年の間、あけてもくれても、ただ研究を完成させることだけを考えてくらしていたが、もともとわずかばかりしかなかった金は、ほとんど使いはたしてしまい、体もくたくたにつかれきると、なにをするのもいやになってしまった。ぼんやりと丘にのぼって子どもたちがあそんでいるのをながめていたが、そのうち、ぼくの体が透明になって人目につかなくなったら、こんなみじめな境遇からぬけだし、いろいろときばつな、ゆかいなことができるのではないかと、考えたんだ」
「それできみは、体を透明にするおそろしい仕事にとりかかったのかね?」
「そうなんだ。ぼくは下宿にかえると、さっそく薬の調合にかかったんだ。そこへ前からぼくのことをうさんくさい目でみていた下宿のおやじが、文句を言いにきたんだ。おやじは部屋じゅうをじろじろながめまわして、『あんたはいったいこの部屋で、どんな仕事をしているんですかね、へんなにおいがしたり、夜っぴてガス・エンジンがうなったり……おかげで下宿じゅうの人間が、おちおち暮らすこともできないではありませんか。人には言えねえ怪しげな研究でもやっているんじゃありませんか……とんだめいわくをかけられたら、たまったものじゃありませんからな』と、くどくどといつまでもいいつづけるので、ぼくはとうとうかんしゃくを起こして、『うるさい! でていけっ!』と、どなってやったんだ」
「らんぼうだね!」
「しかたがないさ。おやじは、ぼくにどなられると、かんかんになっておこりだした。ぼくはついにがまんしきれなくなって、おやじのえり首をつかむと、ドアのそとへ力いっぱいなげだしてやったよ。これでぼくは、この下宿からもでてゆかねばならないことになってしまったんだ」
透明人間の着ているナイト・ガウンが、はげしくぶるぶるとふるえた。そのときのことを思いだして、もういちど腹をたてているらしかった。
「こんなわからずやのおやじがいては、とてもじぶんの研究をこのままぶじにつづけることはできない、とわかったので、ぼくはすぐにつぎの手段を考えだした。大いそぎで薬品の調合にとりかかり、それができあがると、夕方から夜にかけて、ぼくは体を透明にするその薬をのみつづけたんだ──」
ケンプ博士は、そのとき口をもぐもぐさせて、なにか言いかけたが、そのまま、透明人間の話をだまってききつづけた。
「夜ふけになったとき、薬のために、ぼくはたまらないほど気もちがわるくなってしまった。いすにぼんやりと腰かけていると、だれかがドアを力いっぱいたたくんだ。ぼくは動く気がしないので、ながいあいだ放っておいたが、どうしてもノックをやめないんだ。たまりかねてドアをあけると、下宿のおやじが立っていて、なまいきな態度で一枚の紙きれをさしだしたが、ひょいとぼくの顔をみると、目玉がとびでるほどおどろいて、紙きれをその場にほうりだして、ころがるように逃げていったよ」
「どうしたというのだい? そのおやじは……」
「ぼくも鏡をみるまでは、わけがわからなかったんだ。が、おやじが逃げだしてから、鏡をみて、やっと、やつのふるえあがったわけがわかったよ。ぼくの顔がまっ白にかわっていたんだ。すきとおるほど白くね」
「白く?………」
「そうだ。予期したようにね。それから夜あけまでの苦しみは、ぼくも予期しなかったことなんだ。皮膚はもえるように熱くなり、体じゅうが、かっかっとほてって、その苦しさときたら、いまにも気絶して、それっきり死んでしまうかと、たびたび思ったほどだった。歯をくいしばってがまんしたが、うめき声はひとりでに高くなり、ついにぼくは気絶してしまったんだ」
ケンプ博士は、おそろしさに身ぶるいしながら、心のなかで、
(やつの魂は悪魔にみいられているにちがいない。でなければ、ふつうの人間に、そんなおそろしいことがたえきれるはずがないんだ)
と、思っていた。透明人間は、じぶんの話にすっかりむちゅうになって、博士のことなどわすれてしまっているようだった。
「こんど気がついたときは夜あけだったよ。はげしい苦しみはやんでいたが、ひどい疲れでくたくたになっていた。明けがたの光が窓からさしこんだとき、ぼくはじぶんの手をみて、おどろきとよろこびといっしょになった、言いようのない声をあげたんだ。なぜって──両手がくもりガラスのような色になってたんだ。そして、じっと見つめているうちに、両手はどんどん透きとおって、夜がすっかり明けきったころには、まったく透明になってしまったんだ」
「両手といっしょに、体じゅうも透明になったのかい?」
「もちろんだ。一番さいごまで色が残っていたのは爪だったね。じぶんで決心してやったことだが、こうして成功して全身が透明になってしまうと、さすがのぼくも、たいへんなことをやったなと、心おだやかでなかった。もう一度ベッドにもぐりこんで、昼ちかくまでゆっくり眠って元気をとりもどすと、研究に使った機械や道具を二度ともとにできないように、めちゃめちゃにしておき、ここからでていくじゅんびに取りかかった。」
「なぜ機械をこわしたんだい?」
「ほかの者に、ぼくの研究をかぎつけられないためさ。そこへまた夜のあけるのをまちかねた下宿のおやじが、くっ強な若者を二人もつれて、『化けものやろうめ、きょうこそは、なにがなんでも追いだしてやるからな。腕づくでも追っぱらう気なんだ』といきまきながら、ドアをおしやぶってはいってきた。ぼくは、入れちがいにそとへでていったよ。もちろん、やつらはすこしも気づかなかった。部屋のなかにぼくの姿がみえないので大さわぎをしていたよ」
そこで透明人間はおかしそうに、くっくっくっとふくみ笑いをして、また話しだした。
「やつらがぼくの部屋をひっかきまわしてさわいでる間に、ぼくは、おやじの部屋にもぐりこんでようすを見ていたんだ。さわぎはだんだん大きくなって、下宿の人間はひとり残らず、そのうえ出入りの商人たちまでがぼくの部屋にはいりこんで、実験の機械や薬品をいじりはじめたんだ」
「それで……」
「ぼくはそのようすを見ながら、ふと、『こいつらのように無学なやつどもがさわいでいる間はよいが、そのうちに学問のあるやつがこれを見にきて、ぼくの研究をかぎつけるようなことになるかもしれない』と考えたんだ」
「だってきみは、機械をこわしておいたんだろう?」
「そうだ。だが、それで安心はしていられないよ。そこで永久にぼくの研究を秘密にしておく方法を考えだしたんだ」
「どんな方法だい? そんなことができるのかい……」
「完全な方法だよ。ぼくは、ぼくの部屋でさわいでいた連中がすっかりひきあげると、そっと、おやじの部屋から、ぼくの部屋にひきかえして、そのへんにある書類や紙くずを山とつみあげ、マッチをすって、火をつけてやった。燃えあがるのをみて、その上にふとんやいすをつみかさね、さいごにゴム管をひっぱって、ガスをふきださせたんだ。ガスはすぐに燃えあがり、たちまち、ふとんもいすもめらめらと火をふきだした。ぼくは、そこまで見とどけると、そっと玄関から、街へしのびでていったよ。いやな下宿におさらばしてね」
「それじゃあ、きみは、放火してきたというのかい?」
「そうさ。それよりほかに、ぼくの研究を永久に秘密にしておける方法があるかね? ないだろう」
博士には、そのときの透明人間の声が、地獄のそこからきこえてくる悪魔の声のようにおもえた。
「街へふみだしてみて、ぼくははじめて透明になったことをゆかいに思ったよ。ぼくがうしろから、通行人の帽子をはじきとばしたり、肩をぽんとたたいたら、そいつはどんなにおどろいた顔をするだろうかと思うと、まったく考えただけで、ふきだすほどうきうきしてきたんだ。ぼくは街をあちこちと気ままに歩いていった。ところが、夕方ちかくなると、ぼくはすっかり弱ってしまった。よくはれたあたたかい日だったが、一月になったばかりだもの、まっぱだかではたまったものではないよ。ぼくは歩きながら、がたがたふるえどおしだった」
「はっはっはっ、いくら透明人間になっても、人間はやはり人間だよ。ま冬にはだかでいられるものか」
ケンプ博士は、はじめて気味よさそうに笑い声をたてた。
「笑いごとじゃないよ。日がかたむきかけてくるにつれて、寒さはいっそうひどくなった。ちょうどブルームズベリイ広場をぬけようとしていたときだ。ぼくは大きなくしゃみをひとつした。まわりにいた人たちが、いっせいにふしぎそうにあたりを見まわした。とたんに、近よってきた白い犬が、ぼくをかぎつけたのか、わんわんとほえたててとびかかってきたんだ」
「透明になっていても、犬にはわかったのだろうか?」
「犬にはわかるらしいね。かぎつけるんだ。いまいましい話だが、それからぼくはラッセル広場まで犬に追われて、力のかぎり走りつづけたよ。ラッセル広場には、まだ人だかりがしていた。犬からのがれてほっとしたのもつかのま、また、つぎの災難がふりかかってきたんだ」
「つぎの災難っていうのは、どんなことだったのだい?」
「こんどは子どもに見つけられたんだ。もちろんぼくの姿を見つけるはずはない。ぼくはつかれはてていたので、ひと休みしようと思って、博物館のまっ白な階段をのぼっていったんだ。その近くで子どもたちが幾人も遊んでいたよ。そのひとりがふいに大声でさけんだんだ。
『あっ、みてごらん! おばけの足あとだよ。ほらほら、はだしの足あとが階段につぎつぎとついてるよ。おかしいなあ──だあれも登っていってないのに、足あとだけがくっついているよ』この声をきいた時には、ぼくはぎょっとして、どうしていいか、わからなくなってしまったね。進めば足あとがつくし、立ちどまっていれば、だれかがつかまえにあがってくるだろう。このときのぼくの気もちをさっしてくれたまえ」
「それで、どうした?」
「そのうち、子どもの声で、やじ馬がぞろぞろと集まってきだした。こうなっては逃げるよりほかはない。足あとがつこうが、そんなことにかまっていられなくなって、ぼくは、すぐそばでまごまごしている若い男をつきとばすと、いちもくさんにかけだした。やじ馬たちはわけもわからず、ただ足あとをたよりにわいわいと追っかけてきたんだ」
「とんだ災難にあったものだな」
「まったくだ。なんども街かどをまがって、めくらめっぽう逃げていくうちに、足のうらのぬれていたのが乾いてきて、足あとがはっきりつかなくなってきた。しめたと思って、物かげにかくれ、足のどろをすっかりはらい落として、ゆっくりと休み場所をさがして歩きだしたんだ。追っかけてきたやつらは、うすくなって、ついに消えてしまった足あとをさがして、その辺をうろうろしていたよ」
「やれやれ、透明になっても、いいことばかりじゃないね」
「それはそうだ。だが、もちろん、すてきなことだってあるからね。かけまわっているうちに体はぽかぽかあたたまってきたが、すっかり風邪をひいたらしく、しきりにくしゃみがでるのには閉口したよ。落ちついてみると、ぼくの下宿のある街にきてたんだ」
透明人間は、ケンプ博士になにもかも話してしまうつもりらしく、いっしんに話しつづけている。博士は、なにか、落ちつかないようすだが、それでも、じっとかれの話をきいていた。
「そのうち往来の人たちが、きゅうに、なにかさけびながら、いっさんにかけだしていった。人数はつぎつぎにふえてゆき、やがて火事だとわかったときには、どうもぼくの下宿のあたりと思われる方向から、もくもくとまっ黒な煙がすごいいきおいで、電話線とかさなりあった家のむこうに見えてきたんだ。それをみて、ぼくは、ほっとしたね。これでぼくの秘密は安全だ──そう考えると同時に、なにか新しい勇気がわいてくるような気がしたんだ」
透明人間は、一気にここまでしゃべってきたが、なにを思ったか、いすにふかぶかと身をしずめて、だまって考えこんだ。
ケンプ博士は、ちらりと窓のそとに、すばやい一べつをなげ、だまってすわっていた。
「透明人間になるということは、はじめぼくが考えたほど、すばらしい、ゆかいなものではなかったんだ。寒いからといって服をきれば、透明人間でいることができなくなる。透明人間でいようと思えば、寒くても服をきることができなくなるばかりか、もっとこまることが起こってきたんだ」
しばらくだまっていた透明人間は、ゆっくりと話しだした。
「はだかでいるより、もっとこまることというと、どんなことだい?」
ケンプ博士は、つかれてしまっていたので、気のりのしない調子できいた。
「おそらく、きみには想像もつかないことだろう。透明でいるために服をきないでいると、食べ物を口に入れることができないんだ。なぜって、考えてみたまえ……ぼくがはだかのままでパンをたべるとするね。パンはぼくの口にはいったときから、のどをとおり、胃にとどき消化してしまうまで、人の目にさらされてしまうのだ。体の中にはいった食べ物がそのまま空中に浮いてみえるなんて、考えただけでもぞっとすることだろう。ぼくはそんなことになるのはいやだ。が、そうすれば、ぼくはいくら腹がすいていても、パンひとかけ口にすることができなくなるんだ」
「なるほど、そこまではぼくも考えつかなかったよ。そうすると、透明になるのも考えものだね」
「もちろん、こまることもあればいいこともある。けれども新しい生活にふみだしたいじょうは、いやでもやりぬくほかはないんだ。いまとなっては身をよせる家もなければ、たよりにする人もない。働いて金をもうけ、その金で楽しくくらすなどということは、夢にも思えない身の上になってしまったんだ」
透明人間の声は、しみじみとさびしそうだった。
ケンプ博士も、さすがにかれの変わった境遇に同情して、
「それできみは、それからどうしたんだい?」
「どうするといって、ぼくは道のまん中につっ立ったまま、どうしていいかわからなくなってしまったんだよ。雪ははげしく降りだし、寒さと空腹はたまらなくぼくをせめたてるんだ。ぼくはただ雪の中からのがれて、屋根の下でゆっくりとやすんで、腹いっぱい食べたいと、そればかり考えていたよ」
「そうだろうね。で、それから……」
「そのうえ、これこそ思いもかけなかったことだが、雪の中にじっとしていると、体に雪がつもって、たちまち、ぼくの体のりんかくがぼーっと浮かびあがってくるんだ。これにはまったくへいこうしたね。ぼくは身をきるような北風が、雪といっしょに吹きつけてくる道を、あてどもなくさまよいつづけたんだ」
「なぜどこかの家の物おきへでも、もぐりこんで、雪の中を歩きまわることからだけでもまぬがれなかったんだ。食べ物にありつくことはできなくても、寒さだけはいくらかしのぎやすいのではないか?」
「ぼくだって、それは考えたんだ。ところがロンドンじゅうの家という家は一軒のこらずドアをしめ、鍵をかけているので、いくらぼくが透明人間でも、もぐりこむすきさえなかったんだ。だがぼくはそのとき、ふいにすばらしいことを考えついたんだよ」
透明人間は、そのときのことを思いだしたのか、いきいきとした声になって、
「デパートのなかにもぐりこめば、ぼくのほしい物はなんでも手にはいる。それにデパートならはいるにもでるにも、なんの苦労もないし、どうして早くこのことに気がつかなかったかと思ったね。ぼくはすぐ、ぞろぞろとひっきりなしに客が出入りしているデパートにもぐりこみ、閉店するのをまっていたんだ。やがて店がしまって店員たちがでていってしまった。店の品物はすっかり片づけられ、灯はけされて、あれほどにぎわっていたデパートも、しーんとなってしまった。ぼくはうす暗くなった店の中をわがもの顔で歩きまわって、下着やくつ下などの売場から、ふかふかしてあたたかそうな下着やくつ下をとりだして身につけた」
「ほっとしたろう」
「きみの言うとおりだよ。服装をすっかりととのえおわり、体があたたまってくると、こんどは地下室の食堂におりていって、そこに残っていた肉やパンやチーズを、いやというほどつめこんだんだ。おまけにおいしい果物や菓子まで食べられるのだから、まるで天国のようだったよ。体もあたたまり、腹ごしらえもできると、にわかに眠くなったんだ。さっそくふとんの売場のふかふかした羽根ぶとんの山の上によこになり、めずらしくのびのびとした気分でねむりに落ちていったのだ」
「まるでおとぎ話にでもでてきそうな話じゃないか……」
「ここまではよかったんだ。だが、朝になるとおもしろくないことがもちあがったんだ。目がさめたときには、すっかり夜があけ、明るい太陽がさしこんでいて、出勤してきた店員の話し声や掃除をする音がきこえていた。あわててしまったぼくは羽根ぶとんの山をすべりおりて、どこから逃げたらいいかと、あたりを見まわしたとたん、羽根ぶとんの山が音をたててくずれおちたんだ。あっと思ったぼくは、思わず横っとびにかけだすと、目ざとい店員のひとりが、大声で、『あっ、首のない人間がいるぞ! あやしいやつだっ!』とさけんだんだ」
「そりゃあ、きみ、店員だって、さぞやびっくりしたろうさ」
ケンプ博士は、ものかげから走りだした首のない人間を見つけた店員たちのようすを思いうかべて、デパートじゅうがひっくりかえるさわぎになったろうと考えていた。
「ここでつかまってはたいへんだと思ったので、死にものぐるいで逃げまわったんだ。逃げるにつれて、きれいにかざられてあった花びんがぶつかりあってくずれ落ちる、電気スタンドがころがる、おもちゃの山がくずれる、さいごに食堂をかけぬけて、ベッドの売場から洋服ダンスのならんでいるところへ逃げこんで、そのかげで、着ているものをすっかりぬぎすてて、もとの透明な姿になって、追手につかまるのをまぬがれたんだ」
「やれやれ、苦労をするではないか……」
「こんなわけで、せっかく手にいれた服はすっかりぬぎすててしまったので、ぼくはもとのはだかで、ふたたび雪のふる街へさまよいでなくてはならなくなってしまった。ぼくはデパートをそっとしのびでると、むやみに腹がたってたまらなかった。
しかし腹をたててみても、どうにもなるものではなし、ぼくはまえと同じように寒さとうえになやまされだしたのだ」
「けっきょく、うえをしのいで、たっぷり眠れたというだけだったのだね。それでもいいではないか……」
「ちっともよくないよ。ぼくが一番のぞんでいるのは、服を手にいれることなんだ。服を身につけ、帽子をかぶり、マスクでもつければ、どうやら人前をごまかして、暮らしていけるのではないかと思ったんだ。ぼくはついにロンドンのはずれのうすぎたない横町にある古着屋にしのびこんで、ほしい物を手に入れ、できればお金もついでに手にいれることにしたんだ」
「金も手に入れるというのか?」
「そうだ。この古着屋でも、いくども見つかりそうになって、ひやひやしたよ。おやじというのは、かわった男で、おそろしく耳がするどくて、ぼくのかすかな足音をききつけ、『どうもおかしい、だれかこの家にしのびこんでるにちがいない』と、ひとり言をいうと、ピストルを片手に家中をぐるぐるまわりはじめたんだ。おかげでぼくは古着の山を目のまえにみながら、どうすることもできなかったのだ」
透明人間は、その男のことを思いだしたのか、急にいらいらした口ぶりになって、
「いやな男だったよ。うたがい深くておく病で、しまいには家じゅうのドアにも窓にも、かぎをかけはじめたんだ。ぼくがどこからも逃げることができないようにしておいて、ピストルで射ちとろうとしたんだ。ぼくはそれを知ると、かっとなってしまった。こんなやつに射たれてたまるものか、ぼくは階段をおりかけていたおやじのうしろにせまると、いきなり、古いすをふりあげて、やつの頭をちからまかせになぐりつけてやった」
「頭をなぐったって! なんてらんぼうなことをするんだ。古着屋はきみになぐられるようなことをなにもしていないよ……考えてみたまえ」
「らんぼうする気はなかったんだ。ただ、ぼくはその古着屋で服をきて、すがたをととのえなくては、こまるんだ。それだのにおやじは、ぼくを追いまわして、ピストルで射つつもりなんだから……。ぼくは追いつめられて、心ならずも乱暴をはたらいたというわけなんだ。おやじは物もいわずに、その場にたおれたので、手もとにあった古着でぐるぐるまきにしばりあげ、さるぐつわをかませた。そして、ぼくは手ばやく服を身につけ、だいどころにいって、たらふくパンとチーズをたべ、コーヒーをのんでから、帽子をまぶかにかぶり、マスクをつけた。ちょっと見たぐらいでは、透明人間だと気づかれないように身じたくをととのえて、ゆうゆうとその古着屋をでてきた」
「で、きみはおやじをそのまま、ほうりっぱなしにしてかい?」
博士は顔いろをかえてさけんだ。透明人間はおちつきはらって、
「もちろんだよ。あとでやつは、さんざん苦心して自由の体になっただろう。そうとうきつくしばってやったからな」
博士はしばらく思いなやんでいるようすで、青ざめた顔をうつむけて考えこんでいたが、
「それできみは、やっと人なみの生活ができるようになったのだね」
と、ほそい声でいった。
「いや、人目の多いロンドンでは、やはりうまくいかなかったよ。食事をしようと思えば、どうしても透明なぼくの顔を給仕人や、客の目にさらさないかぎり、肉のひときれも口にいれられないんだ。透明人間なんて、ほんとうに情ないものだよ。人目をおそれて、いつもびくびくしながら暮らさなくてはならないんだからね」
「で、アイピング村へは、どうしていったのだい?」
「研究をつづけたくていったんだよ」
「研究をつづけるためにだって? だってきみの研究は完成して、望みどおり透明になったじゃないか……」
「しかし、きみ、考えてくれたまえ。体が透明になったおかげで、ぼくはほかの人間が持つことのできない力をもつことができるようになった。だが、そのかわり、ぼくは何もかも失ってしまったんだ。科学者として名をあげてみても、ぼくの姿がみえないのでは、どうにもしようがないだろう。あたたかい家庭をつくって楽しく暮らすことも、友だちとゆかいに話しあうことも、永久にできなくなったのだ。ぼくはたったひとりぽっちで暮らすほかはなくなったのだ。ただ、たったひとつの望みは、もとの体にかえることができる薬を発見したいということなんだ。その研究のために、しずかなアイピング村へいったわけだよ」
「なるほど、そんなわけだったのか……」
博士は、ナイト・ガウンの化けもののような透明人間をみつめた。そこに友人のグリッフィンがいる。かれはながい間、胸にたまっていた思いをケンプ博士にうちあけて、ほっとしたのか、ゆったりといすに腰かけて、たばこに火をつけた。
「ところで、きみはこれから、どうするつもりだい? なんのために、このバードック町にやってきたんだ?」
はじめに下宿で放火、つぎに、古着屋でおそろしい殺人をやりかけている。よくもわずかの間に、とんでもないことを仕出かしたものだと、むかしの友人のかわりはてた異様なすがたをながめながら、ケンプ博士がたずねた。
「うん。ぼくがここにきたのは、国外にのがれたかったからさ。はだかで暮らすのには、イギリスはまだ、寒すぎるよ。洋服をきればすぐ人にあやしまれて、追いまわされるし、ぼくは、もっと暖かい地方へいってしまいたいと思って、この港町へきたのだ」
「それで?」
「ここからは、フランス行きの便船がでる。フランスへわたり、汽車でスペインへいって、そこからアフリカのアルジェリアへいくつもりだ。アルジェリアなら、姿をけしてはだかで暮らしても、いっこう寒くはないだろうからね」
「アフリカにいくのか?」
「そうだ。ぼくの秘密がしれてしまったからには、もう、どうしようもない……。ところが、それには、ぼくひとりではやれないのだ。ぼくが荷物をもって歩くわけにはいかない。そうすると、このまえの金貨が空中をとぶような騒ぎになって、すぐ、大さわぎになってしまうんだ。そこで、あの浮浪者をやとったんだが、だいじな研究ノートと金をもって、にげてしまった」
「浮浪者は警察にいるよ」
「えっ、あいつが……」
透明人間が、すっくと立ちあがった。
そのとき、玄関のベルがなった。
ベルの音をききつけると、透明人間はケンプ博士から二、三歩とびさって、
「あれは、なんだ?」
と、するどく言いはなった。
「なにも聞こえないが……」
「いや、二階へあがってくる足音だ」
「気のせいだよ」
警官がきたことを、あいてにさとられまいとして、ケンプ博士は、おだやかに言った。
「ちょっと見てくる」
博士がとめようとしたが、透明人間はドアに近づいていった。
すると、博士がドアを背にして、その前に立ちふさがった。
「なんだ、きみは! じゃまをするのか」
入口に近づけまいとする博士から、ぱっと跳びのいて、透明人間は身がまえた。
「おれをだましたな!」
その声は、怒りにふるえていた。
「警官をよびやがって、よくも裏切ったな……裏切り者め!」
透明人間はガウンの前をひらくと、すばやく、下に着ているものを脱ぎはじめた。
この男を、この部屋から外に出してはならない。博士はドアを後ろ手に開いて廊下にとびだし、バタンと閉めた。カギがない。透明人間が内側から開けようとして、博士がにぎる把手をひねった。その力は、ものすごく強かった。博士はドアを開けさせまいとして、奮闘した。ドアのすき間からガウンの腕がのびた。博士はのどを絞めつけられ、把手をはなした。博士はガウンの怪物に突きとばされた。
博士からの手紙で、いそいで駆けつけた、バードックの警察署長アダイ警部は、玄関からホールを通って階段をのぼりかけたところで、目に見えない怪物と戦っている博士を見て、立ちすくんでしまった。
「なんだ?」
怪物と戦う博士は、倒されたり起きあがったりしながら、二階の廊下から階段のおどり場へのがれてきた。怪物のガウンが宙を飛んできて、博士におそいかかって倒した。目の前のできごとに、びっくりしている署長を、ガウンの化けものがなぐり倒した。
起きあがろうとする署長を、怪物は階段から下にけり落として、動けなくしてしまった。階下には応援の警官が二人いた。二人はあわてて、宙を飛ぶガウンを追いまわした。追いまわすうち、ガウンは一階のホールの天井へパッと舞いあがったかと思うと、落ちてきて、そのまま、へなへなっと動かなくなった。
玄関のドアが、人影もないのに開いて、バタンと閉まった。
署長は起きあがったが、顔をしかめて、また、へなへなとすわった。そこへ、透明人間との格闘で傷だからけの顔となった博士が、ふらふらになって階段を降りてきて、くやしそうに言った。
「しくじった。にげてしまった」
透明人間があばれまわるのを見ただけでなく、したたかになぐられ、階段からけり落とされて動けなくなるほどの目にあいながら、アダイ署長は、なおも信じられないという顔をしていた。
そんな顔の署長に、血だらけの腫れあがった顔のケンプ博士が、ぐずぐずしてはいられないと、せきこんで言った。
「あいつは気がくるっている。このまま逃がしておいたら、どんなひどいことをしでかすか、わかりませんよ。けさも、これまでにやってきたことを、得意になって話すんですからね。あきれたもんです。署長! あの男はもう、かなりたくさんの人を傷つけています。これからもっと暴れまわって、町や村のひとたちを恐れさせてやるんだと話していました」
「かならず逮捕してみせます」
署長がこたえた。
「大至急、警官の非常召集をおこなって、この町から透明人間がにげだせないようにすることです」
「こころえています。さっそく召集して、道という道に見はりを立てて、あの怪物がにげられないようにしましょう」
「汽車や船に乗って、逃げられないように、駅や港にも見はりをつけてほしいですな。あの男は、かけがえのない物と考えているノートを取りもどすまでは、この町をはなれないと思います。その浮浪者のトーマスは、警察に保護してあるんでしょうな」
「ぬかりはありませんよ、博士! そのノートのことも」
「透明人間をつかまえるには、食物をあたえないことです。ねむらせないことです。この二つのことを実行することです」
「なるほど」
署長がうで組してうなずいた。
「たべものは手のとどかないところにしまっておき、透明人間が家の中にはいれないように、町じゅうの家が、戸や窓にカギをかけておくことです」
「さっそく署へもどって、作戦を立てるとしましょう」
署長は立ちあがって、博士といっしょに歩きながら話をきいた。
「やつは食物をのみおろすと、消化するまでは体の中のものが見えるので、しばらくは、どこかに隠れてやすまねばならんのです。ここが、こちらのねらいです。それと、犬をですな……犬を、できるだけたくさん、かり集めることです」
「ほほオ、透明人間は犬には見えますかな」
「見えないことは、われわれ人間とおなじですが、犬はにおいで嗅ぎつけるんです。これは透明人間が、犬にかみつかれて弱ったと、じぶんで話してたことですから、まちがいありません」
「名案ですな。ハルステッド刑務所の看守たちが知ってる男に、警察犬を飼っておる男がいるそうですから、さっそく手配しましょう」
こうしている間に、博士の屋敷からにげだした透明人間が、なにをしでかすか知れないと思うと、ケンプ博士は気が気でなかった。
「透明人間のもう一つの弱いところは、凶器を持ってあるけないことです。鉄棒とかナイフとか、太いステッキのような物は、手ごろの武器……つまり凶器になりますが、あの男がこれらの物を手にして歩くと、鉄棒やナイフが宙を浮いてうごくことになるので、すぐ気づかれてしまいます。ですから、やつが凶器を持ってあるく心配はありませんが、凶器につかわれそうな物は、どの家でも、かくしておくように知らせてもらいたいのです」
「ごもっともな意見です。その方針で、かならず逮捕してみせます」
アダイ署長はこたえた。
「もう一つ、だいじなことがあります」
「なんです?」
「ガラスの破片を道路にまきちらすのです。透明人間は、はだかで、はだしで歩いていますから、これは効きめがありますよ。すこし残酷なやりかたですが、そんなことは言っておられませんので」
「スポーツマンシップに欠けるようですが、お考えどおり、ガラスの破片をよういさせましょう。目に見えない怪物に、あばれられては大変ですからな」
「あの男は、むかしのグリッフィンとは人が変わってしまった。けだものになって、気がくるっているのです」
博士はアダイ署長がよんだ辻馬車に乗って、署長といっしょにバードックの警察署にいそいだ。
ケンプ博士の家をとびだしてからの透明人間のゆくえは、どこに行ってしまったのか、さっぱりわからなかった。
港町ポート・バードックの人びとは、その日の朝のうちは透明人間の話もうわさにすぎなかったものが、午後になると、ほんものの怪物が町にあらわれたと知って、大さわぎになった。
なにしろ人の目に、その姿かたちが見えないのである。道をあるいていて、いきなりなぐられても防ぎようがない、というのだ。音もなく家に忍びこまれても、これまた、見えないのだから、どうしようもない。町の人は不安にかられていた。げんにその朝、道で遊んでいた子どもの一人が、いきなり何者ともしれないものに突きとばされて、ケガをしている。その場にいあわせた子どもたちは、友だちを突きとばしたものを、だれも見ていないのだ。
透明人間の危害から町の人を守るには、怪物を捕えることである。そのための警察の手配は着々とすすみ、おもったよりはやく、町のこれぞと思うところに、警官が動員されていた。
騎馬巡査が町をねり歩いては、戸締りをげんじゅうにするよう、家々によびかけた。小学校は午後三時には授業をうち切って、児童を帰宅させた。町の人は、三人四人と組んで自警団をつくり、鉄砲やこん棒をもって警戒にあたった。港の船着場、汽車の停車場、おもだった道の出入り口。バードックの町を中心にして三〇キロの半径の円にはいる地域の町や村が、透明人間の出没にそなえたのである。
透明人間にたいする注意書が、ケンプ博士とアダイ署長の名をそえて、町のいたるところに貼りだされた。食物をとらせないこと、眠る場所をあたえないことなどが、書かれてあった。警戒は万全であった。
ところが、透明人間のゆくえは、どうなったのか。その日の朝、遊んでいる子どもを突きとばして、ケガをさせたのは、たしかに透明人間のしわざにちがいないが、それから先、どこへ行ったのか、音さたないのである。
ポート・バードックの町のうしろは、高原になっている。その遠くまでつづく高原には森もある。透明人間はおそらく、その森で、ひと休みしているのではないかと、ケンプ博士も署長も、そのように考えていた。
ケンプ博士は、透明人間はかならず町にもどってくると思っていた。食物をもとめてのためか。それだけではない。博士に裏切られたことへ、仕返しをするために、夜になったら、きっと、博士の家にあらわれるものと信じていた。
夕方になった。透明人間のゆくえがわからないまま、遠くへにげられたのではないかと、みんないらいらしているところへ、町から一六キロはなれたところで起こった、殺人のニュースがとどいた。むろん、その事件を調べたその土地の警察からである。奇妙な事件であった。
そこはバードック卿の荘園のある高原の静かな土地で、荘園ではたらく執事が、じぶんの住居に昼の食事にかえるとちゅう、殺されたのである。
もうながいことバードック卿の荘園で執事をつとめるウィックスティード氏は、おだやかな人柄で、ひとににくまれたり、けんかをしたりするような人でなかった。昼になると、荘園の木戸から一五〇メートルほどはなれたところにある住居にもどって、食事をするのが日課となっており、草原をとぼとぼ横切る執事を、その日も近所の女の子が見ていた。
「おじさーん」
いつものように声をかけると、いつもならすぐ、にこにこした執事の笑顔と、おどけた返事がかえってくるのに、おじさんはステッキをふりまわして、女の子には見向きもしないで、通りすぎたというのだ。
「おじさん、なにしてるの?」
女の子は、太った執事のあとを追った。おじさんは、おかしなことをしていた。見ると、一本の鉄の棒が、執事があるく前に浮かんで、ふらふらとゆれているではないか。女の子は、びっくりした。世にもふしぎな宙に浮く鉄棒を追って、おじさんはステッキでその鉄棒を、たたき落とそうとした。
すーっと、鉄棒がにげた。
「この化けものやろう!」
口にしたこともないきたないことばを、おとなしい執事が、めずらしく吐きすてた。つづいて、このやろう……このやろう、と夢中で鉄棒にステッキで、なぐりかかっていった。
宙に浮いた鉄棒と執事とのたたかいは、ブナ林をぬけて、なおもつづいた。おじさんは汗をかいて、へとへとになり、それでもあきらめずに、なんとかして鉄棒の化けものをたたき落として正体を見破ろうと、追いつづけ、ついにその鉄棒を石切場といらくさの茂みのあいだに追いつめたのである。
そこで執事ウィックスティード氏は、鉄棒の化けものの猛反撃をくった。ただ、残酷としか言いようのない、無残な殺されようであった。頭はたたき割られ、腕はへし折られて、これがあの温厚な人の姿であるか、と憤りを感じさせるほどに、ひどいものだった。
「あいつのやったことです。透明人間のしわざです」
ケンプ博士がニュースを聞いて、署長にいった。
「かならず逮捕してみせます。この町にはいってきたら、こんどこそ逃がしはしない」
アダイ署長は博士と、これからの打合わせをした。
「ぼくは家に帰って、透明人間があらわれるのを待つことにします」
博士が警察署をでると、外には夕闇がせまり、夜になろうとしていた。街角には警備のひとが立ち、三人四人と隊を組んだ見張りの者が、町の通りをあるきまわっていた。
きんちょうのうちに一夜があけたが、なにごともなかった。町に透明人間があらわれた話はなく、ケンプ博士の屋敷にも、透明人間は近づいてこなかった。
その朝もぶじに過ぎて、おそい昼の食事を博士がしていたときである。一通の手紙が舞いこんできた。切手を貼らないので、郵税二ペンスの不足となっている。透明人間からのものだ。消印はヒントンディーン局。どこかで紙を盗んで書いて、ポストに投げこんだものとみえる。
──よくも裏切って、おれを苦しめたな。こんどは、かならず、きさまを殺してやる!
差出人の名は書いてないが、透明人間、すなわちグリッフィンからの手紙にちがいなかった。
消印のヒントンディーン局のある町からここまで、一時間あれば、やってこられる道のりである。博士は食事をやめて、窓ぎわに寄って外を見た。それから家政婦にいいつけて、家じゅうの窓や戸のカギを調べさせた。どこにも手落ちはなく、透明人間が忍びこむすきは、どこにもない。そこへ警察署長が、しんぱいしてやってきた。玄関のドアを開くのも、人ひとりがやっと通れるくらいの細目にして、署長を入れる用心ぶかさで、博士は署長を中にいれると、透明人間からの手紙をわたして見せた。
「あなたをねらって、ここへ……」
「かならずきますよ。もう、そのへんをうろついてるかも知れません」
博士がそう言ったとき、ガチャーンと、ガラスが砕ける音が、二階のどこかでした。
「二階の窓だ!」
ポケットにかくしておいた銀色の小型ピストルをにぎって、博士は二階にかけあがった。署長がそのあとにつづいた。書斎にかけこむと、庭に面した三つの窓のうち二つが、めちゃくちゃにガラスをたたき割られていて、床いちめんに、ガラスの破片がちらばっていた。
ケンプ博士は、まだ破られていない三つ目の窓に目をはしらせると、ピストルをぶっ放した。ガラスはたまに撃ちぬかれてひび割れ、三角状の破片となって内側へ落ちた。
「やつがいましたか」
署長が目を大きくしてきいた。
「いや、ここまでは登ってこられませんよ。ねんのために、ぶっ放したのです」
ドスン……と階下で破目板をたたき破る音がした。つづいて、窓ガラスがやぶられた。しかし、一階の窓には、のこらず鎧戸がつけてある。かんたんには侵入できないだろう。
「警察犬をつれてきましょう。用意してあるんです。十分とかかりません」
署長はケンプ博士からピストルを借りて、外にでた。ところが、アダイ署長が芝生の上を門に近づいて、中ほどにきたときである。目に見えない怪物が、署長を襲った。
はじめ、いきなりなぐり倒された。署長がピストルで応戦した。起きあがったが、けり倒されてピストルを奪われ、手をあげて家のほうへ歩きだしたが、ピストルを取り返そうとして射ち倒されてしまった。ピストルは透明人間の手にわたったのである。二人の警官が、かけつけてきた。博士は用心ぶかく二人をなかにいれた。そのときはもう、裏にまわった透明人間が、物置から探しだした手斧で、ガンガン、台所のドアを叩きこわしてるところだった。
「あれは?」
「透明人間だ。ピストルを持っている。残りのたまは二発……署長は射たれた」
おどろく警官に説明して、博士は火かき棒を手にして、台所に向かった。それに二人の警官も火かき棒を持って、あとにつづいた。
ガンガン………バリバリッと、がんじょうなドアは叩きやぶられ、見えない手が突きだしたピストルが、博士めがけて、二度、火を噴いた。博士と警官二人は広いホールに逃げて、ホールに入ってくる透明人間を包囲するように身がまえ、火かき棒を前に突きだして敵を待った。
そこへ、手斧が頭上の高さに回転しながら、ホールに飛びこんできた。大乱闘となった。
「ケンプ! きさまと勝負だ」
怒りにふるえる声がした。警官のひとりが、くるいまわる手斧を、火かき棒でたたき落とした。もう一人の警官は見えない足で、け倒された。そのあいだにケンプ博士は、窓から庭へとび降り、町に向かって走った。それに気がついた透明人間は、警官をなぐり倒すと、ちくしょう! とさけんで、ケンプ博士のあとを追った。別荘がつづく高台をかけ抜けると、町へ下るながい坂になっている。町へにげれば、追ってくる透明人間を、そこで捕えることができると博士は考えていた。はだしの足音が、すぐうしろに追っている。
博士は走って走って、まっ青になって走った。砂利や石ころが、ごろごろしている道をえらんで走った。透明人間との間が少しはなれた。やっと、町の入口に走りついた。
「透明人間がきたぞーっ」
さけびながら博士は、町の大通りを、鉄道馬車の駅のほうへ走った。駅の前に広場がある。その広場には砂利の山があり、シャベルを持った工夫がはたらいていた。
「透明人間だ、にがすな」
手に手に棒をにぎりしめた町の人が、わっと飛びだしてきて、博士のゆくての道をふさいだ。
「裏切りやがったな!」
透明人間がま近にきたな、と感じた瞬間、ケンプ博士は、したたかに顎に一撃をくらった。倒れたところを脾腹をけられ、つづいて胸を重いものがおさえつけ、のどをしめつけられた。
工夫の一人が、博士の上になっている透明人間のせなかを、シャベルでなぐりつけた。手ごたえがあった。また、なぐった。すると、こんどは博士が上になり、警官もくわわって、透明人間の手や足をおさえつけた。姿を見せない透明人間が、ぐったりとなった。博士のあいずで、みんな手をひいて立ちあがった。
「あっ?」
群衆に囲まれた広場の、博士の足もとの地上に、はじめはかすかに、それから少しずつ……半透明の人の形をした物が姿をあらわし、まもなく、若い男の裸の傷だらけの体がよこたわっているのが、見えてきた。透明人間グリッフィンの最期である。
底本:「透明人間」ポプラ社文庫、ポプラ社
1982(昭和57)年7月第1刷
1984(昭和59)年9月第5刷
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2010年7月31日作成
2013年1月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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